(35)井上靖『孔子』

2024年8月16日(金)

作家の最後の小説

今週の書物/
『孔子』
井上靖著、新潮文庫、1995年刊

過去を教訓として受け取る態度は古くからあり、日本のような島国においては文献は重要な役割を担っていた。

4世紀に「道教」が、5世紀に「儒教」や「陰陽五行」が、6世紀に「仏教」が大陸から伝来するのだが、その際にも文献は重要な役割を果たした。

伝来した文献がどのようにしてもたらされたのかは不明だが、どの文献も当時の日本の人々にとって有難いものだったに違いない。

4世紀に伝来した「道教」は、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術を重ねたようなものだったようだが、老子がいつ頃に生きていたのかさえわからなかったのだから、その成り立ちは想像に任せるしかなかっただろう。

5世紀に伝来した「儒教」は、孔子の死後にまとめられた思考や信仰・礼法の体系といってよいだろう。伝来した時点で 孔子が生きていた時代から千年近く経っていたから、文献以外に孔子のことを知る術はなかったに違いない。

6世紀に伝来した「仏教」も、釈迦の死後にまとめられた思考や信仰・礼法の体系と考えられ、「仏教」より「仏法」とか「仏道」のほうがしっくりくる。伝来した時点で 釈迦が生きていた時代から千年以上経っていて、文献以外に釈迦のことを知る術がなかったのは同じだ。

ウィキペディアの『歴史学』のページに、「歴史とは過去の事実を文献などを用いて収集し、編纂したものである」という記述がある。その記述に従えば、「道教」も「儒教」も「仏教」も、みんな歴史だと言えなくもない。

どんなに優秀な歴史学者が何を書いたところで、その信憑性は低い。なぜそう言い切れるかといえば、それは私たちが「文献の信頼性が極めて低い」ということを知っているからだ。「文献は権力者によって都合よく書き換えられる」というのが私たちの常識になっている。

戦争があれば勝者に正義があり、敗者に正義はない。権力闘争に勝ち抜けばいい人で、負けてしまえば悪い人。そんな例を、私たちはあまりにも多く知ってしまった。

過去のことを書こうとすれば、それは学者の手を離れるしかない。正しく書くことが不可能だと知れば、過去のことは小説家に任せるしかなくなる。

小説家は、自分が書きたいことを登場人物に投影させ、歴史を書くフリをしながら想像を広げてゆく。読み手も、歴史を読むフリをしながら想像を広げる。

歴史小説の多くは、事実というくびきから解き放たれ、誰も違うと言えないのをいいことに、登場人物が生きいきと行動する。当然面白い。

で今週は、井上靖が書いた「歴史」を読む。『孔子』(井上靖著、新潮文庫、1995年刊)だ。井上靖の最後の長編で、病室のベッドの脇の床に置いた机を前に書いたという。『孔子』は、孔子のことを書いたようでいて、井上靖が書きたかったことを書いた小説だと考えていい。

私は井上靖の詩が大好きだ。その詩はどれもフェルナンド・ペソアの詩に似ている。「詩というよりも、詩を逃げないように、閉じ込めてある小さな箱のような」言葉のつらなり。「ふと、心にひらめいた影のようなものや、外界の事象の中に発見した、小さな秘密の意味が、どこへも逃げ出さないで言葉の漆喰塗りの箱の隅の方に、昔のままで閉じ込められてある」大事なもの。井上靖は生きているあいだずっと詩人だった。

詩を書き続け、『楼蘭』『風濤』『天平の甍』を書き、『蒼き狼』『敦煌』『おろしや国酔夢譚』を書き、『風林火山』『淀どの日記』『本覺坊遺文』を書き、『額田女王』『氷壁』『しろばんば』を書き、『幼き日のこと』『あすなろ物語』『わが母の記』を書き、ほかにも膨大な量の虚を書いた。

