人口減少社会での注意点

過剰なものを、ゆっくり手放していく

人口が減っていくと、社会からさまざまなものが不足していくと言われる。働く人が足りなくなる。税を負担する人が少なくなる。介護をする人も、地域を支える人も、子どもも少なくなる。だから人口減少社会について語る言葉には、いつもどこか「足りない」という響きがつきまとう。
けれども、少し違うところから人口減少を眺めてみると、まったく反対の風景が見えてくる。人口減少社会とは、不足する社会であると同時に、むしろ多くのものが過剰になっていく社会なのではないだろうか。
人間の数が減ったからといって、人間がつくったものまで同じ速さで消えていくわけではない。家は残る。道路も残る。学校も、水道も、鉄道も、商業施設も残る。工場や倉庫や駐車場も残るし、それらを前提としてつくられてきた行政の仕組みや制度も残る。人口が増え続けることをどこかで当然と考えながら何十年もかけてつくってきた巨大な器の中から、人間だけが少しずついなくなっていく。
すると、奇妙な逆転が起こる。人は足りないのに、ものは余っている。住む人のいない家があるのに住宅を管理する人が足りず、利用する人の減った道路があるのに道路を維持する人が足りない。使われなくなった学校や公共施設が残る一方で、それを管理する自治体の職員は少なくなっていく。人口減少社会とは、小さくなった人間社会を、小さくならないまま残された巨大な人工物の世界が取り囲んでいる社会でもある。
これまでの社会は、足りないものをつくることが得意だった。住宅が足りなければ住宅を建て、学校が足りなければ学校をつくり、道路が足りなければ道路を延ばした。「つくる」という行為には目的があり、完成があり、達成があった。人口が増え、経済が拡大している時代には、それでよかったのである。
ところが人口が減り始めると、問いそのものが変わってくる。何をつくるか、ではない。何を残し、何を手放すか。

おそらくこちらのほうが、つくることより難しい。橋を新しく架けることには完成の日があるが、橋をなくすことになれば、その向こうにまだ暮らしている人がいる。学校を閉じれば、そこに通った人たちの記憶が残っている。鉄道を廃止すれば、利用者が少なくても、それを必要としている誰かがいる。人口が八割になったからといって、道路や水道や行政を機械的に八割にすることなどできない。
だから人口減少社会では、過剰は長いあいだ残ることになる。しかし、その過剰を見つけるたびに、もう一度人口を増やして埋めようとする必要があるのだろうか。空き家が増えたから住民を増やし、学校が余ったから子どもを増やし、働く人が足りないから人口を増やす。それを続けるなら、私たちは人口が減り始めた世界にいながら、人口増加時代の考え方だけをいつまでも守り続けることになる。

人口減少を本当に受け入れるということは、ある意味では、空いていることを恐れないことなのかもしれない。
使われなくなる場所があってもいい。役割を終える建物があってもいい。すべての土地を利用しなくてもよく、すべての道路を永遠に維持しなくてもよい。そして、人間が使わなくなった場所のすべてに、新しい人間の用途を見つけなくてもよい。
そのとき初めて、人口減少は別の意味を帯びてくる。これまで人間が占有してきた場所の一部を、手放すことができるからである。使われなくなった土地のすべてを再開発するのではなく、そのままにしておく。人間のためにつくり変えることをやめれば、草が生え、木が育ち、虫や鳥や小さな生き物が戻ってくる場所もあるだろう。それは「有効利用されていない土地」ではなく、単に人間が利用しなくなった土地である。その二つは、よく似ているようでまったく違う。

人口増加の時代には、つくることが社会を前へ進めてきた。人口減少の時代には、おそらく別の知恵が必要になる。つくらないこと。広げないこと。すべてを維持しようとしないこと。そして、役割を終えたものを静かに手放していくこと。
それは必ずしも衰退ではないのだと思う。むしろ、人間の文明が長いあいだ身につけてきた「増やす」という習慣から、少しずつ離れていくことなのかもしれない。より多くの人口、より多くの住宅、より多くの道路、より多くの生産、より多くの消費を目指してきた社会が、初めて「もう増やさなくてもいい」と考える。それは、文明にとって思いのほか大きな転換である。

そう考えるなら、人口減少社会を、何かが失われ続ける寂しい時代としてだけ見る必要はない。人口減少社会とは、過剰なものに囲まれながら、その過剰をゆっくり手放していく社会なのだろう。

そして手放すというのは、空いた場所をすぐ別のもので埋めることではない。空いたままにしておくことも含まれる。人間が退いたところを、再び人間の何かで埋め尽くさない。その小さな空白を、人間ではない世界に返していく。
人口が減っていくということは、ひょっとすると、人間が地球から消えていく話なのではなく、人間が占めてきた場所を、少しずつほかのものに返していく長い時間の始まりなのかもしれない。

目的を手放していく社会
人口減少社会では、目的を持つことが難しくなるのではないだろうか。そんなことを考えるようになったのは、人口が減っていく社会では、さまざまなものが余り始めることに気づいたからだった。人口増加の時代につくられた住宅や道路、学校や商業施設が、人間の数ほどには減っていかない。人口減少社会とは、何もかもが不足していく社会なのではなく、むしろ過剰なものに囲まれながら、その過剰をゆっくり手放していく社会なのではないか。そう考えていくと、やがて物だけではない、もう一つの過剰が見えてくる。

それは、目的である。人口が増え続けている時代には、社会の進む方向は比較的わかりやすかった。もっと豊かになる。もっと便利になる。もっと生産する。町を大きくする。会社を成長させる。道路を延ばし、住宅を建て、学校をつくる。今日より明日を大きくし、現在より豊かな社会を次の世代へ渡していく。そこには「もっと」という、単純ではあるが強い方向があった。

社会に方向があれば、個人もまた、自分の人生をその方向に重ねることができる。勉強し、働き、収入を増やし、家を持ち、家庭をつくり、子どもを育てる。会社を大きくし、町を発展させ、次の世代へ何かを残す。もちろん誰もがそのように生きたわけではない。それでも、社会のどこかに大きな矢印があり、それに沿って生きることには、それほど説明を必要としなかった。
人口減少社会では、この矢印が少しずつ弱くなっていく。家が足りないのではなく、家が余る。学校をつくるのではなく、どの学校を残すかを考える。道路を延ばすのではなく、どこまで維持するかを考える。町を大きくするのではなく、小さくなっていく町でどう穏やかに暮らし続けるかを考える。社会の仕事そのものが、「増やすこと」から「選ぶこと」へ、「つくること」から「手放すこと」へ移っていく。

ところが、増やすことには目的をつくりやすいが、減らすことには目的をつくりにくい。百を百五十にするなら、百五十という目標を掲げることができる。新しい建物をつくれば完成の日があり、売上が増えれば数字によって成果を示すことができる。しかし人口が百から七十へ減っていくからといって、七十を目標にすればよいわけではない。七十になることそのものが目的なのではない。ただ人間の数が減っていくなかで、不必要になったものを手放し、それでもそこにいる人びとができるだけ穏やかに暮らしていけるようにする。その仕事には、華々しい完成の日がない。

そこに、人口減少社会の不思議な難しさがある。つくることには達成感がある。手放すことには、それが乏しい。新しく始めたことは功績になるが、何かを静かに終わらせたことは功績になりにくい。さらに難しいのは、何もしないことである。使われなくなった土地を、すぐに何かへ転用せず、そのまま空けておく。それだけのことが、私たちにはなかなかできない。「何かに使えないだろうか」と考えてしまうからである。

私たちは空白に耐えることが苦手なのかもしれない。それは土地についてだけではない。人生についても同じである。

私たちは幼いころから、何かのために生きることに慣れている。勉強するのは将来のため、働くのは生活のため、貯蓄するのは老後のため。仕事には目標があり、組織には計画があり、国家には成長がある。「何のために」という問いに答えられることが、きちんと生きていることの証明のようになっている。
だから目的を失うと、人は単に暇になるのではない。自分がそこにいる理由まで失ったような不安を覚える。
おそらくそのために、人口が減り始めても、私たちは長いあいだ人口増加時代の目的を手放せないだろう。もっと成長しなければならない。もっと生産性を上げなければならない。町を活性化しなければならない。人口を増やさなければならない。それぞれには現実的な必要があるとしても、その背後には、目的を失うことへの怖れもあるのではないかと思う。
だから人口減少社会への移行は、単に社会の規模を小さくすることではない。それまで私たちを動かしてきた「もっと」という言葉から、少しずつ離れていくことでもある。
もっと生産すること。もっと消費すること。もっと豊かになること。もっと成長すること。そして、何か大きな目的を持って生きること。
考えてみれば、これもまたTamingだったのかもしれない。大きな目的は人びとを動かすだけでなく、ばらばらの人間を同じ方向へ向かわせる。成長という目的を共有すれば、無数の異なる人生を一つの方向に並べることができる。「もっと」は、人間を働かせるための非常に強い言葉でもあった。
人口減少は、そこに小さな空白をつくる。けれども、その空白を急いで新しい目的で埋める必要があるのだろうか。

人口増加に代わる新しい国家目標をつくり、成長に代わる別の成長を見つけ、失われた大きな物語を別の大きな物語で置き換える。それでは、目的の内容が変わっただけで、目的によって人間を同じ方向へ向かわせる仕組みは何も変わらない。
ひょっとすると人口減少社会に必要なのは、新しい大きな目的ではなく、大きな目的がなくても社会は存在してよいという感覚なのかもしれない。
これは簡単なことではない。目的を持つことをやめよう、と宣言すること自体が、すぐに新しい目的になってしまうからである。「目的から自由になる」という目標を掲げた瞬間、私たちはまた別の方向へ歩き始める。おそらく、目的を手放すということは、目的を否定することではない。目的があるときにはそれに向かって歩き、なくなったときには、無理に次の目的を探さずにいられることなのだろう。

庭に生えている木は、どこかへ到達しようとしているようには見えない。散歩も、必ずしも目的地を必要としない。誰も使わなくなった土地も、すぐに別の用途を与えなければならないわけではない。草が生え、木が伸び、鳥や虫が戻ってくるなら、それは何かに「成功した」わけでもない。ただ、人間がそこで何かをしなくなっただけである。
人間自身も、ほんとうはそういう時間を持っていてよいのかもしれない。何かになるためでもなく、何かを残すためでもなく、社会の大きな目標を達成するためでもなく、ただ生きている時間。それを無駄と呼ばずにいられるかどうか。人口減少社会が私たちに問いかけるのは、案外そんなことなのではないだろうか。

過剰な住宅を手放す。過剰な道路を手放す。過剰な生産を手放し、過剰な消費を手放す。その先で、私たちはもしかすると、過剰な目的さえ、ゆっくり手放していくことになる。
それは目的のない社会をつくるということではない。目的を持つ人もいれば、持たない人もいる。途中で目的を変える人もいれば、しばらく何も求めずに立ち止まる人もいる。そのばらばらした時間を、無理に一つの方向へそろえようとしない社会である。
人口減少社会とは、ただ人間の数が少なくなっていく社会ではないのかもしれない。増やすことを当然と考えてきた文明が、過剰なものを一つずつ手放しながら、「もっと」の先に何があるのかを初めて考える時間なのかもしれない。
そして最後に残る問いは、意外なほど静かで、しかも難しい。人間は、何かになるためではなく、ただ存在することに耐えられるのだろうか。

予期された答えしかない社会

人口減少社会では、予期された答えしか存在しなくなるのではないだろうか。
そんなことを考えるようになった。人口が増えていた時代には、未来にはいつも、まだ何かが起こりそうな感じがあった。町はどこまで大きくなるかわからない。新しい産業が生まれるかもしれない。昨日まで何もなかった場所に人が集まり、そこに駅ができ、学校ができ、知らないうちに町が生まれるかもしれない。もちろん現実の成長社会も計画や予測に満ちていた。それでも人口が増え、経済が拡大しているかぎり、計画からはみ出してしまうものを受け入れる余裕がどこかにあった。

人口減少社会になると、その風景は少し変わる。社会全体が縮小していくと、使える資源にも、それを維持する人間にも限りが見えてくる。すべての道路を残せるわけではない。すべての学校を残せるわけでもない。すべての集落に同じ行政サービスを維持することも難しくなっていく。そうなれば私たちは、これからどこに人が住むのか、どの地域の人口がどれほど減るのか、どれだけの医療が必要になるのか、どこに交通を残すべきなのかを、できるだけ正確に予測しようとするだろう。

それ自体は、おそらく間違っていない。限られたものを大切に使おうとすれば、予測は必要になる。人口減少そのものが、予測による社会運営を求めていく面もあるだろう。
けれども、そこには小さな危うさがある。未来を予測することと、予測された未来をつくることは、よく似ているからである。

ある町では、これから人口が減ると予測される。その予測に従って投資を減らす。公共交通を縮小し、施設を統合する。すると暮らしにくくなった人が町を離れ、人口はさらに減る。そして何年か後、最初の予測が正しかったことが確認される。
予測が未来を言い当てたのか、それとも予測がその未来をつくったのか、その境界はだんだん曖昧になる。
「この地域はこうなるだろう」「この産業はなくなるだろう」「この世代はこう行動するだろう」「この人はおそらくこう選ぶだろう」。そうした予測が十分に精密になり、それに基づいて社会が組み立てられるようになれば、いつのまにか人間は、予測された未来のなかを歩くようになる。
それは命令ではない。誰からも「そのように生きなさい」と言われてはいない。ただ、あなたはおそらくこうするだろう、と言われているだけである。

だからこそ、これはとても静かなTamingなのかもしれない。成長社会のTamingには、もっとわかりやすい言葉があった。「こうしなければならない」「もっと豊かにならなければならない」「もっと働かなければならない」「もっと成長しなければならない」。そこには強い目的があり、人間はその大きな目的に向かって並べられていった。

人口減少社会では、その「もっと」が少しずつ力を失っていく。過剰になった住宅を手放し、道路を手放し、学校を手放す。過剰な生産や消費を手放す。そしていつか、私たちは「もっと成長しなければならない」という過剰な目的そのものまで手放していくのかもしれない。

目的を手放せば、そこには空白が生まれる。けれども、人間は空白を空白のまま残しておくことが、とても苦手なのではないだろうか。

空き地があれば、何に使えるかと考える。空いた時間があれば、予定を入れる。使われなくなった建物があれば、「有効利用」を探す。そして未来が空白になれば、そこに予測を置く。
人間は空間の空白だけでなく、時間の空白にも耐えられないのかもしれない。目的とは、「こうしたい」という未来である。予測とは、「こうなるだろう」という未来である。二つは反対のもののように見える。しかし、まだ何も起きていない未来を、あらかじめ何かで満たしてしまうという点では、驚くほどよく似ている。

目的から解放された未来を、今度は予測で埋めてしまう。それは、いかにも人間らしいことのように思える。

そしてAIは、この人間の習性と非常に相性がよい。AIが社会に深く入ってくれば、人間はこれまでより多くのものを予測できるようになるだろう。すると問題になるのは、予測が間違うことだけではなくなる。
ひょっとすると、本当に考えなければならないのは、予測が正しすぎる世界なのかもしれない。予測がよく当たれば、それに従って社会をつくることは合理的になる。そして合理性が高くなればなるほど、予測から外れるもののために場所を残しておくことは無駄に見えてくる。

