Wabi-sabi is a beauty of things imperfect, impermanent, and incomplete.
It is a beauty of things modest and humble.
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Stranger Than Paradise (Jim Jarmusch)
Perfect Days (Wim Wenders)
Anthem (Leonard Cohen)
The birds they sang
at the break of day
Start again
I heard them say
Don’t dwell on what
has passed away
or what is yet to be.
Ah the wars they will
be fought again
The holy dove
She will be caught again
bought and sold
and bought again
the dove is never free.
Ring the bells that still can ring
Forget your perfect offering
There is a crack in everything
That’s how the light gets in.
Breaking Together (Jem Bendell)
If similar to myself, then you are still largely insulated from the increasing difficulties in the world. The daily reality we live is not one that either witnesses or feels, fully and constantly, the horrific suffering and destruction that is involved in producing our everyday comforts or our sense of safety and superiority. Therefore, we don’t experience any relief or even elation from knowing this system of destruction is being disrupted, will be reduced, and may even come to an end. If we fully felt the pain of our entanglement with that obscenity, we would be open to an openness and curiosity to that breaking down, including the instabilities, difficulties and hardships that will typify the rest of our lives. This does not mean we are against the industrial consumer societies that dominate humanity today or are even anti-civilization in our sentiment. It simply means that we are not only grieving their loss but we also do not see a useful role in trying to prop them up any longer. The multiple foundations of modern societies that are all breaking together, at the same time, mean we can choose for ourselves to be either breaking together or breaking apart. When I say ‘breaking together’ I mean allowing the breakdowns in our privileges, comforts, worldviews and identities, to allow a new openness for connection with people, nature and even the eternal. We can also allow this breaking to reconnect us with aspects of who we are that have been hidden under the social conditioning we’ve experienced since birth. We have tended to cling to the products of that conditioning, in order to feel safe, respected, capable and able to have fun in ways we already know. But we’ve got to let go and begin breaking together.
Mirror life (Kate Adamala)
All known life is homochiral. DNA and RNA are made from “righthanded” nucleotides, and proteins are made from “left-handed” amino acids. Driven by curiosity and plausible applications, some researchers had begun work toward creating lifeforms composed entirely of mirror-image biological molecules. Such mirror organisms would constitute a radical departure from known life, and their creation warrants careful consideration. The capability to create mirror life is likely at least a decade away and would require large investments and major technical advances; we thus have an opportunity to consider and preempt risks before they are realized.
