投稿者「phrh205455」のアーカイブ

外側にも世界が続いていることを思い出す

人は、Tameされずに生きることができるのだろうか。おそらく、できないのだと思う。

私たちは生まれたときから、すでに何かによって形づくられている。言葉を覚えれば、その言葉によって世界を分け、考えるようになる。家族から善悪を教わり、学校では時間を守ることや知識の体系を学び、国家から国籍という枠組みを与えられ、社会から働き方や生き方を学んでいく。宗教を信じていなくても、宗教が長い時間をかけて形成してきた倫理や価値観の影響から、完全に自由に生きているとは言いにくい。

科学についても同じだろう。私たちは時計によって時間を知り、数字によって世界を測り、病気になれば医学を頼り、科学的に確かめられたものを信頼して暮らしている。科学そのものが人間を支配しているわけではない。しかし、科学によって世界を見る習慣は、すでに私たちの内側にまで入り込んでいる。

そう考えると、宗教と科学は、人をTameするという点では意外なほど似たところを持っている。もちろん、世界を理解する方法としては大きく異なる。それでも、どちらも人間に世界を見るための一定の枠組みを与え、そのなかで長く暮らしていると、やがて自分が何かの枠組みを通して世界を見ていることさえ意識しなくなる。

Tamingがもっとも深くなるのは、何かを強制されたときではなく、それを当然だと思うようになったときなのかもしれない。

これは国家についても同じだ。「私は日本人だ」と考えることと、「私は日本人でしかあり得ない」と考えることは違う。宗教を信じることと、その宗教の外には意味のある世界が存在しないと思うことも違う。科学を信頼することと、科学によって測定できないものには意味がないと思うことも違う。問題は何かの影響を受けることではなく、その外側にある世界を想像できなくなることなのだろう。

だとすれば、TameされることとTameされないことを単純に二つに分けることにも、あまり意味はない。そもそも完全にUntamedな人間など、おそらく存在しない。社会から逃げたとしても、そこで物事を考えるために使っている言葉は社会から受け取ったものだ。国家を否定していても、国家への反対を中心に世界を考えているなら、依然として国家がその人の思考を規定している。宗教を否定することに人生を費やせば、宗教から完全に自由になったとは言いにくい。科学を無条件に信奉することと、科学を無条件に否定することも、方向は反対であっても、どちらも科学を中心に世界を見ているという意味では似ている。

Tamerに逆らうだけでは、Tamingから逃れることにはならない。

では、自由とは何なのだろう。

自由とは、何にも影響されていない純粋な自分になることではないのかもしれない。そんな自分は、おそらく最初から存在しない。むしろ、自分が何によって形づくられてきたのかを知り、それとの距離を変えることができることではないだろうか。宗教を信じながら、その宗教を疑うことができる。国家に所属しながら、国家を批判することができる。科学を信頼しながら、科学では答えられない問いがあることを認めることができる。会社で働きながら、会社の外にも人生があると思うことができる。日本に暮らしながら、まったく別の社会で暮らしている自分を想像することもできる。

大切なのは、何にも依存しないことではない。依存する相手や、自分と世界との関係を組み替えることのできる余白を失わないことなのだと思う。

そのためには、ときどき自分の枠組みを疑わなければならない。しかし、これも簡単ではない。自分の枠組みを疑っている自分自身も、また別の枠組みのなかから世界を見ているからだ。一つの宗教を捨てて別の思想を絶対視するようになれば、Tamerが交代しただけなのかもしれない。だから必要なのは、唯一の正しい枠組みを探し出すことではなく、枠組みと枠組みのあいだを移動できることなのだろう。

そのためには、自分とは正反対の考えを持つ人を、愚かな人だと決めつけないことも大切になる。自分が無宗教なら、なぜ知的で誠実な人が神を信じるのかを考えてみる。自由を大切にするなら、なぜ人間はときに自由より秩序を求めるのかを考えてみる。そしてTamingという考え方に惹かれているなら、Tamingでは説明できないものを探してみる。

そうすると、Tamingだけでは捉えきれないものが意外にたくさん残ることに気づく。偶然の出会いによって人生が変わることもあれば、何の役にも立たない遊びに夢中になることもある。見知らぬ人を見返りもなく助け、音楽を聴いて説明できない涙を流し、それまで存在しなかったものをつくることもある。長く信じてきたものが、ある日突然信じられなくなることさえある。

もちろん、こうした経験も文化や言葉や社会から完全に自由なわけではない。それでもTamingだけでは説明しきれない何かを残している。Tamingが、数多くの可能性のなかから一部を選び、それを反復し、固定していく運動だとすれば、そこには逆の方向へ向かう働きもあるのではないだろうか。固定されていたものを相対化し、閉じられていた可能性をもう一度開き直す働きである。

それを、Untamingと呼んでもいいのかもしれない。

Untamingとは、文明を捨てて野生へ戻ることではない。言葉を忘れ、国家を捨て、科学を拒み、社会の外へ逃げることでもない。Tamingによって一つしかないように見えていた世界に、「ほかにもあり得る」という余白を取り戻すことだ。

そう考えると、自由も少し違って見えてくる。自由とはTameされていない状態ではなく、Tameされた世界のなかにいながら、そこに小さな隙間を見つける能力なのではないだろうか。必要なら場所を変え、考えを変え、所属を変え、信じていたものを疑い、自分が正しいと思っていた場所から少し離れてみる。そして、まだ存在していない別の生き方を想像する。

実際にそこから出ていくかどうかは、それほど重要ではない。「ここから出ることもできる」と思えることのほうが大切なのかもしれない。Tamingの完成とは、人が檻に入れられることではなく、檻の外を想像できなくなることなのだとすれば、Untamingは檻を壊すところから始まるのではなく、まだ檻のなかにいながら、その外側にも世界が続いていることを思い出すところから始まる。

そして、このUntamingは個人の心のなかだけで起きてきたことではない。歴史を振り返ってみれば、人間そのものが、TameとUntameを繰り返しながら文明をつくってきたようにも見える。

人間の歴史は、たしかに長いTamingの歴史だった。人は植物をTameし、動物をTameし、土地をTameし、やがて人間同士をTameし、国家や宗教や法や科学や市場といった巨大な仕組みをつくり上げた。そして、それらの仕組みのなかで生きることのできる人間を教育し、訓練し、分類し、組織してきた。

農耕を始めれば、人は土地を離れにくくなる。国家ができれば国民として登録され、税を払い、法に従うことを求められる。宗教が制度化されれば、何を信じ、どのように生き、何を善悪と考えるかについて一定の枠組みを与えられる。近代になると、学校、会社、市場、資格、行政、医学、科学などが、人間の生活をさらに細かく分類し、標準化していった。

こうしてTamingだけを見ていれば、文明史とは、人間が世界をTameすると同時に、人間自身も次第にTameされ、自由を失っていった歴史のように見えてしまう。

しかし、人間は自らつくり上げた秩序のなかに、完全に収まったことなど一度もなかったのではないだろうか。定住する人々がいれば移動する人々がいて、国家が領域を広げればその境界を越えて生きようとする人々がいた。宗教が教義を定めれば異端者や改革者が現れ、身分が人間の生き方を固定すれば、そこから離れようとする者が現れた。国家が強くなれば自由を求める動きが生まれ、社会が一つの正しい生き方を要求すれば、それとは違う人生を試す者が出てきた。

