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(33)尾関章『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』

2024年8月2日(金)

科学記者の視点

今週の書物/
『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』
尾関章著、岩波現代全書、2013年刊

もう30年近く前のある日、ジュネーブ国際機関日本政府代表部のパーティで、今年6月5日にお亡くなりになった駒宮幸男さんが「先輩!」といって声をかけてきた。駒宮さんとは同じ中学でサッカーボールを蹴りあった仲なのだが、お会いするのは中学卒業以来はじめてで、よく気がついてくれたものだ。

話してみると、駒宮さんは東大の教授で、欧州原子核研究機構 (CERN) の加速器で素粒子物理の実験をしているチームを率いているという。住んでいる村が私の住む村からほど近く、子どもが同じ日本語補習校に通っていたこともあって、家族ぐるみの付き合いが始まった。サッカー日本代表のはじめてのワールドカップの試合「日本対アルゼンチン」を見に行ったりもした。

そんな駒宮さんが、ある日「先輩と経歴が似ている人が会いに来るんだけれど、一緒に食事をしないか」というので、ランチの時間に CERN にほど近いピザ屋まで出かけて行った。そこでお会いしたのが尾関章さん。朝日新聞の科学部の記者で、駐在先のロンドンから駒宮さんのところに取材に来ていたのだ。

尾関さんとの会話は、あいだに入った駒宮さんが困ってしまうほど、かみ合わなかった。どうも同じ学年らしい。同じ大学で物理を勉強していたらしい。話をするうちに同じ高校を卒業していたことがわかり、さらに話をしていると同じ研究室だということがわかる。それなのに「はじめまして」という感じなのは、どう考えてもおかしい。

その後、尾関さんとは、1回だけ、東京で夕食をご一緒させていただいた。私から誘い、誰かもう一人いたように記憶しているが、それが誰だったのかは定かでない。どこでお会いしたのかも、何を話したのかも、覚えていない。

生まれてから大学まで生活圏が重なっていて、高校も大学も一緒。それなのに会ったのは2回だけ。そんな浅い縁の尾関さんと私だが、尾関さんの書評のブログを読むうちに 私は一方的に尾関さんのファンになった。尾関さんの書評にコメントを書き込んだのも、一度や二度ではない。

で今週は、尾関さんが書いた正統派の一冊を読む。『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代全書、2013年刊)だ。この本は題名のとおり、日本の科学ジャーナリズムのあり方を問い、分かり易さ一辺倒の「啓蒙型」から科学記者自身が発言する「批評型」への転換を提言している。

この本が出版されたのは2013年。当然ながら、2011年3月11日の東日本大震災が重くのしかかっている。報道に対する信頼感が揺らぎ、科学技術そのものに対する信頼感が薄れてゆくのを、尾関さんは他人事として感じることができなかったのだろう。科学技術報道が、なぜ時代の流れを見落としてしまったのか。その要因を科学技術報道の歴史のなかに探ろうとしている。

核の平和利用の機運の高まりと機を一にするかのように、1956年に科学技術庁が設置され、1957年には国際原子力機関 (IAEA) が発足したのだが、各新聞社の科学部もその頃に生まれている。当然ながら取材の中心は科学技術庁でありメインテーマは原子力であったという。新聞社の科学部は、いつも国策とともにあり、記事の偏りにつながったというのだ。

新聞の一般読者の新しい科学や技術に対する関心の低さは、そんな新聞社の科学部のせいだと言わんばかりだ。社内の編集担当部門は基礎科学に冷淡で、読者が喜びそうな夢とロマンの科学報道を追い求め、毎年のノーベル賞フィーバーを生んでいるという。遺伝子のことをもっと掘り下げていたらというような自戒が書かれる。

そんな反省からか、尾関さんは「啓蒙から批評へ」という提言にたどり着く。もしも日本の科学報道が批評啓蒙型でなく批評型だったなら、技術は弱者にもっと寄り添ったものになり、科学はもっと多くの人びとの関心の的になり、科学技術政策も違うものになっていたのではないか。そんな夢が書かれている。

批評型の新しい科学ジャーナリズムによって科学が社会の広い領域に浸透してゆき、哲学的な問いや社会的な課題に出会うとき、理系の専門家だけではなく、文系の発想や発言が重要になってくる。社会全体の理系感度を高め、知の中間層を育てるためにも、サイエンスカフェのような場所が必要なのではないか。そんな夢も書かれている。

いろいろな夢の裏側には、尾関さんのような新聞社の科学部の方々の苦悩と葛藤に満ちた毎日があるのだろうと思うと、尾関さんがあちらこちらで展開していた文筆活動が違ったふうに見えてくる。

科学技術の知識が増えても、それは必ずしも幸せにはつながらない。生命を維持する医療技術が進んだとしても、ただ命を延ばすだけの治療が蔓延するだけ。科学者たちが何を考えてきたのかということを、ざっくりと教えるような理科教育が必要なのではないか。そんな尾関さんの問題意識が、この本のなかに凝縮している。

尾関さんがオーナーのサイエンスカフェに いろんな人が集まり、さりげなく科学の話を交わしている。読後に ふと、そんな情景が浮かんできた。面白くあっという間に読める本だが、何度も読み返してみたいと思わせる本でもあった。

(32)George Orwell『Notes on Nationalism』

2024年5月26日(金)

ナショナリズムの正体

今週の書物/
『Notes on Nationalism』
George Orwell 著、Penguin Classics、2018年刊

「めぐりあう書物たち/尾関章」は 2023年12月1日付「休載のお知らせ」以降 お休みが続いている。 「休載のお知らせ」の前、最後の投稿が、2023年11月24日付「オーウェルは二つの社会主義を見た」だった。その投稿は

オーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。

で終わっている。お休みに入らなければ、12月1日に オーウェル についての尾関さんの考察が続いていたはずだ。オーウェルの「明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義」がどんなものだったのかが 気になってしょうがない。

尾関さんは 以前にもオーウェルを取り上げている。2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる」と 2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく」だ。それらはどちらも『一九八四年』についての書評で、とても面白かったのを覚えている。

2023年11月24日付「オーウェルは二つの社会主義を見た」は 『一九八四年』についての書評とは違い、オーウェルの生涯にフォーカスしている。私も、私なりの方法で、オーウェルの生涯をたどることにした。

すると、想像とは違うオーウェルが、次から次へと浮かび上がってくる。「マルクス主義統一労働者党 (POUM)」の一員としてウエスカ近郊の前線で負傷した時の生々しい描写は『カタロニア讃歌』の終わり近くに見られるが、オーウェルを救ったというアメリカ人のハリー・ミルトンの証言が面白い。

「オーウェルの不運は彼の身長と、部隊の要塞化された陣地の上から見下ろすというやや無謀な習慣の両方によるものだ」というのだ。「高速の銃弾の鋭い音が聞こえ、オーウェルは倒れた。彼は仰向けに倒れた」と、その時の記憶は鮮やかだ。ミルトンは、オーウェルが病院に運ばれるのを待っている間に応急処置をしたことを覚えているが、自分の役割は控えめなもので「私はただ出血を止めただけだ」と言っている。

「オーウェルの不運は彼の身長」とはどういうことかと思って写真を見てみたら、なんとオーウェルは大男だったのだ。サッカー選手だったら間違いなくゴール前のポジションだっただろう。

写真を見て、オーウェルを助けたという ハリー・ミルトン に目が行く。手にライフルを持っている ミルトンのポーズは、明らかにカメラを意識したものだ。オーウェルがただ突っ立っているのと対照的だ。ミルトンのことを読み出して、その自信に驚く。オーウェルに思想的な大きな影響を与えたのは自分だという、オーウェルの著作も 自分なしにはなかったろうともいう。アメリカ人によくあるタイプの 単純で明るい人だったのだろう。

ミルトンより もっと目をひくのが、オーウェルの妻 アイリーンだ。戦場という男の世界に女がひとりだけ紛れ込んでいる。気になって調べてみたら、興味深いことがたくさん見つかった。

スターリンの威を借るスペイン人たちのせいで スペイン国内にいるのが危険になってきたとき、パスポートを手配し フランスに脱出する手はずを整えたのは、他でもないアイリーンだった。オーウェルが著作に専念できるようにと働きに出て家計を支えたのも アイリーンだ。

それよりもなによりも、オーウェルの小説『1984年』は、アイリーンの詩『世紀末、1984年』に影響を受けた可能性があるというから 驚きだ。この詩は1934年に、彼女が通っていたサンダーランド教会高校の創立50周年を祝い、1984年の創立100周年まで50年先を見据えて書かれたという。オーウェルと出会う1年前に書かれたアイリーンの詩の未来的なビジョンと『1984年』のビジョンには、マインドコントロールの使用や警察国家による個人の自由の根絶など、いくつもの類似点がある。

また、アイリーンが『動物農場』でオーウェルと「微妙で間接的な方法で」協力したという記述がある。オーウェルは当初、エッセイを書くつもりだったが、アイリーンは寓話を提案した。二人は夜に一緒にその作業に取り組み、オーウェル夫妻の友人たちはその小説の中にアイリーンのスタイルとユーモアを見いだしたという。

アイリーンは1945年の3月に死んだ。オーウェルはアイリーンのことをあまり書いていない。ただ、アイリーンがオーウェルにとって大事な人だったことは間違いないようだ。