It would grow persistently, and we would have no way of eating it [or] fighting it. So the consequences for the environment could be catastrophic.
Unless compelling evidence emerges that mirror life would not pose extraordinary dangers, we believe that mirror bacteria and other mirror organisms … should not be created.
(46)ヘルタ・ミュラー『澱み』
2024年11月1日(金)
言論の自由なんて じつは どこにもない
今週の書物/
『ヘルタ・ミュラー短編集 澱み』
ヘルタ・ミュラー 著、山本浩司 訳
三修社、2010年刊
偶然めぐりあう本というのは、思いのほか多い。今日取り上げる本も、そんな一冊。ある日の夕方、散歩の途中でトイレに行きたくなったときに、目の前にあらわれたのが、市の図書館。用事を済ませ、はじめに目に入ったのが、ヘルタ・ミュラーの『澱み』。表紙には「ヘルタ・ミュラー短編集」と書いてある。
目次を見ると「澱み」が全ページ数の半分ぐらいの 114ページを占めていて、残りの 18の短編は、2ページとか 3 ページとか 長くても 15ページとかと、どれも短い。興味を持って借りて帰り、家に着いてから ヘルタ・ミュラーのことを調べてみた。
ヘルタ・ミュラーは1953年にルーマニア西部のニツキドルフ (Nițchidorf) で生まれた。ニツキドルフからセルビア国境まで車で1時間もかからない。この地方は、第一次世界大戦まではオーストリア帝国領だったのが、ルーマニア・ハンガリー・セルビアの三カ国に分断統治された。
ヘルタ・ミュラーの先祖は18世紀にこの地方にやってきて、第一次世界大戦後もそこに残ったドイツ系ルーマニア人のシュワーベン人だ。シュワーベン人はルーマニアの統治下にあっても、民族的矜持を持ち、純血主義をつらぬき、独自のドイツ方言を母語としていた。
第二次世界大戦でルーマニアがドイツ側につき、シュワーベン人はソ連侵略の先兵にされ、戦争末期には連合国側についたルーマニア政府に見放され、ソ連軍によって多くの若者が強制収容所ラーゲリに連れてゆかれた。ヘルタ・ミュラーの父親はドイツ軍の武装親衛隊に動員され、母親はラーゲリ抑留の経験を持つ。
戦後、シュワーベン人はナチスの影響からドイツ系民族のアイデンティティを主張することが難しくなった。「故郷喪失の風景」とは、独裁によって故郷を追われたことと、故郷に対する矜持を持ち出すことが歴史的事実によって憚られることとを指し示している。
ヘルタ・ミュラーは、ティミショアラ大学でドイツ学とルーマニア文学を学んだのち金属工場で技術翻訳に携わるが、共産体制下の秘密警察・セクリタテアへの協力を拒否したため職を追われた。その後幼稚園の代用教員やドイツ語の私教師をしながら生活し、小説を書いた。
それが1982年に公表された短編集『澱み』だ。『澱み』は当時の多くの書物と同様検閲を受けて、大きく改竄されたものが出版されたが、後にドイツで未検閲のものが発表された。
1984年に体制への批判が危険視されて出版活動を禁じられ、1987年に夫と共にドイツに移住。1989年にルーマニア革命が起きてチャウシェスクが失脚したあともドイツに残り、今でもドイツで暮らしている。
『澱み』のなかで特に興味深いのが、検閲で削られた短編。そのひとつ、『意見(Die Meinung; The opinion)』という短編では、一匹のカエルという主人公(つまり著者)が組織からはじき出される様が描かれる。
自分の意見を持つことは悪いこと。みんなと同じ意見を持つのは(つまり意見を持たないのは)いいこと。みんなの意見は正しい意見。みんなと違う意見は間違った意見。そんななかで、主人公は、自分の意見を持ったために左遷され、消えてゆく。
上司は言う。「他人から受け継いだどんな意見も自分自身の意見なのだ」「自分自身の意見を持つためには、他人の意見を正しく我がものにするということが肝心なんだ」「そもそもどんな自分の意見であっても、自分の心にだけとどめておけば、いくらでも取り替えられるじゃないか」と。
著者がこういう目にあって、違う国に移り住まなければならなかったことを考えれば、この短編は重い。政府の言っていることと違うのは いけない。党の方針に従わないのは いけない。そんなふうにして、国や宗教、それに組織は、個人から自由を奪う。まるで 自由を奪うことが 私たちの本能であるかのように。
「著者」の話や「みんな」の話をしなくてもいい。「自分」について考えても、私たちはひとりひとり何がしかの不自由を感じて生きている。どの国にいても、どの組織に属していても、言いたいことが言えないという不自由を感じている。
だから、ヘルタ・ミュラーの極端なケースの話が、多くの人に読まれる。多くの人が不自由を感じている。
『世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)』 の 第19条 に、「すべて人は、意見及び表現の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」と書いてあっても、そんな権利を持っている人は実際には少ない。
日本の社会のなかで自分の考えを素直に言える人が どれだけいるだろう。韓国の社会では? 台湾では? 違うふうに考えて、東南アジアのどこに 自由にものが言える場所があるだろう? 中近東のどこで? アフリカのどこで? 中国にいて共産党と違うことが言える? ロシアでプーチンに、北朝鮮で金正恩に、逆らえる?