しかもUntamingは、必ずしも革命や反乱のような大きな出来事として現れるわけではない。住み慣れた村を離れ、親とは違う仕事をし、別の土地で暮らし、異なる宗教を信じ、誰も使わなかった言葉を使い、新しい音楽をつくる。それまで当然と思われていた家族の形や働き方を少し変えてみる。歴史には、そうした名前の残らない小さなUntamingも無数にあったはずだ。

ここでいうUntamingは、文明以前の状態に戻ることではない。農耕を捨てて狩猟採集へ戻ることでも、国家をなくすことでも、科学を否定することでもない。いったん固定された生き方を相対化し、それまで閉じられていた可能性をもう一度開くことを意味する。

この視点から歴史を見ると、宗教改革も革命も、少し違って見えてくる。宗教改革は、既存の宗教的権威によって固定されていた信仰のあり方を揺さぶり、それまで閉じられていた可能性を開いた。しかし、そこから生まれた新しい宗教も、やがて教義を定め、組織をつくり、自らの正統と異端を区別するようになった。革命もまた、身分や特権を壊して人間を古い秩序から解放する一方、成功すれば新しい政府や法律をつくり、税を集め、学校や軍隊を整えなければならない。解放のために生まれた新しい秩序が、やがて再び人間をTameするようになる。

近代社会そのものも同じように見ることができる。近代は、人間を村落共同体や身分、宗教、家族などの強い拘束からかなり解放した。人は生まれ育った場所を離れ、親とは違う職業を選び、異なる信仰を持ち、結婚相手を選び、政治を批判することができるようになった。しかし、その自由な個人を支えるために、学校、会社、市場、貨幣、資格、保険、行政、科学的管理といった新しい仕組みも発達した。人間は古い共同体からUntameされる一方で、近代社会のなかで生きられる個人へと、別の仕方でTameされていった。

考えてみれば、これは不思議なことではない。Untamingによって閉じられていた可能性が開かれても、そのなかから新しい生き方が選ばれ、多くの人がそれを受け入れ、反復し、次の世代へ伝えるようになれば、そこには新しい秩序が生まれる。そして秩序が長く続けば、それは次第に人間にとっての「普通」になり、再び人をTameし始める。かつて異端だったものが正統になり、昨日の反抗が今日の常識になり、自由を求めて生まれた生き方が、いつの間にか「こう生きるべきだ」という新しい規範に変わることさえある。

そして、その新しい規範が硬くなりすぎれば、どこかで再びUntamingが始まる。

文明史をそうした動きとして見るなら、それは同じ場所を行ったり来たりする振り子ではない。一度農耕を知った人間が、農耕を知らなかった人間に戻ることはできない。文字を知った社会が文字以前へ戻ることも、科学を知った社会が科学以前へ戻ることも難しい。インターネットを経験した社会も、それ以前とまったく同じ社会には戻れないだろう。

だからTamingとUntamingの動きは、円というより螺旋に近いのかもしれない。

人間は秩序をつくり、その秩序によってTameされる。やがてそこに息苦しさや矛盾が生まれ、誰かが別の可能性を試し始める。そのUntamingが新しい生き方を生み、それが広がれば新しい秩序になり、その秩序がまた次の世代をTameする。この繰り返しのなかで、社会は同じ場所へ戻るのではなく、過去につくられた制度や知識や技術を抱えながら、少しずつ別の場所へ移っていく。

この螺旋を考えると、自由を文明以前に存在した原初的な状態として考える必要もなくなってくる。狩猟採集民だけが本当に自由で、その後の人間は文明が進むほど不自由になっていった、という単純な話ではない。農耕によって失われた自由もあれば、農耕によって初めて可能になった生活もある。国家によって奪われた自由がある一方で、国家がつくった法や秩序がなければ守れなかった自由もある。科学も人間の世界観を一定の方向へTameしたかもしれないが、それ以前の権威や迷信、あるいは自然に対する無力さから人間を解放した側面もある。

つまり、一つのTamingが、別のTamingから人間をUntameすることさえある。

そうなると、Tamingを悪、Untamingを善と考えることもできない。Tamingがなければ、秩序を維持し、言葉や知識や技術を世代から世代へ伝えていくことが難しくなる。一方、Untamingがなければ、いったん成立した秩序が唯一可能な世界となり、人間はその外側を想像できなくなってしまう。

文明には、おそらく両方が必要なのだろう。Tamingは世界に形を与え、その形を持続させる。Untamingは、その形が唯一の可能性ではないことを思い出させ、世界が硬直しすぎるのを防ぐ。人間は、この二つの働きのあいだを行き来しながら文明をつくってきたのかもしれない。

そう考えると、個人について考えてきたことが、そのまま社会にも当てはまる。

自由な個人とは、何にもTameされていない人ではなかった。自分が何によって形づくられているかを知り、その枠組みとの距離を変え、必要なら別の枠組みへ移ることのできる人だった。同じように、自由な社会とは、何の規則も制度も持たない社会ではないのだろう。自らの規則を疑うことができ、異質なものを完全には排除せず、一つの生き方をすべての人に要求しない社会。そして、そこにいる人が必要なら別の場所へ移り、異議を唱え、これまでとは違う生き方を試す余地を残している社会である。

言い換えれば、自由な社会とは、自らをTameしながら、同時に自らをUntameする余地も残している社会なのかもしれない。

こうして見ると、文明は人類が世界を次々に支配し、最後には自らも完全にTameしてしまうまでの一直線の歴史ではなくなる。人間は世界をTameすることで文明をつくったが、自らがつくった秩序に完全に収まることもなかった。秩序が人間を固定するたびに、その隙間から別の可能性を試す者が現れ、そのUntamingから生まれた可能性も、広がり制度になれば、再び人間をTameした。そうして人間は、秩序をつくってはそこから余白を取り戻し、その余白からまた新しい秩序をつくりながら、何度も世界をつくり直してきた。

だとすれば文明の歴史とは、Tamingが一方向に進んできた歴史というより、TamingとUntamingが互いを生み出しながら続いてきた、終わりのない螺旋だったのかもしれない。

そして自由も、その螺旋の外側にあるのではない。

自由とは、おそらく螺旋を止めない力なのだ。一つの秩序を永遠のものと思わず、いまの世界だけが可能な世界だと思わず、完成したように見える世界のどこかに、もう一度小さな隙間を見つける。個人についてそうだったように、文明にとってのUntamingも、すべてを壊すところから始まるわけではない。

「この世界は、これ以外でもあり得る」と、誰かが想像してみる。

その小さな想像から、次の螺旋が始まるのかもしれない。

国家は戦争に敗れただけでは滅びない

国家は、戦争に敗れただけでは滅びないのではないか。Tamingについて考えるなかで、ふとそんなことを思った。

ここでいう国家の消滅とは、国際法上の国家が消えることだけを意味しない。独立した意思を持ち、自らの未来を自ら決めようとする共同体が失われることまで含めて考えてみたい。そう考えるなら、国家は征服されたときではなく、Tameされたときに初めて、本当の意味で滅び始める、と言えるのではないだろうか。

