2024年5月26日(金)
ナショナリズムの正体
今週の書物/
『Notes on Nationalism』
George Orwell 著、Penguin Classics、2018年刊
「めぐりあう書物たち/尾関章」は 2023年12月1日付「休載のお知らせ」以降 お休みが続いている。 「休載のお知らせ」の前、最後の投稿が、2023年11月24日付「オーウェルは二つの社会主義を見た」だった。その投稿は
オーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。
で終わっている。お休みに入らなければ、12月1日に オーウェル についての尾関さんの考察が続いていたはずだ。オーウェルの「明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義」がどんなものだったのかが 気になってしょうがない。
尾関さんは 以前にもオーウェルを取り上げている。2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる」と 2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく」だ。それらはどちらも『一九八四年』についての書評で、とても面白かったのを覚えている。
2023年11月24日付「オーウェルは二つの社会主義を見た」は 『一九八四年』についての書評とは違い、オーウェルの生涯にフォーカスしている。私も、私なりの方法で、オーウェルの生涯をたどることにした。
すると、想像とは違うオーウェルが、次から次へと浮かび上がってくる。「マルクス主義統一労働者党 (POUM)」の一員としてウエスカ近郊の前線で負傷した時の生々しい描写は『カタロニア讃歌』の終わり近くに見られるが、オーウェルを救ったというアメリカ人のハリー・ミルトンの証言が面白い。
「オーウェルの不運は彼の身長と、部隊の要塞化された陣地の上から見下ろすというやや無謀な習慣の両方によるものだ」というのだ。「高速の銃弾の鋭い音が聞こえ、オーウェルは倒れた。彼は仰向けに倒れた」と、その時の記憶は鮮やかだ。ミルトンは、オーウェルが病院に運ばれるのを待っている間に応急処置をしたことを覚えているが、自分の役割は控えめなもので「私はただ出血を止めただけだ」と言っている。
「オーウェルの不運は彼の身長」とはどういうことかと思って写真を見てみたら、なんとオーウェルは大男だったのだ。サッカー選手だったら間違いなくゴール前のポジションだっただろう。
写真を見て、オーウェルを助けたという ハリー・ミルトン に目が行く。手にライフルを持っている ミルトンのポーズは、明らかにカメラを意識したものだ。オーウェルがただ突っ立っているのと対照的だ。ミルトンのことを読み出して、その自信に驚く。オーウェルに思想的な大きな影響を与えたのは自分だという、オーウェルの著作も 自分なしにはなかったろうともいう。アメリカ人によくあるタイプの 単純で明るい人だったのだろう。
ミルトンより もっと目をひくのが、オーウェルの妻 アイリーンだ。戦場という男の世界に女がひとりだけ紛れ込んでいる。気になって調べてみたら、興味深いことがたくさん見つかった。
スターリンの威を借るスペイン人たちのせいで スペイン国内にいるのが危険になってきたとき、パスポートを手配し フランスに脱出する手はずを整えたのは、他でもないアイリーンだった。オーウェルが著作に専念できるようにと働きに出て家計を支えたのも アイリーンだ。
それよりもなによりも、オーウェルの小説『1984年』は、アイリーンの詩『世紀末、1984年』に影響を受けた可能性があるというから 驚きだ。この詩は1934年に、彼女が通っていたサンダーランド教会高校の創立50周年を祝い、1984年の創立100周年まで50年先を見据えて書かれたという。オーウェルと出会う1年前に書かれたアイリーンの詩の未来的なビジョンと『1984年』のビジョンには、マインドコントロールの使用や警察国家による個人の自由の根絶など、いくつもの類似点がある。
また、アイリーンが『動物農場』でオーウェルと「微妙で間接的な方法で」協力したという記述がある。オーウェルは当初、エッセイを書くつもりだったが、アイリーンは寓話を提案した。二人は夜に一緒にその作業に取り組み、オーウェル夫妻の友人たちはその小説の中にアイリーンのスタイルとユーモアを見いだしたという。
アイリーンは1945年の3月に死んだ。オーウェルはアイリーンのことをあまり書いていない。ただ、アイリーンがオーウェルにとって大事な人だったことは間違いないようだ。
で今週は、そんなオーウェルの膨大な著作のなかから、アイリーンが死んだ1945年に書かれたエッセイを読む。『Notes on Nationalism』(George Orwell 著、Penguin Classics、2018年刊)だ。
