(43)Daniel Simons, Christopher Chabris『Nobody’s Fool』

2024年10月11日(金)

騙した男が悪いのか

今週の書物/
『Nobody’s Fool: Why We Get Taken In and What We Can Do about It』
Daniel Simons 著、Christopher Chabris 著
Basic Books (2023)
『全員“カモ”―「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』
ダニエル・シモンズ 著、クリストファー・チャブリス 著、児島 修 訳
東洋経済新報社、2024年刊

西田佐知子の『東京ブルース』は「泣いた女がバカなのか 騙した男が悪いのか」で始まる。騙したほうが悪いのか、騙されたほうが悪いのか。「所詮は勘違いと思い込みなのだから、どちらでもいいじゃないか」なんていうことを言う人が少なからずいる。

男女のことならば、それでもいい。でも詐欺や人権侵害なんかだと、そんなことを言ってはいられない。騙された人のことを「騙されやすい」とか「世間知らずだ」とか「無知だ」とか散々に言う人がいるが、なんだかんだ言っても、やっぱり騙したほうが悪い。

他人と関わるとき、私たちには「その人が言っていることは正しい」と思う傾向があり、それを疑うには努力と時間がかかる。だから、誰かが正しいことを言っていると思い、それが正しくない場合、大きな時間的プレッシャーがかかれば、正しくないことを簡単に受け入れてしまう。

広告業界のプロなどは、時間をかけて、私たちの認知習慣や情報に対する好み、私たちが惹かれるもの、日常生活で展開する思考パターンの弱点を悪用する方法を学んできている。地面師でなくても、そういう人たちが本気を出せば、騙すのは簡単だ。

人間はロボットではない。AI でもない。毎回同じ結果を出すわけではないし、いつも完璧に物事をこなすわけでもない。金融市場のような複雑な社会システムを前にすると、人間は理不尽な行動をとる。騙されるのも、理屈に合わない。

人々の記憶には時々矛盾が生じるけれど、必ずしも嘘をついているというわけではない。私たちの行動には、直感的に認識できるよりもはるかに多くのばらつきがある。一貫性があると思ったら大間違いだ。人間は論理的でないし、合理的でもない。

で、今週は、騙されることについて考える本を読む。『Nobody’s Fool: Why We Get Taken In and What We Can Do about It』(Daniel Simons 著、Christopher Chabris 著、Basic Books、2023年刊)だ。日本語訳も『全員“カモ”―「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』(ダニエル・シモンズ 著、クリストファー・チャブリス 著、児島 修 訳、東洋経済新報社、2024年刊)として出版されている。

「PART 1; HABITS」の 4つの章「Focus」「Prediction」「Commitment」「Efficiency」、「PART 2; HOOKS」の 4つの章「Consistency」「Familiarity」「Precision」「Potency」、そして「Conclusion: Somebody’s Fool」に至るまで、この本の言っていることは、すべて正しいように思える。引用は 第一線で活躍している人のものばかりだし、書かれていることにも おおむねうなずける。

それでも、どこか腑に落ちない。私たちは いつも、どんなときも、騙されないように身構えていなければならないのか? 目の前の人にも対しても、インターネットの先にいる人に対しても、相手が何か隠しているではないかと疑い、相手の痛いところを突かなければならないのか? それは、変ではないか?

どんなことも しっかり知り、それが事実かどうか確かめる。そんな大変なことを誰もがしなければならないなんて、現実的ではない。誰もそんな責任を負うことはできない。

Google で検索をしすぎると、あらゆる種類の怪しい情報にたどり着く。情報の真偽を認識するのは自分しかいない。それはわかる。でも、そんなことを いちいちチェックしていたら、一日は情報のチェックだけで過ぎてゆく。そんなのは、現実的ではない。

ワクチンを接種するかどうか、貯めてきたお金を投資にまわすかどうか、オンラインで知り合った人と恋愛関係を始めるかどうか。そういうことに慎重になれというのはわかる。でも、日々のことにひとつひとつについて 懐疑心を持ち続けろというのは、何か違う気がする。というか、残念ではないか。

詐欺に遭わないということが重要だからといって、それが今日の現実だからといって、誰のことも信じないで、何も信じないで、疑ってかかる。そんな考え方は嫌だ。

著者たちは「絶対に騙されるはずがない人たちが騙される」とか「私たち全員が詐欺の標的になりうる」といったことを繰り返し書く。そして、懐疑心を優先させろという。もっとも「そうすると、すべての社会的交流がひどいものになってしまう」と付け加えるのを忘れず、「いつ疑うべきかを知る必要がある」「それが本当に難しい」と続ける。

この本を最初から最後まで「そうだ、そうだ」と思いながら読んで、「うん?」と戸惑う。この本は、私たちが騙されやすい存在だということを、これでもかこれでもかという感じで、いろいろな側面から描き出している。

プロの手口のひとつが、慣れや親しみやすさ。慣れているものや親しみのあるものだと、私たちは警戒を緩める。長い間知っている人を信頼し、過去にうまくいったことと似ていれば うまくいくと思い込む。そう、私たちは騙されやすい。そうできている。

フェイクニュースは、私たちを満足させる。私たちがこうだったらいいなと願っていることや、私たちが起きてほしいと思っていることを、報道してくれる。ニュースがフェイクなのはわかっていて、それでもそれを信じる私たちがいる。

騙されやすいだけではない。騙されたい存在でもある。だから、「天皇陛下万歳」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」は、「民主主義を守る」「おもてなし日本」「個性の確立と尊重」に容易に生まれ変わり、誰も矛盾を感じない。

私たちは 皆 弱い人間だ。しかも 皆 考える時間すら持てないくらい忙しい。この本が描いているように、私たちは影響されやすく、何も知らないのに知っていると思い込んでいる不完全な存在だ。情緒的で、判断を誤る。根拠なく自信に満ちている。

一貫性のない私たちに 一貫性を持てというのは酷だ。私たちの予測は外れ、想定外のことが起き、期待は裏切られる。

まともに見えるこの本も、嘘に満ちている。多くの読者は、ダニエル・シモンズとクリストファー・チャブリスが書いたことに騙され、読んで少しは利口になったと思う。この本を読んだからといって、騙されやすかった人が 騙されなくなるわけではない。

人は いとも簡単に操られる。そのことが書かれていると思えば、悪い本ではない。ただ、今の社会で、どんな人たちが、どんな人たちを、どういう目的で、どうやって騙すのかを書いてくれなければ、フェアではない。そういうことが書かれた嘘のない本を読みたいと心から思う。

(42)Sabine Hossenfelder『Lost in Math』

2024年10月4日(金)

ロスト・イン・数学

今週の書物/
『Lost in Math』
Sabine Hossenfelder 著
Basic Books (2018)
『数学に魅せられて、科学を見失う』
ザビーネ・ホッセンフェルダー 著、吉田三知世 訳
みすず書房、2021年刊

物理学はもう何十年ものあいだ、顕微鏡でもとらえられない小さい量子と、望遠鏡でもとらえられない遠くの宇宙とを追いかけてきた。理論物理学者たちは数学を使って自然現象を説明しようとし、実験物理学者が観測によって理論物理学者たちの説明の妥当性を検討する。ほとんどの場合、実験物理学者の検討は、理論物理学者の言うことの否定で終わる。

小さいものの観測は、CERN (Conseil européen pour la recherche nucléaire、欧州原子核研究機構) の LHC (Large Hadron Collider、大型ハドロン衝突型加速器) に代表される さまざまな加速器で行われている。

陽子や中性子といった粒子は、「電子顕微鏡でぎりぎり見ることのできることのできる原子」の 10万分の1 というとてつもなく小さいものなので、直接観察することができない。そこで加速器で粒子と粒子を衝突させ、衝突後の粒子の崩壊の軌跡を観測することで 粒子のことをわかろうとしているわけだ。

量子力学の世界は、superposition(重ね合わせ)や quantum entanglement(量子もつれ)のことを持ち出すまでもなく、私たちのいる力学の世界とは、なにからなにまで違う。力学の世界にいる私たちが、力学の世界の実験装置を使い、量子力学の世界のことをわかろうというのだから、加速器を使っての実験はとても難しいものになる。

遠いものの観測は、ALMA (Atacama Large Millimeter/submillimeter Array、アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(アルマ望遠鏡)) に代表される電波干渉計や、JWST (James Webb Space Telescope、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡) に代表される宇宙望遠鏡で行われている。

ALMA を用いた大規模探査の観測データの中から、131億年前の宇宙で塵に深く埋もれた銀河が発見されたという。131億光年離れた天体が放った電磁波(光や電波)は、131億年の時間をかけて地球に届くので、観測されたものは、その銀河の131億年前の姿だ。

宇宙で遠くを見ることは、昔を見ることと同じ。131億年前のその場所に塵に埋もれた銀河があったからといって、今その場所に同じものがあるわけではない。46億年前に太陽ができ、45億4000万年前に地球ができたということだから、(ビッグバンからたった7億年しか経っていない)131億年前の宇宙がこうでしたといわれても 素直に「はい、そうですか」とは言えない。

小さい量子を追いかけてきた物理学者たちも、遠くの宇宙とを追いかけてきた物理学者たちも、どちらも行き詰った感じに見える。Standard Model (標準モデル) とか Grand Unified Theory (大統一理論) とか、夢のようなことが話されるようになって久しいが、今のところ何のブレークスルーも示されてはいない。

で、今週は、物理学の現在を考える本を読む。『Lost in Math』(Sabine Hossenfelder 著、Basic Books、2018年刊)だ。日本語訳も『数学に魅せられて、科学を見失う』(ザビーネ・ホッセンフェルダー 著、吉田 三知世 訳、みすず書房、2021年刊)として出版されている。

