地球上の人口は増え続けるのか?
地球上の人口は、これからも増え続けるのだろうか。インターネット上には、さまざまな予測があふれている。
2050年には100億人に近づく。2100年まで増え続ける。2060年ごろを境に急激に減り始める。あるいは、2040年にはすでに減少に転じ、2100年には40億人にまで減る。
これほど予測に幅があるのだから、どれを信じればよいのかわからない。競馬の予想が外れ、経済予測が外れるように、人口予測もまた外れるのかもしれない。
それでも、多くの国で出生率が低下しているという大きな流れは無視できない。地球上の人口がいつ減少に転じるのかはわからない。しかし、人口が永遠に増え続けると考えるほうが、むしろ難しくなってきている。
そして本当に考えてみたいのは、その先である。
人口は、減り始めたら自然に止まるのだろうか。それとも、減少そのものが次の減少を生み、坂道を転がるように減り続けていくのだろうか。
地球上の人口は増えたほうがいいのか、減ったほうがいいのか
では、地球上の人口は増えたほうがいいのだろうか。それとも、減ったほうがいいのだろうか。
人口が増えることを、私たちは長いあいだ、どこかで「良いこと」だと思ってきたように思う。人口が増えれば、働く人が増える。ものを買う人も増える。家が建ち、町が広がり、企業が成長し、税収も増える。少なくとも近代の経済社会は、人口の増加と経済の成長を、ごく自然に結びつけて考えてきた。
だから人口が減り始めると、急に心配になる。働く人が足りなくなる。高齢者を支える人が少なくなる。市場が縮小する。地方の町が消えていく。国の力が弱くなる。人口減少について語られるとき、「減ることによって何を失うのか」がまず問題になる。
しかし、少し離れて考えてみると、不思議でもある。
なぜ人口は、増え続けなければならないのだろう。地球の大きさは変わらない。農地にも、水にも、森林にも、海にも限りがある。その限られた地球の上で、人間だけが増え続けることを当然の前提にしてよいのだろうか。
人が少なくなれば、一人あたりに使える空間は増えるかもしれない。住宅を際限なく建て続ける必要もなくなるかもしれない。森林を切り開き、海岸を埋め立て、山を削り、新しい道路や都市を造り続ける圧力も弱くなるかもしれない。人間以外の生き物が生きる場所を、少しは返すことができるかもしれない。
そう考えると、人口が減ることそのものを「悪いこと」と決めつける理由はない。しかし、だからといって、人口が少なければ少ないほどよいということにもならない。
人口があまりに急激に減れば、社会を維持することが難しくなる。病院や学校、交通や上下水道のような仕組みは、ある程度の人がいることを前提としてつくられている。人口減少の問題は、単に「人間の数が少なくなる」ことではなく、人口が増えることを前提につくられてきた社会の仕組みが、その変化についていけないことにあるのかもしれない。
だとすれば、本当に問うべきなのは、
「人口は増えたほうがいいのか、減ったほうがいいのか」ではないのかもしれない。
増えなければ維持できない社会とは、いったいどのような社会なのだろう。人口が増えなければ経済が成長しない。経済が成長しなければ社会保障を維持できない。若い人が増えなければ高齢者を支えられない。そのため、もっと子どもを産んでもらわなければならない。
もしそうだとすれば、奇妙な循環が生まれる。
社会を維持するために、次の世代を増やし続けなければならない。
しかし、その次の世代が年を取れば、さらにその世代を支える次の世代が必要になる。
いつまで続けるのだろう。人口100億人で足りなければ、110億人にするのだろうか。110億人を維持するために、さらに次の世代を増やすのだろうか。
そこで初めて、人口減少は別の顔を見せ始める。人口が減ることは、文明の失敗なのだろうか。
それとも、増え続けなければ成り立たない文明のほうに、どこか無理があったのだろうか。
なぜ人口は急激に増えたのか
では、そもそも、なぜ地球上の人口はこれほどまでに増えたのだろう。
人間は、もともと増え続けることのできる生き物ではなかった。子どもはたくさん生まれた。しかし、その多くが大人になる前に死んだ。大人になっても、病気や飢饉、怪我や感染症によって命を失った。たくさん生まれ、たくさん死ぬ。その繰り返しのなかで、人間の数は長いあいだ、それほど急激には増えなかった。
ところが、ある時から、この均衡が崩れ始める。農業生産が増え、食料が以前より安定して供給されるようになる。衛生環境が改善され、医学が発達し、感染症によって命を落とす人が減っていく。乳幼児の死亡も減り、それまでなら生き残れなかった人たちが生き残るようになる。
まず「死ぬ人」が減ったのである。
ところが、「生まれる人」はすぐには減らなかった。
ここに時間差が生まれた。
人口学でいう人口転換の重要な部分はここにある。死亡率が先に低下し、出生率はしばらく高いまま残る。そのため、生まれてくる人の数が亡くなる人の数を大きく上回り、人口が急速に増えていく。
考えてみれば、人類の人口爆発は、「人間が突然たくさん子どもを産むようになった」ために起こったのではない。
むしろ逆だった。
人間が死ななくなったのである。
もちろん、死ななくなったわけではない。以前より長く生きられるようになり、とりわけ幼くして死ぬ人が少なくなったということである。
これは、人類にとって途方もない成功だったはずである。病気になった人を治療する。子どもを死なせない。飢えている人に食べ物を届ける。安全な水をつくる。下水道を整備する。感染症を防ぐ。
その一つひとつに、「人口を爆発的に増やそう」という目的があったわけではない。目の前にいる人を死なせたくない。
ただ、それだけだったのではないだろうか。
ところが、その小さな成功が何億回、何十億回と積み重なると、まったく別の現象が起こった。
地球上の人間の数が、猛烈な勢いで増え始めたのである。実際、世界人口の増加は20世紀後半に歴史的に前例のない速さに達した。
そう考えると、人口爆発という言葉には少し奇妙なところがある。それは人類が計画した「爆発」ではなかった。
