2024年5月3日(金)
宇宙創造から始めて、アップルパイを作る
今週の書物/
『How to Make an Apple Pie from Scratch』
Harry Cliff 著、Doubleday、2021年刊
私たちは何でできているのか? 私たちのまわりのものは何でできているのか? 人はそんなことを、ずっと昔から考え、説明してきた。魂とか肉体とか、こころとかからだとか、神とか自然とか、あの世とかこの世とか、天国とか地獄とか、天使とか悪魔とか、霊だとかいったものが、宗教とか学問とか政治とか芸術とか言い伝えとかのなかに現れ、そして消えていった。
ここ何百年かは、真実と神という言葉が少しだけ後退し、事実を科学で探ることが主流になってきた。医学が変わり解剖技術が発達すると、センチメートルやミリメートルの世界のことがわかるようになり、脳とか 肺とか 心臓とか 胃腸とか 肝臓とか 膵臓とか 脾臓とか 腎臓とかの臓器とかが明瞭に説明されるようになる。
さらに、光学顕微鏡が発達したことで、マイクロメートルの世界のことまでがよくわかるようになり、細上皮とか 内皮とか 膜とか 管とかの区分けが進み、それぞれが 上皮細胞とか 内皮細胞とかいった細胞でできているという説明がついていった。
そして、電子顕微鏡が発達するようになると、ナノメートルの世界のことまでがわかるようになり、細胞のなかには 細胞核だとか 細胞膜だとか 細胞質だとかがあって、細胞核には 遺伝情報であるDNAやRNAやタンパク質が含まれているとか、DNAもRNAも糖と核酸と塩基でできているとかということを言うようになった。
「糖は 水素と酸素と炭素、核酸は 水素と酸素とリン、塩基は 水素と酸素と窒素 で出来ている。タンパク質はアルギニン グルタミンといった20種類のアミノ酸で出来ていて、アミノ酸は 炭素と水素と酸素と窒素と硫黄で出来ている」などという説明を聞くようになって、私たちは宗教を捨て、科学を信じるようになった。
分子レベルで考えると、人間はその60%が水、12%~20が脂質、15%がタンパク質といわれている。元素レベルで考えると、水が水素と酸素でできていることもあって、酸素が61%、炭素が23%、水素が10%、窒素が2.6% で、その他に カルシウムが1.4%、リンが1.1%、硫黄が0.2%、カリウムが0.2%、ナトリウムが0.14%、塩素が0.12%、マグネシウムが0.027% と書いてあるけれど、本当かどうかは、自分のからだを見ても触っても、わからない。もはや、科学は信じるものなのだ。
地球の大気や海水のことを調べてみると、大気は、78%が窒素、21%が酸素、そして 0.93%がアルゴン、海水は、酸素が85.9%、水素が10.7%、そして塩分が3.4%。私たちの体が、空気と水の主要元素である酸素、水素、窒素でできているのは、決して偶然ではない。そして炭素。炭素が、糖、タンパク質、脂質、DNA、筋肉など、体内のほぼすべてのものの主成分だというのも、たぶん偶然ではない。私たちがこの地球の一部なのだという思いが、改めて強くなる。
でも、大きさがなかなかピンとこない。これはまずいと思って、Excelで表を作ってみる。米粒の大きさはヒトの大きさの1000分の1。その1000分の1が大腸菌などの細菌の大きさ。その1000分の1が水などの分子の大きさ。その1000分の1のそのまた1000分の1が陽子や中性子の大きさ。そんなふうに並べてみる。
そんなとき、「DNAは1億以上もの塩基対を持った相補的な2本鎖が2重らせん構造をとる長大な巨大分子」という文章に出逢った。調べてみると、1塩基対の直径は2nm、長さは0.34nm。1nmの1億倍は1cm。DNAの大きさが1cmなんて、ありえない。なにがおかしいのか。
そう、私はなんてバカなんだろう。大きさが3次元だということを忘れていたのだ。1mの立方体のなかに10cmの立方体が千個入る。1mの立方体のなかに1cmの立方体が百万個入る。1mの立方体のなかに1mmの立方体が10億個入る。つまり長さが10分の1だと大きさは1000分の1で、長さが100分の1だと大きさは100万分の1で、長さが1000分の1だと大きさは10億分の1ということになる。
ということは、米粒の大きさはヒトの大きさの1000分の1ではなくて、10億分の1。その10億分の1が大腸菌などの細菌の大きさ。その10億分の1が水などの分子の大きさ。その10億分の1のそのまた10億分の1が陽子や中性子の大きさなのだ。
陽子や中性子といったものは、光学顕微鏡でも電子顕微鏡でも見ることがでない。見ることのできないものは、検出するしかない。見ることも、存在を感じることもできない。想像すらつかないのだ。
例えば水素の原子という単純なものでさえ、誰にも想像ができない。長さが10-14 m(大きさが10-42 m3)の原子核と、そのまわりを動き回る長さが10-15 m(大きさが10-45 m3)のたったひとつの電子とが、長さが10-10 m(大きさが10-30 m3)の原子をかたちづくっている。これは、細菌のまわりをたった一つのウイルスが動き回ってピンポン玉をかたちづくっているようなものだ。こんな不思議なことを、どう理解すればいいのか?