百人しか利用しない鉄道。数人しか通わない学校。ほとんど人の住んでいない土地。何の役に立つかわからない研究。どういう人生を送るのかわからない人間。それらは、効率だけを考えれば整理したほうがよいものに見えるかもしれない。
しかし、予期されなかった答えというものは、いつもそういう場所から生まれてきたのではなかっただろうか。
だからといって、すべてを残すことはできない。人口減少社会では、手放さなければならないものが必ず出てくる。ここにも簡単な善悪はない。予測しない社会が善で、予測する社会が悪なのでもない。限られた人間と資源で社会を維持するためには、予測も効率もTamingも必要になる。
問題は、それを最後まで完了させるかどうかなのだと思う。すべてを予測しない。すべてを最適化しない。すべての土地に用途を与えない。すべての人生に意味を求めない。そして、すべての未来にあらかじめ答えを書いておかない。

ほんの少しでいいから、まだ決まっていない場所を残しておく。誰も住まないと思われていた土地に、誰かが住み始めるかもしれない。役に立たないと思われたものが、いつか思いがけない意味を持つかもしれない。目的もなく始めたことが、その人の人生を変えるかもしれない。あるいは何も起こらないかもしれない。それでもいい。その「何も起こらないかもしれない」という可能性まで含めて残しておくのである。

それが、人口減少社会におけるUntamingなのかもしれない。Untamingとは、社会を捨てて森へ逃げることでも、秩序を壊すことでもない。人間が秩序をつくり、分類し、予測し、最適化していくことを認めたうえで、それが世界の隅々まで行き渡り、最後の空白まで埋めてしまうことだけを許さないことなのではないだろうか。

人口減少社会では、さまざまなものが希少になる。働く人も少なくなる。維持できる施設も減っていく。使える資源にも限界が生まれる。
けれども、もっと深いところで希少になっていくものがある。それは、まだ決まっていないという状態なのかもしれない。

人間は過剰なものを手放していく。しかし手放したところに生まれた空白を、また目的や予測や効率で埋めてしまうのなら、結局のところ、何も手放したことにはならない。
だから人口減少社会で守るべきものは、空白そのものなのだと思う。何になるのかわからない場所。
何のためなのかわからない時間。
どう生きるのかわからない人間。
そして、どうなるのかわからない未来。

そこだけには、答えを書き込まずにおく。人口減少社会に最後まで残しておきたい自由とは、案外、そんな「まだ答えがない」という小さな空白なのかもしれない。

透明になっていく世界で

人口減少社会では、人間はこれまで以上に透明になっていくのではないだろうか。
そんなことを考える。人が減れば、一人ひとりの存在は相対的に大きくなる。誰がどこに住んでいるのか、誰が働いているのか、誰が医療や介護を必要としているのか、どこに子どもがいて、どこに高齢者がいるのか。人にも資源にも余裕がなくなっていけば、それを知らずに社会を運営することは次第に難しくなっていくだろう。

だから人口減少社会は、人間を見えるようにする方向へ進む。それは必ずしも、誰かが人間を監視したいと望むからではない。むしろ社会を維持したいという、もっと穏やかで、もっと合理的な理由から始まるのだと思う。限られた医療を必要な人に届けたい。少ない働き手で公共交通を維持したい。介護を必要とする人を見落としたくない。行政の人手が減っても、必要なサービスを提供したい。

そのためには、知らなければならない。誰が、どこにいて、何を必要としているのか。

知らなければ分類できない。分類できなければ予測できない。そして予測できなければ、限られた資源を効率よく配置することも難しい。そう考えれば、人口減少とデジタル化、データ化、AIが結びついていくのは不思議ではない。
透明性は、悪意からやってくるとは限らない。むしろ善意と合理性の積み重ねとしてやってくる。

ここに、透明社会の難しさがある。これまで文明は、世界を見えるものにし続けてきた。人間には名前がつき、住所がつき、出生が記録され、土地には境界が引かれ、財産が記録され、所得が記録され、健康状態が記録される。地図や統計や戸籍やさまざまな登録制度は、複雑な社会を運営するために必要だった。

Tamingとは、乱暴に言えば、わからなかったものを、わかるものに変えていく営みでもあったのかもしれない。
わかるようになれば分類できる。分類すれば比較できる。比較できれば予測できる。そして予測できれば、管理することができる。
AIは、この長い流れのかなり先にある。当然ながら、透明になることには大きな恩恵がある。困っている人を見つけることができ、不正を発見することができ、必要なところに必要な資源を届けやすくなる。だから透明性それ自体を悪だと考える必要はない。

問題は、それには終わりがないことである。もう少し知れば、もう少し正確にできる。もう少しデータを集めれば、もう少し正確に予測できる。もう少し予測できれば、もう少し無駄を減らすことができる。その一つひとつにはもっともな理由がある。

そして気がつけば、知られていないものそのものが、問題として扱われるようになる。「わからない」という状態が、「まだデータ化されていない」という状態に変わる。

この二つは似ているようで、まったく違う。わからないものは、そのままわからなくてもよい。しかし「まだデータ化されていないもの」は、いつかデータ化されるべきもののように見えてしまうからである。

前に、人口減少社会では、手放したあとに生まれる空白を予測によって埋めてしまうのではないかと考えた。未来がわからないことに耐えられなくなり、「こうなるだろう」という予測によって、まだ起こっていない未来を先に埋めてしまう。
しかし考えてみれば、予測のためには透明性が必要なのである。未来を精密に予測しようとすればするほど、現在について多くのことを知らなければならない。人間がどこにいて、何をし、何を買い、何を必要とし、どのように移動し、これまでどんな選択をしてきたか。その情報が多くなればなるほど、予測は正確になる。

こうして透明性と予測は、互いを強化する。見えるから予測でき、予測したいから、さらに見ようとする。

そして前に考えたように、予測が十分に正確になれば、今度はその予測に合わせて社会が設計されるようになる。予測が未来を説明するだけではなく、予測された未来を社会の側がつくり始める。
そうなれば、Tamingはかなり完成に近づく。人間が何をするのかがわかる。どこへ行くのかがわかる。何を必要とするのかがわかる。そして、それに合わせて社会の側があらかじめ用意されている。

完全な透明性とは、Tamingが完成してしまった世界に、かなり近い。
そう考えると、少し息苦しくなる。しかも、おそらく私たちはそこへ向かっている。

文明は、見えないものを見えるようにする方向へ進んできたし、これからも進むだろう。人口減少はその必要を強め、AIはその能力を飛躍的に高めるかもしれない。社会はTamingをやめるのではなく、むしろますます精密にTameするようになっていくのだろう。
けれども、ここで一つだけ希望がある。
Tamingは、たぶん完成しない。人間は、最後まで完全には透明にならないからである。

どれほど多くのデータを集めても、人間自身にも明日の自分が完全にはわからない。昨日まで大切だったものに突然興味を失うことがある。何気なく出会ったものに心を奪われることがある。予定していなかった場所へ行き、予定していなかった人と出会い、予定していなかったことを始める。理由を尋ねられても、うまく説明できないことさえある。
人間の内部には、他人から見えない部分があるだけではない。
自分自身からも見えない部分がある。そこまで透明にすることは、おそらくできない。

そして完全な透明性に近づけば近づくほど、この小さな不透明さの意味は、むしろ大きくなっていくのではないだろうか。
半分しか見えない世界なら、見えない半分は単なる未知である。しかしほとんどすべてが見えるようになった世界では、最後まで見えないものは、ただの残りではなくなる。
そこだけが、まだ決められていない。
そこだけが、まだ予測されていない。
そこだけが、まだTameされていない。そう考えると、Untamingとは透明化を止めることではないのかもしれない。文明の流れに逆らって、すべてのデータを捨て、昔の不便な世界へ戻ることでもない。Tamingが必要だから起こるのだとすれば、透明化もまた必要に迫られて進んでいく。

それでも、全部は見なくていい。
全部を知らなくていい。そして何より、知られなくてもよいものが、この世界には存在してよい。

誰にも説明していない時間。記録されなかった行動。理由のない選択。名前のついていない感情。どこにも接続されていない小さな場所。自分でもまだ言葉にできない自分。
そういうものまで「データの欠損」と考えないこと。それが、透明になっていく社会に残すことのできるUntamingなのではないだろうか。

人口減少社会では、さまざまなものが希少になっていく。しかし本当に希少になるものは、人や土地や資源だけではないのかもしれない。
不透明であること。知られていないこと。わからないままであること。それらが、これから最も贅沢なものになっていくのかもしれない。

社会はTamingの完成へ向かっていく。人間を知ろうとし、分類し、予測し、最適化し、見えなかったものを次々と見えるようにしていく。その流れそのものを、止めることは難しいのだろう。

けれども、完成しない。最後のところで、予測から外れる何かが残る。説明できないものが残る。誰にも知られていないものが残る。そして、自分自身にもまだわからない何かが残る。

Tamingは、どこまでも完成を目指して進んでいく。
それでも、最後まで完成しない。それは勝利でも、解放でもない。完全な透明性へ向かう力がなくなるわけでもない。ただ、世界のどこかに小さな不透明さが残り続けるというだけのことなのだろう。

けれども、それで十分なのかもしれない。完全にTameされた世界が永遠に完成しないのなら、そのわずかな未完成のなかには、いつまでもUntamingが入り込む余地が残る。

Tamingが完成しない。
それは、ずいぶん小さな希望である。けれども、Tamingがどこまでも進んでいく世界で持つことのできる希望とは、もしかすると、そのくらい小さなものでよいのかもしれない。

分断は最後の答えにならない

人口減少社会は、分断された社会になっていくのではないだろうか。人が減り、社会を維持するために使える人も資源も少なくなっていけば、社会は効率を求めるようになる。人間が大勢いて、多少の無駄を抱えたままでも社会が動いていたころとは違って、誰がどこにいて、何を必要とし、何がこれから必要になり、何をもう維持しなくてよいのかを、できるだけ正確に知ろうとする。

そこでは、データが必要になる。予測が必要になる。AIが必要になる。そして、それらをつくり、扱い、そこから判断を導き出す人間が必要になる。
そうして社会のなかに、一つの境界が見えてくる。Tameする側と、Tameされる側である。

もっとも、それは昔の支配者と被支配者のような、わかりやすい分断ではないだろう。命令する人間と命令される人間が向かい合っているわけではない。おそらくもっと静かな形をとる。
制度をつくる人と、制度によって分類される人。データを見る人と、データとして見られる人。アルゴリズムを設計する人と、アルゴリズムによって判断される人。未来を予測する人と、予測される人。
そして、選択肢をつくる人と、用意された選択肢のなかから選ぶ人。最後の違いは、とりわけ重要なのかもしれない。

どちらにも「自由」はある。けれど、一方には、どんな選択肢を置くのかを決める自由があり、もう一方には、置かれた選択肢から選ぶ自由がある。同じ自由という言葉を使っていても、その二つはずいぶん違う。
人口減少社会では、この距離が大きくなっていく可能性がある。高度なシステムを設計し、データを読み、予測をつくる人間は、それほど大勢必要ではない。一方、そのシステムによって医療を受け、交通を利用し、行政サービスを受け、評価され、分類される人は社会の大部分を占めるだろう。
少数の人間と高度なシステムが、多数の人間の生活を支える。それは人手の減っていく社会では、とても合理的な仕組みである。
だからこそ、この分断は厄介なのである。
悪意から生まれるとは限らないからだ。誰かが社会を支配してやろうと考えた結果ではなく、少ない人間で社会を維持するために、合理的なことを一つずつ積み重ねていった先に生まれる。効率よく医療を届けたい。限られた交通を維持したい。社会保障を必要な人に届けたい。そのために情報を集め、予測し、最適化する。

その一つひとつは、おそらく必要なのである。Tamingは、起きるべきだから起きるのではなく、必要に追い込まれて起きる。そのことを忘れてしまえば、Tameする側を悪者にし、Tameされる側を犠牲者にするだけの話になってしまう。

しかし現実は、それほど単純ではない。何より、Tameする側にいるのも、人間なのである。

AIが人間をTameし、人間がAIにTameされるというだけではない。そのAIを設計する人がいる。何をデータとして集めるかを決める人がいる。何を正常とみなすかを決める人がいる。どこまでを許容し、どこからを例外とするのかを決める人がいる。
その向こう側にも人間がいる。評価される人。分類される人。予測される人。用意されたサービスを利用する人。

そう考えれば、これはAIと人間との分断ではない。人間と人間とのあいだに、AIや制度やデータが入り込み、その距離を大きくしていくということなのかもしれない。

けれども、ここまで来て、不思議なことに気づく。本当に人間を、Tameする側とTameされる側の二つに分けることができるのだろうか。

AIをつくっている人も、病院へ行けば患者になる。行政制度を設計している人も、銀行へ行けば顧客として評価される。教師は生徒をTameする側にいるかもしれないが、その教師自身も学校制度のなかではTameされている。会社を経営している人も、消費者としてはアルゴリズムに予測される。
一人の人間のなかに、Tameする側とTameされる側が同居している。そうだとすれば、社会を二つに分けていたはずの境界線は、急に曖昧になる。

境界がないのではない。境界は確かにある。権力の差もある。知識の差もある。情報へのアクセスにも差がある。自分を分類する仕組みに対して発言できる人と、ほとんど発言できない人との違いは、ときに非常に大きい。

けれども、その境界線が、同じ場所にじっとしていないのである。こちらでは見る側だった人が、あちらでは見られる側になる。こちらでは決める側だった人が、別の制度のなかでは決められる側になる。今日中心にいた人が、明日には周辺へ移るかもしれない。

人間はTameしながら、Tameされている。この事実は、分断そのものをなくしてはくれない。しかし、分断を少し違ったものに見せてくれる。

Tamingには、分断を固定しようとする力がある。人を分類する以上、「あなたはこちら側です」と決めたほうが都合がよい。昨日Aだった人が今日はBになり、明日はどちらでもなくなってしまえば、制度にとっては扱いにくい。Tamingは対象を安定させ、分類し、予測可能にしようとする。
けれども、人間はそこからはみ出す。役割を変える。考えを変える。予想しなかった場所へ移る。昨日まで受け入れていたものに疑問を持つ。

そして興味深いことに、そのはみ出しは、Tameされる側からだけ起こるわけではない。制度をつくった人が、自分のつくった制度に疑問を持つかもしれない。AIを設計した人が、その使われ方に耐えられなくなるかもしれない。規則を運用していた人が、どうしても規則どおりには扱えない一人の人間に出会うかもしれない。

Untamingは、Tamingの外からだけやってくるのではない。
Tamingの内部からも生まれる。これは、とても小さいけれど、大切なことなのではないだろうか。

社会の分断がなくなるという希望ではない。むしろ分断は、これからもっと深くなることさえあるだろう。見る側と見られる側、予測する側と予測される側、選択肢をつくる側と、与えられた選択肢から選ぶ側。その距離は、ときには耐えがたいほど大きくなるかもしれない。
けれども、その境界が永遠に同じ場所に固定されるとは限らない。なぜなら、Tamingそのものが完成しないからである。