オーウェルは、ナショナリズム(nationalism)は 2つの習慣(habit)によるという。「何百万、何千万という集団を 自信を持って善と悪とに分類する習慣」と「自分を一つの国家などの単位と同一視し その利益だけを最優先する習慣」だ。そしてその目的は 自分自身のためではなく、自らの個性を注ぎ込むことに決めた国家や組織のために さらなる権力や名声を確保することにあるという。
オーウェルはまた、ナショナリズムを、パトリオティズム(patriotism)のような気持ちと混同してはいけないともいう。特定の場所や生活様式に思いを寄せるのは自然のことで、他人に強制する意図がなく防衛的なものであれば、何も悪いことはないという。
もちろん、ことはそんなに単純ではない。ナショナリズムとパトリオティズムの境はクモの糸のようなものだし、そもそもパトリオティズムのような気持ちは、ナショナリズムの高揚に容易に利用されてしまう。
パリ・オリンピックが今日開幕するが、マスコミが作り出す雰囲気は まさにナショナリズムそのものだ。自国のメダルの数を誇り、自国の選手だけを取り上げ、英雄扱いする。
この『Notes on Nationalism』は、今日という日にふさわしい。ということで、この本を読み続けてみよう。
オーウェルの広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリック、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズム、平和主義などの運動や傾向が含まれるという。ナショナリズムは必ずしも政府や国家への忠誠を意味するわけではなく、ましてや自分の国への忠誠を意味するわけではない。また、ナショナリズムが扱う単位が実際に存在することさえ厳密には必要ではない。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、プロレタリア階級、白人種はすべて熱烈なナショナリズム感情の対象だが、それらの存在に普遍的に受け入れられる定義はない。国や組織を良く見せたいとか 悪く見せたいとか、強く見せたいとか 弱く見せたいという願望が、すでにナショナリズムだという。
ナショナリストの思考法として、執着(obsession)、不安定さ(instability)、現実への無関心(indifference to reality)をあげ、「ナショナリストは、自分の権力集団の優位性以外のことは考えたり、話したり、書いたりすることはほとんどない」「偉大な指導者が ナショナリストが称賛する国にさえ属していないことはよくあることだが、ナショナリストの忠誠心ほど 移ろいやすいものはない」「ナショナリストは、どんな行為についても、それ自体の価値ではなく、誰が行うかによって善悪の判断を行う」というような例をあげている。
私が気になったのは「ナショナリストは、一人残らず、過去を変えようとする」というところだ。オーウェルは「重要な事実は隠蔽され、日付は変更され、引用文は文脈から外され、意味を変えるように改ざんされる。起こるべきではなかったと思われる出来事は言及されず、最終的には否定される」と書いている。ナショナリストに対する強い嫌悪が感じられるではないか。
このエッセイの後半で、オーウェルはナショナリズムを「肯定的ナショナリズム(Positive Nationalism)」「すり替えられたナショナリズム(Transferred Nationalism)」「否定的ナショナリズム(Negative Nationalism)」に区分けし、それぞれについて詳細な検討を展開している。
「共産主義者が 幻滅過程を経て反共産主義になる」とか「反英主義から いきなり英国支持に回る」「ある戦争での平和主義者が 次の戦争で好戦派になる」といった例をあげるまでもなく、どのカテゴリーにも「執着」「不安定さ」「現実への無関心」といった思考法が見られ、面白く読めるようにできている。
オーウェルは最後のパラグラフで「国家主義的な愛憎は、好むと好まざるとにかかわらず、ほとんどの人が持っている」と書く。「それらを取り除くことが可能かどうかはわからないが、それらと闘うことは可能であり、それは本質的に道徳的な努力であると私は信じている」と続ける。「自分が本当は何者なのか、自分の感情は本当は何なのかを発見し、次に避けられない偏見を許容する」「それには道徳的な努力が必要だが、その準備ができている人がいかに少ないことか」という最後の文章から、オーウェルの絶望が読み取れる。
オーウェルが POUM に加わった時に持っていた希望や明るさは、スペインを去ることには消え、第二次世界大戦を経て スコットランドの孤島の荒れた農場でに引きこもるころには 絶望と暗さでいっぱいになっていたように見える。46歳で死んだオーウェルの人生も 39歳で死んだ妻のアイリーンの人生も 悲しく感じられ、オーウェルの著作も違って感じられるようになった。
ナショナリズムというとらえどころのないものについて、自分の主観を消すことなく書いたオーウェルに、最大限の賛辞を贈りたい。