I set out alone, having neither fellow-traveler in whose companionship I might find cheer, nor caravan whose part I might join, but swayed by an overmastering impulse within me and a desire long-cherished in my bosom to visit these illustrious sanctuaries. So I braced my resolution to quit my dear ones, female and male, and forsook my home as birds forsake their nests. My parents being yet in the bonds of life, it weighed sorely upon me to part from them, and both they and I were afflicted with sorrow at this separation.
The big sleep
Dreams and hallucinations seen just before death:
tunnels, bright lights, staircases, loved ones, and sometimes, cosmic or geometric patterns
แทมารีน มาร์เก็ต หัวหิน
西南役伝説(石牟礼道子)
侍さんでもな、死のうごつはなかろもん。田んぼの藁小積みば間にしてな、両方とも斬られんごつぐるぐる廻ってなあ、おめき合うたり、突っこけたりして、勝負のつくまではそらもう大事、畠も作もそこらじゅう踏んで踏んたくって、しちゃくゎちゃ使いもんにならん如してしもうて、殺す方も殺される方も泥まみれになって、何のわけで殺し合いばしなはるだろうか。おるげの息子もあぎゃん目に遭うたっだろ、よう生きて戻ったたい。いくさのなんの、しんからの百姓なら出来んばい。暗きから暗きさね起きて作ばつくろうちゃ、どういう大ごつな。踏んで踏み固めてなあ、畠も田も使いもんにならんようにしてしもて。いくさの通った跡は、百姓がどのくらい大事か。迷惑なこつ、ほんなこて。
社会信用システム(SWI www.swissinfo.ch)
Post-truth (Julian Baggini)
The merits of these competing theories are of mainly academic concern. When people debate whether there were weapons of mass destruction in Saddam Hussain’s Iraq, whether global warming is real and anthropogenic, or whether austerity is necessary, their disagreements are not the consequence of competing theories of truth. No witness need ask a judge which theory she has in mind when asked to promise to tell the truth, the whole truth and nothing but the truth. Why then has truth become so problematic in the world outside academic philosophy? One reason is that there is major disagreement and uncertainty concerning what counts as a reliable source of truth. For most of human history, there was some stable combination of trust in religious texts and leaders, learned experts and the enduring folk wisdom called common sense. Now, it seems, virtually nothing is universally taken as an authority. This leaves us having to pick our own experts or simply to trust our guts.
The country that can’t say no to Trump (Financial Times)
国家に搦め捕られないために
国家は暴力で自由を奪うのではなく、静かに、制度を通して、気づかれない形で自由を削っていく。だからこそ、自由は尊厳や家族よりも先に、最も早く、最も広く侵される。
