(14)日下渉『反市民の政治学』

2024年3月22日(金)

社会の分断

今週の書物/
『反市民の政治学』
日下渉著、法政大学出版局、2013年刊

いま世界の国々を遠くから眺めてみると、似たような特徴が浮かんでくる。「貧富格差」「教育格差」などの格差の広がりが多くの国々に見られる。右だとか左だとかいったイデオロギーは影をひそめ、国の国との対立よりも、国内の対立が際立っている。

国内の対立では、旧来の地域と地域の対立や、宗教の対立、人種の対立などよりも、「貧」と「富」の対立が目立つ。国が「貧」と「富」の二つに割れたとき、「貧」の代表は必ずしも「貧」でなく、「富」の代表は必ずしも「富」ではない。「貧」の人たちを代表するのが「富」の人だというのは、よくある構図だ。

教育のある「市民」と、教育のない「大衆」という対立構造の国もある。「市民」は「公正な社会」を望んでいて「民主主義」とか「人権」とかが重要だと思っており、「大衆」は「生きていける社会」を望んでいて「安全」とか「平等」とかが重要だと思っていて、お互いを理解することはほぼ不可能だ。

「マスコミ」と「反マスコミ」という構図も見て取れる。「マスコミ」は、「貧」の味方というポーズを取りながら、実は「富」の味方をする。同じように「マスコミ」は、「大衆」の側に立った報道をしているようでいて、「市民」の側に立った報道をする。「軍部」は、ほとんどの場合、「反マスコミ」だ。

国外との関係で、国内に対立が生まれることもある。グローバル化の波に飲み込まれ、以前は中間層と位置づけられていた人たちが、あっという間に世界の底辺に追いやられてしまう。自分たちがなぜそうなったのか。それがわからない人たちの不満の矛先は、あらぬ方向に向かう。

いろいろな要素が絡み合った世界で、今までのマスコミが提示してきた二項対立の図式は、もう成り立たない。そんなことをわからせてくれる特別な存在が、日下渉というフィリピンのことにやけに詳しい学者だ。日下渉は書く。

成功を目指して頑張っているフィリピン人は、グローバルなサービス産業の構造のもとで自由や自律性を失い、強いストレスのもとにさらされている。たとえば、米国の顧客に対応するコールセンターでは、アメリカ時間に合わせた夜勤、分刻みの顧客対応、上司による徹底的な監視、非人間的で機械的な作業の繰り返しなどに耐え続ける必要がある。出稼ぎの船乗りや家政婦もそうだ。そうした人たちからすれば、働かず、他人の金に頼って自由気ままに暮らしている人々が憎くなるのは当然だろう。グローバルなサービス産業の底辺に組み込まれ、フィリピン社会が急速にストレス社会になったことの反映でもある。

こんなことを書けるのは、日下渉がフィリピン社会に溶け込んでいるからだ。フィリピンを愛し、日本にいてもいつもフィリピンに帰ることを望んでいる。フィリピンのスラムに入り込み、スラムで暮らす。毎日のように親戚や隣人の悪口ばかり聞かされるなかで、道徳に反するようなことをしながらも胸を張って生きている人たちに共感してゆく。日下渉は、フィリピン社会を大衆の目から見ることのできる珍しい学者だ。

で今週は、その日下渉が10年以上前に書いた一冊を読む。『反市民の政治学』(日下渉著、法政大学出版局、2013年刊)だ。「フィリピンの民主主義と道徳」という副題がついている。帯には《「正しい」政治は 人々を幸せにするのか》と書いてある。いま読むと、「ああ、たった10年余りで、ずいぶん変わったなあ」と印象を持つが、それでも初めから終わりまで。日下渉らしさが溢れている。

日下渉は「大衆圏について理解を深めデータを得るため」に、ケソン市のペッチャイアンで継続的に住み込み調査を行ってきた。さりげなくそんなことが書かれているが、命の危険すら感じる場所に住むというのはそう簡単ではない。私も何度かマニラ近郊のスラム街に行ってみたが、通り過ぎるのがやっとだった。人が優しいということはわかる。でも、そこに住むというのは、相当の覚悟が要ったはずだ。

市民圏の調査は簡単だ。ゲート付きの分譲地のなかで暮らす市民たちと話をするのは、東京の住宅地で暮らす人たちと話をするのと、何の変わりもない。大衆圏のことは「貧しい人々が視ているというタガログ語のテレビ」の前に座っていてもよくわからないが、市民圏のことは英字紙を読めばほとんどのことが理解ができる。大衆圏について理解を深めるためにスラムに住み込むというのが、じつは合理的な行動だったのだろう。