確かにヘルタ・ミュラーのケースは特殊かもしれない。いや、特殊だ。チャウシェスク政権の秘密警察に目を付けられて仕事を奪われ ルーマニアから逃れるなんていうことは、だれもが経験することではない。でも、言えないことの不自由は、世界中の人が感じているのではないか?
話を本に戻そう。表題作の長い短編『澱み』をはじめ、どの短編もつらい。そして悲しい。ヘルタ・ミュラーのまわりの抑圧された人々のことが描かれていると思うと、胸が締め付けられる。ユーモアすら(もしそれがユーモアだとしたらの話だが)つらく悲しい。
ひとつだけ、どうしてもわからない短編がある。『あの五月には(Damals im Mai)』だ。ヘルタ・ミュラーが2009年のノーベル文学賞を受賞したとき、理由として「故郷喪失の風景を濃縮した詩的言語と事実に即した散文で描いた」という説明が書かれていたが、『あの五月には』は「故郷喪失の風景を濃縮した詩的言語と事実に即した散文」なのだろうか?
『あの五月には』は「あの年の五月は何もかもが美しかった」という文章で始まる。そして「まずマス。いや、本物のマスはいなかった。しかし持ち合わせていた本のなかにニジマスが載っていた。姿が見えないマスたちが群れをなして泳ぎ回っていた」と続く。
はじめから最後まで、5ページにわたって、23のどの段落にも「美しい」という単語があらわれる。美しいといっても「貝の美しい白い実は苦痛にのたうちまわり」「酒場にたむろする老いた漁師たちは美しく落ちぶれ」という具合に 決して美しくはない。それでも、たとえ逆説的でも、それが皮肉であっても、「美しい」という単語が出てくるのだ。美しいと書けば書くほど、それは美しくないのだ。
『あの五月には』は、なんだかわからないのだけれど、すばらしい。わからないのに好きな文章なんて、はじめてだ。こんな文章を書くことのできるヘルタ・ミュラーが、絶望の文章を数多く書かなければならなかったのは、やはり悲しい。
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ここで見方を変えて、この短編集を、そしてヘルタ・ミュラーを見てみよう。
ヘルタ・ミュラーは故郷を美しく書かない。同胞を魅力的に書くこともしない。シュワーベンの人たちは強欲で、時に残忍で、アルコールに依存していたり、嘘をつき続けたりもする。ヘルタ・ミュラーは、子どもだった頃に見たままを書くのだ。
『シュワーベン風呂(Das schwäbische Bad)』がシュワーベンの人たちの目に触れたとき、つまり彼らが初めてヘルタ・ミュラーが書いたものに接したとき、彼らは心の底から怒った。と同時に、自分たちへの裏切りだと感じた。
『シュワーベン風呂』を掲載した新聞社には、編集長宛てに怒りの手紙が殺到した。ヘルタ・ミュラーは、はじめから、地元のみんなの敵だったのだ。
怒りの手紙に対するヘルタ・ミュラーの新聞紙上での返事がすごい。
私が書いたのは、まさにシュワーベンの人たちが感じたように、彼らを中傷する文章です。彼らはテキストの中に自分たちの姿を見たろうし、登場人物に自分の姿を重ね合わせた人も少なくないはずです。だからそんな人たちが侮辱、脅迫、匿名の手紙などといった反応を示すのは、ごく普通のことだと思います。文学が田舎を描けば、オーストリアでも、スイスでも、同じような反応が返ってくるのだと思っています。
火に油を注ぐとはまさにこのことだ。ヘルタ・ミュラーの小説が検閲を受けたり、一部削除されたのは、政治的な理由などではなく、書かれた人たちを守るためだったのではないか。
そう考えるとき、話は逆に見えてくる。『シュワーベン風呂』はとても短い。ページ数にして2ページ。段落も2つだけ。1つの長い段落でシュワーベンの家族がお湯を入れかえることなく代わるがわる風呂に入る。2つ目の(最後の)段落は、
シュワーベン人の家族はお風呂あがりには揃ってテレビの前に陣取ります。シュワーベン人の家族はお風呂あがりの「土曜映画劇場」を楽しみにしているのです。
という短いものだ。
シュワーベンの人たちが「自分たちが馬鹿にされた」と思ったのは、容易に想像できる。私がシュワーベン人だったら、検閲を支持するだろう。そればかりか、ヘルタ・ミュラーの本を全部燃やしてしまうだろう。
