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(38)Friedrich Nietzsche『Beyond Good and Evil』

2024年9月6日(金)

今の社会のモラルは奴隷のモラル

今週の書物/
『Jenseits von Gut und Böse』
Friedrich Nietzsche 著、1886年刊

『Beyond Good and Evil』
Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳
Penguin Classics、2003年刊

戦前は、護国の精神に富んだ忠良なる臣民を育成するのが教育の目的だった。臣民というのは天皇に従属する者のこと。建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるということで、教育勅語の精神に合致する教科書が使われた。また、中学校以上の男子校には現役陸軍将校が配属され、軍事教練が実施された。

そんな歴史のせいで、日本には今でもパブリックという考えがない。「Public Private」は「公私」と訳されはするが、その実態は「官民」であり、「Civil Servant」は公務員と訳されてはいるものの、「Civil Servant」として働く者たちの意識は相変わらず「官吏」であって、「国民に奉仕する」という考えは微塵もない。

国は国民のために存在するというのと、国民は国のために存在するというのとでは、意味合いがまったく違う。日本には今でも「お上」が存在していて、国民は「お上」の言うがまま。国の言うことには黙って従うし、警官や税務署員の理不尽に対しても従順だ。

学校での「いい子」といえば「言うことを聞く子」「言われた通りに行動する子」を指し、大人になって出来上がった「善良な市民」は、いつも正しく 温かい心を持ち、親切で 思いやりがあり、勤勉で どんな辛いことも耐え忍び、謙虚で 他人のために行動する。

日本の学校は奴隷養成所で、日本の社会は奴隷のような人間で溢れている。そんなことを考えているときに出会ったのが ニーチェの「Master–slave morality」と 忌野清志郎の「善良な市民」。「Master–slave morality」は まるで今の日本のことを言っているようだし、「善良な市民」は「小さな家で 疲れ果てて 眠るだけ」「新しいビールを飲んで 競馬で大穴を 狙うだけ」「飯代を 切詰めたりして Jリーグを 観に行くだけ」という具合で なんともせつない。

で、今週は「Master–slave morality」のことを書いた文章を読む。『Beyond Good and Evil』(Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳、Penguin Classics、2003年刊)だ。ニーチェは、1879年に体調を崩して大学を辞めてから、1989年1月に精神病院に入院させられるまでの10年ほどのあいだ、療養のために 夏はスイスのイタリア語圏の村で 冬はイタリアやフランスの海辺の町で過ごしたのだが、この本はそのあいだに書かれた一冊だ。

ニーチェは不思議な存在だ。多くの人が若い頃に出会い、あまり多くを読まずに、それぞれが勝手な解釈をする。「ルサンチマン」だの「ニヒリズム」だのと言って わけのわからないことをこねくり回す人は多い。でも、読まないのは もったいない。ニーチェは いろいろなことを違った視点から捉えるのがとてもうまいから、固定観念から自由になるのの助けになる。

『Beyond Good and Evil』の「Chapter IX   What is noble?」には、主人道徳(master morality)と 奴隷道徳(slave morality)という2つの道徳が出てくるのだが、その前提として 一方に高貴な人たち(権力者たち、貴族たち)がいて、もう一方には弱者たち(庶民、抑圧された人たち)がいるという社会がある。

主人道徳は、意志の強い者の道徳とされ、その道徳での「善」は 高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、ささいなものだという。高貴な人たちの道徳とはいえ、動物的・直截的で、かつ積極的・攻撃的だ。心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして価値に対する正確な認識が必要とされるというが、それは仲間内だけのことで、弱い者たちは眼中にない。

これに対し奴隷道徳は、弱い者たちの持つ道徳で、その道徳での「善」は コミュニティ全体にとって役立つもの、「悪」は 権力を握っている者たちのやることなすことだという。謙虚さ、慈悲、憐れみなどの感情は、強い者たちにはわからないと思っている。民主主義・自由・平等などは、奴隷道徳の政治的な表現だという。

とはいっても、書かれたのは日本でいえば明治時代だから、今とは何も比較はできないが、それでもいろいろ考えさせられる。日本とかアメリカとか、21世紀に民主主義・自由・平等などを掲げている国を、ニーチェは、奴隷道徳の国だというのだろうか? エヌビディアのジェンスン・フアンのようなビリオネアが奴隷道徳を身に着けていることを、どう説明するのだろう?

そんな疑問を考えるために、私たちの国である日本について考えてみよう。日本には、世界でもめずらしい『道徳教育』がある。教師は自らの信念を押し付けず、日本に昔からある道徳心に従うよう指導し、親や年長者を敬ったり、動物に優しく接したり、困っている人を助けたりすることの大切さを教えるのだという。

道徳教育の基盤は家庭にあるべきなのに、子どもは夕方から夜にかけてしか家にいないからといって、学校が代わりに道徳教育の役割を引き受ける。学校に行かない日が年間に170日もあるのだし、そもそも学校にいる時間の大部分は道徳以外の強化の授業に費やされるのだから、年に30時間にも満たない『道徳教育』をしたところで、たかが知れているのだが、この類のプロパガンダの子供への影響は思いのほか大きい。

その文部科学省が掲げる道徳教育だが、道徳的な心情、判断力、実践、態度などの道徳性を養うのが目的で、秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における協調性も含まれているという。なんのことはない、ニーチェの言うところの奴隷道徳の教育をしているのだ。

日本教職員組合(日教組)のウェブページに行っても、日本国憲法とか人権教育とかいった進駐軍が日本に押し付けたことが並んでいるだけで、掲げられている道徳がニーチェが書いた奴隷道徳であることは、文部科学省の道徳と何ら変わりがない。

要は、どんな立場にいるにせよ、今の日本人が道徳をイメージする場合には、ニーチェが説明した奴隷道徳しか頭に浮かばないということなのだ。日本には、主人道徳は悪だと考える人しか存在しない。まるで、みんなが(社畜とか皇民とかの)歯車の一部になったかのようだ。

考えてみれば、20世紀という国家の時代には、たとえそれが 軍国主義だろうが 民主主義だろうが 共産主義だろうが、個人の意思は認められない。

ニーチェが多くの文章を並べて言いたかった 主人道徳 における個人の意思を思い出してみよう。個人の意思はノーブルな(精神が高貴な)人間が持つものなのだ。ノーブルな人間は自分を価値を自分で決める。他人に承認を求めたりはしないで、自分で判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害で、悪なのだ。名誉を与えるのは自分だけ。価値の創りだすのも自分だけ。自分の中に認められるものは何でも尊重する。そのような道徳を持つものは今の日本には ひとりもいない。

主人道徳がいいと言っているのではない。主人道徳を持っている人がいないと言っているのだ。言葉を変えれば、ノーブルな人がひとりもいないということになる。そしてみんなが、そのことをいいことだと思っている。

何かに属していたり 金持ちだったりして 自分のことをノーブルだと勘違いしている人はいても、本当の意味で精神的にノーブルな人はいない。今の金持ちたちは、みんな卑しい。

今の状態から抜け出せないか? 奴隷道徳に覆われた社会のなかで 高貴な個人を獲得することはできないのだろうか? 自分の価値は自分で決め 自分のことは自分で判断する。そんな150年前にはあたりまえにいた「精神的に高貴」で「自分に誇りを持っている」人は、もう今の社会には現れないのか?

日本には、労働を強制されながら、そのことを自らの意志で働いているのだと考えている人たちが大勢いる。その誰もが、自分のことを奴隷だと思っていない。失業したら生きていけないと、上司の言うことに従い、長時間労働している人たちは、はたから見れば自由ではない。そんな人たちの過労死とか自殺とかが新聞紙上を賑わせるが、それはなぜなのか。その理由が、ニーチェの文章を読んでわかったような気がする。すべて奴隷道徳のせいなのだ。

自分の自由な時間を増やすことに罪悪感を感じ、逃げることをよしとしなければ、それはもう奴隷でしかない。そんなふうな人たちは、みんな、ニーチェの言う 奴隷道徳 の持ち主なのだ。

なにも 主人道徳 を持たなくてもいい。奴隷道徳 から解放されさえすればいいのだ。主人も奴隷も関係なく、国のため・会社のため・上司のためといった他人のためという発想を捨て、自分を否定せず、誇りを持って、自分のために生きる。それだけでいい。勤め人だろうが、自由業であろうが、奴隷道徳に染まらなければいいのだ。多くの人たちがそうすれば、社会はきっと もっと風通しのいいものになる。

ニーチェの著作を読むと、時代が違うせいもあって、そしてニーチェが病気だったせいもあって 反感を感じることが多い。でも考えさせられることが多々あり、個人の そして社会の 指針となることが少なからずある。少しだけでも、たとえ1章・1節だけでも読んでみるといいと、声を大にして言いたい。

(37)Patrick Süskind『Perfume』

2024年8月30日(金)

次は何が起きるんだろうと思わせる文章

今週の書物/
『Perfume』
Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳
Penguin Books、1986年刊

オフィスで電子機器に囲まれて多くの時間をすごしていれば、五感を意識することはあまりない。ところがスクリーン上の情報や書類、ミーティングなどから解放され、自然を意識して暮らしてみると、やたらと五感を感じる。

朝起きて雨戸を開け、朝の空気を感じる。朝のひかり、小鳥のさえずり、葉についた水滴、花の香り。そうしたものに囲まれて一日を始めれば、その日は間違いなく良いものになる。暑さ寒さを感じ、汗をかいたり凍えたりすることの、どれだけ気持ちいいことか、

そんな五感だが、目が見えなくなったり、耳が聞こえくなったりすれば、暮らしがむずかしくなる。痛みを感じなくなったり暑さ寒さを感じなくなれば危険だし、新型コロナに感染して味覚を失えば食べることや飲むことに支障がでる。逆に、見え過ぎたり、聞こえ過ぎたり、感じ過ぎたり、味覚が良過ぎたりするとどうなるか。