戦争に敗れ、軍隊が崩壊し、首都を占領され、領土を外国軍の管理下に置かれても、それだけで国家が消えるとは限らない。「これは自分たちの国だ」「占領者は外国人だ」「いつか再び自分たちで統治する」という認識が人々のなかに残っているなら、その国家は物理的には支配されていても、まだTameされてはいない。むしろ苛烈な占領ほど、「われわれ」と「彼ら」の境界をはっきりさせ、共同体としての自己認識を強めることさえある。

敗戦とTamingは、同じではない。

逆に、戦争をしなくても国家がTameされていくことはあり得る。ある社会の指導者も国民も、より大きな国や文明圏の制度に合わせることを当然と考え、その安全保障に依存し、経済、法律、教育、技術までその秩序のなかで組み立てるようになれば、国旗や政府や国境が残っていても、その秩序とは異なる未来を構想する力は少しずつ弱くなっていくかもしれない。

そう考えると、国家には二つの死があることになる。一つは制度的な死で、国家としての存在そのものを失い、他国に吸収されたり、複数の国家に解体されたりすることだ。

もう一つは、主体としての死だ。自分たちで制度をつくり、自分たちで未来を決め、必要なら外部の秩序とは異なる道を選ぶ。その能力だけではなく、そうしようとする欲望まで失っていく。

Tamingという言葉で考えたいのは、もちろん後者だ。

国家とは、領土や政府や国民だけでできているのではないのかもしれない。「われわれは自分たちの未来を自分たちで決めることができる」という集団的な想像力も、国家を国家として成り立たせているものの一つではないだろうか。その想像力が失われ、その秩序の外側にいる自分たちを思い描くことさえできなくなったとき、国家は深い意味でTameされ始める。

そのことを考えるために、戦後の日本を見てみたい。

ただし、戦後日本がアメリカに一方的にTameされた、という単純な話にするつもりはない。むしろ日本が興味深いのは、敗戦による強制から始まった関係が、利益による適応、日本側自身による選択、そして制度の自己再生産へと変化していったところにある。Tamingという感覚そのものが薄れていく最後の段階こそ、もっとも深いTamingなのかもしれない。

1945年8月、日本は全面的な軍事的敗北を経験した。しかし、敗戦した瞬間に日本社会そのものがアメリカ型になったわけではない。政治制度や官僚機構、社会倫理、家族制度、企業、教育、天皇制など、多くの部分には戦前からの連続性が残っていた。つまり日本は軍事的には敗北したが、それだけでTamingが完成したわけではなかった。

状況を大きく変えたのは、その後の占領だった。占領軍は日本列島を軍事的に管理するだけではなく、日本社会を動かしていた制度そのものに介入した。しかも、占領軍が日本人一人ひとりを直接統治したのではない。日本政府という既存の統治機構を利用し、それを通して社会を変えていった。

戦後の憲法制定は、その象徴的な出来事だった。外部から持ち込まれた原理が日本の制度へ翻訳され、やがて国民主権、基本的人権、議会制民主主義、文民統制、平和主義といった原理が、戦後日本そのものの正統性を支える価値になっていった。

ここで重要なのは、新しい価値の起源そのものよりも、それを受け取る主体が変わっていったことだろう。「アメリカが日本にそうさせている」という関係が、いつしか「われわれ自身がこの制度を支持する」という関係へ変わっていった。

ここにTamingという考え方の核心がある。

さらに冷戦が進むと、アメリカが望む日本の姿そのものも変化していった。日本を単に無力化するのではなく、アメリカを中心とする国際秩序を支える安定した国家として再建することの重要性が増していく。

そして1951年、日本はサンフランシスコ平和条約と同じ日に旧日米安全保障条約に署名した。占領終了後も米軍は日本に存在し続けたが、その存在の根拠は「日本が敗戦国だから」から、「日本政府が条約によって認めているから」へと変わった。外部からの強制だった関係が、制度的な同意を伴う関係へ姿を変えたことになる。

もちろん、これを単純に「アメリカが日本に押し付けた」とだけ考えると、本質を見失う。日本側にも大きな利益があった。安全保障の多くをアメリカに依存することで、国内の復興と経済発展により多くの資源を向けることができたからだ。

ここからTamingは、より複雑になっていく。もはや「従わされている」というだけではない。「この関係のなかにいたほうが得だ」と、Tameされる側自身が考えるようになる。

1960年の日米安全保障条約改定以降、この性格はいっそう明確になる。日本には政府があり、選挙があり、独自の法律があり、独自の外交がある。日本がアメリカに吸収されたわけではない。それでも、安全保障政策の大きな部分は日米同盟を前提として設計されるようになった。

つまり、命令される日本から、自らアメリカ中心の秩序を選び、その関係を自ら再生産する日本へと変化していった。

この過程を単純化するなら、Tamingには三つの段階があるように思う。最初は強制で、「そうしろ」と命じられる。次に利益へ移り、「そうしたほうが得だ」と考える。そして最後には内面化が起こり、「これが普通だ」と感じるようになる。

Tamingが深くなるほど、Tamerは見えなくなっていく。

ただし、日本はアメリカになったわけではない。日本語も天皇制も残り、行政官僚制や企業社会にも独自の特徴が残った。アメリカの政策に反対する政治運動や思想も存在し続けた。だからTamingを、文化やアイデンティティの消滅と考えてはいけない。

むしろ、こう考えたほうがいいのかもしれない。

国家は、他者がつくった秩序のなかで生きているからTameされるのではない。その秩序の外側で自分たちの将来を構想し、必要なら別の関係へ移る能力を失っていくときに、Tameされていく。

すると、法的には主権国家でありながら、より大きな秩序から離れにくくなった国家という、奇妙な存在が見えてくる。政府も選挙も国旗もあり、国際社会の一員でもある。しかし安全保障、金融、貿易、技術、通信などの基盤を、自国を超えた巨大な秩序のなかに置いている。

敗戦、占領、同盟、従属、Taming、国家消滅は、同じことではない。国家は、より大きな秩序へ深く組み込まれながら、国家として存続することができる。

戦後日本の場合、その組み込まれ方は、安全保障だけにとどまらなかった。経済について考えると、もっと複雑な姿が見えてくる。

戦後日本はドルを中心とする国際経済秩序へ入っていったが、当初からその単なる「部品」だったわけではない。むしろ日本はその枠組みを利用しながら、国内で生産し、世界へ輸出し、外貨を稼ぎ、その富を国内へ投資して生産能力をさらに高めるという、自律性の高い経済循環をつくり上げていった。アメリカ中心のシステムから離れたのではなく、その内部で日本自身を巨大化させたのだ。

やがて1980年代になると、その強さ自体が日米間の摩擦を生むようになる。対米貿易黒字が拡大し、市場、金融制度、商慣行などが問題とされ、1985年のプラザ合意以降、円は急速に上昇した。日本国内でも、輸出依存から内需中心の経済への転換や、国際的な経済不均衡の是正が重要な政策課題として意識されるようになった。