完全に見ることはできない。完全に予測することもできない。完全に人間を分類することもできない。そして、Tameする人間自身もまた、別の何かによってTameされている。
だから「Tamingは完成しない」という言葉を、分断など心配しなくてもよいという慰めにしてはいけないのだと思う。
そんなに大きな希望ではない。分断は起こる。固定しようとする力も働く。透明性は高まり、予測は精密になり、Tamingはますます強くなっていく。それでも、境界のどこかがわずかに動いてしまう。分類から外れる人間が現れる。見る側にいた人が、突然その見方そのものを疑い始める。

完全な秩序になる寸前で、何かが少しずれる。そのずれが世界を救うわけではない。分断を消してくれるわけでもない。

ただ、分断を最後の答えにしない。
それだけなのだと思う。Tamingが完成しないということは、自由が勝利するという約束ではない。Tameする側とTameされる側が、いつか仲良く一つになるという約束でもない。

それはもっと小さな希望である。どれほど強固な分断が生まれても、それが世界の最終的な形になるとは限らない。

境界線は引かれる。しかし、境界線は動く。人間は分類される。しかし、分類されたままではいない。人間は予測される。しかし、ときどき予測から外れる。そしてTameする側にいる人間さえ、自分がつくったTamingから外れてしまうことがある。
人口減少社会がどれほど効率化され、透明になり、予測可能なものになっていったとしても、そこにいるのが人間であるかぎり、おそらく最後の線だけは、きれいには引けない。
Tamingは完成しない。だから、分断も完成しない。それは分断のない世界を夢見るよりも、ずいぶんささやかな希望である。

けれども、完成へ向かおうとする力がこれほど強い世界では、最後まで完成しないということそのものが、案外いちばん確かな希望なのかもしれない。

エビデンスのないものを残せるか

人口減少社会では、「エビデンス」という言葉が、今よりずっと大きな力を持つのではないだろうか。
そう考えていると、すでにそのような世界をどこかで見たことがあるような気がしてくる。医学である。
現代医学において、エビデンスは非常に重い言葉になった。しかし考えてみれば、それには十分な理由がある。人の生命や健康にかかわる判断を、医師個人の経験や勘だけに委ねるわけにはいかない。ある治療が本当に効果を持つのか、副作用はどの程度なのか、別の治療と比べてどちらが優れているのか。できる限り客観的に確かめようとすることには、大きな意味がある。
エビデンスは、医学を迷信や権威や個人の思い込みから遠ざけるための、大切な知恵だった。しかも本来のEvidence-Based Medicineは、研究結果だけに従う医学ではない。最良の研究エビデンスだけでなく、臨床家の専門的判断と患者本人の価値観や希望を合わせて判断することが、その基本に置かれている。つまり最初から、「エビデンスだけでは人間について決められない」という慎重さを含んだ考え方だった。

それでも、「エビデンス」という言葉が強くなっていくと、いつのまにか微妙な変化が起こる。「エビデンスを参考にする」から、「エビデンスに従う」へ。そしてさらに、「エビデンスがなければ正当化できない」へ。

この最後の変化は小さく見えるが、意味はずいぶん違う。エビデンスが、よりよい判断をするための道具であるうちは、それは人間を助ける。しかし、エビデンスのない判断を許さないというところまで進めば、エビデンスは単なる知識ではなく、何かをしてよいか、何かを残してよいかを決めるための資格になっていく。

医学が経験しているこの変化は、人口減少社会がこれから経験することを、少し先に見せているのかもしれない。
人口が増え、社会にも余裕があった時代なら、「よくわからないが、とりあえず残しておこう」ということができた。利用者の少ない施設があってもよい。多少効率の悪い交通があってもよい。すぐには役に立たない研究を続けてもよい。何のために存在しているのか、うまく説明できないものが社会の隅々に残っていても、それを急いで処分する必要はなかった。
ところが人口が減り、人もお金も限られてくると、すべてを維持することが難しくなる。そこで、「これは本当に必要なのか」という問いが出てくる。

そして、その問いに続くのが、
「必要だというエビデンスはあるのか」
なのだろう。この問い自体は正しい。すべてを残すことができないのなら、何らかの根拠に基づいて選ばなければならない。声の大きな人の要望だけを聞くより、データを調べ、実際の効果を確かめ、できるだけ合理的に決めるほうがよい。

だからエビデンスは強くなる。人口減少社会とエビデンスは、おそらくとても相性がよい。

けれども、ここで少し立ち止まらなければならない。エビデンスによって、すべての価値を同じように捉えることができるわけではないからである。

何人利用したかは数えられる。いくら費用がかかったかも計算できる。ある施策によって何らかの指標がどれだけ変化したかも調べることができる。しかし、小さな図書館が町の隅にあることが、一人の子どもの人生にどんな意味を持つのかを、同じように測ることは難しい。ほとんど人の乗らない鉄道が、そこに住む人に与えている安心も、数字にはなりにくい。何も生産していない森も、目的もなく歩く時間も、ただ一人で何もしない時間も、測ろうと思えば何かの指標には変換できるだろうが、それによってそのものの全部が捉えられるわけではない。
それでも、測ることのできる社会では、測ろうとする。測れば比較できるからである。比較できれば優先順位をつけることができる。そして優先順位をつければ、限られたものを効率的に配分することができる。

ここで、これまで考えてきた人口減少社会の姿が、一つにつながってくる。まず、社会を透明にする。何がどこにあり、誰が利用し、誰が必要としているのかを見えるようにする。

見えるようになったものをデータにする。
データから将来を予測する。そして、その予測や測定結果をエビデンスとして、何を残し、何を手放すのかを決める。

透明化され、データ化され、予測され、エビデンス化され、最後に選別される。一つひとつは合理的である。それだけに、この流れはとても強い。

そしてここにも、Tamingがある。Tamingとは、乱雑な世界に秩序を与えることだった。見えるようにし、分類し、予測し、扱えるようにする。エビデンスもまた、その長い流れの一部なのかもしれない。

しかしエビデンスによるTamingには、少し特別なところがある。「私がそう決めた」と、誰も言わなくてよくなるからである。

「データがそう示しています」
「エビデンスがあります」
「統計的にはこちらが合理的です」
そう言われると、決定した人間の姿が薄くなる。誰かが決めたのではなく、あたかも現実そのものが答えを出したように見える。

けれども、エビデンスは空から降ってくるものではない。何を測るかを人間が決める。どの結果を成功と呼ぶかも人間が決める。何と何を比較するかも、どこまでの期間を見るかも、どの違いを重要と考えるかも、人間が決める。
その意味では、エビデンスの背後にも、やはり人間がいる。このことを忘れると、エビデンスは強すぎる言葉になる。

そして医学は、その危うさを、社会のほかの領域より少し先に経験しているように見える。医学の興味深いところは、しかし、最後までエビデンスだけでは終われないことである。

研究からわかるのは、多くの場合、ある条件の人々について、ある治療がどの程度の効果を持ったかということである。しかし医師の前に座っているのは、平均的な人間ではない。
一人の人間である。その人には、その人の身体があり、その人の過去があり、その人の恐怖があり、その人が大切にしたいものがある。平均として長く生きられる治療が、その人にとって最良とは限らない。多少の危険を受け入れてでも自由に暮らしたい人もいるだろうし、少しでも危険を減らしたい人もいるだろう。

だから最後には、「一般にはどうなのか」と「この人はどうなのか」の間に、どうしても小さな隙間が残る。
私は、この隙間が大切なのだと思う。そこに臨床家の判断が入り、患者の希望が入り、まだ研究されていない事情が入り、説明しきれない何かが入り込む。

つまり医学は、エビデンス化が極めて進んだ世界でありながら、同時に、エビデンスだけでは最後まで人間をTameできないことを示しているとも言える。
だとすれば、医学が私たちに見せている未来は、必ずしも暗いものばかりではない。人口減少社会も、おそらくエビデンスを手放すことはできないだろう。むしろ、それまで以上に必要になる。限られた資源を配分し、何を残し何を手放すかを決めるためには、経験や権威だけでは足りない。データも統計も研究も必要になる。

エビデンスのない時代へ戻ろうとする必要などない。ただし、エビデンスに基づく社会と、エビデンスだけによって存在を許される社会は違う。

Evidence-Basedであることと、Evidence-Onlyであることは、同じではない。
その間に、ほんの少し余白を残しておかなければならないのだと思う。役に立つという証拠はない。それでも残しておこう。

利用者は少ない。それでもなくさないでおこう。将来何になるのかわからない。それでも、もう少し待ってみよう。

効果を数字では示せない。それでも、この人には意味があるのかもしれない。
そんな判断が許される場所である。人口減少社会で最も贅沢になるのは、ひょっとすると、そこなのかもしれない。

「エビデンスはありません。それでも、これは残しておきましょう」
と言える余裕。効率を求めざるを得ない社会でありながら、すべてを効率だけでは決めない。エビデンスを尊重しながら、エビデンスにできないものの存在まで否定しない。Tamingを必要としながら、Tamingを最後まで完成させない。

医学が少し先に私たちに見せているのは、未来の完成形ではないのだろう。むしろ、エビデンスなしには戻れない。それでも、エビデンスだけでは人間を扱えないという矛盾なのだと思う。

そして、その矛盾が消えないことは、悪いことばかりではない。矛盾が消えないかぎり、そこには隙間が残る。

エビデンスによって世界を知ろうとしても、最後まで測りきれないものが残る。平均を知っても、目の前の一人は平均にはならない。予測しても、その予測から外れる人間がいる。
だから、ここでもTamingは完成しない。エビデンスがどれほど強い言葉になったとしても、その言葉だけでは決められないものが最後に残る。

その小さな残りもののなかに、人口減少社会のUntamingは、ひっそり生き続けるのかもしれない。

理由はありません。それでも、これは私だけのものです

人口減少社会には、プライバシーがなくなるのではないだろうか。
そんなことを考えた。人口が減り、限られた人数で社会を維持しなければならなくなれば、一人ひとりについて、これまでより多くのことを知る必要が出てくる。誰がどこに住んでいるのか。誰が医療を必要としているのか。誰が介護を必要としているのか。どこに子どもがいて、どこに高齢者がいて、誰がどのような行政サービスを必要としているのか。人にも財源にも余裕がなくなるほど、必要なものを必要な人へ正確に届けることが求められる。

そのためには、知らなければならない。
そして知ることには、強い合理性がある。ここが、人口減少社会におけるプライバシーの問題を難しくする。

誰かが人間を監視したいから情報を集めるとは限らない。むしろ、困っている人を見落としたくないから知ろうとする。医療を効率よく届けたいから知る。介護を必要な場所へ届けたいから知る。公共交通を利用する人がどこにいるのか知る。行政の人手が少なくなってもサービスを維持するために知る。
人口減少、効率化、データ化、透明化、予測、エビデンス。これまで一つずつ考えてきたものは、別々の現象ではないのかもしれない。社会について知り、限られたものをできるだけ合理的に使おうとするとき、その流れは自然につながっていく。
やがて人間そのものについても、知ることが求められる。だから問題は、プライバシーがあるか、ないかということだけではない。

もっと厄介なことが起こるのではないだろうか。プライバシーは依然として認められている。情報を提供しない自由も残っている。誰も強制してはいない。

ただ、こう尋ねられる。「もちろん提供したくなければ、提供しなくてもかまいません。でも、なぜですか?」

この「なぜ」が重い。プライバシーそのものを奪われるよりも、ある意味では息苦しいかもしれない。

禁止されるなら抵抗できる。ここから先は私の領域だ、と言うことができる。しかし、自由は認められているのに、その自由を使うたびに理由を尋ねられるようになったらどうだろう。
「何か隠したいことがあるのですか」
「この情報を共有すれば、あなた自身にも便利になります」
「よりよいサービスのために必要なのです」
「社会全体のためにも有益です」
どれも、もっともな言葉である。
そして、おそらく善意から発せられている。だから断るほうが、理由を説明しなければならなくなる。

本来、プライバシーとはそのようなものだったのだろうか。私たちは、何か悪いことをしているから秘密を持つのではない。誰かに知られたら困ることだけを隠しているわけでもない。ただ、自分だけに留めておきたいことがある。誰にも話さない考えがあり、誰にも説明しない時間があり、どこにも記録されなくてよい行動がある。

秘密にしておく理由があるから、秘密にするのではない。
理由がなくても、知られなくてよい。プライバシーというものの核心は、ひょっとするとそこにあるのではないだろうか。

そう考えると、プライバシーの問題は「隠す自由」から「説明しない自由」へと移っていく。
どこへ行ったのですか。
なぜそこへ行ったのですか。
なぜこのサービスを使わないのですか。
なぜ情報を提供しないのですか。
なぜ一人でいるのですか。
なぜそのような生き方をしているのですか。社会が透明になっていくとは、こうした問いに答えられるようになっていくことなのかもしれない。行動に理由がつき、理由がデータになり、データから人間が分類され、分類から次の行動が予測される。

考えてみれば、Tamingとは命令することだけではない。「説明してください」と言い続けることによっても、人間をTameすることができる。

人間が何をしているのかわからなければ、人間を分類することは難しい。しかし人間が自分について説明してくれれば、その人は少しずつわかる存在になる。どんな価値観を持ち、何を欲し、何を恐れ、これから何を選ぶ可能性が高いのかが見えてくる。
だから完全な透明性とは、Tamingの完成にかなり近い。何をしているのかわかるだけではない。なぜそうしているのかまでわかる。そして次に何をするのかまで予測できる。

そこまで人間が透明になったとき、Tamingはほとんど完成する。
しかし、それは本当に可能なのだろうか。
ここで一つ、不思議なことが残る。人間自身が、自分のことを完全には知らないのである。

なぜあのとき、あちらの道を歩いたのだろう。なぜ突然あの本を読みたくなったのだろう。なぜ昨日まで何とも思わなかった人が、ある日突然大切になったのだろう。なぜ長年続けてきた仕事を、ある朝どうしてもやめたくなったのだろう。
あとから理由をつくることはできる。けれども、本当のところは自分にもわからないことがある。

人間には、他人から見えない部分があるだけではない。
自分自身からも見えない部分がある。このことは、透明社会にとってとても厄介である。

どれほど多くのデータを集めても、人間のすべてをデータにすることは難しい。本人さえ知らないものを、本人に説明させることはできない。本人自身が予想していなかった行動をする可能性も最後まで残る。
だから人間は、完全な透明社会には、おそらく完全には耐えられない。そして奇妙なことに、その耐えられなさに、小さな希望がある。

社会がどれほど「なぜ」と尋ねても、人間にはいつか答えられないところが出てくるからである。
「なぜですか」
「わかりません」
それで終わることがある。
あるいは、
「それについては説明しません」
と言うこともある。さらにその先には、もっと大切な言葉があるのかもしれない。

「理由はありません。」
理由がないということを、理由の不足として扱わない。説明できないことを、情報の欠損だと考えない。わからない人間を、まだ十分に分析されていない人間と考えない。
ここで、以前考えたエビデンスの問題と、プライバシーの問題が不思議なほどよく似てくる。エビデンスを重視する社会では、「それを残すエビデンスがありますか」と尋ねられる。