一人ひとりの命を救おうとしたことの集積が、結果として人口を増加させた。そして、その後になって出生率が下がり始める。子どもが以前ほど死ななくなれば、たくさんの子どもを持つ必要も小さくなる。社会や経済の構造も変わり、女性の社会的な立場も変化していく。そうした複数の変化とともに出生率は低下し、人口増加の速度も落ちていく。
すると、人口の急増は、人類の歴史のなかの永続的な状態ではなく、ある均衡から別の均衡へ移る途中で起きた、一時的な現象だったのかもしれない。
かつては、たくさん生まれ、たくさん死んだ。やがて、たくさん生まれ、あまり死ななくなった。
そして今、多くの社会では、あまり生まれず、長く生きるようになった。もしそうなら、人口が減少へ向かうことも、人類の異常事態とは限らない。
むしろ不思議なのは、人口が減ることではなく、わずか数世紀のあいだに、人間の数がこれほどまでに増えたことのほうなのではないだろうか。
戦争や疫病や災害は人口を減らさない
戦争が起これば、人口は減る。そう考えるのは自然なことだ。しかし、本当にそうなのだろうか。
20世紀には、二度の世界大戦をはじめ、数え切れないほどの戦争があった。膨大な数の人が殺された。それでも20世紀全体を振り返ってみれば、世界人口の増加そのものは止まらなかった。
疫病についても同じようなことが言える。1918年から世界を襲ったスペイン風邪は、人類史上でも特に致命的なパンデミックの一つだった。死亡者数にはかなり幅のある推計が残されているが、世界規模で甚大な被害をもたらしたことは間違いない。
それでも、それによって人類の人口増加そのものが終わったわけではなかった。災害はどうだろう。
大地震や津波、洪水などによって、一つの町や地域から一瞬にして多くの人が失われることがある。当然、その土地の人口は大きな打撃を受ける。さらに災害は死亡だけでなく、その後の出生や移住にも影響を与える。
それでも、世界全体という長い時間軸から眺めると、戦争も疫病も災害も、人類の人口を増加から減少へと恒久的に反転させる力にはならなかった。
ここには、少し不思議なことがある。
私たちは人口減少というと、つい「人がたくさん死ぬこと」を想像する。しかし、人口が長期的に減るために、必ずしも大量の人が突然死ぬ必要はない。
生まれてくる人が、少なくなればいい。
戦争は人を殺す。疫病も人を殺す。災害も人を殺す。けれど、それらによる大量死が終われば、人口を増やしてきた仕組みそのものが残っているかぎり、再び人口は増えることができる。
ところが出生数の減少は、それとは性質が違う。生まれなかった人は、どこにも存在しない。
死者が残す空席とは違って、最初からそこには誰もいない。そして、その「いない人」からは、次の世代も生まれない。
だから人口減少というものは、ひょっとすると戦争や疫病よりも静かで、それでいてはるかに長い時間をかけて作用する現象なのかもしれない。
銃声も聞こえない。病院が患者であふれることもない。町が一夜にして破壊されることもない。
ただ、子どもが一人生まれない。翌年も一人生まれない。
それが何百万、何千万という家族で起こり、それが一世代、二世代と続いていく。戦争でも、疫病でも、災害でも終わることのなかった人口増加が、なぜ今、静かに終わろうとしているのだろう。
「増えたものは、いつか減るものだ」と言ってしまえば簡単である。しかし、そんな単純なことではないはずだ。
人口を増やしたのも、人間だった。人口を減らし始めたのも、人間である。
しかし、どちらも人類がそうしようと決めて始めたことではない。
だとすれば、次に考えなければならないのは、もっと奇妙な問いなのかもしれない。
人間は、なぜ子どもを産まなくなったのだろう。
地球上の人口減少が、一人ひとりの生活をよくする
人間は、なぜ子どもを産まなくなったのだろう。この問いを考える前に、もう一つ考えてみたいことがある。
人口が減るということは、本当に悪いことなのだろうか。
人口が急速に増える社会では、増え続ける人々に食料を供給し、住宅を用意し、学校を建て、病院をつくり、仕事を生み出し続けなければならない。
昨日より多くのものを、今日つくらなければならない。そして今日より多くのものを、明日つくらなければならない。
それができなければ、一人ひとりに行き渡るものが少なくなってしまう。もちろん、人口が増えれば必ず貧しくなるわけではない。社会が豊かになり、生産性が高まり、人口以上の速さで富が増えれば、一人ひとりの暮らしを豊かにすることはできる。
しかし、人口増加の速さに経済や社会の整備が追いつかなければ、事情は違ってくる。
学校をつくっても足りない。教師を増やしても足りない。病院をつくっても足りない。住宅をつくっても足りない。仕事をつくっても足りない。
国の予算には限りがある。十人の子どもを教育するのと、百人の子どもを教育するのとでは、一人の子どもに使えるものが違ってくる。それは家庭についても同じである。
子どもの数が多ければ、食費も、衣服も、住居も、教育も、医療も必要になる。実際、子どもは食料、衣服、住宅、教育、医療、そして親の時間を必要とし、出生率の低下によって、それらの資源を別の用途に振り向けられる可能性が生まれる。
そう考えると、出生率が下がるということには、これまで人口減少について語られるときにはあまり強調されてこなかった、もう一つの側面が見えてくる。
一人に、より多くを使えるようになる。
一人の子どもに、よりよい教育を与えることができる。一人の患者に、よりよい医療を提供できるかもしれない。
一人ひとりの女性が、子どもを産み育てることだけによって人生を規定されず、自分の教育や仕事や生活について選択できる余地も広がるかもしれない。
家族についても同じことである。扶養する子どもの数が減れば、家計の資源を一人ひとりに多く配分できる可能性が生まれる。そして社会全体で見れば、働く世代に対する子どもの割合が低下する時期には、経済成長や一人あたり所得の向上につながる条件が生まれる。人口学では、これを「人口ボーナス」と呼んでいる。
しかし、人口ボーナスは、人口が減れば自動的にもらえる贈り物ではない。
子どもの数が減っても、その子どもたちに十分な教育を与えなければ何も変わらない。健康でなければならない。働く場所がなければならない。女性にも男性にも、能力を生かして働く機会がなければならない。
