(13)John Hersey『Hiroshima』

2024年3月15日(金)

広島 ー もうひとつの視点

今週の書物/
『Hiroshima』
John Hersey著、New Yorker、1946年刊

今週はまさかの原爆の話だ。いま「まさかの」と書いたのは、原爆のことを書くことはないだろうと思っていたから。原爆のことを書けば、自然とポリティカル・コレクトネスから遠ざかる。だから書かないほうがいい。そう思ってきた。原爆のことを書こうとすれば、アメリカのことを真正面から書かざるをえない。それが怖い。

アメリカは恐ろしい国。そういう思いが抜けない。過去に原爆を投下した国。それも日本に落としたのだから、恐ろしく思うのは仕方がない。将来も原爆を落としそうな国。容赦がないから、いつ落としても不思議はない。北朝鮮がどんなに変わった国でも、原爆を落としたりはしないだろう。イランだってそうだ。ロシアだって投下したりはしないだろう。でもアメリカだけはやりそうだ。やった後で、平気な顔をして人道援助にやって来る。そういうイメージがある。

大統領として原爆の開発を決断したフランクリン・ルーズベルトは民主党、原爆の使用を強く大統領に進言した国務長官のジェームズ・F・バーンズも民主党、大統領として原爆の投下を決断したハリー・S・トルーマンも民主党。そして、原爆投下に強く反対した(トルーマンのあと大統領になった)ドワイト・アイゼンハワーは共和党。そんなことから、私は共和党よりも民主党のほうに不快感を抱いていて、いつかまた原爆投下を決めるのも民主党の大統領だと(勝手に)思っている。

こういう根拠のない思い込みは間違っている。そんなことはわかっている。それでも私は、フランクリン・ルーズベルトやハリー・S・トルーマンを好きにはなれない。

原爆投下後に、とは言っても終戦後の8月29日に、ICRC(赤十字国際委員会)のフリッツ・ビルフィンガー(F.W. Bilfinger)は、東京のスイス公使館の代表と共に広島に入り、翌日の30日に東京のICRC代表部に電報を送った。

街の80%は壊滅。あらゆる病院は全壊または大損害を被っている。救急病院を二つ視察,状況は筆舌に尽くしがたい。爆弾の影響は不可解なほど深刻。回復してきたように見える患者が突如白血球の変質やその他の内部損傷による致命的な症状の再発に苦しみ,膨大な数の人々が死んでゆく。推定10万人以上の負傷者がいまだ周辺の救急病院におり,包帯や医薬品の深刻な欠乏状態にある。市中心部上空からの即時の救援物質投下を検討するよう粛として連合国最高司令官に要請していただきたい。大量の包帯,手術用パッド,火傷用軟膏,スルファミド,血漿,そして輸血用器具が必要。迅速な行動を要す。医療調査委員会の派遣も必要。

という簡潔な電報だ。それを受けて、9月8日に、ICRCの医師のマルセル・ジュノー医師はアメリカの部隊、日本人医師2名、そして15トンの医療物資とともに広島に行き、救援活動を開始した。ジュノー医師はそこに5日間滞在し、その間に主要な病院をすべて訪問したという。

その後も、ICRCとスイス政府の救難活動は続いていくわけだが、被爆者たちを救おうという態度に貫かれていて、気持ちがいい。

それに対し、アメリカ軍とアメリカ政府のしたことは、とても冷たい。「Atomic Bomb Casualty Commission (ABCC)」を立ち上げ、ABC病院を設置し、原爆の効果を科学的に検証し始めたのだから、ビジネスライクな感じがしてあたりまえだろう。

戦後何年かのあいだ、ICRC と ABCC とは、よく対立したという。私は ICRC を好ましく思い、ABCC に嫌悪感を感じる。それはおかしいと言われても、そう思い感じるのだから仕方ない。

アメリカの政府にも、軍隊にも、そしていろいろな組織にも嫌悪感を感じる。それなのに、アメリカ人一人ひとりに嫌悪感を感じることはない。むしろ好きな人が多い。不思議なことに、いわゆる「いいヤツ」が多いのだ。

で今週は、アメリカ人のジョン・ハーシーが原爆のおそろしさについて書いた文章を読む。『Hiroshima』(John Hersey 著、New Yorker、1946年刊)だ。1946年5月にハーシーは日本に旅行し、3週間かけて調査と生存者への聞き取りを行った。彼は6月下旬にアメリカに戻り、広島で会った6人の生存者の物語を書き始めた。

その結果が「ニューヨーカー」誌の 1946年8月31日号に掲載された 31,000語の記事『ヒロシマ』だ。この記事は雑誌のほぼ全部を占めることになったが、そんなことはそれまで「ニューヨーカー」誌にはなかった。

