(6)石牟礼道子『椿の海の記』

2024年1月19日(金)

みっちんが見た大人の世界

今週の書物/
『椿の海の記』
石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊

1968年に厚生省が水俣病の原因はチッソ水俣工場の廃液に含まれるメチル水銀化合物だと発表した。1969年には石牟礼道子の『苦海浄土』が出版され、水俣病が大きな問題になってゆく。水俣病の患者たちはチッソ水俣支社に行き、会って話し合うことを求めるのだが、支社のお偉いさんたちは「要望は本社に伝える」というばかり。らちがあかないと思った患者たちが上京し、むしろ旗を掲げてチッソ本社前に座り込んだ。

20歳になるかならないかの私は、その光景を何回も目にしている。その一年前に市ヶ谷の自衛隊の前を通りかかり、バルコニーで演説する三島由紀夫を目にしてはいたが、その記憶よりも、水俣病患者の座り込みの記憶のほうが、はるかに鮮明だ。

座り込みをした人たちの多くは患者ではなく、そのほとんどが、水俣からやってきた若くはない支援者たちと、長髪にジーンズ姿の東京の若い支援者たちだった。当時の丸の内を歩くサラリーマンやOLたちの身なりがとてもよかったためか、座り込む人たちの「決してきれいとはいえない身なり」は際立っていた。

水俣からやってきた支援者たちのなかに石牟礼道子もいた。ひとりだけ目立つ女性がいたが、私にはそれが石牟礼道子だという認識はなかった。『朝日ジャーナル』に載っていた写真などで見るかぎり、石牟礼道子の容貌は 特に目を惹くようなものではない。それでも石牟礼道子は、人の目を惹いた。

石牟礼道子は、よく、巫女のような女性だったと言われる。自分の使命を知っているようで、世の中のために力を尽くそうとし、感受性が強く、あらゆるものと無意識に共感してし、直感的に物事をとらえ、まっすぐに行動を起こす。根拠も理由もないのに、何をしたいかだけははっきりしているので、言動には揺るぎがない。そんなことから巫女のようだと言われてきたようだ。

ただ私には、石牟礼道子は、なぜか目が離せない、とても不思議な存在に映る。シャーマンが人を惑わすときのような微笑みを浮かべ、場末の酒場の女が男を見るような目で人を見る。集まった人たちに手料理を振る舞い、会話には積極的に加わらないのに、いつもみんなの中心にいる。そんな人が、目立たないわけがない。

石牟礼道子は、尾関章さんの『めぐりあう書物たち』にも2週続けて取り上げられた。

苦海浄土を先入観なしに読む(2021年10月22日)
https://ozekibook.com/2021/10/22/苦海浄土を先入観なしに読む/

苦海の物語を都市小説として読む(2021年10月29日)
https://ozekibook.com/2021/10/29/苦海の物語を都市小説として読む/

である。2回とも『苦海浄土』についてだ。この2回はとても面白い。石牟礼道子は感性の人で、尾関章さんは論理の人。論理の人が,感性の人が書いた本の書評をしたのだから、面白くないはずがない。

石牟礼道子の「取材」は、面白い。自動車で移動する人たちを自転車で追いかけ、挨拶もせずに現場に上がり込む。メモは取らないし、録音もしない。あとで証拠を見せろとか、根拠はなにかと聞かれても、何も持っていない。頼りは自分が感じだことと、自分が覚えていること。そして大学や図書館に残された資料。それで十分なのだ。

皇后雅子の祖父で当時チッソの社長であった江頭豊が患者のところをまわったときのことを、石牟礼道子は克明に書いているのだが、石牟礼道子にとっては、本当にそのような会話が交わされたのかどうかよりも、その場の空気がどうだったのかとか、江頭豊がどのような人間だったのかということのほうがずっと大事。それが文章になるのだから大変だ。実際、当時のチッソ水俣工場長で後に水俣市長を4期も務めた橋本彦七のことを書いた文章にはたくさんの棘が秘められる。

丸の内に出て来て、聳え立つビルを見て、まるで卒塔婆のようだと書く感性。江頭豊や橋本彦七を醜いと見て取る直感。あの顔、あの表情、あの声、あの仕草。反権力と見えながら、上皇后美智子といとも容易く近づいてしまう。男にとって、これほど手強い女はいないだろう。

で今週は、その石牟礼道子がまだ幼い「みっちん」だった頃のことを書いた一冊を読む。『椿の海の記』(石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊)だ。著者は1927年生まれ。代表作の『苦海浄土』があまりにも有名なためか、他の作品が顧みられることは少ないが、『椿の海の記』『あやとりの記』『葭の渚』といった「みっちん」シリーズ、そして『西南役伝説』のような歴史物、『食べごしらえおままごと』のような料理に関する本、そして詩集から自伝まで、著作の範囲は驚くほど広い。『椿の海の記』は、そのなかでも石牟礼道子らしさが濃くあらわれ物語で、「みっちん」と大人との絡みのなかに描かれる石牟礼道子の自然観・文明観が読みどころだ。