この本で特に印象に残ったのが、「道徳政治」「道徳主義」「道徳的ナショナリズム」「道徳的分断」「道徳的な善悪の境界線」というように使われる「道徳」という言葉だった。家族の分断、強制立ち退きといったリスクにさらされ、日々の生存を守らなければならない貧困層と、より長期的な利益を追求しようとする中間層とでは、「道徳」の意味は大きく異なる。

貧困層にとって、「不法占拠や街頭販売の禁止を唱え、政治家のサービスを否定し、貧困層が共感するポピュリストを追放する」などというのは、日々の生活と尊厳に対する脅威でしかない。これに対し、中間層にとっては、「貧困を理由に不法な生活基盤を築き、政治家のバラマキを助長し、ポピュリストを当選させる」貧困層は、政治改革への障害でしかない。どこのスラムにも溢れかえっている政治家のポスターを思い出すと、道徳的分断がリアリティーを持って浮かび上がってくる。

不法に水道管や電気線を引き入れる貧困層。それを僅かな賄賂で見逃す小役人たち。その上に君臨するポピュリスト。ポピュリストのリーダーを追放する市民の運動は、大衆の反発を招いて深刻な政治不安を生じさせる。市民がポピュリストを強く非難すればするほど、大衆は尊厳を否定されたポピュリストに親近感と共感を覚える。市民が不法占拠者や露天商に対する攻撃を支持すればするほど、貧困層は金持ちの市民に対する敵意を強めながら、賄賂によって不法な生活基盤を強化していく。このように、排他的市民主義はその目的を達成できないばかりか、大衆圏で強い反発を招き、国民の道徳的分断を先鋭化させてしまう。

日下渉は、大衆の立場から、というよりは反市民の立場から、「正しいだけでは人々は幸せにならない」というメッセージを読者に伝えることに成功している。正しいことを追求する市民にとって、人間の尊厳とは、人権であり、デモクラシーであり、自由であり、平等である。それに対し、正しいかどうかなど意に介さない大衆にとって、人間の尊厳とは、生きること、日々を生きてゆくことだ。

分断はちょっとやそっとでは埋まらないように見える。それでも日下渉は、最後に共同性に言及する。緩やかな共同性を築いて行ければ、分断はなくなってゆくのではないか。そんな処方箋が効果的だと本気で考えているようなのだ。私には、フィリピンの分断は、広がりこそすれ、なくなることなどないように見える。日下渉に見えていて、私に見えていないものは、いったい何なのだろう?

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追記: 日下渉が日本のことを書いた文章を紹介しておく。

今日の日本では、新自由主義のもと、厳しい生存競争を勝ち続けることを要請されている。こうした過酷な競争は、落伍者を生み出さざるを得ない。しかし、互いの生を支え合う社会的紐帯は、すでにズタズタになっており、セーフティネットは脆弱だ。しかも競争のストレスは、異なる世界観をもつ他者を怨嗟する独善的な正義の言説を強めている。こうして社会が断片化すればするほど、社会秩序を人びとの手で自発的に維持するのが難しくなる。それに歩を合わせるかのように、国家も企業も「改革」の名のもとに国民や従業員を統制する制度と道徳の厳格化を進めている。もともと近代日本は、あらゆる公式の制度が精密かつ円滑に機能する社会を作り上げてきたが、それをいっそう厳格化することで、制度の崩壊を防ごうというのであろう。
たしかに、競争と統制の強化は、一時的には競争力の向上や社会秩序の効率性に寄与するかもしれない。だが、それは、人びとのストレスや生き苦しさの増大と、互いの生を支え合う相互依存の破壊という犠牲と引き換えに得られるものであろう。そのため長期的には、社会をいっそう断片化、硬直化させ、人びとが偶発的なリスクを受け止めながらも生き延びることを可能にする社会のしなやかさを蝕んでいるように思う。

日下が、日本の社会からしなやかさが失われてゆくのを、歯がゆい気持ちで見ているのがわかる。フィリピンのスラムから見た日本は、とても窮屈なのだろう。

自由や自律性を失い、強いストレスのにさらされているのは、フィリピン人だけではない。日本人も同じだ。上司による徹底的な監視、非人間的な管理などは、日本の職場にも広がっている。日下渉のフィリピンへの処方箋は、案外日本にも役立つ。。。のかもしれない。

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