ヘルタ・ミュラーは2009年のノーベル文学賞を受賞したあと、2012年に莫言がノーベル文学賞を受賞したことについて「莫言氏は中国政府による検閲を称賛しており、授与決定は破滅的だ」と批判したという。私がシュワーベン人だったら「ミュラー氏は私たちマイノリティーの権利を蹂躙しており、授与決定は破滅的だ」と抗議しただろう。
ある人が素晴らしいと言ったとき、他の人は壊滅的だと言う。それが現実なのだろう。
(45)ニュートンプレス『人体』
2024年10月25日(金)
人体は ほんとうに よくできている
今週の書物/
『図だけでわかる! 人体』
坂井建雄 監修
ニュートンプレス、2024年刊
腎臓の皮質部分には、ネフロン(腎小体とそれに続く細尿管、Nephron)が200万個ほど存在していて、各ネフロンで濾過、再吸収、分泌、濃縮が行われ、原尿が作らるという。その話を聞いたとき、それをイメージできない私がいた。
人の脳には1000億以上の神経細胞があり、ひとつひとつの神経細胞には それぞれに 1万個ほどのシナプスがついている。そして その1000兆個のシナプスが絶え間なく情報伝達をおこなっている。そう聞いた時も、まったくイメージできなかった。
人体のなかには、想像もできないほど小さなファンクショナル・ユニットが、想像もできないほど たくさんあって、絶え間なく働き続けている。その小ささも、その数も、その連続性も、想像をはるかに越えている。
石川啄木は手を見て「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」と詠んだというが、いまぢっと手を見ると、皮膚の下の血管やら骨やら筋肉やらに思いが行く。
人体は不思議だ。生まれてから死ぬまで、絶え間なく動き続ける。そんなことを考えて、今週は、「人体」のことを説明した一冊を読む。『図だけでわかる! 人体』(坂井建雄 監修、ニュートンプレス、2024年刊)だ。先週に続き 科学雑誌の Newton(ニュートン)を出している ニュートンプレス が発行元で、監修者の名前は書いてあっても、著者の名前は書いてない。
タイトルの 図だけでわかる! というところが ミソ だ。イメージできないものを イメージするには 図に限る。しかも 1,320円(税込)と安い。
似たような本に『人体の構造と機能』(エレイン N. マリーブ著、林正健二 他 訳、医学書院、2015年刊、5,720円(税込))、2021年『カラー図解 人体の正常構造と機能』(坂井建雄・河原克雅 編集、日本医事新報社、2021年刊、19,800円(税込))などがあるが、どれも医学書で、病気を念頭に置き、病気を治すことを目的にしている。
ニュートンプレスの『人体』は、病気には触れていない。ニュートンらしく、あくまで科学の観点から本が作られている。ただ、ニュートンプレスは似たような本をたくさん出していて、『人体』は『ニュートン別冊 人体完全ガイド』 の焼き直し(というか、抜粋)と言えなくもない。
そんなことはともかく、本を開く。図が目に飛び込んでくる。図には「Step 1」「Step 2」「Step 3」と短く的確な説明がついている。小さなものも図のなかに描きこまないといけないから、図は正確ではない。文章も、簡潔にするなかで、大事なことが省かれしまっている。
でもこの本には、このような図とこのような文章が似合っている。読み手として医者を想定していないせいか、病気を治すとか、メスで手術をするとか、内視鏡で見るといった発想から完全に自由になっていて、骨とは何か、筋肉とは何か、皮膚とは何か、目とは、耳とは、鼻とは、舌とはということが、素人向けに書かれている。
呼吸や血液循環をになう「肺と心臓」の章では、全身に張りめぐらされた血管のことが細かく解説され、消化と吸収をささえる「胃や腸」の章では、肝臓や腎臓、生殖器のことも解説される。そして最後の 体をコントロールする「脳,神経,ホルモン」の章では、体調や免疫のことにまで話が及ぶ。
知らなかったことも多く、もっと知りたいと思わせる。読書が、ググるきっかけになる。そんな本だ。そういう意味では、きれいな図と簡潔な説明が、とても効果的だ。一冊の本で完結させるのではなく、インターネットへの入口という機能を持つことで、結果的にとても役に立つ本になっている。新しいアプローチの本だ。