もうずいぶん前になるが、自らを「nez(ネ)」と紹介するフランス人の家を訪れたことがある。よくよく聞いてみると、香水の会社に勤める調香師で、匂いの専門家。パリとかニューヨークといった大都市は嫌な臭いでいっぱいで住むことができず、山に囲まれた田舎に住んでいるという。鼻がいいというのは、いいことばかりではないのだと、その時はじめて知った。

見えすぎも聞こえすぎも、人によっては困ることがあるのかもしれない。見えなくてもいいものが見えてしまったり、聞こえなくてもいい雑音が聞こえ続けるのはつらいだろう。舌が肥えて普通の食べ物がおいしく感じられないのはいやだろうし、高いワインしかおいしく感じられないなんて不幸でしかない。

五感の個人差は大きい。よく、人と動物とでは見ているものが違うという。人は目の前のものを色と形で見ているが、犬は通ることのできる道や座ることのできる場所を、蠅は照明と食器や食べ物を見ている。自分にとって重要なものしか見ていないのだ。

人も、自分が見たいものばかり見て、聞きたいものばかり聞いているのではないか。嗅ぎたい匂いばかりを嗅ぎ、好きな味の食べ物や飲み物ばかり選び取っているのではないか。自分の五感は、隣の人の五感と違う。そう考えると、五感というものがやけに魅力的に感じられる。

五感についての文章は多い。視覚に訴える文章が写真や映像を超えるのは難しいし、聴覚に訴える文章が実際の音や録音の再生を超えるのも難しい。触覚を表現する文章にはあまりお目にかからないし、味覚を表現する文章には陳腐なものが多い。

嗅覚に関する文章は昔からあり、源氏物語の匂宮の「また人に 馴れける袖の 移り香を わが身にしめて 恨みつるかな」なんていう歌を持ってくるまでもなく、平安時代の歌の世界は人の香りや花の香りであふれている。

で今週は、匂いに特化した小説を読む。『Perfume』(Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳、Penguin Books、1986年刊)だ。とても特異な作品だ。

この小説は、最近の商業的な小説に見られるような勢いよく一気に書かれたものとはまったくといっていいほど違う。18世紀のフランスのこと、そして匂いのことなどが、じつに見事に描かれている。作者はミュンヘンとエクス・アン・プロヴァンスで中世史と近代史を学び、パリとミュンヘンで ラジオの脚本や小説を書いていた。その経験がこの一冊に凝縮している。

まず驚くのが、18世紀のフランスの汚なさだ。人々は不潔で、街は悪臭を放っている。登場人物の匂いは、臭いと書いたほうがいいものが多く、体の匂い、汗の匂い、仕事に関連した匂い、住環境に関係する匂い、そして新鮮な花の香りやアロマの香りなどが詳細に描かれ、どのページからも匂いが漂ってくる。

パリの中心部の露店市場で魚を売っていた主人公の母親は、赤ん坊を産み落とすと、すぐに赤ん坊を魚の頭や尻尾と共にゴミのなかに捨てた。ゴミの中から見つけられた主人公からは匂いがしなかった。そんなふうに始まる小説からは、本当に匂いがしてくる。

また、母親が生まれたばかりのグルヌイユを殺そうとする最初から、グルヌイユが死ぬ最後まで、死が身近なものとして描かれていることにも驚く。18世紀のフランスの社会は、現代から見ればはるかに暴力的で、貧しい。それなのに、誰もがそんな社会をあたりまえのこととして受け入れてくる。

さすがラジオの脚本を書いた人だと感じるのが、「次は何が起きるんだろう」と思わせるところだ。たとえば、主人公のグルヌイのがある日、通りで、これまで嗅いだことのない香りを感じ取る場面。まだ嗅いだことのない極上の匂いに気付き、その匂いを追ってゆくところは、圧倒的だ。

さまざまな匂いが混じりあったパリの通りを、いい匂いがしてくるほうに向かってゆく。街の臭いに圧倒され、時にいい匂いの方向を失いながら進む。読みながらグルヌイユを応援している自分に気付く。やがてグルヌイユは、そのいい匂いのもとにたどり着く。その匂いが、赤毛の少女が発する香りだったということがわかる。そして、グルヌイユは、匂いを得るために少女を殺す。この殺人は唐突だ。

そこからのグルヌイユの人生は、苛酷だ。至高の匂いを手に入れようとする人生。香水屋に雇われて香水の調合を覚え、どんな香りでも作り出すことができるようになったグルヌイユは、パリを出て南に向かう。人に嫌悪感を感じたグルヌイユは、文明を避け洞窟で暮らす。野生の植物と動物とで生き延び、7年後に洞窟を出る。モンペリエでは、まわりにある手に入るものから自分の匂いを作り出し、その匂いを纏うことで他人から受け入れられる。

匂いのしない他人に嫌われる人間から、いい匂いのする他人に好かれる人間に変わることに成功したグルヌイユは、匂いを味方につけることで、侯爵の庇護を得るなどするが、人がいかに簡単に騙されるかを見て、人に対する憎悪感は軽蔑に変わる。そのあたりの感情は、作者自身の感情が書かれているのではないかと思うほど、見事に書かれている。

その後グルヌイユは、どうしたら自分が作り出した香りを閉じ込めて保存することができるかを知るために、グラースに向かう。グラースでは、24人の若い女性を殺し、人の香りを保存する方法を身に着け、最後にパリで殺した少女と同じ匂いを持つ少女を殺してその香りを閉じ込めることに成功する。

殺害容疑で警察に逮捕されたグルヌイユは死刑を宣告されるが、町の広場で処刑される直前に、少女の匂いから作った新しい香水を撒く。その香りはすぐに群衆を畏敬と崇拝の念で魅了し、有罪の証拠はそろっているのに、人々はグルヌイユの無実を確信し、判事は死刑判決を覆し、釈放を決める。このあたりの書き方は、秀逸だ。

人々は匂いによって狂い、欲望に包まれ、全員が集団乱交に参加するが、その後誰もそのことを口にせず、覚えている者はほとんどいない。捜査が再開され、グルヌイユの雇い主が犯人ということで絞首刑に処せられ、街は平穏を取り戻す。

グラースでの経験は、グルヌイユに人に対する憎悪感と軽蔑とを再認識させ、パリに戻って死のうという気持ちをもたらす。生まれた場所にたどり着くと、極上の香水を自分ふりかける。まわりにいた人々は香りに惹かれ、グルヌイユに集まってきて、バラバラにして食べてしまう。

パリの墓地の隣の魚市場で生まれ、オーベルニュでの洞窟生活を経て、グラースでの少女連続殺人と広場での奇跡、そしてパリに舞い戻ってのグルヌイユの昇天まで、まるでイエス・キリストの生涯をなぞったかのような物語なのだが、感情の欠如と倒錯ととらえられかねない行動とがイエス・キリストとの比較を拒む。でも、人々の心を満たす絶対的なものをつくりだした点は同じだし、愛のない孤独に耐えていた点もそっくりだ。

目的を達成しても空虚で、幸せは見つからず、死へ向かう。人から匂いを奪うために必要なテクニックをマスターし、人の匂いをまわりのものから作り出すこともできるようになったグルヌイユにとって、少女の匂いを手に入れたいという欲望が、殺人になってしまった。欲望はいつもおそろしい。

(36)谷崎潤一郎『鍵』

2024年8月23日(金)

見られるための日記

今週の書物/
『鍵』
谷崎潤一郎 著
中央公論社、1957年刊

 

代々木に『手帳類図書室』なるものがあるという。日記や手帳の目録に、書いた人の年齢、性別、職業、書かれた時期、読みどころ、持ち込まれた経緯などが書かれていて、気になったものを一度に3冊まで持ってきてもらい、読むという仕組みらしい。読みながら感じる後ろめたさは相当なものだという。

他人に見せることなど考えずに書かれたものには、遠慮や忖度がない。日記や手帳を読んで、書いた人のことを想像するのが楽しい人もいるだろう。ただ、覗き見るのが楽しいからといってむやみに覗き見をすれば、犯罪になってしまう。

イギリスの俳優 アラン・リックマン(Alan Rickman)の日記『Madly, Deeply: The Alan Rickman Diaries』(Alan Rickman著、Canongate Books、2022年刊)が出版され話題になったのは記憶に新しい。日記という私的なものが公開され出版されれば、日記のなかに書かれた人たちに思いもよらぬ影響が及ぶ。

「ニルヴァーナ」のカート・コバーンの日記『Kurt Cobain: Journals』(Kurt Cobain著、Penguin、2003年刊)の出版の時もそうだったのだが、未亡人が「亡き夫のことをもっとよく知ってほしい」などと思ってしまえば、有名人の日記は公開され出版されてしまう。

当の本人が望まなかったとしても、もう死んでしまっているので何も言えず、出版関係者が儲け話をみすみす逃すわけもなく、そこに書かれている人たちへの影響など考えられることもなく、すべてが皆に知られてしまう。

日記の出版は、ある意味、犯罪だ。そう思ってみたものの、そもそも日記が「読まれないこと」を前提に書かれたものなのかという疑問に突き当たる。覗き見て秘密を知りたい人もいれば、秘密を覗き見られたいという人もいるのではないか。

で今週は、そんな日記のことを考えさせられる小説を味わう。『鍵』(谷崎潤一郎 著、中央公論社、1957年刊)だ。

「漢字とカタカナで書かれた夫の日記」と「漢字とひらがなで書かれた妻の日記」が交互にあらわれることで物語が進んでゆく。ひとつの段落が長く、漢字とカタカナの夫の日記は《(コト)》などという表記もあって読みにくいのだが、それでも書かれてあることが面白く、先へ先へと読み進む。

夫は妻への思いを日記に書き、それを机のなかにしまい、鍵をかける。それでいて、妻に見て欲しい気持ちもある。妻は、夫を半分は激しく嫌い、半分は激しく愛している。その妻も日記を書いているが、夫に読まれることを恐れている。

はじめのほうの妻の日記の一部を引用するだけで、ねじれた心がわかるだろう。

三ガ日の間書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしにはいったら、あの水仙の活けてある一輪挿しの載っている書棚の前に鍵が落ちていた。それは全く何でもないことなのかも知れない。でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落しておいたとは考えられない。夫は実に用心深い人なのだから。そして長年の間毎日日記をつけていながら、かつて一度もあの鍵を落したことなんかなかったのだから。………私はもちろん夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけていることも、そしてその鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨緞の下に隠していることも、とうの昔から知っている。しかし私は知ってよいことと知ってはならないこととの区別は知っている。私が知っているのはあの日記帳の所在と、鍵の隠し場所だけである。決して私は日記帳の中を開けて見たりなんかしたことはない。だのに心外なことには、生来疑い深い夫はわざわざあれに鍵をかけたりその鍵を隠したりしなければ、安心がならなかったのであるらしい。………その夫が今日その鍵をあんな所に落して行ったのはなぜであろうか。何か心境の変化が起って、私に日記を読ませる必要を生じたのであろうか。そして、正面から私に読めと云っても読もうとしないであろうことを察して、「読みたければ内証で読め、ここに鍵がある」と云っているのではなかろうか。そうだとすれば、夫は私がとうの昔から鍵の所在を知っていたことを、知らずにいたということになるのだろうか? いや、そうではなく、「お前が内証で読むことを僕も今日から内証で認める、認めて認めないふりをしていてやる」というのだろうか?