Tamingという観点から興味深いのは、この頃から「日本経済をどう強くするか」だけでなく、「国際システムとの摩擦をどう小さくするか」が政策上の大きな問題になっていったことだ。

もちろん、プラザ合意からバブル、そして長期停滞までを単純な一本の因果関係で説明することはできない。ここで見たいのは、日本経済と国際経済システムとの関係そのものが変化していったことだ。

安全保障では、敗戦後の比較的早い時期にアメリカとの結びつきが制度化された。しかし経済では、日本は長いあいだ強い自律性を保ち、むしろアメリカ中心の国際秩序を利用して自らを強くしていった。その意味では、安全保障上のTamingは早く進んだが、経済的なTamingはもっと長い時間をかけて進んだ、と見ることができる。

そして経済的な関係が深まるほど、単純な「支配する側と支配される側」という図式も成り立たなくなった。日本は国内で生まれた資金の一部を海外へ投資し、巨大な対外資産を持ち、そこから所得を得る側にもなった。ドルを中心とする国際金融秩序に組み込まれながら、その秩序の安定によって利益を得てもいる。

ここに、経済的Tamingの逆説が見えてくる。

人は利益を奪われるから、システムから離れられなくなるとは限らない。むしろ、利益を得ているからこそ、離れられなくなることがある。

Tamingとは、必ずしも命令されることではない。上位システムとの関係が自分自身の利益になり、長い時間をかけて生活や制度がその関係を前提とするようになり、やがてそのシステムから切り離された自分を想像しにくくなる。そのほうが、より深いTamingなのかもしれない。

こう考えていくと、日米関係は軍事や政治だけでも、経済や金融だけでも捉えきれない。技術、文化、思想、情報まで重なった、一つの生態系として見る必要が出てくる。

その出発点には、1945年の勝者と敗者という明確な非対称性があった。しかし経済的な結びつきが両国を離れにくくし、さらにコンピューター、半導体、インターネット、クラウド、AI、金融インフラなどの技術体系が両国の社会を深く結びつけていった。思想なら「私はそれを受け入れない」と言える。しかし、企業活動、金融市場、研究開発、情報システムまで同じ生態系のなかに入れば、そこから離れるためのコストは大きくなる。

文化では、関係はさらに複雑になる。戦後の日本人は、命令されたからアメリカの映画を観たり、音楽を聴いたり、服装や食文化を取り入れたりしたわけではない。それらに魅力を感じ、自ら取り入れた。一方で、アニメ、漫画、ゲーム、日本食などはアメリカを含む世界へ広がっていった。

思想や価値観についても同じことが言える。自由、民主主義、人権、個人の尊重、法の支配など、戦後の制度と強く結びついた価値は、しだいに「外国から与えられたもの」という感覚を失い、日本人自身が守ろうとする価値になっていった。

ここまで来ると、「アメリカが日本をTameした」という一方向の説明では足りなくなる。

日本の企業や資本はアメリカ社会のなかへ入り、日本文化もアメリカ社会へ浸透している。一方でアメリカも、日本列島の地政学的位置、日本の経済力、技術力、資本を自らのシステムの一部として利用している。長い時間のなかで、双方が相手との関係を前提として自らを形づくるようになった。

これは、人間と馬の関係にも少し似ている。

人間が馬をTameした。しかし騎馬社会が成立すると、人間の戦争、物流、国家の領域、生活そのものが馬を前提とするようになり、人間の社会もまた馬によって形づくられる。最初はAがBをTameしたはずなのに、長い時間が経つと、AもBとの関係によって変わってしまう。

日米関係も、この意味では相互Tamingと考えることができる。

ただし、それは対等な相互Tamingではない。出発点は敗戦と占領であり、安全保障や金融などでは、アメリカ側のシステムの規模が圧倒的に大きい。現在の日米関係を考えるなら、「非対称な相互Taming」という表現が近いのかもしれない。

そして、この考えをもう一歩進めると、さらに重要な疑問が浮かんでくる。

日本をTameしているのは、本当にアメリカなのだろうか。

長い時間が経過した現在では、日本もアメリカも、日米同盟、ドル体制、国際金融市場、技術体系、企業ネットワークといった巨大なシステムの内部で行動している。その全体を、一人の政治家や一つの政府が自由に動かしているわけではない。

そう考えるなら、日本はアメリカという国家にTameされたというより、日米の双方がつくり上げ、双方が依存するようになった巨大なシステムそのものにTameされている、と考えたほうがいいのかもしれない。

人が制度をつくったはずなのに、やがて制度のほうが人をTameする。ここでも、これまで考えてきたTamingの逆転が起きている。

しかし、相互Tamingになれば問題がなくなるわけではない。相互依存には、常に非対称性が残るからだ。

重要なのは、互いに依存しているかどうかだけではない。相手を失ったとき、どちらがより困るのか。そして、相手から見た自分がどれほど代替可能なのかということだ。

自分にとって相手は「なくてはならない存在」なのに、相手にとって自分は「あると便利だが、なくても代わりがある」という状態になれば、形式的には相互依存でも、実質的には大きく非対称な関係になる。

この非対称なTamingには、いくつかの行き先が考えられる。

一つは吸収だ。弱い側が制度、文化、経済のすべてを強い側へ合わせていき、独立した単位として存在する意味そのものが薄くなっていく。

もう一つは部品化だ。弱い側は消滅せず、むしろ繁栄することさえある。しかし、その存在が「自分自身のため」から、「より大きなシステムのなかで特定の機能を果たすこと」へ変わっていく。

部品であることは、必ずしも悲惨ではない。むしろ重要な部品であるあいだは、非常に快適かもしれない。問題は、その部品が代替可能になったときに現れる。

ここで、再び馬のことを考えてみたい。

馬は長いあいだ、人間文明にとって不可欠だった。戦争を変え、輸送を支え、農業を助け、その存在を前提として社会のさまざまな仕組みがつくられた。

ところが鉄道、自動車、トラック、トラクターなどがその機能を代替できるようになると、馬は文明の中心から急速に周縁へ移っていった。

重要なのは、かつてどれほど必要とされていたかではない。今も代替できない存在なのかどうかなのだ。

国家についても、この「代替可能性」という視点を加える必要があるのではないだろうか。

これまでTamingを、強制、利益、内面化という三つの段階で考えてきた。しかし非対称なTamingの危険を考えるには、自分が相手へどれほど依存しているのかだけでは足りない。相手から見た自分が、どれほど代替可能なのかを同時に考えなければならない。

自分は相手なしでは生きられない。しかし相手は、自分を簡単に取り替えられる。これがおそらく、非対称なTamingの最も危険な状態だ。

反対に、自分も相手なしである程度生きることができ、相手にとっても自分を簡単には代替できないのなら、その関係はより対等な共生に近づいていく。

だから、国家が守るべきものは、完全な独立ではないのかもしれない。

現代の国家が、安全保障、エネルギー、金融、技術、通信、貿易のすべてを自国だけで完結させることは現実的ではない。国家も人間と同じように、他者との関係のなかで生きている。