本を開いて はじめに出てくる「Preface」が強烈だ。数十億ドル(数千億円)を使いながら、物理学者たちは もう何十年も「もうすぐ素晴らしい発見がある」と言い続けてきた。加速器を建設し、人工衛星を打ち上げ、地下や山頂に観測機器を据えてきたが、新しい事実が明らかになることはなかったということを、まず書いている。

その上で、物理学者たちを裏切ったのは数学ではなく、数学の選び方だったという。自然はエレガントでシンプルだと信じていた物理学者たちは、結局 エレガントでシンプルな数式にたどり着くことはなかった。どんな法則が宇宙を支配していようが、それは物理学者たちが期待していたものとは違っていた。そういう結論を「Preface」で書いてしまっているのだ。

自然法則は美しいものなのだと信じてしまったホッセンフェルダーが、何かを信じるということは、科学者がやってはならないことではないのかという思いにたどり着く。探求し続けるという科学が、信じるという宗教になってしまってはいけない。そのメッセージは重い。

ホッセンフェルダーは、第1章から第5章まで、もはや物理学が理解できていない自分に気づき(第1章)、カッコいいアイデアが時にはひどく失敗すると知り(第2章)、教育を通して学んだことをまとめ(第3章)、物理学者として生きていくことの難しさに直面し(第4章)、理論物理学者たちの想像力に驚く(第5章)。

第6章から第9章までの「量子力学という魔術のようなもの・理解できないはずのものが、いったいなぜ理解できてしまうのか(第6章)」「もし自然法則が美しくなかったら(第7章)」「ひとりの弦理論研究者を理解しようと試み、ほぼ成功しそうになる(第8章)」「あるとされる さまざまな粒子を誰も見ていないのはなぜか(第9章)」というような話も、それぞれに興味深い。

そしてたどり着いた第10章で、ホッセンフェルダーは第1章から第9章までの説明をする。「私は九つの章を使い、理論物理学者たちは過去の美の理想に固執して袋小路にいるということを証拠を挙げながら主張してきた」というのだ。「えっ」と思って読み返してみると、確かにそうだ。それを読み取れなかった私は、何を読んでいたのだろう。がっかりは大きい。

そんなことはともかく、ホッセンフェルダーは「ヒッグス粒子の質量の問題」「強いCP問題」「宇宙定数が小さいという問題」などが、矛盾ではなく、数の一致に関するもの・美に関する懸念なのだという。

ホッセンフェルダーは思索の後、三つの教訓を得る。「問題を数学で解決したいなら、それが本当に問題であるか確かめる」「仮定を明言する」「観測による導きが必要だ」という教訓は、言い換えれば「物理学は数学ではない」ということになる。「物理学は自然を記述する数式を選択する学問だ」というあたりまえの結論にたどり着く。そんなことが教訓として語られなければならないほどに、今の理論物理はずれたものになっているのだろう。

ホッセンフェルダーは最後に「やるべきことが たくさんある」「物理学の次のブレイクスルーは、今世紀に起こるだろう」と書く。そしてこの本を「それは美しいだろう」という言葉で終える。

どんなに否定的なことを書いても、『Lost in Math』という本を出版しても、ホッセンフェルダーは物理学者であることを諦めてはいない。『Lost in Math』という本は、もしかしたら、とてもポジティブな本なのかもしれない。

個人的には、この本は救いだった。今までの長いあいだのモヤモヤが一気に晴れた。そんな気がした。ホッセンフェルダーがこの本を書いてくれたことに、心から感謝している。。。のだが、細かいことを言えば、突っ込みどころの多い本でもあった。

例えば、先ほども取り上げた「Preface」の「数十億ドル(数千億円)を使いながら、物理学者たちは もう何十年も「もうすぐ素晴らしい発見がある」と言い続けてきた。加速器を建設し、人工衛星を打ち上げ、地下や山頂に観測機器を据えてきたが、新しい事実が明らかになることはなかった」という部分。ALMA の建設費用だけで 14億ドル(2千億円)、CERN の LHR の建設費用にいたっては 90億ドル(1兆2千億円)とも 300億ドル(4兆円)とも言われていることを考えれば、物理学者たちが使ってきたお金は数千億ドル(数十兆円)に及ぶ。桁が二つも違うことに驚く。

ホッセンフェルダーだけでなく、多くの物理学者たちが、自分たちがどれだけのお金を使っているのかということについての意識に乏しい。ほとんどの物理学者たちは、自分たちにあてがわれた予算しか眼中にない。電気技術者の人件費やセキュリティーにいくらかかるかとか、施設の建設にいくらかかったとか、知っている物理学者は少ない。

この本の記述のなかには、物理学者たちの世間知らずのところとか常識のないところが垣間見られる。もっともそれは物理学者たちのいいところでもあるので、あまり突っ込まないでおいたほうがいいのだろう。

たとえ突っ込みどころが多くても、この本がいいことに変わりはない。何度も手に取って開く。そのたびに新しい発見がある。こんな本はめずらしい。

(41)Peter Wohlleben『The Hidden Life of Trees』

2024年9月27日(金)

自然という不自然

今週の書物/
『The Hidden Life of Trees』
Peter Wohlleben 著、Jane Billinghurst 訳
Greystone Books (2015)
『Das geheime Leben der Bäume』
Peter Wohlleben 著、
Ludwig Buchverlag (2015), Heyne Verlag (2019)

『樹木たちの知られざる生活』
ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川 圭訳
早川書房、2018年刊

Google によると、世界に存在する全ての本の数は1億2986万4880冊だという。Google がどんな計算をしようと、確かなのことがある。本の数はとてつもなく多いということだ。人が一生に読む本の数は、平均2000冊にも満たないという記事を見つけた。どんな読書家も、本のほとんどを読まずに一生を終える。

ほとんどの人に知り合わず、ほとんどの本に出合わない人生のなかで、どんな人と知り合い、どんな本と出会いのかは重要だ。どんなふうな出会いであっても、どんな偶然であっても、必然に思える。本屋で、図書館で、書評で、広告で。人生を変えるような本との出会いがあれば、運がいい。

人生を変えるような本が いい本であれば、もう言うことはない。私にとってのそんな本が、今週取り上げる『The Hidden Life of Trees』(Peter Wohlleben著、Jane Billinghurst訳、Greystone Books (2015))だ。『Das geheime Leben der Bäume』(Peter Wohlleben著、Ludwig Buchverlag (2015), Heyne Verlag (2019))の英訳で、日本語訳『樹木たちの知られざる生活』(ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川 圭訳、早川書房、2018年刊)も出版されている。

Peter Wohlleben は、ドイツの Rottenburg am Neckar にある林業学校を卒業後、Rhineland-Palatinate 州政府の森林保護官として20年以上働いた。森林管理の仕事を始めた頃には「この木はいくらになるだろうか」「この木から どれだけの板がつくれるだろうか」としか考えていなかった著者が、樹木たちのことを深く知り、子どもの頃に感じていた樹木たちへの愛を取り戻してゆく。

森林管理の仕事を通して身につけた著者の考えは、示唆に富んでいる。「私たちの森林は手つかずの自然ではない」「何もしないこと(人が手を加えないこと)こそが自然保護」「森林の生態系を人のために必要以上に利用していいのか?」「木々に不必要な苦しみを与えてもいいのか?」というようなメッセージ性の強い考えが次々に出てくる。

こういう考えは、神道の起源にも通じる。著者の自然の捉え方は、「自然のなかに神を感じる」「自然のなかで命を感じる」「山や岩、木や滝などにも神が宿る」といった自然崇拝と 根は同じ。人は所詮、自然の一部なのだ。

もっと謙虚になって、人だけではなく、動物だけでもなく、あらゆる生き物の尊厳を尊重する。あらゆる生き物の能力、感情、望みなどがよりよくわかるようになれば、人と生き物との付き合い方も変化していくのではないか。著者の文章は説得力がある。

コミュニケーションのことを考えるとき、自分たちのことしか考えていない私たちは、五感のなかの視覚と聴覚を思い浮かべる。口から発せられた声は 耳から脳に伝わり理解される。紙の上に書かれた文字やスクリーン上の文字は 目から脳に伝わり理解される。それがコミュニケーションだと思っている。

蠅の視覚は、人の視覚とは違う。蠅は、人とは違うものを見ている。蠅は 人には見えないものを見ているし、人は 蠅には見えないものを見ている。同じように、犬の聴覚や嗅覚は、人の聴覚や嗅覚とは、大きく違う。

違うからといって、蠅や犬がコミュニケートしていないというわけではない。確かに 蠅も犬も言葉を持っていない。でも 違った感覚を使ってコミュニケートしている。私たちにわからないだけなのだ。

そして木も、他の木とコミュニケートしている。キリンに葉を食べられたアカシアは、キリンの嫌がるエチレンを発散する。エチレンを感じたまわりの木は、いざというときのためにエチレンを準備しはじめる。

他にも さまざまな例がある。ブナもトウヒもナラも、虫に葉をかじられると、かじられたまわりの組織を虫が嫌がるように変化させ、身を守ろうとする。さらに人体と同じように、電気信号を走らせる。ゆっくりとだが、木の他の部分に危険を知らせるのだ。

私たちはわかったような顔をして 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことを五感というが、人のことだけを考えても 他の感覚がたくさん浮かんでくる。痛覚、温度覚、圧覚、位置覚、振動覚、二点識別覚、立体識別覚、内臓感覚、平衡感覚などだ。動物や植物に私たちの知らない感覚があって、それを使ってコミュニケートされていても、何の不思議もない。