で今週は、そんなオーウェルの膨大な著作のなかから、アイリーンが死んだ1945年に書かれたエッセイを読む。『Notes on Nationalism』(George Orwell 著、Penguin Classics、2018年刊)だ。

オーウェルは、ナショナリズム(nationalism)は 2つの習慣(habit)によるという。「何百万、何千万という集団を 自信を持って善と悪とに分類する習慣」と「自分を一つの国家などの単位と同一視し その利益だけを最優先する習慣」だ。そしてその目的は 自分自身のためではなく、自らの個性を注ぎ込むことに決めた国家や組織のために さらなる権力や名声を確保することにあるという。

オーウェルはまた、ナショナリズムを、パトリオティズム(patriotism)のような気持ちと混同してはいけないともいう。特定の場所や生活様式に思いを寄せるのは自然のことで、他人に強制する意図がなく防衛的なものであれば、何も悪いことはないという。

もちろん、ことはそんなに単純ではない。ナショナリズムとパトリオティズムの境はクモの糸のようなものだし、そもそもパトリオティズムのような気持ちは、ナショナリズムの高揚に容易に利用されてしまう。

パリ・オリンピックが今日開幕するが、マスコミが作り出す雰囲気は まさにナショナリズムそのものだ。自国のメダルの数を誇り、自国の選手だけを取り上げ、英雄扱いする。

この『Notes on Nationalism』は、今日という日にふさわしい。ということで、この本を読み続けてみよう。

オーウェルの広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリック、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズム、平和主義などの運動や傾向が含まれるという。ナショナリズムは必ずしも政府や国家への忠誠を意味するわけではなく、ましてや自分の国への忠誠を意味するわけではない。また、ナショナリズムが扱う単位が実際に存在することさえ厳密には必要ではない。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、プロレタリア階級、白人種はすべて熱烈なナショナリズム感情の対象だが、それらの存在に普遍的に受け入れられる定義はない。国や組織を良く見せたいとか 悪く見せたいとか、強く見せたいとか 弱く見せたいという願望が、すでにナショナリズムだという。

ナショナリストの思考法として、執着(obsession)、不安定さ(instability)、現実への無関心(indifference to reality)をあげ、「ナショナリストは、自分の権力集団の優位性以外のことは考えたり、話したり、書いたりすることはほとんどない」「偉大な指導者が ナショナリストが称賛する国にさえ属していないことはよくあることだが、ナショナリストの忠誠心ほど 移ろいやすいものはない」「ナショナリストは、どんな行為についても、それ自体の価値ではなく、誰が行うかによって善悪の判断を行う」というような例をあげている。

私が気になったのは「ナショナリストは、一人残らず、過去を変えようとする」というところだ。オーウェルは「重要な事実は隠蔽され、日付は変更され、引用文は文脈から外され、意味を変えるように改ざんされる。起こるべきではなかったと思われる出来事は言及されず、最終的には否定される」と書いている。ナショナリストに対する強い嫌悪が感じられるではないか。

このエッセイの後半で、オーウェルはナショナリズムを「肯定的ナショナリズム(Positive Nationalism)」「すり替えられたナショナリズム(Transferred Nationalism)」「否定的ナショナリズム(Negative Nationalism)」に区分けし、それぞれについて詳細な検討を展開している。

「共産主義者が 幻滅過程を経て反共産主義になる」とか「反英主義から いきなり英国支持に回る」「ある戦争での平和主義者が 次の戦争で好戦派になる」といった例をあげるまでもなく、どのカテゴリーにも「執着」「不安定さ」「現実への無関心」といった思考法が見られ、面白く読めるようにできている。

オーウェルは最後のパラグラフで「国家主義的な愛憎は、好むと好まざるとにかかわらず、ほとんどの人が持っている」と書く。「それらを取り除くことが可能かどうかはわからないが、それらと闘うことは可能であり、それは本質的に道徳的な努力であると私は信じている」と続ける。「自分が本当は何者なのか、自分の感情は本当は何なのかを発見し、次に避けられない偏見を許容する」「それには道徳的な努力が必要だが、その準備ができている人がいかに少ないことか」という最後の文章から、オーウェルの絶望が読み取れる。

オーウェルが POUM に加わった時に持っていた希望や明るさは、スペインを去ることには消え、第二次世界大戦を経て スコットランドの孤島の荒れた農場でに引きこもるころには 絶望と暗さでいっぱいになっていたように見える。46歳で死んだオーウェルの人生も 39歳で死んだ妻のアイリーンの人生も 悲しく感じられ、オーウェルの著作も違って感じられるようになった。

ナショナリズムというとらえどころのないものについて、自分の主観を消すことなく書いたオーウェルに、最大限の賛辞を贈りたい。

(31)アレックス・カー『犬と鬼 – 知られざる日本の肖像』

2024年7月19日(金)

日本の肖像

今週の書物/
『犬と鬼 – 知られざる日本の肖像』
アレックス・カー著、講談社、2002年刊

海外を拠点にしている日本人は、日本を拠点にしている日本人とはだいぶ違う。生活様式が違い、使っている言語が違い、考え方が違い、価値観が違う。

日本についてもだいぶ違うイメージを持っている。日本にいる日本人が持っている日本のイメージと、海外にいる日本人が持っている日本のイメージは、大きくかけ離れている。

海外にいる日本人が、日本について語ることは まれだ。ほとんどの人が自分を戒め、語らないよう努力している。だから、日本のことをよく知っている外国人が日本のことを語ると、海外にいる日本人はみんな、複雑な気持ちになる。

「日本のことを知りもしないで、よくそんなことを言えるなあ」とか「日本って、そんなじゃないよ」とか、ろくに聞きもせず 説明もしないで、いきなり否定する。

ところが、言っていることが的を射ていたり、話のなかに知らない日本が出てきたりすると、うろたえる。グローバル化が進み、人の交わりが進んでしまえば、「日本人かどうか」「どこに住んでいるか」などということと、日本についてどれだけ知っているかということは、関係がなくなってくる。

外国人が日本のことを書いた本のなかにも、ほほうと思わず唸ってしまうようなものが見かけられるようになってきた。

で今週は、日本のことをよく知っている外国人が 日本について書いた一冊を読む。『犬と鬼 – 知られざる日本の肖像』(アレックス・カー著、講談社、2002年刊)だ。『Dogs and Demons: Tales From the Dark Side of Modern Japan』(Alex Kerr著、Hill and Wang、2001年刊)の翻訳なので、読みにくい箇所が多いのだが、日本のことについて書いた本なので、原文ではなく日本語で読むことにした。

『犬と鬼』という題名は、『韓非子』の「外儲説篇 左上」に出てくる「犬馬難 鬼魅易」という言葉からきている。皇帝の「描きやすいものは何か、描きにくいものは何か」という問いに、宮廷画家は「犬や馬は描きにくい、鬼や魅は描きやすい」と答えた という故事をなぞらえたのだ。

日本のやり方がうまくいかなくなると、日本の官僚たちは地味に犬を描くことをやめて、国を破産させる勢いで鬼を描きだした。『犬と鬼』という題名は、諸問題の基本的な解決にカネを使おうとせず、モニュメントを作ったりイベントを催すことにカネをつぎ込んできた日本の官僚システムへの、筆者の精一杯の皮肉だったのだ。

この本でアレックス・カーは、いまの日本には「実」がないという。現代の生け花のように、現代日本のシステム全体に「実」がない。アレックス・カーは、そう言い切る。

例としてあげられたのは以下のようなものだ。

  • 山河が瀕死の状態になるまで 目的なく進められる土木工事
  • 環境破壊に目をつむり 環境保護に無頓着な環境省
  • 市場に合わない価格が設定され 利潤を生まない不動産
  • 曖昧で 秘密が多く 隠され 改竄され 嘘に満ちた情報
  • 公の資金を必要なところに使おうとしない官僚
  • 人間には適さず、大根には適している野菜専用空港
  • 古きを壊し 暮らしの智恵と伝統的な技術を消してしまう街づくり
  • 周りの環境やニーズと無関係な建造物
  • 借金を返さず 配当がつかない株式市場
  • 粉飾決算と嘘だらけのバランスシート
  • 暗記させるだけの 創造力や分析力とは無縁の教育
  • 就職までのつなぎでしかない 社会から孤立した大学
  • 外国と外国人を閉め出し 外国流を嫌悪する国際化

それぞれを説明しようとすれば『犬と鬼』一冊になる。

大きな話題になった『美しき日本の残像』(アレックス・カー著、新潮社、1993年刊)の出版から10年近く経って、アレックス・カーの日本へのスタンスは驚くほど大きく変わっている。

アレックス・カーの変化の要因のなかでいちばん大きなものは、拠点を移したことだろう。1997年に、日本からタイに移している。その後 バンコクで 『Bangkok Found: Reflections on the City』(Alex Kerr著、River Books Press、2010年刊)という本を出版しているのだが、その本はタイへの愛で溢れている。『美しき日本の残像』のなかの日本への愛が消え、タイへの愛がそれに取って代わったと言えなくもない。

日本が沈んでゆく嫌な時期に、アレックス・カーも嫌な経験をしたのではないか。そんな想像もしてしまうほど、『犬と鬼』のアレックス・カーは、日本に批判的だ。

「本書にはどうしても怒りと悲しみの感情が入ってしまっている。なぜなら日本で起きていることはあまりにも悲惨だからだ」と書くアレックス・カーは、この本を書くことが自分の義務だと捉えている。自分が書かなければ、誰も書かない。それを知っているからこその『犬と鬼』なのだろう。