だとすれば、守るべきものは依存しないことではなく、依存関係を組み替えることのできる余白なのではないだろうか。

これは、自由というものによく似ている。

自由とは、誰にも依存しないことではない。人間は他者に依存し、国家も他国に依存しながら生きている。問題なのは依存することではなく、一つの依存関係から離れることも、別の関係へ移ることもできなくなることだ。

そう考えると、Tamingの境界も見えてくる。

依存しているからTamedなのではない。依存先を選び直す能力を失ったとき、人も国家もTamedになる。

そして非対称なTamingでもっとも危険なのは、おそらくそこに時間差が生まれることだ。

弱い側は、強い側との関係こそ自分の繁栄と安全を保証するものだと学び、その関係を制度化し、長い時間をかけて生活のなかへ組み込み、ついにはその外にいる自分を想像できなくなっていく。

ところが同じ時間のなかで、強い側にとっては、技術や地政学や経済の変化によって、弱い側が以前ほど不可欠ではなくなっているかもしれない。

すると、奇妙な逆転が起こる。

弱い側にとって相手が「なくてはならない存在」になった、その頃に、相手にとって自分は「なくてもいい存在」になっている。

非対称なTamingの本当の危険は、支配されることそのものにはないのかもしれない。

自分が相手なしでは生きられなくなったとき、相手のほうはすでに自分なしでも生きられるようになっている。そして、そのことに気づいたときには、別の関係をつくる能力まで失われているかもしれない。

だから国家にとって最後に守るべきものは、誰にも頼らずに生きることではない。

関係を変えられること。依存先を増やせること。必要なら距離を取れること。そして何より、現在とは別の未来をまだ想像できることなのだろう。

国家は、戦争に敗れただけでは滅びない。

本当に危うくなるのは、敗北したときではなく、自分たちには別の未来もあり得るという想像力と、その未来へ移るための余白を失ったときなのかもしれない。

農耕のはじまり

狩猟採集民がある日、突然農業を発明したわけではない。むしろ農耕は採集生活の延長から生まれ、何世代、場合によっては何百年という時間をかけて、人間と植物との関係が少しずつ変わっていった結果だと考えると、その始まりの姿がかなり見えやすくなる。実際、農耕への移行には単一の原因があったわけではなく、世界のさまざまな地域で異なる形で進んだ。定住が農耕より先に進んだ地域もあれば、農耕が定住を強めていった地域もあった。

人が農民になる前の集落を想像してみよう。今から一万年以上前、数十人ほどの小さな集団が、川の近くで暮らしている。少し離れたところには森があり、丘には野生の麦のような草が群生している。春には若芽や根を採り、夏になると野生の穀物を集め、秋には木の実を拾う。川では魚を捕り、森や草原では鹿やガゼルなどの獲物を追う。

そんな生活をしていた人々は、植物について驚くほど多くのことを知っていたに違いない。この草はいつ頃実るのか、どの谷へ行けば大きな実が採れるのか、何を乾燥させれば冬まで保存できるのか。そうした知識を長い経験のなかで蓄積していた。

だから、「最初の農民は種をどこから手に入れたのか」と考える必要はあまりない。種はすでに彼らの周囲にあった。というより、種そのものが食べ物だった。野生の穀物を集め、食べ、残ったものを保存する。その保存された穀物は、そのまま翌年に芽を出す可能性を持った種でもあった。

野生穀物の採集から意図的な播種への移行も、私たちが考えるほど明確な境界を持ってはいなかったのだろう。野生の麦が生えている場所へ毎年採集に行き、採りやすいように周囲の草を刈る。邪魔な木を取り除く。実の大きい麦は残す。よく実る一角を荒らさないようにする。それはまだ畑ではない。人間が少しだけ手を入れた野原にすぎない。

しかし、その程度の介入でも、長い時間がたてば人と植物の関係を変えていく。前年に穂がたくさん落ちたところには翌年も麦がよく生える、と誰かが気づく。ならば、集めてきた穀物の一部を住居の近くに撒いてみようとする者が現れても不思議ではない。土に落ちた種から芽が出る。それなら翌年はもう少し多く撒いてみる。大きな実をつける麦は食べやすいから、その実を残して次に撒く。そうした小さな行為を何十年、何百年と繰り返すうちに、採集と栽培の境界は少しずつ曖昧になっていったのだろう。

さらに具体的な風景を想像してみる。誰かが籠いっぱいの野生の麦を集めて帰ってくる。住居の前で穂を叩けば、種が地面にこぼれる。やがて雨が降り、しばらくするとその場所から麦が生えてくる。誰かが「農業を発明しよう」と考えたわけではない。ただ、繰り返される経験のなかで因果関係に気づく。ここに落ちた種から麦が生えたらしい。それならもっと落としてみよう。よく育った麦の種を残せば、次もよく育つかもしれない。そんな小さな発見が積み重なっていく。

そしてここから、少し奇妙なことが起こり始める。

最初は人間が植物を選んでいる。ところが、人間が毎年よく育つもの、実の大きいもの、収穫しやすいものを残していけば、やがて人間に利用されやすい性質を持つ植物が増えていく。人間が植物を変え始めると同時に、植物もまた人間の行動を変え始める。ここに、双方向のTamingが始まる。

もちろん、その形は植物によっても地域によっても違った。世界各地で農耕は異なる植物を対象として成立したのだから、栽培の方法も、定住との関係も一様ではない。それでも、大きな流れには共通するものがあったのではないだろうか。

水があり、魚があり、木の実があり、野生穀物があり、獲物もいる場所なら、毎年遠くへ移動する必要はない。「今年もここにいよう」となる。翌年も「ここでいい」となる。何年もそうして暮らしていれば、やがてそこはほとんど村になる。そして、そこへ栽培が加わると、人間と土地の関係が決定的に変わり始める。

小さな畑を作り、種を撒く。すると、もう放って遠くへ行くことが難しくなる。芽が出たか確かめたい。鳥や動物に食べられないようにしたい。雑草を取り、成熟すれば収穫しなければならない。つまり、人間が植物を管理し始めた瞬間から、植物の事情もまた人間の行動を拘束し始める。

収穫が増えれば、今度は保存が必要になる。大量の穀物を蓄えてしまえば、それを持って移動することは難しい。それなら倉庫のそばに住んだほうがいい。家を丈夫にする。井戸を掘る。炉を作る。石臼を置く。すると家や道具そのものがさらに人間をその場所へと結びつける。こうして、定住が栽培を促し、栽培が貯蔵を増やし、貯蔵がさらに定住を強めるという自己強化の循環が始まる。

集落も、誰かが設計して建設したわけではない。最初は数家族だったのだろう。一軒の家があり、その隣に親族の家が建つ。子どもが成長し、結婚すると、その近くにもう一軒できる。親戚がやってくる。貯蔵場所が増え、作業場ができ、人が頻繁に歩くところには道ができ、外れにはゴミが捨てられるようになる。誰も「ここに村を建設しよう」と決定したわけではないのに、気がつけば村ができている。

こうして考えると、農耕の始まりに「今日から農業を始めます」という瞬間などなかったのだと思えてくる。野生植物を採り、毎年同じ場所へ行き、邪魔な植物を取り除き、好ましい植物を残す。そこに落ちた種から翌年また植物が育ち、やがて人が意図的に種を撒くようになる。それを住居の近くでも育て、収穫物を保存する。保存場所から離れにくくなり、家が丈夫になり、親族の家が増え、畑が広がり、一年の生活が植物の季節に合わせて組織されていく。一つひとつは小さな変化なのに、長い時間の先から振り返れば、そこには農耕社会が成立している。