それがどれだけの虚であるかは、『シルクロード紀行(下)』の解説として、長男の井上修一が「旅の父」という題で書いている。

旅行から帰った後、作品となって現われるそこここのシルクロードの風物は、私の目に映った現実の光景とは多くの場合異なっていた。父の想像力による意味付けと糖衣がなされ、実際よりも美しいことが多かった。よく言えば現実の奥に潜む悠久の真理が描かれているということかもしれない。しかし悪く言えば現実は父の史的イメージを造形するためのマテリアルになってしまっていた。
父は目前の現実社会に対しては通りすがりの旅行者としての立場を捨てようとはしなかった。それ以上の関心がなかったのである。たしかに取材やメモは克明にした。しかし長年思い続けてきた地に初めて足を踏み下ろした父は、自分の作り上げたその土地のイメージから外に出ようとしないように見えた。思いが強すぎるから、目の前の現実にまで注意が及ばないといった風であった。
父は多くの場合、日常的現実を体験する必要を感じていなかった。いつも何らかのフィルター越しに見て満足していた。
父の人生は極論すれば形而下の現実を完全に切り捨てたものである。人生も文学も現実を犠牲にしてはじめて可能になる類のものであった。その意味からすれば旅先のホテルの中に身を置き、ホテルの窓から下の町を眺めている父の姿は、案外父の本当の一面を表していたのかもしれない。

そんな井上靖が、ありとあらゆる虚を書いたあとで、晩年に書きたかった大きな虚とはいったい何だったのだろう。

そう思って『孔子』を読むと、大きな虚のトリックが見えてくる。孔子の弟子は3000人いたと伝わっているが、70人が「七十子」として歴史に刻まれ、そのうち特に優れた高弟は才能ごとに四科に分けられ四科十哲と呼ばれている。それを井上靖は、顔回、子貢、子路の 3人に単純化している。

閔子騫、冉伯牛、仲弓といった徳に優れた人たちのことは顔回が、宰我をはじめとする実務に優れた人たちのことは子貢が、冉有をはじめとする政事に優れた人たちのことは子路が、それぞれに代表している。子游や子夏のような学問に優れた人たちのは見事に省かれている。

この単純化と省略とが、読む側を楽にする。名前にまどわされることなく、まるで顔回、子貢、子路だけが弟子であったかのような設定は、伝えたいことを明確化するのにとても役に立っている。

もうひとつのトリックは、蔫薑という架空の人物を中心に据えたことだ。13年にわたる諸国巡遊の旅の一部始終を知っている人などいるはずもないのに、下働きをしながら一行についていった蔫薑という人物を置き、井上靖は自分の理解や想像をその蔫薑に語らせている。

そう、『孔子』は、井上靖の思いを綴った小説なのだ。孔子のことを書いた小説と思う人には「失敗作」と映るかもしれないが、この小説を詩作の延長と捉えれば、成功でも失敗でもない。思いには成功も失敗もないのだ。

そう考えれば、顔回の描かれ方にも納得がいく。顔回は、顔回その人ではなく、井上靖の顔回なのだ。問題を抱えた人たちが解決を求めてやってくる。子貢も子路もそれなりの解決策を提示するのだが、訪ねてきた人の顔は晴れない。顔回は何の解決策も提示できないのだが、訪ねてきた人の顔は明るく輝く。井上靖が書きたかったことは、あまりにも明らかだ。

例えば以下のようなくだりがある。

人間は常に正しく生きるということを意図しなければならぬ。天が応援してくれるか、妨害するか、そうしたことは一切判らないが、ともかく、人間はこの地上に於て、正しく生きることを意図し、それに向って努力しなければならないのである。そうした人間を、必ずや天は嘉してくれるに違いない。 “嘉す” とは、天が “よし” として下さることである。
天が嘉してくれるというのであれば、人間としては、それでいいではないか。それ以上のこととなると、天にしても、手が廻りかねるというものである。天の下、地の上、そこでは四時行われ、万物生じている。四季の運行は滞りなく行われ、万物はみな、次々に生れ、育っている。
天の受持たなければならぬ仕事はたいへんである。それ以上のこととなると。天にしても手が廻りかねる。人間が天に対して、何を望み、何を期待しても、無理というものである。

これは孔子の「天、何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天、何をか言うや」という言葉についての(つまり天命とは何かということについての)井上靖の理解であり、世界観の反映である。深夜に仁和寺の楼門の前に立つ井上靖が浮かんでくるではないか。

井上靖は蔫薑の口を借りて自分の思いを語り続ける。

今思うに、子はいつも、人間のことばかりお考えになっておられました。人間の倖せについて、不幸について、そして人間が、特にこの乱世に生まれ合わせた人間が少しでも倖せになるには、どうすればいいか。人間が不幸になるのを防ぐには、どうすればいいか。いつでも、子はこの地球上に生まれて来た人間というものについて、その倖せな生き方、生き甲斐ある生き方について考えておられました。人間、この世に生まれてきたからには、いかなる時代であろうと、倖せになる権利がある。そのようなお考えが、あらゆる子のお考えの根元に座っていたか、と思います。