問題は、「実がない」ことではなく、「アレックス・カーが書かなければ、誰も書かない」ことなのではないか。海外を拠点にしている日本人の多くが、アレックス・カーが問題にしていることに気づいている。私も例外ではない。それなのに、誰も言わないし、誰も書かない。

そう考えてみると、アレックス・カーが進んで嫌な役割を買って出たのではないかという考えにたどりつく。でも、アレックス・カーが何を書いても、日本は変わらない。日本が急に「実のある」社会に変わったりはしない。

年度末までに予算を使い切らない公務員は現れないし、土木工事を自ら止める自治体は現れない。旧弊が骨の髄まで染みついた教員が変わるわけはないし、教育のやり方がすぐに変わるはずもない。日本には、変わる要素など何もないのだ。何を言っても、何を書いても、何も変わりはしない。

それを承知で書いた。不思議ではないか。私なら書かない。変わりはしないことがわかっていて、6年もかかってこんな本を書いたのはなぜか。

「本来の姿」からかけ離れてしまった日本には、家路を探し求めるという課題がある。そう言って、アレックス・カーはこの本を終わらせている。「本来の姿」にたちかえれば、「強国・貧民」のパラダイムから脱し、「実」を持つようになるとでもいうのだろうか。

思うに、アレックス・カーの言う「本来の姿」など、はじめからないのだ。日本に必要なのは「本来の姿」にたちかえることではなく、新しい姿を模索することではないのか。

日本にいれば、火山噴火、地震、津波、台風、洪水、豪雨、豪雪、土砂災害などと共に 生きていかなければならない。と同時に、官僚、政治家、教員、警官、消防士、税務署員、自衛官、医師、看護師、介護士、調理師、栄養士、事務員、販売員、清掃員といった日本人と付き合っていかなければならない。

日本の自然状況が変わることはない。日本人も変わらない。変わらないなかで、明治時代から続く戦前のパラダイムから脱してゆくのは難しい。民主主義とか人権とかいった戦後に押し付けられた概念から自由になってゆくのはもっと難しい。自分たちに相応しい新しい姿を模索してゆくなんていうことは、夢のまた夢だ。

そんなことを書いているうちにも、日本は変わっている。いまの若い人たちは、もう以前の日本人ではない。格差が増すことを何とも思わず、結婚や出産を嫌い、個性的であることを避け、思ったことを口にせず、みんなと同じでなければ安心できない若者たちに、明るい未来を期待するのは間違っている。

最近、日本のことを考えると、とてもネガティブになる。いやな感じだ。この本を読んだのを機に、日本のことを考えるのはやめようと思う。

これから何年も日本のことを考えなくなったとしたら、いいタイミングでいい本にめぐりあったということになる。いつかこの本に感謝する日がくるのかもしれない。

**

今回の文章をこんなふうに終わらせるのは どうにもいやなので、ここに長々と引用を付け加えようと思う。

 日本はいったいなぜこうなってしまったのかと考える時、意外と生け花の世界からひとつの答えが得られる。先日、ある華道家に質問をした。それは長い間、気にかかっていたことだった。昔ながらの生け花と。奇抜な今日のそれとの、真の違いは何なのか。針金やビニールの使用、花と葉がホッチスで留められ、折り曲げられるよう、マニュアルで示されたX度の角度などを私は変に思うが、ある意味でこれらはすべて伝統に由来するものなのだ。ではその決定的な違いとは。友人の答えは、現代の生け花には「実がない」というものだった。伝統的な生け花には宗教上あるいは儀式という目的があった。昔の人々は自然の神秘に尊敬の念を持っていた。宇宙の創造力にあふれた息吹を見出し、応えるための手段として生け花を用いたのだ。しかし今日、それも失われ、単なる飾り物としての目的しか持たず、植物や花そのものの本質を問うことはない。代わりに、花は生け手の気まぐれなニーズに応えるためだけに使われる、ビニールや針金などの材料と、ほとんど変わらない「素材」として扱われている。要するに「実」もなければ精神的な目的もなく、自然が本来持つ力に通ずるものも何もない、ただ空っぽなデザインなのだ。
 華道家のコメントは問題の核心をつくものであった。というのも、「実」がないというのは現代日本のすべての事柄にも言える。土木工事(目的もなく進める)、建造物(周りの環境とニーズに無関係)、教育(歴史や方程式を暗記させ、独自の創造力や分析力を教えない)、街並み(古きを壊す)、株式市場(配当を払わない)、不動産(利潤を生まない)、大学(就職までのつなぎ・社会に貢献しない)、国際化(世界を締め出す)、官僚制(真のニーズに関係ないところで金を使う)、企業のバランスシート(粉飾決算)、環境省(環境保護に無頓着)、薬品(テストされていない模倣薬)、情報(曖昧、秘密、嘘)、空港(人間に適さず、大根には適す)― 体系全体に「実」がないのだ。
 日本のものごとのやり方と、現代生活との間には、内外を問わず予想をはるかに超えたギャップがあるとしか言いようがない。だから、私は日本を近代化に失敗した例であると申し上げている。手の込んだ「鬼」のモニュメントは、「実」の重みに対する一種の防護壁なのだ。しかし、最後には「実」が勝つ ― それでも地球は太陽の周りを回るから。

そう、アレックス・カーは日本をよく知っていた。そして日本が好きだった。そんな人を日本から遠ざけたのは、変わってしまった日本なのだ。「本書にはどうしても怒りと悲しみの感情が入ってしまっている。なぜなら日本で起きていることはあまりにも悲惨だからだ」と書かせたのは、いまの日本なのだ。

ただ ただ 悲しい。

(30)澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

2024年7月12日(金)

快楽礼讃

今週の書物/
『快楽主義の哲学』
澁澤龍彦著、文春文庫、1996年刊

ギリシャの頃から今に至るまで、西洋では「幸せとは何か」がさまざまに論じられてきた。「幸せになることが人生の目的だ」という人もいる。それもこれも、幸せになることが、誰にとっても難しいからではないだろうか。

快楽も同じ。「人間の目的は快楽だ」という人たちがいる。でも「快楽とは何か」ということになると意見はまとまらず、酒池肉林を快楽という人たちと、心に動揺のないのが快楽だという人たちとが、無駄な論争をしてきた。

「幸せになった後、すべての生物は空し」というけれど、幸せになった後、いったいどうしようというのか。言葉をを置き換えて「快楽を得た後、すべての生物は空し」「性交の後、すべての生物は空し」といってみても、事情はあまり変わらない。ハッピーエンドの後、その状態が持続するわけでもあるまい。

幸せになりたい。でも、幸せが何かはわからない。快楽が得たい。でも、快楽が何かはわからない。それはまるで Erich Fromm の『Escape from Freedom』のようだ。自由でいたい。でも自由が何かはわからない。ドイツでは、そんな人たちが幸福を追い求めることだけを考え、社会がとんでもない方向に向かってしまった。そういうふうに、Erich Fromm は書いている。

幸せかどうかということと、満足しているかどうかということも、よく混同して考えられる。「満足した豚より 不満足な人間のほうがいい」とか「満足したバカより 不満足なソクラテスのほうがいい」というように、満足か不満足かを語る言葉は多い。

外界に関心を持ち 仕事に満足することで 幸せを感じる。仕事に幸せを見出す。そんな考えが社会に蔓延するようになると、ただ 幸せを感じるとか ただ 快楽を感じるということに、罪悪感を感じる人が増え、幸せや快楽に対する考えも大きく変わってきた。

「幸せ」をテーマにした本はたくさん書かれ、「不幸せ」に耐える方法もたくさん書かれてきた。「私たちは すでに幸せだ」と書く人もいれば「私たちは 決して幸せにはなれない」と書く人もいて、考えは多岐にわたる。「快楽」となると考えはもっと割れ、「快楽は罪悪だ」と書く人から「快楽は善だ」と書く人まで、さまざまだ。

愛がすべてと思えば 愛に裏切られ、カネがすべてと思えば カネに裏切られる。愛もカネも 信じすぎてはいけない。同じように、幸せを追い求めれば 幸せは遠のき、快楽に身を任せれば 快楽は消える。幸せも快楽も 求めないところにやってくる。

で今週は、澁澤龍彦が「快楽」について書いた一冊を読む。『快楽主義の哲学』(澁澤龍彦著、文春文庫、1996年刊)だ。澁澤龍彦は、私にとっては サブカルチャーとかカウンターカルチャーの大御所的な存在の人で、どこか遠い感じがする。終戦の時に17歳だったという。

若い澁澤にとって、戦争は そして戦後の価値の転換は、決定的で 痴呆的で 尊厳的で バカバカしくて 空虚で 開放的だった という。「倫理はスタイルで、スタイルは快楽で、快楽は倫理だ」という澁澤の感性は、戦後生まれの私たちにはないものだ。

『第一章 幸福より、快楽を』のはじめに澁澤は「人間の生活には目的なんかない。食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけだ」と言う。その上で「幸福は快楽ではない」と言い、「幸福は、この世に存在しない」と言い切る。

