西南役伝説(石牟礼道子)

侍さんでもな、死のうごつはなかろもん。田んぼの藁小積みば間にしてな、両方とも斬られんごつぐるぐる廻ってなあ、おめき合うたり、突っこけたりして、勝負のつくまではそらもう大事、畠も作もそこらじゅう踏んで踏んたくって、しちゃくゎちゃ使いもんにならん如してしもうて、殺す方も殺される方も泥まみれになって、何のわけで殺し合いばしなはるだろうか。おるげの息子もあぎゃん目に遭うたっだろ、よう生きて戻ったたい。いくさのなんの、しんからの百姓なら出来んばい。暗きから暗きさね起きて作ばつくろうちゃ、どういう大ごつな。踏んで踏み固めてなあ、畠も田も使いもんにならんようにしてしもて。いくさの通った跡は、百姓がどのくらい大事か。迷惑なこつ、ほんなこて。

Post-truth (Julian Baggini)

The merits of these competing theories are of mainly academic concern. When people debate whether there were weapons of mass destruction in Saddam Hussain’s Iraq, whether global warming is real and anthropogenic, or whether austerity is necessary, their disagreements are not the consequence of competing theories of truth. No witness need ask a judge which theory she has in mind when asked to promise to tell the truth, the whole truth and nothing but the truth. Why then has truth become so problematic in the world outside academic philosophy? One reason is that there is major disagreement and uncertainty concerning what counts as a reliable source of truth. For most of human history, there was some stable combination of trust in religious texts and leaders, learned experts and the enduring folk wisdom called common sense. Now, it seems, virtually nothing is universally taken as an authority. This leaves us having to pick our own experts or simply to trust our guts.

国家に搦め捕られないために

国家は暴力で自由を奪うのではなく、静かに、制度を通して、気づかれない形で自由を削っていく。だからこそ、自由は尊厳や家族よりも先に、最も早く、最も広く侵される。
国家が個人に干渉するとき、最初に狙うのはいつも自由。移動の自由、選択の自由、働き方の自由、住む場所の自由、お金の使い方の自由、情報の自由、沈黙する自由、そういった自由は、法律や制度の名のもとに正当化されて奪われる。しかも、奪われた自由は、国家が「返す」と言わない限り戻らない。尊厳は自分の内側に残る。家族は守り合える。しかし自由だけは、国家の構造に触れた瞬間に消えてしまう。だからこそ、自由が一番脆い。自由は、最初に奪われ、最後まで返ってこない。
自由は、奪われたときには気づきにくい。自由が危険なのは、奪われるときに痛みがないことだ。便利さの名のもとに、安全の名のもとに、公平の名のもとに、福祉の名のもとに、国益の名のもとに、国家は自由を「善意の包装紙」で包んで差し出す。そして気づいたときには、選択肢が減り、行動が制限され、制度に依存し、国家なしでは生きられない体になっている。自由は、失って初めて存在に気づく空気のようなものだ。
自由が侵されると、尊厳も家族も守れなくなる。自由がなければ、尊厳は制度に従属する。自由がなければ、家族は国家の都合に巻き込まれる。自由がなければ、選択肢が消え、逃げ場がなくなる。つまり、自由は尊厳と家族を守る土台なのだ。土台が崩れれば、上にあるものも崩れる。
国家が本当に恐れるのは、反抗する個人ではない。反抗は管理できる。反抗は抑え込める。反抗は法律で処理できる。しかし、自由な個人は管理できない。どこに住むか自分で決める。どの制度に依存するか選ぶ。どの国と距離を置くか判断する。どの文化に身を置くか選択する。どの価値観で生きるか自分で決める。そういう個人は、国家の網にかからない。だから国家は、自由な個人を“静かに囲い込む”方向へ動く。
拠点を複数に分散し、国家への依存を減らし、制度の網を一国に集中させず、静かな場所を選び、国家のゲームに巻き込まれない距離を保ち、自分の生活圏を自分で設計する。そんなことが、自由を守るための最も洗練された戦略になる。自由を守るための賢い方法は、いずれも、戦わず、主張せず、ただ距離を置くこと。国家は「反抗する個人」には強いが、「関わらない個人」には驚くほど無力だということを、忘れずにいることだ。

国家は反抗する個人には強いが、関わらない個人には驚くほど無力だ

国家は「反抗する個人」には強い。国家は、反抗を“例外”として扱う。例外は排除しやすい。国家が強く出られるのは、反抗が国家のルールの中に入ってしまうからだ。反抗すれば法律の枠に入れられ、反抗すれば監視の対象になり、反抗すれば国家は「正当な権力行使」として動くことができ、反抗すれば国家は敵として扱える。つまり、反抗した瞬間、個人は国家の土俵に上がってしまう。土俵に上がった個人は、国家の巨大な力の前ではどうしても不利になる。
国家は「関わらない個人」には驚くほど無力だ。国家の力は、関わる人間にしか及ばない。国家は、税、登録、監視、法律、社会制度、国籍、住民票、金融システムといった接点を通じて個人を管理する。しかし接点を最小限にすると、国家は個人に触れられなくなる。たとえば、国籍を複数に分散したり、住む場所を固定しなかったり、資産を一国に集中させなかったり、国家の制度に依存しなかったり、争わず、主張せず、ただ距離を置くというような生き方をする人に対して、国家は驚くほど手が出せない。
国家は「反抗する個人」には強いが、“つかまえようとしてもつかまらない個人”には弱い。これは、国家の構造的な限界だ。国家と戦わず、国家に飲み込まれることもなく、国家のルールの外側に立ち、必要なときだけ最小限関わり、あとは静かに距離を置くというような人を、国家は捕まえることができない。国家のゲームに参加していないというのは、戦わずに自由と尊厳を守るという高度な技術なのだ。

