(25)ビョンチョル・ハン『透明社会』

2024年6月7日(金)

今さらながら社会に憤る

今週の書物/
『透明社会』
ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊

『疲労社会』
ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊

『情報支配社会』
ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2022年刊

何も引き換えにせずに資本を獲得することを、盗みと言っていいだろう。だとすれば、政府や中央銀行がしていることは、盗みではないか。

快楽に身を委ね 欲望や消費にはしることを、堕落とみなす人もいる。そういう見方からすれば、多くの男や多くの女は、堕落してはいないか。

現実を大げさに歪めて伝え 不安におびえさせることを、俗に恐喝と言う。だとすれば、報道機関や広告代理店がしていることは、恐喝ではないか。

好況のあとに不況を言いつのり 不況のあとに好況を言いつのるのは、躁鬱に似ている。ビジネスや株に携わる人たちは、みな躁鬱ではないか。

うまくいくかどうかわからないのにカネを動かし カネが膨らむのを期待することを、博打という。だとすれば、金融市場に集まってくる人は、みな博打をしていることになる。

他人を思いやることを忘れ 他人を出し抜くことしか考えないことを、倫理観の欠如という。だとすれば、組織に身を委ね 回し車のハムスターになっている人たちは、みな倫理観が欠如しているといえる。

悪いと知っているのに 悪いことをし 嘘と知っているのに 嘘の説明をするのを、人でなしという。だとすれば、高い地位に就いている人たちや その周りにいる人たちは、みな 人ではない。

社会が、盗賊と 犯罪者と 恐喝者と 躁鬱患者と 中毒患者と 倫理観がない人と 人でなしとで 出来ていると思えば、腹も立たない。社会に憤っても、社会は良くならないし、社会を変えようと思っても、誰にも社会は変えられない。社会は強固で狡猾だ。

とはいっても、社会に住んでいる私たちが 社会の餌食にならないためには、社会について もっと知る必要がある。社会では、何があたりまえなのかを知る。心が痛まない方法を知る。そうすることで、社会で生きてゆく。

自らが消費という中毒にかかっていることを認め、自分たちが奪う側にいることを認め、奪うことを止め、奪われることも止める。汚れていることを認め、きれいになろうとする。

などと、10代の私が書きそうなことを書いてみて、70代の私が顔を出す。70代の私は冷静だ。「何億人もの個人が社会を形作るのだから、社会が個人にとって都合の良いものであるわけがない。自分の思うような社会を作ろうなどという考えは、捨てたほうがいい」と言う。「社会を構成しているのは そのほとんどが善良な人たちなのだ」とも言う。

「社会を良くしてゆく努力を続けなければ 社会は衰退してしまう」という声に、70代の私は「そんな努力は無駄だ」と言う。そう言いながら、70代の私は社会について、憤っている。不平等、不公平 ー 理不尽なことが多すぎる。優しくない、報われない ー 閉塞感に満ちている。実際、私は、社会に対して怒りのようなものを持っている。怒りのようなものの正体は、わからない。

それにしても私たちは、私たちの社会を知らない。社会についてもっと知ろう。そう思って手に取ったのが、今週取り上げる『透明社会』(ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊)だ。同じ著者・訳者・出版社で、『疲労社会』(2021年刊)と『情報支配社会』(2022年刊)も出版されている。

なんでもわかってしまう透明社会(The Transparency Society)、予期された答えしかない肯定社会(The Society of Positivity)、教育や訓練で秩序が保たれる規律社会(The Disciplinary Society)、なんでも根拠になってしまうエビデンス社会(The Society of Evidence)、愛も恋も消えてしまったポルノ社会(The Society of Pornography)、変わり続けることで成り立つ加速社会(The Society of Acceleration)、ほかの世界と隔絶している親密社会(The Society of Intimacy)、大量の情報に価値をおく情報社会(The Society of Information)、知識が重要な価値を占める知識社会(The Knowledge Society)、誰もが自分のことを見せる展示社会(The Society of Exhibition)、絶え間なく成果を求められる疲労社会(The Society of Tiredness)、プライバシーのないポストプライバシ、ー社会(The Post-Privacy Society)、深い退屈に彩られた倫理社会(The Society of Moral)、精神的暴力が支配する監視社会(The Surveillance Society)、忘れたことまで暴き出す暴露社会(The Society of Unveiling)、他人に寛容で優しい繋がる社会(The Connected Society)、人間が管理されるようになった管理社会(The Society of Control)。そんなふうに ビョンチョル・ハンは、今の社会をさまざまな側面から説明する。その説明のひとつひとつは、恐ろしいほどに、見事に的を射ている。

今日は多くの社会の側面のなかから、本の題名にもなっている「透明社会(The Transparency Society)」について書いてみる。私が読み取ったことは、たぶん ビョンチョル・ハンが言いたいこととは違う。そんなことは承知の上で、書く。

