坂口弘『歌集 常しへの道』

2023年12月29日

死刑囚が詠んだ歌

今週の書物/
『歌集 常しへの道』
坂口弘 著、角川書店、2007年刊

フランスの家の寝室の本棚には、いろいろなものが並んでいる。Douglas Hofstadter の『Gödel, Escher, Bach』、上村一夫の『同棲時代』、 Erich Fromm の『Escape from Freedom』、
B6判のポケットサイズでザラ紙の1975年頃の『宝島』、『Information Design』、『かもめのジョナサン』などなど。
そのどれもがいつの間にかこの本棚に入り込み、居座り続けている。

そのなかに、坂口弘の歌集と、安井かずみのエッセイ集がある。反社会的(antisocial)な「非合法な行動」で非難された坂口弘の短歌と、社会とは無関係(non-social)な「奔放な行動」で非難された安井かずみのエッセイ。そのどちらも、時代を濃くそして強く反映している。

坂口弘は中学1年で父親を亡くし、木更津高校から東京水産大学に進んだ。大学を退学して大田区の印刷工場で働き始めたのが1967年。1969年に京浜安保共闘に加わり、羽田空港突入闘争、上赤塚交番襲撃事件、真岡銃砲店襲撃事件などの後、1971年8月の印旛沼事件から1972年2月のあさま山荘事件までの凄惨な半年を過ごすことになる。1982年に東京地裁で死刑判決を受け、1993年に死刑が確定した。

安井かずみは東京ガスのエンジニアの父親と着物しか着ない古風な母親のもとフェリスに通い、文化学院を卒業し、作詞家になる。1967年にローマで新田ジョージと結婚。1969年に離婚して、パリで数年暮らし、帰国。その前後に、『空にいちばん近い悲しみ(1970年)』、『空にかいたしあわせ(1971年)』、『私のなかの愛(1972年)』と本棚に並ぶ本を出版。1980年代に発癌し、1994年に55歳で死去。

この二人の人生は、まったく違うのだけれど、というか正反対なのだけれど、妙にシンクロしている。坂口弘の人生が、大学の先輩の川島豪という人に出会って変わっていったように、安井かずみの人生は、「キャンティ」のオーナーの川添梶子という人に出会って変わってゆく。人の人生は、誰かに出会うことで大きく変わってしまう。

幸せなはずの安井かずみは55歳で死に、不幸せなはずの坂口弘は77歳の今も歌を詠んでいる。人の幸せ・不幸せは、他人にはうかがい知れないが、「金色のダンスシューズが散らばって、私は人形のよう」が絶筆だった安井かずみは最後まで幸せに見え、「面会所裏のつつじを抜きしは誰ならむ わりなきを悔やむ西行がごと」の坂口弘はずっと不幸せに見える。

ただ、そもそも「安井かずみのほうが」とか「坂口弘のほうが」などと言うのは適切ではないだろう。同じ時代に生きていても、まったく交差しない人生はたくさんある。社会運動に目覚めた人たちと、「キャンティ」や「川口アパートメント」に集う人たちとでは、会話も成り立たないだろうし、人生も交わりようがない。

で今週は、坂口弘の数々の歌からなる一冊を読む。『歌集 常しへの道』(坂口弘 著、角川書店、2007年刊)だ。

  外廊下を歩みガラス戸の前に来て老けし中年のわれに驚く

  歩きつつ盗み見すれば独房で物書く被告の姿よろしき

  これが最後 これが最後と思ひつつ 面会の母は八十五になる

というような「坂口弘にしか詠めない歌」が 593首 並んでいる。

私がこのなかで特に注目したのが、1993年に死刑が確定したあと、つまり死刑囚となったあとの時期に詠まれた歌の数々だ。間違いなくこれらは、死刑囚になった人にしか詠めない。坂口自身の言葉を借りれば「外界から引き離され、絞死刑の執行を待つだけの身になった」のだ。そして「正真正銘の現実世界でありながら、世間一般の社会とはまったく異なる世界、極めて特異な世界に、足を踏み入れた」のである。