地球上の海水に始まり 何十億年も続いた生物進化の果てにできた人体が 複雑なことは知っていたつもりでいたが、この本を読んだだけで、私の認識が間違っていたことに気づいた。
宗教とか思想とか政治とか科学とかが、人体のことをいろいろと説明してきたけれど、神が人間を作りだしたという宗教とか、進化論を盲目的に信じようという科学とか、人体はそんなものには説明できない素晴らしさを持っている。この本は、そう思わせてくれた。
(44)ニュートンプレス『無』
2024年10月18日(金)
数学の「無」、物理学の「無」
今週の書物/
『ニュートン式 超図解 最強に面白い!! 無』
和田純夫 監修
ニュートンプレス、2020年刊
「無」とか「空」とか「ゼロ」とかは、気にしだすと気になってしまう。「無」や「空」や「ゼロ」のことは、考えても仕方のないことで、考えても何の答えも出ない。
「無」と「空」と「ゼロ」は、時には同じ意味を持ち、時にはまったく違う意味を持つ。哲学の問題として考えているうちは楽しいが、仕事のなかに入ってくると その扱いは難しい。
昔、統計の仕事に関わったことがあって、その時の難題のひとつが「無」と「ゼロ」だった。まったく無い「ゼロ」、値が小さすぎて「ゼロとしか表示できない(Not zero, but less than half of the unit)」、マイナスの値が小さすぎて「ゼロとしか表示できない(Not zero, but negative and less than half of the unit)」、その他にも「該当しない(not applicable)」とか「入手不可能(not available)」なんていうのもあって、いろいろ苦労したのをよく覚えている。
数学で「ゼロ(0)」は特別だ。0 は最小の非負整数で、0 の後続の自然数は 1。0 より前に自然数は存在しない。0 が自然数なのかどうかは わからないが、0 は整数で、有理数で、実数で、複素数で、いやそんなことよりも、割れなかったり 特異点だったり、とにかく特別だ。
で今週は、数学や物理学においての「無」について書かれた一冊を読む。『ニュートン式 超図解 最強に面白い!! 無』(和田純夫 監修、ニュートンプレス、2020年刊)だ。科学雑誌の Newton(ニュートン)を出している ニュートンプレス が発行元で、監修者の名前は書いてあっても、著者の名前は書いてない。最後のページに見えないような小さな字で「Editotial Management 木村直之」「Editorial Staff 井手 亮」と書いてある。ニュートンプレス の社員が仕事の一環として書いただけで、社員は著者ではないと言いたいのだろうか。
まあそんなことはともかく、表紙に「数字の無ゼロから物理の無まで 無がわかる決定版!!」と書いてある通り、数学や物理の分野にしぼって「無」のことを解説している興味深い本ではある。
説明はやや乱暴だ。原子の動きがほぼとまったときが「絶対 0度」という温度の下限。電気抵抗がゼロ(無)の「超電導」でリニアモーターカーが走る。液体の粘り気がゼロになり 力を加えなくても スルリと通り抜ける「超流動現象」。質量ゼロの「光子」は 重力の影響を受けて 曲がる。大きさゼロに向かって縮んでいる「ブラックホール」は宇宙に 無数 存在していて、その近くでは速度がゼロに見える。そんなことが、自然界にある「無」の例として挙げられる。
また、「無」の空間には 何かが満ちているといって、「真空は 完全な無ではない」「宇宙空間は 私たちに見えない光で 満ちている」「光は 物質ではなく 真空の場をゆらして伝わる」「真空を埋めつくす何かが 素粒子にまとわりつく」「真空では 素粒子が生まれては消える」「陽子のなかは 混み合った真空状態」「陽子のなかは ほとんどからっぽ」「陽子のなかでは たくさんの仮想粒子が生じている」「からっぽの無の空間も 曲がったり 波打ったりする」「重力の正体は 時空のゆがみ」「無の空間でも 実態をもつ」「普通の物質をとりのぞいてもダークマターが残る」「ダークマターは 見ることができない」「真空には 宇宙を膨張させるエネルギーが満ちている」なんていうことを、次から次へと書き連ねる。