木がコミュニケートしていると知れば、木が生きているという実感がわく。木が生きていると知れば、私たちの木に対する態度も変わるだろう。私たちの木に対する態度が変われば、行動も変わってくるに違いない。

アメリカで デイヴ・マシューズ・バンド(Dave Matthews Band)というバンドが活動していて、社会的な歌を多く演奏するためか アダルトロックなんていうカテゴリーに入れられているのだが、メンバーも曲も いい意味でアメリカっぽい。

そのバンドが「Together We Can Plant Millions of Trees」という運動をしている。一緒に何百万本もの木を植えようというわけだ。デイヴ・マシューズも その仲間たちも、「森に緑を取り戻そう」「失われた森を復活させよう」という善意から運動していて、好感が持てる。

でも、と思う。でも、デイヴ・マシューズが『The Hidden Life of Trees』を読んで Peter Wohlleben に共感するなんていうことがあったら、「木を植える」より「ほったらかしにする」ほうがいいと思うかもしれない、と思う。

デイヴ・マシューズ・バンドだけではない。多くの環境問題に興味を持っている人たちの考え方は、あまりにも人間中心的だ。人間が作ってきた自然でなく、人間が手を入れる前の自然のほうが、はるかに「自然」ではないか。

オーストラリアで、森林火災のすぐ後、鎮火をしたというタイミングで現場周辺を運転したことがある。まる焦げになったユーカリの木々が続く景色は異様だったが、交通標識が溶けてしまうようななかで、真っ黒に焼けているのに 目にも鮮やかな緑の芽を出しているユーカリの生命力には心を打たれた。

ただ、山火事が大きくなった原因がユーカリだと聞いて、「うん?」「えっ?」と心は揺れた。ユーカリの葉はテルペンを放出するのだが、テルペンは引火性なので、何かの原因で発火したら燃え広がって大きな山火事になる。ユーカリの樹皮は燃えやすく、火がつくと幹から剥がれ落ちるのだが、幹の内側は燃えずに守られる。ユーカリの根は栄養をたくわえていて、火事の後も成長し続けることができ、新しい芽を出す。ということのようなのだ。

美しい花をつけ かぐわしい香りを放ち 鳥や動物を惹きつけ続けてきたユーカリが、長年にわたって邪魔に思ってきた下草や低木を焼き尽くし、焼畑農業のように土壌を良くする。ユーカリが、そんなことを何百年何千年何万年も繰り返してきたなかに 人が入って行って家を建て、家が焼かれたと言って大騒ぎする。人にとって山火事は迷惑なことに違いないのだが、ユーカリにとってみれば 消火活動のほうが迷惑なのだろう。

人間のための木という発想を捨て、つまり「人にいい森」「人の経済活動に役立つ森」とか「人が見て美しい森」「観光資源としての森」を追い求めるのをやめて、人間が手を入れない森を少しずつでも取り戻していったほうが いいのではないか。

この本を読むと、本気でそんなことを考えてしまう。反文明というような大げさな考えではない。少しずつ、人が壊してしまったものを 元に戻せはしないかと、そう考えているだけなのだ。

マッシモ・マッフェイ(Massimo Emilio Maffei)によると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類のであっても自分の根とほかの根を、しっかりと区別しているという。少し長くなるが、『The Hidden Life of Trees』から数パラグラフを引用してみよう。

樹木はなぜ、社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。

逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。一本一本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。

森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

私はこういう文章を読んで、植物や動物のほうが 人よりもはるかに人間らしいと感じてしまう。近代化と ともに、多くの人たちが狂い、壊れてしまったのではないか。私には そんなふうに思える。

Peter Wohlleben は「すべての人工林を 原始林に戻そう」などとは言わない。その代わりに「もっと木のことを知ろう」と言う。「木のコミュニケーションを解明しよう」「森に足を踏み入れて想像の翼を羽ばたかせよう」という Peter Wohlleben は、環境会議で出会う環境問題の専門家とはすべてにおいて違う。

Peter Wohlleben は木のことをよく知っている。そして木をとても大事にしている。私はこの人のことが大好きだし、この本が好きだ。本当にいい本に出会った。そう思っている。

(40)なかにし礼『口説く』

2024年9月20日(金)

大人の恋愛

今週の書物/
『口説く』
なかにし礼著
河出文庫、1999年刊

「作詞家と詩人の違いは?」と聞かれて答えることはできるだろうか? 「作詞家は作詞をする人、詩人は詩を書く人」とか「作詞家は作曲家やの歌手のために歌詞を書き、詩人は自分のために詩を書く」と言っても答えにはならない。

作詞家は歌われるために歌詞を書き、詩人は読まれるために詩を書く。どちらも韻を踏んだり、スタンザが使われたり、特定の言語が選ばれたり、象徴性が用いられたりと 共通点は多いが、表現方法はまったく異なる。

作詞家も詩人も、歌手、小説家、翻訳家、脚本家、放送作家などの顔を持つことが多い。谷川俊太郎とか覚和歌子といった人たちのように、作詞家と詩人の両方の顔を持っている人もいる。

作詞家は、音楽ビジネスに組み込まれているために、どうしても多作になる。阿久悠、秋元康、岩谷時子、なかにし礼、安井かずみ、松本隆、石本美由紀、星野哲郎といった日本の作詞家たちも、何千曲もの歌詞を書いた。私には、そんな作詞家たちが、詩人に思える。

井上靖、三木卓、川上未映子、エドガー・アラン・ポー、ミシェル・ウエルベック といった人たちは、小説家であり詩人であった。寺山修司のように、詩人、劇作家、映画監督、小説家など多彩な顔を持つ人もいる。

アーティストは みんな 詩人。そうは言えないか? もっと言えば、人は みんな 詩人。そう言ってはいけないか? まあそうは言っても、私は作詞家という詩人が、特別に好きだ。

で今週は、作詞家が書いた一冊を読む。『口説く』(なかにし礼著、河出文庫、1999年刊)だ。なかにし礼がシャンソンの訳詞で身に着けた「フランス的な価値観」で貫かれ、洒脱な本になっている。

なかにし礼の人生は、『兄弟』などの自伝的小説や『わが人生に悔いなし』などの自伝的エッセイにより、そしてマスコミへの露出により、よく知られている。「満洲からの引き揚げ」から「癌の発覚とその克服」まで、情報量は異常に多い。では、どんな人だったとかといえば、情報量が多いせいもあって、その輪郭は、ぼやけてしまう。

シャンソン喫茶でのアルバイトから始まった「仕事」も、シャンソンの訳詞、作詞、作曲、歌、映画出演、コンサートや舞台の演出、ラジオのパーソナリティ、テレビ出演、翻訳、小説、エッセイと広がりを見せ、膨大な量の作品が残っているのだが、どんな人だったのかはわからない。つかみどころがないのだ。

『口説く』は、1996年4月から1997年3月まで「週刊読売」に連載された映画エッセイ。50の映画から50の話が書かれ、まとめられて、1997年7月に『時には映画のように』というタイトルで単行本になり、1999年3月に文庫になった。どの話も、男から見た男と女の話だ。

書かれた内容が、なかにし礼の恋愛観を反映しているかというと、必ずしもそうではないように思える。そこはサービス精神旺盛なプロの作詞家。読者が欲しがっている文章を提供しているように思えてならない。

映画のなかの名セリフが紹介される。それだけでも嬉しいのに、その上になかにし礼の文章がかぶさる。時にはニーチェとかアーウィン・ショウといった、なかにし礼のお気に入りの作家の文章もあらわれる。こんな贅沢はない。

〈男という生き物はどうしてこう女が好きなのだろう〉
〈奇跡の恋のあろうはずはない〉
〈妻であれ愛人であれ恋人であれ、男がその女しか目に入らないというのぼせた状態は残念ながらほんのわずかの間しか続かない〉
〈結婚してから七年間、たった一回の浮気もしていない男がいたとしたら、実になんとも見上げたもんだと思う〉

こういう文章の背景に流れているのは、恋愛についての美学だ。完璧な恋愛への憧れと、完璧でない恋愛へのいつくしみ。恋愛が続いてほしいという願いと、続くわけなどないという諦め。うまくいったと思ったときに実は何もうまくいっていないという寂しさや悲しみ。そんなものは、どこまでも美しい。

シャンソン喫茶「銀巴里」を覆っていたモラルが戦後の文化に及ぼした影響は大きいが、なかにし礼が作詞をした歌のなかにも「銀巴里」が色濃く映り込んでいる。どれもモダンで、演歌からとても遠い。

諦めとか、悲しみとか、寂しさとかに彩られた人間の恋愛は、美しい。それは、『口説く』のなかで取り上げられた映画の美しさに通じる。人間らしいという言葉があるけれど、どこか欠けている恋愛は、どれも人間らしい。

なかにし礼は、恋愛を中心にしてものを考えることで、いつも正しくはいられない人間というものを見事に描いている。どのエッセイも短いが、行間から見えてくるものは多い。

〈要は女に敗北の恥を与えないこと。敗北の恥を勝利の歓喜にかえてやる優しさ。それが大事なのだ〉
〈男と女が、出会って恋をして結ばれて、何かいいことがあるのだろうか。傷つけ合い憎しみ合い、最後は無残に別れる。別れなかったからといって幸福とは限らない〉
〈不倫を英語でアダルタリーという。アダルトといえば大人のことであり、大人であれば不義密通もやむなしといった感じが出ていて、この英語はなかなか含蓄に富んでいる〉
〈あまり思い上がって、女の愛を粗末にしていると、取り返しのつかないことになる〉
〈人生で、自分を心底愛してくれる女に、そうたびたび出逢えるものではない〉

