2024年8月2日(金)
科学記者の視点
今週の書物/
『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』
尾関章著、岩波現代全書、2013年刊
もう30年近く前のある日、ジュネーブ国際機関日本政府代表部のパーティで、今年6月5日にお亡くなりになった駒宮幸男さんが「先輩!」といって声をかけてきた。駒宮さんとは同じ中学でサッカーボールを蹴りあった仲なのだが、お会いするのは中学卒業以来はじめてで、よく気がついてくれたものだ。
話してみると、駒宮さんは東大の教授で、欧州原子核研究機構 (CERN) の加速器で素粒子物理の実験をしているチームを率いているという。住んでいる村が私の住む村からほど近く、子どもが同じ日本語補習校に通っていたこともあって、家族ぐるみの付き合いが始まった。サッカー日本代表のはじめてのワールドカップの試合「日本対アルゼンチン」を見に行ったりもした。
そんな駒宮さんが、ある日「先輩と経歴が似ている人が会いに来るんだけれど、一緒に食事をしないか」というので、ランチの時間に CERN にほど近いピザ屋まで出かけて行った。そこでお会いしたのが尾関章さん。朝日新聞の科学部の記者で、駐在先のロンドンから駒宮さんのところに取材に来ていたのだ。
尾関さんとの会話は、あいだに入った駒宮さんが困ってしまうほど、かみ合わなかった。どうも同じ学年らしい。同じ大学で物理を勉強していたらしい。話をするうちに同じ高校を卒業していたことがわかり、さらに話をしていると同じ研究室だということがわかる。それなのに「はじめまして」という感じなのは、どう考えてもおかしい。
その後、尾関さんとは、1回だけ、東京で夕食をご一緒させていただいた。私から誘い、誰かもう一人いたように記憶しているが、それが誰だったのかは定かでない。どこでお会いしたのかも、何を話したのかも、覚えていない。
生まれてから大学まで生活圏が重なっていて、高校も大学も一緒。それなのに会ったのは2回だけ。そんな浅い縁の尾関さんと私だが、尾関さんの書評のブログを読むうちに 私は一方的に尾関さんのファンになった。尾関さんの書評にコメントを書き込んだのも、一度や二度ではない。
で今週は、尾関さんが書いた正統派の一冊を読む。『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代全書、2013年刊)だ。この本は題名のとおり、日本の科学ジャーナリズムのあり方を問い、分かり易さ一辺倒の「啓蒙型」から科学記者自身が発言する「批評型」への転換を提言している。
この本が出版されたのは2013年。当然ながら、2011年3月11日の東日本大震災が重くのしかかっている。報道に対する信頼感が揺らぎ、科学技術そのものに対する信頼感が薄れてゆくのを、尾関さんは他人事として感じることができなかったのだろう。科学技術報道が、なぜ時代の流れを見落としてしまったのか。その要因を科学技術報道の歴史のなかに探ろうとしている。
核の平和利用の機運の高まりと機を一にするかのように、1956年に科学技術庁が設置され、1957年には国際原子力機関 (IAEA) が発足したのだが、各新聞社の科学部もその頃に生まれている。当然ながら取材の中心は科学技術庁でありメインテーマは原子力であったという。新聞社の科学部は、いつも国策とともにあり、記事の偏りにつながったというのだ。
新聞の一般読者の新しい科学や技術に対する関心の低さは、そんな新聞社の科学部のせいだと言わんばかりだ。社内の編集担当部門は基礎科学に冷淡で、読者が喜びそうな夢とロマンの科学報道を追い求め、毎年のノーベル賞フィーバーを生んでいるという。遺伝子のことをもっと掘り下げていたらというような自戒が書かれる。
そんな反省からか、尾関さんは「啓蒙から批評へ」という提言にたどり着く。もしも日本の科学報道が批評啓蒙型でなく批評型だったなら、技術は弱者にもっと寄り添ったものになり、科学はもっと多くの人びとの関心の的になり、科学技術政策も違うものになっていたのではないか。そんな夢が書かれている。
批評型の新しい科学ジャーナリズムによって科学が社会の広い領域に浸透してゆき、哲学的な問いや社会的な課題に出会うとき、理系の専門家だけではなく、文系の発想や発言が重要になってくる。社会全体の理系感度を高め、知の中間層を育てるためにも、サイエンスカフェのような場所が必要なのではないか。そんな夢も書かれている。
いろいろな夢の裏側には、尾関さんのような新聞社の科学部の方々の苦悩と葛藤に満ちた毎日があるのだろうと思うと、尾関さんがあちらこちらで展開していた文筆活動が違ったふうに見えてくる。
科学技術の知識が増えても、それは必ずしも幸せにはつながらない。生命を維持する医療技術が進んだとしても、ただ命を延ばすだけの治療が蔓延するだけ。科学者たちが何を考えてきたのかということを、ざっくりと教えるような理科教育が必要なのではないか。そんな尾関さんの問題意識が、この本のなかに凝縮している。
尾関さんがオーナーのサイエンスカフェに いろんな人が集まり、さりげなく科学の話を交わしている。読後に ふと、そんな情景が浮かんできた。面白くあっという間に読める本だが、何度も読み返してみたいと思わせる本でもあった。