透明性を重視する社会では、「それを知られたくない理由がありますか」と尋ねられる。
どちらも合理的に聞こえる。けれども、どちらも存在する側に理由を要求している。

だから以前、
「エビデンスはありません。それでも、これは残しておきましょう」
と言える社会であることが大切なのではないかと考えた。プライバシーについても、ほとんど同じことが言える。

「理由はありません。それでも、これは私だけのものです。」
この言葉が許されるかどうかである。これは社会に反抗する宣言ではない。データをすべて拒否することでもない。医学や介護や行政が必要な情報を使うことまで否定するものでもない。

ただ、社会が人間について知ることのできる範囲には、どこかに終わりがあってよいということである。
その境界線についてまで、合理的な説明を求めない。
「ここから先は嫌です」
それだけでよい。
「なぜですか」と尋ねない。人口減少社会では、このような余裕こそ失われやすいのだろう。人も資源も限られてくれば、わからないことは減らしたくなる。不確実なものを予測したくなる。予測のためにデータが必要になり、データのために透明性が必要になる。

その流れを止めることは難しい。
Tamingは進んでいく。だから、プライバシーを未来永劫そのまま守ることができるなどという、あまり大きな希望を持つ必要はないのかもしれない。

もっと小さな希望でよい。人間には最後まで説明できないところが残る。

誰にも話さないことが残る。
記録されなかった時間が残る。そして何より、自分自身にもまだわからない自分が残る。

その小さな不透明さがなくならないかぎり、Tamingも完成しない。人口減少社会で本当に守らなければならないプライバシーとは、秘密の総量ではないのかもしれない。

理由を持たないままでいる自由。何のためでもない時間を過ごす。説明できない選択をする。誰にも言わないことを持つ。そして知られたくない理由を尋ねられたとき、理由を提出することなく、そのまま黙っていることができる。

そんな小さな不透明さである。人間は完全な透明社会に耐えられるのだろうか。

たぶん、耐えられない。
けれども、それでよいのだと思う。耐えられない人間がいるかぎり、完全な透明社会もまた完成しない。

Tamingが永遠に完成しないという希望は、こんなところにも、ひっそり残っている。

小さな危険を残しておく

人口減少社会では、テクノロジーによる監視が今より強くなっていくのではないだろうか。そう考えると、監視カメラに囲まれ、国家や企業が人間の行動を逐一記録するような社会を想像してしまう。しかし、人口減少社会の監視は、おそらくそのような物々しい姿ではやってこない。

もっと穏やかな顔をしているのではないだろうか。「監視」ではなく、「見守り」という名前で。

人が少なくなれば、人間が人間を見守ることは難しくなる。一人暮らしの高齢者が増えても、その一人ひとりを誰かが訪ねて歩くことはできない。介護する人も医療を支える人も減っていく。それでも、倒れている人を放っておくわけにはいかない。異変が起きれば、できるだけ早く気づきたい。
そこでテクノロジーが、人間に代わって見守り始める。それ自体は悪いことではない。むしろ、人間だけではできなくなったことを補ってくれる、大切な技術なのだろう。人がいなくても異変に気づくことができるなら、それによって助かる人もいる。家族の不安も小さくなるかもしれない。介護する人の負担も減らせる。

だから人口減少社会にテクノロジーによる見守りが広がっていくとすれば、その理由は、人間を支配したいからではない。
人間を助けたいからである。
ここが難しい。これまで考えてきたTamingも、いつもそうだった。Tamingは、誰かが世界を支配したいからだけ起こるのではない。むしろ多くの場合、必要に追い込まれて起こる。混乱を減らしたい。危険を減らしたい。限られたものを上手に使いたい。誰かを助けたい。

一つひとつの理由は、もっともなのである。しかし、人間による見守りと、テクノロジーによる見守りには、少し違うところがある。

人間は、見落とす。忘れる。疲れる。席を外す。ときには気づいていても見ないふりをする。

見守りという仕事から考えれば、それは人間の欠陥である。ところがTamingという視点から眺めると、それらの欠陥によって、これまで社会には無数の隙間が残されていたことに気づく。
誰にも見られていない時間があった。
誰にも記録されなかった行動があった。
誰にも気づかれない小さな変化があった。テクノロジーは、その隙間を少しずつ埋めていく。

しかもテクノロジーは進歩する。最初は、倒れたことだけがわかればよかったかもしれない。けれども、もう少し細かく見れば、倒れる前の変化を発見できるかもしれない。さらに別の情報も見れば、もっと早く異変を見つけられるかもしれない。

そうなると、「どこまで見るか」という境界線は少しずつ動く。問題は、技術が際限なく監視したがることではない。

もう少し見れば、もう少し安全になるかもしれないことなのである。
ここに、見守りの難しさがある。「ここから先は見ないでください」と言うことは、技術的には可能である。居間まではよいが寝室は嫌だ、映像は嫌だが最低限のセンサーならよい、必要な異常だけを知らせてほしい。そうした境界をつくることはできる。

けれども、実際にその境界を守り続けられるかというと、話はずっと難しくなる。もし、その見なかった場所で事故が起きたらどうするのだろう。

「あそこまで見ていれば防げたかもしれない」
と誰かが思う。家族が思うかもしれない。介護する人が思うかもしれない。そして、おそらく本人までそう思う。

すると境界線は少し動く。
もう少しだけ見てもらおう。
それによって安心が増える。
やがてそこにも慣れる。そしてまた、もう少し見れば、もう少し安全になるという技術が現れる。

こうして境界線は、誰かに強制されることもなく、ゆっくりと後退していく。だから監視の問題を、同意するかしないかだけで考えることもできないのだと思う。

「同意しますか」
「はい」
それだけなら自由に見える。しかし、「こちらのほうが安全です」「家族も安心します」「介護する人の負担も減ります」と説明されたあとで同意することと、誰からも期待されずに自由に選ぶことは、完全には同じではない。

人口減少が進み、人間による見守りという選択肢そのものが乏しくなれば、なおさらである。
やがて選択は、
「見守られるか、見守られないか」
ではなく、
「見守られるか、自分で危険を引き受けるか」
というものになるのかもしれない。そう考えると、問題の姿が少し変わってくる。

プライバシーを守るためには、監視されない権利だけでは足りない。
危険を引き受ける権利が必要になる。一人で暮らすことには危険がある。誰にも居場所を知らせずに出かけることにも危険はある。健康状態を常時把握させなければ、異変の発見が遅れるかもしれない。

けれども、人間は危険を完全になくすためだけに生きているのだろうか。すべての転倒を防ぐこと。すべての病気を早く発見すること。すべての事故を予測すること。それらが技術的に可能になっていけば、社会がそれを求めるのは自然である。

しかし、安全を最大にすることと、よく生きることとは、完全に同じではない。ここで、TamingとUntamingの境界が見えてくるように思う。

Tamingする側が言う。
「こちらのほうが安全です」
その言葉を否定する必要はない。本当に安全なのであれば、「そんなものは嘘だ」と言う必要もない。

Untamingは、もっと静かなところにある。「そうですね。そちらのほうが安全だと思います」

と認める。
そして、そのあとに、
「それでも、ここから先は見ないでください」
と言う。
これは意外に強い言葉である。技術を否定していない。エビデンスも否定していない。危険を過小評価しているわけでもない。

安全な選択肢がどちらかを理解したうえで、あえて少しだけ安全でないほうを選ぶ。そこで起こり得る小さな危険を、自分の人生の一部として引き受ける。

ここに、人口減少社会におけるUntamingの一つの姿があるのではないだろうか。これまで、人口減少社会について考えながら、何度も同じところへ戻ってきた。

エビデンスについては、
「エビデンスはありません。それでも、これは残しておきましょう」
と言えることが大切なのではないかと考えた。
プライバシーについては、
「理由はありません。それでも、これは私だけのものです」
と言えることが大切なのではないかと考えた。
そして見守りについては、
「そちらのほうが安全なのはわかっています。それでも、ここから先は見ないでください」
と言う。三つは、同じことを言っているのかもしれない。

エビデンスを捨てるのでもない。合理性を否定するのでもない。テクノロジーを拒絶するのでもない。
合理性に、最後の一言を与えない。
ここが大切なのだと思う。合理性には耳を傾ける。データを見る。危険を知る。専門家の話を聞く。AIの予測も参考にする。

そのうえで、最後の最後に、
「それでも」
と言える場所を残す。文明が人間をTameしていくとき、最も強力なのは命令ではないのかもしれない。「こうしなさい」ではなく、「こちらのほうが合理的ですよ」と示すことのほうが、ずっと強い。

合理的な選択だけを繰り返していけば、強制などなくても、人間の行動は少しずつ同じ方向へ整えられていく。
安全であること。効率的であること。予測可能であること。
一つひとつはよいことである。しかし、それらがすべての判断の最後に置かれるようになったとき、人生のなかから何かがなくなる。

だから、小さな危険まで取り除かせないことが必要なのだと思う。もちろん、ここで言う危険とは、他人を重大な危険に巻き込むことではない。自分の人生に残る、取り返しのつく程度の不確実さ、自分自身で引き受けることのできる余白のことである。

一人で歩く危険。
誰にも見られていない時間を過ごす危険。
少しだけ遠回りする危険。誰にもすぐには助けてもらえない時間を持つ危険。

それらまで完全に消してしまったら、人間は安全になるかもしれない。しかし同時に、自分の人生を自分で引き受ける場所も小さくなってしまう。

完全な安全とは、完全な保護である。そして完全な保護は、あるところから完全なTamingに近づいていく。

だからUntamingとは、大きな危険へ飛び込むことではないのだろう。無謀になることでも、技術以前の世界へ戻ることでもない。
むしろ、ほんの少しだけ危険を残すこと。人間には間違える自由がある。遠回りする自由がある。人から見れば非合理な選択をする自由がある。そして、自分で引き受けられる危険まで、すべて安全に変えてもらわなくてもよい。

そんな小さな領域を手放さない。人口減少社会では、人間の不足をテクノロジーが埋める。人間が見守れなくなった場所をセンサーが見守り、見落としていたものをAIが発見し、気づかなかった危険を予測する。

それは必要なことなのだろう。
Tamingは、必要だから起こる。だから、それを止めることがUntamingなのではない。

必要なところまでは受け入れる。助けてもらう。見守ってもらう。データも使う。

それでも、どこかで線を引く。そして「もっと安全になりますよ」と言われても、その線を動かさないことがある。

「わかっています。それでも、ここまででいいのです。」
その一言を言える場所が残っているかぎり、Tamingは完成しない。人口減少社会に必要なのは、危険をなくす技術だけではないのだと思う。

見ないことのできる技術。記録しないという設計。安全ではない選択をした人を、ただちに愚かだとみなさない社会。そして何より、合理的でないというだけで、その選択を奪わないこと。
自由というものは、完全に安全な場所にだけ存在するものではない。むしろ自由には、最初から少しだけ危険が混じっている。

だから、その小さな危険まで取り除いてはいけない。そして、どれほど合理性が正しかったとしても、

合理性に、最後の一言を与えてはいけない。
最後の一言を残しておく。
「それでも。」
もしかすると、人口減少社会に残すことのできるUntamingとは、そのたった一言なのかもしれない。

何の役にも立たないものを残す

人口減少社会からは、美が消えていくのではないだろうか。
そんなことを考える。人が減り、社会を維持するための人もお金も少なくなっていけば、何を残し、何を手放すのかを決めなければならなくなる。そのとき、病院や道路や交通や行政サービスの必要性は、比較的説明しやすい。利用する人がいる。生活に必要である。なくなれば困る人がいる。

けれども、美しいものは困る。古い橋をなぜ残すのか。誰も使わなくなった駅をなぜ残すのか。町角の小さな彫刻をなぜ残すのか。訪れる人も少ない美術館に、なぜお金を使うのか。

もちろん説明はできる。観光客を呼ぶから。地域の魅力になるから。教育に役立つから。人々のウェルビーイングに貢献するから。

どれも間違ってはいない。しかし、そうやって美しいものの存在を正当化しているうちに、どこかで奇妙な逆転が起きる。

美しいから残すのではなく、役に立つから残すようになるのである。そこまで考えて、これは美だけの問題ではないことに気づく。

文学もそうである。「この小説を読むと、どのような効果がありますか」と聞かれれば、いろいろな説明ができるだろう。語彙が豊かになる。想像力が育つ。異なる人生を疑似体験できる。社会や歴史について考える契機になる。

しかし、本を読むということの大部分は、本当にそのような目的のために行われているのだろうか。一冊の小説を読み終えたあと、何かが解決するとは限らない。

むしろ、それまで問題だと思っていなかったことが問題に見えてくることさえある。わかっていたはずのことが、わからなくなる。

自分はこの人間を嫌っていると思っていたのに、なぜかその人のことを考え続けてしまう。善と悪に分けられると思っていた世界が、読んだあとには分けられなくなる。
文学は、ときどき答えをくれるどころか、答えを壊してしまう。Tamingが世界をわかるものにしていく営みだとすれば、文学は、そのわかったはずの世界をもう一度わからなくする。

そういうところがある。
音楽は、さらに困る。一つの曲を聴いて心を動かされたとき、「なぜですか」と聞かれても、うまく答えられないことがある。旋律やリズムや和声について分析することはできても、それによって、なぜ自分がその音の連なりにこれほど心を動かされたのかが、すべて説明されるわけではない。

そもそも音楽は、何かを意味している必要さえない。
何かを主張しなくてもよい。
社会問題を解決する必要もない。
役に立つ必要もない。ただ音が流れ、それを聴いた人間の内部で、何かが起こる。

その「何か」に名前をつけなくてもよい。考えてみれば、美も文学も音楽も、Tamingとはもともと少し相性が悪いのかもしれない。

Tamingは分類する。
測定する。
説明する。
目的を与える。
比較する。
予測する。そして、できるだけ世界を扱えるものにしていく。

ところが美しいものの前では、ときどき「なぜ美しいのかわからない」ということが起こる。文学は一つの意味に回収されることを拒み、音楽は意味そのものを必要としない。
そこには、説明できないものが残る。だから人口減少社会において本当に心配すべきなのは、美術館が閉館するとか、図書館が減るとか、芸術に使われる予算が少なくなるとか、それだけではないのだと思う。

もっと静かな変化である。美や文学や音楽が、生き残るために「何の役に立つのか」を説明しなければならなくなること。

こちらのほうが深刻なのかもしれない。もちろん、芸術が社会の役に立つことはある。文学が人間への理解を深めることもある。音楽が人を慰めることもある。美しい風景が人を呼び、地域を豊かにすることもある。

