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(39)Hannah Arendt『The Human Condition』

2024年9月13日(金)

哲学者の視点

今週の書物/
『The Human Condition』
Hannah Arendt 著
University of Chicago Press、1970年刊

先週は「考えさせられる」ということでニーチェを取り上げたが、今週は「もっと考えさせられる」ハンナ・アーレントを取り上げる。アーレントは、ナチズムやスターリニズムといった全体主義を憎み、全体主義のもとでなぜ人間が無辜の民を殺すことができたのかを考え続けた。

20世紀にドイツでのユダヤ人迫害からフランスに逃れ さらにアメリカに逃げざるをえなかったアーレントの生涯は、17世紀にポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきた両親から生まれたスピノザの生涯を思い出させる。

アーレントは『アウグスティヌスの愛の概念(Love and Saint Augustine)』のなかに「地上での人間の性質と 人間が世界に属していることを 克服できるのは 愛だけだ」と書いて「愛をもつこと」で未来に希望を見い出そうとしたが、それは、スピノザが『エチカ(Ethica)』のなかに「人間の感情はすべて 喜び 苦しみ 欲望から派生している」と書いて「喜びをもつこと」で未来に希望を見い出そうとしたというのに、似ている。

人間に対する不信や絶望から生まれてくる希望は、未来が見通せないなかにあっては、特別のひかりを持って輝く。アーレントもスピノザも、人間について「なぜ、そんなことができるのか?」という疑心をいだいていただけに、示された希望には重みがある。

アーレントはナチズムの被害者ではあったが、その批判は、あくまでも外側からの批判だ。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧(Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager)』のような内側からの体験とは違う。でも、だからといって、アーレントの全体主義への批判が霞むわけではない。

「全体主義の理想的な対象は、確信を持ったナチスや確信を持った共産主義者ではなく、事実と虚構の区別や真実と虚偽の区別がつかない人々だ」「絶えず変化し、理解できない世界では、大衆は、すべてを信じ、同時に何も信じない、すべてが可能で、何も真実ではないと考えるところまできている」「全体主義教育の目的は、信念を植え付けることではなく、信念を形成する能力を破壊することだ」「危険な考えなどない。考えること自体が危険なのだ」などなど、どの文章もアーレントらしい。

フランス革命に批判的だっただけでなく、イギリス革命やロシア革命についても批判的で「革命家のヒロイズムは 人間のリアリティに対して無感覚になっただけ」「人々が求めたのは政治以前の暴力だった」「最も急進的な革命家は、革命の翌日には保守派になる」などの文章を残している。

「人権は単なる抽象概念にすぎない」と言い、「現在の厳しさから逃れて、過去への郷愁に浸ったり、より良い未来への期待したりすることには意味がない」と繰り返すアーレントは、近づき難い雰囲気を醸し出す。それなのに、アーレントの文章は読まれ続けている。

で今週は、ハンナ・アーレントの多くの本のなかから一冊を選んで読む。『The Human Condition』(Hannah Arendt 著、University of Chicago Press、1970年刊)だ。

全体主義のことや革命のことを書いたアーレントの文章は、キラキラしていた。どの文章にも共感し、好印象を持った。愛のことを書いた文章は、キリスト教とか神とかいう部分に抵抗を感じたせいか、それほどいいとは思えなかった。そしてこの『The Human Condition』のなかの働くことについての文章は、読んでいて嫌な気分になった。異和感を感じ続けたと言ったほうがいいのかもしれない。

日本国憲法の第27条「すべて国民は、勤労の、権利を有し、義務を負う」の、「勤労の義務を負う」という部分に感じる異和感や、軽犯罪法 1条4号 の浮浪行為(生計の途がないのに、働く能力がありながら就業する意思を有さず、一定の住居をもたずにうろつく行為)によって拘留されるか罰金が科せられるということへの異和感と同じ感じだ。