そして仁とは何かに答えを与える。

『仁』とはすべての人間が倖せに生きてゆくための、人間の人間に対する考え方であります。「まこと」、「まごころ」、「人の道」、・・・ いろいろ、どのようにも名づけられましょうが、要するに、人間はお互いに相手をいたわる優しい心を持ち、そしてお互いに援けあって、この生きにくい乱れに乱れた世を、やはりこの世に生まれてきてよかった、と思うように生きようではないか。そういう考えが『仁』であります。

天命とは何か、仁とは何か、そんなことを書いてしまえば、もう何も書くことはないだろう。若い頃に京都の等持院に下宿し、龍安寺から仁和寺まで散歩しながら思索に耽った井上靖がたどり着いた場所に『孔子』という本は似合っている。そう考えると『孔子』という文庫本が特別のひかりを放っているように見えてくる。

(35)井上靖『孔子』」への4件のフィードバック

  1. phrh205455 投稿作成者

    孔子

    by 井上靖

     **
     
    彼等は他国の多くの農民たちを、少しでも、その苦労から救ってやるために、夏の間、それぞれ身を挺して働きました。そして、その夏が終わろうとする日に、収容所に出掛けて行き、そこの閉鎖のために、終日働いて、一切の後片付けを完了、更に来年の再開に対する準備も調え、そして夕刻、それぞれが己が家に引き揚げるべく、収容所の建物を出ました。併し、そこを出るや否や、彼等がこの夏、忙しく立ち働いた広場に於て、落雷の見舞うところとなったのであります。
     
    天命というものでありましょうか。
     
    もう一度、繰り返させて頂きましょう。彼等は夏の間、見知らぬ他国の難民のために、手分けして、交替で働き、そして夏も終わって、難民の姿も見られなくなった頃、その収容所を閉鎖するために出掛けて行き、そして後片付けを完了。夕刻、帰宅すべく、そこを出るや否や、落雷の襲うところとなったのであります。
     
    彼等は多くの他国の難民を、少しでも労ってやるべく夏中働き、そしてその夏が終ろうとする日に、天から死を賜ったのであります。上天には抗議する暇も、訴える暇もありません。烈しい雷光に貫かれ、一人は仰向けに、二人は俯伏して斃れておりました。
     
    そうした中で、同じ一団の仲間である私と女性三人は、少し先きに帰路に就いた、ただそれだけのことのため、一命を取り留めることができたのであります。
     
    斃れた人たちの “死” も天命なら、私たちの “生” もまた、天命というものでありましょうか。一体、天命とはいかなるものでありましょう。

     **

    われわれ人間が為すことは、それがいかに正しいことであれ、立派なことであれ、事の成否ということになると、すべてを天の裁きに任せなければならない。一つの仕事の遂行に当って、天からいかなる激励と援助とを受けるかも知れないし、いかなる支障と妨害によって、行手を阻止されるかも判らない。こうしたことは大きい天の取り計らいであって、小さい人間の理解し得るところではない。
      
    併し、そうした中にあればこそ、人間は常に正しく生きるということを意図しなければならぬ。天が応援してくれるか、妨害するか、そうしたことは一切判らないが、ともかく、人間はこの地上に於て、正しく生きることを意図し、それに向って努力しなければならないのである。そうした人間を、必ずや天は嘉してくれるに違いない。 “嘉す” とは、天が “よし” として下さることである。
      
    天が嘉してくれるというのであれば、人間としては、それでいいではないか。それ以上のこととなると、天にしても、手が廻りかねるというものである。天の下、地の上、そこでは四時行われ、万物生じている。四季の運行は滞りなく行われ、万物はみな、次々に生れ、育っている。
      
    天の受持たなければならぬ仕事はたいへんである。それ以上のこととなると。天にしても手が廻りかねる。人間が天に対して、何を望み、何を期待しても、無理というものである。

     **

    子のお怒りも、悦びも、そしてまた、天に向かって、きっとお顔をお上げになった強い子の天への御挑みも、それからまた、誰にもお見せにならぬ悲しみも、みな、子のこのお詞の中に入っている筈であります。