つまり、「人が少なくなること」そのものが社会を豊かにするのではなく、人が少なくなることで、一人ひとりにより多くを使うことのできる余地が生まれるのである。
この違いは大きい。
これまでの社会では、人が増えることによって国が豊かになると考えてきた。働く人が増える。税金を払う人が増える。ものを買う人が増える。企業の市場が大きくなる。だから人口が増えることを「成長」と呼んできた。
けれども、別の成長の仕方があるのかもしれない。
人の数を増やすのではなく、一人あたりに使うものを増やす。
百人を最低限の教育で社会に送り出すのではなく、五十人に十分な教育を与える。できるだけ多くの労働者をつくるのではなく、一人ひとりが自分の能力を十分に使えるようにする。
人口を増やすことで社会を豊かにするのではなく、一人ひとりを豊かにすることによって社会を豊かにする。
もちろん、それにも限界がある。
出生率が下がり続ければ、やがて高齢者の割合が増え、今度は別の扶養負担が大きくなる。出生率低下によって最初は扶養人口比率が下がっても、人口高齢化が進めば、その効果は反転し得る。
だから、人口は減れば減るほどよい、という話でもない。それでも、人口減少を「国力の衰退」「経済の縮小」「働き手の不足」とだけ見る必要もないのではないだろうか。
もっと違う見方ができる。
人口減少とは、人間の数を増やすことから、一人の人間により多くを与えることへと、社会の目的を変える機会なのかもしれない。
そして、ここまで来ると、先ほどの問いがもう一度戻ってくる。人間は、なぜ子どもを産まなくなったのだろう。
もしかすると、人間は貧しくなったから子どもを産まなくなったのではない。
一人の人間に、より多くの時間を、より多くの教育を、より多くの自由を、より多くの人生を与えようとする社会になったから、たくさんの子どもを持つことが難しくなったのではないだろうか。
地球上の人口減少が、気候危機を終わらせる
人口が減ることによって、一人ひとりにより多くのものを与えることができるようになる。では、人間以外のものにとってはどうなのだろう。
人口が増えれば、それだけ多くの食料が必要になる。住宅が必要になる。道路が必要になる。電気が必要になり、水が必要になり、鉄が必要になり、木材が必要になる。
人間が生きるということは、地球から何かを使うということでもある。もちろん、人間が一人生まれれば、その分だけ決まった量のCO₂が排出されるわけではない。
どのような社会に生まれるのかによって、その人が生涯に使うエネルギーも資源もまったく違う。同じ一人の人間でも、どのような家に住み、何を食べ、どれだけ移動し、何を消費し、その社会がエネルギーを何からつくっているかによって、環境への負荷は大きく違ってくる。
それでも、人間の数が増えることが、環境への圧力の一つになってきたことは否定できない。IPCCも、人口増加と一人あたりGDPの増加を、化石燃料燃焼によるCO₂排出増加の強い要因として挙げている。
人が増えれば食料が必要になる。食料をつくるために土地が必要になる。
町が大きくなれば、そのための土地が必要になる。さらに鉱物を掘り、木を伐り、水を使い、エネルギーをつくらなければならない。
そうして人間は、自分たちが生きる空間を広げ続けてきた。しかし、ここで少し立ち止まってみると、奇妙なことに気づく。
「人間が生きる空間を広げる」というのは、人間の側から見た言い方にすぎない。
森から見れば、それは森が失われることである。そこに棲んでいた動物から見れば、生息地が失われることである。
川から見れば、水を取られることである。山から見れば、削られることである。
地下に眠っていた鉱物から見れば、人間によって掘り出されることである。自然環境の変化は、気候変動だけで説明できるものでもない。土地や海の利用の変化、天然資源の利用、汚染、気候変動などが、生物多様性や生態系を変化させている。
だとすれば、人口が減ることには、もう一つの意味があるのかもしれない。
人間が占めていた場所を、少しずつ人間以外のものに返すことができる。
使われなくなった農地が森に戻るかもしれない。新しい住宅地を造らなくてもよくなるかもしれない。
道路をさらに延ばさなくてもよくなるかもしれない。もっと多くの食料を生産するために、新しい土地を人間の領域へ取り込む必要も小さくなるかもしれない。
人口が減れば、一人あたりの消費が変わらなくても、人口増加によって環境負荷が押し上げられる力は弱くなる。
しかし、それだけでは気候危機は終わらない。
人口が半分になっても、一人ひとりが今までの二倍の資源を使うようになれば、問題は単純には解決しない。反対に、人口がすぐには減らなくても、使うエネルギーの種類や消費の仕方が変われば、環境への負荷を小さくすることはできる。
人口は、気候危機を決める唯一の数字ではない。
人口 × 一人あたりの消費 × それを支える技術とエネルギー。
そのすべてが問題なのである。IPCCの分析でも、人口だけでなく所得、エネルギー効率、エネルギーの炭素強度といった要因が排出量の変化に関係している。
だから、「人口が減れば気候危機が終わる」というのは、正確には言い過ぎなのだろう。それでも人口減少は、人類にこれまでとは違う選択肢を与えるかもしれない。
もっと土地を使わなければならない、もっと食料をつくらなければならない、もっとエネルギーをつくらなければならない、もっと住宅を建てなければならないという、「もっと、もっと」という圧力を弱めることができる。
そして、ここで人口問題は、少し人間から離れていく。これまで私たちは、人口が増えるか減るかを、人間にとって良いか悪いかという尺度で考えてきた。
経済はどうなるのか。年金はどうなるのか。
医療はどうなるのか。教育はどうなるのか。
一人ひとりは豊かになるのか。しかし、地球には人間だけが住んでいるわけではない。
人口が減ることによって空いた場所を、別の人間が使う必要はない。森に返してもいい。
湿地に返してもいい。動物に返してもいい。
あるいは、誰の役にも立たない場所として、ただそこに残しておいてもいい。人口減少に本当に大きな意味があるとすれば、それはCO₂の数字を減らすことだけではないのかもしれない。
人間が地球を使い尽くそうとする圧力そのものを、初めて弱めることができる。
