2024年3月8日(金)
私たちは培養肉を食べるようになるのだろうか
今週の書物/
『Clean Meat』
Paul Shapiro著、Gallery Books、2018年刊
今週は、まず、代替肉と培養肉の定義から始めたいと思う。
代替肉とは、豆や小麦といった植物性原料から作られた「肉のような食べ物」のこと。精進料理で供される肉のようなものも、代替肉だ。日本の精進料理は仏教の伝来と共に中国から伝わってきたが、中国では仏教の伝来よりはるか前から野菜や雑穀などで肉や魚の味や食感を再現する「もどき料理」が発達していた。そういうこととは別に、最近になって、健康や環境問題の改善を理由に、代替肉を食べる人が増えてきている。私は代替肉を美味しいと思ったことはないが、かといって、いやだと思ったこともない。
一方、培養肉とは、動物の可食部の細胞を組織培養することによって得られる食用の肉のこと。私はなぜか、培養肉という言葉を聞くたびに嫌な気持になった。培養肉をクリーン・ミートと言い換えたところでその気持ちは変わらず、反感だけを抱き続けた。培養肉なんていやだ。食べたくない。本当の肉が食べたい。そう思ってきた。
ところが私の周りの人たちは、こぞって培養肉という考えに賛同している。ある人は、世界の深刻な食糧問題を解決するためには培養肉の開発を急ぐしかないと言い、またある人は、地球の環境問題を解決するためにはこれ以上家畜や家禽を増やすべきではないと言う。
なぜそのように思うのかと聞いてみると、それぞれの意見にはもっともなことが多い。考えてみれば、もっともでなければ、これほどまで培養肉への投資が過熱したりしないわけで、培養肉について少し考えてみるほうがいいと思うようになってきた。
培養肉の発想は古くからあるという。マルセラン・ベルテロというフランスの化学者は、1894年に「人類は2000年までに屠殺された動物の肉ではなく研究室で栽培された肉を食べるようになるだろう」と言ったそうだし、ウィンストン・チャーチルは1931年に「胸肉や手羽先を食べるために鶏を丸ごと育てるのは不条理でしかない」と書いている。
家畜や家禽の生産者は、近年、大きなトラブルを抱えるようになってきている。例えば牛については、狂牛病の記憶が強烈だ。西暦2000年前後の10年間で、殺処分された牛は数千万頭に達した。またニワトリや野鳥については、鳥インフルエンザのことがある。2022年だけで1億3100万羽以上の家禽が死んだり、殺処分を余儀なくされたりした。
環境問題の専門家たちからは、家畜や家禽の飼育によって環境負荷が増え続けていると指摘されているし、実際、畜産業界は地球温暖化を問題とする人たちから目の敵にされている。
でも落ち着いて考えてみれば、問題は牛や鶏や豚や羊に限ったわけではない。人間の都合で多くなってしまったのは、犬や猫などのペットも同じだ。もっと拡大して考えてみれば、麦や米が平野を覆いつくしたり、杉や檜が山を覆いつくしたり、桜や梅が観光地を不自然に彩ったりしている状態も、問題といえば問題だ。
人間がいいと思ってしてきたことが、結局は人間の将来を危うくしているのではないか。そう考えると、培養肉の登場も手放しで喜んではいられない。
で今週は、培養肉をポジティブに扱った本を読む。『Clean Meat』(Paul Shapiro著、Gallery Books、2018年刊)だ。「培養肉が開発され実用化されなければ、人類に明るい未来はない」と思わせるほど、培養肉をいいことだとする考え方に貫かれている。
著者はまず食糧問題について書く。その際のキーワードは「サステイナブル(持続可能な)」と「エシカル(倫理にかなった)」だ。現行の畜産では、放牧と飼料作物の栽培のために広大な土地が必要となるため、森林が伐採され破壊される。それに対して培養肉の生産は実験室や工場で行わるため、森林伐採の必要がなくなり、生きものの生息地と生物多様性が保護されるという。また、屠殺のために動物を飼育する必要がなくなるので、動物が監禁され虐待されることもなくなり、動物福祉に対する懸念がなくなる。つまり、倫理的問題がなくなるというのだ。
つぎに焦点は環境問題にあてられている。培養肉に移行することで、温室効果ガスの排出が削減され、資源の無駄づかいが減り、動物の飼育と屠殺が排除される。それが気候変動、食糧安全保障、動物福祉などの問題解決に大きく寄与するというのだ。その根拠となる数字が面白い。今の畜産が温室効果ガスの排出、森林破壊、水質汚染の主な原因であるというにわかには信じがたい「事実」が強調され、牛が少なくなれば、メタンの排出が大幅に減少するという。
最後に、実現可能かどうかについての論考が繰り広げられる。科学者・技術者、投資家・起業家、行政や政策立案に携わる人たち、食肉生産者、それに一般消費者が協力して培養肉の製造技術の開発と導入に取り組んでいけば、培養肉が手頃な価格で入手可能になり、社会に広く受け入れられてゆく。そんな明るい未来が描かれてゆく。
要は、どの部分も同じ。培養肉に移行すれば明るい未来が待っていて、移行しなければ問題はなにも解決されないということが、これでもかこれでもかと書かれる。「現行の畜産は悪」「培養肉は善」という論理の展開は、ヒトラーの「わが闘争(Mein Kampf)」にとてもよく似ている。物事の多面性には一切触れない。イエスかノーか、正しいか正しくないか。そんな単純な図式を提示することで、著者の意見はすべて正当化されてゆく。
培養肉を取り入れていくことを全面的に肯定するのではなく、客観的に、そして批判的に書いてくれれば、もう少し説得力のある本になったろうと思うと、残念な気もする。たとえば、オランダのスマート農業のことや中国のAI導入の事例を取り上げて、現行の農業や牧畜にも食糧問題や環境問題を解決する可能性があることを書くなどすれば、読者にもっと納得のいく説明が届けられたのかもしれない。
この本を読めば、少しは培養肉に対する考えが変わるのではないか。そう思って読んだ本だったが、前にも増して培養肉が嫌いになった。幸いなことに、培養肉がマーケットに並ぶようになるまでにはまだ相当の時間を要するということがわかってきた。つまり私は、培養肉を食さずにすむわけだ。
ところで、培養肉が市場に出てきたあとに、培養肉と本物の肉との関係はどのようなものになるのだろう。ジェネリック医薬品とブランド医薬品との関係と似たものになるのか、それとも、一般人向けの培養肉と富裕層向けの本物の肉というように、よりわかりやすい関係になるのだろうか。まさか、本物の肉が法律で規制され、アンダーグラウンドの商品となって流通するなどということになったりはしないだろうが。いずれにしても、培養肉については、あまりいい未来像は浮かんでこない。