2024年9月6日(金)
今の社会のモラルは奴隷のモラル
今週の書物/
『Jenseits von Gut und Böse』
Friedrich Nietzsche 著、1886年刊
『Beyond Good and Evil』
Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳
Penguin Classics、2003年刊
戦前は、護国の精神に富んだ忠良なる臣民を育成するのが教育の目的だった。臣民というのは天皇に従属する者のこと。建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるということで、教育勅語の精神に合致する教科書が使われた。また、中学校以上の男子校には現役陸軍将校が配属され、軍事教練が実施された。
そんな歴史のせいで、日本には今でもパブリックという考えがない。「Public Private」は「公私」と訳されはするが、その実態は「官民」であり、「Civil Servant」は公務員と訳されてはいるものの、「Civil Servant」として働く者たちの意識は相変わらず「官吏」であって、「国民に奉仕する」という考えは微塵もない。
国は国民のために存在するというのと、国民は国のために存在するというのとでは、意味合いがまったく違う。日本には今でも「お上」が存在していて、国民は「お上」の言うがまま。国の言うことには黙って従うし、警官や税務署員の理不尽に対しても従順だ。
学校での「いい子」といえば「言うことを聞く子」「言われた通りに行動する子」を指し、大人になって出来上がった「善良な市民」は、いつも正しく 温かい心を持ち、親切で 思いやりがあり、勤勉で どんな辛いことも耐え忍び、謙虚で 他人のために行動する。
日本の学校は奴隷養成所で、日本の社会は奴隷のような人間で溢れている。そんなことを考えているときに出会ったのが ニーチェの「Master–slave morality」と 忌野清志郎の「善良な市民」。「Master–slave morality」は まるで今の日本のことを言っているようだし、「善良な市民」は「小さな家で 疲れ果てて 眠るだけ」「新しいビールを飲んで 競馬で大穴を 狙うだけ」「飯代を 切詰めたりして Jリーグを 観に行くだけ」という具合で なんともせつない。
で、今週は「Master–slave morality」のことを書いた文章を読む。『Beyond Good and Evil』(Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳、Penguin Classics、2003年刊)だ。ニーチェは、1879年に体調を崩して大学を辞めてから、1989年1月に精神病院に入院させられるまでの10年ほどのあいだ、療養のために 夏はスイスのイタリア語圏の村で 冬はイタリアやフランスの海辺の町で過ごしたのだが、この本はそのあいだに書かれた一冊だ。
ニーチェは不思議な存在だ。多くの人が若い頃に出会い、あまり多くを読まずに、それぞれが勝手な解釈をする。「ルサンチマン」だの「ニヒリズム」だのと言って わけのわからないことをこねくり回す人は多い。でも、読まないのは もったいない。ニーチェは いろいろなことを違った視点から捉えるのがとてもうまいから、固定観念から自由になるのの助けになる。
『Beyond Good and Evil』の「Chapter IX What is noble?」には、主人道徳(master morality)と 奴隷道徳(slave morality)という2つの道徳が出てくるのだが、その前提として 一方に高貴な人たち(権力者たち、貴族たち)がいて、もう一方には弱者たち(庶民、抑圧された人たち)がいるという社会がある。
主人道徳は、意志の強い者の道徳とされ、その道徳での「善」は 高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、ささいなものだという。高貴な人たちの道徳とはいえ、動物的・直截的で、かつ積極的・攻撃的だ。心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして価値に対する正確な認識が必要とされるというが、それは仲間内だけのことで、弱い者たちは眼中にない。
これに対し奴隷道徳は、弱い者たちの持つ道徳で、その道徳での「善」は コミュニティ全体にとって役立つもの、「悪」は 権力を握っている者たちのやることなすことだという。謙虚さ、慈悲、憐れみなどの感情は、強い者たちにはわからないと思っている。民主主義・自由・平等などは、奴隷道徳の政治的な表現だという。
とはいっても、書かれたのは日本でいえば明治時代だから、今とは何も比較はできないが、それでもいろいろ考えさせられる。日本とかアメリカとか、21世紀に民主主義・自由・平等などを掲げている国を、ニーチェは、奴隷道徳の国だというのだろうか? エヌビディアのジェンスン・フアンのようなビリオネアが奴隷道徳を身に着けていることを、どう説明するのだろう?