  獄吏らの列のあわひに立たされて今より君は死囚と言はる

  死刑囚の身分告げらるる 大部屋に 線香の匂ひかすかに漂ふ

  死刑囚の処遇となりて 十日経ち 三人の処刑をラジオが告げぬ

  三年と四ヶ月ぶりの 処刑なり われらを意識しての処刑か

死刑囚になっての動揺が伝わってくる。怒りがこみあげたのか、歌も歌でなくなり、表現しようにもしきれない感情が、警察官僚上がりの政治家に向かう。

  あさまの時 警察最高位の後藤田氏が いま法相といふ巡り合せよ

  桜咲けるまさにその日に 執行の再開命ぜし 彼のセンスよ

  前の日に告知することも なさずして いきなり処刑するが正義か

  後藤田氏に大臣が代り 一転して 執行再開の危機高まれり

  法秩序は 執行せずとも保たれしに せずば乱れむなどとのたまへり

  幻覚や妄想の症状重き人を 絞首なししといふ 残虐ならずや

  大臣の椅子を射止めて堪へきれず笑みたる顔に恐怖す吾は

これらはすべて、後藤田正晴という個人に向けられている。「警察最高位の後藤田氏」という言い方に、坂口の怒りが込められている。そして怒りの矛先は、後藤田の「子分」である佐々淳行にも向かう。

  手放しで われの確定をよろこべる 佐々淳行なる男ありしかな

「佐々淳行なる男」という言い方には、悪意しかない。ちなみに坂口は、1996年になって出版された佐々淳行の著作『連合赤軍「あさま山荘」事件』に噛みつき、短歌の無断改変と名誉毀損とで佐々と文藝春秋とを訴え、勝訴している。死刑囚が裁判で警察官僚に勝訴する。そんなことは、そうあることではない。

死刑囚という身分になっての動揺が多少収まると、歌は自然と「死刑制度」へと向かってゆく。

  前の日に知らせることもなさずしていきなり処刑するは正義か

  首に縄をかけらるるその瞬間まで分からぬと思ふ死刑の恐怖

法務大臣の捺印は、殺人と何のかわりもないではないか。そんな坂口の声が聞こえてくる。

法律上または事実上、現在において「死刑のない国」の数は144か国にのぼり、55か国という「死刑のある国」の数をはるかに上回る。北米と欧州で死刑があるのは、米国とベラルーシだけ。21世紀になって日本国という国家が人権を尊重するというのであれば、国家による殺人はすぐに止めるべきなのだ。

死刑という野蛮な制度は、坂口の上に重くのしかかり続ける。

  月曜日に執行指揮書は届くらし月曜日の朝はこころ重たし

  木曜日に髭を剃りつつ執行はもしや明日かといつも思へる

  後ろ手に手錠をされて執行をされる屈辱がたまらなく嫌だ

  叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ

それは、36年間にわたり月に一度、房総半島にある自宅から往復5時間かけて東京拘置所まで息子に会いに行った「坂口の母親」にまでのしかかってゆく。

  これからは老い深まりし母親を我の処刑に怯えさするか

  春に次ぐ秋の処刑に取るものも取敢えず母は面会に来り

このような圧迫と恐怖が続くなかでは、自分がしてしまったことへの反省などできようもない。死刑制度は死刑囚から反省の機会をも奪ってしまうのだ。死刑制度への疑問は、

   挫折せし過激派われが 信ずるに足るものは一つ ヒューマニズムのみ

という歌に凝縮されている。多くの殺人に関わった坂口が、死刑囚という立場になって、信ずるに足るものは ヒューマニズムのみ と詠う。皮肉と言えば皮肉である。

坂口が自分の死刑のことを離れ、再び社会に目を向けるようになると、坂口らしい歌が散見されるようになる。

  従軍慰安婦にあらず従軍慰安婦にされし人たちと書き給え君ら

  気配せる 闇の外の面に目を凝らせば ああ落蝉羽撃きなりき

  高松塚古墳壁画の発見を 聴かされてその日の われ救はれぬ

  隠れ家に星見るアンネを 思い居り 目隠しの間に月見つつ吾は

  聖地死守のセルビア人のメンタリティーを 顧みるなく 空爆をなせり

77歳になった坂口が、2024年になろうとする今、どんなことを歌にするのか、短歌という詩のなかに何を籠めようとするのか、とても興味深い。

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