国家との向き合い方

国家は、法律、税制、軍事力、行政権、情報網、国境管理といった巨大な装置を持っている。個人がこれに真正面から挑むことはできない。勝ち負け以前に、ゲームのルールそのものが国家側に有利に設計されているからだ。だから、歴史的にも哲学的にも、国家と正面衝突して勝った個人はいない。
勝つことを考えない。「国家=暴力装置」との衝突を避けることで、自分の自由と精神性を守る。これは“逃避”ではなく、自分の人生を国家のゲームに奪われないための知恵だ。
今の国家は、税、社会保障、医療制度、不動産、国籍、金融システムといった “生活の基盤”を通じて個人を包み込む。暴力ではなく、制度の網で人を捕まえる。だからこそ、距離を取る・巻き込まれない・静かに離れるという態度は、現代に必要な技術なのだ。
国家と戦うのではなく、国家の外側に“自分の領域”を作る。争わない、証明しない、正義を振りかざさない、ただ静かに距離を置く、必要なときだけ最小限関わる。これは、老荘思想の「上善は水の如し」に近い。水は争わず、形を持たず、しかし侵されない。これこそが、国家との向き合い方の理想だ。国家の暴力性を知り、争いの無意味さを理解し、自分の静かな場所を大切にし、力を誇示せず、ただ、自由でいる。“戦わない強さ”を追い求め、自由を守る。できるだろうか?
逃げることは、弱さではない。強さを持ちながら、それを誇示しない。それは、すばらしいことではないか。『戦わない』、『争いを避ける』、『その場を離れる』。そんなことこそが、最も高い精神性の表現ではないか。勝つより、争わないことの方が難しい。

硬い国家

永遠とか、完成とか、完璧とかは、決して美しくはない。永遠でないこと、未完成、完璧でないこと、そんなことに美しさやいとしさを感じる。変わり続けることにも心惹かれる。
好戦的な国家はみな、永遠や完璧を求める。変わることもない。それを見て、暗澹たる気持ちになるのは自然なことなのだろう。
永遠や完璧を求める国家は、しばしば「変わらないこと」「揺らがないこと」を正義にしてしまう。『永遠の国家』、『完璧な民族』、『絶対の正義』、『不変の指導者』、そういった“硬い理念”は、人間の柔らかさや曖昧さを許さない。
硬い国家は、その力を誇示し、『移ろい』、『未完成』、『不完全』、『変化』、『儚さ』といった人間の柔らかさを押しつぶそうとする。
歴史を見ると、「永遠」を掲げた国家ほど、内部から腐り、外部に暴力を向け、最後は自ら崩れていった。永遠を求める国家は、永遠を守るために暴力を使う。未完成を受け入れる社会は、変化を恐れないから、暴力に頼らない。
硬いものは、必ず割れる。柔らかいものは、形を変えて生き残る。竹はしなるから折れない。ガラスは硬いから割れる。硬さを誇る国家ほど、長期的には持続できない。歴史のなかで、「永遠」を名乗った帝国はすべて消え、「未完成」を受け入れた社会だけが、形を変えながら生き残った。だから、いまの好戦的な国家も、その硬さゆえに長くは続かない。
『未完成の美しさ』、『永遠を求めない姿勢』、『変化を受け入れる柔らかさ』。そういうものが、いまの世界の暴力的な硬さに対する静かな抵抗だ。国家は好戦的でも、人間は必ずしもそうではない。

悪い政権が倒れても社会は良くならない

シリアでアサド政権が倒れたら、社会はアサド政権の時より混乱し良くはならなかった。悪いと思われた政権が倒れても社会は良くはならない。「悪が倒れれば善が来る」という物語は、私たちが願いたい“希望の形式”であって、現実の歴史はもっと残酷で、もっと複雑で、もっと人間的だ。
アサド政権のように、強権的であっても国家の骨格を維持していた体制が崩れると、その空白を埋めようとする勢力が一斉に動き出す。『旧支配層』、『反政府武装勢力』、『宗派勢力』、『外国の代理勢力』、『犯罪組織』。これらが同時に動くと、国家という「秩序の容器」そのものが壊れてしまう。その結果、「悪い政権」よりも、「政権そのものがない状態」の方が、はるかに悲惨になる。権力の空白は、必ず“暴力の競争”を呼ぶのだ。
倒すことはできても治めることはできない。これはアラブの春でもアフガニスタンでもイラクでもリビアでも繰り返された。悪を倒すことと社会を運営する能力は別の問題ということだ。
選挙を導入すれば民主主義が生まれるわけではない。民主主義は、『妥協の文化』、『少数派の権利を守る倫理』、『暴力を使わないという合意』、『法を信頼する習慣』といった「目に見えない文化」があって初めて成立する。これが育っていない社会で政権だけ変えても、制度は形だけで、中身が追いつかない。民主主義は制度ではなく文化なのだ。

Claude Mythos (Anthropic)

Anthropic ​earlier this month debuted Mythos, its most advanced AI model to date, equipped with sophisticated capabilities and designed for defensive cybersecurity tasks.
Mythos’s vast capabilities have sparked fears about the threat to traditional software security after the AI ‌startup said the preview had uncovered “thousands” of major vulnerabilities in “every major operating system and web browser.”
And while some industry experts have questioned whether Anthropic’s claims of too-powerful AI technology were a marketing ploy, even some of the company’s sharpest critics have suggested that Mythos might represent a further advancement in AI.