中身に入ろう。

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。
 大崎ケ鼻という岬の磯に向かってわたしは降りていた。やまももの木の根元や高い歯朶の間から、よく肥えたわらびが伸びている。クサギ菜の芽やタラの芽が光っている。ゆけどもゆけどもやわらかい紅色の、萌え出たばかりの樟の林の芳香が、朝のかげろうをつくり出す。

書き出しからこの調子だ。これを4歳の「みっちん」が見て、そして感じたことだと言われても「はい、そうですか」とは、いかない。私には、子どもの頃はもちろん、大人になってもそんな感性は育たなかった。

歩いてゆく途中、

「やまももの木に登るときにゃ、山の神さんに、いただき申すやすちゅうて、ことわって登ろうぞ」

というように、石牟礼道子の父親の声がずうっと耳についてくる。現実というよりも、夢に近い。

言葉には、

だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。

には、

数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。

季節には、

この世の成り立ちを紡いでいるものの気配を、春になるとわたしはいつも感じていた。

宇宙には、

この世とは、まず人の世が成り立つもっと以前から、あったのではないかという感じがあって。。。

というように、感性だけの、しかし的確な文章があてられる。

天草は

天草を水俣の波うちぎわから眺めると、米のない島、水のない島、飢饉のつづく島、仕事のない島、人の売られてゆく島というてきかせられても、貝も居ろうに魚も居ろうに、食べられる草や木の芽のいろいろも生きて居ろうに。なぜ人はそこから流れて来て売り買いされ、いったん売られてしまうともう、淫売! などといやしめられるのか。

と描かれ、死んだ十六女郎には、

「小娘のくせしとってなあ、あんまり客のとり過ぎじゃったろうもん。中学生ば騙かして」
 するとその隣の「こんにゃく屋」の小母さんが
「ぐらしかですばいあんた、そっでも。深かわけのあって売られて来たんじゃろうもね。おっかさーんちな、たったひと声、出したちばい。息の切れる間際にたったひと声、おっかさーんち」
 人びとはおし黙った。
「仏さまじゃがなもう。かあいそうに」
 天草の島から売られて来た十六の小娘の、毎夜毎夜売りひさがれてきた姿を見知っていた栄町通りの人びとは、こんにゃく屋の小母さんの声にたしなめられるようにおし黙った。そして、人びとは、いまわのきわの娘淫売の、おっかさーんというひと声をたしかにその時きいた。

という文章が用意されている。

「みっちん」は、幼くはない。幼い「みっちん」の目を借りて、口を借りて、手を借りて、石牟礼道子が描き出す人間と自然。豊富な海の幸や山の幸をいただくシーンもふんだんに描かれる。

青絵のお椀の蓋をとると、いい匂いが鼻孔のまわりにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている。すると祖父の松太郎が、自分用の小さな素焼の急須からきれいな色に出した八女茶をちょっと注ぎ入れて、薬味皿から青紫蘇を仕上げに散らしてくれるのだった。

といった具合だ。「みっちん」にとっても、「みっちん」の祖母の「おもかさま」にとっても、そして物語に出てくるすべての大人たちにとっても、豊かな自然はとても身近だ。メチル水銀化合物に穢される以前の水俣の、なんと清々しいことか。

「みっちん」が私たちの親の世代だとすれば、「おもかさま」の世代はその二代前。近代というものがまだ入りこんでいない、前近代的な地方色の色濃い世代だ。だから「みっちん」と「おもかさま」の世界には、今の日本からは考えられない前近代的な空気が漂っている。それが「みっちん」シリーズの魅力になっているのだろう。

ここで、ふと、気がついたのだが、どうも私には石牟礼道子の批評ができないようだ。ただただ、文章を切り張りしているだけではないか。

もう、この「書評」は、止めたほうがいいだろう。最後に気に入っている文章を載せて終わりにしよう。

秋の昼下がり頃を、芒の穂波の輝きにひきいられてゆけば、自生した磯茱萸の林があらわれて、ちいさなちいさな朱色真珠の粒のような実が、棘の間にチラチラとみえ隠れに揺れていて、その下陰に金泥色の蘭菊や野菊が昏れ入る間際の空の下に綴れ入り、身じろぐ虹のようにこの土手は、わだつみの彼方に消えていた。するともうわたしは白い狐の仔になっていて、かがみこんでいる茱萸の実の下から両の掌を、胸の前に丸くこごめて「こん」と啼いてみて、道の真ん中に飛んで出る。首をかたむけてじっときけば、さやさやとかすかに芒のうねる音と、その下の石垣の根元に、さざ波の寄せる音がする。こん、こん、こん、とわたしは、足に乱れる野菊の香に誘われてかがみこむ。

私にはこんな文章は書けない。

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