澁澤は「痛い目にあうよりは、あわないほうがよい」というような消極的な考え方を「幸福」と呼び、「日本はいやだから、パリへ飛んでいく」というような積極的な考え方を「快楽」と呼ぶ。あるかどうかわからない幸福がやってくるのを待つのではなく、自分で作り出す快楽を実践のうちからつかみ取るほうがずっといいというのだ。

『第二章 快楽を拒む、けちくさい思想』のなかでは、既存の「いい」と思われている考えを、すべて否定する。「博愛主義は、うその思想である」「健全な精神こそ、不健全である」「≪おのれ自身を知れ≫は愚の骨頂」という具合だ。

古くさい形式的な道徳や、お上品ぶった理想論や、ばかばかしい先入観などを、ひとつひとつぶっ壊してゆく。その目的は、人間の本能、人間の欲望に忠実であること。欲望という美しい灯台の光だけをたよりにすればいいという。

『第三章 快楽主義とは、何か』では、「死の恐怖の克服」から始め、一歩一歩、精神的快楽や物質的快楽の頂上までのぼりつめてゆく。死を克服し、退屈を克服し、その先に見えてくるのは何か。

東洋的な快楽主義と西洋的な快楽主義、自然主義的な快楽主義と反自然主義的な快楽主義、文明主義的な快楽主義と反文明主義的な快楽主義、どちらがどうという以前に、さまざまに違った快楽主義が浮かび上がる。

『第四章 性的快楽の研究』は、他の章とは趣を異にする。セックスの快楽だけを独立して取りあげるのは、あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、いちばん強度なものであり、かつ、いちばん根源的だからだという。

「量より質を」「最高のオルガスムを」「情死の美学」「乱交の理想郷」「性感帯の拡大」という各節のタイトルを見るだけで、内容が想像できるだろう。ただ最後の「快楽主義は、ヒューマニズムを否定する」というところだけは説明がいるかもしれないが、長くなるのでここでは割愛する。

『第5章 快楽主義の巨人たち』では、ディオゲネス、李白、アレティノ、カザノヴァ、サド、ゲーテ、サヴァラン、ワイルド、ジャリ、コクトーと、じつにバラエティに富んだ人たちを紹介している。知らないことばかりで、興味は尽きない。

澁澤がセットした基準である「高い知性」と「洗練された美意識」と「きっぱりした決断力」と「エネルギッシュな行動力」を兼ね備えた人たちは、ある意味まぶしい。李白やゲーテを「快楽主義」と結びつけたことがなかったので、第5章は刺激的だった。

最後の『第6章 あなたも、快楽主義者になれる』は、そんなに簡単ではない。特に2024年の日本では、「誘惑を恐れないこと」も「一匹オオカミも辞さぬこと」も「誤解を恐れないこと」も「精神の貴族たること」も「本能のおもむくままに行動すること」も「労働を遊ぶこと」も「レジャーの幻想に目をくらまされないこと」も、どれも簡単ではない。

私はこれまで何度も、幸福を味わえることができ 快楽を得ることのできる場所で暮らすことを夢見てきた。でもこの本を読んで、それが幻想でしかないことに気づく。いま居る場所にいても、朝 雨戸を開けたときに見る景色だけで 幸福は味わえるし、隣にいる人のあたたかさを感じるだけで 心の安らぎという快楽を得ることができる。なにも、北の国の緑の森のなかや 南の国の静かな海岸に行くだけが 幸福や快楽への道ではないことに、今さらながら気づいたのだ。

(29)沢木耕太郎『深夜特急〈第三便〉飛光よ、飛光よ 』

2024年7月5日(金)

旅の終え方

今週の書物/
『深夜特急〈第三便〉飛光よ、飛光よ 』
沢木耕太郎著、新潮社、1992年刊

永六輔の『遠くへ行きたい』の「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」ではないけれど、知らないところに行きたい、どこか遠くへ行きたいというような気持ちは 誰にでもあるだろう。

年をとり先が見えてきたせいか、最近やたらと旅をしている。旅先で何とも言えない情景に出会うと、さまざまな予約の問題とか、飛行場での行列とか、行き先が見つからない苦労とかが、一瞬にして消える。

考えてみれば、旅の途中の一瞬は格別だ。角を曲がって突然現れる街並み、砂浜で座って見る日の出、立入禁止の札の前の絶景。そんな一瞬の情景のために、旅をしているのかもしれない。

その場所にしかない色、その時間にしかない光。心をうつしだす景色は、私にしか見えない。歩くなかでの一瞬、それだけでいい。ずっと見えないもの、続かないもの、そんなものは、私だけのものだ。

一瞬のためだけの、突然現れる街の情景とか、日の出の魔法とか、見ては いけない 景色とか、きっと一瞬のために、人は旅をしている。たぶん思い出すことのない、大切な一瞬のために。

で今週は、旅の本、『深夜特急〈第三便〉飛光よ、飛光よ 』(沢木耕太郎著、新潮社、1992年刊)。1974年(26歳の時)に始めた旅のことを、12年経った1986年(38歳の時)に『深夜特急 第一便 黄金宮殿』『深夜特急 第二便 ペルシャの風』として出版。それからさらに6年たった1992年(44歳の時)に出版したのが 今回取り上げる『深夜特急 第三便 飛光よ、飛光よ』だ。

香港から南回りでイランまで辿り着く『第一便』『第二便』のハラハラ・ドキドキに比べ、イランから地中海経由でロンドンまで行く『第三便』にはハプニングが少ない。それでも私は『第一便』『第二便』に比べて『第三便』が好きだ。

途中から沢木耕太郎は、旅の「終わり」を考え始める。旅を終えたくないという気持ちと、日常生活に戻りたいという気持ちとのあいだで、葛藤を始めるのだ。

ロンドンの中央郵便局に行き、旅が終わったという電報を打とうとする。すると「電報は電話局から打つんだよ」と言われる。帰国のためのチケットを買いに旅行代理店に行き、行き先を尋ねられる。するととっさに「アイスランド」と答えてしまう。

旅をするのは気ままで「自由」、日常の生活は縛られていて「不自由」。そんな考えから、旅を切り上げようとする作者に「旅を終えたくない」「自由でいたい」 という気持ちが生まれるのだが、はたしてそんなものだろうか。

旅ほど不自由なものはない。普段暮らしているのより、はるかに不自由だ。持ち物の制限がある。大きなものやたくさんのものを持って旅はできない。言葉の壁がある。カネのこと、電気や通信のこと、してはいけないことなどなど、わからないことだらけだ。

知らないことばかりの場所に行くのが楽しいとか、知らない人に出会うのが楽しいとか、そんなことを旅の醍醐味だと言う人がいる。でも、そんなのは、幻想ではないか。

日常生活のなかにも、知らないことはたくさんあるし、知らない人との出会いもある。日常生活のなかでも、自由でいることはできる。バックパックを背負わなくても、旅をするのと同じことができるのだ。

沢木耕太郎の旅は、40代になってこの本を書き終えても、終わらなかった。『深夜特急』があまりにも有名になりすぎたこともあって、そして出版社の思惑もあって、70代になっても『旅のつばくろ』とか『天路の旅人』といった本を出版し続けている。

私は、旅が無限の自由を与えてくれるとは思わない。だから、旅に対して沢木耕太郎ほどの思い入れを持つことはできない。私たちはみんなそれぞれの場所で旅をしているようなものなのだと思っているから、沢木耕太郎の旅は読み物でしかない。

『第三便』には、出会った人物のことがたくさん描かれている。それなのに、情景描写は驚くほど少ない。イラン・トルコ・ギリシャと巡る旅の途中で、感動的な情景に出くわさないはずがない。それなのに情景はほとんど描かれていない。

バス旅行をすれば、乗り合わせた人物に目が行く。そうかもしれない。でも、しばらくすれば、窓の外に目が向くのではないか。バックパッカーの目は心の内面に向いているから、情景が目に入ってこない。いや、そんなことはない。イランやトルコ、そして地中海沿岸で出くわす情景が、心を打たないはずはない。

旅で出会った情景は、きっと、東京で何年も暮らすうちに消えてしまったのではないか。私はそう思った。旅をして一週間で、旅のことは忘れる。旅をしてから18年経って、いったい何を思い出すというのだろう。

私は沢木耕太郎の年代の人で、若い頃に日本を出てヨーロッパを目指した人を、たくさん知っている。ある人はシベリア経由で、またある人は南回りで、長い時間をかけてヨーロッパにやってきた人たち。ただ、その人たちは沢木耕太郎のように日本に帰ったりはせずに、ずっとヨーロッパで暮らしている。その人たちの旅は、いまでも続いているのだ。

その人たちに、日本を出てヨーロッパに着くまでの旅の話を聞くと、長い時間が経っているのに 沢木耕太郎の本にはない情景の話がたくさんでてくる。旅のあいだグローバルなバックパッカーだった沢木耕太郎は、旅のあと見事に日本人に戻った。だから『深夜特急』は多くの日本人に受け入れられ、たくさん売れたのだ。

ヨーロッパに残った日本人が、小説を書いても、たとえそれがおもしろい小説であったとしても、きっとそれは受け入れられなかったし、売れなかったに違いない。そう、沢木耕太郎は、日本社会にどっぷり浸かった小説家なのだ。