人はなかなか本当のことを言わないし、また書かない。ただ日記のなかには。他人に言えないことを書く。ところが、それが読まれると思えば、書くことはゲームの一部になる。

日記のなかには、夫と妻の他に、夫婦の娘と夫の後輩が出てくるのだが、夫は妻のことだけが、妻は夫のことだけが気にかかっていて、娘や後輩は、夫婦のためにいるかのようだ。

終わりのほう妻の日記の気になったところも引用しておく。

夫は二月二十七日に、「ヤッパリ推察通リダッタ。妻ハ日記ヲツケテイタノダ」と云い、「数日前ニウスウス気ガ付イタ」と云っているけれども、実際はよほど前からハッキリと知っており、かつ内容を盗み読みしていたものと思う。私もまた、「自分が日記をつけていることを夫に感づかれるようなヘマはやらない」―――「私のように心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向って語って聞かせる必要がある」―――などと云っているのは、真赤な嘘である。私は夫に、私には内証で読んで貰うことを欲していた。「自分自身に向って聞かせ」たかったことも事実であるが、夫にも読ませることを目的の一つとして書いていた。では何のために音のしない雁皮紙を使ったり、セロファンテープで封をしたりしたかといえば、用もないのにそういう秘密主義を取るのが生来の趣味であったのだ、というよりほかはない。この秘密主義は、私のことをそう云って嗤う夫にしても同様であった。夫も私も、互いに盗み読まれることは分っていながら、途中にいくつもの堰を設け、障壁を作って、できるだけ廻りくどくする、そして、相手が果して標的へ到達したかどうかを曖昧にする、それが私たちの趣味であった。私が面倒な手数を厭わずセロファンテープ等を使ったのは、自分だけでなく、夫の趣味に迎合するためでもあった。

この夫婦は、似ていないようで似ている。不思議なことに、同じゲームのなかにいる。夫は日記に自分の欲望を書いてそれを妻に覗き見されることを願い、妻は妻で日記に夫の期待に添うというようなことを書く。それはまるでお互いをけん制し合うかのようで、普通ではない。谷崎潤一郎と松子夫人の関係はいったいどんなだったのだろう。そんな想像をするとき、読者は谷崎潤一郎の手のなかに落ちている。

谷崎潤一郎の最後まで読者を離さない技量には恐れ入る。たとえ女の気持ちがうまく書けてないとしても、男から見た妄想のなかの女はうまく書けている。でもそれにしても 変な作家の 変な作品だと 心から思った。

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追記: 余計なことだが、私は『陰翳禮讚』や『文章読本』のような作品が好きだ。そこで描かれるな美や美意識に惹かれて好きになった。ところが谷崎潤一郎の他の作品を読んでみると、その多くは松子と出会ってから育まれた歪んだ美や美意識で貫かれていて、どうも好きになれない。『鍵』もそのなかのひとつだ。ただ不思議なことに、好きになれないのに引き込まれてしまう。何度も最後まで読んでしまう。なんとも厄介な作品に出合ったものだ。

(35)井上靖『孔子』

2024年8月16日(金)

作家の最後の小説

今週の書物/
『孔子』
井上靖著、新潮文庫、1995年刊

過去を教訓として受け取る態度は古くからあり、日本のような島国においては文献は重要な役割を担っていた。

4世紀に「道教」が、5世紀に「儒教」や「陰陽五行」が、6世紀に「仏教」が大陸から伝来するのだが、その際にも文献は重要な役割を果たした。

伝来した文献がどのようにしてもたらされたのかは不明だが、どの文献も当時の日本の人々にとって有難いものだったに違いない。

4世紀に伝来した「道教」は、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術を重ねたようなものだったようだが、老子がいつ頃に生きていたのかさえわからなかったのだから、その成り立ちは想像に任せるしかなかっただろう。

5世紀に伝来した「儒教」は、孔子の死後にまとめられた思考や信仰・礼法の体系といってよいだろう。伝来した時点で 孔子が生きていた時代から千年近く経っていたから、文献以外に孔子のことを知る術はなかったに違いない。

6世紀に伝来した「仏教」も、釈迦の死後にまとめられた思考や信仰・礼法の体系と考えられ、「仏教」より「仏法」とか「仏道」のほうがしっくりくる。伝来した時点で 釈迦が生きていた時代から千年以上経っていて、文献以外に釈迦のことを知る術がなかったのは同じだ。

ウィキペディアの『歴史学』のページに、「歴史とは過去の事実を文献などを用いて収集し、編纂したものである」という記述がある。その記述に従えば、「道教」も「儒教」も「仏教」も、みんな歴史だと言えなくもない。

どんなに優秀な歴史学者が何を書いたところで、その信憑性は低い。なぜそう言い切れるかといえば、それは私たちが「文献の信頼性が極めて低い」ということを知っているからだ。「文献は権力者によって都合よく書き換えられる」というのが私たちの常識になっている。

戦争があれば勝者に正義があり、敗者に正義はない。権力闘争に勝ち抜けばいい人で、負けてしまえば悪い人。そんな例を、私たちはあまりにも多く知ってしまった。

過去のことを書こうとすれば、それは学者の手を離れるしかない。正しく書くことが不可能だと知れば、過去のことは小説家に任せるしかなくなる。

小説家は、自分が書きたいことを登場人物に投影させ、歴史を書くフリをしながら想像を広げてゆく。読み手も、歴史を読むフリをしながら想像を広げる。

歴史小説の多くは、事実というくびきから解き放たれ、誰も違うと言えないのをいいことに、登場人物が生きいきと行動する。当然面白い。

で今週は、井上靖が書いた「歴史」を読む。『孔子』(井上靖著、新潮文庫、1995年刊)だ。井上靖の最後の長編で、病室のベッドの脇の床に置いた机を前に書いたという。『孔子』は、孔子のことを書いたようでいて、井上靖が書きたかったことを書いた小説だと考えていい。

私は井上靖の詩が大好きだ。その詩はどれもフェルナンド・ペソアの詩に似ている。「詩というよりも、詩を逃げないように、閉じ込めてある小さな箱のような」言葉のつらなり。「ふと、心にひらめいた影のようなものや、外界の事象の中に発見した、小さな秘密の意味が、どこへも逃げ出さないで言葉の漆喰塗りの箱の隅の方に、昔のままで閉じ込められてある」大事なもの。井上靖は生きているあいだずっと詩人だった。

詩を書き続け、『楼蘭』『風濤』『天平の甍』を書き、『蒼き狼』『敦煌』『おろしや国酔夢譚』を書き、『風林火山』『淀どの日記』『本覺坊遺文』を書き、『額田女王』『氷壁』『しろばんば』を書き、『幼き日のこと』『あすなろ物語』『わが母の記』を書き、ほかにも膨大な量の虚を書いた。

それがどれだけの虚であるかは、『シルクロード紀行(下)』の解説として、長男の井上修一が「旅の父」という題で書いている。

旅行から帰った後、作品となって現われるそこここのシルクロードの風物は、私の目に映った現実の光景とは多くの場合異なっていた。父の想像力による意味付けと糖衣がなされ、実際よりも美しいことが多かった。よく言えば現実の奥に潜む悠久の真理が描かれているということかもしれない。しかし悪く言えば現実は父の史的イメージを造形するためのマテリアルになってしまっていた。
父は目前の現実社会に対しては通りすがりの旅行者としての立場を捨てようとはしなかった。それ以上の関心がなかったのである。たしかに取材やメモは克明にした。しかし長年思い続けてきた地に初めて足を踏み下ろした父は、自分の作り上げたその土地のイメージから外に出ようとしないように見えた。思いが強すぎるから、目の前の現実にまで注意が及ばないといった風であった。
父は多くの場合、日常的現実を体験する必要を感じていなかった。いつも何らかのフィルター越しに見て満足していた。
父の人生は極論すれば形而下の現実を完全に切り捨てたものである。人生も文学も現実を犠牲にしてはじめて可能になる類のものであった。その意味からすれば旅先のホテルの中に身を置き、ホテルの窓から下の町を眺めている父の姿は、案外父の本当の一面を表していたのかもしれない。

そんな井上靖が、ありとあらゆる虚を書いたあとで、晩年に書きたかった大きな虚とはいったい何だったのだろう。

そう思って『孔子』を読むと、大きな虚のトリックが見えてくる。孔子の弟子は3000人いたと伝わっているが、70人が「七十子」として歴史に刻まれ、そのうち特に優れた高弟は才能ごとに四科に分けられ四科十哲と呼ばれている。それを井上靖は、顔回、子貢、子路の 3人に単純化している。