どのページを読んでも「そうなのかなあ」「そうとは思えないけど」「でも そうなんだろうなあ」というような よくわからない感想しか 持つことができない。それはまるで「この世は神が作り出した」とか「輪廻転生」といった話を聞いた時の感想だ。数学や物理学においての「無」についての本といいながら、アプローチは宗教そのものではないか。
最後の章の≪時空の「無」が宇宙を生んだ≫になると、宗教っぽさはより激しさを増す。「宇宙は 時間も空間もない 究極の無から生まれた」「時間をさかのぼると 宇宙空間は 特異点という 一つの点になってしまう」「10>-20以下の短い時間では 物質が ある ない という存在自体も定まらなくなる」「宇宙が 10-33cm よりも小さいときには 宇宙の存在自体がゆらいでいて 生成と消滅をくりかえしていた」というような説明は、にわかには受け入れられない。
「トンネル効果」の説明を読み、「小さな宇宙は 非常に高いエネルギーをもっている」「誕生直後の宇宙には 虚数時間が流れていた」「3次元空間の宇宙は 高次元空間に浮かぶ膜」というような 怪しい話 に付き合わされているうちに、我慢の限度を超え、私はこの本に対して敵愾心を抱く。
なんという本を読んでしまったのだろうという後悔と、物理学者の方々への憐憫の情とで、いっぱいになる。こんな荒唐無稽な理論を、ひとつひとつ「それは違う」といって否定していくのは、人生の無駄ではないか。この本を読んで、そんなことを考えた。本のなかの一つ一つの話は面白い。でも、この本を読んでも、無はわからない。少なくとも私には、物理の無はわからない。
優秀な人たちが物理学の分野に集まり、CERN (Conseil européen pour la recherche nucléaire, 欧州原子核研究機構) や ALMA (Atacama Large Millimeter/submillimeter Array, アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計) といった巨大研究施設が作られるようになると、物理学の知識の集積は膨大な量になる。
物理学の領域があまりにも大きく広がり、複雑になりすぎて、もう誰にも全体を把握することができない。理論物理学の考察を行なうために習得しなければならない数学的手法や既存の物理理論も膨大な量になり、メインストリームの理論をすべて理解している人など、ひとりもいない。
メインストリームの理論のなかでも、標準モデル(Standard Model)、量子複雑性理論(Quantum complexity theory)、量子色力学(Quantum chromodynamics)、物理宇宙論(Physical cosmology)、曲がった時空における量子場の理論(Quantum field theory in curved spacetime)といった分野では、日々定説が覆されている。
標準モデルひとつとっても、標準モデルは一般相対性理論と矛盾していて、ある条件下(例えば、ビッグバンのような既知の時空特異点や事象の地平線を越えたブラックホールの中心など)では、一方または両方の理論が破綻してしまう。多くの研究者たちがこの問題を解決したと言ってきたが、いまだにコンセンサスは得られていない。
あたりまえのことだが、物理学には 強い CP 問題(strong CP problem)、ニュートリノ質量(neutrino mass)、物質と反物質の非対称性(matter–antimatter asymmetry)、暗黒物質と暗黒エネルギーの性質(nature of dark matter and dark energy)など、わかっていないことが数多くある。
今回 取り上げた本は、数多くの わかっていないことについて、まるで わかったことのように書いている。いくら 門外漢のための本だからといって、というか門外漢のための本だからこそ、わからないことは いまだにわかっていないと 書くべきではないか。
わかっていないことについて考え 探求するのが物理だとするならば、いや 科学だとするならば、この本は科学的ではない。まるで受験参考書のように、答えはこれだよというような本の作りは、教育的ではあっても科学的ではない。もっとも、今の日本人が望んでいるのが この本のようなものだと言われれば、返す言葉はない。