それらを否定する必要はない。問題は、役に立つことが、その存在を許される条件になったときである。

美術館は観光振興のために必要です。
文学は教育のために必要です。
音楽は健康のために必要です。芸術祭は地域経済を活性化するために必要です。

そう説明しているうちに、文化は少しずつTameされていく。美は地域資源になり、文学は教育資源になり、音楽は健康資源になり、文化は経済資源になる。

もちろん、それでも美術は美術であり、文学は文学であり、音楽は音楽なのだろう。けれども、どこか大切なものが抜け落ちている。

何のためでもなく存在してよいという自由である。このことを考えていると、これまで人口減少社会について考えてきたことが、また同じところへ戻ってくる。

エビデンスを求められたときには、
「エビデンスはありません。それでも、これは残しておきましょう」
と言えることが大切なのではないかと考えた。
プライバシーについては、
「理由はありません。それでも、これは私だけのものです」
と言える場所を残したいと思った。
テクノロジーによる見守りについては、
「そちらのほうが安全なのはわかっています。それでも、ここから先は見ないでください」
と言えることが自由なのではないかと考えた。
そして美や文学や音楽についてなら、
「それは何の役に立つのですか」
と尋ねられたとき、
「わかりません。それでも、残しておきたいのです」
と答える。
すべて同じ構造をしている。
合理性に反抗しているのではない。科学を否定しているのでも、データを捨てようとしているのでもない。

合理性の言うことを聞く。費用も見る。利用者数も数える。優先順位も考える。
けれども、
合理性に最後の一言を与えない。
そのことなのだと思う。そして、もしかすると文学や音楽や美というものは、人類がずっと昔から持ってきた、合理性に最後の一言を与えないための場所だったのではないだろうか。

何の役にも立たなくても、人は歌った。
答えがなくても物語を書いた。
何も解決しなくても絵を描いた。
誰にも読まれないかもしれない詩を書いた。それらは社会を豊かにした、と後から説明することはできる。しかし、人間が最初から社会を豊かにするという目的だけで歌い、物語を書き、絵を描いてきたわけではないだろう。

理由より先に、何かがあったのである。
書きたかった。
歌いたかった。
描きたかった。
見ていたかった。
それだけで始まるものが、人間にはある。だから美や文学や音楽には、最初から少しUntamingが含まれているのかもしれない。

それらは世界を壊すわけではない。制度に反乱を起こすわけでもない。合理性に勝とうとするわけでもない。
ただ、世界には説明しきれないものがあるという事実を、消さずに残している。この点で、Wabi-Sabiについて考えてきたこととも重なってくる。

完璧でないこと。
完成していないこと。
永遠ではないこと。
そして、もう一つ加えるなら、
説明しきれないこと。ひびの入った器がなぜ美しいのか。それを完全に説明する必要はない。

古びた壁をなぜ残したいのか。経済効果を計算する必要もない。一冊の本をなぜ手放せないのか。教育的価値を証明する必要もない。

ある音楽をなぜ何十年も聴き続けるのか。その理由が本人にもわからなくてもよい。
説明できないものが存在してよい。
それ自体が、Tamingの完成を妨げる。だから、人口減少社会から美が消えるのではないのだと思う。

むしろ人口が減り、使われなくなった建物が増え、庭が崩れ、草が戻り、人間が手を引いた土地に別の時間が流れ始めれば、これまでとは違った美が生まれることさえあるだろう。
不完全なもの。
古びていくもの。
役目を終えたもの。
人間の管理から少しずつ外れていくもの。そこにはWabi-Sabiに近い美が現れるかもしれない。

だから、美そのものはおそらくなくならない。
危ういのは、もっと別のものである。
美を、美のまま残しておく余裕。文学を文学のまま、音楽を音楽のまま、何か別の効用に翻訳することなく存在させておく余裕。

人口減少社会が本当に豊かな社会になれるかどうかは、そこにかかっているのかもしれない。
何もかも残すことはできない。
だから選ばなければならない。それでも、ときどき一つくらいは、理由のないものを残す。

誰も読まない本。
誰も聴かない音楽。
ほとんど誰も見ない絵。
何の役にも立たない古い木。維持する合理的な理由など、うまく説明できない場所。

それらを前にして、
「残すエビデンスがありますか」
と問われたら、
「ありません」
と答える。
「それなら、何のために残すのですか」
と聞かれたら、
「わかりません」
と答える。
それでも残す。
そこには、何の勝利もない。
社会が救われるわけでもない。ただ、説明されなかったものが一つだけ残る。

Tamingが世界のすべてを説明し、分類し、測定し、役に立つものへ変えていこうとするとき、その一つの説明不能なものが残っている。
たったそれだけのことなのかもしれない。けれども、その一つが残っているかぎり、世界はまだ完全にはTameされていない。

何の役にも立たないものを、そのまま残しておく。それは人口減少社会にとって、ずいぶん贅沢なことになるだろう。

だからこそ、その贅沢を、全部は手放さないほうがよいのだと思う。

内側を残す

人口減少社会では、何もかもが曝け出されてしまうのではないだろうか。
そんなことを考える。人が減り、社会を維持するために使える人も時間も資源も少なくなれば、一人ひとりについて、これまでより多くのことを知る必要が出てくる。誰がどこに住み、何を必要とし、どのような健康状態にあり、どんなサービスを利用し、これから何を必要とする可能性があるのか。それを知らなければ、限られたものを効率よく配分することができない。

だから社会は、人間を見るようになる。しかし、おそらく人口減少社会で起こることは、権力が人間の秘密を無理やり暴いていくような、昔ながらの監視だけではない。

もっと穏やかで、もっと合理的な形をとるのだろう。あなたに合った医療を提供するためです。あなたの安全を守るためです。必要な介護を適切な時期に届けるためです。事故を予測するためです。限られた行政サービスを効率よく提供するためです。

どれも、もっともな理由である。そして、教えることで自分自身にも利益があるのなら、人間は強制されなくても自分から情報を渡すようになる。

健康について教える。居場所を知らせる。行動履歴を残す。何を買ったか、何を読んだか、何に興味を持ったかを記録させる。AIにも、自分がいま何を考え、何に迷い、何を恐れているのかを話す。
そうすれば、こちらに合った答えが返ってくる。
便利なのである。だから「曝け出される」という言葉さえ、正確ではないのかもしれない。

誰かに服を剥ぎ取られるように秘密を奪われるのではない。曝け出したほうが便利だから、自分から曝け出していく。

こちらのほうが、ずっと強い。強制されるのなら抵抗することができる。しかし助けてもらうため、安全になるため、便利になるために自分から渡したものに対しては、どこで止めればよいのかがわかりにくい。

社会が知ることに慣れていけば、やがて知られないでいる人間のほうが目立つようになる。
「それについては話したくありません」
と言えば、
「なぜですか」
と尋ねられる。
この「なぜ」が、やはり重い。私は誰なのか。どこにいるのか。何をしているのか。何を欲し、何を恐れ、どうしてその選択をしたのか。

人間は、自分自身について説明することを求められる。そうなったとき、本当に危うくなるのは、秘密ではないのかもしれない。

内側である。人間には長いあいだ、外から見える自分と、外から見えない自分があった。

社会に見せている自分がいる。その後ろに、親しい人にしか見せない自分がいる。さらにその奥に、誰にも見せない自分がいる。
そしてもっと奥には、自分自身にもまだよくわからない自分がいる。Tamingは、それらを少しずつ外側へ引き出す。

言葉にする。記録する。分類する。データにする。意味を与える。説明する。そして最後には予測する。
見えないものはTameしにくい。しかし見えるようになれば扱える。説明できれば分類でき、分類できれば予測できる。
だから完全な透明性は、Tamingの完成に近い。そう考えると、人口減少社会で守るべきものは、単なる個人情報ではないように思えてくる。

内側そのものを残さなければならない。
では、どうすればよいのだろう。
おそらく大げさなことをする必要はない。
まず、何もかも記録しないことである。散歩したからといって、写真を撮らなくてもよい。美しいものを見ても、誰かに送らなくてもよい。本を読んでも感想を書かなくてよい。面白い考えが浮かんでも、検索しなくてよい。AIに尋ねなくてもよい。

どこにも記録されなかった時間を、一日のなかに少し残す。
その時間は消えてしまう。後になって正確には思い出せなくなるかもしれない。

しかし、その消えてしまうこと自体が大切なのだと思う。記録されなかったものは、分析されない。比較されない。再利用されない。

ただ自分のなかを通り過ぎて、なくなる。現代社会では、残すことばかりが価値だと考えがちである。写真を残す。文章を残す。履歴を残す。データを残す。記憶を外部へ保存する。

けれども人間は、本来、忘れる生き物だった。忘れることによって、過去から少しずつ自由にもなった。

だから、内側を守るためには、何かを隠すだけではなく、何かを残さないことも必要なのだろう。
そして、すぐに説明しないことである。
美しいものを見た。
美しかった。
それで終わってよい。
音楽を聴いて心が動いた。
なぜなのか分析しない。
一冊の本がどうしても忘れられない。その本が自分に与えた「効果」を考えなくてよい。

これは、先ほど考えた美や文学や音楽の問題ともつながっている。美しいもの、文学、音楽には、完全に説明できない何かがある。

その説明できないものを、急いで説明可能なものに変えない。
「まだ言葉にしない」ことを許す。これは意外に大切なUntamingなのかもしれない。

AIとの関係についても同じだろう。
AIは便利である。考えがまとまらないときに話せば、言葉にしてくれる。矛盾を見つけてくれる。自分では気づかなかった関係を示してくれる。こうしてTamingについて考えていること自体、AIとの対話によってずいぶん遠くまで来ることができた。

だからAIを拒絶する必要はない。けれども、AIに話さないことを一つは残しておく。

わからないことの全部をAIに尋ねない。自分でもよくわからない感情を、すぐ解析してもらわない。

自分についてのすべてを、AIによって意味のある物語に変えてもらわない。AIに入ってこない小さな部屋を、自分のなかに残しておく。

それは秘密の部屋である必要さえない。ただ、まだ誰にも説明していない部屋であればよい。

人と人との関係にも、同じことが言える。
愛しているから、すべて知っていたい。
心配だから、どこにいるのか知っていたい。
何を考えているのか聞きたい。
そこにも善意がある。しかし愛情とは、すべてを知ることなのだろうか。

むしろ、本当に親しい人に対してこそ、
「そのことは話したくない」
と言われたら、それ以上尋ねないことができる。相手のなかに、自分の入れない部屋があることを認める。

内側を守るとは、自分の内側だけを守ることではない。
他人の内側を覗かないことでもある。
そして、役に立たないものを持っておく。仕事のためではない本。健康のためではない散歩。能力を高めるためではない音楽。投資価値のない絵。

何かの手段ではないものを自分の生活のなかに残す。
それらについて、
「これは何のためですか」
と聞かれたら、
「別に何のためでもありません」
と答える。
それで話を終えてしまう。
安全についても、すべてを社会に委ねない。以前考えたように、人間の自由には小さな危険が混じっている。どこへ行くのかを常に知らせていれば安全かもしれない。健康状態を常時監視してもらえば、異変を早く発見できるかもしれない。

その合理性は認める。
けれども、
「それでも、ここまででいいです」
という線をどこかに引く。
合理性を拒否するのではない。
合理性に最後の一言を与えない。内側を守るということは、おそらくこういう小さな選択を積み重ねることなのだと思う。

全部を秘密にすることではない。
全部を拒否することでもない。必要な情報は渡す。便利な技術も使う。AIとも話す。医療のために必要なデータも提供する。

ただ、全部を渡さない。そしてここで、「どの情報を残せばよいか」という新しいチェックリストをつくってしまうと、またTamingが始まってしまうような気もする。

内側を守るための最も深い方法は、ひょっとすると、自分自身を完成させないことなのかもしれない。
データを見れば、自分がどんな人間なのかわかる。過去の選択を並べれば、自分の好みもわかる。

AIに分析してもらえば、自分の思考の癖も見えてくる。
それでも、
「これが私です」
と確定させない。昨日まで嫌いだったものを、明日は好きになるかもしれない。

何十年も信じていたことを、ある朝突然疑い始めるかもしれない。行ったことのない場所へ、理由もなく行きたくなるかもしれない。

自分自身を、一つのプロフィールとして完成させない。人間のいちばん深い内側とは、誰にも知られていない秘密ではなく、まだ本人自身にも知られていない可能性なのではないだろうか。

そう考えると、「内側を守る」ということの意味が少し変わる。
秘密を守ることではない。自分の一部を、外側へ変換しないことである。

感じたことを、全部言葉にしない。
経験したことを、全部記録しない。
自分について、全部説明しない。
社会に、全部知らせない。
AIに、全部相談しない。そして自分自身についてさえ、全部わかろうとしない。

つまり、
すべてを外側に変換しない。
そこに内側が残る。その場所には、誰にも説明していないものがある。

「理由はありません」がある。
「わかりません」がある。
「何の役にも立ちません」がある。
そして最後に、
「それでも」がある。人口減少社会は、合理化されていくだろう。人について知ろうとし、データを集め、予測し、説明しようとするだろう。

その多くは必要なTamingなのだと思う。
だから全部に抵抗する必要はない。けれども、その流れのなかで一つだけ、小さな内側を残す。

そこには社会も入らない。
AIも入らない。
他人も入らない。そして時には、自分自身さえまだ入っていない。

そんな部屋を、人間のなかに一つ残しておく。完全に透明な人間になることを拒むのではない。ただ、完全には透明にならない。

おそらく、その程度でよい。内側を守るとは、自分のすべてを情報・理由・意味・エビデンスへ変換しないことである。

変換されなかったものには、名前がつかない。
役にも立たない。
誰にも評価されない。
やがて忘れてしまうかもしれない。それでも、その小さな何かが残っているあいだ、人間はまだ完全には説明されていない。