アーレントはこの本の多くの部分を 3つのタイプの「Human Activities」の説明に費やしている。「Labor」「Work」「Action」の3つだ。日本語では「Activity」と「Action」を「行動」と「活動」、「Labor」と「Work」を「労働」と「仕事」と訳して混同を防いでいるようだが、紛らわしいことこの上ない。

そんなことはともかく、アーレントは「Labor」「Work」「Action」を厳格に区別し、それぞれの意味について深く考察している。あわせて「political concept(政治的概念)」と「social concept(社会的概念)」、「public realm(パブリック領域)」と「private realm(プライベート領域)」といったことについても考察を深める。

くどいくらいのわかりにくい考察の後、アーレントは「vita activa(活動的生活)」と「contemplativa(黙考的生活)」について書く。そのなかには「Knowledge is acquired not simply by thinking, but by making(知識は考えることだけでなく、作ることによって得られる)」という文章がでてくる。

アーレントの「Work」についての、そして「science(科学)」についての偏見ともとれる特殊な考え方から、アーレントならではの結論めいた文章が出てくる。望遠鏡という《「Work」の産物 》がガリレオなどのさまざまな発見につながり、「Work」が「contemplation(黙考)」よりも重要になり、「science」が「philosophy(哲学)」より重要になってしまったというのだ。

読んでいて私は「これだっ!」と思った。感じ続けた異和感は、アーレントの「Work」や「science」に対しての考え方から来ていたのだ。「Labor」や「Work」について膨大な量の文章を書いていながら、労働者にはなったことがない。「science」について書いていても、それは想像でしかない。

アーレントは18歳の時にマールブルク大学で教授のハイデッガーと出会い、哲学に没頭した。ハイデッガーとは後に不倫関係になる。またヨナスとも出会い終生の友になる。その後フライブルク大学ではフッサールのもとで一学期を過ごし、ハイデルベルク大学ではヤスパースの指導を受けた。博士論文の『Der Liebesbegriff bei Augustin(アウグスティヌスの愛の概念)』は今でも多くの人に読まれている。

そんなアーレントに労働者の気持ちがわかるわけはないし、科学の知識を期待するのは無理というものだ。全体主義を批判したり、革命のことやマルクスのことに論評を加えたりすることはできても、社会の普通のことを書くのは無理なのではないか。一流の外科医にファミリードクターが務まらないように、一流の哲学者には専門外のことはわからないのだろう。

今の複雑でグローバルな社会では、2000年以上続いてきた哲学のアプローチや宗教のアプローチはもう通じない。この本を読んで、そんな気がしてきた。

(38)Friedrich Nietzsche『Beyond Good and Evil』

2024年9月6日(金)

今の社会のモラルは奴隷のモラル

今週の書物/
『Jenseits von Gut und Böse』
Friedrich Nietzsche 著、1886年刊

『Beyond Good and Evil』
Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳
Penguin Classics、2003年刊

戦前は、護国の精神に富んだ忠良なる臣民を育成するのが教育の目的だった。臣民というのは天皇に従属する者のこと。建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるということで、教育勅語の精神に合致する教科書が使われた。また、中学校以上の男子校には現役陸軍将校が配属され、軍事教練が実施された。

そんな歴史のせいで、日本には今でもパブリックという考えがない。「Public Private」は「公私」と訳されはするが、その実態は「官民」であり、「Civil Servant」は公務員と訳されてはいるものの、「Civil Servant」として働く者たちの意識は相変わらず「官吏」であって、「国民に奉仕する」という考えは微塵もない。

国は国民のために存在するというのと、国民は国のために存在するというのとでは、意味合いがまったく違う。日本には今でも「お上」が存在していて、国民は「お上」の言うがまま。国の言うことには黙って従うし、警官や税務署員の理不尽に対しても従順だ。

学校での「いい子」といえば「言うことを聞く子」「言われた通りに行動する子」を指し、大人になって出来上がった「善良な市民」は、いつも正しく 温かい心を持ち、親切で 思いやりがあり、勤勉で どんな辛いことも耐え忍び、謙虚で 他人のために行動する。