そうなったとき、気候危機を「人間がどうやって地球を管理するか」という問題として考える必要さえ、少しずつなくなっていくのかもしれない。
地球は、人間が維持してやらなければ存在できないものではない。ひょっとすると必要なのは、人間が地球を救うことではなく、
人間が少し、地球から退くことなのかもしれない。
そもそも地球は人間のための場所なのか
人間が少し、地球から退く。そんなことを考えているうちに、もっと根本的な疑問が出てくる。
そもそも地球は、人間のための場所なのだろうか。
私たちは、ごく自然に「地球環境を守る」という言葉を使う。気候変動を止めなければならない。森林を守らなければならない。海をきれいにしなければならない。絶滅しそうな動物を守らなければならない。
しかし、その「守る」という言葉には、どこか不思議なところがある。
地球は、人間に守ってもらわなければ存在できないものなのだろうか。
森林は、人間が管理しなければ森でいられないのだろうか。
海は、人間が保全しなければ海ではいられないのだろうか。
もちろん、いま人間が壊してしまった自然については、人間にはそれを壊さない責任も、可能なところでは回復させる責任もあるだろう。
けれども、それとは別の問いがある。
自然は、そもそも人間のために存在しているのか。
私たちは森を見ると、そこにどれだけの木材があるかを考える。川を見れば、水資源と呼ぶ。海を見れば、水産資源と呼ぶ。山の地下にあるものを地下資源と呼び、土地を農地、宅地、工業用地などに分けていく。
「資源」という言葉そのものが興味深い。石油は、地中にあるだけなら石油である。人間がそれを掘り出し、燃料として利用しようとしたとき、それは「資源」になる。
森も、そのままなら森である。しかし人間の目を通すと、木材資源になり、水源涵養林になり、観光資源になり、炭素を吸収してくれる場所になる。
自然に意味を与えているようでいて、その意味のほとんどが、いつの間にか**「人間の役に立つかどうか」**によって決められている。
動物についてさえ同じである。人間に食べられる動物。
人間の役に立つ動物。人間に害を与える動物。
人間に愛される動物。絶滅してはいけない動物。
駆除してもよい動物。そうやって人間は、ほかの生き物の価値まで、人間との関係のなかで分類してきた。
しかし、鹿は人間のために鹿でいるのではない。
鳥は人間に美しい声を聞かせるために鳴いているわけではない。森も、人間に酸素を供給するために森になったわけではない。
海も、人間に魚を提供するために存在しているのではない。そう考えると、「地球を守る」という言葉さえ少し違って聞こえてくる。
人間が守ろうとしているのは、地球そのものなのだろうか。
それとも、人間が住み続けることのできる地球なのだろうか。
この二つは、似ているようで、同じではない。気候危機が問題なのも、海面が上昇するからであり、農業が難しくなるからであり、異常気象による被害が増えるからであり、人間社会の維持が困難になるからだと説明されることが多い。
それは当然である。
人間なのだから、人間のことを心配する。けれども、それだけなのだろうか。
人間が住みにくくなるから森を守るのではなく、森が森であることに、人間とは関係のない意味があるとは考えられないだろうか。
動物が人間に役立つから絶滅させてはいけないのではなく、その動物が生きているということ自体を、そのまま認めることはできないだろうか。
そして、ここで人口減少の話に戻ってくる。人口が減れば、一人あたりの生活が豊かになる。
人口が減れば、教育や医療により多くのものを振り向けられる。人口が減れば、環境への圧力を小さくできる。
ここまでは、まだ人間の話だった。
しかし、人口が減ることには、それとは別の意味があるのかもしれない。
人間のために使われない場所を増やすことができる。
そこには家を建てなくてよい。畑にしなくてよい。
道路を通さなくてよい。観光地にしなくてよい。
発電に使わなくてよい。「自然公園」にして人間が管理する必要さえないかもしれない。
ただ、そこに残しておく。
森が森になりたい方向へ変わっていく。川が流れたいところへ流れていく。
草が生え、虫が生まれ、それを鳥が食べ、動物が戻ってくる。そして、人間にとって役に立つかどうかとは関係なく、それぞれがそこにいる。
考えてみれば、人間という生き物は、長いあいだ逆のことをしてきた。森を畑にした。
湿地を乾かした。川をまっすぐにした。
動物を家畜にした。植物を作物にした。
山を削った。そして、それらを「開発」と呼んだ。
地球を少しずつ、人間にとって都合のよい場所に変えてきた。その結果として人口が増え、その人口を養うために、さらに多くの自然を人間のための場所に変えてきた。
そこには、どこか循環がある。
地球を人間向けにつくり変えたから人間が増え、人間が増えたから、さらに地球を人間向けにつくり変えた。
もし人口が本当に減り始めるのなら、その循環が初めて逆向きに回る可能性が生まれる。それを「人間が自然を再生する」と呼ぶ必要はないのかもしれない。
人間が自然をつくるのではない。人間が、少し手を引く。
人間が決めない。人間が利用しない。
人間が管理しない場所を残す。それだけで、その後に何が起こるかを決めるのは、人間ではなくなっていく。
そう考えると、人口減少を「人類の衰退」と呼ぶことにも、少し違和感を覚える。確かに、人間だけを見れば、減っている。
しかし、人間が退いた場所に森が戻り、草が生え、虫が増え、鳥や動物が戻ってくるのなら、それを地球全体の「衰退」と呼ぶことができるだろうか。
人間が減ることと、地球が貧しくなることは、同じではない。
もしかすると、その反対であることさえある。地球は人間のものではない。
だから、人間が地球を救う必要もない。ただ、人間が地球のすべてを使わなくてもよい。
すべての土地に目的を与えなくてもよい。すべての森を管理しなくてもよい。
すべての生き物に、人間にとっての価値を与えなくてもよい。そして、人口が減っていくという、これまで人間が恐れてきた出来事は、ひょっとすると初めて、
地球のなかに、人間のためではない場所を返していく機会になるのかもしれない。
人口減少を心配する必要はない