作者のハーシーは、記事が出る数日前から、密かにノースカロライナ州の田舎町ブローイング・ロックに引きこもった。当時のアメリカで、アメリカ軍のしたことに批判的な文章を書くことが、いかに難しかったかがうかがえる。ハーシーはその後も、亡くなるまで、『ヒロシマ』についてのインタビューを避け続けた。

『ヒロシマ』に登場するのは、ハーシーが「たまたま」出会い、話を聞くことができた6人だが、それはまた、たまたま生き残った6人でもあった。彼らは皆、これほど多くの人が亡くなっているのに、なぜ自分たちは生きていたのかと不思議に思っていた。

実際、一歩を踏み出したこと、屋内に入ったこと、次の路面電車ではなく乗り遅れそうになった路面電車に飛び乗ったことなどの小さな偶然が、生存者たちを救った。そして生存者たちは、原爆投下直後から、多くの死を見ることになった。

原爆投下の瞬間には誰も予想できなかったことが起きたわけだが、なぜ多くの人たちが死に、なぜそこにいた少数の人たちが生き残ったのかは。誰にもわからない。もちろん、本人たちにもわからない。

『ヒロシマ』に出てくる6人も、特別なことをしていたわけではない。ブリキ工場の人事部の事務員だった佐々木トシ子さんは、原爆投下の瞬間、いつもの場所に座り、隣の机の同僚に話しかけようと頭を向けたところだった。医師の藤井正和さんは、自分の医院のベランダで、あぐらをかいて座り『大阪朝日』を読んでいた。仕立屋の未亡人の中村初代さんは、台所の窓際に立って、近所の人たちが自分の家を空襲防御の防火帯の通り道にあたったために取り壊しているのを眺めていた。イエズス会のドイツ人司祭ヴィルヘルム・クラインゾルゲ神父は、教団の3階建て宣教館の最上階にある簡易ベッドに下着姿で横たわり、イエズス会の雑誌『シュティメン・デア・ツァイト』を読んでいた。市内にある大規模で近代的な赤十字病院の外科の若手医師の佐々木耀文さんは、検査用の血液検体を手に病院の廊下を歩いていた。広島メソジスト教会の牧師である谷本清さんは、広島市の西の郊外にある家の玄関で立ち止まり、運んできた荷物を手押し車から降ろそうとしていた。

偶然生き残った6人の話を聞き記事にすることに、どれほどの意味があるというのだろう。爆心地の近くでは、その日のうちに半数以上の人たちが死んだ。死をまぬがれた人たちも時間が経つとともに死に、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末までに14万人もの人が死んだ。その地獄を見ずに10か月後に生存者に会ったからといって、原爆投下の何がわかるというのだろう。

生き残った人が、放射線障害で体調を崩し床に臥せていたり、下肢の複雑骨折のせいで絶え間ない痛みのなかに横たわっていたりするのは、読んでいてつらい。でも、生きている人たちの話なのだ。10万人以上の死んでいった人たちの話ではない。

ICRCのフリッツ・ビルフィンガーが広島に入ったのが8月29日。原爆投下から3週間ちょっと経っている。そのビルフィンガーでさえ、原爆投下直後のことを想像できなかったというから、『ヒロシマ』を書いたハーシーに原爆投下直後の悲惨さがわかるはずはない。

アメリカでは『ヒロシマ』は、学校で副読本として長いあいだ広く読み続けられ、また、20世紀アメリカジャーナリズムのTOP100の第1位に選出されたりもして、大きな評価を得てきたわけだが、そこにリアリティーはない。現場にいればリアリティーのあるものが書けるかというと必ずしもそうではないが、それでも、9か月も経ってからの体験談を聞くだけでリアリティーのあるものが書けるかというと、無理としかいいようがない。

2011年3月11日の巨大地震やそれに伴う大津波のことを、震災から9か月経った2011年12月になって福島県の富岡町に出かけて行って、偶然出会った 6人から話を聞いて本にしても、そうは話題になるまい。何人かの記憶をたどっても、決して真の姿は見えてこない。

私が感じた違和感は、まさにその一点なのだ。9か月たっての6人の記憶、9か月たっての6人の辛さ、それらがいくら語られても、それらの証言は当日の悲惨さではない。奇跡的に生きのびることになった6人の証言は、死んでいった人たちの証言ではないのだ。

ハーシーという人が、良質のジャーナリストであり作家だったことに疑いはない。良質な人間だったことも、行間から読み取れる。しかし、スイス人のビルフィンガーが書いた文章とアメリカ人のハーシーが書いた文章とを比べるとき、決定的な違いに気づく。「悲惨だ」と「悲惨だったろうなあ」の違いだ。

アメリカ人たちが現実の悲惨さを知りたくなかったのだといえばそれまでだが、『ヒロシマ』がなぜあんなにも、もてはやされてきたのかは、読んでみてもわからなかった。当時のアメリカ人が持っていた日本観や日本人観を知らない私には、永遠にわからないことなのかもしれない。

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