最初は、人が植物をTameした。

ところが農耕が大きくなるにつれて、植物のほうも人間をTameし始める。野生の麦なら、実ったころにそこへ出かけて採ればよかった。しかし栽培された麦は、種を撒く時期を人間に要求する。草を取る時期があり、収穫する時期があり、脱穀し、乾燥させ、保存する時期がある。植物の生存周期に合わせて、人間の一年が組み替えられていく。

それだけではない。畑を守らなければならない。貯蔵庫を守らなければならない。土地を守らなければならない。土地が重要になれば、どこからどこまでが誰の土地なのかという境界が意味を持つようになり、それを誰に引き継ぐのかという相続も重要になる。貯蔵された富が増えれば、それを誰が管理するのかという問題も生まれる。その先には、村、所有、人口増加、分業、争い、権力という、文明へとつながる巨大な連鎖が見えてくる。

そう考えると、農耕の始まりを「人間が植物をTameした出来事」とだけ理解するのでは、半分しか見たことにならない。むしろ人間が植物を少しずつ人間の側へ引き寄せる一方で、植物も人間を土地と季節の側へ引き寄せていった。農耕とは、そのような相互Tamingの過程だったのではないだろうか。

では、その結果、人は狩猟採集民だったころより自由になったのか、それとも不自由になったのか。

これは簡単には答えられない。ただ、少なくとも農耕によって人の生活が楽になり、自由になったと単純に考えることはできない。農耕への移行に伴って食物の種類が狭まり、多くの労働を土地へ投入する必要が生じ、人口密度が上がることで感染症の危険も増えた地域があったことは、骨や歯などの考古学的研究からも示されている。地域による違いは大きいとはいえ、「狩猟採集民は毎日飢えながら歩き回っていたが、農業を発明したことで食べ物が豊富になり、暮らしが楽になった」という単純な物語は、実態からかなり遠い。

自由という意味でも同じことが言える。狩猟採集民なら、今年この谷に獲物が少なければ別の場所へ移ることができる。しかし農民は、今年この畑の出来が悪いからといって簡単に移動することはできない。そこには家があり、畑があり、種があり、穀物倉があり、場所によっては灌漑施設があり、家畜がいる。人間は財産を持ったことで豊かになると同時に、その財産によって土地へ結びつけられるようになった。

しかし一方で、農民は狩猟採集民とは別の能力を手に入れたとも言える。移動する自由が小さくなる代わりに、一つの場所を長い時間をかけて作り変える力が大きくなった。家を改善し、倉庫を作り、畑を広げ、何年も使える道具を持ち、一か所に大量の物資を蓄積する。つまり農耕とは、単純な自由の喪失ではない。移動する自由を減らすかわりに、蓄積し、環境を改変する能力を大きくした生き方でもあった。

それでも、一つの疑問が残る。それほど大変なら、なぜ人間は農耕をやめなかったのか。

おそらく重要なのは、農耕が「一人の人間を楽に生かす技術」というより、同じ土地により多くの人間を生かす技術だったということだろう。農耕は単位面積あたりの食料、とくにカロリーの生産量を増やすことができる。その代わりに、多くの労働を要求する。個人にとって楽かどうかと、共同体として多くの人間を維持できるかどうかは、まったく別の問題なのだ。

ここに一種の歴史的な罠が生まれる。

たとえば、それまで少数の狩猟採集民しか暮らせなかった土地で、農耕によってはるかに多くの人間が暮らせるようになったとする。人口は何世代かのうちに増えていく。その段階で誰かが「農業は大変だから、父祖のような狩猟採集生活へ戻ろう」と考えても、もう簡単には戻れない。昔は少数の人間だけが利用していた森林や草原に、増えてしまった人口全体を支えるだけの食料はない。農耕によって食料生産が増え、食料生産が人口を増やし、増えた人口がさらに農耕を必要とする。ここでも自己強化の循環が生まれている。

誰も初めから、この循環を選んだわけではなかったのだと思う。「狩猟採集生活を捨てて農民になろう」と決断した人々がいたわけではない。最初は「少し麦を撒いておこう」という程度だったかもしれない。狩猟もする。木の実も拾う。魚も捕る。その傍らに少しだけ麦を育てる。それなら、その世代にとってはきわめて合理的な選択だったはずだ。

しかし、翌世代には畑が少し広がる。その次の世代には穀物倉が大きくなる。人口が増え、家が増え、土地への投資が増える。そして百年、二百年、五百年と時間が過ぎたとき、そこにはもはや畑なしでは存続できない社会が出来上がっている。

誰も「自由を捨てて農耕社会を選択します」と宣言したわけではない。

一世代ごとの小さな合理的選択が積み重なった結果、後の世代には退出することの難しいシステムが出来上がったのである。

最初は人間が麦をTameする。やがて麦が人間をTameする。そして人口がさらに増えると、水の管理、土地の境界、蓄えの管理、紛争の処理などが必要になっていく。いつの間にか植物によるTamingは、土地によるTamingへ、共同体によるTamingへ、そして制度によるTamingへと姿を変えていく。

この話でもっとも興味深いのは、農耕を始めた最初の世代と、その五百年後に生きる世代とでは、同じ農耕社会に暮らしているように見えて、実際には持っている自由がまったく違うということだ。

最初の世代には、「今年は畑を作るのをやめよう」という選択肢がまだかなり残されていたかもしれない。狩猟も採集も知っている。周囲の自然もまだその生活を支えることができる。しかし何世代も経ち、人口が増え、畑、家、貯蔵庫、家畜、道具、土地、そして人間関係そのものに生活を依存するようになった世代には、「狩猟採集に戻ろう」という選択肢はほとんど残されていない。

ここに、Tamingというもののもう一つの姿が見える。

Tamingとは、強い者が弱い者を捕まえ、その自由を奪うことだけではない。もっと不気味なのは、その時代を生きる人々にとっては合理的だった小さな選択が積み重なり、まだ生まれていない次の世代の選択肢を狭めてしまうことである。

今年は少し多く麦を撒こう。

もう一つ倉庫を作ろう。

畑をもう少し広げよう。

その一つひとつに、間違った判断はない。ところが何百年という時間を通して見ると、その小さな合理性の積み重ねが、後の人間には容易に抜け出すことのできない巨大な仕組みに変わっている。

そしておそらく、これは農耕だけの話ではない。

国家も、貨幣も、都市も、会社も、最初から完成した巨大な制度として人間の前に現れたわけではない。その時その時の不便や危険を減らすために、人々が一つずつ合理的な選択を積み重ね、その結果として、後の世代がその外側で生きることの難しい世界が出来上がってきた。

そして今、私たちはAIについても、よく似た入口に立っているのかもしれない。

私たちは便利だからAIを使う。仕事が早くなるから使う。より正確に判断できるから使う。人間がしなくてもいい仕事を任せる。それぞれの判断だけを見れば、どれも合理的である。