日本の学校は奴隷養成所で、日本の社会は奴隷のような人間で溢れている。そんなことを考えているときに出会ったのが ニーチェの「Master–slave morality」と 忌野清志郎の「善良な市民」。「Master–slave morality」は まるで今の日本のことを言っているようだし、「善良な市民」は「小さな家で 疲れ果てて 眠るだけ」「新しいビールを飲んで 競馬で大穴を 狙うだけ」「飯代を 切詰めたりして Jリーグを 観に行くだけ」という具合で なんともせつない。

で、今週は「Master–slave morality」のことを書いた文章を読む。『Beyond Good and Evil』(Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳、Penguin Classics、2003年刊)だ。ニーチェは、1879年に体調を崩して大学を辞めてから、1989年1月に精神病院に入院させられるまでの10年ほどのあいだ、療養のために 夏はスイスのイタリア語圏の村で 冬はイタリアやフランスの海辺の町で過ごしたのだが、この本はそのあいだに書かれた一冊だ。

ニーチェは不思議な存在だ。多くの人が若い頃に出会い、あまり多くを読まずに、それぞれが勝手な解釈をする。「ルサンチマン」だの「ニヒリズム」だのと言って わけのわからないことをこねくり回す人は多い。でも、読まないのは もったいない。ニーチェは いろいろなことを違った視点から捉えるのがとてもうまいから、固定観念から自由になるのの助けになる。

『Beyond Good and Evil』の「Chapter IX   What is noble?」には、主人道徳(master morality)と 奴隷道徳(slave morality)という2つの道徳が出てくるのだが、その前提として 一方に高貴な人たち(権力者たち、貴族たち)がいて、もう一方には弱者たち(庶民、抑圧された人たち)がいるという社会がある。

主人道徳は、意志の強い者の道徳とされ、その道徳での「善」は 高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、ささいなものだという。高貴な人たちの道徳とはいえ、動物的・直截的で、かつ積極的・攻撃的だ。心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして価値に対する正確な認識が必要とされるというが、それは仲間内だけのことで、弱い者たちは眼中にない。

これに対し奴隷道徳は、弱い者たちの持つ道徳で、その道徳での「善」は コミュニティ全体にとって役立つもの、「悪」は 権力を握っている者たちのやることなすことだという。謙虚さ、慈悲、憐れみなどの感情は、強い者たちにはわからないと思っている。民主主義・自由・平等などは、奴隷道徳の政治的な表現だという。

とはいっても、書かれたのは日本でいえば明治時代だから、今とは何も比較はできないが、それでもいろいろ考えさせられる。日本とかアメリカとか、21世紀に民主主義・自由・平等などを掲げている国を、ニーチェは、奴隷道徳の国だというのだろうか? エヌビディアのジェンスン・フアンのようなビリオネアが奴隷道徳を身に着けていることを、どう説明するのだろう?

そんな疑問を考えるために、私たちの国である日本について考えてみよう。日本には、世界でもめずらしい『道徳教育』がある。教師は自らの信念を押し付けず、日本に昔からある道徳心に従うよう指導し、親や年長者を敬ったり、動物に優しく接したり、困っている人を助けたりすることの大切さを教えるのだという。

道徳教育の基盤は家庭にあるべきなのに、子どもは夕方から夜にかけてしか家にいないからといって、学校が代わりに道徳教育の役割を引き受ける。学校に行かない日が年間に170日もあるのだし、そもそも学校にいる時間の大部分は道徳以外の強化の授業に費やされるのだから、年に30時間にも満たない『道徳教育』をしたところで、たかが知れているのだが、この類のプロパガンダの子供への影響は思いのほか大きい。

その文部科学省が掲げる道徳教育だが、道徳的な心情、判断力、実践、態度などの道徳性を養うのが目的で、秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における協調性も含まれているという。なんのことはない、ニーチェの言うところの奴隷道徳の教育をしているのだ。