そもそも原子はどんなものなのか? 昔の教科書に載っていた「原子核のまわりを電子が回るモデル」は正確ではない。電子に存在するある場所があるわけではなく、電子雲と呼ばれる存在する可能性がある場所があるだけ。存在する確率が高いほど雲は密になる。私たちが知っている世界とは違う量子力学の世界は、不思議なことばかり。わからないのがあたりまえではないか。
量子もつれ(entanglement)という二つの粒子がペアを組んでいるような現象も、とてもじゃないけれど理解できない。電子には上向きと下向きがあるのだけれど、ペアになるとどんなに離れていても、片方を観察して方向が上向きと決まったとたんに、もう片方は下向きに決まる。そんな不思議なことをわかれというほうが無理だろう。
わからないことばかりのせいで、論文には「検証も反証も不可能な仮説や理論やモデル」があふれかえり、科学は事実の探求の場所というよりも、推測や想像や妄想の延長になってしまっている。「科学的なこと」というのが「非科学的なこと」と同義語になりつつある。
私たちの住むこの世界は4次元(3次元空間+時間)ではなく、実は10次元(9次元空間+時間)だったと言われても、素直に「はい、そうですか」とは言えない。理論とか仮説とかが次から次へと現れては消えてゆく。
宇宙はダークマター(Dark Matter)とダークエネルギー(Dark Energy)とでできていると誰もが言うけれど、それが仮説の上に成り立っている物語だと知る人は少ない。存在が想定され、間接的に存在を示唆する観測事実はあるけれど、直接的な観測例はない。そんな正体不明のものを信じるのだから、科学はもはや宗教と同じになってしまっている。「わくわく」を感じられないのだ。
今週は、そんな物理学の現状を整理する一冊。『How to Make an Apple Pie from Scratch』(Harry Cliff 著、Doubleday、2021年刊)だ。『In Search of the Recipe for Our Universe, from the Origins of Atoms to the Big Bang』という副題がついている。日本語訳も出版されている。『物質は何からできているのか』(ハリー・クリフ著、熊谷玲美訳、柏書房、2023年刊)で、こちらには『アップルパイのレシピから素粒子を考えてみた』という副題がついている。
この本の題名は「アップルパイをゼロから作りたいなら、まず宇宙を発明しなければならない」というカール・セーガンという物理学者の言葉からつけられた。アップルパイの究極のレシピを見つけるということは、物質が実際に何でできているのかという疑問に答えることになるというのだ。
ビッグバンの恐ろしい熱の中でどうやって消滅を免れたのか? 私たちは宇宙の誕生の瞬間を理解することができるのだろうか? そして、物質は何からできているのか? そんな疑問にはたして答えられるのか?
著者のハリー・クリフ(Harry Cliff)は物理学者で、素粒子物理の実験を仕事にしているのだが、この本が扱う範囲は驚くほど広い。宇宙について、そして素粒子について、今わかっていることの全体像を示してくれる。それだけではなく、実証されたのか、されてないのか、されているとしたらどのように実証されたのかも書かれている。
ハリー・クリフは、実験物理学者というより、素晴らしい作家だ。なぜ物があるのか? すべてはどこから来たのか? 物質が実際に何であるかをどのようにして学んできたのか? ビッグバンから星の爆発を経て、いまの私たちに至るまでの物語は、どれもすべて興味深い。
私がこの本に出逢う前に持っていた「科学はもはや宗教と同じ」とか「わくわくが消えた」というようなネガティブな感じが一気に吹き飛んだ。まるでSFのような科学のことは、ハリー・クリフのように笑って見ていればいいのだ。
『How to Make an Apple Pie from Scratch』の第1章から第7章まで、「Elementary Cooking(初級クッキング)」「The Smallest Slice(最小のスライス)」 「The Ingredients of Atoms(原子の材料)」「Smashed Nuclei(砕かれた核)」「Thermonuclear Ovens(サーモニュークリア・オーブン)」「Starstuff(スタースタッフ)」「The Ultimate Cosmic Cooker(究極の宇宙調理器)」と続くのだが、どこをとっても明瞭で、曖昧さが微塵もない。論理的に、しかも合理的に組み立てられた文章は説得力にあふれている。
第8章から第14章までの「How to Cook a Proton(プロトンを調理する方法)」「What Is a Particle, Really?(そもそも粒子って何?)」 「The Final Ingredient(最終的な材料)」「The Recipe for Everything(すべてのためのレシピ)」「The Missing Ingredients(足りない材料)」「Invent the Universe(宇宙を発明する)」「The End?(終わり?)」は、がぜん面白くなる。気の合う友たちと語り合うような気分の読書だ。
最後に(第14章のあとに)ご丁寧にも『How to Make an Apple Pie from Scratch(アップルパイをゼロから手作りする方法)』が書いてある。八人分のアップルパイを138億年かかって作る手順だ。まず宇宙を作る。時空を1溝分の1秒(10-32秒)だけ膨張させ、温度を急激に上昇させ、大量の粒子と反粒子を作り出し、電磁場と強い力の場を生成させたあと、引き続き1兆分の1秒(10-12秒)膨張させて、時空をゆっくり冷やす。そしてヒックス場をオンにする。そのあと物質を作るための複雑な手順がいろいろ細かく書かれているのだが、宇宙が作られてから、表面を水素と酸素と窒素と炭素で覆われた惑星がひとつ出来上がるまでのことが、この本を読んで得た知識でよくわかってしまう。そのわかるという快感が、ここまで読んできた読者への著者からのプレゼントなのだろうと思うと、自然と頭が下がる。運が良ければ、そのあと45億年ほどで、リンゴの木と牛と小麦のような生命体と、それにスーパーマーケットなんかもできているだろうから、あとはアップルパイの材料を買ってきて作るだけ。本はそんなふうに終わる。
この本を読んで、物理学について(いまの物理学のメインストリームの人たちから見て)私が間違って理解していたこと、そして(いまの物理学のメインストリームの人たちから見て)私の理解が足りなかったことが、次々に浮かび上がってきた。それだけでない。(いまのメインストリームの)物理学のさまざまなことが整理され、(失われていた私の)「わくわく」が蘇ってきたのだ。久しぶりのいい感覚だった。