地球のなかに、人間のためではない場所を返していく。そんなことを言っても、日本の地方で町や村を運営している人にとっては、ずいぶん悠長な話に聞こえるかもしれない。
目の前では子どもが減っている。学校がなくなる。
商店がなくなる。バスが走らなくなる。
病院を維持することが難しくなる。空き家が増え、税収が減り、役場を維持することさえ難しくなっていく。
そうした現実を前にすれば、「人口を増やさなければならない」と考えるのは当然なのだろう。
だから、出生率を上げなければならないという話になる。子育て支援を増やす。保育所を充実させる。若い人を地方に呼び戻す。移住者を増やす。結婚を支援する。
そして、それでも人口が減り続けると、
「もっと頑張らなければならない」
ということになる。しかし、ここで一度、反対のことを考えてみてもよいのではないだろうか。
本当に、人口を増やさなければならないのだろうか。
もちろん、子どもを持ちたい人が、経済的な理由や仕事の事情によって子どもを持つことをあきらめなければならない社会は、おかしい。
安心して子どもを産み育てられる社会をつくることには意味がある。しかしそれは、国家や自治体が必要とする人口を確保するために出生率を上げることとは、同じではない。
ここは分けて考えたほうがよい。子どもを持ちたい人を支えることと、人口を増やすために人々に子どもを産んでもらうことは違う。
前者の中心にいるのは一人ひとりの人間である。後者の中心にいるのは人口という数字である。
日本は長いあいだ、その数字を心配してきた。それでも少子化の流れを止めることはできなかった。
だったら、別の問いを立ててもいい。
人口を増やすにはどうしたらよいか、ではなく、人口が減っても暮らしていける社会をどうつくるか。
人口が減るのなら、それに合わせて町を小さくすればよい。すべての道路をこれまでと同じように維持する必要があるのかを考え直す。
すべての集落に、同じものを同じ形で残す必要があるのかを考え直す。空いた土地には、無理に新しい住宅や工場を誘致しなくてもよい。
使わなくなった場所は農地に戻してもいいし、森に返してもいい。人が少なくなったのなら、百万人のためにつくられた仕組みを、七十万人で無理に支え続けるのではなく、七十万人に合った仕組みにつくり直せばいい。
これは「衰退」なのだろうか。
私は、必ずしもそうとは思わない。私たちは長いあいだ、人口の多い国を強い国だと考えてきた。
人口が増えれば働く人が増える。兵士も増える。
税金を払う人も増える。ものを買う人も増える。
国内市場も大きくなる。だから、人口が増えることは国力の増大であり、人口が減ることは国力の衰退だと考えてきた。
それは、人口と生産と市場が拡大していた時代には、それなりの合理性を持った考え方だったのだろう。
しかし、その時代につくられた物差しで、人口が減っていく時代まで測り続ける必要があるのだろうか。
人口が減れば、一国全体のGDPは小さくなるかもしれない。しかし、一人ひとりの生活まで貧しくならなければならないわけではない。
町の人口は減るかもしれない。しかし、そこに暮らしている一人ひとりが、以前より不幸になるとは限らない。
国際社会での「国力」は小さくなるかもしれない。しかし、それと、その国に住んでいる人が幸福に暮らせるかどうかとは別の問題である。
人口増加の時代には、増えることを前提に社会をつくった。住宅を増やした。
学校を増やした。道路を増やした。
発電所を増やした。工場を増やした。
都市を広げた。ならば人口減少の時代には、減ることを前提に社会をつくればいい。
これは敗北ではない。諦めでもない。
もっと子どもを産んでもらおう、もっと移民を入れよう、もっと人を呼び込もうと、人口という数字そのものを元に戻そうとすることだけが政策ではない。
実際、日本の縮小都市についても、人口減少に抵抗し続けるだけでなく、それに適応していく政策のあり方が研究され始めている。
人口が減るなら、行政の形を変える。町の形を変える。
交通の形を変える。住宅の形を変える。
医療や教育の提供の仕方も変える。そして、人間が使わなくなった場所まで、何が何でも人間のために使い続けようとしない。
少し前まで私たちは、
「地球のなかに、人間のためではない場所を返していく」
という話をしていた。それは遠い理想の話ではないのかもしれない。
人口が減っていく日本の地方こそ、それを最初に経験する場所になる可能性がある。人がいなくなった土地を、どうやって再び人で埋めるか。
その問いだけを考えなくてもいい。
人がいなくなった土地を、そのままにしておくことはできないのか。
そこに人間以外のものが戻ってきてもいいのではないか。人口減少を「失った人数」で測ることをやめれば、見える景色はかなり違ってくる。
人口増加の時代の考え方から、人口減少の時代の考え方へ。人口増加の時代につくられた社会を、人口減少の時代に合った社会へ。
案外、それだけのことなのかもしれない。
必要なのは、人口減少を止めることではなく、人口が減っても困らない社会をつくることなのではないだろうか。
人口減少時代には、まず考え方を変える
なぜ、人口が減ることを、私たちはこれほど心配するのだろう。
人口が増えることはよいことで、人口が減ることは悪いことだ。いつの間にか、そんな考え方が私たちのなかに定着している。
そこには、近代の産業社会がつくってきた一つの考え方があるのではないだろうか。
産業を発展させるためには、多くの労働者が必要になる。工場で働く人が必要になる。都市をつくる人、道路や鉄道をつくる人、商品を運ぶ人、それを買う人も必要になる。経済が大きくなるためには、働く人も、消費する人も増え続けたほうが都合がよい。
人口が増える社会と、経済が成長する社会とは、長いあいだ同じ方向を向いていた。
人口が増えれば、労働力が増える。市場が大きくなる。税金を納める人も増える。国家にとっても企業にとっても、人が増えることには大きな意味があった。
だから人口の増加を「発展」と結びつけ、人口の減少を「衰退」と結びつけるようになったのかもしれない。
しかし、それは人口が増えていた時代につくられた考え方である。
人口が減り始めたのに、同じ考え方をそのまま使い続ければ、当然、人口減少は危機に見える。