国家が個人に干渉するとき、最初に狙うのはいつも自由。移動の自由、選択の自由、働き方の自由、住む場所の自由、お金の使い方の自由、情報の自由、沈黙する自由、そういった自由は、法律や制度の名のもとに正当化されて奪われる。しかも、奪われた自由は、国家が「返す」と言わない限り戻らない。尊厳は自分の内側に残る。家族は守り合える。しかし自由だけは、国家の構造に触れた瞬間に消えてしまう。だからこそ、自由が一番脆い。自由は、最初に奪われ、最後まで返ってこない。
自由は、奪われたときには気づきにくい。自由が危険なのは、奪われるときに痛みがないことだ。便利さの名のもとに、安全の名のもとに、公平の名のもとに、福祉の名のもとに、国益の名のもとに、国家は自由を「善意の包装紙」で包んで差し出す。そして気づいたときには、選択肢が減り、行動が制限され、制度に依存し、国家なしでは生きられない体になっている。自由は、失って初めて存在に気づく空気のようなものだ。
自由が侵されると、尊厳も家族も守れなくなる。自由がなければ、尊厳は制度に従属する。自由がなければ、家族は国家の都合に巻き込まれる。自由がなければ、選択肢が消え、逃げ場がなくなる。つまり、自由は尊厳と家族を守る土台なのだ。土台が崩れれば、上にあるものも崩れる。
国家が本当に恐れるのは、反抗する個人ではない。反抗は管理できる。反抗は抑え込める。反抗は法律で処理できる。しかし、自由な個人は管理できない。どこに住むか自分で決める。どの制度に依存するか選ぶ。どの国と距離を置くか判断する。どの文化に身を置くか選択する。どの価値観で生きるか自分で決める。そういう個人は、国家の網にかからない。だから国家は、自由な個人を“静かに囲い込む”方向へ動く。
拠点を複数に分散し、国家への依存を減らし、制度の網を一国に集中させず、静かな場所を選び、国家のゲームに巻き込まれない距離を保ち、自分の生活圏を自分で設計する。そんなことが、自由を守るための最も洗練された戦略になる。自由を守るための賢い方法は、いずれも、戦わず、主張せず、ただ距離を置くこと。国家は「反抗する個人」には強いが、「関わらない個人」には驚くほど無力だということを、忘れずにいることだ。
国家は反抗する個人には強いが、関わらない個人には驚くほど無力だ
国家は「反抗する個人」には強い。国家は、反抗を“例外”として扱う。例外は排除しやすい。国家が強く出られるのは、反抗が国家のルールの中に入ってしまうからだ。反抗すれば法律の枠に入れられ、反抗すれば監視の対象になり、反抗すれば国家は「正当な権力行使」として動くことができ、反抗すれば国家は敵として扱える。つまり、反抗した瞬間、個人は国家の土俵に上がってしまう。土俵に上がった個人は、国家の巨大な力の前ではどうしても不利になる。
国家は「関わらない個人」には驚くほど無力だ。国家の力は、関わる人間にしか及ばない。国家は、税、登録、監視、法律、社会制度、国籍、住民票、金融システムといった接点を通じて個人を管理する。しかし接点を最小限にすると、国家は個人に触れられなくなる。たとえば、国籍を複数に分散したり、住む場所を固定しなかったり、資産を一国に集中させなかったり、国家の制度に依存しなかったり、争わず、主張せず、ただ距離を置くというような生き方をする人に対して、国家は驚くほど手が出せない。
国家は「反抗する個人」には強いが、“つかまえようとしてもつかまらない個人”には弱い。これは、国家の構造的な限界だ。国家と戦わず、国家に飲み込まれることもなく、国家のルールの外側に立ち、必要なときだけ最小限関わり、あとは静かに距離を置くというような人を、国家は捕まえることができない。国家のゲームに参加していないというのは、戦わずに自由と尊厳を守るという高度な技術なのだ。
国家との向き合い方
国家は、法律、税制、軍事力、行政権、情報網、国境管理といった巨大な装置を持っている。個人がこれに真正面から挑むことはできない。勝ち負け以前に、ゲームのルールそのものが国家側に有利に設計されているからだ。だから、歴史的にも哲学的にも、国家と正面衝突して勝った個人はいない。
勝つことを考えない。「国家=暴力装置」との衝突を避けることで、自分の自由と精神性を守る。これは“逃避”ではなく、自分の人生を国家のゲームに奪われないための知恵だ。
今の国家は、税、社会保障、医療制度、不動産、国籍、金融システムといった “生活の基盤”を通じて個人を包み込む。暴力ではなく、制度の網で人を捕まえる。だからこそ、距離を取る・巻き込まれない・静かに離れるという態度は、現代に必要な技術なのだ。
国家と戦うのではなく、国家の外側に“自分の領域”を作る。争わない、証明しない、正義を振りかざさない、ただ静かに距離を置く、必要なときだけ最小限関わる。これは、老荘思想の「上善は水の如し」に近い。水は争わず、形を持たず、しかし侵されない。これこそが、国家との向き合い方の理想だ。国家の暴力性を知り、争いの無意味さを理解し、自分の静かな場所を大切にし、力を誇示せず、ただ、自由でいる。“戦わない強さ”を追い求め、自由を守る。できるだろうか?
逃げることは、弱さではない。強さを持ちながら、それを誇示しない。それは、すばらしいことではないか。『戦わない』、『争いを避ける』、『その場を離れる』。そんなことこそが、最も高い精神性の表現ではないか。勝つより、争わないことの方が難しい。