農耕を始めた最初の人々が、「少し麦を撒いておこう」と考えたように。

しかし、その選択を何世代も積み重ねた先で、人間がどのような社会に暮らすことになるのか、その社会からどれほど自由に退出できるのかまで、現在の私たちが見通しているとは言い難い。

人間は世界をTameすることによって、自分の生存領域を広げてきた。しかし、何かをTameするたびに、その対象との新しい関係が生まれ、その関係によって今度は人間自身の行動が規定されてきた。

植物をTameした人間は、植物の季節に従うようになった。

土地をTameした人間は、土地から離れにくくなった。

制度を作った人間は、制度の外で生きにくくなった。

そう考えると、Tamingの歴史とは、人間が世界を支配してきた歴史であると同時に、人間が自ら作り出した世界によって、少しずつ自分自身をTameしてきた歴史でもあるのかもしれない。

そして、その意味では、次世代の選択肢を狭めてしまうことは、私たちの文明が抱えている、ひとつの宿命なのかもしれない。

Tame

人はその昔、農耕を始めるまでの長いあいだ、多くの場合、小さな集団をつくって暮らしていた。森で木の実や植物を採集し、動物を狩り、川や海で魚を捕り、海辺では貝を採るなど、季節に応じて一定の範囲を移動しながら、その土地で得られる食料を利用する生活を長く続けていた。そこでは、人間が土地を大きく作り変えて食料を生産するというより、人間のほうが季節や動植物の周期に合わせて移動していた。

しかし、人は採集や狩猟を繰り返して暮らすなかで、少しずつ周囲の環境に手を加えるようになった。人が繰り返し利用する土地は、しだいに人間の影響をまったく受けていない自然とは言えなくなっていく。人は自然のなかで暮らしながら、結果として土地そのものをTameしていったのである。それと同時に、人は自然の振る舞いを少しずつ自分たちの側へ引き寄せていった。好みの植物を集中的に採集し、それらが育ちやすい環境を残したり、そこに手を加えたりするようになる。そうした営みの延長線上に、栽培の原型というべきものも現れた。人はそうとは知らないまま、あるいは半ば意識的に、植物をTameし始めていた。

そして人は、火を味方につけた。火をTameすることで、火を通した食べ物だけでなく、暖かさや明かりを得て、危険な動物を遠ざけることもできるようになった。さらに人はオオカミとの関係を変え、長い時間をかけて犬という特別な仲間を得た。それは単に一つの動物を飼い馴らしたというだけではなく、人間が他の動物との関係そのものを変えていく、大きな一歩でもあった。こうして人は、自らを自然に合わせて生きるだけではなく、自然の一部を自らの側へ引き寄せること、つまり世界をTameすることを少しずつ覚えていった。

やがて人は、植物そのものを本格的にTameするようになった。麦をTameし、稲をTameし、豆をTameした。野生の植物を探して歩くのではなく、人の暮らす場所の近くで植物を育て、収穫し、翌年のために種を残すようになった。それは、植物の都合に人が合わせるだけの関係から、植物の生き方そのものを人の都合にも合わせて変えていく関係への転換だった。こうして農耕が始まり、それが広がるにつれて、人はいろいろな植物をTameし、作物にしていった。そして動物にも同じことをした。ヒツジやヤギ、牛をTameし、やがて馬なども人の暮らしのなかへ取り込んでいった。人はこうして、自然のなかで食べ物を探して生きる存在から、自分のまわりに人のための世界をつくる存在へと、少しずつ変わっていった。

農耕が広がることによって、人は以前より多くの食料を生産し、その一部を蓄えることができるようになった。そこに「余剰」という新しい富が生まれる。余剰が蓄積されるようになれば、それを保管し、管理し、分配する仕事も必要になる。そして余剰を管理する者が、他の人々より大きな力を持つ可能性も生まれる。ここに、人が人をTameするための条件が少しずつ整い始めたと考えることができる。

農耕とともに定住化が進み、人口が増え、社会が大きく複雑になっていくにつれて、役割の分化も進んでいった。農耕だけに従事するのではない人々が現れ、専門的な仕事をする者、指導的な役割を担う者、祭祀を担う者などが生まれていった。さらに、余剰や土地などの富が蓄積され、それが世代を越えて受け継がれるようになると、富や権力の差が固定される条件も生まれていった。

もちろん、これはどこでも同じように、一直線に進んだわけではない。農耕を始めても比較的平等な社会が続いた場合もあり、農耕によって直ちに支配階級や国家が生まれたわけでもない。農耕が階層社会を必然的に生み出したというより、富の蓄積と継承、そして権力の集中を可能にする新しい条件をつくったと考えたほうがいいだろう。それでも長い時間のなかでは、富や土地、食料などをめぐる利害の対立が生まれ、それを調整する仕組みが発達し、ある社会では権力が集中し、階層が固定され、やがて支配する者と支配される者との区別そのものが制度のなかへ組み込まれていった。

ここでTamingには、一つの大きな転換が起きる。人が自然をTameするだけでなく、人が人をTameするようになったのである。さらに社会が大きく複雑になっていくと、人をTameする主体も、目の前にいる特定の人だけではなくなっていった。神が人をTameし、国家が人をTameし、法が人をTameし、思想や主義もまた人をTameするようになる。

もちろん、神や国家や法が、生き物のように人を飼い馴らしたという意味ではない。人自身が生み出した宗教、国家、法、思想という仕組みが、やがて一人ひとりの行動を規定し、ときにはそれをつくった個人の意思さえ超えて、人を従わせる力を持つようになったということである。そして近代になると、そこに科学と技術という新しい力が加わった。ただし、「科学が人をTameした」と言い切るには少し注意が必要だろう。科学そのものは、人を支配するための制度ではない。むしろ科学によって生み出された知識が、国家、産業、医療、教育、軍事、行政、そしてさまざまな技術システムと結びついたとき、人の生活を測定し、分類し、標準化し、管理する巨大な仕組みが可能になった。

こうして見ていくと、奇妙な反転が起きていることに気づく。人が世界をTameするために生み出したものが、いつしか逆に人の行動を規定するようになったのである。人は世界をTameしてきたが、それと同時に、自分がTameした世界によって、自らもTameされるようになっていった。

そして文明が進み、Tameする対象がより微細で複雑な領域にまで及ぶようになると、Tameする側の人が消えてしまうのではなく、その力の居場所そのものが、より抽象的な階層へ移っていくように見える。人は土をTameし、火をTameし、植物をTameし、動物をTameし、人をTameし、水をTameし、森をTameし、金属をTameし、微生物をTameし、電子をTameし、分子をTameし、原子をTameし、そして情報をTameしてきた。そうしてTamingの対象が高度になっていくにつれて、Tameする力そのものも、しだいに目に見えにくい場所へと移っていった。

かつてTameする者は、畑や牧場や鉱山や工場といった物理的な場所にいた。しかし現代では、その力は必ずしもそうした場所に見えるわけではない。金融、法制度、AI、データ、通信網、企業統治、国際的なネットワークといった抽象的な構造のなかに、Tameする力が組み込まれるようになったからである。つまりTameする力は、具体的な場所から抽象的な構造そのものへと移っているように見える。Tameする側の人もそこから消えたわけではない。むしろ人自身が、自らのつくり出した抽象的な構造のなかへ入り込み、その構造を通して世界をTameするようになった、と考えたほうがいいのかもしれない。