トランスペアレントという言葉がよく使われるが、トランスペアレントな社会、つまり透明性が高く隠し事のない社会は、道徳か倫理社会の教科書のなかにしか存在しない。隠し事のない人がいないように、隠し事のない社会もありはしない。隠し事をしてはいけないという建前が先に立てば、人間の本音は居場所をなくしてしまう。はたしてそれは、いいことなのだろうか。

トランスペアレントな社会からは、暴露も消える。隠し事がなくなれば、暴露することもなくなってしまう。隠し事のない息の詰まるような社会では、どんな事情も考慮されない。AI がすべてを明らかにし、説明できないことをなくしてゆく。

トランスペアレントな社会を作りだすテクノロジーには心がない。だから、真理や道徳を考えたり思ったりはしない。利益をもたらすことや、注目されることで、より多くの収益をあげる。テクノロジーによって現れたトランスペアレントな社会では「良い悪い」よりも「儲かる儲からない」が重要なのだ。

トランスペアレントな社会からは、プライバシーも消えてしまう。隠し事のない社会では、プライバシーを保とうとすれば隠し事をしていると言われ、まるで悪いことをしているかのように扱われてしまう。より多くのビッグデータを得るために、そしてまたシステムをより効率的に運用するために、プライバシーの放棄が勧められる。

人間という元来透明性の似合わない生き物に透明性を求めた結果、人間という不可解で非論理的・非合理的な存在は、行き場を失っている。監視され、自由を完全に失ってしまったのだ。トランスペアレントな社会は決していい社会ではない。

トランスペアレントな社会は、モラルやエシックスから生まれたものではない。世界中に人の数を越えて存在している IoT端末と、Google に代表されるインターネット検索と、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と、ブロックチェーンと、ビッグデータと、ブロックチェーンと、AI とかが、束になってトランスペアレントな社会を作り出している。

人は相変わらず隠し事をする。それが習性だと言わんばかりに隠し事をしたがる。ところが世界中の IoT端末とそれを繋ぐネットワークによって「いつ」「どこ」にいて「なに」をしたかが分かってしまう。インターネット上の情報は、高度に発達した検索で簡単に見つかる。自己顕示欲が強い人や承認欲求が強い人は、自分をアピールするため、人から認めてもらうため、そして人と繋がるために SNS に自分についての過剰な情報を載せるが、それもトランスペアレントな社会の広がりを助長している。関連した事実が時系列に並んでいるブロックチェーンを前にして「それは違う」と言える人はひとりもいないし、個人情報は守られているというビッグデータのなかにも関連情報は潜んでいる。そして AI が、バラバラの情報をあっという間にまとめ、どんなに隠したいことも白日の下にさらしてしまう。テクノロジーが隠し事を不可能にし、社会はどんどんトランスペアレントになってゆく。

誰もテクノロジーの進歩を止められないなかで、社会はますますトランスペアレントになり、隠し事をひとつも持てない恐ろしい世の中がやってくる。その先に待っているのは、何もしていないのに、そして何も言っていないのに、考えただけで、思っただけで、それが知られてしまう社会。なんと恐ろしいことだろう。

私はそんな社会はいやだ。そう思ってみても、社会はどんどん トランスペアレントになってゆく。人のいない山の中とか海辺とかに住んだとしても、個人は「透明社会」に絡めとられてしまう。

社会の流れから距離を置き、静かに暮らしたい。ビョンチョル・ハンの本を読んで、心からそう思った。

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タイの田舎の海岸の町で、まだ暗い浜辺に出て日の出を待つ。托鉢をする僧がひとり、歩いている。朝日の昇る気配がしてくる。途切れることのない波の音が心地いい。

托鉢僧には最新のテクノロジーなど関係ないだろうし、その目にはテクノロジーによる社会の変化など見えてはいまい。でもテクノロジーによる社会の変化は確実に起きている。

学校では、テクノロジーに囲まれて育っている子どもたちに、何も知らない大人たちが、テクノロジーを教える。そんなある意味滑稽な状況が、あたりまえのように見られる。

会社では、テクノロジーを使うことが日常になっている部下を前にして、テクノロジーをあまり利用したことのない上司が、テクノロジーについての決定をくだす。決定の意味のなさを部下たちが指摘しても、上司には何がおかしいのかがわからない。

変化があまりにも速いため、個人がそれについていけない。社会もついてゆけない。法律もついていけていないし、倫理はもちろんついていけていない。

テクノロジーの進化による社会の変化を放っておけば、混乱すら生まれず、「変化の先端にいる人たちだけが変化を享受し、変化に気づかない人たちが失い続ける」というアンフェアな状態が定着してしまう。

テクノロジーのアセスメントにもっと真剣にならないと、社会は変な方向に向かってしまう。いや、アセスしようとしまいと、変な方向に向かうことに変わりはあるまい。

そんなことは、テクノロジーが進化する前から見られていたというかもしれない。でも、今起きていることには、戻れないという特徴がある。不可逆的でない。もう戻れない。もう元のようにはならない。そう思うと、いま社会に起きていることが、ずっしりと重たく感じられるのではないだろうか。

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