2024年4月12日(金)
「わび・さび」の美
今週の書物/
『Wabi-Sabi for Artists, Designers, Poets & Philosophers』
Leonard Koren 著、Imperfect Publishing、2008年刊
「わび・さび」とは何か? 辞書に当たれば、それらしいことが書いてあるし、インターネット上を探せば、いろいろな説明が見つかる。でもどの説明も、ひとりひとりが持っている感じとは、少しだけずれている。私にはそう思える。
「わび・さび」は、質素で静かな様子や不完全であることをよしとする「日本独自の」美意識だという。慎ましく質素なもののなかに奥深さや豊かさなど趣を感じる心で、「日本人ならではの」美意識だともいう。「日本独自の」とか「日本人ならではの」とか言われても、素直に受け取れない。日本の外に出たら「わび・さび」はないのか? 日本人以外には感じられないものなのか?
そもそも「わび・さび」といっても、「わび」と「さび」とは違う。
「わび」は、もともと「思うことが叶わず悲しみ、思い煩うこと」だったが、室町時代あたりから、失意や窮乏などの自分の思い通りにならない状態を受け入れ、積極的に安住しようとする肯定的な意味をもつようになった。置かれている状況を悲観することなく、それを楽しもうとする精神的な豊かさを「わび」という。
「さび」は、現象としての渋さと、それにまつわる寂しさとの複合美のこと。古さや静けさ、枯れたものから感じられる趣だという。精神性を表現した「わび」とは異なり、本質が表面にあらわれていくその様を美と捉えるというから、人によって「さび」は大きく違う。
そんな「わび」と「さび」が合わさった「わび・さび」は、中国から来た禅宗と結びつき広がってゆく。室町時代以降、禅宗の物事の本質を求める思想が武士や知識階級に広まり、石や砂紋などで水の流れを表現する枯山水など、文化面でも大きな影響を与え、人の世の儚なさや無常であることを美しいと感じる美意識が「わび・さび」だという認識が広まっていった。
古い建築物の木造部分の痛みや銅の部分にできる青緑色の錆びに「わび・さび」を感じたり、石の上に生えた苔を見て「わび・さび」を感じたり、紅葉が散りゆく時にその艶やかさと散り際に「わび・さび」を感じたりと、趣とか美意識とかはどこまでも個人的な感情だ。感情が静かに揺れ動いた時に他人にわかってほしいとか、ちょっとした心の揺れを共感したいとか、そんなときに「わび・さび」という言葉が使われる。
でも、村田珠光の「月も雲間のなきは嫌にて候」のように不足した美を楽しむのが「わび・さび」だと言われても、そんな美意識の押しつけは嫌だと思う。千利休のわび茶にしても、松尾芭蕉の俳諧のさびにしても、小堀遠州の綺麗さびにしても、結局は個人の心情でしかないではないか。個人ののもののはずである美意識や感性について、「これこそが」とか「xx家では」「xx流では」というような権威を盾にした言い方をされれば、興は醒める。
そんなふうに「わび・さび」について長いあいだすっきりしない感じを持っていた私を、すっきりさせてくれたのが、『Wabi-Sabi for Artists, Designers, Poets & Philosophers』(Leonard Koren 著、Imperfect Publishing、2008年刊)だ。Leonard Koren は、建築を学んだあと、アメリカの西海岸で『Wet』という「The Magazine of Gourmet Bathing (豪華な入浴の雑誌)」を発行していた。『Wet』は、ポストモダン美学の雑誌と位置づけられ、美学に興味を持つ人たちに影響を与えた。
その後 Leonard Koren は日本に来て、雑誌を出したり雑誌への寄稿を繰り返すのだが、そんな中から出てきたのが、今回取り上げた「わび・さび」の本だ。続編に『Wabi-Sabi: Further Thoughts』(Leonard Koren 著、Imperfect Publishing、2015年刊)があるが、二冊とも「わび・さび」という感覚を言語化することに成功している。
日本人は言語化しないのが得意だ。だからいろいろなことが、わかっているようでいてわからない。察しないほうが悪い。わからないほうが悪い。説明するのはよくない。そんな空気のなかでは、なにかを明確に知ることはできない。
「わび・さび」についても、私たちは長いあいだ、わからないことをよしとしてきた。そこに Leonard Koren が言語化したものだから、私は驚き、感激した。
Leonard Koren は「わび・さび」を「imperfect」「impermanent」「incomplete」というたった三つの単語で見事に説明した。真髄をついたのだ。「わび・さび」を、「完璧でない美」「永遠でない美」「完成していない美」で説明してしまった。
人がすることに完璧はない。完璧な人はいないし、完璧なものもない。完璧な形が美しいわけではない。「わび・さび」には、完璧でないから美しいと感じる感性がある。
永遠ということもない。人は永遠に生きたりしないし、地球すら永遠ではない。確かなものなどなにもないなかで、無常なものを美しいという「わび・さび」は、どこまでもいとおしい。
完成することもない。完成したと思っても、すぐに未完成だと気づく。完成した途端、壊れはじめ、崩れはじめる。完成していないものを美しいと言ってしまう「わび・さび」は、とても正直だ。
このような「わび・さび」は、西洋の美意識がしみついている Leonard Koren にとっては新鮮だったに違いない。完璧なもの、永続的なもの、記念碑的に完成したものを追い求める西洋の美意識に対し、「わび・さび」の美意識は、書画、お茶、お花、建物、庭、衣装、器、道具など、ありとあらゆるもののなかに、謙虚さと控えめさを求める。その違いは明らかだ。
大きな喜びを追い求めるよりも、静かな喜びを味わうことのほうに価値を置く。小さなことに心を動かす。些細なことに幸せを感じる。レトリックだと言われても、なにが望ましいのかは自分で決める。Leonard Koren の美意識は、そんな態度の延長線上にあるように思える。宗家や家元の美意識とは、次元が違うのだ。
長いあいだ、定期的に、しかしながら予測不可能にやってくる地震、噴火、台風、洪水、火災、高波などにによって土地を奪われ、財産を失ってきた日本人にとって、できることや信じられるものは、ほとんどなかった。自然も信じることはできなかったが、自然との接触から得た教訓が、「わび・さび」の美のなかに組み込まれている。それが、なにもかもが不完全で、あらゆるものは無常で、すべてが未完成だという Leonard Koren の「わび・さび」なのだろう。
Leonard Koren は本のなかで《「わび・さび」の美は、適切な状況、文脈、または視点が与えられれば、いつでも生まれてくる》と書いている。《そんな美は、意識の変化した状態であり、詩と優雅さの並外れた瞬間だ》という文章もある。私はこれを読んだとき、ふと足利義政を思い出した。
足利義政が関わったものは、なにもかもが「わび・さび」の美である。それにもかかわらず、足利義政に対する評価は低い。その原因は、足利義政が矛盾だらけの人間だったことに因る。でも、よく考えてみれば、「わび・さび」は、矛盾に満ちている。「矛盾に満ちているからこそ美しい」と言えなくもない。
「わび・さび」に内包された矛盾は、そのまま日本人のなかに潜む矛盾だ。そう考えるとき、「日本独自の」とか「日本人ならでは」という言い方も、そうは間違っていないと思えてくる。Leonard Koren は、私たちのことを、よく観察していたのだ。