というような文章に、私は深く感じ入った。なかにし礼は、身勝手で自己本位な男のために、50もの珠玉のエッセイを書いてくれたのだ。それに応えるために、私はせっせと映画を見ようと思う。『天井桟敷の人々』のような映画を。たくさん。

(39)Hannah Arendt『The Human Condition』

2024年9月13日(金)

哲学者の視点

今週の書物/
『The Human Condition』
Hannah Arendt 著
University of Chicago Press、1970年刊

先週は「考えさせられる」ということでニーチェを取り上げたが、今週は「もっと考えさせられる」ハンナ・アーレントを取り上げる。アーレントは、ナチズムやスターリニズムといった全体主義を憎み、全体主義のもとでなぜ人間が無辜の民を殺すことができたのかを考え続けた。

20世紀にドイツでのユダヤ人迫害からフランスに逃れ さらにアメリカに逃げざるをえなかったアーレントの生涯は、17世紀にポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきた両親から生まれたスピノザの生涯を思い出させる。

アーレントは『アウグスティヌスの愛の概念(Love and Saint Augustine)』のなかに「地上での人間の性質と 人間が世界に属していることを 克服できるのは 愛だけだ」と書いて「愛をもつこと」で未来に希望を見い出そうとしたが、それは、スピノザが『エチカ(Ethica)』のなかに「人間の感情はすべて 喜び 苦しみ 欲望から派生している」と書いて「喜びをもつこと」で未来に希望を見い出そうとしたというのに、似ている。

人間に対する不信や絶望から生まれてくる希望は、未来が見通せないなかにあっては、特別のひかりを持って輝く。アーレントもスピノザも、人間について「なぜ、そんなことができるのか?」という疑心をいだいていただけに、示された希望には重みがある。

アーレントはナチズムの被害者ではあったが、その批判は、あくまでも外側からの批判だ。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧(Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager)』のような内側からの体験とは違う。でも、だからといって、アーレントの全体主義への批判が霞むわけではない。

「全体主義の理想的な対象は、確信を持ったナチスや確信を持った共産主義者ではなく、事実と虚構の区別や真実と虚偽の区別がつかない人々だ」「絶えず変化し、理解できない世界では、大衆は、すべてを信じ、同時に何も信じない、すべてが可能で、何も真実ではないと考えるところまできている」「全体主義教育の目的は、信念を植え付けることではなく、信念を形成する能力を破壊することだ」「危険な考えなどない。考えること自体が危険なのだ」などなど、どの文章もアーレントらしい。

フランス革命に批判的だっただけでなく、イギリス革命やロシア革命についても批判的で「革命家のヒロイズムは 人間のリアリティに対して無感覚になっただけ」「人々が求めたのは政治以前の暴力だった」「最も急進的な革命家は、革命の翌日には保守派になる」などの文章を残している。

「人権は単なる抽象概念にすぎない」と言い、「現在の厳しさから逃れて、過去への郷愁に浸ったり、より良い未来への期待したりすることには意味がない」と繰り返すアーレントは、近づき難い雰囲気を醸し出す。それなのに、アーレントの文章は読まれ続けている。

で今週は、ハンナ・アーレントの多くの本のなかから一冊を選んで読む。『The Human Condition』(Hannah Arendt 著、University of Chicago Press、1970年刊)だ。

全体主義のことや革命のことを書いたアーレントの文章は、キラキラしていた。どの文章にも共感し、好印象を持った。愛のことを書いた文章は、キリスト教とか神とかいう部分に抵抗を感じたせいか、それほどいいとは思えなかった。そしてこの『The Human Condition』のなかの働くことについての文章は、読んでいて嫌な気分になった。異和感を感じ続けたと言ったほうがいいのかもしれない。

日本国憲法の第27条「すべて国民は、勤労の、権利を有し、義務を負う」の、「勤労の義務を負う」という部分に感じる異和感や、軽犯罪法 1条4号 の浮浪行為(生計の途がないのに、働く能力がありながら就業する意思を有さず、一定の住居をもたずにうろつく行為)によって拘留されるか罰金が科せられるということへの異和感と同じ感じだ。

アーレントはこの本の多くの部分を 3つのタイプの「Human Activities」の説明に費やしている。「Labor」「Work」「Action」の3つだ。日本語では「Activity」と「Action」を「行動」と「活動」、「Labor」と「Work」を「労働」と「仕事」と訳して混同を防いでいるようだが、紛らわしいことこの上ない。

そんなことはともかく、アーレントは「Labor」「Work」「Action」を厳格に区別し、それぞれの意味について深く考察している。あわせて「political concept(政治的概念)」と「social concept(社会的概念)」、「public realm(パブリック領域)」と「private realm(プライベート領域)」といったことについても考察を深める。

くどいくらいのわかりにくい考察の後、アーレントは「vita activa(活動的生活)」と「contemplativa(黙考的生活)」について書く。そのなかには「Knowledge is acquired not simply by thinking, but by making(知識は考えることだけでなく、作ることによって得られる)」という文章がでてくる。

アーレントの「Work」についての、そして「science(科学)」についての偏見ともとれる特殊な考え方から、アーレントならではの結論めいた文章が出てくる。望遠鏡という《「Work」の産物 》がガリレオなどのさまざまな発見につながり、「Work」が「contemplation(黙考)」よりも重要になり、「science」が「philosophy(哲学)」より重要になってしまったというのだ。

読んでいて私は「これだっ!」と思った。感じ続けた異和感は、アーレントの「Work」や「science」に対しての考え方から来ていたのだ。「Labor」や「Work」について膨大な量の文章を書いていながら、労働者にはなったことがない。「science」について書いていても、それは想像でしかない。

アーレントは18歳の時にマールブルク大学で教授のハイデッガーと出会い、哲学に没頭した。ハイデッガーとは後に不倫関係になる。またヨナスとも出会い終生の友になる。その後フライブルク大学ではフッサールのもとで一学期を過ごし、ハイデルベルク大学ではヤスパースの指導を受けた。博士論文の『Der Liebesbegriff bei Augustin(アウグスティヌスの愛の概念)』は今でも多くの人に読まれている。

そんなアーレントに労働者の気持ちがわかるわけはないし、科学の知識を期待するのは無理というものだ。全体主義を批判したり、革命のことやマルクスのことに論評を加えたりすることはできても、社会の普通のことを書くのは無理なのではないか。一流の外科医にファミリードクターが務まらないように、一流の哲学者には専門外のことはわからないのだろう。

今の複雑でグローバルな社会では、2000年以上続いてきた哲学のアプローチや宗教のアプローチはもう通じない。この本を読んで、そんな気がしてきた。

(38)Friedrich Nietzsche『Beyond Good and Evil』

2024年9月6日(金)

今の社会のモラルは奴隷のモラル

今週の書物/
『Jenseits von Gut und Böse』
Friedrich Nietzsche 著、1886年刊

『Beyond Good and Evil』
Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳
Penguin Classics、2003年刊

戦前は、護国の精神に富んだ忠良なる臣民を育成するのが教育の目的だった。臣民というのは天皇に従属する者のこと。建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるということで、教育勅語の精神に合致する教科書が使われた。また、中学校以上の男子校には現役陸軍将校が配属され、軍事教練が実施された。

そんな歴史のせいで、日本には今でもパブリックという考えがない。「Public Private」は「公私」と訳されはするが、その実態は「官民」であり、「Civil Servant」は公務員と訳されてはいるものの、「Civil Servant」として働く者たちの意識は相変わらず「官吏」であって、「国民に奉仕する」という考えは微塵もない。

国は国民のために存在するというのと、国民は国のために存在するというのとでは、意味合いがまったく違う。日本には今でも「お上」が存在していて、国民は「お上」の言うがまま。国の言うことには黙って従うし、警官や税務署員の理不尽に対しても従順だ。

学校での「いい子」といえば「言うことを聞く子」「言われた通りに行動する子」を指し、大人になって出来上がった「善良な市民」は、いつも正しく 温かい心を持ち、親切で 思いやりがあり、勤勉で どんな辛いことも耐え忍び、謙虚で 他人のために行動する。

日本の学校は奴隷養成所で、日本の社会は奴隷のような人間で溢れている。そんなことを考えているときに出会ったのが ニーチェの「Master–slave morality」と 忌野清志郎の「善良な市民」。「Master–slave morality」は まるで今の日本のことを言っているようだし、「善良な市民」は「小さな家で 疲れ果てて 眠るだけ」「新しいビールを飲んで 競馬で大穴を 狙うだけ」「飯代を 切詰めたりして Jリーグを 観に行くだけ」という具合で なんともせつない。

で、今週は「Master–slave morality」のことを書いた文章を読む。『Beyond Good and Evil』(Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳、Penguin Classics、2003年刊)だ。ニーチェは、1879年に体調を崩して大学を辞めてから、1989年1月に精神病院に入院させられるまでの10年ほどのあいだ、療養のために 夏はスイスのイタリア語圏の村で 冬はイタリアやフランスの海辺の町で過ごしたのだが、この本はそのあいだに書かれた一冊だ。

ニーチェは不思議な存在だ。多くの人が若い頃に出会い、あまり多くを読まずに、それぞれが勝手な解釈をする。「ルサンチマン」だの「ニヒリズム」だのと言って わけのわからないことをこねくり回す人は多い。でも、読まないのは もったいない。ニーチェは いろいろなことを違った視点から捉えるのがとてもうまいから、固定観念から自由になるのの助けになる。

『Beyond Good and Evil』の「Chapter IX   What is noble?」には、主人道徳(master morality)と 奴隷道徳(slave morality)という2つの道徳が出てくるのだが、その前提として 一方に高貴な人たち(権力者たち、貴族たち)がいて、もう一方には弱者たち(庶民、抑圧された人たち)がいるという社会がある。

主人道徳は、意志の強い者の道徳とされ、その道徳での「善」は 高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、ささいなものだという。高貴な人たちの道徳とはいえ、動物的・直截的で、かつ積極的・攻撃的だ。心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして価値に対する正確な認識が必要とされるというが、それは仲間内だけのことで、弱い者たちは眼中にない。

これに対し奴隷道徳は、弱い者たちの持つ道徳で、その道徳での「善」は コミュニティ全体にとって役立つもの、「悪」は 権力を握っている者たちのやることなすことだという。謙虚さ、慈悲、憐れみなどの感情は、強い者たちにはわからないと思っている。民主主義・自由・平等などは、奴隷道徳の政治的な表現だという。

とはいっても、書かれたのは日本でいえば明治時代だから、今とは何も比較はできないが、それでもいろいろ考えさせられる。日本とかアメリカとか、21世紀に民主主義・自由・平等などを掲げている国を、ニーチェは、奴隷道徳の国だというのだろうか? エヌビディアのジェンスン・フアンのようなビリオネアが奴隷道徳を身に着けていることを、どう説明するのだろう?