閔子騫、冉伯牛、仲弓といった徳に優れた人たちのことは顔回が、宰我をはじめとする実務に優れた人たちのことは子貢が、冉有をはじめとする政事に優れた人たちのことは子路が、それぞれに代表している。子游や子夏のような学問に優れた人たちのは見事に省かれている。

この単純化と省略とが、読む側を楽にする。名前にまどわされることなく、まるで顔回、子貢、子路だけが弟子であったかのような設定は、伝えたいことを明確化するのにとても役に立っている。

もうひとつのトリックは、蔫薑という架空の人物を中心に据えたことだ。13年にわたる諸国巡遊の旅の一部始終を知っている人などいるはずもないのに、下働きをしながら一行についていった蔫薑という人物を置き、井上靖は自分の理解や想像をその蔫薑に語らせている。

そう、『孔子』は、井上靖の思いを綴った小説なのだ。孔子のことを書いた小説と思う人には「失敗作」と映るかもしれないが、この小説を詩作の延長と捉えれば、成功でも失敗でもない。思いには成功も失敗もないのだ。

そう考えれば、顔回の描かれ方にも納得がいく。顔回は、顔回その人ではなく、井上靖の顔回なのだ。問題を抱えた人たちが解決を求めてやってくる。子貢も子路もそれなりの解決策を提示するのだが、訪ねてきた人の顔は晴れない。顔回は何の解決策も提示できないのだが、訪ねてきた人の顔は明るく輝く。井上靖が書きたかったことは、あまりにも明らかだ。

例えば以下のようなくだりがある。

人間は常に正しく生きるということを意図しなければならぬ。天が応援してくれるか、妨害するか、そうしたことは一切判らないが、ともかく、人間はこの地上に於て、正しく生きることを意図し、それに向って努力しなければならないのである。そうした人間を、必ずや天は嘉してくれるに違いない。 “嘉す” とは、天が “よし” として下さることである。
天が嘉してくれるというのであれば、人間としては、それでいいではないか。それ以上のこととなると、天にしても、手が廻りかねるというものである。天の下、地の上、そこでは四時行われ、万物生じている。四季の運行は滞りなく行われ、万物はみな、次々に生れ、育っている。
天の受持たなければならぬ仕事はたいへんである。それ以上のこととなると。天にしても手が廻りかねる。人間が天に対して、何を望み、何を期待しても、無理というものである。

これは孔子の「天、何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天、何をか言うや」という言葉についての(つまり天命とは何かということについての)井上靖の理解であり、世界観の反映である。深夜に仁和寺の楼門の前に立つ井上靖が浮かんでくるではないか。

井上靖は蔫薑の口を借りて自分の思いを語り続ける。

今思うに、子はいつも、人間のことばかりお考えになっておられました。人間の倖せについて、不幸について、そして人間が、特にこの乱世に生まれ合わせた人間が少しでも倖せになるには、どうすればいいか。人間が不幸になるのを防ぐには、どうすればいいか。いつでも、子はこの地球上に生まれて来た人間というものについて、その倖せな生き方、生き甲斐ある生き方について考えておられました。人間、この世に生まれてきたからには、いかなる時代であろうと、倖せになる権利がある。そのようなお考えが、あらゆる子のお考えの根元に座っていたか、と思います。

そして仁とは何かに答えを与える。

『仁』とはすべての人間が倖せに生きてゆくための、人間の人間に対する考え方であります。「まこと」、「まごころ」、「人の道」、・・・ いろいろ、どのようにも名づけられましょうが、要するに、人間はお互いに相手をいたわる優しい心を持ち、そしてお互いに援けあって、この生きにくい乱れに乱れた世を、やはりこの世に生まれてきてよかった、と思うように生きようではないか。そういう考えが『仁』であります。

天命とは何か、仁とは何か、そんなことを書いてしまえば、もう何も書くことはないだろう。若い頃に京都の等持院に下宿し、龍安寺から仁和寺まで散歩しながら思索に耽った井上靖がたどり着いた場所に『孔子』という本は似合っている。そう考えると『孔子』という文庫本が特別のひかりを放っているように見えてくる。

(34)アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』

2024年8月9日(金)

西のほうから 理解不能な人たちが 襲ってきた

今週の書物/
『Les Croisades vues par les Arabes』
Amin Maalouf 著、
éditions Jean-Claude Lattès (1983), J Ai Lu Editions (1999/2023)

『アラブが見た十字軍』
アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳
リブロポート、1986年刊/ちくま学芸文庫、2001年刊

何のせいか、最近「西欧の視点が世界を覆っている」と感じることが多くなってきた。アメリカを含めた西ヨーロッパの視点が正しいとされ、それ以外の視点は正しくないとされる。私たちはそんな世界に生きているのではないか。少なくとも日本は、そんな場所になってしまったのではないか。

世界は広い。だから西欧の視点を否定する人たちは多い。中国やロシアの人たちはもちろん、東欧や中東の人たちのなかには、西欧に対する複雑な感情があるように思う。それは否定する気持ちであり、憧れでもある。

感情が複雑になれば、西欧の視点への対処の仕方も複雑になる。デモクラシーというやり方に賛成しながら 内心はそれがいいものとは思っていなかったり、人権という価値が普遍的だと言っていても 内心ではそうは思っていなかったりする。

アフリカや東南アジア・南アジアの国々の指導者たちの多くは(そして富裕層の人たちの多くは)アメリカ・西ヨーロッパの教育を受けていて、西欧の視点を否定する気持ちはあまりないかもしれない。でも、そういう国々の民衆のほとんどは否定の気持ちを持っている。

日本ではあたりまえのようにウクライナを支援する空気が社会を覆っているが、そんな空気があたりまえでない場所は多い。西欧の視点を否定する人たちには、それなりの論理がある。

非西欧側の視点を持つ人の数は、地球上で間違いなく多数派を占めている。その人たちの論理を軽んじていると、いつか大きなしっぺ返しにあうのではないか。そういう問題意識を持ってインターネットに接してみると、驚くほど多くの非西欧側の視点で書かれたウェブページが出てくる。

読んでみると、書いてあることの切実さに打たれる。私たちがあたりまえと思ってきた西欧の視点のおかしさや さまざまな不条理に気づくのだ。

そう、今週は、そんな非西欧側の視点で書かれた代表的なエッセイを味わう。『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳、リブロポート (1986年刊)/ちくま学芸文庫 (2001年刊))だ。『Les Croisades vues par les Arabes』(Amin Maalouf著、éditions Jean-Claude Lattès (1983) / J Ai Lu Editions (1999/2023))の日本語訳で、翻訳作業を想像するだけで訳者たちには頭が下がる。

この本を読み始めたのは はじめてではないが、最後まで読んだのは はじめてで、おかげで「終章 アラブのコンプレックス」のなかの「十字軍が残した傷跡」で素晴らしい文章に出会うことができた。

Alors que pour l’Europe occidentale l’époque des croisades était l’amorce d’une véritable révolution, à la fois économique et culturelle, en Orient, ces guerres saintes allaient déboucher sur de longs siècles de décadence et d’obscurantisme. Assailli de toutes parts, le monde musulman se recroqueville sur lui-même. Il est devenu frileux, défensif, intolérant, stérile, autant d’attitudes qui s’aggravent à mesure que se poursuit l’évolution planétaire, par rapport à laquelle il se sent marginalisé. Le progrès, c’est désormais l’autre. Le modernisme, c’est l’autre. Fallait-il affirmer son identité culturelle et religieuse en rejetant ce modernisme que symbolisait l’Occident ? Fallait-il, au contraire, s’engager résolument sur la voie de la modernisation en prenant le risque de perdre son identité ? Ni l’Iran, ni la Turquie, ni le monde arabe n’ont réussi à résoudre ce dilemme ; et c’est pourquoi aujourd’hui encore on continue d’assister à une alternance souvent brutale entre des phases d’occidentalisation forcée et des phases d’intégrisme outrancier, fortement xénophobe.

という一節だ。日本語訳は、

 西ヨーロッパにとって、十字軍時代が真の経済的・文化的革命の糸口であったのに対し、オリエントにおいては、これらの聖戦は衰退と反開化主義の長い世紀に通じてしまう。四方から攻められて、ムスリム世界はちぢみあがり、過度に敏感に、守勢的に、狭量に、非生産的になるのだが、このような態度は世界的規模の発展が続くにつれて一層ひどくなり、発展から疎外されていると思いこむ。
 以来、進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶して、その文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に、自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として進むべきか。イランも、トルコも、またアラブ世界も、このジレンマの解決に成功していない。そのために今日でも、上からの西洋化という局面と、まったく排外的で極端な教条主義という局面とのあいだに、しばしば急激な交代が続いて見られるのである。

というものなのだが、この一節が この本の結論だと言えなくもない。西洋が絶え間ない侵略のあとムスリムは見事に立ち直って、オスマントルコの旗のもと、ヨーロッパの征服に出かけるまでになる。だがそれは、うわべにすぎなかったと アミン マアルーフ は書く。

なぜこんな結論めいたことを先に書くのかというと、読み進むうちに混乱していったからだ。渇き、飢え、大軍、同盟、合戦、勝利、惨敗、攻撃、襲撃、突撃、守備、防衛、自衛、死守、内紛、陥落、出陣、奮戦、抵抗、寛容、残虐、惨劇、復讐、圧勝、捕縛、奇襲、夜襲、戦死、陰謀、暗殺、処刑、略奪、攻略、滅亡、壊滅、消滅、公正、完全、待伏せ、裏切り、人殺し、人殺し、人殺し。くらくらしてくる。

「ひとつひとつの戦闘に勝つということと 長いあいだの争いに勝つということとは、あまり関連ないんじゃないか」「社会が活性化するか 衰退するかも、戦いにはあまり関係ないのではないか」というような疑問は、読んでいるうちに消えるどころか、膨らみ続けた。