そして人間が完全には説明されないかぎり、
Tamingもまた、完成しない。

展示しないものを残す

人口減少社会では、何でも展示されてしまうのではないだろうか。そんなことを考える。ここでいう展示とは、博物館のガラスケースのなかに何かを並べるという意味だけではない。自然も、歴史も、祭りも、昔からの暮らしも、人々の記憶も、それまでただそこにあったものが、「見てもらうもの」「説明するもの」「体験してもらうもの」へと変えられていくことを、もっと広い意味で展示と呼んでみたいのである。
人口が減り、地域を維持する人もお金も少なくなっていけば、残すものには理由が求められるようになる。古い建物をなぜ残すのか、祭りをなぜ続けるのか、使われなくなった道をなぜ維持するのか、昔からある町並みになぜお金をかけるのか。人口にも財政にも余裕があった時代なら、「昔からあるから」という曖昧な理由のまま、しばらくそこに置いておくことができたものも、余裕がなくなれば、それだけでは済まなくなる。そこで、それまでただ存在していたものに価値を見つけ、外から人を呼び、地域を支えるものへ変えようという発想が生まれる。実際、人口減少や地域経済の縮小を背景に、祭りや伝統文化を観光資源として捉えたり、日常の暮らしや風景そのものに観光価値を見いだしたりする取り組みはすでにある。 [omatsurijapan.com], [scinex.co.jp]
それ自体は、決して悪いことではない。外から来た人に見てもらうことで、消えかけていた祭りが生き延びるかもしれない。誰も使わなくなった古い家が修復されるかもしれない。忘れられようとしていた歴史にもう一度光が当たり、それを語る人が現れるかもしれない。文化と観光を結びつけて地域を支えようという発想にも十分な合理性があり、文化芸術を観光振興や地域活性化につなげる動きも現実に存在する。 問題は、展示することそのものではなく、展示されなければ残る理由を持てないようになっていくことなのだと思う。 [tourism.jp]
昔、祭りは見せるためのものではなかった。料理も写真を撮ってもらうためにつくられていたわけではなく、家のつくりも、暮らし方も、方言も、誰かに「地域文化」と呼んでもらうために存在していたわけではない。人々は、ただそのように暮らしていた。ところが、それを維持する人が少なくなり、外から人を呼ぶ必要が生まれてくると、祭りはイベントになり、家庭料理は郷土料理になり、古い家は伝統的生活を体験する場所になり、何でもない田舎の風景まで地域資源になっていく。地域資源という考え方には、自然や歴史的建造物、祭礼、空き家だけでなく、人々の知恵や技術まで含めて捉える例もある。 そうやって名前を与え、価値を見いだすことによって救われるものがある一方、それまで生活の内側にあったものが、少しずつ外側から見られるものへ変わっていく。 [lumiarch.n…east.co.jp]
そこには、微妙な変化がある。祭りが「見られる祭り」になれば、見栄えを考えるようになるかもしれない。町並みが「見られる町並み」になれば、何を前面に出し、何を隠すかが意識される。自分たちの暮らしが「地域らしい暮らし」として紹介されるようになれば、やがて住んでいる人自身が、その地域らしさを演じるようになるかもしれない。文化は残っている。しかし、残るために展示可能な姿へ整えられていく。矛盾していた歴史がわかりやすい物語になり、雑然とした暮らしが体験プログラムになり、誰のためでもなかった営みが「私たちの文化です」と説明されるようになる。形は残っていても、生きているものが少しずつ展示物へ近づいていくのである。
そう考えると、人口減少社会には二種類の消滅があるのかもしれない。一つは、担い手がいなくなり、祭りが終わり、家が壊れ、言葉が使われなくなって、本当に消えてしまうことである。もう一つは、形は残っているのに、それが人々の日常の内側から離れ、外から見てもらうためのものになってしまうことである。こちらは目に見えにくい。建物もあるし、祭りもあるし、料理もあるのだから、文化は保存されたように見える。しかし、そこから取り除かれているのは、誰かに見せる必要などなかった時間であり、言い換えれば、その文化の「内側」なのかもしれない。
これは、これまで考えてきた「内側」の問題とよく似ている。人間自身についても、SNSに暮らしを載せ、読んだ本や行った場所を紹介し、健康状態をデータとして記録し、プロフィールには趣味や価値観を書き、AIには自分の考えまで言葉にして渡すようになった。ここで起きているのは、単に何かを曝け出すことだけではない。外からどう見えるかを考えながら、自分自身を展示可能な姿へ編集していくことである。何を好み、何を考え、どんな人生を送り、どのような人間であるのかを、外から理解できるように整えていく。以前、「すべてを外側へ変換しないこと」が内側を守ることなのではないかと考えたが、展示とは、その変換がさらに進み、他人から見える形にまで整えられた状態なのだろう。
だから人口減少社会には、展示するものだけでなく、展示しないものを意識的に残しておくことが必要になるのかもしれない。それは、大切なものを秘密の場所へ隠すという意味ではない。公開すれば人が来るかもしれないし、価値が上がるかもしれない。それでも、あえて外へ差し出さないものを少し残しておくのである。村の人だけが知っている木陰や小径を、絶景スポットとして紹介しない。美しい場所だからこそ地図に載せず、ときどき知っている人だけがそこへ行く。祭りそのものは公開しても、その準備から後片づけまでのすべてを文化体験にせず、観客のためではない時間を残しておく。昔から家でつくられてきた料理を必ずしも郷土料理として商品化せず、つくる人によって味が違い、正確なレシピさえないまま家庭のなかに置いておく。
音楽についても同じことができる。誰かが一人で楽器を弾き、それを録音も配信もせず、聴く人さえいないまま、弾いたそばから音が消えていく。文章なら、誰にも読ませない日記や、完成させるつもりさえない文章があってよい。AIに校正してもらわず、文学的に価値があるかどうかも判断せず、書いた本人だけが知っている言葉として残しておく。美しい夕焼けを見たときに、スマートフォンを取り出さないという小さな選択もあるだろう。その風景を所有せず、共有せず、記録せず、やがて自分の記憶からさえ薄れていくことを受け入れる。美しいものだから残すのではなく、美しいものなのに残さないのである。
地域の記憶についても、何でも保存することが正しいとは限らない。昔の暮らしをよく知る人がいるからといって、その人の記憶をすべて聞き取り、映像に残し、アーカイブに収める必要があるのだろうか。本人が話したくないことだけではなく、「そんなことは残さなくてもいいよ」と笑って済ませるような記憶まで、文化的価値を見つけて保存しなければならないのだろうか。文化には保存する価値がある。しかし同時に、保存されずに、その人とともに消えていくものがあってもよいように思う。道端の古い石についても同じで、それが何なのかを調べ、名前をつけ、説明板を置き、文化資産として登録するだけが大切にする方法ではない。何なのかわからないものが、何なのかわからないままあるということも、一つの残し方なのである。
もちろん、何も展示しなければいいという話ではない。展示することによって守られる文化もあるし、外の人に見てもらうことで初めて自分たちの文化の価値に気づくこともある。人口減少社会において、外から人を呼び、地域を支えるために文化や自然を活用することにも大きな意味がある。だから展示と非展示を、善と悪のように分ける必要はない。問題は、見せれば価値が高まるという理由だけで、すべてを見せる必要があるのかということである。合理性が「せっかくの地域資源なのだから活用しましょう」と言うとき、そのもっともらしさを十分認めたうえで、「そうですね。でも、これはこのままにしておきましょう」と言えるものを一つだけ残す。ここでも、やはり合理性に最後の一言を与えないことが大切になる。
そして、そこまで考えると、「展示しない」という言葉自体よりも、もっと大きなものが見えてくる。それは、変換しないことである。Tamingとは、ひょっとすると、何かを別の扱いやすいものへ絶えず変換していく営みなのかもしれない。自然を資源へ変換し、文化を観光へ変換し、生活をコンテンツへ変換し、美を価値へ変換し、経験をデータへ変換し、感情を説明へ変換し、人間をプロフィールへ変換する。変換することによって、それまで扱えなかったものが扱えるようになる。比較でき、評価でき、保存でき、流通させることができる。Tamingにとって、変換はとても重要な力なのだろう。
そうであるなら、Untamingとは、その反対に、何かを破壊する行為である必要はない。社会から逃げる必要も、技術を捨てる必要もない。ただ、ときどき変換を途中で止めればよい。生活を商品に変換しない。美を観光資源に変換しない。経験をデータに変換しない。感情をすぐ説明に変換しない。自分を誰にでも理解できるプロフィールへ変換しない。そして、なぜ変換しないのかという理由まで、必ずしも合理的な言葉に変換しない。
何かを、そのままにしておく。それは人口減少社会では、案外難しいことになるのかもしれない。人もお金も少なくなれば、あらゆるものについて、何に使えるのか、どう価値化できるのか、何を生み出せるのかと考えざるを得ないからである。だからこそ、そのなかに少しだけ、何にも変換されなかったものを残しておく。

誰にも紹介されない場所。記録されない夕暮れ。商品にならない料理。観光客には見せない祭りの時間。誰にも聞かれない音楽。読まれない文章。説明されない古い石。そして、社会にもAIにも他人にも、完全には展示されない自分。
それらに共通するのは、価値がないことではない。むしろ、価値があるからといって、価値に変換しないことなのである。
人口減少社会が、世界の隅々まで意味を見つけ、価値を与え、外側へ取り出し、展示していくとしても、その片隅に一つくらい、紹介されず、説明されず、商品にも資源にもならず、ただそこにあるものを残しておきたい。それは誰の役にも立たないかもしれず、誰にも知られないまま消えてしまうかもしれない。それでもよいのだと思う。
展示されないものが残っているということは、世界にまだ「内側」があるということだからである。そして、世界に内側があり、変換されずに残っているものがあるかぎり、世界は最後まで完全には扱えるものにならない。
Tamingもまた、完成しない。

孤立は避ける。それでも、ひとりを失わない

人口減少社会では、人とのつながりや共有にすがる人が、今より増えていくのではないだろうか。そんなことを考える。人口が減るということは、ただ町から人の姿が少なくなることではない。家族が小さくなり、一人で暮らす人が増え、自分が当然のように所属していた場所がなくなり、誰かとの関係が、そこに暮らしているだけでは与えられにくくなるということでもある。かつてなら仕事場へ行けば人がおり、家へ帰れば家族がおり、地域には近所づきあいがあり、本人が望むかどうかとは別に、人間はさまざまな関係のなかへ組み込まれていた。しかし、そうした関係が薄くなっていけば、人は自分から誰かを探し、自分から関係をつくり、それを維持しなければならなくなる。
実際、現代の孤独・孤立をめぐる議論でも、「孤独」と「孤立」は同じものとは考えられていない。一般に孤独は、ひとりぼっちだと感じる主観的な状態であり、孤立は、社会とのつながりや助けがない、あるいは少ないという客観的な状態として整理されている。 この違いは単なる言葉の区別ではなく、人口減少社会における人間の自由を考えるうえで、とても重要なのではないかと思う。 [cas.go.jp], [moj.go.jp]
孤独は、周囲に何人の人がいるかだけでは決まらない。家族がいても、友人がいても、職場で一日中人と話していても、誰にも自分がわかってもらえないと感じれば、人は孤独になる。反対に、誰とも会わず、一人で長い時間を過ごしていても、その時間を豊かだと感じているなら、必ずしも孤独とは限らない。だから、人をたくさん集めれば孤独がなくなるわけではなく、コミュニティへ参加させれば問題が解決するわけでもない。日本政府の孤独・孤立対策の基本理念でも、疎外感の強い関係へ形式的につなぐだけでは問題は解消しないと整理されている。 人間は、人に囲まれながら孤独になることができるのである。 [cas.go.jp]
孤立は少し違う。孤立の場合には、本人が寂しいかどうかだけでなく、困ったときに助けを求められる人がいるか、病気になったときに気づいてくれる人がいるか、社会との接点が残っているかという、関係の構造そのものが問題になる。内閣府の高齢社会白書でも、社会的孤立は、家族や地域社会との交流が客観的にみて著しく乏しい状態という意味で使われている。 だから、孤独だけれど孤立していない人もいれば、孤立しているけれど孤独を感じていない人もいる。家族や友人に囲まれながらひどく孤独な人もいれば、ほとんど人と付き合わず、それでも静かに満ち足りて暮らしている人もいるのである。 [www8.cao.go.jp]
そう考えると、ここにはもう一つ、「ひとり」という言葉が必要になる。孤独は感情であり、孤立は社会関係の状態であり、ひとりは、ただ人が一人でいるという状態にすぎない。この三つを一緒にしてしまうと、一人でいる人を見るだけで「寂しいでしょう」「誰かとつながったほうがいいですよ」と言いたくなってしまう。しかし、一人であることそれ自体には、善も悪もない。一人でいることを苦痛に感じる人もいれば、人と離れて初めて自分自身へ戻れる人もいる。静かな部屋で本を読むこと、誰にも会わずに歩くこと、何日か誰とも深い話をしないことによって回復する人もいる。そういう時間まで孤独や孤立という問題のなかへ入れてしまえば、人間から大切な「ひとり」が奪われてしまう。
人口減少社会では、おそらく孤独や孤立への関心が高まり、それとともに「つながり」が善いものとして強調されるようになるだろう。孤独・孤立対策推進法に基づく現在の政策でも、人とのつながりや支援につながる仕組みが重視されている。 それは必要なことである。苦しみながら誰にも助けを求められない人を放置することが自由であるはずはない。しかし、「孤立して苦しむ人を助ける」ということと、「一人でいる人を減らす」ということは、まったく同じではない。そこを間違えると、孤独を救おうとして、今度はつながりそのものがTamingになってしまう。 [cao.go.jp], [cao.go.jp]
しかも、つながりはしばしば共有を要求する。誰かと親しくなるためには、自分について少し話さなければならない。どこへ行ったのか、何を食べたのか、何を読んだのか、いま何を考えているのか。写真を送り、近況を知らせ、相手の発信に反応し、自分も何かを発信する。もちろん、それによって人間関係が生まれるのだから、共有そのものを否定する理由はない。ただ、つながりが希少になるほど、それを失わないために共有し続けなければならないという感覚が強くなる可能性はある。つながっているから共有するのではなく、つながっていることを確かめるために共有するようになるのである。
そうなれば、つながりは少し不思議なものになる。そこに住んでいるからつながっているのではなく、親戚だからつながっているのでもない。近況を知らせ、反応し、参加し、自分がそこにいることを示し続けることによって、つながりが維持される。「写真を載せません」「そのことは友人にも話していません」「SNSは使っていません」と言えば、「なぜですか」と尋ねられる。以前、プライバシーや展示について考えたときと同じように、ここでも、外へ出さないことのほうが理由を要求されるようになる。しかし本来、共有しないことに理由はいらないはずである。
だから人口減少社会に必要なのは、つながりを最大化することではないように思う。できるだけ多くの人と、できるだけ深くつながることを社会の理想にしてしまえば、そこから距離を置きたい人は、たちまち問題のある人にされてしまう。本当に必要なのは、もっと弱く、もっとゆるい関係ではないだろうか。散歩ですれ違えば会釈するけれど、お互いの生活についてはほとんど知らない人。いつもの店で、ときどき言葉を交わすけれど、連絡先までは知らない人。隣に住んでいて、普段は互いに干渉しないけれど、何かあれば声をかけられる人。価値観も人生も共有しない。それでも、完全な他人ではない。
つながっているけれど、つながりすぎない。おそらく、人口減少社会で大切になるのは、そのような関係なのだと思う。孤立を防ぐために、誰かと深く結びつく必要はない。毎日の生活を共有する必要も、自分が何者なのかを詳しく説明する必要もない。ただ、本当に困ったとき、一本だけ道が残っていればよい。本人がその道を普段は使わなくてもよいし、誰もその道を通って訪ねてこなくてもよい。ただ、必要になったときには通れる。それなら、一人でいたい人は一人でいながら、完全に社会から切り離されずに済む。