そんな疑問を考えるために、私たちの国である日本について考えてみよう。日本には、世界でもめずらしい『道徳教育』がある。教師は自らの信念を押し付けず、日本に昔からある道徳心に従うよう指導し、親や年長者を敬ったり、動物に優しく接したり、困っている人を助けたりすることの大切さを教えるのだという。

道徳教育の基盤は家庭にあるべきなのに、子どもは夕方から夜にかけてしか家にいないからといって、学校が代わりに道徳教育の役割を引き受ける。学校に行かない日が年間に170日もあるのだし、そもそも学校にいる時間の大部分は道徳以外の強化の授業に費やされるのだから、年に30時間にも満たない『道徳教育』をしたところで、たかが知れているのだが、この類のプロパガンダの子供への影響は思いのほか大きい。

その文部科学省が掲げる道徳教育だが、道徳的な心情、判断力、実践、態度などの道徳性を養うのが目的で、秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における協調性も含まれているという。なんのことはない、ニーチェの言うところの奴隷道徳の教育をしているのだ。

日本教職員組合(日教組)のウェブページに行っても、日本国憲法とか人権教育とかいった進駐軍が日本に押し付けたことが並んでいるだけで、掲げられている道徳がニーチェが書いた奴隷道徳であることは、文部科学省の道徳と何ら変わりがない。

要は、どんな立場にいるにせよ、今の日本人が道徳をイメージする場合には、ニーチェが説明した奴隷道徳しか頭に浮かばないということなのだ。日本には、主人道徳は悪だと考える人しか存在しない。まるで、みんなが(社畜とか皇民とかの)歯車の一部になったかのようだ。

考えてみれば、20世紀という国家の時代には、たとえそれが 軍国主義だろうが 民主主義だろうが 共産主義だろうが、個人の意思は認められない。

ニーチェが多くの文章を並べて言いたかった 主人道徳 における個人の意思を思い出してみよう。個人の意思はノーブルな(精神が高貴な)人間が持つものなのだ。ノーブルな人間は自分を価値を自分で決める。他人に承認を求めたりはしないで、自分で判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害で、悪なのだ。名誉を与えるのは自分だけ。価値の創りだすのも自分だけ。自分の中に認められるものは何でも尊重する。そのような道徳を持つものは今の日本には ひとりもいない。

主人道徳がいいと言っているのではない。主人道徳を持っている人がいないと言っているのだ。言葉を変えれば、ノーブルな人がひとりもいないということになる。そしてみんなが、そのことをいいことだと思っている。

何かに属していたり 金持ちだったりして 自分のことをノーブルだと勘違いしている人はいても、本当の意味で精神的にノーブルな人はいない。今の金持ちたちは、みんな卑しい。

今の状態から抜け出せないか? 奴隷道徳に覆われた社会のなかで 高貴な個人を獲得することはできないのだろうか? 自分の価値は自分で決め 自分のことは自分で判断する。そんな150年前にはあたりまえにいた「精神的に高貴」で「自分に誇りを持っている」人は、もう今の社会には現れないのか?

日本には、労働を強制されながら、そのことを自らの意志で働いているのだと考えている人たちが大勢いる。その誰もが、自分のことを奴隷だと思っていない。失業したら生きていけないと、上司の言うことに従い、長時間労働している人たちは、はたから見れば自由ではない。そんな人たちの過労死とか自殺とかが新聞紙上を賑わせるが、それはなぜなのか。その理由が、ニーチェの文章を読んでわかったような気がする。すべて奴隷道徳のせいなのだ。

自分の自由な時間を増やすことに罪悪感を感じ、逃げることをよしとしなければ、それはもう奴隷でしかない。そんなふうな人たちは、みんな、ニーチェの言う 奴隷道徳 の持ち主なのだ。

なにも 主人道徳 を持たなくてもいい。奴隷道徳 から解放されさえすればいいのだ。主人も奴隷も関係なく、国のため・会社のため・上司のためといった他人のためという発想を捨て、自分を否定せず、誇りを持って、自分のために生きる。それだけでいい。勤め人だろうが、自由業であろうが、奴隷道徳に染まらなければいいのだ。多くの人たちがそうすれば、社会はきっと もっと風通しのいいものになる。

ニーチェの著作を読むと、時代が違うせいもあって、そしてニーチェが病気だったせいもあって 反感を感じることが多い。でも考えさせられることが多々あり、個人の そして社会の 指針となることが少なからずある。少しだけでも、たとえ1章・1節だけでも読んでみるといいと、声を大にして言いたい。

(37)Patrick Süskind『Perfume』

2024年8月30日(金)

次は何が起きるんだろうと思わせる文章

今週の書物/
『Perfume』
Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳
Penguin Books、1986年刊

オフィスで電子機器に囲まれて多くの時間をすごしていれば、五感を意識することはあまりない。ところがスクリーン上の情報や書類、ミーティングなどから解放され、自然を意識して暮らしてみると、やたらと五感を感じる。

朝起きて雨戸を開け、朝の空気を感じる。朝のひかり、小鳥のさえずり、葉についた水滴、花の香り。そうしたものに囲まれて一日を始めれば、その日は間違いなく良いものになる。暑さ寒さを感じ、汗をかいたり凍えたりすることの、どれだけ気持ちいいことか、

そんな五感だが、目が見えなくなったり、耳が聞こえくなったりすれば、暮らしがむずかしくなる。痛みを感じなくなったり暑さ寒さを感じなくなれば危険だし、新型コロナに感染して味覚を失えば食べることや飲むことに支障がでる。逆に、見え過ぎたり、聞こえ過ぎたり、感じ過ぎたり、味覚が良過ぎたりするとどうなるか。

もうずいぶん前になるが、自らを「nez(ネ)」と紹介するフランス人の家を訪れたことがある。よくよく聞いてみると、香水の会社に勤める調香師で、匂いの専門家。パリとかニューヨークといった大都市は嫌な臭いでいっぱいで住むことができず、山に囲まれた田舎に住んでいるという。鼻がいいというのは、いいことばかりではないのだと、その時はじめて知った。

見えすぎも聞こえすぎも、人によっては困ることがあるのかもしれない。見えなくてもいいものが見えてしまったり、聞こえなくてもいい雑音が聞こえ続けるのはつらいだろう。舌が肥えて普通の食べ物がおいしく感じられないのはいやだろうし、高いワインしかおいしく感じられないなんて不幸でしかない。

五感の個人差は大きい。よく、人と動物とでは見ているものが違うという。人は目の前のものを色と形で見ているが、犬は通ることのできる道や座ることのできる場所を、蠅は照明と食器や食べ物を見ている。自分にとって重要なものしか見ていないのだ。

人も、自分が見たいものばかり見て、聞きたいものばかり聞いているのではないか。嗅ぎたい匂いばかりを嗅ぎ、好きな味の食べ物や飲み物ばかり選び取っているのではないか。自分の五感は、隣の人の五感と違う。そう考えると、五感というものがやけに魅力的に感じられる。

五感についての文章は多い。視覚に訴える文章が写真や映像を超えるのは難しいし、聴覚に訴える文章が実際の音や録音の再生を超えるのも難しい。触覚を表現する文章にはあまりお目にかからないし、味覚を表現する文章には陳腐なものが多い。

嗅覚に関する文章は昔からあり、源氏物語の匂宮の「また人に 馴れける袖の 移り香を わが身にしめて 恨みつるかな」なんていう歌を持ってくるまでもなく、平安時代の歌の世界は人の香りや花の香りであふれている。

で今週は、匂いに特化した小説を読む。『Perfume』(Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳、Penguin Books、1986年刊)だ。とても特異な作品だ。

この小説は、最近の商業的な小説に見られるような勢いよく一気に書かれたものとはまったくといっていいほど違う。18世紀のフランスのこと、そして匂いのことなどが、じつに見事に描かれている。作者はミュンヘンとエクス・アン・プロヴァンスで中世史と近代史を学び、パリとミュンヘンで ラジオの脚本や小説を書いていた。その経験がこの一冊に凝縮している。

まず驚くのが、18世紀のフランスの汚なさだ。人々は不潔で、街は悪臭を放っている。登場人物の匂いは、臭いと書いたほうがいいものが多く、体の匂い、汗の匂い、仕事に関連した匂い、住環境に関係する匂い、そして新鮮な花の香りやアロマの香りなどが詳細に描かれ、どのページからも匂いが漂ってくる。

パリの中心部の露店市場で魚を売っていた主人公の母親は、赤ん坊を産み落とすと、すぐに赤ん坊を魚の頭や尻尾と共にゴミのなかに捨てた。ゴミの中から見つけられた主人公からは匂いがしなかった。そんなふうに始まる小説からは、本当に匂いがしてくる。

