2024年4月19日(金)
赤ちょうちんは永遠か
今週の書物/
『〈狭さ〉の美学』
近藤祐著、彩流社、2023年刊
本屋や図書館に行く醍醐味は、なんといっても、それまで知らなかった本にめぐりあうことだ。1年に7万冊以上発売されている本のなかから、1冊の本を選ぶ。偶然にその本を選んだのか、本屋の店員や図書館の司書の誘導に乗ったのか、その辺のことはわからない。
本屋であれば、表紙や帯に書かれた文字に惹かれてということもある。でも、いちばん大きな理由は、選んだ本がどこに置かれていたかということではないだろうか。本屋によって、また図書館によって、選ばれて置いてある本は大きく違う。置き方も、とても違う。置いてある本も、日によって違う。
ある日、なんのせいかその場所に行き、1冊の本を手に取る。そんな時、私は、偶然のめぐり逢いを感じる。インターネットで本を見つけるときには探していたものが見つかったという気分のほうが大きいのだが、本屋や図書館ではめぐり逢った感じがする。
めぐり逢った1冊を買うなり借りるなどして読み始めた時、少なからず「え゙~」と思うことがある。良くも悪くも、予想を裏切られた「え゙~」だ。
今週は、その「え゙~」がとても大きかった一冊。『〈狭さ〉の美学』(近藤祐著、彩流社、2023年刊)だ。帯の「〈狭さ〉には、自由と永遠が宿る!」という言葉に惹かれて買ったのに 。 。 。 だ。
近藤祐の特長は広い分野にわたる知識だ。経歴を見るとその理由がわかる。まず、慶応義塾大学で経済を学んだあとアパレル会社企画部に勤務。その後、東京デザイナーズ学院で建築設計を学んだあと建築設計事務所に勤務。そして、建築事務所を設立したあと一級建築士として活躍しながら東京デザイナーズ学院で建築設計を教え、そのかたわら、東京の都市文化、建築、文学、美術などをテーマに研究執筆してきたという。建築家と文化人の顔を併せ持っている。
そんな著者だからこそのスタイルなのだろうが、とにかく《引用》が多い。序論はいきなり鴨長明の「方丈記」で始まる。有名な「ゆく河の流れは絶えずして・・・」だ。その後も全篇を通じて《引用》とその《説明》を繰り返してゆくのだが、面白いのは《引用》《説明》《結論》という文章の組み立て方だ。
《引用》は、西行、法然、芭蕉、卜部兼好、村田珠光、千利休、山上宗二など、古典からのものが多い。たとえ古典でなかったとしても、冨倉徳次郎、唐木順三、折口信夫と、誰もが納得するような人の文章からの引用ばかり。外国人からのものも、スキデルスキー、パシュラール、オルデンバーグと説得力のあるものが並ぶ。
《説明》には、建築家・近藤祐が顔を出す。「方丈、つまり一丈(約3メートル)四方であり、現在の四畳半より少し広いひと部屋のみである。高さ七尺は約2.1メートルであり、屋根最上部の高さではなく、桁材の高さか、室内の天井の高さではないか」という具合である。著者は意識していないだろうが、この類のことは建築の専門家にしか書けない。
そして《結論》。「『方丈記』が宣言したのは、本来ならデメリットでしかない《狭さ》のメリット、つまりは何らかの価値としての《狭さ》、それも「世」にあるための実用性としての価値ではなく、まっとうな人間として生きていくために必要な倫理、あるいは美学としての《狭さ》であった」という文化人特有の「結論のようなもの」が付け加えられるのだ。
《引用》も《説明》も《結論》も、それぞれに素晴らしい。それなのに、なんだか変。そう、それぞれが独立していて、つながっていないのだ。古典からの《引用》、建築家の《説明》、そして文化人の《結論》。それが論理的につながっていない。だから変なのだ。
帯にあった「〈狭さ〉には、自由と永遠が宿る!」についても同じ。
オルデンバーグの「サードプレイスが陽気でありつづけるのは、その場を楽しむ人びとが、そこに費やす時間を制限するからでもある」という《引用》から始まる。
そのあとに「赤ちょうちんにあっても、サッと来てサッと呑んで、サッと帰るのが常連・上客の作法ではないか」という《説明》が続く。
そして唐突に「自由人として「私」を脱ぎ捨てるとき、有限性としての「私」をも脱ぎ捨てることができるならば、赤ちょうちんという〈狭さ〉には、空間的な有限性に対しては無限が、時間的な有限性に対しては永遠が孕まれるかもしれない」という《結論》が導かれる。
著者にとっては、この流れは自然のことなのだろう。ひとつもおかしいことはないと思っているに違いない。ところが建築家でも文化人でもない私には、この流れは絶対におかしい。
「狭いところでは、費やす時間を制限するのが作法」という《引用》から「狭さには無限や永遠が孕まれる」という《結論》が導かれるなんて、どう考えても論理的ではない。「赤ちょうちんに、追加のお酒だけで長居したり酔いつぶれたりするのは、粋ではない」のだから、「赤ちょうちんには、無限や永遠は似合わない」でなければと思う。
『〈狭さ〉の美学』は面白い本だ。心から出逢ってよかったと思えたし、楽しむことができた。でも、近藤祐という人の論理は、最後までわからなかった。芸術家の色合いが濃い建築家の《説明》と、芸術家の色合いが濃い文化人の《結論》とが、かみ合ったようには感じられなかったのだ。
私が帯を用意するとしたら、「〈狭さ〉には、自由と永遠が宿る!」ではなく、「〈狭さ〉には、儚さが似合う!」と書く。〈狭さ〉の美しさは、「わび・さび」の美しさに、似ている。