フランクに狙われたのはエルサレムだけではない。普通の街が狙われる。狙われた街の人たちには、なぜ襲われるのかがわからない。襲う側には異教徒の殲滅というという理由があるのだが、襲われる側にはそんな理由は想像もつかない。

フランクがやって来るまでは、侵略には領土拡張という明確な理由があった。侵略する側にも 侵略される側にも、民間人をむやみに殺さないとか、抵抗しない者に暴力をふるわないといった暗黙の了解があった。そんな暗黙の了解など持たないフランクの侵略は、災害でしかなかった。

正義という言葉があるが、そんな言葉はフランクを前にしたとき、ただただむなしい。読んでいて、すっきりしないのだ。

「国が細分化され、互いに争っている」という状態ほど、読者をいらいらさせるものはない。隣国を助けるとか、協同してことにあたるとかいう発想が、誰にもないのだ。「隣国が弱くなることは、いいことだ」と みんなが思っているところに攻め入るのは、そう難しいことではない。

フランクという災害は、繰り返しやってくる。忘れたときに再びやって来るというのは、自然災害に似ている。防ぎようがないというところも、自然災害のようだ。

災害に遭った記憶が地域全体に共有されると、フランクを過大評価して恐れたり、必要以上に用心深くふるまうようになる。侵略が 100年・200年と続いたとき、地域の人たちの記憶がどのようなものになっていったのか、地域の人たちにどんな影響を与えたのか、そんなことを考えていると、この本一冊ではなにも見えてこないように思えてくる。

人権や民主主義などといった理想が戦争の正当な理由として認められるならば、十字軍のようなものまでが正当化されてしまう。理想のための戦争は十字軍的なものとして否定されるべきだと思い知らされる。そんなふうに、読んでいるときに自然といまのことに思いが飛ぶ。

フランクの侵略がなければ、いまの シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルといった国々の混乱はなかっただろう。そう考えるとき、フランクの侵略を災害に例えるのは、どこか違っていると感じる。

侵略した側の責任とともに、侵略された側の責任も大きいと気づいた。そんな読書だった。侵略された側のメンタリティーは、どこかいまの若い日本人のメンタリティーに通じるものがある。日本はいったい何に侵略されたのだろう。

(33)尾関章『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』

2024年8月2日(金)

科学記者の視点

今週の書物/
『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』
尾関章著、岩波現代全書、2013年刊

もう30年近く前のある日、ジュネーブ国際機関日本政府代表部のパーティで、今年6月5日にお亡くなりになった駒宮幸男さんが「先輩!」といって声をかけてきた。駒宮さんとは同じ中学でサッカーボールを蹴りあった仲なのだが、お会いするのは中学卒業以来はじめてで、よく気がついてくれたものだ。

話してみると、駒宮さんは東大の教授で、欧州原子核研究機構 (CERN) の加速器で素粒子物理の実験をしているチームを率いているという。住んでいる村が私の住む村からほど近く、子どもが同じ日本語補習校に通っていたこともあって、家族ぐるみの付き合いが始まった。サッカー日本代表のはじめてのワールドカップの試合「日本対アルゼンチン」を見に行ったりもした。

そんな駒宮さんが、ある日「先輩と経歴が似ている人が会いに来るんだけれど、一緒に食事をしないか」というので、ランチの時間に CERN にほど近いピザ屋まで出かけて行った。そこでお会いしたのが尾関章さん。朝日新聞の科学部の記者で、駐在先のロンドンから駒宮さんのところに取材に来ていたのだ。

尾関さんとの会話は、あいだに入った駒宮さんが困ってしまうほど、かみ合わなかった。どうも同じ学年らしい。同じ大学で物理を勉強していたらしい。話をするうちに同じ高校を卒業していたことがわかり、さらに話をしていると同じ研究室だということがわかる。それなのに「はじめまして」という感じなのは、どう考えてもおかしい。

その後、尾関さんとは、1回だけ、東京で夕食をご一緒させていただいた。私から誘い、誰かもう一人いたように記憶しているが、それが誰だったのかは定かでない。どこでお会いしたのかも、何を話したのかも、覚えていない。

生まれてから大学まで生活圏が重なっていて、高校も大学も一緒。それなのに会ったのは2回だけ。そんな浅い縁の尾関さんと私だが、尾関さんの書評のブログを読むうちに 私は一方的に尾関さんのファンになった。尾関さんの書評にコメントを書き込んだのも、一度や二度ではない。

で今週は、尾関さんが書いた正統派の一冊を読む。『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代全書、2013年刊)だ。この本は題名のとおり、日本の科学ジャーナリズムのあり方を問い、分かり易さ一辺倒の「啓蒙型」から科学記者自身が発言する「批評型」への転換を提言している。

この本が出版されたのは2013年。当然ながら、2011年3月11日の東日本大震災が重くのしかかっている。報道に対する信頼感が揺らぎ、科学技術そのものに対する信頼感が薄れてゆくのを、尾関さんは他人事として感じることができなかったのだろう。科学技術報道が、なぜ時代の流れを見落としてしまったのか。その要因を科学技術報道の歴史のなかに探ろうとしている。

核の平和利用の機運の高まりと機を一にするかのように、1956年に科学技術庁が設置され、1957年には国際原子力機関 (IAEA) が発足したのだが、各新聞社の科学部もその頃に生まれている。当然ながら取材の中心は科学技術庁でありメインテーマは原子力であったという。新聞社の科学部は、いつも国策とともにあり、記事の偏りにつながったというのだ。

新聞の一般読者の新しい科学や技術に対する関心の低さは、そんな新聞社の科学部のせいだと言わんばかりだ。社内の編集担当部門は基礎科学に冷淡で、読者が喜びそうな夢とロマンの科学報道を追い求め、毎年のノーベル賞フィーバーを生んでいるという。遺伝子のことをもっと掘り下げていたらというような自戒が書かれる。

そんな反省からか、尾関さんは「啓蒙から批評へ」という提言にたどり着く。もしも日本の科学報道が批評啓蒙型でなく批評型だったなら、技術は弱者にもっと寄り添ったものになり、科学はもっと多くの人びとの関心の的になり、科学技術政策も違うものになっていたのではないか。そんな夢が書かれている。

批評型の新しい科学ジャーナリズムによって科学が社会の広い領域に浸透してゆき、哲学的な問いや社会的な課題に出会うとき、理系の専門家だけではなく、文系の発想や発言が重要になってくる。社会全体の理系感度を高め、知の中間層を育てるためにも、サイエンスカフェのような場所が必要なのではないか。そんな夢も書かれている。

いろいろな夢の裏側には、尾関さんのような新聞社の科学部の方々の苦悩と葛藤に満ちた毎日があるのだろうと思うと、尾関さんがあちらこちらで展開していた文筆活動が違ったふうに見えてくる。

科学技術の知識が増えても、それは必ずしも幸せにはつながらない。生命を維持する医療技術が進んだとしても、ただ命を延ばすだけの治療が蔓延するだけ。科学者たちが何を考えてきたのかということを、ざっくりと教えるような理科教育が必要なのではないか。そんな尾関さんの問題意識が、この本のなかに凝縮している。

尾関さんがオーナーのサイエンスカフェに いろんな人が集まり、さりげなく科学の話を交わしている。読後に ふと、そんな情景が浮かんできた。面白くあっという間に読める本だが、何度も読み返してみたいと思わせる本でもあった。

(32)George Orwell『Notes on Nationalism』

2024年5月26日(金)

ナショナリズムの正体

今週の書物/
『Notes on Nationalism』
George Orwell 著、Penguin Classics、2018年刊

「めぐりあう書物たち/尾関章」は 2023年12月1日付「休載のお知らせ」以降 お休みが続いている。 「休載のお知らせ」の前、最後の投稿が、2023年11月24日付「オーウェルは二つの社会主義を見た」だった。その投稿は

オーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。

で終わっている。お休みに入らなければ、12月1日に オーウェル についての尾関さんの考察が続いていたはずだ。オーウェルの「明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義」がどんなものだったのかが 気になってしょうがない。

尾関さんは 以前にもオーウェルを取り上げている。2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる」と 2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく」だ。それらはどちらも『一九八四年』についての書評で、とても面白かったのを覚えている。

2023年11月24日付「オーウェルは二つの社会主義を見た」は 『一九八四年』についての書評とは違い、オーウェルの生涯にフォーカスしている。私も、私なりの方法で、オーウェルの生涯をたどることにした。

すると、想像とは違うオーウェルが、次から次へと浮かび上がってくる。「マルクス主義統一労働者党 (POUM)」の一員としてウエスカ近郊の前線で負傷した時の生々しい描写は『カタロニア讃歌』の終わり近くに見られるが、オーウェルを救ったというアメリカ人のハリー・ミルトンの証言が面白い。

「オーウェルの不運は彼の身長と、部隊の要塞化された陣地の上から見下ろすというやや無謀な習慣の両方によるものだ」というのだ。「高速の銃弾の鋭い音が聞こえ、オーウェルは倒れた。彼は仰向けに倒れた」と、その時の記憶は鮮やかだ。ミルトンは、オーウェルが病院に運ばれるのを待っている間に応急処置をしたことを覚えているが、自分の役割は控えめなもので「私はただ出血を止めただけだ」と言っている。

「オーウェルの不運は彼の身長」とはどういうことかと思って写真を見てみたら、なんとオーウェルは大男だったのだ。サッカー選手だったら間違いなくゴール前のポジションだっただろう。

写真を見て、オーウェルを助けたという ハリー・ミルトン に目が行く。手にライフルを持っている ミルトンのポーズは、明らかにカメラを意識したものだ。オーウェルがただ突っ立っているのと対照的だ。ミルトンのことを読み出して、その自信に驚く。オーウェルに思想的な大きな影響を与えたのは自分だという、オーウェルの著作も 自分なしにはなかったろうともいう。アメリカ人によくあるタイプの 単純で明るい人だったのだろう。

