2024年4月26日(金)
ガイアという夢
今週の書物/
『Face à Gaïa. Huit conférences sur le nouveau régime climatique』
Bruno Latour 著、Empêcheurs de penser rond、2015年刊
本屋でめぐり逢い、せっかく買ってきたのに、あまり読まずに棚ざらしになってしまう本がある。棚ざらしになる理由はそれぞれに違うが、なかには本棚のなかで堂々としていて、えばっている本もある。
今週取り上げる『Face à Gaïa. Huit conférences sur le nouveau régime climatique』(Bruno Latour 著、Empêcheurs de penser rond、2015年刊)もそんな本だ。フランスの家の寝室の本棚のなかで、えばっている。その訳の『ガイアに向き合う: 新気候体制を生きるための八つのレクチャー』(ブルーノ・ラトゥール 著、川村久美子 訳、2023年刊)も日本の家の寝室の本棚のなかで、えばっている。
なぜそんなことが起きるのか。いつの頃からか James Lovelock(ジェームズ ラブロック)の『Gaia(ガイア)』があたまの中を占めている。そのせいだ。地球自体がひとつの生命システムなのではないか。地球は生きているのではないか。そんな考えが気に入ったせいか、タイトルに「ガイア」が付くと、つい買ってしまう。家に帰って本を広げ、わくわくした気持ちが消えてしまうと、本は閉じられ、本棚にしまわれる。
『Face à Gaïa』も『ガイアに向き合う』も例外ではなく、真面目に読まれることなく本棚にしまわれた。理由の一つに「内容が期待していたものと違うようだ」ということがある。地球が生きているということ。地球が生物のような一つのシステムだということ。そんなことを読みたいと思って買ったのに、内容はどうもそんなことではなさそうだ。だからしまわれた。
「ガイア」の話は、1958年に46歳のWilliam Golding(ウイリアム・ゴールディング)という小説家がBowerchalke(バウチョーク)という人口400人足らずの小さな村に引っ越したことに始まる。ゴールディングはその村で38歳の物理学者ラブロックに出会い、二人はすぐに一緒に散歩する仲になった。
散歩の途中、二人はよく「地球という惑星は生きていて、まるでひとつの有機体のように思える」というラブロックの考えについて話し合った。物理学者の考えは小説家の空想によって大きく膨らんでゆき、その後のラブロックの「生きている地球」に発展してゆく。
ちなみに、ギリシャ神話の地球の擬人化でありタイタンの母である「ガイア」の名を使ったらどうかと言ったのはゴールディングで、ラブロックはその後ずっと「生きている地球」を「ガイア」と呼び続けた。
ゴールディングは1983年にノーベル文学賞を受賞し、1988年には大英帝国勲章CBEを受章する。ラブロックは「生きている地球=ガイア」の考えを世に出すことに成功する。イギリス南部の小さな村での出会いと散歩は、二人にたくさんのものをもたらした。
ラブロックの「生きている地球=ガイア」の考えが1970年代に論文や本という形で世に出た頃には、「ガイア」はびっくりするくらいロマンティックだった。私たちのような動物はもちろん、草木から細菌に至るまでの生き物や、空気などの表層、海水や地層、そして地殻、マントル、核も含めて「すべてがガイア」なのだというそんな考えは、当時、多くの人の心を揺さぶった。
で、いま、『Face à Gaïa』を本棚から取り出し、改めて読んでみると、これが結構おもしろい。訳本の『ガイアに向き合う』も似たような感じだ。いま流行りの「エコロジー」の本だったのだ。うかつにもそうと思わず、フランス語と日本語の本を本棚に並べていたなんて。とは思ったが、読み進めてみる。エコロジストたちのための本を読むのは初めてだと気づく。
エコロジストたちの特徴のひとつに、結集できないことがある。政治的な対立、社会的な対立、経済的な対立、文化的な対立、宗教的な対立、思想的な対立。ありとあらゆる対立が一緒に活動することを妨げる。会議を何回重ねてもまとまらず、求めることが違いすぎて、お互いを理解することなど夢のまた夢。環境に配慮しているのが売りのファッション・デザイナーと、自然保護運動にまい進している市民活動家とのあいだに、共通の目標などあるはずはないし、地球に優しい最先端技術をアピールする企業が求めるものと、自然に帰れという現代文明否定論者が求めるものが、同じはずもない。
