医師一患者関係(吉田李佳)

日本の医療が患者本位になりきれない要因の一つとして、「個の尊盤」を促す契機の欠如が挙げられる。キリスト教倫理に基づく人権思想は、人間の個別性の尊重や弱者の権利の保護という発想の契機となり得る。しかし思想的基盤を異にする日本では、欧米的な個人蓉重の考え方は十分に消化されておらず、医療においても西欧近代の科学的合理性のみか積極的に受容されている感がある。
日本における「個」の概念の薄弱さは、医師への過度の依存という派生的事情を生み易い。医療への期待と信頼の医師への投影が、医療的判断や処置の一切を医師に委ね切る態度として表われる。病名告知に関する社会的合意形成の困難さの背後にも、このような日本人の自律性の未熟さか潜んでいると思われる。医師に対する従属的、依存的な態度は、医療におけるバターナリズム(強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること)と、個々人の生の質を捨象した延命至上主義的な医療の傾向を助長し、医療における非人間性を惹起することになる。しかし、日本の精神的風土においては、弱者(息者)が自分の希望ないし権利を主張することには、今なお心理的な規制がかかりやすい。医療が真に患者本位のものとなるためには、このような事情ヘの認識と、実情に即した対応が必要となる。

医師一患者関係(吉田李佳)」への2件のフィードバック

  1. phrh205455 投稿作成者

    全人的ケアの地平
    ースピリチュアル ・ ケアの観点から 一

    吉田李佳

    熊本大学学術リポジトリ

    https://kumadai.repo.nii.ac.jp/record/16950/files/KJ00000692341.pdf

    第1章 ターミナル・ケアの現状と課題

     一人の人間に発現する様々な痛みに対する全体的なケアは、終末期医療において最も切実に要請される。我々は、老いや病がもたらす生体の様々な機能不全に対するキュア(治療)とケア(緩和・補完措置)を総括して医療と呼び、キュアが奏功しなくなり、専らケア的関わりに限定されるようになる時点以降の医療を一般に終末期医療と呼んでいるこそして、現実には必ずしも患者本位の終末期医療が実現しているとは言い難い。本章では、その原因を近代医療の根本構造に遡って考察し、ターミナル・ケアが抱える医療的課題を考える手がかりを得たいと思う。また、個別のニーズヘの対応と適切な医療を共に保証するための、民間レペルの互助組織と病院医療が相補的に機能する「地域参加型のトータル・ケア」の潮流の現況と展望についても若干触れる。そして最後に、医療的環境整備の指標としてのQOL概念について取り上げる。医療現場における現行のQOLの理解の仕方と、それを修正・補完しようとする新たなQOL概念について確認し、QOL概念の及ぶ範囲を明確にした上で、ターミナル・ケアの理念と、その実現に必要な諸要索を再確認したいと思う。

    1) 終末期医療における諸問題

    病院における死

     病院医療の診断・治療中心の構造が治極の見込みのない末期患者に対する冷淡さとして表われることはしばしば指摘される。`近代以降の病院は、病や死を戦うべき対象として出来る限り生から遠ざけることを使命としてきた。そのような病院が「死を迎える場」としては充分に機能しないのは当然である。

     かつて人々は、家族や近親の人々に看取られながら、自らの生活の場で、その人生に相応しく死を迎えてきた。死にゆくこともまた生の一部であるから、「いかに死にゆくか」についての決断は、最終的には当人自身のものであり、またその実現には、当人の生に密接に関わってきた近親者の理解と援助が必要である。しかし、医療現場においては、「死にゆく人」は常に「病者」として医療的対処の対象である。この事情もまた、病院における「よき死」か困難な理由の一つである。

     また、従来の医療においては、キュアとケアか医療原理的に分離しており、終末期の緩和医療の位置付けか曖昧であったことも、病院における「よき死」を困難にしてきた。本来、ケアとキュアはそのどちらか欠けても医療は成り立たない。医療者が常に同時的に、患者に対してこの二つの異なる関わり方をするのが根源的なケアの立場てある。しかし、キュアは基本的に医科学的行為の範疇に属し、ケアとは原理的に分離しているため、病院医療においてケアに重点を置こうとすれば、医業的な合理性追求に抵触する。ケア的医療が医業的に制限されざるを得ない、キュア偏厘医療への反省か、医療モデル変革の呼び水となってきたと思われる。