これは、以前考えた「内側」を残すということとも深くつながっている。誰かとつながっていても、すべてを共有する必要はない。人を愛していても、その人について知らないことがあってよい。家族であっても、すべてを話さないことがあってよい。コミュニティの一員でも、参加しない時間があってよい。美しい景色を見ても誰にも送らず、一人で見て終わることがあってよい。何かを考えても、友人にもSNSにもAIにも話さず、そのまま自分の内側に置いておく。それは孤立ではなく、つながりのなかに内側を残すことなのである。
もっと言えば、孤独そのものについても、すべて取り除かなければならないとは限らないのかもしれない。もちろん、耐え難い孤独や、心身に有害な影響を及ぼす孤独に対しては支援が必要であり、現在の制度もそうした状態への対策を目的としている。 しかし、人が誰かを失ったとき、自分を理解してもらえないとき、遠い場所へ行ったとき、どうしてここにいるのかわからなくなったときに感じる孤独まで、ただちに除去すべき異常と考える必要があるのだろうか。その孤独のなかから文学が生まれることがあり、音楽が生まれることがあり、自分でも知らなかった自分に出会うこともある。孤独は苦しい。しかし、苦しいものがすべて人生から取り除かれるべきだとは限らない。 [cao.go.jp], [moj.go.jp]
ここにも、これまで何度も現れた「小さな危険」と同じ問題があるように思う。安全は必要だけれど、小さな危険までなくしてしまえば自由が痩せていく。合理性は必要だけれど、合理性に最後の一言を与えてしまえば、説明できないものが残らない。文化を残すことは大切だけれど、何でも展示してしまえば内側がなくなる。そしてつながりも必要だけれど、孤独やひとりでいる時間までなくそうとすれば、人間の内側がまた一つ失われていく。
だから人口減少社会が目指すべきなのは、「誰も一人ではない社会」ではないのかもしれない。むしろ、一人でいることを許しながら、孤立だけは深くしない社会であればよい。普段は放っておいてくれるけれど、助けを呼べば届く。いつも見守られているわけではないけれど、本当に困ったときには誰かがいる。つながることを要求されず、参加を証明する必要もなく、それでも社会との細い糸が一本だけ切れずに残っている。政府の孤独・孤立対策をめぐる基本理念にも、個人の領域への公的関与は謙抑的であるべきこと、そして本人の望まない孤独や孤立を念頭に置く考え方が示されている。 この「望まない」という言葉は、思っている以上に重要なのだと思う。 [cas.go.jp]
Tamingは善意をもって言うだろう。「一人では危険ですよ。もっとつながりましょう」と。それは間違ってはいない。だからこそ、その言葉は強い。それに対するUntamingは、つながりそのものを拒絶することではない。ただ、「助けが必要なときにつながれる道は残してください。でも、普段は一人にしておいてください」と言うことなのだと思う。
孤立は避ける。でも、孤独まで奪わない。助けにつながる道は残す。でも、つながりを常時接続にはしない。人と関係を持つ。でも、すべてを共有しない。誰かと一緒に生きながら、その人にも自分にも、誰も入らない小さな内側を残しておく。
人間に必要なのは、いつも誰かがそばにいることではないのだろう。誰もそばにいなくても大丈夫な時間と、本当に必要になったときには誰かに届く道。その両方があること。

つながっていても、溶け合わない。離れていても、完全には切れない。その間に残された細い距離を、寂しさや失敗だと決めつけない。その距離のなかには、一人で考える時間があり、説明しないものがあり、共有しないものがあり、まだ本人にもよくわからない自分がいる。
人口減少社会のUntamingとは、孤独になることではない。孤立しない程度につながりながら、なお、ひとりであることを失わないこと。

そのくらいの距離が、これからの社会には必要なのかもしれない。今回は、前半の「つながりや共有にすがる社会」という問題を、後半の「孤独・孤立・ひとり」の区別へつなぎました。結論は、つながりそのものを否定するのではなく、「孤立しない。しかし、ひとりを奪わせない」というところに置いています。これなら、これまでの「内側を残す」「すべてを共有しない」「合理性に最後の一言を与えない」という流れとも自然につながると思います。

管理しないために、管理する

人口減少社会の管理は、いろいろな意味でねじれたものになっていくのではないだろうか。そんなことを考える。
人口が減れば、社会は小さくなる。働く人が減り、行政を担う人が減り、医療や介護を支える人も減り、これまで当然のように維持されてきた道路や交通や水道や学校についても、本当に同じように残していけるのかを考えなければならなくなる。そう考えれば、国家や自治体の力もまた小さくなり、管理する力も弱くなっていくように思える。
ところが、実際には反対のことが起こるかもしれない。人が減るからこそ、一人ひとりについて、もっとよく知らなければならなくなるのである。誰がどこに暮らし、誰が医療を必要とし、誰が介護を必要とし、どの地域にどのくらいの公共サービスを残すべきなのか。人やお金に余裕があれば多少の無駄や重複を抱えたままでも社会を運営できるが、余裕がなくなればそうはいかない。限られたものを必要なところへ届けるためには、社会の側が人間について知る必要がある。人口そのものは減っているのに、データのなかの一人ひとりは、かえって濃くなっていく。

現在の日本のデジタル政策にも、この構図はすでに見えている。デジタル社会の実現に向けた重点計画は、人口減少・人手不足と自治体リソースの逼迫を課題として挙げながら、自治体システムの統一・標準化、国・地方のデジタル共通基盤、AI活用などを進める方向を示している。 デジタル行財政改革 取りまとめ2026も、人口減少によって公共サービスの維持・提供が難しくなるという認識から、AIやデータを利用した省力化や高度化、共通基盤の整備などを掲げている。 人が減るから管理が粗くなるのではない。人が減るからこそ、人が行っていた管理を別の仕組みに置き換え、より少ない人間で社会を見渡せるようにしなければならなくなるのである。 [digital.go.jp] [cas.go.jp]
そこには、人口減少社会の最初のねじれがある。管理する人間は減っていくのに、管理そのものは高度になっていく。
昔の管理には、多くの人間が必要だった。役所では職員が書類を確認し、病院では人が患者を見て、インフラは人が点検し、何か異常があれば誰かが現場へ行った。しかし人口減少社会では、その「見る人」そのものが不足する。そこで、データベースやセンサーやAIが使われるようになる。総務省の自治体DXの事例にも、行政データのダッシュボード化、AIによる水道管路の劣化診断、衛星画像のAI解析など、人間の判断や作業をデジタル技術によって補う取り組みがすでに紹介されている。 [soumu.go.jp]
これは不思議な変化である。管理を行う人間の顔は次第に見えなくなるのに、管理の網そのものは細かくなり得るからである。昔なら、人が足りないことで生まれていた見落としや曖昧さや隙間を、機械が埋めていく。誰かが怠けたから記録されなかった、職員が気づかなかったからそのままになった、担当者が変わったから忘れられたという、人間的な不完全さによって生まれていた余白まで少なくなっていくかもしれない。国家や自治体そのものが強大になるというより、国家や自治体が弱くなっていくからこそ、システムが強くなるのである。
もう一つのねじれは、標準化と個別化のあいだにある。人も予算も減っていけば、地域ごと、窓口ごと、人ごとに別々の仕組みを維持することは難しくなる。だから共通化し、標準化し、統合しなければならない。現在の政策でも、地方公共団体情報システムの統一・標準化や国・地方の共通基盤整備が進められている。 ところが同じ社会では、人々の暮らし方やニーズが多様になっている。総務省の自治体フロントヤード改革も、行政資源が制約される一方で住民の生活スタイルやニーズが多様化していることを出発点としている。 [digital.go.jp], [cas.go.jp] [soumu.go.jp]
したがって人口減少社会の行政には、まったく逆のことが同時に要求される。「できるだけ同じ仕組みにしてください」と言われながら、「一人ひとりに合わせてください」とも言われるのである。中央では標準化し、末端では個別化する。裏側では同じデータ基盤、同じシステム、同じ形式を使いながら、表側では一人ひとりに違ったサービスを見せる。この二つを両立させるためにも、個人についてより多くのことを知る必要が出てくる。個別化するために分類し、多様性に対応するために標準化する。ここにも、きれいにはほどけないねじれがある。
さらに深いところでは、自由と管理さえ単純な反対語ではなくなっていく。現在のデジタル行財政改革 取りまとめ2026は、デジタル技術を使った行政の効率化だけでなく、個人の幸福と自由の実現を含む複数の目標を同時に掲げている。 つまり、管理することと自由にすることが、政策のなかでも必ずしも対立するものとして考えられているわけではない。 [cas.go.jp]
これはTamingという観点から考えると、とても興味深い。昔の管理なら、「自由を少し制限する代わりに秩序を守ります」という構図が比較的わかりやすかった。ところが人口減少社会では、「あなたが自由に暮らし続けられるように、あなたについて知ります」という管理が現れる。一人暮らしを続けられるように見守る。遠くの病院へ頻繁に行かなくてもよいようにデジタル技術を使う。少ない職員でも必要な行政サービスを届けられるように情報を集約する。こうなれば、管理は自由の敵ではなく、自由を可能にする条件として現れる。
これは強いTamingである。なぜなら、それは人間を苦しめるためではなく、助けるためにやってくるからである。「見ないでください」と言えば、「でも、そのほうが安全ですよ」と返ってくる。「情報を渡したくありません」と言えば、「でも、それがあれば、あなたに合ったサービスを提供できます」と答えられる。管理を拒否することが、そのまま利便性や安全や自立を支える仕組みを拒むことになってしまえば、人間はなかなか「いりません」と言えなくなる。Tamingが最も強くなるのは、命令になったときではなく、こちらの希望をかなえてくれるものになったときなのかもしれない。
先ほど考えた孤独と孤立の問題にも、同じねじれがある。人口が減り、家族が小さくなり、人と人との自然な接点が減れば、孤立を防ぐ仕組みが必要になる。しかし、孤立を防ごうとして人を絶えずつなげれば、「ひとりでいる自由」を奪ってしまう。だから社会には、一人で暮らすことを可能にするための見守りが必要になり、見守られずにいる自由を守るためには、見守りをどこかで止めなければならない。つまり、一人でいられるように管理し、その一人を守るために管理しすぎてはいけない。ここにもまた、人口減少社会らしいねじれがある。
こうして考えると、人口減少社会の管理は、昔のような「強い国家が国民を支配する」という一方向の姿だけでは捉えられないことがわかる。むしろ、国家も自治体も人的には弱くなり、すべてを直接見ることができなくなるからこそ、標準化されたシステムやデータやAIに多くを任せるようになる。自由を奪うためではなく、自由を支えるために管理する。多様性を消すためではなく、多様性に対応するために分類する。一人にさせないためではなく、一人で暮らせるように見守る。そして、行政を小さくするために、管理の仕組みそのものは大きくする。
人口減少社会のTamingとは、おそらくこのようなものになるのだろう。人を支配する管理ではなく、管理しなくても社会が動いているように見せるための管理である。私たちは役所へ行く回数が減り、書類を書くことも減り、人間の職員から細かな指示を受けることも減るかもしれない。外から見れば、むしろ昔より自由になったように感じるだろう。しかし、その自由を可能にするために、背後では以前より多くの情報が整理され、システムが結びつき、人間の必要が予測されるようになるかもしれない。
そうだとすれば、人口減少社会の管理を象徴するのは、「管理しないために、管理する」という言葉なのかもしれない。
人を自由にするために知る。人手を減らすために情報を集約する。多様性を尊重するために基盤を標準化する。一人で暮らせるように見守る。孤立させないためにつながりをつくる。個人に合わせるために個人を分類する。これらはどれも矛盾しているようでいて、人口減少社会では十分に合理的であり得る。そして合理的だからこそ、簡単には拒絶できない。
しかし、ここで管理そのものを悪としてしまうと、話はまた単純になってしまう。人口が減れば、限られた人と資源で社会を維持しなければならない以上、何らかのTamingは必要になる。問題なのは、管理があることではなく、管理の合理性が強くなりすぎて、管理されないものが存在できなくなることなのだろう。
だから必要なのは、管理をなくすことではない。管理を途中で止める場所を残すことである。もう少し情報を集めれば便利になるとわかっていても、集めない。もう少し監視すれば安全になるとわかっていても、見ない。もう少し標準化すれば効率的になるとわかっていても、違ったままにしておく。もう少し人をつなげれば孤立を減らせるかもしれなくても、一人でいたい人のところまでは踏み込まない。
以前考えたことが、ここでも戻ってくる。何でも記録しない。何でも説明しない。美しいからといって何でも展示しない。価値があるからといって何でも資源へ変換しない。つながっているからといって何でも共有しない。そして、安全や便利や効率のためであっても、何でも管理しない。
それらはすべて同じところへ向かっているのだと思う。Tamingをなくすのではない。Tamingに最後の一言を与えない。

人口減少社会では管理はおそらく必要になる。それも、これまでより繊細で、高度で、目立たない管理が必要になるのだろう。だからこそ、その社会の自由を測る尺度は、「管理されているか、されていないか」ではなくなるのかもしれない。本当に問わなければならないのは、管理できるのに管理しない場所が残っているかどうかである。
技術的には見ることができるけれど、見ない。記録できるけれど、記録しない。最適化できるけれど、しない。つなげられるけれど、つなげない。理由を説明させることができるけれど、「わかりません」のままにしておく。
そういう場所が少しでも残っているなら、管理の網のなかにも、まだ内側がある。そして、その内側が残っているかぎり、人口減少社会のTamingもまた、最後まで完成しない。