ラトゥールは「私たちは今、単なるエコロジー危機ではなく、人類と自然の関係性が大激変した時代を生きている」というのに「人々は驚くほど冷静に、こうしたニュースを聞いている」と言って危機感をつのらせる。「科学は真実を明らかにするもの」というような旧来の価値観を捨て去り、新しい価値観を持つことで、危機に突入することを防ぎたい。そう思っても、危機感を持たない人々には伝わらない。この分厚い本を書いたのも、人々に危機感を持ってほしかったからだろうか。
そんなことを考えながら読み進むうちに、私は大きな驚きに遭遇する。3つ目のコンファレンスで、ラブロックの「ガイア」が現れたのだ。ガリレオと対比するかたちで、ラブロックへの尊敬が込められた文章がたくさんあらわれたてきた。
三世紀半を経て、ラブロックは、ガリレオには考えも及ばなかった地球のいくつもの特徴を見出した。それは地球の色であったり、匂い、表面、手触り、起源、加齢、死であったりする。そして、まさに私たちが住む地球の表面の薄い膜の上での運動や振る舞いの発見である。
ガリレオの動く地球に、ラブロックの動かされる地球をつけ加えることで、説明は完全になる。
そんな文章を読みつつ、私はとても幸せだった。ラブロックが捉えた地球には、内部と外部の差を生き生きと保つ能力がある。さらに、ラトゥールは「ガイア」に向き合えという。私たち生命がいる地上の薄い膜に向き合い、地上の存在(テレストリアル)としての人類のあり方を選択すべきだというのだ。
ここで私は、あることに気がついた。ラトゥールの「ガイア」は、やたら理屈っぽい。ロマンティックではないのだ。
なにかを地球から排除すれば、自分自身の一部を破壊することになる。なぜなら、私たちは「ガイア」の一部だからだ。「ガイア」は単なる地球ではなく、生命システムであり、私たちは皆その一部だ。
そう言って、エコロジストとしての主張を繰り広げる。ガイアの声に耳を傾けている環境保護活動家たちの言うことをもっとよく聞け。ガイアの声に耳を傾けようとしない気候変動否定主義者たちの言うことは聞くな。ラトゥールも、他のエコロジストたちと同じく、他の立場の人たちの言うことを聞こうとはしない。
善悪の二項対立を基本にするから、話がどんどん閉鎖的になってゆく。他人の矛盾を突いてゆけば、自分の矛盾が浮かび上がってくる。「こうあるべき」の泥沼の不果実性を批判しながら、「無制限な土地利用をやめるべき」とか「地上的存在としての人類のあり方を選択すべき」と言ってしまう。いろいろな考えを紹介しすぎることもあって、ラトゥールの議論の矮小性が際立ってしまう。
私のような「ただの人」にとって、生活の快適さを手放すのは、容易な選択ではない。暑ければ冷房の効いた部屋で涼みたいし、寒ければ暖房の効いた部屋で暖まりたい。飛行機や自動車に乗って移動したいし、電子機器を使って毎日の生活を楽しみたい。地球のためだからといって、すぐにこういった快適さをあきらめることはできない。
そもそも、エコロジストたちの言うことだけが正しいと、誰が言えるのだろう。地球温暖化が進んでいるのは確かだとして、それが人間に良くないというのも本当だとして、果たしてそれが地球に悪いと言えるのだろうか。短期的には地球の温暖化が進んだとしても、数万年もすれば地球は間違いなく冷たくなる。それ以前に、温暖化の原因となっている人間の数が大きく減り、温暖化は間違いなく解消される。そう思えば、エコロジストたちの持つ危機感は、杞憂でしかない。
新気候体制といえば、そうかもしれないと思うし、人新世といえば、なるほどなあと思う。でも、それもこれも、人が考えたことではないか。時の終末という言葉が使われても、それは人にとっての時の終末であって、時の終末ではない。「ガイア」を中心に考えるようでいて、人間を中心にしか考えていない。
人間は、いつか、いなくなる。人間がいなくなっても、ガイアは続く。そのガイアも、いつか、なくなる。それでも宇宙は続く。科学を言うならば、そして事実を言うならば、人間がいつかいなくなり、地球がいつかなくなるということを受け入れたらどうなのだ。どこまでも人間中心の『Face à Gaïa』を読んで、心からそう思った。
科学と政治の分離とか、記述と行為の分離とかの議論をいくら深めてみても、何も変わりはしない。この本を読むことで知識の量は格段に増えるが、それで社会が変わったりはしないと思う。ましてや、人間がいなくなるとか、地球がなくなるということに、変わりがあるはずがはない。