2024年8月23日(金)
見られるための日記
今週の書物/
『鍵』
谷崎潤一郎 著
中央公論社、1957年刊
代々木に『手帳類図書室』なるものがあるという。日記や手帳の目録に、書いた人の年齢、性別、職業、書かれた時期、読みどころ、持ち込まれた経緯などが書かれていて、気になったものを一度に3冊まで持ってきてもらい、読むという仕組みらしい。読みながら感じる後ろめたさは相当なものだという。
他人に見せることなど考えずに書かれたものには、遠慮や忖度がない。日記や手帳を読んで、書いた人のことを想像するのが楽しい人もいるだろう。ただ、覗き見るのが楽しいからといってむやみに覗き見をすれば、犯罪になってしまう。
イギリスの俳優 アラン・リックマン(Alan Rickman)の日記『Madly, Deeply: The Alan Rickman Diaries』(Alan Rickman著、Canongate Books、2022年刊)が出版され話題になったのは記憶に新しい。日記という私的なものが公開され出版されれば、日記のなかに書かれた人たちに思いもよらぬ影響が及ぶ。
「ニルヴァーナ」のカート・コバーンの日記『Kurt Cobain: Journals』(Kurt Cobain著、Penguin、2003年刊)の出版の時もそうだったのだが、未亡人が「亡き夫のことをもっとよく知ってほしい」などと思ってしまえば、有名人の日記は公開され出版されてしまう。
当の本人が望まなかったとしても、もう死んでしまっているので何も言えず、出版関係者が儲け話をみすみす逃すわけもなく、そこに書かれている人たちへの影響など考えられることもなく、すべてが皆に知られてしまう。
日記の出版は、ある意味、犯罪だ。そう思ってみたものの、そもそも日記が「読まれないこと」を前提に書かれたものなのかという疑問に突き当たる。覗き見て秘密を知りたい人もいれば、秘密を覗き見られたいという人もいるのではないか。
で今週は、そんな日記のことを考えさせられる小説を味わう。『鍵』(谷崎潤一郎 著、中央公論社、1957年刊)だ。
「漢字とカタカナで書かれた夫の日記」と「漢字とひらがなで書かれた妻の日記」が交互にあらわれることで物語が進んでゆく。ひとつの段落が長く、漢字とカタカナの夫の日記は《「(コト)》などという表記もあって読みにくいのだが、それでも書かれてあることが面白く、先へ先へと読み進む。
夫は妻への思いを日記に書き、それを机のなかにしまい、鍵をかける。それでいて、妻に見て欲しい気持ちもある。妻は、夫を半分は激しく嫌い、半分は激しく愛している。その妻も日記を書いているが、夫に読まれることを恐れている。
はじめのほうの妻の日記の一部を引用するだけで、ねじれた心がわかるだろう。
三ガ日の間書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしにはいったら、あの水仙の活けてある一輪挿しの載っている書棚の前に鍵が落ちていた。それは全く何でもないことなのかも知れない。でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落しておいたとは考えられない。夫は実に用心深い人なのだから。そして長年の間毎日日記をつけていながら、かつて一度もあの鍵を落したことなんかなかったのだから。………私はもちろん夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけていることも、そしてその鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨緞の下に隠していることも、とうの昔から知っている。しかし私は知ってよいことと知ってはならないこととの区別は知っている。私が知っているのはあの日記帳の所在と、鍵の隠し場所だけである。決して私は日記帳の中を開けて見たりなんかしたことはない。だのに心外なことには、生来疑い深い夫はわざわざあれに鍵をかけたりその鍵を隠したりしなければ、安心がならなかったのであるらしい。………その夫が今日その鍵をあんな所に落して行ったのはなぜであろうか。何か心境の変化が起って、私に日記を読ませる必要を生じたのであろうか。そして、正面から私に読めと云っても読もうとしないであろうことを察して、「読みたければ内証で読め、ここに鍵がある」と云っているのではなかろうか。そうだとすれば、夫は私がとうの昔から鍵の所在を知っていたことを、知らずにいたということになるのだろうか? いや、そうではなく、「お前が内証で読むことを僕も今日から内証で認める、認めて認めないふりをしていてやる」というのだろうか?
人はなかなか本当のことを言わないし、また書かない。ただ日記のなかには。他人に言えないことを書く。ところが、それが読まれると思えば、書くことはゲームの一部になる。
日記のなかには、夫と妻の他に、夫婦の娘と夫の後輩が出てくるのだが、夫は妻のことだけが、妻は夫のことだけが気にかかっていて、娘や後輩は、夫婦のためにいるかのようだ。
終わりのほう妻の日記の気になったところも引用しておく。
夫は二月二十七日に、「ヤッパリ推察通リダッタ。妻ハ日記ヲツケテイタノダ」と云い、「数日前ニウスウス気ガ付イタ」と云っているけれども、実際はよほど前からハッキリと知っており、かつ内容を盗み読みしていたものと思う。私もまた、「自分が日記をつけていることを夫に感づかれるようなヘマはやらない」―――「私のように心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向って語って聞かせる必要がある」―――などと云っているのは、真赤な嘘である。私は夫に、私には内証で読んで貰うことを欲していた。「自分自身に向って聞かせ」たかったことも事実であるが、夫にも読ませることを目的の一つとして書いていた。では何のために音のしない雁皮紙を使ったり、セロファンテープで封をしたりしたかといえば、用もないのにそういう秘密主義を取るのが生来の趣味であったのだ、というよりほかはない。この秘密主義は、私のことをそう云って嗤う夫にしても同様であった。夫も私も、互いに盗み読まれることは分っていながら、途中にいくつもの堰を設け、障壁を作って、できるだけ廻りくどくする、そして、相手が果して標的へ到達したかどうかを曖昧にする、それが私たちの趣味であった。私が面倒な手数を厭わずセロファンテープ等を使ったのは、自分だけでなく、夫の趣味に迎合するためでもあった。
この夫婦は、似ていないようで似ている。不思議なことに、同じゲームのなかにいる。夫は日記に自分の欲望を書いてそれを妻に覗き見されることを願い、妻は妻で日記に夫の期待に添うというようなことを書く。それはまるでお互いをけん制し合うかのようで、普通ではない。谷崎潤一郎と松子夫人の関係はいったいどんなだったのだろう。そんな想像をするとき、読者は谷崎潤一郎の手のなかに落ちている。
谷崎潤一郎の最後まで読者を離さない技量には恐れ入る。たとえ女の気持ちがうまく書けてないとしても、男から見た妄想のなかの女はうまく書けている。でもそれにしても 変な作家の 変な作品だと 心から思った。
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追記: 余計なことだが、私は『陰翳禮讚』や『文章読本』のような作品が好きだ。そこで描かれるな美や美意識に惹かれて好きになった。ところが谷崎潤一郎の他の作品を読んでみると、その多くは松子と出会ってから育まれた歪んだ美や美意識で貫かれていて、どうも好きになれない。『鍵』もそのなかのひとつだ。ただ不思議なことに、好きになれないのに引き込まれてしまう。何度も最後まで読んでしまう。なんとも厄介な作品に出合ったものだ。