26歳の沢木耕太郎は、春の初めに日本を出発し、秋の終わりにイスタンブールを通過、冬にヨーロッパの西のほうに辿り着いた。それだけのことなのに、1年にも満たない旅のインパクトは大きい。その後の沢木耕太郎にも大きいし、読者にも大きい。やはり沢木耕太郎は優れた書き手なのだろう。

(28)山本静山『花のこころ―奈良円照寺尼門跡といけばな』

2024年6月28日(金)

卓上の花も生きている

今週の書物/
『花のこころ―奈良円照寺尼門跡といけばな』
山本静山著、主婦の友社、1968年刊

サッカーの中継を興奮して見る。最近のテレビ中継は、リプレイもあって面白い。でも結局は、テレビ観戦の域を出はしない。画面に映らないことは見ることができないし、マイクが拾わない音は聞こえてこない。その場の雰囲気は感じられないし、暑いか寒いかすらもわからない。スタジアムにいないとわからないことは多い。

演奏会も展覧会も同じで、出かけて行かないと味わえない感動っていうものが間違いなくある。演奏者が演奏の合間に見せるはにかみの表情とか、演奏中のちょっとした仕草とかは、その場にいなければわからないし、美術作品の大きさや質感なども、作品を前にしなければ、わかりはしない。

朝、雨戸を開けて、遠くに見える山や空を眺め、庭にやってくる鳥や咲いている花を見て味わう小さな感動なども、写真や映像には変換できない。そもそも感動は、どう伝えようと、他人には伝わらない。自分にしかわからないもののような気がする。分かち合うことは難しい。

物理学者の Carlo Rovelli は「時間は存在しない」と言うけれど、時間は間違いなくあって、ひとりひとりが生きている限られた時間のなかで、自分にしかわからないことが、少なからずあるように思える。

谷崎潤一郎の『雪後庵夜話』の最初に出てくる歌「我という人の心はただひとりわれより他に知る人はなし」は、中学のサッカー仲間の手塚研一さんがその存在を教えてくれた歌だが、まさにそのとおりだと思う。憧れとか、寂しさとか、悲しみとか、喜びとかは、自分にしかわからない。

残りの短い時間のなかで、自分に正直になって、素直に、わがままにして、多くの感動を味わいたいと、生意気なことを考える。そんなことをしていれば、いつかはバチが当たるだろう。それでも、生きているあいだは、生きたい。

そんなことを考えていたら、部屋のなかに飾られた花が目に入った。地面から切り離され、土を纏うこともなく、少しの水を与えられ飾られている卓上の花は、いったい何を感じているのだろう。

で今週は、花についての一冊、『花のこころ―奈良円照寺尼門跡といけばな』(山本静山著、主婦の友社、1968年刊)だ。私の家の本棚には、山本静山の本が 4冊並んでいる。いずれも主婦の友社から出版されていて、年代順に『花のこころ (1968年)』『花のすがた (1973年)』『花のむれ (1981年)』『花のながれ (1992年)』。『花のこころ』だけが山本静山が書いた本という感じで、あとの 3冊は 山本静山によって生けられた花の写真集という作りの本だ。とはいっても、4冊とも素晴らしく、好きな本が並ぶ本棚に置かれている。

山本静山は、『昭和天皇の妹君: 謎につつまれた悲劇の皇女』(河原敏明著、ダイナミックセラーズ出版、1991年刊)によれば、三笠宮の双子の妹だったというが、真実は誰にもわからない。わかる必要もない。わかっているのは、十世圓照寺門跡住職としての役割を果たし、山村御流家元としていけばなを極めた人ということで、昭和天皇の妹であったかどうかなどということは、知る必要はない。

山本静山が始めた山村御流は、ひとことで言えば「野に咲いているように生ける」。そのことに尽きる。もっとも、そんなことが集まってくる人たちに伝わるはずもなく、いま巷にある山村御流にとって大事なのは、師事であり、免状であり、もっと言えば、華美であり、虚飾である。そんなことを思わせるほど『花のこころ』は、そしてそれを書いた山本静山は、自然に近い。

大和には 3つの尼門跡があるという。門跡は皇族・公家が住職を務める特定の寺院(あるいはその住職)のことで、法隆寺と僧寺・尼寺の関係にあった中宮寺門跡、総国分尼寺だった法華寺門跡、そして奈良の南東 4kmのところにある円照寺門跡がこれにあたる。

尼門跡には一般の尼寺にはない特別な行儀作法があり、活動にもいろいろな制約がある。そのなかで、いのちについて考え続け、野の花や草を生け続けてきたのだから、生けられた花には、自然の持つ力が溢れている。

山本静山の言葉を少し紹介する。

秋の千草がにおっている野や山のほとりには、点々と小松が美しい緑を輝かせながら生えています。一方、秋の野を飾る七草の葉や茎は、松のように深い緑の色ではなくて、こがねなす秋の色をたたえています。その輝くような色で、この秋を限りにと生きる七草と、小さいながらにも力強く、やがては大空へとそびえたってゆく松の緑との対照は、味わいがあります。美しい調和でもあり、必然の美であると思います。

自然を眺める目が独特なのに気がつく。

人間の世界には、ずいぶんとむだが多いように思えますが、そのむだが、なかなかたいせつなのです。 山へ登り、野にさまよい、または旅の車中から、ただ何とはなしに、あたりの風景をながめている。そのなにげなくながめているということが、数多く重なってゆくにつれて、自然の美しさ、草や木の在り方が、心の目に写されてゆくのです。そうして花を生けるときに、いつとはなしにそのことが、大きく役立っていることに気がつきます。おもしろいことです。

おもしろいことですという山本静山の顔が、浮かんでくるようだ。

本のなかで、山本静山は、「花へのこころが、美しい自然の姿とともに、いつまでも清く、かぐわしく、人の世のつづく限り、咲きつづき、人によき幸を与えてくれますよう、花に祈りつつ」などという恥ずかしくなるような文章とともに、「花は野にあるように———」という言葉を繰り返す。こんなことをてらいなく書くなんていうことは山本静山にしかできない。

この本のなかでは、春夏秋冬は何よりも重要で、その変化は特別な意味を持つ。ただ、四季は円照寺のまわりの自然の四季で、カレンダーに書かれた四季でもなければ、季語などといって決められた四季でもない。実際に外に出て花を摘み草を摘みして感じた四季は。どんな四季よりリアルだ。、

季節感あふれる本の作りと山本静山という人とが、不思議と合っている。作られてから56年という時が経っているというのに、書かれていることはみずみずしい。ゆっくりと読むにふさわしい本に久々に出合った気がした。

本から目を上げ、改めて卓上の花を眺める。卓上の花が、私に話しかける。そう、飾られている花は、間違いなく生きている。

(27)東郷克美『佇立する芥川龍之介』

2024年7月21日(金)

みんな佇立している

今週の書物/
『佇立する芥川龍之介』
東郷克美著、双文社出版、2006年刊

誰にでも「先生」と呼べる人が ひとりはいるというが、私にとっての「先生」は東郷克美先生。高等学校3年間の担任だ。東郷先生(1936年12月9日生まれ)は、先週「めぐりあう書物たちもどき」で取り上げた寺山修司(1935年12月10日生まれ)の(早稲田大学教育学部国文学科での)1年後輩にあたる。

寺山修司のほうが 1歳年上なのにもかかわらず、私のなかでは 東郷先生のほうが年長に思える。高校生という多感な時期に3年間にわたって影響を受け続けた先生だから、そう思えるのかもしれない。

私たちの担任をしたのがよほどいやだったのか、私たちが卒業した1年後には成城短期大学の専任講師になり、成城大学文芸学部の助教授・教授、そして早稲田大学教育学部の教授・名誉教授を務めてきた。

大学を出てから一貫して「先生」であり続けたわけだが、では東郷先生は「先生」だったのかというと、いささか疑問が残る。高校の生徒たちに慕われ 大学の学生たちに頼りにされてきたとはいえ、教育者・指導者には見えないのだ。

定年を迎え帰国した後に 新聞で東郷先生の講座を見つけた私は、「かわさき市民アカデミー」の講座に申し込み、はるばる武蔵小杉にある「川崎市生涯学習プラザ」まで10回ほど 出かけて行った。

東郷先生は驚くほど変わっていなかった。文学作品を深読みし、筆者について調べ、それを受講者に語り掛ける。受講者の多くは高齢者だったが、熱心さでは東郷先生に負けてはおらず、東郷先生が取り上げる本を何度も読み返してきていた。

東郷先生の解説を聞いていて私は、鉄道が好きで写真撮影が好きな「マニア」の人たちや ゲームが好きでアニメが好きな「オタク」の人たちのことを考えていた。「マニア」は「1つのものごとに集中する人」を指し、「オタク」は「1つのものごとにしか興味がない人」を指すというが、東郷先生は「先生」である前に「文学オタク」ではなかったのか。

先生が石牟礼道子の作品を解説すると、話は石牟礼道子が幼少期に住んでいた水俣の話になり、近所の店や公共施設が描かれた地図が配られ、用意されたスクリーン上に映し出される「水俣の海に捧げる能(石牟礼道子作「不知火」)」を見ることになる。

梨木果歩の解説では、非日常的な不思議な作品の世界のことを語るでもなく、作中の不自然な会話のことに触れるわけでもない。いきなり物語のなかに受講者を投げ込み、東郷先生の深読みに付き合わせる。