断定的なものの言い方や、短絡的に答えを求めようとする態度が、社会を覆っている。考えることが嫌われる社会に、明日はない。
(43)Daniel Simons, Christopher Chabris『Nobody’s Fool』
2024年10月11日(金)
騙した男が悪いのか
今週の書物/
『Nobody’s Fool: Why We Get Taken In and What We Can Do about It』
Daniel Simons 著、Christopher Chabris 著
Basic Books (2023)
『全員“カモ”―「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』
ダニエル・シモンズ 著、クリストファー・チャブリス 著、児島 修 訳
東洋経済新報社、2024年刊
西田佐知子の『東京ブルース』は「泣いた女がバカなのか 騙した男が悪いのか」で始まる。騙したほうが悪いのか、騙されたほうが悪いのか。「所詮は勘違いと思い込みなのだから、どちらでもいいじゃないか」なんていうことを言う人が少なからずいる。
男女のことならば、それでもいい。でも詐欺や人権侵害なんかだと、そんなことを言ってはいられない。騙された人のことを「騙されやすい」とか「世間知らずだ」とか「無知だ」とか散々に言う人がいるが、なんだかんだ言っても、やっぱり騙したほうが悪い。
他人と関わるとき、私たちには「その人が言っていることは正しい」と思う傾向があり、それを疑うには努力と時間がかかる。だから、誰かが正しいことを言っていると思い、それが正しくない場合、大きな時間的プレッシャーがかかれば、正しくないことを簡単に受け入れてしまう。
広告業界のプロなどは、時間をかけて、私たちの認知習慣や情報に対する好み、私たちが惹かれるもの、日常生活で展開する思考パターンの弱点を悪用する方法を学んできている。地面師でなくても、そういう人たちが本気を出せば、騙すのは簡単だ。
人間はロボットではない。AI でもない。毎回同じ結果を出すわけではないし、いつも完璧に物事をこなすわけでもない。金融市場のような複雑な社会システムを前にすると、人間は理不尽な行動をとる。騙されるのも、理屈に合わない。
人々の記憶には時々矛盾が生じるけれど、必ずしも嘘をついているというわけではない。私たちの行動には、直感的に認識できるよりもはるかに多くのばらつきがある。一貫性があると思ったら大間違いだ。人間は論理的でないし、合理的でもない。
で、今週は、騙されることについて考える本を読む。『Nobody’s Fool: Why We Get Taken In and What We Can Do about It』(Daniel Simons 著、Christopher Chabris 著、Basic Books、2023年刊)だ。日本語訳も『全員“カモ”―「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』(ダニエル・シモンズ 著、クリストファー・チャブリス 著、児島 修 訳、東洋経済新報社、2024年刊)として出版されている。
「PART 1; HABITS」の 4つの章「Focus」「Prediction」「Commitment」「Efficiency」、「PART 2; HOOKS」の 4つの章「Consistency」「Familiarity」「Precision」「Potency」、そして「Conclusion: Somebody’s Fool」に至るまで、この本の言っていることは、すべて正しいように思える。引用は 第一線で活躍している人のものばかりだし、書かれていることにも おおむねうなずける。
それでも、どこか腑に落ちない。私たちは いつも、どんなときも、騙されないように身構えていなければならないのか? 目の前の人にも対しても、インターネットの先にいる人に対しても、相手が何か隠しているではないかと疑い、相手の痛いところを突かなければならないのか? それは、変ではないか?
