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なぜ日本では暴力の担い手が英雄化されるのか

  1. 日本の歴史叙述は「国家の物語」に強く影響されている:明治以降、日本の歴史教育は「武士=立派」「戦国武将=英雄」という物語を国家が積極的に作り上げた。理由は単純で、国民を統合し、戦争に動員するためです。武士の忠義、武将の勇敢さ、戦いの美化といった価値観は、国家にとって都合が良かった。だから、暴力の加害性は語られず、英雄性だけが強調されたという歴史がある。
  2. 日本では「暴力の加害性」を語る文化が弱い:ヨーロッパでは、十字軍の虐殺、植民地支配、魔女狩りなど、自国の加害の歴史を批判的に語る伝統がある。しかし日本では、加害者の側に立って歴史を語ることがタブー視されやすい。そのため「武将=暴力の担い手」という視点が育ちにくい。
  3. 戦国時代は“安全な暴力”として消費されている:現代のドラマやゲームでは、戦国時代は「現代とは切り離された異世界」として扱われる。殺戮、略奪、人身売買、虐殺といった現実の暴力は“背景”に押し込められ、キャラクターの魅力だけが前面に出る。つまり、暴力の痛みが消され、物語として安全に消費できるよう加工されているということだ。
  4. 日本人は「強い個人」を求めている:現代日本は、国家の力が強い、個人の自由が弱い、自律した個人像が乏しいという構造がある。そのため、戦国武将のような“自分の力で道を切り開く人物”に憧れが投影されるという心理が働く。しかしこれは、暴力を肯定しているのではなく、“自分で選び、自分で動く人間像”への渇望
    の裏返しでもある。

Ibn Battuta

I set out alone, having neither fellow-traveler in whose companionship I might find cheer, nor caravan whose part I might join, but swayed by an overmastering impulse within me and a desire long-cherished in my bosom to visit these illustrious sanctuaries. So I braced my resolution to quit my dear ones, female and male, and forsook my home as birds forsake their nests. My parents being yet in the bonds of life, it weighed sorely upon me to part from them, and both they and I were afflicted with sorrow at this separation.

西南役伝説(石牟礼道子)

侍さんでもな、死のうごつはなかろもん。田んぼの藁小積みば間にしてな、両方とも斬られんごつぐるぐる廻ってなあ、おめき合うたり、突っこけたりして、勝負のつくまではそらもう大事、畠も作もそこらじゅう踏んで踏んたくって、しちゃくゎちゃ使いもんにならん如してしもうて、殺す方も殺される方も泥まみれになって、何のわけで殺し合いばしなはるだろうか。おるげの息子もあぎゃん目に遭うたっだろ、よう生きて戻ったたい。いくさのなんの、しんからの百姓なら出来んばい。暗きから暗きさね起きて作ばつくろうちゃ、どういう大ごつな。踏んで踏み固めてなあ、畠も田も使いもんにならんようにしてしもて。いくさの通った跡は、百姓がどのくらい大事か。迷惑なこつ、ほんなこて。

Post-truth (Julian Baggini)

The merits of these competing theories are of mainly academic concern. When people debate whether there were weapons of mass destruction in Saddam Hussain’s Iraq, whether global warming is real and anthropogenic, or whether austerity is necessary, their disagreements are not the consequence of competing theories of truth. No witness need ask a judge which theory she has in mind when asked to promise to tell the truth, the whole truth and nothing but the truth. Why then has truth become so problematic in the world outside academic philosophy? One reason is that there is major disagreement and uncertainty concerning what counts as a reliable source of truth. For most of human history, there was some stable combination of trust in religious texts and leaders, learned experts and the enduring folk wisdom called common sense. Now, it seems, virtually nothing is universally taken as an authority. This leaves us having to pick our own experts or simply to trust our guts.

国家に搦め捕られないために

国家は暴力で自由を奪うのではなく、静かに、制度を通して、気づかれない形で自由を削っていく。だからこそ、自由は尊厳や家族よりも先に、最も早く、最も広く侵される。
国家が個人に干渉するとき、最初に狙うのはいつも自由。移動の自由、選択の自由、働き方の自由、住む場所の自由、お金の使い方の自由、情報の自由、沈黙する自由、そういった自由は、法律や制度の名のもとに正当化されて奪われる。しかも、奪われた自由は、国家が「返す」と言わない限り戻らない。尊厳は自分の内側に残る。家族は守り合える。しかし自由だけは、国家の構造に触れた瞬間に消えてしまう。だからこそ、自由が一番脆い。自由は、最初に奪われ、最後まで返ってこない。
自由は、奪われたときには気づきにくい。自由が危険なのは、奪われるときに痛みがないことだ。便利さの名のもとに、安全の名のもとに、公平の名のもとに、福祉の名のもとに、国益の名のもとに、国家は自由を「善意の包装紙」で包んで差し出す。そして気づいたときには、選択肢が減り、行動が制限され、制度に依存し、国家なしでは生きられない体になっている。自由は、失って初めて存在に気づく空気のようなものだ。
自由が侵されると、尊厳も家族も守れなくなる。自由がなければ、尊厳は制度に従属する。自由がなければ、家族は国家の都合に巻き込まれる。自由がなければ、選択肢が消え、逃げ場がなくなる。つまり、自由は尊厳と家族を守る土台なのだ。土台が崩れれば、上にあるものも崩れる。
国家が本当に恐れるのは、反抗する個人ではない。反抗は管理できる。反抗は抑え込める。反抗は法律で処理できる。しかし、自由な個人は管理できない。どこに住むか自分で決める。どの制度に依存するか選ぶ。どの国と距離を置くか判断する。どの文化に身を置くか選択する。どの価値観で生きるか自分で決める。そういう個人は、国家の網にかからない。だから国家は、自由な個人を“静かに囲い込む”方向へ動く。
拠点を複数に分散し、国家への依存を減らし、制度の網を一国に集中させず、静かな場所を選び、国家のゲームに巻き込まれない距離を保ち、自分の生活圏を自分で設計する。そんなことが、自由を守るための最も洗練された戦略になる。自由を守るための賢い方法は、いずれも、戦わず、主張せず、ただ距離を置くこと。国家は「反抗する個人」には強いが、「関わらない個人」には驚くほど無力だということを、忘れずにいることだ。