「かわさき市民アカデミー」の講座が、東郷先生という「文学オタク」が作り出す作品になっている。そう思った私は、その講座の観察を始めた。と同時に、東郷先生の文学作品に向き合う姿勢や作者への対し方に思いを馳せた。

『井伏鱒二全集』の編纂を行い、泉鏡花や太宰治などを論じて来た東郷先生にとって、講座の受講者たちをうっとりさせることなど、なんていうことはない。作者に実生活の中で起きたことと その前後に書かれた作品をシンクロさせて解説すれば、どんなに深読みをした受講者も太刀打ちできない。文学評論のプロの凄さを見せつけられた気がした。

で今週は、東郷先生の文学評論の一冊を読む。『佇立する芥川龍之介』(東郷克美 著、双文社出版、2006年刊)だ。「早世の天才」と言われ 太宰治が憧れたという「芥川龍之介」に東郷先生がどう切り込むか。楽しみな一冊だと思って、読み始めた。

ところが、まず、言葉で躓いた。東郷先生のボキャブラリーは、私のボキャブラリーとはまったく違う。わからない言葉に出くわすと調べなければ先に進まない。読書の速度は、英語やフランス語の本を読むのより遅くなり、中国語やロシア語の本を読むときのように時間がかかる。

「ラツフ」という言葉が出てくる。芥川龍之介が、井川恭宛の手紙に、

此頃僕はだんだん人と遠くなるやうな氣がする 殆誰にもあはうと云ふ氣がおこらない 時々は隨分さびしいが仕方がない 其代り今までの僕の傾向とは反對なものが興味をひき出した 僕は此頃ラツフでも力のあるものが面白くなつた 何故だか自分にもよくわからない たゞさう云ふものをよんでゐるとさびしくない氣がする さうして高等學校にゐた時よりも大分ピユリタンになつた

と書いている。しばらく読んでいると「ラツフ」は、英語の「rough」だということがわかる。なあんだ「rough」か。そうわかるまで、10分くらいたっている。ひとつの言葉に10分使っていては、なかなか読み進めることができない。

次に、知識で躓いた。私には、芥川龍之介が生きた時代(1892年〈明治25年〉から 1927年〈昭和2年〉まで)の知識が欠如している。読みながら、知らないことを痛切に感じた。トルコの作家、たとえば オルハン・パムク の本を読んだときと同じ感じだ。

その歌は明らかに吉原登楼をうたったもので「薄唇醜かれどもしかれどもしのびしのびに口触りにけり」「これはこの新吉原の小夜ふけて辻占売の声かよひ来れ」というようなものを含んでいる。

という文章を読んでも、当時の吉原についての知識がないせいか、何の情景も浮かんでこない。知識がないということは、読む楽しみも半減ということになる。

芥川龍之介が生きた時代についての知識はなくても、それが幸せな時代でなかったことぐらいはわかる。関東大震災で打ち壊された東京には、江戸という平和な時代を懐かしむ風潮が残っていたようだし、苦しい生活のなかで 社会には閉塞感が漂っていた。実際、芥川龍之介の死から18年後に日本中が廃墟になることを、私たちは知っている。芥川龍之介が佇んでしまうのも、時代背景を考えると自然のことと言えるのではないか。、

さて、言葉で躓き 知識で躓きながらも半分近くを読み終えた私を、新たな試練が襲う。まさかの、泉鏡花なのだ。芥川龍之介について読んでいた私が、気が付けば泉鏡花について読まされている。

「あとがき」に「前半には芥川龍之介に関する6篇を、後半には、芥川と関わりの深かった鏡花、犀星についての作品論と同時代の文学史的粗描の一端を収めた」とあるのだが、そんなことはつゆも思わない私は、『佇立する芥川龍之介』を最初から読み始め、半分近く読んだところで突然、芥川龍之介でないものに出くわすのだ。

考えてみればこの本は、物理学者が書くものに似て、読者に優しくない。と考えて、私は「あっ」と気が付いた。そもそもこの本は、一般向けの本ではないのだ。そして東郷先生は「文学オタク」などではなく「文学者」だったのだ。

専門家向けの本を 一般向けの本と勘違いして読み進んでしまった私は、「文学者」を「文学オタク」と勘違いしてしまっていた自分に気づいた。東郷先生は思った以上に「文学者」だったのだ。

後半の泉鏡花についての2篇と室井犀星についての2篇、そして一高の校友会雑誌や大正10年の文壇についての東郷先生の文章を読んでいて、私はあることに気が付いた。芥川龍之介の作品のなかだけでなく 泉鏡花の作品のなかでも 室井犀星の作品のなかでも、人は みんな 佇立しているではないか。

文字通り、佇んで立っている。自分のベーシスを失って、静かななかで たたずんでいる。その状況がどうであれ、静寂は美しい。呆然と立ちすくすにしても、立ち止まるにしても、佇立する人の繊細さは いつも美しい。『佇立する芥川龍之介』という題を付けた東郷先生は、詩人でもあった。

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東郷先生の『佇立する芥川龍之介』ではあまり言及されていないが、芥川龍之介は「英語の人」だった。英語を学び、英語を教え、英語で書かれた作品に大きな影響を受け続けている。

ウィリアム・モリスの詩、バーナード・ショーの戯曲、オスカー・ワイルドの評論、コナン・ドイルの推理小説など、幅広い分野の英語の作品を読み込んでいるし、アナトール・フランスや ギ・ド・モーパッサンのフランス語の作品、それに イワン・ツルゲーネフ のロシア語の作品なども、すべて英訳を読み込んでんでいる。

だから自然と、文章の構成も英語的になるし、文章自体も論理的で、簡潔、平明なものになる。英語を日本語に翻訳する際に翻訳しきれないものがあると、日本の古典から単語を持ってきたり、カタカナを使うなどして単語を作ったりもしている。

「芥川龍之介の作品は、英訳がしやすい」と、あちらこちらに書いてあるが、それもそのはず、作品自体が英語的なのだ。その割には、翻訳文と違って読みやすい。なぜだろう。

芥川龍之介は「英語の人」でありながら、日本語を極めようとしていた節がある。日本の古典だけでなく、新聞の文章や、作家ではない一般人の文章にまで興味を持ち、研究していた。『鼻』『芋粥』『羅生門』は『今昔物語集』に材をとっているし、『トロッコ』は力石平蔵という雑誌記者の原稿をもとに書かれている。

英語で書かれた文章群から題材やヒントを得ようが、一般人の文章を下書きにしようが、日本の古典に材をとろうが、出来上がりは 誰も真似のできない芥川龍之介の作品になっている。それが芥川龍之介の凄さなのだろう。

東郷先生が芥川龍之介の作品について書くときには、どんなところからヒントを得たというような表面的なことではなく、比較文学の観点からの英日比較というようなことでもなく、あくまで芥川龍之介の内的な心情と作品との関係に的を絞って書く。それこそが、東郷先生の深読みの極意だ。

偶然かどうか、東郷先生が『佇立する芥川龍之介』のなかで取り上げた作品には、『今昔物語集』に材をとったものが多い。芥川龍之介本人の作品『今昔物語鑑賞』も、当然のように参考にされている。

でも東郷先生は、芥川龍之介の失恋に焦点を当て、さらには芥川龍之介のいちばんの問題であったさまざまの因襲との葛藤について考えるなかで、作品の評論を進めてゆく。表面的なことには惑わされない。それこそが、東郷先生の流儀なのだ。

(26)寺山修司『ポケットに名言を』

2024年6月14日(金)

言葉は薬でなければならない

今週の書物/
『ポケットに名言を』
寺山修司著、角川文庫、2005年刊

本棚には、寺山修司の本が並んでいる。横尾忠則のイラストが付いた『書を捨てよ、町へ出よう』や 宇野亞喜良のイラストが付いた『ひとりぼっちのあなたに』『壜の中の鳥』などのなかに、何冊か目立たない文庫本がある。

横尾忠則のイラストと寺山修司の文章とは、そんなには似合わない。人気イラストレーターと人気作家を組み合わせたから 確かに『書を捨てよ、町へ出よう』は売れたが、その組み合わせはどこかしっくりこなかった。そもそも本の作りが雑で、ページを開いても すぐに閉じたくなった記憶がある。

それに対し、宇野亞喜良のイラストと寺山修司の文章とは、とてもよく似合う。宇野亞喜良が寺山修司の舞台美術や宣伝美術を手がけていたことは よく知られているが、そういうことよりも、恥じらいとか慎ましさといったふたりが持つ共通の属性が、一緒になったときにとてもいい感じを醸し出すように思える。

でも、なんだかんだいっても、寺山修司には 文庫本が似合う。そして ひとりが似合う。トレンチコートのポケットに手を入れて、背をかがめて歩く寺山修司が、僕は好きだ。誰かといる寺山修司より、ひとりでいる寺山修司のほうが、いい文章を書く。劇作家の寺山修司より、詩人の寺山修司のほうが、きらきらしている。

で、今週取り上げるのは、きらきらした文章が際立つ文庫本『ポケットに名言を』(寺山修司著、角川文庫、2005年刊)だ。本としては慎ましい感じがするし、題名も軽い感じがするのだが、中身はなかなか強烈だ。