日本教職員組合(日教組)のウェブページに行っても、日本国憲法とか人権教育とかいった進駐軍が日本に押し付けたことが並んでいるだけで、掲げられている道徳がニーチェが書いた奴隷道徳であることは、文部科学省の道徳と何ら変わりがない。

要は、どんな立場にいるにせよ、今の日本人が道徳をイメージする場合には、ニーチェが説明した奴隷道徳しか頭に浮かばないということなのだ。日本には、主人道徳は悪だと考える人しか存在しない。まるで、みんなが(社畜とか皇民とかの)歯車の一部になったかのようだ。

考えてみれば、20世紀という国家の時代には、たとえそれが 軍国主義だろうが 民主主義だろうが 共産主義だろうが、個人の意思は認められない。

ニーチェが多くの文章を並べて言いたかった 主人道徳 における個人の意思を思い出してみよう。個人の意思はノーブルな(精神が高貴な)人間が持つものなのだ。ノーブルな人間は自分を価値を自分で決める。他人に承認を求めたりはしないで、自分で判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害で、悪なのだ。名誉を与えるのは自分だけ。価値の創りだすのも自分だけ。自分の中に認められるものは何でも尊重する。そのような道徳を持つものは今の日本には ひとりもいない。

主人道徳がいいと言っているのではない。主人道徳を持っている人がいないと言っているのだ。言葉を変えれば、ノーブルな人がひとりもいないということになる。そしてみんなが、そのことをいいことだと思っている。

何かに属していたり 金持ちだったりして 自分のことをノーブルだと勘違いしている人はいても、本当の意味で精神的にノーブルな人はいない。今の金持ちたちは、みんな卑しい。

今の状態から抜け出せないか? 奴隷道徳に覆われた社会のなかで 高貴な個人を獲得することはできないのだろうか? 自分の価値は自分で決め 自分のことは自分で判断する。そんな150年前にはあたりまえにいた「精神的に高貴」で「自分に誇りを持っている」人は、もう今の社会には現れないのか?

日本には、労働を強制されながら、そのことを自らの意志で働いているのだと考えている人たちが大勢いる。その誰もが、自分のことを奴隷だと思っていない。失業したら生きていけないと、上司の言うことに従い、長時間労働している人たちは、はたから見れば自由ではない。そんな人たちの過労死とか自殺とかが新聞紙上を賑わせるが、それはなぜなのか。その理由が、ニーチェの文章を読んでわかったような気がする。すべて奴隷道徳のせいなのだ。

自分の自由な時間を増やすことに罪悪感を感じ、逃げることをよしとしなければ、それはもう奴隷でしかない。そんなふうな人たちは、みんな、ニーチェの言う 奴隷道徳 の持ち主なのだ。

なにも 主人道徳 を持たなくてもいい。奴隷道徳 から解放されさえすればいいのだ。主人も奴隷も関係なく、国のため・会社のため・上司のためといった他人のためという発想を捨て、自分を否定せず、誇りを持って、自分のために生きる。それだけでいい。勤め人だろうが、自由業であろうが、奴隷道徳に染まらなければいいのだ。多くの人たちがそうすれば、社会はきっと もっと風通しのいいものになる。

ニーチェの著作を読むと、時代が違うせいもあって、そしてニーチェが病気だったせいもあって 反感を感じることが多い。でも考えさせられることが多々あり、個人の そして社会の 指針となることが少なからずある。少しだけでも、たとえ1章・1節だけでも読んでみるといいと、声を大にして言いたい。

(37)Patrick Süskind『Perfume』

2024年8月30日(金)

次は何が起きるんだろうと思わせる文章

今週の書物/
『Perfume』
Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳
Penguin Books、1986年刊

オフィスで電子機器に囲まれて多くの時間をすごしていれば、五感を意識することはあまりない。ところがスクリーン上の情報や書類、ミーティングなどから解放され、自然を意識して暮らしてみると、やたらと五感を感じる。