また、母親が生まれたばかりのグルヌイユを殺そうとする最初から、グルヌイユが死ぬ最後まで、死が身近なものとして描かれていることにも驚く。18世紀のフランスの社会は、現代から見ればはるかに暴力的で、貧しい。それなのに、誰もがそんな社会をあたりまえのこととして受け入れてくる。

さすがラジオの脚本を書いた人だと感じるのが、「次は何が起きるんだろう」と思わせるところだ。たとえば、主人公のグルヌイのがある日、通りで、これまで嗅いだことのない香りを感じ取る場面。まだ嗅いだことのない極上の匂いに気付き、その匂いを追ってゆくところは、圧倒的だ。

さまざまな匂いが混じりあったパリの通りを、いい匂いがしてくるほうに向かってゆく。街の臭いに圧倒され、時にいい匂いの方向を失いながら進む。読みながらグルヌイユを応援している自分に気付く。やがてグルヌイユは、そのいい匂いのもとにたどり着く。その匂いが、赤毛の少女が発する香りだったということがわかる。そして、グルヌイユは、匂いを得るために少女を殺す。この殺人は唐突だ。

そこからのグルヌイユの人生は、苛酷だ。至高の匂いを手に入れようとする人生。香水屋に雇われて香水の調合を覚え、どんな香りでも作り出すことができるようになったグルヌイユは、パリを出て南に向かう。人に嫌悪感を感じたグルヌイユは、文明を避け洞窟で暮らす。野生の植物と動物とで生き延び、7年後に洞窟を出る。モンペリエでは、まわりにある手に入るものから自分の匂いを作り出し、その匂いを纏うことで他人から受け入れられる。

匂いのしない他人に嫌われる人間から、いい匂いのする他人に好かれる人間に変わることに成功したグルヌイユは、匂いを味方につけることで、侯爵の庇護を得るなどするが、人がいかに簡単に騙されるかを見て、人に対する憎悪感は軽蔑に変わる。そのあたりの感情は、作者自身の感情が書かれているのではないかと思うほど、見事に書かれている。

その後グルヌイユは、どうしたら自分が作り出した香りを閉じ込めて保存することができるかを知るために、グラースに向かう。グラースでは、24人の若い女性を殺し、人の香りを保存する方法を身に着け、最後にパリで殺した少女と同じ匂いを持つ少女を殺してその香りを閉じ込めることに成功する。

殺害容疑で警察に逮捕されたグルヌイユは死刑を宣告されるが、町の広場で処刑される直前に、少女の匂いから作った新しい香水を撒く。その香りはすぐに群衆を畏敬と崇拝の念で魅了し、有罪の証拠はそろっているのに、人々はグルヌイユの無実を確信し、判事は死刑判決を覆し、釈放を決める。このあたりの書き方は、秀逸だ。

人々は匂いによって狂い、欲望に包まれ、全員が集団乱交に参加するが、その後誰もそのことを口にせず、覚えている者はほとんどいない。捜査が再開され、グルヌイユの雇い主が犯人ということで絞首刑に処せられ、街は平穏を取り戻す。

グラースでの経験は、グルヌイユに人に対する憎悪感と軽蔑とを再認識させ、パリに戻って死のうという気持ちをもたらす。生まれた場所にたどり着くと、極上の香水を自分ふりかける。まわりにいた人々は香りに惹かれ、グルヌイユに集まってきて、バラバラにして食べてしまう。

パリの墓地の隣の魚市場で生まれ、オーベルニュでの洞窟生活を経て、グラースでの少女連続殺人と広場での奇跡、そしてパリに舞い戻ってのグルヌイユの昇天まで、まるでイエス・キリストの生涯をなぞったかのような物語なのだが、感情の欠如と倒錯ととらえられかねない行動とがイエス・キリストとの比較を拒む。でも、人々の心を満たす絶対的なものをつくりだした点は同じだし、愛のない孤独に耐えていた点もそっくりだ。

目的を達成しても空虚で、幸せは見つからず、死へ向かう。人から匂いを奪うために必要なテクニックをマスターし、人の匂いをまわりのものから作り出すこともできるようになったグルヌイユにとって、少女の匂いを手に入れたいという欲望が、殺人になってしまった。欲望はいつもおそろしい。

(36)谷崎潤一郎『鍵』

2024年8月23日(金)

見られるための日記

今週の書物/
『鍵』
谷崎潤一郎 著
中央公論社、1957年刊

 

代々木に『手帳類図書室』なるものがあるという。日記や手帳の目録に、書いた人の年齢、性別、職業、書かれた時期、読みどころ、持ち込まれた経緯などが書かれていて、気になったものを一度に3冊まで持ってきてもらい、読むという仕組みらしい。読みながら感じる後ろめたさは相当なものだという。

他人に見せることなど考えずに書かれたものには、遠慮や忖度がない。日記や手帳を読んで、書いた人のことを想像するのが楽しい人もいるだろう。ただ、覗き見るのが楽しいからといってむやみに覗き見をすれば、犯罪になってしまう。

イギリスの俳優 アラン・リックマン(Alan Rickman)の日記『Madly, Deeply: The Alan Rickman Diaries』(Alan Rickman著、Canongate Books、2022年刊)が出版され話題になったのは記憶に新しい。日記という私的なものが公開され出版されれば、日記のなかに書かれた人たちに思いもよらぬ影響が及ぶ。

「ニルヴァーナ」のカート・コバーンの日記『Kurt Cobain: Journals』(Kurt Cobain著、Penguin、2003年刊)の出版の時もそうだったのだが、未亡人が「亡き夫のことをもっとよく知ってほしい」などと思ってしまえば、有名人の日記は公開され出版されてしまう。

当の本人が望まなかったとしても、もう死んでしまっているので何も言えず、出版関係者が儲け話をみすみす逃すわけもなく、そこに書かれている人たちへの影響など考えられることもなく、すべてが皆に知られてしまう。

日記の出版は、ある意味、犯罪だ。そう思ってみたものの、そもそも日記が「読まれないこと」を前提に書かれたものなのかという疑問に突き当たる。覗き見て秘密を知りたい人もいれば、秘密を覗き見られたいという人もいるのではないか。

で今週は、そんな日記のことを考えさせられる小説を味わう。『鍵』(谷崎潤一郎 著、中央公論社、1957年刊)だ。

「漢字とカタカナで書かれた夫の日記」と「漢字とひらがなで書かれた妻の日記」が交互にあらわれることで物語が進んでゆく。ひとつの段落が長く、漢字とカタカナの夫の日記は《(コト)》などという表記もあって読みにくいのだが、それでも書かれてあることが面白く、先へ先へと読み進む。

夫は妻への思いを日記に書き、それを机のなかにしまい、鍵をかける。それでいて、妻に見て欲しい気持ちもある。妻は、夫を半分は激しく嫌い、半分は激しく愛している。その妻も日記を書いているが、夫に読まれることを恐れている。

はじめのほうの妻の日記の一部を引用するだけで、ねじれた心がわかるだろう。

三ガ日の間書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしにはいったら、あの水仙の活けてある一輪挿しの載っている書棚の前に鍵が落ちていた。それは全く何でもないことなのかも知れない。でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落しておいたとは考えられない。夫は実に用心深い人なのだから。そして長年の間毎日日記をつけていながら、かつて一度もあの鍵を落したことなんかなかったのだから。………私はもちろん夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけていることも、そしてその鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨緞の下に隠していることも、とうの昔から知っている。しかし私は知ってよいことと知ってはならないこととの区別は知っている。私が知っているのはあの日記帳の所在と、鍵の隠し場所だけである。決して私は日記帳の中を開けて見たりなんかしたことはない。だのに心外なことには、生来疑い深い夫はわざわざあれに鍵をかけたりその鍵を隠したりしなければ、安心がならなかったのであるらしい。………その夫が今日その鍵をあんな所に落して行ったのはなぜであろうか。何か心境の変化が起って、私に日記を読ませる必要を生じたのであろうか。そして、正面から私に読めと云っても読もうとしないであろうことを察して、「読みたければ内証で読め、ここに鍵がある」と云っているのではなかろうか。そうだとすれば、夫は私がとうの昔から鍵の所在を知っていたことを、知らずにいたということになるのだろうか? いや、そうではなく、「お前が内証で読むことを僕も今日から内証で認める、認めて認めないふりをしていてやる」というのだろうか?