ところが、人が世界をTameすることでつくり上げてきた文明を、さらに効率的で高度なものへと作り変えていくと、そこにもう一つの奇妙な現象が現れる。文明を支えるために必要だったものが、文明そのものの発達によって、しだいに必要ではなくなっていくのだ。

馬がそうだった。人は馬をTameし、その力を利用することで、はるか遠くまで移動できるようになった。馬は人や物を運び、広大な領域を結びつけ、戦争のあり方さえ変えた。長いあいだ、馬は文明を動かすためになくてはならない存在だった。ところが人は、やがて馬の力を超える機械をつくり出した。鉄道、自動車、トラック、トラクターなどが馬の役割を引き受けるようになると、文明はそれまで必要としていた馬を必要としなくなっていった。もちろん馬そのものがいなくなったわけではない。しかし、文明の中心にいた馬はその役割の多くを失い、しだいに周縁へと移っていった。

同じようなことは、人の世界でも繰り返されてきた。農耕文明にとって、農民はなくてはならない存在だった。ところが人は農業をTameし続け、農具を改良し、機械を導入し、生産性を高めていった。その結果、より少ない人で、より多くの食料を生産することができるようになった。それでも人はそこで必要とされなくなったわけではなく、別の場所へ移ることができた。農業から工場へ、工場からオフィスへ、肉体労働から知的労働へ、具体的なものを扱う仕事から、より抽象的なものを扱う仕事へと、人は働く場所を移していった。

技術革新によって特定の仕事が失われる一方、歴史的には新しい産業や職業も生まれ、人はそこへ移ることができた。その意味では、人には馬にはなかった逃げ道があったともいえる。馬は、自動車が登場したからといって運転手になることはできなかった。しかし農民は工場労働者になることができ、工場で必要とされなくなった人は、販売やサービスや事務などの仕事へ移ることができた。Tameされていた人は、自分が担っていた仕事を機械に渡しながら、自分自身はさらに抽象的な階層へと登っていった。

しかしAIの登場によって、この長い移動の先に、これまでとは少し違う問題が現れようとしている。AIが入り始めたのは、筋肉によって行われる仕事だけではない。情報を整理し、文章を書き、画像を認識し、分析し、判断を助け、何かを新しくつくり出すといった、これまで人が担ってきた非定型的で知的な仕事の一部にも、機械が入り始めている。

そうなると、一つの疑問が生まれる。今度、人はどこへ行けばいいのだろう。

これまでは、ある仕事が機械化されるたびに、もっと人にしかできない仕事へ行けばいいという答えがあった。より高度な判断へ、より創造的な仕事へ、より知的な仕事へ、そしてより抽象的な仕事へと、人は文明という階段を上へ上へと移動してきた。ところがAIは、その上の領域にまで入り始めている。

もちろん、それによって人の仕事そのものがなくなると決まったわけではない。過去の技術革新も、人の仕事を代替する一方で新しい仕事を生み出してきたのだから、過去の経験だけからAI時代の最終的な雇用の姿を単純に導くことはできない。それでも、一つの根本的な問いは残る。

人は世界をTameすることで文明をつくり、その文明をさらにTameし続けることで、人を必要としない部分を少しずつ増やしてきた。馬の力が必要だったから馬をTameしたが、馬より優れた機械をつくったとき、文明は馬を必要としなくなった。それと同じように、人の労働が必要だったからこそ、人を教育し、訓練し、組織し、規則に従わせ、長い時間をかけて文明のなかで働くことのできる存在へとTameしてきたのだとすれば、その仕事を機械とAIに渡し始めたとき、文明が人を必要とする領域もまた、少しずつ狭くなっていくのだろうか。

そして、これまで最後まで残っていた判断する者、創造する者、管理する者、つまりTameする側にいる人まで機械によって代替できるようになったとき、人はこれまでと同じように、さらに上の階層へと移ることができるのだろうか。それとも、そのときには、もう上はないのだろうか。

人は世界をTameすることで文明をつくってきた。そして、より完全に世界をTameしようとすることで、文明をここまで発達させてきた。しかし、そのTamingを限りなく完成に近づけた先で待っているものが、もしも人を必要としない文明なのだとしたら、人が世界を自らのためにTameし続けた結果として、その世界から人自身が必要とされなくなるという、奇妙な反転が起こることになる。

それはもしかしたら、人の歴史における最大の逆説なのかもしれない。

人口減少と地方消滅(森知也)

都市盛衰予測モデル(日本の都市群の今後の盛衰を予測するための誘導系統計モデル)は、経済集積理論と都市人口分布に現れるべき乗則を理論的基盤としている。推定にあたっては、1970〜2020年に日本経済が都市人口分布のべき乗則をおおむね維持しつつ経験した3つの過程「都市化および東京一極集中の進行」「個々の都市のべき乗則からの乖離の推移」「都市内部の人口分布の変化」を学習し、その上で、国立社会保障・人口問題研究所による全国総人口の将来推計を外生的に与え、2025年から2200年までの国土上の人口分布を1kmメッシュ単位で予測する。
この都市盛衰予測モデルを用いて、2200 年という一見はるかに遠い将来までの予測を行なうと、シナリオの中で最も現実的と思われる「出生率低位・死亡率中位」の下では、2200年頃の日本の人口は約900万人、出生数は年間約3万人で、ほとんど子どもがいない社会になっているということになる。

日本が仕掛けている歴史戦(篠田英朗)

高市早苗首相は、日本はもはや戦争中の行為のために近隣アジア諸国に謝罪をし続ける必要はない、そもそも日本は自衛権を行使していたにすぎない、という右翼的な発言で知られた政治家だ。その姿勢が、日本の国内世論では支持を得て、高い支持率を維持してきた。ただし、国内における政権支持率は、当然のことながら、対外政策における主張の妥当性までを保証するわけではない。
中国に対して毅然とした態度をとるべきだ、という主張が、歴史をいくぶんか恣意的に解釈するのは当然のことである、といった安易な姿勢につながっていくとすれば、それは長期的には日本の足元をふらつかせる悪影響をもたらす恐れがある。

巨大災害が起きれば、日本の財政は「制御不能」に近づく(Copilot)

● 東日本大震災
  ・ 直接損失:16.9兆円、復興予算:17.7兆円 → 財政は耐えた

● 南海トラフ地震
  ・ 2年で必要な財政支出:161兆円(東日本の5.9倍) → 国家的破局

● 首都直下地震
  ・ 長期的経済損失:678兆円 → 財政・経済の長期縮小

● 富士山噴火
  ・ 首都圏機能停止 → 税収の急減 → 財政危機が連鎖

巨大災害が起きれば、東日本大震災のときのように日本の財政が持ちこたえる可能性は低く、財政は構造的に制御不能に近づく。

これは「債務残高の大きさ」「税収の地域集中」「高齢化による復興の担い手不足」「国土の脆弱性」が重なっている日本特有の構造問題です。