朝起きて雨戸を開け、朝の空気を感じる。朝のひかり、小鳥のさえずり、葉についた水滴、花の香り。そうしたものに囲まれて一日を始めれば、その日は間違いなく良いものになる。暑さ寒さを感じ、汗をかいたり凍えたりすることの、どれだけ気持ちいいことか、

そんな五感だが、目が見えなくなったり、耳が聞こえくなったりすれば、暮らしがむずかしくなる。痛みを感じなくなったり暑さ寒さを感じなくなれば危険だし、新型コロナに感染して味覚を失えば食べることや飲むことに支障がでる。逆に、見え過ぎたり、聞こえ過ぎたり、感じ過ぎたり、味覚が良過ぎたりするとどうなるか。

もうずいぶん前になるが、自らを「nez(ネ)」と紹介するフランス人の家を訪れたことがある。よくよく聞いてみると、香水の会社に勤める調香師で、匂いの専門家。パリとかニューヨークといった大都市は嫌な臭いでいっぱいで住むことができず、山に囲まれた田舎に住んでいるという。鼻がいいというのは、いいことばかりではないのだと、その時はじめて知った。

見えすぎも聞こえすぎも、人によっては困ることがあるのかもしれない。見えなくてもいいものが見えてしまったり、聞こえなくてもいい雑音が聞こえ続けるのはつらいだろう。舌が肥えて普通の食べ物がおいしく感じられないのはいやだろうし、高いワインしかおいしく感じられないなんて不幸でしかない。

五感の個人差は大きい。よく、人と動物とでは見ているものが違うという。人は目の前のものを色と形で見ているが、犬は通ることのできる道や座ることのできる場所を、蠅は照明と食器や食べ物を見ている。自分にとって重要なものしか見ていないのだ。

人も、自分が見たいものばかり見て、聞きたいものばかり聞いているのではないか。嗅ぎたい匂いばかりを嗅ぎ、好きな味の食べ物や飲み物ばかり選び取っているのではないか。自分の五感は、隣の人の五感と違う。そう考えると、五感というものがやけに魅力的に感じられる。

五感についての文章は多い。視覚に訴える文章が写真や映像を超えるのは難しいし、聴覚に訴える文章が実際の音や録音の再生を超えるのも難しい。触覚を表現する文章にはあまりお目にかからないし、味覚を表現する文章には陳腐なものが多い。

嗅覚に関する文章は昔からあり、源氏物語の匂宮の「また人に 馴れける袖の 移り香を わが身にしめて 恨みつるかな」なんていう歌を持ってくるまでもなく、平安時代の歌の世界は人の香りや花の香りであふれている。

で今週は、匂いに特化した小説を読む。『Perfume』(Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳、Penguin Books、1986年刊)だ。とても特異な作品だ。

この小説は、最近の商業的な小説に見られるような勢いよく一気に書かれたものとはまったくといっていいほど違う。18世紀のフランスのこと、そして匂いのことなどが、じつに見事に描かれている。作者はミュンヘンとエクス・アン・プロヴァンスで中世史と近代史を学び、パリとミュンヘンで ラジオの脚本や小説を書いていた。その経験がこの一冊に凝縮している。

まず驚くのが、18世紀のフランスの汚なさだ。人々は不潔で、街は悪臭を放っている。登場人物の匂いは、臭いと書いたほうがいいものが多く、体の匂い、汗の匂い、仕事に関連した匂い、住環境に関係する匂い、そして新鮮な花の香りやアロマの香りなどが詳細に描かれ、どのページからも匂いが漂ってくる。

パリの中心部の露店市場で魚を売っていた主人公の母親は、赤ん坊を産み落とすと、すぐに赤ん坊を魚の頭や尻尾と共にゴミのなかに捨てた。ゴミの中から見つけられた主人公からは匂いがしなかった。そんなふうに始まる小説からは、本当に匂いがしてくる。

また、母親が生まれたばかりのグルヌイユを殺そうとする最初から、グルヌイユが死ぬ最後まで、死が身近なものとして描かれていることにも驚く。18世紀のフランスの社会は、現代から見ればはるかに暴力的で、貧しい。それなのに、誰もがそんな社会をあたりまえのこととして受け入れてくる。