    このように、子の、
    ──五十にして天命を知る。
    は、子が御自分のすべてを投げ込んだ、大きいお詞であります。

    私は子のたくさんのお詞の中で、一つを選ぶように言われた場合は、この “五十にして天命を知る” を採らせて頂くことでありましょう。凛々と、何かが鳴っております。いつ口遊んでも、凛々と鳴っているものがあります。

    “天命を知る” ──これはこれで、容易なことではなく、凡人のよくするところではありませんが、人間として生れ、正しく生きようとする以上、自分の仕事としては、天からの使命感を帯びているようなものを選ばねばならぬでしょうし、また選びたいものであります。

    併し、そうしたことと同時に、天からの使命感を帯びているような仕事を選んだとしても、天からはいささかの支援もないかも知れません。──これはこれで、はっきりと肝に銘じて承知しておかねばならぬことでありましょう。

     **

    七年前のことです。その中年夫婦に初めての子供が、女児が生まれました。その子供が生まれて一カ年経ってから、つまり最初の誕生日が過ぎてからは、母親はその嬰児を連れて、毎日一回は、必ず私のところを訪ねてくれました。
     
    家の掃除、食事の支度、何もかも手伝ってくれます。そうした仕事のほかに、母親は幼い女児を私に見せるのが、彼女がひそかに持っている毎日の楽しみのようでありました。
     
    母親が自慢するだけあって、なんとも言えず可愛らしい女児で、私はいつもその幼い生きものを、自分の両手に収めてみたいと思いましたが、彼女は母親の両手の中に入ったままで、どうしても、私の方へは身を乗り出してくれませんでした。
     
    併し、生れて満二年が過ぎようとする二度目の誕生日に、その幼い客人は、私の家に来て、私の顔を見ると、どういうものか、花でも開くように明るく笑い、母親の腕から抜け出すようにして、私の方へ両手を差し出して来ました。
     
    私は初めて幼い彼女を抱くと、すぐ母親の許へ返しました。この時、私は初めて幼い者を、この世にほかに較べるもののないほど、美しいものと思い、優しいものと思いました。
     
    私は家の背戸に出て、野草の花を摘んでくると、それを小さい壷に入れ、幼い女児に持たせました。幼い者の誕生日への贈りものであります。乱世を六十数年に亘って生きて来た私の、初めて経験する心優しい日でありました。
     
    ここから先きをお話するのが辛くなります。私の家から自分の家に帰ると、その夜、幼い彼女は発熱し、何日か病み、熱が下がった時は、全く別の幼児になっていました。足も動かず、手も動かず、眼の焦点も決まっておりません。いかなる天罰が、この稚い、無垢な、そして初めて他人に好意を示した嬰児に降ったのでありましょうか。
     
    そして一ヶ月程、そのまま横たわっていたあと、幼い者は亡くなりました。併し、何事もなかったように、この山奥の村には朝が来、夕が来、夜が来ています。亡くなった幼女の父親も、母親も生きております。老いた私も亦、何変わりなく生きております。
     
    併し、この天の下には何かがあったのです。美しい稚いものは、花のように開き、笑い、身を乗り出し、──そして、それはそうしたことのために罰せられたのでありましょうか、病み、亡くなりました。
     
    それから、いつか五年ほどの月日がめくられました。
     
    ──命なるかな。
     
    私は、年に何回か、深夜、天に向って面を上げ、また下げ、命なるかな、そうした思いを抱いて、炉辺に坐っていることがあります。

     
     **

    さて、天罰が降ったのは嬰児ばかりではありません。嬰児の死に依って、母親は人間が変わったように無口になり、笑わなくなり、私の家に来ても、窓際に立って、遠い所に眼を当て、ひどくぼんやりしていることが多くなりました。亡くなった嬰児のことを想っているのであろうかと思いました。
     
    天は誰を罰したのでありましょう。幼い女児でしょうか。或いはその母親、それとも私でしょうか。
     
    それから、いつか、五年という歳月が経っております。その間に何回か、私も亦、亡き嬰児のことが思い出されて来て、深夜、この同じ席に坐って、
    ──命なるかな。
    と、天を仰ぐ思いの中に、我とわが身を投げ入れていることもあります。ひどく淋しい深夜の時間であります。