労働者が足りない。消費者が足りない。税金を払う人が足りない。学校を維持できない。病院を維持できない。地方自治体を維持できない。
「足りない」ものばかりが見えてくる。
しかし、本当に足りないのだろうか。
それとも、人口が増えることを前提につくられた社会を、減っていく人口で維持しようとしているから足りなくなるのだろうか。
ここには、かなり大きな違いがある。
人口が減ることそのものが問題なのか。それとも、人口が増え続けることを前提にした仕組みを変えないことが問題なのか。
もし後者なら、人口減少に対して最初にしなければならないのは、人口を増やすことではない。
考え方を変えることである。
人口増加を成長と呼ばない。
人口減少を衰退と決めつけない。
国の人口が減ったからといって、一人ひとりの生活まで貧しくなると考えない。
町の人口が減ったからといって、その町が失敗したと考えない。
そして、去年と同じ人口を来年も維持しなければならない、とも考えない。
人口が増える時代には、増えていく人口に合わせて社会を変えてきた。それなら人口が減る時代には、減っていく人口に合わせて社会を変えればよい。
そう考えてみると、人口減少そのものが危機なのではなく、人口が増えることを前提につくられた考え方から抜け出せないことのほうが、危機なのではないかと思えてくる。
そして、そこから眺め直せば、人口減少は別の姿を見せるかもしれない。危機ではなく、チャンスとして。
人口減少時代には、人口増加の考えは必要ない
「産業を発展させ、維持していくためには労働力が必要である」という考え方がある。たしかに、たくさんの人が働くことによって産業を発展させてきた時代には、それはごく自然な考え方だったのだろう。工場を動かすにも、畑を耕すにも、道路や鉄道をつくるにも人が必要だった。産業が大きくなれば、より多くの人が必要になり、人口が増えることは経済の成長にもつながった。
けれども、人口が減り始めた今、同じ考え方をそのまま持ち続ける必要があるのだろうか。
そもそも「労働力」という言葉には、人間を一つの量として見てしまうところがある。労働人口が何人いる。あと何万人必要である。何万人足りない。
そうやって数えているうちに、その数字の一つひとつが、それぞれ違った人生を生きている人間であることを忘れてしまう。
それは、戦争のときに人間を「戦力」として数えることと、少し似ているところがある。もちろん、労働と戦争はまったく違う。しかし、人を一人の人間としてではなく、何かを達成するために必要な「数」として見るとき、その人が何を望み、どのように生きたいのかは、後ろに退いてしまう。
人口が減少するとき、労働力が足りなくなるという。しかし、そこで考えることは、本当に「足りない人間をどうやって増やすか」なのだろうか。
少ない人数でも同じことができる方法を考えることもできる。あるいは、もっと根本的に、これまでしていたことをすべて続ける必要があるのか、と考えることもできる。
幸いなことに、そのようなことを考えられる時代にもなってきた。AIやビッグデータ、IoTをはじめとする新しい技術によって、人間がしてきた仕事の一部を機械に任せたり、一人の人間ができることを広げたりする可能性が生まれている。
だから、人口減少を前にして、以前と同じ数の人間をどうやって確保するかということだけを考えなくてもよいのではないだろうか。
百人でしていた仕事を、八十人でする方法を考える。しかし、それは八十人に百人分働いてもらうという意味ではない。
機械に任せられることは機械に任せる。必要のなくなった仕事はやめる。複雑すぎる仕組みは簡単にする。そして、人にしかできないことには、これまでより時間をかける。
そうなれば、大切になるのは人の「数」ばかりではなくなる。一人ひとりが持っている知識や経験、能力や発想を、どのように生かせるかということのほうが大切になってくる。
そして、そのことは環境の問題ともつながっている。新しい技術を使えば、経済が成長しても環境が自動的に守られるというほど、話は簡単ではない。技術そのものもエネルギーや資源を必要とする。
それでも、より多くの人、より多くの資源、より多くの生産によって成長する以外にも、社会を豊かにする方法があるのではないかと考えられるようになったことには、大きな意味がある。
人口が増え続けなければ維持できない社会ではなく、人口が少しずつ減っていっても穏やかに続いていく社会。
人が足りないから人を増やすのではなく、人が少なくても無理なく暮らせる仕組みをつくる。より多くつくることだけを考えるのではなく、必要なものを必要なだけつくり、それをできるだけ長く使う。
そして技術を、人間をもっと働かせるためではなく、人間がそれほど働かなくても暮らしていけるようにするために使う。
そう考えると、人口減少と新しい技術が同じ時代に現れたことも、それほど悪い組み合わせではないように思えてくる。
人口増加の時代には、人を増やすことによって社会を大きくしてきた。人口減少の時代には、同じことをする必要はない。
社会そのものを、少し小さくしてもいい。必要のなくなったものを手放してもいい。
そして、一人ひとりに少し多くの時間と空間を残してもいい。
人口が減るのなら、人を増やそうとする前に、少ない人で暮らせる社会を考えてみる。
人口減少の時代とは、案外、そこから始まるのかもしれない。
人口減少時代の消費
人口が増え、経済が拡大していた時代には、消費することは、どこか前へ進むことと似ていた。より大きな家に住み、より新しい車に乗り、より便利なものを手に入れる。去年より今年、今年より来年と、まだ持っていないものを手に入れることが豊かさであり、昨日より多く消費できることが、社会だけでなく一人ひとりにとっても成長の証だった。
けれども、人間はいつまでも不足しているわけではない。家のなかを見渡せば、すでにたくさんのものがあり、服も家具も揃っていて、食べるものにも困らない。音楽も映画も本も、かつてなら一生かかっても出会えなかったほどのものに、私たちはいつでも触れることができる。
それでも私たちは長いあいだ、「まだ足りない」と教えられてきた。新しいものが出れば古いものを取り替え、流行が変わればそれについていき、他人が持っているものを見れば自分にも必要なのではないかと思う。消費とは不足を満たす行為だったはずなのに、いつの間にか、不足そのものを次々につくり出さなければ消費を続けられないところまで来てしまった。