私は古いノートをひっぱり出して、私の「名言」を掘り出し、ここに公表することにした。

という文章からわかる通り、この本に収められた文章は、ノートに書き留められたものだ。インターネットでサーチしたものなのではない。だから、ある意味、「そのまま」という正確さより、よっぽど真髄をついている。

寺山修司は、本気でボクサーになりたいと思っていた。でもボクサーにはなれないと知り、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思ったという。

私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。
だが、同時に言葉は薬でなければならない。。。。どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。

こんな文章からわかるように、寺山修司は、言葉の持つ力を信じていた。言葉は人を傷つけることができると同時に、人の心の傷を癒すこともできる。使い方次第で違う効能を持つ。。

「名台詞はどこにでも転がっている」と、寺山修司は言う。「名台詞などというものは生み出すものではなくて、探し出すものなのである」とも言う。

少年時代、私は映画館の屋根裏で生活していた。その頃の私の話相手はスクリーンの中の登場人物しかいなかった。孤独だった私は、映画の中の話相手の言葉から人生を学んだ。それからというもの、映画を観るたのしみは、いわば「言葉の宝さがし」に変ったのである。

『ポケットに名言を』は「言葉の宝さがし」の延長線上にある。旅路の途中でじぶんがたった一人だということに気づいたとき、寺山修司は「言葉を友人に持ちたい」と思ったというが、寺山修司と言葉との関係は友人以上のものだったように思える。なんともうらやましい。

この本になかの「言葉は薬でなければならない」というフレーズは、まさに名言だ。名言であふれたこの文庫本をポケットに入れて歩くとき、『ポケットに名言を』という軽いと思った題名が、ずっしりと重たい。なんという本だろう。

(25)ビョンチョル・ハン『透明社会』

2024年6月7日(金)

今さらながら社会に憤る

今週の書物/
『透明社会』
ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊

『疲労社会』
ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊

『情報支配社会』
ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2022年刊

何も引き換えにせずに資本を獲得することを、盗みと言っていいだろう。だとすれば、政府や中央銀行がしていることは、盗みではないか。

快楽に身を委ね 欲望や消費にはしることを、堕落とみなす人もいる。そういう見方からすれば、多くの男や多くの女は、堕落してはいないか。

現実を大げさに歪めて伝え 不安におびえさせることを、俗に恐喝と言う。だとすれば、報道機関や広告代理店がしていることは、恐喝ではないか。

好況のあとに不況を言いつのり 不況のあとに好況を言いつのるのは、躁鬱に似ている。ビジネスや株に携わる人たちは、みな躁鬱ではないか。

うまくいくかどうかわからないのにカネを動かし カネが膨らむのを期待することを、博打という。だとすれば、金融市場に集まってくる人は、みな博打をしていることになる。

他人を思いやることを忘れ 他人を出し抜くことしか考えないことを、倫理観の欠如という。だとすれば、組織に身を委ね 回し車のハムスターになっている人たちは、みな倫理観が欠如しているといえる。

悪いと知っているのに 悪いことをし 嘘と知っているのに 嘘の説明をするのを、人でなしという。だとすれば、高い地位に就いている人たちや その周りにいる人たちは、みな 人ではない。

社会が、盗賊と 犯罪者と 恐喝者と 躁鬱患者と 中毒患者と 倫理観がない人と 人でなしとで 出来ていると思えば、腹も立たない。社会に憤っても、社会は良くならないし、社会を変えようと思っても、誰にも社会は変えられない。社会は強固で狡猾だ。

とはいっても、社会に住んでいる私たちが 社会の餌食にならないためには、社会について もっと知る必要がある。社会では、何があたりまえなのかを知る。心が痛まない方法を知る。そうすることで、社会で生きてゆく。

自らが消費という中毒にかかっていることを認め、自分たちが奪う側にいることを認め、奪うことを止め、奪われることも止める。汚れていることを認め、きれいになろうとする。

などと、10代の私が書きそうなことを書いてみて、70代の私が顔を出す。70代の私は冷静だ。「何億人もの個人が社会を形作るのだから、社会が個人にとって都合の良いものであるわけがない。自分の思うような社会を作ろうなどという考えは、捨てたほうがいい」と言う。「社会を構成しているのは そのほとんどが善良な人たちなのだ」とも言う。

「社会を良くしてゆく努力を続けなければ 社会は衰退してしまう」という声に、70代の私は「そんな努力は無駄だ」と言う。そう言いながら、70代の私は社会について、憤っている。不平等、不公平 ー 理不尽なことが多すぎる。優しくない、報われない ー 閉塞感に満ちている。実際、私は、社会に対して怒りのようなものを持っている。怒りのようなものの正体は、わからない。

それにしても私たちは、私たちの社会を知らない。社会についてもっと知ろう。そう思って手に取ったのが、今週取り上げる『透明社会』(ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊)だ。同じ著者・訳者・出版社で、『疲労社会』(2021年刊)と『情報支配社会』(2022年刊)も出版されている。

なんでもわかってしまう透明社会(The Transparency Society)、予期された答えしかない肯定社会(The Society of Positivity)、教育や訓練で秩序が保たれる規律社会(The Disciplinary Society)、なんでも根拠になってしまうエビデンス社会(The Society of Evidence)、愛も恋も消えてしまったポルノ社会(The Society of Pornography)、変わり続けることで成り立つ加速社会(The Society of Acceleration)、ほかの世界と隔絶している親密社会(The Society of Intimacy)、大量の情報に価値をおく情報社会(The Society of Information)、知識が重要な価値を占める知識社会(The Knowledge Society)、誰もが自分のことを見せる展示社会(The Society of Exhibition)、絶え間なく成果を求められる疲労社会(The Society of Tiredness)、プライバシーのないポストプライバシ、ー社会(The Post-Privacy Society)、深い退屈に彩られた倫理社会(The Society of Moral)、精神的暴力が支配する監視社会(The Surveillance Society)、忘れたことまで暴き出す暴露社会(The Society of Unveiling)、他人に寛容で優しい繋がる社会(The Connected Society)、人間が管理されるようになった管理社会(The Society of Control)。そんなふうに ビョンチョル・ハンは、今の社会をさまざまな側面から説明する。その説明のひとつひとつは、恐ろしいほどに、見事に的を射ている。

今日は多くの社会の側面のなかから、本の題名にもなっている「透明社会(The Transparency Society)」について書いてみる。私が読み取ったことは、たぶん ビョンチョル・ハンが言いたいこととは違う。そんなことは承知の上で、書く。

トランスペアレントという言葉がよく使われるが、トランスペアレントな社会、つまり透明性が高く隠し事のない社会は、道徳か倫理社会の教科書のなかにしか存在しない。隠し事のない人がいないように、隠し事のない社会もありはしない。隠し事をしてはいけないという建前が先に立てば、人間の本音は居場所をなくしてしまう。はたしてそれは、いいことなのだろうか。

トランスペアレントな社会からは、暴露も消える。隠し事がなくなれば、暴露することもなくなってしまう。隠し事のない息の詰まるような社会では、どんな事情も考慮されない。AI がすべてを明らかにし、説明できないことをなくしてゆく。

トランスペアレントな社会を作りだすテクノロジーには心がない。だから、真理や道徳を考えたり思ったりはしない。利益をもたらすことや、注目されることで、より多くの収益をあげる。テクノロジーによって現れたトランスペアレントな社会では「良い悪い」よりも「儲かる儲からない」が重要なのだ。

トランスペアレントな社会からは、プライバシーも消えてしまう。隠し事のない社会では、プライバシーを保とうとすれば隠し事をしていると言われ、まるで悪いことをしているかのように扱われてしまう。より多くのビッグデータを得るために、そしてまたシステムをより効率的に運用するために、プライバシーの放棄が勧められる。

人間という元来透明性の似合わない生き物に透明性を求めた結果、人間という不可解で非論理的・非合理的な存在は、行き場を失っている。監視され、自由を完全に失ってしまったのだ。トランスペアレントな社会は決していい社会ではない。

トランスペアレントな社会は、モラルやエシックスから生まれたものではない。世界中に人の数を越えて存在している IoT端末と、Google に代表されるインターネット検索と、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と、ブロックチェーンと、ビッグデータと、ブロックチェーンと、AI とかが、束になってトランスペアレントな社会を作り出している。

人は相変わらず隠し事をする。それが習性だと言わんばかりに隠し事をしたがる。ところが世界中の IoT端末とそれを繋ぐネットワークによって「いつ」「どこ」にいて「なに」をしたかが分かってしまう。インターネット上の情報は、高度に発達した検索で簡単に見つかる。自己顕示欲が強い人や承認欲求が強い人は、自分をアピールするため、人から認めてもらうため、そして人と繋がるために SNS に自分についての過剰な情報を載せるが、それもトランスペアレントな社会の広がりを助長している。関連した事実が時系列に並んでいるブロックチェーンを前にして「それは違う」と言える人はひとりもいないし、個人情報は守られているというビッグデータのなかにも関連情報は潜んでいる。そして AI が、バラバラの情報をあっという間にまとめ、どんなに隠したいことも白日の下にさらしてしまう。テクノロジーが隠し事を不可能にし、社会はどんどんトランスペアレントになってゆく。

誰もテクノロジーの進歩を止められないなかで、社会はますますトランスペアレントになり、隠し事をひとつも持てない恐ろしい世の中がやってくる。その先に待っているのは、何もしていないのに、そして何も言っていないのに、考えただけで、思っただけで、それが知られてしまう社会。なんと恐ろしいことだろう。