さすがラジオの脚本を書いた人だと感じるのが、「次は何が起きるんだろう」と思わせるところだ。たとえば、主人公のグルヌイのがある日、通りで、これまで嗅いだことのない香りを感じ取る場面。まだ嗅いだことのない極上の匂いに気付き、その匂いを追ってゆくところは、圧倒的だ。

さまざまな匂いが混じりあったパリの通りを、いい匂いがしてくるほうに向かってゆく。街の臭いに圧倒され、時にいい匂いの方向を失いながら進む。読みながらグルヌイユを応援している自分に気付く。やがてグルヌイユは、そのいい匂いのもとにたどり着く。その匂いが、赤毛の少女が発する香りだったということがわかる。そして、グルヌイユは、匂いを得るために少女を殺す。この殺人は唐突だ。

そこからのグルヌイユの人生は、苛酷だ。至高の匂いを手に入れようとする人生。香水屋に雇われて香水の調合を覚え、どんな香りでも作り出すことができるようになったグルヌイユは、パリを出て南に向かう。人に嫌悪感を感じたグルヌイユは、文明を避け洞窟で暮らす。野生の植物と動物とで生き延び、7年後に洞窟を出る。モンペリエでは、まわりにある手に入るものから自分の匂いを作り出し、その匂いを纏うことで他人から受け入れられる。

匂いのしない他人に嫌われる人間から、いい匂いのする他人に好かれる人間に変わることに成功したグルヌイユは、匂いを味方につけることで、侯爵の庇護を得るなどするが、人がいかに簡単に騙されるかを見て、人に対する憎悪感は軽蔑に変わる。そのあたりの感情は、作者自身の感情が書かれているのではないかと思うほど、見事に書かれている。

その後グルヌイユは、どうしたら自分が作り出した香りを閉じ込めて保存することができるかを知るために、グラースに向かう。グラースでは、24人の若い女性を殺し、人の香りを保存する方法を身に着け、最後にパリで殺した少女と同じ匂いを持つ少女を殺してその香りを閉じ込めることに成功する。

殺害容疑で警察に逮捕されたグルヌイユは死刑を宣告されるが、町の広場で処刑される直前に、少女の匂いから作った新しい香水を撒く。その香りはすぐに群衆を畏敬と崇拝の念で魅了し、有罪の証拠はそろっているのに、人々はグルヌイユの無実を確信し、判事は死刑判決を覆し、釈放を決める。このあたりの書き方は、秀逸だ。

人々は匂いによって狂い、欲望に包まれ、全員が集団乱交に参加するが、その後誰もそのことを口にせず、覚えている者はほとんどいない。捜査が再開され、グルヌイユの雇い主が犯人ということで絞首刑に処せられ、街は平穏を取り戻す。

グラースでの経験は、グルヌイユに人に対する憎悪感と軽蔑とを再認識させ、パリに戻って死のうという気持ちをもたらす。生まれた場所にたどり着くと、極上の香水を自分ふりかける。まわりにいた人々は香りに惹かれ、グルヌイユに集まってきて、バラバラにして食べてしまう。

パリの墓地の隣の魚市場で生まれ、オーベルニュでの洞窟生活を経て、グラースでの少女連続殺人と広場での奇跡、そしてパリに舞い戻ってのグルヌイユの昇天まで、まるでイエス・キリストの生涯をなぞったかのような物語なのだが、感情の欠如と倒錯ととらえられかねない行動とがイエス・キリストとの比較を拒む。でも、人々の心を満たす絶対的なものをつくりだした点は同じだし、愛のない孤独に耐えていた点もそっくりだ。

目的を達成しても空虚で、幸せは見つからず、死へ向かう。人から匂いを奪うために必要なテクニックをマスターし、人の匂いをまわりのものから作り出すこともできるようになったグルヌイユにとって、少女の匂いを手に入れたいという欲望が、殺人になってしまった。欲望はいつもおそろしい。