ミルトンより もっと目をひくのが、オーウェルの妻 アイリーンだ。戦場という男の世界に女がひとりだけ紛れ込んでいる。気になって調べてみたら、興味深いことがたくさん見つかった。

スターリンの威を借るスペイン人たちのせいで スペイン国内にいるのが危険になってきたとき、パスポートを手配し フランスに脱出する手はずを整えたのは、他でもないアイリーンだった。オーウェルが著作に専念できるようにと働きに出て家計を支えたのも アイリーンだ。

それよりもなによりも、オーウェルの小説『1984年』は、アイリーンの詩『世紀末、1984年』に影響を受けた可能性があるというから 驚きだ。この詩は1934年に、彼女が通っていたサンダーランド教会高校の創立50周年を祝い、1984年の創立100周年まで50年先を見据えて書かれたという。オーウェルと出会う1年前に書かれたアイリーンの詩の未来的なビジョンと『1984年』のビジョンには、マインドコントロールの使用や警察国家による個人の自由の根絶など、いくつもの類似点がある。

また、アイリーンが『動物農場』でオーウェルと「微妙で間接的な方法で」協力したという記述がある。オーウェルは当初、エッセイを書くつもりだったが、アイリーンは寓話を提案した。二人は夜に一緒にその作業に取り組み、オーウェル夫妻の友人たちはその小説の中にアイリーンのスタイルとユーモアを見いだしたという。

アイリーンは1945年の3月に死んだ。オーウェルはアイリーンのことをあまり書いていない。ただ、アイリーンがオーウェルにとって大事な人だったことは間違いないようだ。

で今週は、そんなオーウェルの膨大な著作のなかから、アイリーンが死んだ1945年に書かれたエッセイを読む。『Notes on Nationalism』(George Orwell 著、Penguin Classics、2018年刊)だ。

オーウェルは、ナショナリズム(nationalism)は 2つの習慣(habit)によるという。「何百万、何千万という集団を 自信を持って善と悪とに分類する習慣」と「自分を一つの国家などの単位と同一視し その利益だけを最優先する習慣」だ。そしてその目的は 自分自身のためではなく、自らの個性を注ぎ込むことに決めた国家や組織のために さらなる権力や名声を確保することにあるという。

オーウェルはまた、ナショナリズムを、パトリオティズム(patriotism)のような気持ちと混同してはいけないともいう。特定の場所や生活様式に思いを寄せるのは自然のことで、他人に強制する意図がなく防衛的なものであれば、何も悪いことはないという。

もちろん、ことはそんなに単純ではない。ナショナリズムとパトリオティズムの境はクモの糸のようなものだし、そもそもパトリオティズムのような気持ちは、ナショナリズムの高揚に容易に利用されてしまう。

パリ・オリンピックが今日開幕するが、マスコミが作り出す雰囲気は まさにナショナリズムそのものだ。自国のメダルの数を誇り、自国の選手だけを取り上げ、英雄扱いする。

この『Notes on Nationalism』は、今日という日にふさわしい。ということで、この本を読み続けてみよう。

オーウェルの広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリック、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズム、平和主義などの運動や傾向が含まれるという。ナショナリズムは必ずしも政府や国家への忠誠を意味するわけではなく、ましてや自分の国への忠誠を意味するわけではない。また、ナショナリズムが扱う単位が実際に存在することさえ厳密には必要ではない。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、プロレタリア階級、白人種はすべて熱烈なナショナリズム感情の対象だが、それらの存在に普遍的に受け入れられる定義はない。国や組織を良く見せたいとか 悪く見せたいとか、強く見せたいとか 弱く見せたいという願望が、すでにナショナリズムだという。

ナショナリストの思考法として、執着(obsession)、不安定さ(instability)、現実への無関心(indifference to reality)をあげ、「ナショナリストは、自分の権力集団の優位性以外のことは考えたり、話したり、書いたりすることはほとんどない」「偉大な指導者が ナショナリストが称賛する国にさえ属していないことはよくあることだが、ナショナリストの忠誠心ほど 移ろいやすいものはない」「ナショナリストは、どんな行為についても、それ自体の価値ではなく、誰が行うかによって善悪の判断を行う」というような例をあげている。

私が気になったのは「ナショナリストは、一人残らず、過去を変えようとする」というところだ。オーウェルは「重要な事実は隠蔽され、日付は変更され、引用文は文脈から外され、意味を変えるように改ざんされる。起こるべきではなかったと思われる出来事は言及されず、最終的には否定される」と書いている。ナショナリストに対する強い嫌悪が感じられるではないか。

このエッセイの後半で、オーウェルはナショナリズムを「肯定的ナショナリズム(Positive Nationalism)」「すり替えられたナショナリズム(Transferred Nationalism)」「否定的ナショナリズム(Negative Nationalism)」に区分けし、それぞれについて詳細な検討を展開している。

「共産主義者が 幻滅過程を経て反共産主義になる」とか「反英主義から いきなり英国支持に回る」「ある戦争での平和主義者が 次の戦争で好戦派になる」といった例をあげるまでもなく、どのカテゴリーにも「執着」「不安定さ」「現実への無関心」といった思考法が見られ、面白く読めるようにできている。

オーウェルは最後のパラグラフで「国家主義的な愛憎は、好むと好まざるとにかかわらず、ほとんどの人が持っている」と書く。「それらを取り除くことが可能かどうかはわからないが、それらと闘うことは可能であり、それは本質的に道徳的な努力であると私は信じている」と続ける。「自分が本当は何者なのか、自分の感情は本当は何なのかを発見し、次に避けられない偏見を許容する」「それには道徳的な努力が必要だが、その準備ができている人がいかに少ないことか」という最後の文章から、オーウェルの絶望が読み取れる。

オーウェルが POUM に加わった時に持っていた希望や明るさは、スペインを去ることには消え、第二次世界大戦を経て スコットランドの孤島の荒れた農場でに引きこもるころには 絶望と暗さでいっぱいになっていたように見える。46歳で死んだオーウェルの人生も 39歳で死んだ妻のアイリーンの人生も 悲しく感じられ、オーウェルの著作も違って感じられるようになった。

ナショナリズムというとらえどころのないものについて、自分の主観を消すことなく書いたオーウェルに、最大限の賛辞を贈りたい。

(31)アレックス・カー『犬と鬼 – 知られざる日本の肖像』

2024年7月19日(金)

日本の肖像

今週の書物/
『犬と鬼 – 知られざる日本の肖像』
アレックス・カー著、講談社、2002年刊

海外を拠点にしている日本人は、日本を拠点にしている日本人とはだいぶ違う。生活様式が違い、使っている言語が違い、考え方が違い、価値観が違う。

日本についてもだいぶ違うイメージを持っている。日本にいる日本人が持っている日本のイメージと、海外にいる日本人が持っている日本のイメージは、大きくかけ離れている。

海外にいる日本人が、日本について語ることは まれだ。ほとんどの人が自分を戒め、語らないよう努力している。だから、日本のことをよく知っている外国人が日本のことを語ると、海外にいる日本人はみんな、複雑な気持ちになる。

「日本のことを知りもしないで、よくそんなことを言えるなあ」とか「日本って、そんなじゃないよ」とか、ろくに聞きもせず 説明もしないで、いきなり否定する。

ところが、言っていることが的を射ていたり、話のなかに知らない日本が出てきたりすると、うろたえる。グローバル化が進み、人の交わりが進んでしまえば、「日本人かどうか」「どこに住んでいるか」などということと、日本についてどれだけ知っているかということは、関係がなくなってくる。

外国人が日本のことを書いた本のなかにも、ほほうと思わず唸ってしまうようなものが見かけられるようになってきた。

で今週は、日本のことをよく知っている外国人が 日本について書いた一冊を読む。『犬と鬼 – 知られざる日本の肖像』(アレックス・カー著、講談社、2002年刊)だ。『Dogs and Demons: Tales From the Dark Side of Modern Japan』(Alex Kerr著、Hill and Wang、2001年刊)の翻訳なので、読みにくい箇所が多いのだが、日本のことについて書いた本なので、原文ではなく日本語で読むことにした。

『犬と鬼』という題名は、『韓非子』の「外儲説篇 左上」に出てくる「犬馬難 鬼魅易」という言葉からきている。皇帝の「描きやすいものは何か、描きにくいものは何か」という問いに、宮廷画家は「犬や馬は描きにくい、鬼や魅は描きやすい」と答えた という故事をなぞらえたのだ。

日本のやり方がうまくいかなくなると、日本の官僚たちは地味に犬を描くことをやめて、国を破産させる勢いで鬼を描きだした。『犬と鬼』という題名は、諸問題の基本的な解決にカネを使おうとせず、モニュメントを作ったりイベントを催すことにカネをつぎ込んできた日本の官僚システムへの、筆者の精一杯の皮肉だったのだ。

この本でアレックス・カーは、いまの日本には「実」がないという。現代の生け花のように、現代日本のシステム全体に「実」がない。アレックス・カーは、そう言い切る。

例としてあげられたのは以下のようなものだ。

  • 山河が瀕死の状態になるまで 目的なく進められる土木工事
  • 環境破壊に目をつむり 環境保護に無頓着な環境省
  • 市場に合わない価格が設定され 利潤を生まない不動産
  • 曖昧で 秘密が多く 隠され 改竄され 嘘に満ちた情報
  • 公の資金を必要なところに使おうとしない官僚
  • 人間には適さず、大根には適している野菜専用空港
  • 古きを壊し 暮らしの智恵と伝統的な技術を消してしまう街づくり
  • 周りの環境やニーズと無関係な建造物
  • 借金を返さず 配当がつかない株式市場
  • 粉飾決算と嘘だらけのバランスシート
  • 暗記させるだけの 創造力や分析力とは無縁の教育
  • 就職までのつなぎでしかない 社会から孤立した大学
  • 外国と外国人を閉め出し 外国流を嫌悪する国際化