どんなことも しっかり知り、それが事実かどうか確かめる。そんな大変なことを誰もがしなければならないなんて、現実的ではない。誰もそんな責任を負うことはできない。
Google で検索をしすぎると、あらゆる種類の怪しい情報にたどり着く。情報の真偽を認識するのは自分しかいない。それはわかる。でも、そんなことを いちいちチェックしていたら、一日は情報のチェックだけで過ぎてゆく。そんなのは、現実的ではない。
ワクチンを接種するかどうか、貯めてきたお金を投資にまわすかどうか、オンラインで知り合った人と恋愛関係を始めるかどうか。そういうことに慎重になれというのはわかる。でも、日々のことにひとつひとつについて 懐疑心を持ち続けろというのは、何か違う気がする。というか、残念ではないか。
詐欺に遭わないということが重要だからといって、それが今日の現実だからといって、誰のことも信じないで、何も信じないで、疑ってかかる。そんな考え方は嫌だ。
著者たちは「絶対に騙されるはずがない人たちが騙される」とか「私たち全員が詐欺の標的になりうる」といったことを繰り返し書く。そして、懐疑心を優先させろという。もっとも「そうすると、すべての社会的交流がひどいものになってしまう」と付け加えるのを忘れず、「いつ疑うべきかを知る必要がある」「それが本当に難しい」と続ける。
この本を最初から最後まで「そうだ、そうだ」と思いながら読んで、「うん?」と戸惑う。この本は、私たちが騙されやすい存在だということを、これでもかこれでもかという感じで、いろいろな側面から描き出している。
プロの手口のひとつが、慣れや親しみやすさ。慣れているものや親しみのあるものだと、私たちは警戒を緩める。長い間知っている人を信頼し、過去にうまくいったことと似ていれば うまくいくと思い込む。そう、私たちは騙されやすい。そうできている。
フェイクニュースは、私たちを満足させる。私たちがこうだったらいいなと願っていることや、私たちが起きてほしいと思っていることを、報道してくれる。ニュースがフェイクなのはわかっていて、それでもそれを信じる私たちがいる。
騙されやすいだけではない。騙されたい存在でもある。だから、「天皇陛下万歳」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」は、「民主主義を守る」「おもてなし日本」「個性の確立と尊重」に容易に生まれ変わり、誰も矛盾を感じない。
私たちは 皆 弱い人間だ。しかも 皆 考える時間すら持てないくらい忙しい。この本が描いているように、私たちは影響されやすく、何も知らないのに知っていると思い込んでいる不完全な存在だ。情緒的で、判断を誤る。根拠なく自信に満ちている。
一貫性のない私たちに 一貫性を持てというのは酷だ。私たちの予測は外れ、想定外のことが起き、期待は裏切られる。
まともに見えるこの本も、嘘に満ちている。多くの読者は、ダニエル・シモンズとクリストファー・チャブリスが書いたことに騙され、読んで少しは利口になったと思う。この本を読んだからといって、騙されやすかった人が 騙されなくなるわけではない。
人は いとも簡単に操られる。そのことが書かれていると思えば、悪い本ではない。ただ、今の社会で、どんな人たちが、どんな人たちを、どういう目的で、どうやって騙すのかを書いてくれなければ、フェアではない。そういうことが書かれた嘘のない本を読みたいと心から思う。