しかし、人口が減ってゆく社会では、この風景が少しずつ変わっていくのかもしれない。働く人が少なくなれば、人間の労働は以前より貴重になる。すべての人を朝から晩まで働かせ、さらに多くのものをつくり、それを買うためにまた働かせるという循環も、いつまでも当然であり続けるとは限らない。
もし人が強制的な労働から少し解放され、誰かに勝つための競争からも少し離れることができたなら、そのとき初めて、自分はいったい何のためにこれほど多くのものを欲しがっていたのだろう、と立ち止まる人が現れるのではないだろうか。そして案外あっさりと、自分にはもう十分にある、足りないのではなく、すでにかなりのものを持っているのだと気づくのかもしれない。
そう気づいた瞬間、消費は我慢する対象ではなくなる。新しい車を買わないのは、お金がないからではなく、いまの車で十分だからであり、新しい服を買わないのも、節約のためとは限らず、気に入った服がすでにあるからである。大きな家を求めないのも人生を諦めたからではなく、掃除をし、維持し、ものを詰め込むためだけに、自分の時間を使いたくなくなったからかもしれない。
そこには、これまでとは違った豊かさがある。欲しいものを手に入れられることだけが豊かさなのではなく、欲しいものが、それほどなくなってゆくこともまた、豊かさなのかもしれない。
それは禁欲とは少し違う。禁欲には、欲しいけれど我慢するという緊張があるが、物質的な飽和を自覚した人には、その緊張そのものがなくなってゆく。店の前を通っても欲しくないし、新製品を見ても以前ほど心が動かない。隣人が何を買ったかも、あまり気にならなくなる。
だからといって人生が色褪せるわけではなく、むしろ、それまで消費に覆われて見えなかったものが少しずつ戻ってくる。ゆっくり食事をすること、歩くこと、海を見ること、本を読むこと、誰かと話すこと。庭の植物が去年とは少し違うことに気づき、古くなった椅子を捨てずに使い続け、何もしない午後を何もしないまま終える。そのような時間はGDPのなかでは、それほど大きな存在ではないのかもしれないが、人間の一日のなかでは、とても大きい。
人口減少時代の消費とは、だから「消費が減る」というだけの話ではないのだと思う。そこでは、人間と物との関係そのものが変わっていく。大量につくり、大量に売り、大量に捨てる社会から、すでにあるものを長く使う社会へ。所有する量によって自分の価値を確かめる社会から、自分にとって本当に必要なものだけを選ぶ社会へ。そして、働く、稼ぐ、買う、また働くという循環のなかだけに人生を置かない社会へと、重心がゆっくり移っていく。
もちろん、誰もがそうなるわけではない。人間の欲望がなくなることもないだろうし、競争も広告も流行も残るだろう。人口が減ったからといって、それだけで人間が自由になるわけでもない。それでも、「もっと」という言葉だけで社会全体を動かしていくことは、少しずつ難しくなるのではないだろうか。
もっと働き、もっと稼ぎ、もっと買い、もっと大きくなる。その「もっと」の列から、一人、また一人と静かに離れてゆく人が現れる。彼らは革命を起こすわけではなく、消費社会を批判する必要さえ感じていないのかもしれない。ただ、自分にはもう十分にあることを知ってしまったのである。
人口が減ってゆく社会には、どこか寂しい響きがある。町から人が減り、学校が閉じ、空き家が増え、かつて賑わっていた場所が静かになってゆく。成長することに慣れてきた私たちは、それを衰退と呼びたくなるけれど、その静けさのなかでしか聞こえてこないものもあるのかもしれない。
もう、それほど急がなくてもいい。誰かに追いつかなくてもいいし、持っているものをもう少し長く使ってもいい。そして、足りないものを数え続ける代わりに、すでにあるものを眺めてみてもいい。
人口減少の時代が豊かな時代になるとは限らない。それでも、際限なく増やさなければ幸福になれないという思い込みから、人間がほんの少し離れる時代になる可能性はある。もしそうなれば、消費が減ることは、必ずしも人間が貧しくなったことを意味しない。
買わなくなった人の手元には、何も残らないのではない。時間が残り、その時間のなかで、その時間のなかで、人はようやく、何かを手に入れるためではない一日を生きることができる。
それは経済にとっては、あまり歓迎されない静けさかもしれない。けれど人間にとっては、案外、安心して暮らせる静けさなのかもしれない。
人口減少社会で生きてゆく
ずっと先の時代、人間の数は、いまよりずっと少なくなっているかもしれない。絶滅したわけではない。人間はまだ町をつくり、家に住み、食事をし、恋をし、子どもを育て、本を読み、音楽を聴いている。ただ、かつて地球を覆い尽くすように増えていった人間が、いつの間にかそれほど多くなくなり、人間のいない場所のほうが少しずつ広くなっている。
最初のうち、人々はそれを衰退と呼んだかもしれない。使われなくなった道路があり、閉じられた学校があり、誰も住まなくなった家が並ぶ。かつて何十万人も暮らしていた町に、その何分の一かの人しか住まなくなれば、過去を知っている人には寂しい風景に見えただろう。
けれど、過去を知らない子どもたちには、それが普通の世界である。
彼らは、人間で埋め尽くされた都市を記憶していない。通勤電車のなかで身体を押しつけ合うことも、住宅を建てるために森を切り開き続けることも、朝から夜まで道路が車で埋まることも知らない。昔は、この町に十倍もの人が住んでいたのだと聞かされても、そんなにたくさんの人が、いったいどこに住んでいたのだろう、と不思議そうな顔をするのかもしれない。
町そのものも、少しずつ小さくなっているだろう。すべての建物を維持する必要はなくなり、使わなくなった場所は無理に守られなくなる。古い住宅地の向こうから草原が近づき、かつて道路だったところに草が生え、森だった場所を切り開いて人間が広がっていった時代とは逆に、今度は森のほうが、ゆっくりと人間のつくった場所へ戻ってくる。