私はそんな社会はいやだ。そう思ってみても、社会はどんどん トランスペアレントになってゆく。人のいない山の中とか海辺とかに住んだとしても、個人は「透明社会」に絡めとられてしまう。

社会の流れから距離を置き、静かに暮らしたい。ビョンチョル・ハンの本を読んで、心からそう思った。

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タイの田舎の海岸の町で、まだ暗い浜辺に出て日の出を待つ。托鉢をする僧がひとり、歩いている。朝日の昇る気配がしてくる。途切れることのない波の音が心地いい。

托鉢僧には最新のテクノロジーなど関係ないだろうし、その目にはテクノロジーによる社会の変化など見えてはいまい。でもテクノロジーによる社会の変化は確実に起きている。

学校では、テクノロジーに囲まれて育っている子どもたちに、何も知らない大人たちが、テクノロジーを教える。そんなある意味滑稽な状況が、あたりまえのように見られる。

会社では、テクノロジーを使うことが日常になっている部下を前にして、テクノロジーをあまり利用したことのない上司が、テクノロジーについての決定をくだす。決定の意味のなさを部下たちが指摘しても、上司には何がおかしいのかがわからない。

変化があまりにも速いため、個人がそれについていけない。社会もついてゆけない。法律もついていけていないし、倫理はもちろんついていけていない。

テクノロジーの進化による社会の変化を放っておけば、混乱すら生まれず、「変化の先端にいる人たちだけが変化を享受し、変化に気づかない人たちが失い続ける」というアンフェアな状態が定着してしまう。

テクノロジーのアセスメントにもっと真剣にならないと、社会は変な方向に向かってしまう。いや、アセスしようとしまいと、変な方向に向かうことに変わりはあるまい。

そんなことは、テクノロジーが進化する前から見られていたというかもしれない。でも、今起きていることには、戻れないという特徴がある。不可逆的でない。もう戻れない。もう元のようにはならない。そう思うと、いま社会に起きていることが、ずっしりと重たく感じられるのではないだろうか。

(24)류시화『그대가 곁에 있어도 나는 그대가 그립다』

2024年5月31日(金)

君がそばにいても 僕は君が恋しい

今週の書物/
『그대가 곁에 있어도 나는 그대가 그립다』
류시화著、푸른숲、1991年刊

『君がそばにいても 僕は君が恋しい』
リュ・シファ著、蓮池薫訳、集英社クリエイティブ、2006年刊

韓国は詩の国といわれる。詩作が盛んで、詩の同人クループがたくさんあり、本屋に行けば詩集がたくさん並んでいる。韓国の詩に触れることが韓国の社会や文化を知る近道だと、多くの人が書いている。

キム・グァンソプ​(김광섭)とか ユン・ドンジュ(윤동주)といった戦前の詩人が書いた詩を読むのは、日本人である私には つらい。日本統治下で詩を書けば、日本の警察に逮捕される。ふたりの詩は、特に政治的なわけではない。それなのに、キム・グァンソプもユン・ドンジュも収監され、ユン・ドンジュは獄死している。

戦後の詩人はバラエティーに富んでいる。ナ・テジュ(나태주)は、抒情的な詩を書く。アン・ドヒョン(안도현)は、生活に根差した詩を書く。イム・ジェボム(임재범)は、詩をロックのバラードにのせる。イ・ユンハク(이윤학)は、些細なことを詩にする。そして リュ・シファ(류시화)は、強烈な印象を残す詩を書く。戦後の韓国に、ありとあらゆるタイプの詩人が溢れ出した。

それは キム・インユク(김인육)とか ハ・テワン(하태완)といった 若い詩人に受け継がれ、多くの詩集が出版される今日の「詩の国」韓国に続いている。楽しい詩も明るい詩も見られるが、その底には悲しさや苦しさや寂しさや怒りが流れ続けている。

そんな数多の韓国の詩人のなかでも、リュ・シファ(류시화)は、私のなかで特別なひかりを放っている。たったひとつだけのフレーズで、読む者を虜にする。長髪、サングラス、瞑想。そんなイメージとはかけ離れた言葉が、紙の上に並ぶ。

そう、今週は、そんな 류시화 が文字にした膨大な言葉のなかから一つの詩を選んで味わう。『그대가 곁에 있어도 나는 그대가 그립다』(류시화著、푸른숲、1991年刊)だ。日本語訳も『君がそばにいても 僕は君が恋しい』(リュ・シファ著、蓮池薫訳、集英社クリエイティブ、2006年刊)として出版されている。訳者の蓮池薫さんは色眼鏡で見られることが多いが、この訳を読むかぎり。真摯な人だと感じられる。

この詩集の題名にもなっている『그대가 곁에 있어도 나는 그대가 그립다』は強烈な詩だ。『君がそばにいても 僕は君が恋しい』、『Even Though You Are Next To Me I Miss You』、『Même si tu es à mes côtés, tu me manques』、『Хоть ты и рядом со мной, я скучаю по тебе』、『即使你在我身边,我还是想念你』。。。 何語に訳しても、その強烈さは失われない。

 물 속에는
 물만 있는 것이 아니다
 하늘에는 그 하늘만 있는 것이 아니다
 그리고 내 안에는
 나만이 있는 것이 아니다
  
 내 안에 있는 이여
 내 안에서 나를 흔드는 이여
 물처럼 하늘처럼 내 깊은 곳 흘러서
 은밀한 내 꿈과 만나는 이여
 그대가 곁에 있어도
 나는 그대가 그립다

 In the water
 It’s not just water
 There is more than just the sky
 And inside me
 It’s not just me.
  
 Who is inside me
 You who shake me from within
 Like water, like the sky, flowing deep inside me
 The one who meets my secret dream
 Even though you are next to me
 i miss you

 水のなかに
 水だけがあるわけではない
 空にはあの空だけがあるわけではない
 そして僕のなかに
 僕だけがいるわけではない
  
 僕のなかにいる人
 僕のなかで僕を揺さぶる
 水のように 空のように 僕の深いところを流れて
 秘密の僕の夢と出会う君
 君がそばにいても
 僕は君が恋しい

君がそばにいても 僕は君が恋しい。人を好きでいるときの感情をこれほど端的に表した言葉が、ほかにあるだろうか。

僕のなかにいる君。僕のなかを流れている水のように、僕のなかに広がる空のように、僕のなかにいて、僕を揺さぶり続ける君。僕の秘密の夢に出会う君。

류시화 の詩のなかの「君」は、류시화 の「君」ではない。読者ひとりひとりが「僕」であり「君」なのだ。

詩人は、読む人を、その気にさせる。류시화 の詩を読む人は、読むときに誰もが 詩人 になる。

詩が 韓国で ますます盛んになり、詩は 日本では 見向きもされない。それはいいことなのだろうが、ちょっと寂しい。

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류시화 の詩について、少しだけ書き加えたくなった。それは「あるもの」と「ないもの」のことだ。

私たちは、「あるもの」を、あってあたりまえと考えてしまう。「あるもの」があることが、どれだけ有難いことか。それを忘れてしまう。「あるもの」があることが、どれだけ運のいいことか、それを、류시화 が改めて考えさせてくれる。「ないもの」のことも同じ。失ったものについて嘆いたり、失うかもしれないと恐れたり、そんなことには意味がないと、気づかせてくれる。

家を失くした人は、家が恋しい。家を持っている人は、空き地の風が恋しい。恋人を失くした人は、恋人が忘れられない。恋人といる人は、自由が恋しい。人生では何も失われず、何も得られない。すべてはたぶん、空の野原に吹く風のようなものに違いない。

泣きながら、笑える日々を懐かしむ人がいる。笑いながら、いつか泣く日が来るのを恐れている人がいる。私は何のために生きていたのか。何のために生きなかったのか。

生きている人の多くは、死を恐れる。死にゆく人のなかには、早く死ねばよかったと思う人もいる。自由ではない人は自由を逃していることに気付かない。旅人のなかには、自由に疲れて道に倒れてしまう人もいる。

そしてなんといっても、류시화 の詩といえば、「あるもの」への感謝と思いやりだ。

雨が降ったとき、そして雨が止んだとき、君の前に立っていたい。木になりたい。君のまえで、ずっと緑でいたい。鳥たちを集めて、君と一緒に、沈む夕空を眺めていたい。

一度も傷つかなかったように 愛するといい.

そんなことを書きつらねる 류시화 は、いったいどんな暮らしをしているのだろう。いったいどんなふうに人を愛しているのだろうか。류시화 は普通の人だという。普通ということは、どんなに特別なことなのだろう。

詩人に会うことがあったら、馬鹿げたことを言ってみよう。詩人がどんな反応をするか。それを楽しむのも、悪くない気がする。

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最後に、류시화らしい言葉を。

새는 날아가면서 뒤돌아보지 않는다(鳥は飛びながら振り返らない)』から。

 나무에 앉은 새는 가지가 부러질까 두려워하지 않는다.
 새는 나무가 아니라 자신의 날개를 믿기 때문이다.

 A bird perched on a tree is not afraid of the branch breaking.
 That’s because the bird trusts its own wings, not the tree.

 木にとまった鳥は 枝が折れることを恐れない
 鳥は木ではなく 自身の翼を信じているから