そんな疑問を考えるために、私たちの国である日本について考えてみよう。日本には、世界でもめずらしい『道徳教育』がある。教師は自らの信念を押し付けず、日本に昔からある道徳心に従うよう指導し、親や年長者を敬ったり、動物に優しく接したり、困っている人を助けたりすることの大切さを教えるのだという。
道徳教育の基盤は家庭にあるべきなのに、子どもは夕方から夜にかけてしか家にいないからといって、学校が代わりに道徳教育の役割を引き受ける。学校に行かない日が年間に170日もあるのだし、そもそも学校にいる時間の大部分は道徳以外の強化の授業に費やされるのだから、年に30時間にも満たない『道徳教育』をしたところで、たかが知れているのだが、この類のプロパガンダの子供への影響は思いのほか大きい。
その文部科学省が掲げる道徳教育だが、道徳的な心情、判断力、実践、態度などの道徳性を養うのが目的で、秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における協調性も含まれているという。なんのことはない、ニーチェの言うところの奴隷道徳の教育をしているのだ。
日本教職員組合(日教組)のウェブページに行っても、日本国憲法とか人権教育とかいった進駐軍が日本に押し付けたことが並んでいるだけで、掲げられている道徳がニーチェが書いた奴隷道徳であることは、文部科学省の道徳と何ら変わりがない。
要は、どんな立場にいるにせよ、今の日本人が道徳をイメージする場合には、ニーチェが説明した奴隷道徳しか頭に浮かばないということなのだ。日本には、主人道徳は悪だと考える人しか存在しない。まるで、みんなが(社畜とか皇民とかの)歯車の一部になったかのようだ。
考えてみれば、20世紀という国家の時代には、たとえそれが 軍国主義だろうが 民主主義だろうが 共産主義だろうが、個人の意思は認められない。
ニーチェが多くの文章を並べて言いたかった 主人道徳 における個人の意思を思い出してみよう。個人の意思はノーブルな(精神が高貴な)人間が持つものなのだ。ノーブルな人間は自分を価値を自分で決める。他人に承認を求めたりはしないで、自分で判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害で、悪なのだ。名誉を与えるのは自分だけ。価値の創りだすのも自分だけ。自分の中に認められるものは何でも尊重する。そのような道徳を持つものは今の日本には ひとりもいない。
主人道徳がいいと言っているのではない。主人道徳を持っている人がいないと言っているのだ。言葉を変えれば、ノーブルな人がひとりもいないということになる。そしてみんなが、そのことをいいことだと思っている。
何かに属していたり 金持ちだったりして 自分のことをノーブルだと勘違いしている人はいても、本当の意味で精神的にノーブルな人はいない。今の金持ちたちは、みんな卑しい。
今の状態から抜け出せないか? 奴隷道徳に覆われた社会のなかで 高貴な個人を獲得することはできないのだろうか? 自分の価値は自分で決め 自分のことは自分で判断する。そんな150年前にはあたりまえにいた「精神的に高貴」で「自分に誇りを持っている」人は、もう今の社会には現れないのか?
日本には、労働を強制されながら、そのことを自らの意志で働いているのだと考えている人たちが大勢いる。その誰もが、自分のことを奴隷だと思っていない。失業したら生きていけないと、上司の言うことに従い、長時間労働している人たちは、はたから見れば自由ではない。そんな人たちの過労死とか自殺とかが新聞紙上を賑わせるが、それはなぜなのか。その理由が、ニーチェの文章を読んでわかったような気がする。すべて奴隷道徳のせいなのだ。
自分の自由な時間を増やすことに罪悪感を感じ、逃げることをよしとしなければ、それはもう奴隷でしかない。そんなふうな人たちは、みんな、ニーチェの言う 奴隷道徳 の持ち主なのだ。
なにも 主人道徳 を持たなくてもいい。奴隷道徳 から解放されさえすればいいのだ。主人も奴隷も関係なく、国のため・会社のため・上司のためといった他人のためという発想を捨て、自分を否定せず、誇りを持って、自分のために生きる。それだけでいい。勤め人だろうが、自由業であろうが、奴隷道徳に染まらなければいいのだ。多くの人たちがそうすれば、社会はきっと もっと風通しのいいものになる。
ニーチェの著作を読むと、時代が違うせいもあって、そしてニーチェが病気だったせいもあって 反感を感じることが多い。でも考えさせられることが多々あり、個人の そして社会の 指針となることが少なからずある。少しだけでも、たとえ1章・1節だけでも読んでみるといいと、声を大にして言いたい。