     
     **

    天命とは難しい御質問でございます。ありのままを申し上げれば、子のお口から出たお詞の中で、私などには一番難しく、一番怖ろしく感じられるお詞でございます。一体、天とは何でございましょう。天、何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天、何をか言うやと、子は仰言いました。まことにその通りでございます。天は何も申しません。四季の運行は滞りなく行われ、万物は生長する。併し、天は何も申しません。
    確かに自分は五十にして天命を知ったと、そういうお詞が子のお口から出たことがあります。

     **

    今思うに、子はいつも、人間のことばかりお考えになっておられました。人間の倖せについて、不幸について、そして人間が、特にこの乱世に生まれ合わせた人間が少しでも倖せになるには、どうすればいいか。人間が不幸になるのを防ぐには、どうすればいいか。いつでも、子はこの地球上に生まれて来た人間というものについて、その倖せな生き方、生き甲斐ある生き方について考えておられました。人間、この世に生まれてきたからには、いかなる時代であろうと、倖せになる権利がある。そのようなお考えが、あらゆる子のお考えの根元に座っていたか、と思います。

     **

    『仁』とはすべての人間が倖せに生きてゆくための、人間の人間に対する考え方であります。「まこと」、「まごころ」、「人の道」、・・・ いろいろ、どのようにも名づけられましょうが、要するに、人間はお互いに相手をいたわる優しい心を持ち、そしてお互いに援けあって、この生きにくい乱れに乱れた世を、やはりこの世に生まれてきてよかった、と思うように生きようではないか。そういう考えが『仁』であります。

     **

    人間、この世に生まれて来たからには、故里に灯火が入るのを見て、ああ、いま、わが故里には燈火が入りつつある、という静かな、何ものにも替え難い、大きな安らぎを伴った思いがあります。この思いだけは、終生、自分のものとしておきたいものであります。いかなる政治でも、権力でも、人間から、このぎりぎりの望みを奪り上げる権利はないと思います。

     **

    返信
  2. phrh205455 投稿作成者

    孔子

    井上 靖 著
    新潮文庫
    1995/11/30

    二千五百年前、春秋末期の乱世に生きた孔子の人間像を描く歴史小説。『論語』に収められた孔子の詞(ことば)はどのような背景を持って生れてきたのか。十四年にも亘る亡命・遊説の旅は、何を目的としていたのか。孔子と弟子たちが戦乱の中原(ちゅうげん)を放浪する姿を、架空の弟子・蔫薑(えんきょう)が語る形で、独自の解釈を与えてゆく。
    現代にも通ずる「乱世を生きる知恵」を提示した最後の長編。

    **

    井上靖の『孔子』は、孔子の生涯と思想を描いた小説です。この作品は、孔子の弟子である架空の人物、蔫薑の語りを通じて進行します。以下は各章の概要です:

    第一章では、孔子が陳国と蔡国の野に厄窮(陳蔡の厄)に遭遇した後、楚の昭王に朝見する場面が描かれています1。この章は、孔子の困難な時期とその後の重要な出会いを中心にしています。

    第二章では、孔子の教えとその弟子たちとの関係が詳述されています。孔子の思想的な根源である「仁」や「礼」についての議論が展開され、弟子たちがどのように孔子の教えを受け入れ、実践していったかが描かれています。

    第三章では、孔子が弟子たちと共に各地を巡り、教えを広める様子が描かれています。彼の教えがどのように受け入れられたのか、またその過程での困難や挑戦が描かれています。

    第四章では、孔子の思想や哲学がさらに深く掘り下げられています。彼の言葉や行動を通じて、彼が目指した理想の社会や人間関係についての洞察が示されています。

    第五章では、孔子の死後、弟子たちが孔子の教えをどのように継承し、広めていったかが描かれています。この章は、孔子の思想が後世にどのように影響を与えたかを示す重要な部分です3。

    この小説は、孔子の生涯とその教えを深く掘り下げ、読者に孔子の人間性と思想の奥深さを伝える作品です。また、孔子の人間像を豊かに描き出し、彼の教えが現代にも通じる知恵を提供しています。

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  3. phrh205455 投稿作成者

    井上靖

    孔子
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    漆胡樽
    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=1341
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    元氏
    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=8570

    人生
    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=10880

    比良のシャクナゲ
    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=19644

    北国
    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=21657

    __________________________________

    小河原誠

    安禄山
    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=15407

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