    医師一患者関係

     このような医療構造の問題と並んで、日本の医療が患者本位になりきれない要因の一つとして、「個の尊盤」を促す契機の欠如が挙げられる。キリスト教倫理に基づく人権思想は、人間の個別性の尊重や弱者の権利の保護という発想の契機となり得る。しかし思想的基盤を異にする日本では、欧米的な個人蓉重の考え方は十分に消化されておらず、医療においても西欧近代の科学的合理性のみか積極的に受容されている感がある。

     日本における「個」の概念の薄弱さは、医師への過度の依存という派生的事情を生み易い。医療への期待と信頼の医師への投影が、医療的判断や処置の一切を医師に委ね切る態度として表われる。病名告知に関する社会的合意形成の困難さの背後にも、このような日本人の自律性の未熟さか潜んでいると思われる。医師に対する従属的、依存的な態度は、医療におけるバターナリズムと、個々人の生の質を捨象した延命至上主義的な医療の傾向を助長し、医療における非人間性を惹起することになる。しかし、日本の精神的風土においては、弱者(息者)が自分の希望ないし権利を主張することには、今なお心理的な規制がかかりやすい。医療が真に患者本位のものとなるためには、このような事情ヘの認識と、実情に即した対応が必要となる。日本人特有の精神構造と心理的傾向については第2章で改めて考察したい。

    医療における人間観

     医療におけるキュア中心主義の背景には、西欧近代医学が基本的に依拠している近代的人間観がある。主観ー客観構図に基づき、心身を分離してそれぞれ独立に捉える人間観は、最終的には、病気を肉体の故障と見て、それを修理するのが医療であるという考え方に帰着する。
    東洋思想における相即原理は、西欧近代的な心身二元論とは対照的な二項対立の調停原理である。医療モデルの変革を目指す潮流は、程度の多少はあれ、このような非西欧思想の発見ないし回復を伴うと思われる。今日では、リエゾン精神医学によるチーム・アプローチ(後述)や、鍼灸や漢方等の東洋医学を診療科目に加える等の試みも一部ではなされ始めており、医療モデルの変革も徐々に進みつつあると見ることが出来るだろう。

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  2. phrh205455 投稿作成者

    日本の医療が患者本位になりきれないのは、なぜか?

    Copilot

    「患者本位」という言葉は、まるで理想のように語られますが、現実の医療現場ではその理想がしばしば霞んでしまいます。なぜでしょうか。

    背景にある構造的な要因

    以下のような複合的な要因が、日本の医療が「患者本位」になりきれない理由として挙げられています:

    1. 情報の非対称性

    • 医師と患者の間に知識の格差があり、患者が自らの選択肢を十分に理解・比較できない。
    • 医療機関の治療実績や臨床評価指標などの情報が十分に公開されておらず、患者が「選ぶ」ための土台が整っていない。

    2. 標準化の遅れ

    • 診断や治療のばらつきが大きく、医療の質が施設によって異なる。
    • ガイドラインの整備や共有意思決定(Shared Decision Making)の制度化が不十分。

    3. 医療者中心の文化

    • 「医師の言うことに従う」という従来の価値観が根強く残っており、患者の価値観や希望が後回しにされがち。
    • 医師の説明不足や態度への不満が、患者満足度の低下につながっている。

    4. 制度的な限界

    • 診療報酬制度が「患者の納得」よりも「医療行為の量」に報酬を与える構造になっている。
    • 患者の意思決定を支える時間や対話が報酬に反映されにくい。

    では、「患者本位」とは何か

    「患者本位」とは、単に「患者の言う通りにする」ことではありません。 それは、患者が自らの価値観・希望・不安を表現できる場があり、それを医療者が尊重し、共に意思決定を行うプロセスです。

    しかしそのためには:

    • 患者が「語れる」ようになること(情報・教育・支援)
    • 医療者が「聴ける」ようになること(時間・姿勢・制度)
    • 社会が「支えられる」ようになること(制度・文化・倫理)

    この三つが揃わなければ、「患者本位」は空語になってしまいます。

    問いに戻って

    もしかすると、「なりきれない」のではなく、「なりきらせない」構造があるのかもしれません。 そしてその構造は、医療だけでなく、教育、福祉、政治にも通じるものです。

    患者本位とは、声なき声に耳を澄ますこと。 その耳を、誰が持ち、誰が閉ざしているのか——

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