それぞれを説明しようとすれば『犬と鬼』一冊になる。

大きな話題になった『美しき日本の残像』(アレックス・カー著、新潮社、1993年刊)の出版から10年近く経って、アレックス・カーの日本へのスタンスは驚くほど大きく変わっている。

アレックス・カーの変化の要因のなかでいちばん大きなものは、拠点を移したことだろう。1997年に、日本からタイに移している。その後 バンコクで 『Bangkok Found: Reflections on the City』(Alex Kerr著、River Books Press、2010年刊)という本を出版しているのだが、その本はタイへの愛で溢れている。『美しき日本の残像』のなかの日本への愛が消え、タイへの愛がそれに取って代わったと言えなくもない。

日本が沈んでゆく嫌な時期に、アレックス・カーも嫌な経験をしたのではないか。そんな想像もしてしまうほど、『犬と鬼』のアレックス・カーは、日本に批判的だ。

「本書にはどうしても怒りと悲しみの感情が入ってしまっている。なぜなら日本で起きていることはあまりにも悲惨だからだ」と書くアレックス・カーは、この本を書くことが自分の義務だと捉えている。自分が書かなければ、誰も書かない。それを知っているからこその『犬と鬼』なのだろう。

問題は、「実がない」ことではなく、「アレックス・カーが書かなければ、誰も書かない」ことなのではないか。海外を拠点にしている日本人の多くが、アレックス・カーが問題にしていることに気づいている。私も例外ではない。それなのに、誰も言わないし、誰も書かない。

そう考えてみると、アレックス・カーが進んで嫌な役割を買って出たのではないかという考えにたどりつく。でも、アレックス・カーが何を書いても、日本は変わらない。日本が急に「実のある」社会に変わったりはしない。

年度末までに予算を使い切らない公務員は現れないし、土木工事を自ら止める自治体は現れない。旧弊が骨の髄まで染みついた教員が変わるわけはないし、教育のやり方がすぐに変わるはずもない。日本には、変わる要素など何もないのだ。何を言っても、何を書いても、何も変わりはしない。

それを承知で書いた。不思議ではないか。私なら書かない。変わりはしないことがわかっていて、6年もかかってこんな本を書いたのはなぜか。

「本来の姿」からかけ離れてしまった日本には、家路を探し求めるという課題がある。そう言って、アレックス・カーはこの本を終わらせている。「本来の姿」にたちかえれば、「強国・貧民」のパラダイムから脱し、「実」を持つようになるとでもいうのだろうか。

思うに、アレックス・カーの言う「本来の姿」など、はじめからないのだ。日本に必要なのは「本来の姿」にたちかえることではなく、新しい姿を模索することではないのか。

日本にいれば、火山噴火、地震、津波、台風、洪水、豪雨、豪雪、土砂災害などと共に 生きていかなければならない。と同時に、官僚、政治家、教員、警官、消防士、税務署員、自衛官、医師、看護師、介護士、調理師、栄養士、事務員、販売員、清掃員といった日本人と付き合っていかなければならない。

日本の自然状況が変わることはない。日本人も変わらない。変わらないなかで、明治時代から続く戦前のパラダイムから脱してゆくのは難しい。民主主義とか人権とかいった戦後に押し付けられた概念から自由になってゆくのはもっと難しい。自分たちに相応しい新しい姿を模索してゆくなんていうことは、夢のまた夢だ。

そんなことを書いているうちにも、日本は変わっている。いまの若い人たちは、もう以前の日本人ではない。格差が増すことを何とも思わず、結婚や出産を嫌い、個性的であることを避け、思ったことを口にせず、みんなと同じでなければ安心できない若者たちに、明るい未来を期待するのは間違っている。

最近、日本のことを考えると、とてもネガティブになる。いやな感じだ。この本を読んだのを機に、日本のことを考えるのはやめようと思う。

これから何年も日本のことを考えなくなったとしたら、いいタイミングでいい本にめぐりあったということになる。いつかこの本に感謝する日がくるのかもしれない。

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今回の文章をこんなふうに終わらせるのは どうにもいやなので、ここに長々と引用を付け加えようと思う。

 日本はいったいなぜこうなってしまったのかと考える時、意外と生け花の世界からひとつの答えが得られる。先日、ある華道家に質問をした。それは長い間、気にかかっていたことだった。昔ながらの生け花と。奇抜な今日のそれとの、真の違いは何なのか。針金やビニールの使用、花と葉がホッチスで留められ、折り曲げられるよう、マニュアルで示されたX度の角度などを私は変に思うが、ある意味でこれらはすべて伝統に由来するものなのだ。ではその決定的な違いとは。友人の答えは、現代の生け花には「実がない」というものだった。伝統的な生け花には宗教上あるいは儀式という目的があった。昔の人々は自然の神秘に尊敬の念を持っていた。宇宙の創造力にあふれた息吹を見出し、応えるための手段として生け花を用いたのだ。しかし今日、それも失われ、単なる飾り物としての目的しか持たず、植物や花そのものの本質を問うことはない。代わりに、花は生け手の気まぐれなニーズに応えるためだけに使われる、ビニールや針金などの材料と、ほとんど変わらない「素材」として扱われている。要するに「実」もなければ精神的な目的もなく、自然が本来持つ力に通ずるものも何もない、ただ空っぽなデザインなのだ。
 華道家のコメントは問題の核心をつくものであった。というのも、「実」がないというのは現代日本のすべての事柄にも言える。土木工事(目的もなく進める)、建造物(周りの環境とニーズに無関係)、教育(歴史や方程式を暗記させ、独自の創造力や分析力を教えない)、街並み(古きを壊す)、株式市場(配当を払わない)、不動産(利潤を生まない)、大学(就職までのつなぎ・社会に貢献しない)、国際化(世界を締め出す)、官僚制(真のニーズに関係ないところで金を使う)、企業のバランスシート(粉飾決算)、環境省(環境保護に無頓着)、薬品(テストされていない模倣薬)、情報(曖昧、秘密、嘘)、空港(人間に適さず、大根には適す)― 体系全体に「実」がないのだ。
 日本のものごとのやり方と、現代生活との間には、内外を問わず予想をはるかに超えたギャップがあるとしか言いようがない。だから、私は日本を近代化に失敗した例であると申し上げている。手の込んだ「鬼」のモニュメントは、「実」の重みに対する一種の防護壁なのだ。しかし、最後には「実」が勝つ ― それでも地球は太陽の周りを回るから。

そう、アレックス・カーは日本をよく知っていた。そして日本が好きだった。そんな人を日本から遠ざけたのは、変わってしまった日本なのだ。「本書にはどうしても怒りと悲しみの感情が入ってしまっている。なぜなら日本で起きていることはあまりにも悲惨だからだ」と書かせたのは、いまの日本なのだ。

ただ ただ 悲しい。

(30)澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

2024年7月12日(金)

快楽礼讃

今週の書物/
『快楽主義の哲学』
澁澤龍彦著、文春文庫、1996年刊

ギリシャの頃から今に至るまで、西洋では「幸せとは何か」がさまざまに論じられてきた。「幸せになることが人生の目的だ」という人もいる。それもこれも、幸せになることが、誰にとっても難しいからではないだろうか。

快楽も同じ。「人間の目的は快楽だ」という人たちがいる。でも「快楽とは何か」ということになると意見はまとまらず、酒池肉林を快楽という人たちと、心に動揺のないのが快楽だという人たちとが、無駄な論争をしてきた。

「幸せになった後、すべての生物は空し」というけれど、幸せになった後、いったいどうしようというのか。言葉をを置き換えて「快楽を得た後、すべての生物は空し」「性交の後、すべての生物は空し」といってみても、事情はあまり変わらない。ハッピーエンドの後、その状態が持続するわけでもあるまい。

幸せになりたい。でも、幸せが何かはわからない。快楽が得たい。でも、快楽が何かはわからない。それはまるで Erich Fromm の『Escape from Freedom』のようだ。自由でいたい。でも自由が何かはわからない。ドイツでは、そんな人たちが幸福を追い求めることだけを考え、社会がとんでもない方向に向かってしまった。そういうふうに、Erich Fromm は書いている。

幸せかどうかということと、満足しているかどうかということも、よく混同して考えられる。「満足した豚より 不満足な人間のほうがいい」とか「満足したバカより 不満足なソクラテスのほうがいい」というように、満足か不満足かを語る言葉は多い。

外界に関心を持ち 仕事に満足することで 幸せを感じる。仕事に幸せを見出す。そんな考えが社会に蔓延するようになると、ただ 幸せを感じるとか ただ 快楽を感じるということに、罪悪感を感じる人が増え、幸せや快楽に対する考えも大きく変わってきた。

「幸せ」をテーマにした本はたくさん書かれ、「不幸せ」に耐える方法もたくさん書かれてきた。「私たちは すでに幸せだ」と書く人もいれば「私たちは 決して幸せにはなれない」と書く人もいて、考えは多岐にわたる。「快楽」となると考えはもっと割れ、「快楽は罪悪だ」と書く人から「快楽は善だ」と書く人まで、さまざまだ。

愛がすべてと思えば 愛に裏切られ、カネがすべてと思えば カネに裏切られる。愛もカネも 信じすぎてはいけない。同じように、幸せを追い求めれば 幸せは遠のき、快楽に身を任せれば 快楽は消える。幸せも快楽も 求めないところにやってくる。

で今週は、澁澤龍彦が「快楽」について書いた一冊を読む。『快楽主義の哲学』(澁澤龍彦著、文春文庫、1996年刊)だ。澁澤龍彦は、私にとっては サブカルチャーとかカウンターカルチャーの大御所的な存在の人で、どこか遠い感じがする。終戦の時に17歳だったという。

若い澁澤にとって、戦争は そして戦後の価値の転換は、決定的で 痴呆的で 尊厳的で バカバカしくて 空虚で 開放的だった という。「倫理はスタイルで、スタイルは快楽で、快楽は倫理だ」という澁澤の感性は、戦後生まれの私たちにはないものだ。