それを人間の敗北と呼ぶ人もいるかもしれないが、そこで暮らしている人たちは、必ずしもそうは感じないだろう。町が少し小さくなれば、町の外へ出るのも近くなる。少し歩けば林があり、その向こうには川があり、さらに行けば人の住んでいない場所がある。自然を見るために遠くまで旅行しなくても、人間の日常のすぐそばに、人間のものではない世界が残っている。
人が少なくなれば、暮らし方も変わってゆく。
何でも一人で所有する必要はなくなっているかもしれない。人口の多かった時代につくられた家や建物や道具は十分すぎるほど残っているから、新しいものを次々につくらなくても暮らしていける。古い家を直して住み、壊れたものを修理し、必要なものは近くの人と融通し合う。新しいことより古いことを尊ぶというより、ただ、まだ使えるものを捨てる理由がなくなっているのである。
働くことの意味も、以前とは少し違っているだろう。
人間が少ない社会では、一人ひとりがすべてのことをするわけにはいかない。だからこそ機械やAIが、人間がしなくてもよい仕事を静かに引き受け、人間は人間がする意味のあることに、以前より多くの時間を使えるようになるかもしれない。誰かを看ること、教えること、つくること、直すこと、考えること、そして人と人との関係を維持すること。それらは巨大な市場を生み出さなくても、人間が少なくなった社会を支える大切な営みとして残ってゆくだろう。
そこでは、成長という言葉の意味も変わっているかもしれない。人口が増えない以上、毎年もっと多くの家を建て、もっと多くの車を売り、もっと大きな都市をつくることを当然の目標にはできない。昨日より大きくなることではなく、いまあるものを無理なく明日へ渡すことが大切になる。百人でしていたことを八十人でできるようにし、やがて五十人になれば五十人にふさわしい形へつくり替えていく。縮小することは失敗ではなく、そのときそこにいる人の数に合わせて、社会の大きさを静かに調整することになる。
おそらく、人と人との距離にも変化が起きる。人口の多い社会では、人間は人間から逃げる場所を求めていた。満員電車、人混み、集合住宅、競争、騒音、広告、絶え間なく届く情報。そのなかでは孤独になることさえ難しく、一人でいるために、わざわざどこかへ逃げなければならないこともあった。
人間が少なくなった世界では、むしろ反対に、一人でいることは簡単になり、人と会うことのほうが意識的な行為になるかもしれない。だから孤独が消えるわけではない。しかし、人が少ないからこそ、近所の誰かの存在が以前より少し大切になる。毎日親しく話す必要はないし、同じ価値観を持つ必要もない。ただ、あの家には誰かが住んでいる、あの道を歩けば知っている顔に会う、それくらいの緩やかなつながりが、小さな社会を支えている。
子どもの数も少ない。だから昔のように、同じ年齢の子どもを大きな教室に集め、同じ時間に同じことを教える教育は、少しずつ姿を変えているかもしれない。年齢の違う子どもが一緒に学び、大人も老人も、ときには教師になる。学校は子どもを社会の規格に合わせる場所というより、その子のなかに生まれた「なぜ?」をできるだけ長く消さないための場所になっているかもしれない。
それは、これまで考えてきたTamingという観点から見れば、かなり大きな変化である。人口が増え続けた社会では、大勢の人間を同じ時間に動かし、同じ規則に従わせ、同じ能力を測り、比較し、配置することには合理性があった。けれど、人間そのものが貴重になれば、一人ひとりの違いを無理に削ることは、社会にとっても損失になる。従順な人間を大量につくるより、少し変わっていても、自分で考え、自分で問いを持ち、誰かとは違うことのできる人間を残すほうが大切になるかもしれない。
もちろん、人口の少ない社会が楽園になるわけではない。
老人が増え、支える人が足りなくなる時期もあるだろう。人のいなくなった町をどうするのか、病院や交通や水道をどこまで維持するのかという問題も残る。人間が少なくなったからといって、権力も争いも嫉妬も消えないし、Tamingがなくなるわけでもない。むしろ、人が少なくなれば別の種類の不自由が生まれることもあるだろう。
それでも、人間はその世界で生きてゆく。
考えてみれば、人類の長い歴史の大部分で、人間は今ほど多くなかった。地球のどこへ行っても人間のつくったものがあり、夜になっても人工の光が消えず、遠い国で起きた出来事が数秒後には自分の手のなかに届くという現在のほうが、人類史のなかではむしろ特殊な時代なのかもしれない。
人間が少なくなるということは、人間が不幸になるということと同じではない。朝、目を覚ます。窓を開ける。遠くに誰かの家があり、その向こうには人間のつくったものではない風景が広がっている。今日は少し働き、誰かと話し、何かを直し、食事をつくる。夕方になれば散歩に出て、昔は住宅地だった林のなかを歩く。そこに家があったことを示す石垣だけが草のなかに残っている。
それを見ても、もう誰も「文明が滅びた」とは思わない。文明は滅びたのではなく、少し小さくなっただけなのだから。
そして人間も、世界の中心であることをやめて、地球の上に存在するたくさんの生き物のひとつとして、少し小さな場所を占めながら暮らしている。生まれて、誰かと出会い、何かをつくり、何かを残し、やがて死んでゆく。その営みそのものは、人間が百億人いても一億人しかいなくても、それほど変わらない。
人口が減ることを考えるとき、私たちはいつも、何が失われるのかを数えてしまう。けれども、その先に暮らす人々は、失われたものを数えながら毎日を生きているわけではないだろう。その人たちにはその人たちの朝があり、その人たちの食卓があり、恋があり、退屈があり、仕事があり、笑いがある。子どもは走り回り、老人は昔の話をし、誰かが歌をつくり、誰かが「なぜ?」と問い始める。
大勢でなければ、人間らしく生きられないわけではない。
もしかすると人口減少社会とは、人間が消えてゆく社会なのではなく、あまりにも大きくなった人間の世界が、もう一度、人間にも、そのほかの生き物にも、少し無理のない大きさへ戻ってゆく長い時間なのかもしれない。
そこには、何かを失ったあとの静けさだけではなく、もう増え続けなくてもよいという静けさがある。
その静けさのなかで、人間はこれまでより少し少なく、世界を占める場所も少し小さくして、それでも変わらず、生きてゆく。