人はなかなか本当のことを言わないし、また書かない。ただ日記のなかには。他人に言えないことを書く。ところが、それが読まれると思えば、書くことはゲームの一部になる。

日記のなかには、夫と妻の他に、夫婦の娘と夫の後輩が出てくるのだが、夫は妻のことだけが、妻は夫のことだけが気にかかっていて、娘や後輩は、夫婦のためにいるかのようだ。

終わりのほう妻の日記の気になったところも引用しておく。

夫は二月二十七日に、「ヤッパリ推察通リダッタ。妻ハ日記ヲツケテイタノダ」と云い、「数日前ニウスウス気ガ付イタ」と云っているけれども、実際はよほど前からハッキリと知っており、かつ内容を盗み読みしていたものと思う。私もまた、「自分が日記をつけていることを夫に感づかれるようなヘマはやらない」―――「私のように心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向って語って聞かせる必要がある」―――などと云っているのは、真赤な嘘である。私は夫に、私には内証で読んで貰うことを欲していた。「自分自身に向って聞かせ」たかったことも事実であるが、夫にも読ませることを目的の一つとして書いていた。では何のために音のしない雁皮紙を使ったり、セロファンテープで封をしたりしたかといえば、用もないのにそういう秘密主義を取るのが生来の趣味であったのだ、というよりほかはない。この秘密主義は、私のことをそう云って嗤う夫にしても同様であった。夫も私も、互いに盗み読まれることは分っていながら、途中にいくつもの堰を設け、障壁を作って、できるだけ廻りくどくする、そして、相手が果して標的へ到達したかどうかを曖昧にする、それが私たちの趣味であった。私が面倒な手数を厭わずセロファンテープ等を使ったのは、自分だけでなく、夫の趣味に迎合するためでもあった。

この夫婦は、似ていないようで似ている。不思議なことに、同じゲームのなかにいる。夫は日記に自分の欲望を書いてそれを妻に覗き見されることを願い、妻は妻で日記に夫の期待に添うというようなことを書く。それはまるでお互いをけん制し合うかのようで、普通ではない。谷崎潤一郎と松子夫人の関係はいったいどんなだったのだろう。そんな想像をするとき、読者は谷崎潤一郎の手のなかに落ちている。

谷崎潤一郎の最後まで読者を離さない技量には恐れ入る。たとえ女の気持ちがうまく書けてないとしても、男から見た妄想のなかの女はうまく書けている。でもそれにしても 変な作家の 変な作品だと 心から思った。

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追記: 余計なことだが、私は『陰翳禮讚』や『文章読本』のような作品が好きだ。そこで描かれるな美や美意識に惹かれて好きになった。ところが谷崎潤一郎の他の作品を読んでみると、その多くは松子と出会ってから育まれた歪んだ美や美意識で貫かれていて、どうも好きになれない。『鍵』もそのなかのひとつだ。ただ不思議なことに、好きになれないのに引き込まれてしまう。何度も最後まで読んでしまう。なんとも厄介な作品に出合ったものだ。

(35)井上靖『孔子』

2024年8月16日(金)

作家の最後の小説

今週の書物/
『孔子』
井上靖著、新潮文庫、1995年刊

過去を教訓として受け取る態度は古くからあり、日本のような島国においては文献は重要な役割を担っていた。

4世紀に「道教」が、5世紀に「儒教」や「陰陽五行」が、6世紀に「仏教」が大陸から伝来するのだが、その際にも文献は重要な役割を果たした。

伝来した文献がどのようにしてもたらされたのかは不明だが、どの文献も当時の日本の人々にとって有難いものだったに違いない。

4世紀に伝来した「道教」は、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術を重ねたようなものだったようだが、老子がいつ頃に生きていたのかさえわからなかったのだから、その成り立ちは想像に任せるしかなかっただろう。

5世紀に伝来した「儒教」は、孔子の死後にまとめられた思考や信仰・礼法の体系といってよいだろう。伝来した時点で 孔子が生きていた時代から千年近く経っていたから、文献以外に孔子のことを知る術はなかったに違いない。

6世紀に伝来した「仏教」も、釈迦の死後にまとめられた思考や信仰・礼法の体系と考えられ、「仏教」より「仏法」とか「仏道」のほうがしっくりくる。伝来した時点で 釈迦が生きていた時代から千年以上経っていて、文献以外に釈迦のことを知る術がなかったのは同じだ。

ウィキペディアの『歴史学』のページに、「歴史とは過去の事実を文献などを用いて収集し、編纂したものである」という記述がある。その記述に従えば、「道教」も「儒教」も「仏教」も、みんな歴史だと言えなくもない。

どんなに優秀な歴史学者が何を書いたところで、その信憑性は低い。なぜそう言い切れるかといえば、それは私たちが「文献の信頼性が極めて低い」ということを知っているからだ。「文献は権力者によって都合よく書き換えられる」というのが私たちの常識になっている。

戦争があれば勝者に正義があり、敗者に正義はない。権力闘争に勝ち抜けばいい人で、負けてしまえば悪い人。そんな例を、私たちはあまりにも多く知ってしまった。

過去のことを書こうとすれば、それは学者の手を離れるしかない。正しく書くことが不可能だと知れば、過去のことは小説家に任せるしかなくなる。

小説家は、自分が書きたいことを登場人物に投影させ、歴史を書くフリをしながら想像を広げてゆく。読み手も、歴史を読むフリをしながら想像を広げる。

歴史小説の多くは、事実というくびきから解き放たれ、誰も違うと言えないのをいいことに、登場人物が生きいきと行動する。当然面白い。

で今週は、井上靖が書いた「歴史」を読む。『孔子』(井上靖著、新潮文庫、1995年刊)だ。井上靖の最後の長編で、病室のベッドの脇の床に置いた机を前に書いたという。『孔子』は、孔子のことを書いたようでいて、井上靖が書きたかったことを書いた小説だと考えていい。

私は井上靖の詩が大好きだ。その詩はどれもフェルナンド・ペソアの詩に似ている。「詩というよりも、詩を逃げないように、閉じ込めてある小さな箱のような」言葉のつらなり。「ふと、心にひらめいた影のようなものや、外界の事象の中に発見した、小さな秘密の意味が、どこへも逃げ出さないで言葉の漆喰塗りの箱の隅の方に、昔のままで閉じ込められてある」大事なもの。井上靖は生きているあいだずっと詩人だった。

詩を書き続け、『楼蘭』『風濤』『天平の甍』を書き、『蒼き狼』『敦煌』『おろしや国酔夢譚』を書き、『風林火山』『淀どの日記』『本覺坊遺文』を書き、『額田女王』『氷壁』『しろばんば』を書き、『幼き日のこと』『あすなろ物語』『わが母の記』を書き、ほかにも膨大な量の虚を書いた。

それがどれだけの虚であるかは、『シルクロード紀行(下)』の解説として、長男の井上修一が「旅の父」という題で書いている。

旅行から帰った後、作品となって現われるそこここのシルクロードの風物は、私の目に映った現実の光景とは多くの場合異なっていた。父の想像力による意味付けと糖衣がなされ、実際よりも美しいことが多かった。よく言えば現実の奥に潜む悠久の真理が描かれているということかもしれない。しかし悪く言えば現実は父の史的イメージを造形するためのマテリアルになってしまっていた。
父は目前の現実社会に対しては通りすがりの旅行者としての立場を捨てようとはしなかった。それ以上の関心がなかったのである。たしかに取材やメモは克明にした。しかし長年思い続けてきた地に初めて足を踏み下ろした父は、自分の作り上げたその土地のイメージから外に出ようとしないように見えた。思いが強すぎるから、目の前の現実にまで注意が及ばないといった風であった。
父は多くの場合、日常的現実を体験する必要を感じていなかった。いつも何らかのフィルター越しに見て満足していた。
父の人生は極論すれば形而下の現実を完全に切り捨てたものである。人生も文学も現実を犠牲にしてはじめて可能になる類のものであった。その意味からすれば旅先のホテルの中に身を置き、ホテルの窓から下の町を眺めている父の姿は、案外父の本当の一面を表していたのかもしれない。

そんな井上靖が、ありとあらゆる虚を書いたあとで、晩年に書きたかった大きな虚とはいったい何だったのだろう。

そう思って『孔子』を読むと、大きな虚のトリックが見えてくる。孔子の弟子は3000人いたと伝わっているが、70人が「七十子」として歴史に刻まれ、そのうち特に優れた高弟は才能ごとに四科に分けられ四科十哲と呼ばれている。それを井上靖は、顔回、子貢、子路の 3人に単純化している。

閔子騫、冉伯牛、仲弓といった徳に優れた人たちのことは顔回が、宰我をはじめとする実務に優れた人たちのことは子貢が、冉有をはじめとする政事に優れた人たちのことは子路が、それぞれに代表している。子游や子夏のような学問に優れた人たちのは見事に省かれている。

この単純化と省略とが、読む側を楽にする。名前にまどわされることなく、まるで顔回、子貢、子路だけが弟子であったかのような設定は、伝えたいことを明確化するのにとても役に立っている。

もうひとつのトリックは、蔫薑という架空の人物を中心に据えたことだ。13年にわたる諸国巡遊の旅の一部始終を知っている人などいるはずもないのに、下働きをしながら一行についていった蔫薑という人物を置き、井上靖は自分の理解や想像をその蔫薑に語らせている。

そう、『孔子』は、井上靖の思いを綴った小説なのだ。孔子のことを書いた小説と思う人には「失敗作」と映るかもしれないが、この小説を詩作の延長と捉えれば、成功でも失敗でもない。思いには成功も失敗もないのだ。

そう考えれば、顔回の描かれ方にも納得がいく。顔回は、顔回その人ではなく、井上靖の顔回なのだ。問題を抱えた人たちが解決を求めてやってくる。子貢も子路もそれなりの解決策を提示するのだが、訪ねてきた人の顔は晴れない。顔回は何の解決策も提示できないのだが、訪ねてきた人の顔は明るく輝く。井上靖が書きたかったことは、あまりにも明らかだ。

例えば以下のようなくだりがある。

人間は常に正しく生きるということを意図しなければならぬ。天が応援してくれるか、妨害するか、そうしたことは一切判らないが、ともかく、人間はこの地上に於て、正しく生きることを意図し、それに向って努力しなければならないのである。そうした人間を、必ずや天は嘉してくれるに違いない。 “嘉す” とは、天が “よし” として下さることである。
天が嘉してくれるというのであれば、人間としては、それでいいではないか。それ以上のこととなると、天にしても、手が廻りかねるというものである。天の下、地の上、そこでは四時行われ、万物生じている。四季の運行は滞りなく行われ、万物はみな、次々に生れ、育っている。
天の受持たなければならぬ仕事はたいへんである。それ以上のこととなると。天にしても手が廻りかねる。人間が天に対して、何を望み、何を期待しても、無理というものである。