『第一章 幸福より、快楽を』のはじめに澁澤は「人間の生活には目的なんかない。食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけだ」と言う。その上で「幸福は快楽ではない」と言い、「幸福は、この世に存在しない」と言い切る。

澁澤は「痛い目にあうよりは、あわないほうがよい」というような消極的な考え方を「幸福」と呼び、「日本はいやだから、パリへ飛んでいく」というような積極的な考え方を「快楽」と呼ぶ。あるかどうかわからない幸福がやってくるのを待つのではなく、自分で作り出す快楽を実践のうちからつかみ取るほうがずっといいというのだ。

『第二章 快楽を拒む、けちくさい思想』のなかでは、既存の「いい」と思われている考えを、すべて否定する。「博愛主義は、うその思想である」「健全な精神こそ、不健全である」「≪おのれ自身を知れ≫は愚の骨頂」という具合だ。

古くさい形式的な道徳や、お上品ぶった理想論や、ばかばかしい先入観などを、ひとつひとつぶっ壊してゆく。その目的は、人間の本能、人間の欲望に忠実であること。欲望という美しい灯台の光だけをたよりにすればいいという。

『第三章 快楽主義とは、何か』では、「死の恐怖の克服」から始め、一歩一歩、精神的快楽や物質的快楽の頂上までのぼりつめてゆく。死を克服し、退屈を克服し、その先に見えてくるのは何か。

東洋的な快楽主義と西洋的な快楽主義、自然主義的な快楽主義と反自然主義的な快楽主義、文明主義的な快楽主義と反文明主義的な快楽主義、どちらがどうという以前に、さまざまに違った快楽主義が浮かび上がる。

『第四章 性的快楽の研究』は、他の章とは趣を異にする。セックスの快楽だけを独立して取りあげるのは、あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、いちばん強度なものであり、かつ、いちばん根源的だからだという。

「量より質を」「最高のオルガスムを」「情死の美学」「乱交の理想郷」「性感帯の拡大」という各節のタイトルを見るだけで、内容が想像できるだろう。ただ最後の「快楽主義は、ヒューマニズムを否定する」というところだけは説明がいるかもしれないが、長くなるのでここでは割愛する。

『第5章 快楽主義の巨人たち』では、ディオゲネス、李白、アレティノ、カザノヴァ、サド、ゲーテ、サヴァラン、ワイルド、ジャリ、コクトーと、じつにバラエティに富んだ人たちを紹介している。知らないことばかりで、興味は尽きない。

澁澤がセットした基準である「高い知性」と「洗練された美意識」と「きっぱりした決断力」と「エネルギッシュな行動力」を兼ね備えた人たちは、ある意味まぶしい。李白やゲーテを「快楽主義」と結びつけたことがなかったので、第5章は刺激的だった。

最後の『第6章 あなたも、快楽主義者になれる』は、そんなに簡単ではない。特に2024年の日本では、「誘惑を恐れないこと」も「一匹オオカミも辞さぬこと」も「誤解を恐れないこと」も「精神の貴族たること」も「本能のおもむくままに行動すること」も「労働を遊ぶこと」も「レジャーの幻想に目をくらまされないこと」も、どれも簡単ではない。

私はこれまで何度も、幸福を味わえることができ 快楽を得ることのできる場所で暮らすことを夢見てきた。でもこの本を読んで、それが幻想でしかないことに気づく。いま居る場所にいても、朝 雨戸を開けたときに見る景色だけで 幸福は味わえるし、隣にいる人のあたたかさを感じるだけで 心の安らぎという快楽を得ることができる。なにも、北の国の緑の森のなかや 南の国の静かな海岸に行くだけが 幸福や快楽への道ではないことに、今さらながら気づいたのだ。

(29)沢木耕太郎『深夜特急〈第三便〉飛光よ、飛光よ 』

2024年7月5日(金)

旅の終え方

今週の書物/
『深夜特急〈第三便〉飛光よ、飛光よ 』
沢木耕太郎著、新潮社、1992年刊

永六輔の『遠くへ行きたい』の「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」ではないけれど、知らないところに行きたい、どこか遠くへ行きたいというような気持ちは 誰にでもあるだろう。

年をとり先が見えてきたせいか、最近やたらと旅をしている。旅先で何とも言えない情景に出会うと、さまざまな予約の問題とか、飛行場での行列とか、行き先が見つからない苦労とかが、一瞬にして消える。

考えてみれば、旅の途中の一瞬は格別だ。角を曲がって突然現れる街並み、砂浜で座って見る日の出、立入禁止の札の前の絶景。そんな一瞬の情景のために、旅をしているのかもしれない。

その場所にしかない色、その時間にしかない光。心をうつしだす景色は、私にしか見えない。歩くなかでの一瞬、それだけでいい。ずっと見えないもの、続かないもの、そんなものは、私だけのものだ。

一瞬のためだけの、突然現れる街の情景とか、日の出の魔法とか、見ては いけない 景色とか、きっと一瞬のために、人は旅をしている。たぶん思い出すことのない、大切な一瞬のために。

で今週は、旅の本、『深夜特急〈第三便〉飛光よ、飛光よ 』(沢木耕太郎著、新潮社、1992年刊)。1974年(26歳の時)に始めた旅のことを、12年経った1986年(38歳の時)に『深夜特急 第一便 黄金宮殿』『深夜特急 第二便 ペルシャの風』として出版。それからさらに6年たった1992年(44歳の時)に出版したのが 今回取り上げる『深夜特急 第三便 飛光よ、飛光よ』だ。

香港から南回りでイランまで辿り着く『第一便』『第二便』のハラハラ・ドキドキに比べ、イランから地中海経由でロンドンまで行く『第三便』にはハプニングが少ない。それでも私は『第一便』『第二便』に比べて『第三便』が好きだ。

途中から沢木耕太郎は、旅の「終わり」を考え始める。旅を終えたくないという気持ちと、日常生活に戻りたいという気持ちとのあいだで、葛藤を始めるのだ。

ロンドンの中央郵便局に行き、旅が終わったという電報を打とうとする。すると「電報は電話局から打つんだよ」と言われる。帰国のためのチケットを買いに旅行代理店に行き、行き先を尋ねられる。するととっさに「アイスランド」と答えてしまう。

旅をするのは気ままで「自由」、日常の生活は縛られていて「不自由」。そんな考えから、旅を切り上げようとする作者に「旅を終えたくない」「自由でいたい」 という気持ちが生まれるのだが、はたしてそんなものだろうか。

旅ほど不自由なものはない。普段暮らしているのより、はるかに不自由だ。持ち物の制限がある。大きなものやたくさんのものを持って旅はできない。言葉の壁がある。カネのこと、電気や通信のこと、してはいけないことなどなど、わからないことだらけだ。

知らないことばかりの場所に行くのが楽しいとか、知らない人に出会うのが楽しいとか、そんなことを旅の醍醐味だと言う人がいる。でも、そんなのは、幻想ではないか。

日常生活のなかにも、知らないことはたくさんあるし、知らない人との出会いもある。日常生活のなかでも、自由でいることはできる。バックパックを背負わなくても、旅をするのと同じことができるのだ。

沢木耕太郎の旅は、40代になってこの本を書き終えても、終わらなかった。『深夜特急』があまりにも有名になりすぎたこともあって、そして出版社の思惑もあって、70代になっても『旅のつばくろ』とか『天路の旅人』といった本を出版し続けている。

私は、旅が無限の自由を与えてくれるとは思わない。だから、旅に対して沢木耕太郎ほどの思い入れを持つことはできない。私たちはみんなそれぞれの場所で旅をしているようなものなのだと思っているから、沢木耕太郎の旅は読み物でしかない。

『第三便』には、出会った人物のことがたくさん描かれている。それなのに、情景描写は驚くほど少ない。イラン・トルコ・ギリシャと巡る旅の途中で、感動的な情景に出くわさないはずがない。それなのに情景はほとんど描かれていない。

バス旅行をすれば、乗り合わせた人物に目が行く。そうかもしれない。でも、しばらくすれば、窓の外に目が向くのではないか。バックパッカーの目は心の内面に向いているから、情景が目に入ってこない。いや、そんなことはない。イランやトルコ、そして地中海沿岸で出くわす情景が、心を打たないはずはない。

旅で出会った情景は、きっと、東京で何年も暮らすうちに消えてしまったのではないか。私はそう思った。旅をして一週間で、旅のことは忘れる。旅をしてから18年経って、いったい何を思い出すというのだろう。

私は沢木耕太郎の年代の人で、若い頃に日本を出てヨーロッパを目指した人を、たくさん知っている。ある人はシベリア経由で、またある人は南回りで、長い時間をかけてヨーロッパにやってきた人たち。ただ、その人たちは沢木耕太郎のように日本に帰ったりはせずに、ずっとヨーロッパで暮らしている。その人たちの旅は、いまでも続いているのだ。

その人たちに、日本を出てヨーロッパに着くまでの旅の話を聞くと、長い時間が経っているのに 沢木耕太郎の本にはない情景の話がたくさんでてくる。旅のあいだグローバルなバックパッカーだった沢木耕太郎は、旅のあと見事に日本人に戻った。だから『深夜特急』は多くの日本人に受け入れられ、たくさん売れたのだ。

ヨーロッパに残った日本人が、小説を書いても、たとえそれがおもしろい小説であったとしても、きっとそれは受け入れられなかったし、売れなかったに違いない。そう、沢木耕太郎は、日本社会にどっぷり浸かった小説家なのだ。

26歳の沢木耕太郎は、春の初めに日本を出発し、秋の終わりにイスタンブールを通過、冬にヨーロッパの西のほうに辿り着いた。それだけのことなのに、1年にも満たない旅のインパクトは大きい。その後の沢木耕太郎にも大きいし、読者にも大きい。やはり沢木耕太郎は優れた書き手なのだろう。