(11)ミヒャエル・エンデ『モモ』

2024年3月1日(金)

時間について

今週の書物/
『モモ』
ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005年刊

(Momo by Michael Ende, published in 1973)

時間のことは、「本家」であるところの尾関章さんの『めぐりあう書物たち』で、何度も取り上げれれてきている。哲学者のジョン・エリス・マクタガートが書いた『時間の非実在性』に対する書評や、物理学者のカルロ・ロヴェッリが書いた『時間は存在しない』に対する書評は、時間そのものに焦点をあてていて、考えさせられることが多い。

ただ、時間について考えるとき、哲学的視点や物理学的視点だけでなく、文学的視点とか倫理的視点、さらにはマネージメントからの視点やスポーツでの視点など、ありとあらゆる視点からの考えが交錯する。そのくらい、時間は私たちのなかに入り込んでいる。

時間は、ある時は私たちに味方し、ある時は敵になる。自分の時間は容易に他人の時間になり、会社や組織の時間になり、国家の時間になる。労働や徴兵で自分の時間をなくした人に、自由はない。

エピクテトスは「誰かに認められたいと思った時には、自分に妥協しているということに気づけ。誰かに見てほしいと思ったら、自分に見てもらえ」と言ったが、誰かに認められたいとか見てほしいという感情が、人から自由を奪い、時間を奪う。

「臆病な卑劣さ」を「謙虚」といい、「仕返ししない無力さ」を「善い」といい、「弱者のことなかれ主義」を「忍耐」といって、弱者であることを美化し、非利己的なほうがいいとするのが奴隷道徳だ。「本来人間は利己的な生き物なのだから、道徳に振り回されて自分を否定する必要はない」と考えることができれば時間は自分のものになるが、そうでなければ人は時間を失ってしまう。

現代社会のなかで奴隷道徳を身につけてしまえば、自分の時間は自分から離れていってしまう。時間管理などといってスケジュール表をいっぱいにすれば、そこにはもう、自分の時間はない。

で今週は、時間を盗まれ、時間を取り返すといったおどぎ話を読む。『モモ』(ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005年刊)だ。時間の概念と、現代社会における人間による時間の使い方が描かれているのだが、その描き方は独特だ。

ノヴァーリスは「詩的なものはすべておとぎ話のようでなければならない」と書いたが、その逆の「おとぎ話はすべて詩的でなければならない」と言えるのかどうか。少なくとも『モモ』は、詩的ではある。そしてたくさんの偶然に彩られている。

話は明るく始まる。円形劇場の廃墟に、謎めいた少女モモが住んでいる。他人の話を聞く能力を持っていて、すぐに問題を解決したり、仲直りさせたり、楽しいゲームを考えたりできる。ところがこの楽しい雰囲気は、灰色の男たちの出現で、だんだんと暗くなり、重苦しくなってゆく。灰色の男たちは時間貯蓄銀行を代表しており、みんなのなかに時間の節約という考えを広めてゆく。灰色の男たちの影響が広がってゆくと、生活は不毛になり、時間の無駄だと考えられるものがすべてなくなってゆく。節約した時間は失われる。灰色の男たちによって、乾燥した花びらから作られた葉巻として消費されるのだ。葉巻がなければ、灰色の男たちは存在できない。ドキドキハラハラのあと、モモはみんなの時間を解放し、話はめでたしめでたしで終わる。

一冊がこれだけの文章にまとめられるほど、筋書きは複雑でない。その代わりと言ってはなんだが、たくさんの説明が詰め込まれている。作者の哲学や美意識も詰め込まれている。

この物語のなかに出てくる灰色の男たちは、いったい何を表しているのだろう。そしてモモは、いったい誰なのだろう。おとぎ話を童話と考えれば、モモは子どもで、灰色の男たちは大人だといえるのかもしれない。モモは若い頃の作者で、灰色の男たちは作者の夢を邪魔する大人たちだという解釈も成り立つだろう。

でも私は、あくまで時間の話として捉えたい。いつの間にか私たちは、この話に出てくる人たちのように時間をなくしてしまった。それが近代社会だと受け入れながら、何も不思議に思わずに、タイムマネジメントだとか何とか言いながら、自分たちの時間を差し出してきた。物語のなかにはモモがいて時間を取り戻してくれたけれど、私たちのまわりにはモモはいない。差し出した時間は戻ってこない。

大人も子どもも読めるからといって、この話をリチャード・バックの『かもめのジョナサン』やサン=テグジュペリの『星の王子さま』のようなものだと思わないほうがいい。読んでいて、ふとそう思った。何かが違うのだ。

話のあちらこちらに「すべての人には論理的に考える能力がある」と書いたスピノザを感じる。スピノザは私たちが時に感情に負けてしまうことをよく知っていた。彼の最大の恐怖は、人々を操ることができる指導者のせいで、普通の善意あふれる人たちが自由を差し出してしまうのではないかということだった。『モモ』のなかで、灰色の男たちに時間を差し出してしまう人たちは、まさにスピノザが恐れていた状況に浸かってしまったのだ。

話のなかにはまた「道徳の諸価値そのものがまず問われなければならない」というニーチェがいる。善意の人々が持っている奴隷道徳が、灰色の男たちがつけ入ってくるのを容易にする。みんなが時間を失い不自由になってゆくのは、まさにニーチェが考えた通りの展開だ。

モモのように合理的に行動し考えることで得る自由は、間違いなくスピノザの最大の遺産であり、ニーチェが思い描いたことでもある。現実には無理でも、おとぎ話のなかでは、モモの持つ自由が、不条理からの、そして不合理なことからの、解放の手段になる。

人が管理されてしまった状況を変えるのは、実際には容易ではない。でもそれを夢見る自由は誰にでもある。『モモ』が嫌いだという人が少なからずいるなか、それでも世界中で読まれてきたのは、教訓ぽくないから、そして結論らしいことが書かれていないからではないだろうか。どうにでも読むことのできるおとぎ話だからこそ、世界中で読まれてきたのだろう。

自分の時間をどう使うのか。それが私たち一人ひとりに問われている。

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