これは孔子の「天、何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天、何をか言うや」という言葉についての(つまり天命とは何かということについての)井上靖の理解であり、世界観の反映である。深夜に仁和寺の楼門の前に立つ井上靖が浮かんでくるではないか。

井上靖は蔫薑の口を借りて自分の思いを語り続ける。

今思うに、子はいつも、人間のことばかりお考えになっておられました。人間の倖せについて、不幸について、そして人間が、特にこの乱世に生まれ合わせた人間が少しでも倖せになるには、どうすればいいか。人間が不幸になるのを防ぐには、どうすればいいか。いつでも、子はこの地球上に生まれて来た人間というものについて、その倖せな生き方、生き甲斐ある生き方について考えておられました。人間、この世に生まれてきたからには、いかなる時代であろうと、倖せになる権利がある。そのようなお考えが、あらゆる子のお考えの根元に座っていたか、と思います。

そして仁とは何かに答えを与える。

『仁』とはすべての人間が倖せに生きてゆくための、人間の人間に対する考え方であります。「まこと」、「まごころ」、「人の道」、・・・ いろいろ、どのようにも名づけられましょうが、要するに、人間はお互いに相手をいたわる優しい心を持ち、そしてお互いに援けあって、この生きにくい乱れに乱れた世を、やはりこの世に生まれてきてよかった、と思うように生きようではないか。そういう考えが『仁』であります。

天命とは何か、仁とは何か、そんなことを書いてしまえば、もう何も書くことはないだろう。若い頃に京都の等持院に下宿し、龍安寺から仁和寺まで散歩しながら思索に耽った井上靖がたどり着いた場所に『孔子』という本は似合っている。そう考えると『孔子』という文庫本が特別のひかりを放っているように見えてくる。

(34)アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』

2024年8月9日(金)

西のほうから 理解不能な人たちが 襲ってきた

今週の書物/
『Les Croisades vues par les Arabes』
Amin Maalouf 著、
éditions Jean-Claude Lattès (1983), J Ai Lu Editions (1999/2023)

『アラブが見た十字軍』
アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳
リブロポート、1986年刊/ちくま学芸文庫、2001年刊

何のせいか、最近「西欧の視点が世界を覆っている」と感じることが多くなってきた。アメリカを含めた西ヨーロッパの視点が正しいとされ、それ以外の視点は正しくないとされる。私たちはそんな世界に生きているのではないか。少なくとも日本は、そんな場所になってしまったのではないか。

世界は広い。だから西欧の視点を否定する人たちは多い。中国やロシアの人たちはもちろん、東欧や中東の人たちのなかには、西欧に対する複雑な感情があるように思う。それは否定する気持ちであり、憧れでもある。

感情が複雑になれば、西欧の視点への対処の仕方も複雑になる。デモクラシーというやり方に賛成しながら 内心はそれがいいものとは思っていなかったり、人権という価値が普遍的だと言っていても 内心ではそうは思っていなかったりする。

アフリカや東南アジア・南アジアの国々の指導者たちの多くは(そして富裕層の人たちの多くは)アメリカ・西ヨーロッパの教育を受けていて、西欧の視点を否定する気持ちはあまりないかもしれない。でも、そういう国々の民衆のほとんどは否定の気持ちを持っている。

日本ではあたりまえのようにウクライナを支援する空気が社会を覆っているが、そんな空気があたりまえでない場所は多い。西欧の視点を否定する人たちには、それなりの論理がある。

非西欧側の視点を持つ人の数は、地球上で間違いなく多数派を占めている。その人たちの論理を軽んじていると、いつか大きなしっぺ返しにあうのではないか。そういう問題意識を持ってインターネットに接してみると、驚くほど多くの非西欧側の視点で書かれたウェブページが出てくる。

読んでみると、書いてあることの切実さに打たれる。私たちがあたりまえと思ってきた西欧の視点のおかしさや さまざまな不条理に気づくのだ。

そう、今週は、そんな非西欧側の視点で書かれた代表的なエッセイを味わう。『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳、リブロポート (1986年刊)/ちくま学芸文庫 (2001年刊))だ。『Les Croisades vues par les Arabes』(Amin Maalouf著、éditions Jean-Claude Lattès (1983) / J Ai Lu Editions (1999/2023))の日本語訳で、翻訳作業を想像するだけで訳者たちには頭が下がる。

この本を読み始めたのは はじめてではないが、最後まで読んだのは はじめてで、おかげで「終章 アラブのコンプレックス」のなかの「十字軍が残した傷跡」で素晴らしい文章に出会うことができた。

Alors que pour l’Europe occidentale l’époque des croisades était l’amorce d’une véritable révolution, à la fois économique et culturelle, en Orient, ces guerres saintes allaient déboucher sur de longs siècles de décadence et d’obscurantisme. Assailli de toutes parts, le monde musulman se recroqueville sur lui-même. Il est devenu frileux, défensif, intolérant, stérile, autant d’attitudes qui s’aggravent à mesure que se poursuit l’évolution planétaire, par rapport à laquelle il se sent marginalisé. Le progrès, c’est désormais l’autre. Le modernisme, c’est l’autre. Fallait-il affirmer son identité culturelle et religieuse en rejetant ce modernisme que symbolisait l’Occident ? Fallait-il, au contraire, s’engager résolument sur la voie de la modernisation en prenant le risque de perdre son identité ? Ni l’Iran, ni la Turquie, ni le monde arabe n’ont réussi à résoudre ce dilemme ; et c’est pourquoi aujourd’hui encore on continue d’assister à une alternance souvent brutale entre des phases d’occidentalisation forcée et des phases d’intégrisme outrancier, fortement xénophobe.

という一節だ。日本語訳は、

 西ヨーロッパにとって、十字軍時代が真の経済的・文化的革命の糸口であったのに対し、オリエントにおいては、これらの聖戦は衰退と反開化主義の長い世紀に通じてしまう。四方から攻められて、ムスリム世界はちぢみあがり、過度に敏感に、守勢的に、狭量に、非生産的になるのだが、このような態度は世界的規模の発展が続くにつれて一層ひどくなり、発展から疎外されていると思いこむ。
 以来、進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶して、その文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に、自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として進むべきか。イランも、トルコも、またアラブ世界も、このジレンマの解決に成功していない。そのために今日でも、上からの西洋化という局面と、まったく排外的で極端な教条主義という局面とのあいだに、しばしば急激な交代が続いて見られるのである。

というものなのだが、この一節が この本の結論だと言えなくもない。西洋が絶え間ない侵略のあとムスリムは見事に立ち直って、オスマントルコの旗のもと、ヨーロッパの征服に出かけるまでになる。だがそれは、うわべにすぎなかったと アミン マアルーフ は書く。

なぜこんな結論めいたことを先に書くのかというと、読み進むうちに混乱していったからだ。渇き、飢え、大軍、同盟、合戦、勝利、惨敗、攻撃、襲撃、突撃、守備、防衛、自衛、死守、内紛、陥落、出陣、奮戦、抵抗、寛容、残虐、惨劇、復讐、圧勝、捕縛、奇襲、夜襲、戦死、陰謀、暗殺、処刑、略奪、攻略、滅亡、壊滅、消滅、公正、完全、待伏せ、裏切り、人殺し、人殺し、人殺し。くらくらしてくる。

「ひとつひとつの戦闘に勝つということと 長いあいだの争いに勝つということとは、あまり関連ないんじゃないか」「社会が活性化するか 衰退するかも、戦いにはあまり関係ないのではないか」というような疑問は、読んでいるうちに消えるどころか、膨らみ続けた。

フランクに狙われたのはエルサレムだけではない。普通の街が狙われる。狙われた街の人たちには、なぜ襲われるのかがわからない。襲う側には異教徒の殲滅というという理由があるのだが、襲われる側にはそんな理由は想像もつかない。

フランクがやって来るまでは、侵略には領土拡張という明確な理由があった。侵略する側にも 侵略される側にも、民間人をむやみに殺さないとか、抵抗しない者に暴力をふるわないといった暗黙の了解があった。そんな暗黙の了解など持たないフランクの侵略は、災害でしかなかった。

正義という言葉があるが、そんな言葉はフランクを前にしたとき、ただただむなしい。読んでいて、すっきりしないのだ。

「国が細分化され、互いに争っている」という状態ほど、読者をいらいらさせるものはない。隣国を助けるとか、協同してことにあたるとかいう発想が、誰にもないのだ。「隣国が弱くなることは、いいことだ」と みんなが思っているところに攻め入るのは、そう難しいことではない。

フランクという災害は、繰り返しやってくる。忘れたときに再びやって来るというのは、自然災害に似ている。防ぎようがないというところも、自然災害のようだ。

災害に遭った記憶が地域全体に共有されると、フランクを過大評価して恐れたり、必要以上に用心深くふるまうようになる。侵略が 100年・200年と続いたとき、地域の人たちの記憶がどのようなものになっていったのか、地域の人たちにどんな影響を与えたのか、そんなことを考えていると、この本一冊ではなにも見えてこないように思えてくる。

人権や民主主義などといった理想が戦争の正当な理由として認められるならば、十字軍のようなものまでが正当化されてしまう。理想のための戦争は十字軍的なものとして否定されるべきだと思い知らされる。そんなふうに、読んでいるときに自然といまのことに思いが飛ぶ。

フランクの侵略がなければ、いまの シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルといった国々の混乱はなかっただろう。そう考えるとき、フランクの侵略を災害に例えるのは、どこか違っていると感じる。

侵略した側の責任とともに、侵略された側の責任も大きいと気づいた。そんな読書だった。侵略された側のメンタリティーは、どこかいまの若い日本人のメンタリティーに通じるものがある。日本はいったい何に侵略されたのだろう。