複製できないもの

人口減少社会では、コピー・ペーストされた情報が、今よりはるかに増えていくのではないだろうか。そんなことを考える。ここでいうコピー・ペーストとは、同じ文章をそのまま複写するという狭い意味ではない。一度つくられた説明、一度うまくいった仕組み、一度採用された分類、一度正しいとされた判断を、できるだけもう一度考え直すことなく再利用していくことを、もっと広い意味でコピーと呼んでみたいのである。
人口が減れば、社会を維持するために使える人間の時間も減っていく。同じことを何度も最初から考え、似た文章を何度も書き、同じような問題について一件ずつ判断する余裕はなくなるだろう。そこでは、「前にも似た例があった」「ほかの自治体がすでにやっている」「この文章は前回のものを使える」という判断が、怠慢ではなく合理性になる。一度考えたことをもう一度考えない。一度つくったものを捨てず、再利用する。それは、少ない人間で複雑な社会を維持しようとすれば、ごく自然な方向である。
実際、日本の現在の行政改革でも、人口減少と担い手不足への対応として、AIやデータの活用、業務・システムの共通化、共通基盤の整備などが進められている。デジタル行財政改革 取りまとめ2026は、限られた担い手で公共サービスを維持するため、デジタル技術による省力化や共通基盤、AI・データ利用を進める方向を示している。 また、人口減少社会×AI時代の行政を支える人材改革プランでも、人口減少社会で効果的・効率的な行政を維持・高度化するため、公務におけるAI活用が重要な論点として位置づけられている。 [cas.go.jp] [cas.go.jp]
だからコピーは悪ではない。むしろ、コピーしなければ維持できない社会がやってくるのかもしれない。しかし、少し気になることがある。最初は文章をコピーしているだけだったものが、やがて書式をコピーし、分類をコピーし、評価基準をコピーし、「このような場合には、このように考える」という判断そのものをコピーするようになったとき、いったい何が起こるのだろう。
AIは、この再利用を非常に巧みにするだろう。人間なら同じ文章をそのまま使えばコピーだとすぐわかるが、AIは言葉を入れ替え、順番を変え、相手に合わせた表現に整えることができる。表面には違う文章が現れていても、その奥にある分類や論理や判断の型は同じままということが起こり得る。そうなれば、コピー・ペーストとはもはや文章の問題ではない。社会の考え方そのものが複製されることになる。
すると、「前例」の意味も変わってくる。新しい技術によって、過去から自由になるように見えながら、同時に過去を再利用する力も強くなるからである。一度成功した方法は別の地域へ運ばれ、一度便利だった分類は別の人にも適用され、一度つくられた説明は別の文脈でも使われる。それが十分長く繰り返されれば、最初に誰がそう考えたのかさえ、わからなくなるだろう。「なぜこのようになっているのですか」と尋ねても、「そういう仕組みになっています」としか答えられない。最初のTamerはすでにいない。それでも、その人のつくった型だけが動き続ける。Tamerが消えて、Tamingだけが残るのである。
情報そのものについても、同じことが起こり得る。一つの情報が報告書になり、ウェブサイトに転載され、その内容が別の記事になり、SNSで紹介され、さらにAIの回答に取り込まれる。見た目にはたくさんの情報が存在していても、源流まで遡れば一つだったということがある。十の情報が同じことを言っているからといって、十人が独立して同じ結論へたどり着いたとは限らない。一つの声が十回反響しているだけかもしれない。情報の量と情報の独立性は、同じものではない。
そして、おそらく人間についても同じことが起こる。人間は一人ずつ違うけれど、一人ずつを最初から理解するには膨大な時間がかかる。だから社会は人間を分類する。年齢、家族構成、健康状態、収入、居住地、必要としている支援。分類すること自体は必要である。しかし、人が少なくなり、一人に使える行政の時間も限られてくれば、「この人はこの分類だから、この対応」という仕組みは強くなるだろう。一人ひとりに合ったサービスを提供するために分類し、分類した結果、似た人には似た対応を複製する。ここでも、前に考えた人口減少社会のねじれが戻ってくる。個別化するために標準化し、その人らしく扱うために、その人を何かの型へ入れるのである。
それでも、コピーすることを拒絶すればよいとは思わない。人口減少社会では、99回はコピーでよいのだろう。一度つくった文章を使い、同じ仕事を繰り返さず、AIに定型的な処理を任せ、共通の仕組みを使えばよい。そのおかげで残された人間の時間を、もっと大切なことへ使えるのなら、そのほうがよい。問題は、100回目にも必ず同じものをコピーしなければならないと思ってしまうことである。「これは前と少し違うのではないか」「この人だけは、この分類には入らないのではないか」「ここだけは一から考えてみよう」と言う人間がいなくなったとき、コピーは効率化ではなく、世界の見方そのものになる。
だから、人口減少社会では、コピーできないものがかえって大切になるのではないかと思う。一度だけの会話、その土地でしか成り立たない判断、前例からこぼれる例外、テンプレートには入らない人、その人のためだけに誰かが時間を使って書いた文章。複製可能性が社会の隅々にまで広がれば広がるほど、そういうものの価値は高くなるのではないだろうか。
しかし、そこで一つ疑問が残る。複製できる世界のなかに、それでも本当に、一度しか存在しないものは残るのだろうか。
文章はコピーできる。写真も映像も音楽もコピーできる。AIなら、ある文章によく似た文章をいくらでもつくることができる。しかし、その文章を、ある人が、ある日のある時間に読んだという出来事そのものは、コピーできない。同じ本をもう一度読んでも、最初に読んだときと同じにはならない。読む人の年齢も違えば、そのあいだに知ったことも、失ったものも違う。二十年前には読み過ごした一行が、ある年齢になって突然心に残ることもある。本は同じでも、読んでいる人間がすでに同じではない。
人との出会いもそうである。同じ店へ行き、同じ席に座り、同じものを注文することはできても、その日にそこで偶然交わした言葉をもう一度同じように起こすことはできない。美しい夕暮れを写真に残せば、画像はいくらでも複製できる。しかし、その夕暮れを見ているとき、自分が何を考えていたのか、その数分間に何を感じたのかという時間そのものは複製できない。そして翌日には、その自分さえ、ほんのわずかに昨日とは違う人間になっている。
そう考えると、複製できないものとは「物」ではないのかもしれない。
出来事なのだと思う。そして、もっと正確に言えば、時間のなかに置かれた出来事なのだろう。

コピー技術が進歩するにつれて、「一度しかないもの」は、少しずつ物から時間へ逃げていくように見える。昔なら、一枚しか存在しない絵が貴重だった。しかし複製技術が発達し、絵はどこでも見ることができるようになった。音楽も写真も映像も文章も、大量に複製できるようになった。そしてAIは、それらをコピーするだけでなく、「それらしい新しいもの」まで次々につくるようになる。それでも、ある人がある人に初めて会ったこと、誰かと最後に話したこと、知らない町を一人で歩いた午後、誰にも見せない文章を書いた夜、美しいと思ったのに写真を撮らなかった夕暮れは、増殖しない。一度起こり、過ぎ去り、やがて失われていく。
ここで、「記録しない」ということに、これまでとは少し違う意味が生まれてくる。記録しなければ失われる。情報社会から見れば、それは失敗である。せっかく経験したのだから写真を撮り、せっかく考えたのだから文章にし、せっかく知っているのだからデータとして残したほうがよい。しかし、あらゆるものを残し、複製できることが無条件に良いものとされる社会では、失われることによってしか守れない一回性もあるのではないだろうか。
写真を撮らなかった夕暮れは、やがて記憶のなかで形を変える。どんな色だったのか曖昧になり、そのとき誰といたのかも、何を考えていたのかも、少しずつ薄れていく。最後には忘れてしまうかもしれない。それでも、その夕暮れは失敗した記録ではない。そもそも記録になるために起きたのではないからである。それは保存物にならず、展示物にならず、共有物にならず、データにもならなかった。ただ一度、その人の人生のなかを通り抜け、消えていった。それだけでよい時間が、人間にはあるように思う。
人口が減っていく社会では、一人ひとりの経験をできるだけ失わないようにしようとする力も強くなるだろう。働く人が少なくなるなら、熟練した人の経験を記録し、ノウハウを共有し、その人がいなくなったあとにも知識だけは使えるようにしたい。それも合理的である。しかし、そこで人間そのものまで情報として保存できると思い始めたら、何かを取り違えることになる。
人間の知識は残せる。文章も声も映像も残せる。語り方や判断の癖さえ、大量の記録があれば、ある程度は再現できるようになるのかもしれない。しかし、その人がそこにいたということそのものは複製できない。その人とある日に話したこと、その人がその場で少し笑ったこと、その人と同じ場所にいた時間は、どれほど精密に記録しても戻ってこない。記録は出来事の痕跡を残すことはできても、出来事そのものにはならないのである。
これは、Tamingにとって最後まで扱いにくい部分なのかもしれない。Tamingは再現性を好む。同じ条件なら同じ結果が出ること、分類できること、引き継げること、予測できること、ある人がいなくなっても別の人やシステムが同じ仕事を続けられること。文明はそうやって強くなってきた。しかし、生きているという出来事には再現できない部分が残る。その再現不能性は、人間の不完全さではなく、むしろ人間が完全に交換可能な存在にならないための最後の場所なのかもしれない。
そう考えると、これまで少しずつ考えてきたことが、ここにもつながってくる。展示しない。共有しない。変換しない。管理しない。コピーしない。

そして、その先にもう一つ、
残さない。
という選択がある。もちろん、何も残さなければよいという意味ではない。写真も撮ればよい。文章も残せばよい。歴史も保存し、知識も引き継げばよい。人間は残すことによって長い時間を越え、会ったことのない人とさえ言葉を交わせるようになった。しかし、すべてを残す必要はない。人生のどこかに、記録されなかった時間を少しくらい持っていてよい。それが誰にも知られない秘密である必要さえない。同じ風景を何万人もの人が見ていたとしても、その瞬間、その場所からその風景を見た自分は一人しかいなかった。それだけで、その時間は一回しか存在しない。

だから、複製できる世界のなかに一度しか存在しない「もの」が残るのかと問われれば、物については、だんだん難しくなっていくのかもしれない。しかし、一度しか起こらない時間は残る。人が生まれること、人と出会うこと、別れること、ある場所に立つこと、一人で考えること、老いること、そしていつか死ぬこと。それらを記録することはできても、それそのものをもう一度起こすことはできない。
人口減少社会のUntamingとは、もしかすると、この一回性を必死に保存することですらないのかもしれない。保存しようとすれば、またそれを情報へ変換し、記録し、分類し、再利用可能なものへ変えてしまうからである。
むしろ必要なのは、一度しか流れない時間を、一度しか流れないままにしておくことなのだろう。過ぎていくことを許す。忘れることを許す。残せたはずなのに残さない。コピーできたはずなのにコピーしない。役に立ったかもしれないのに、役に立てない。そして、それが消えてしまったあとに、「失われた」とだけは考えない。

なくなったのではない。
一度、あったのである。それで十分なものが、この世界にはまだ残っている。

そして、そのようなものが一つでも残っているかぎり、どれほど社会が複製され、標準化され、記録され、AIによって再構成されるようになったとしても、世界のすべてがコピーになることはない。人間の時間のどこかには、再現できず、置き換えられず、もう二度と戻らないものが残る。
そこまで来れば、Untamingとは何かを保存するための抵抗ですらなくなるのかもしれない。
消えていくことまでTameしないこと。
Tamingは、そこでも完成しない。

何のためでもなく、知っている

人口減少社会では、余計な知識はいらないと考えられるようになるのではないだろうか。そんなことを考える。人が減り、働く人が減り、学校も大学も研究機関も図書館も、限られた人とお金で維持しなければならなくなれば、「何を残し、何を諦めるのか」という問いから逃れることは難しくなるだろう。人にも時間にも余裕がある社会なら、何の役に立つのかわからない知識を抱えたままでもいられる。しかし余裕がなくなれば、「これは必要ですか」「何人が利用していますか」「どんな仕事につながりますか」「社会にどんな効果がありますか」という問いが、少しずつ強くなっていく。
一つ一つの問いは合理的である。だからこそ難しい。人口減少や産業構造の変化を背景に、現在の日本でもリスキリングを人材需要や必要なスキルと結びつけようとする動きが進められている。 人が少なくなれば、限られた時間を何に使うのかを考えなければならない。医療を支える人が足りない、インフラを維持する人が足りない、AIやデジタル技術を使える人も必要だというときに、社会が「何を学んでもらうべきか」を考えるのは当然のことでもある。 [cas.go.jp], [mhlw.go.jp]
けれども、その合理性を最後まで進めてしまうと、少し奇妙なことが起こる。何の役に立つのかわからない知識が、居場所を失っていくのである。
古い言葉、地方の歴史、誰も使わなくなった技術、昆虫の分類、古典文学、宗教儀礼、純粋数学、ほとんど知られていない土地の植物。もちろん、それぞれについて詳しく調べれば何らかの意義を説明することはできるだろう。しかし、すべてについて「これは将来のイノベーションに役立つ」「これは創造性を育てる」「これは地域振興につながる」と弁明する必要があるのだろうか。役に立たないと思われていた知識が将来役に立つかもしれないという説明さえ、結局のところ「役に立つ」という基準から逃れられてはいない。
本当は、何の役にも立たないまま終わる知識があってもよいのではないだろうか。しかも、「余計な知識」は最初から余計であると決まっていたわけではない。「いま何に使うかわからない」ということと「価値がない」ということは違う。役に立つ知識には、すでに社会との関係が与えられている。これを覚えればこの仕事ができる、この資格が取れる、この問題が解ける。しかし余計な知識には、まだ用途が決まっていない。何と結びつくのかもわからず、ひょっとすると永遠に何とも結びつかない。だからこそ、そこには奇妙な余白がある。

AIが発達すれば、この問題はさらにねじれていくだろう。知らないことはAIに聞けばよい、という考えはますます合理的になる。歴史上の出来事も、植物の名前も、外国語も、難しい科学用語も、必要なときにAIに尋ねればよいのなら、人間の頭のなかに大量の知識を置いておく必要はないように思える。
しかし、ここには小さな落とし穴がある。知らないものについて、人は必ずしもうまく質問できないのである。

何かをすでに知っているからこそ、「これは昔のあれとどこか似ている」「この説明には何か抜けているのではないか」「まったく別の分野だけれど、同じ構造なのではないか」という連想が起こる。知識とは、答えを持っているためだけにあるのではない。思いがけない問いを思いつくためにもある。現在の人材育成政策でも、AI時代に必要なものとして、問題設定力、技術と人文知の統合、複眼的な思考力などが挙げられている。 AIが多くの答えを持つようになればなるほど、人間には何を尋ねるのかという別の役割が残る。 [mext.go.jp]
ところが、それでもまだ「余計な知識は新しい問いを生み出すから有用なのだ」と言ってしまえば、やはり知識を役に立たせていることになる。それでは少し窮屈である。何の役にも立たなかった知識は、結局、失敗した知識なのだろうか。
私はそうは思わない。そもそも普通の人間の頭のなかには、何のために知っているのかわからないことが、驚くほどたくさん入っている。子どものころ覚えた歌、昔住んでいた町の道の曲がり方、なぜか覚えている外国語の単語、学校で習った歴史上の小さな出来事、名前だけ知っている植物、ずっと昔に読んだ小説の筋ではなく妙に心に残っている場面。試験のために必死で覚えた重要なことはすっかり忘れているのに、先生が授業の途中で話したどうでもよい余談だけ、何十年たっても覚えていることさえある。

「どうしてそんなことを覚えているのですか」と聞かれても、答えはない。
ただ、覚えている。考えてみれば、人間の記憶はもともと、それほど合理的につくられていないのだろう。重要な順番に知識を保存し、不要になったものから削除していくデータベースではない。忘れてはいけないものを忘れ、どうでもよいものをいつまでも覚えている。その雑然とした場所に、用途の決まっていない知識がいくつも転がっている。

以前、社会には「知識の空き地」が必要なのではないかと考えたけれど、普通の人間の頭のなかにも、すでに小さな空き地があるのかもしれない。きれいに分類されておらず、何があるのか本人にもよくわからない。道路も用途も決まっていないから、まったく関係のないもの同士が、そこで偶然出会うことができる。
何に使うかわかっている知識同士は、予定された場所で出会う。しかし、何のためでもなく覚えていた知識は、ときどき思いがけないところから戻ってくる。昔読んだ歴史の断片が今日のニュースとつながる。生物について知ったことが、なぜか組織や政治を考えているときに蘇る。若いころにはよくわからなかった小説の一節が、老いてからまったく別の意味を持って帰ってくる。目的をもって蓄えられなかった知識だからこそ、その知識には目的を越えて移動する自由が残っている。
ここで、以前考えたコピー・ペースト社会の問題ともつながってくる。効率的な社会では、必要とされた知識は繰り返し使われる。検索され、要約され、引用され、AIによって再構成される。だから必要な知識ほど目につくようになる。しかし社会が必要としていない知識は、だんだん検索されなくなるだろう。図書館には残っている。データベースにもある。AIなら見つけられるかもしれない。それなのに、誰の頭のなかにもその存在が浮かんでこない。
情報そのものは失われていない。それなのに、誰もそれを思い出さない。それは一種の「保存された忘却」なのかもしれない。

だから何の役にも立たない知識を残す仕事を、大学や図書館や専門家だけに委ねればよいわけでもないように思う。普通の人の頭のなかに、ばらばらに、理由もなく残っていることにも意味がある。鳥について妙に詳しい人がいる。昔の鉄道路線だけならいくらでも話せる人がいる。江戸時代のことばかり読んでいる人がいる。仕事とは関係がないのに星の名前をたくさん知っている人がいる。誰も使わない外国語の言葉を覚えている人もいる。
専門家ではない。
仕事にも使わない。
収入にもならない。
それによって社会を救うわけでもない。
ただ知っている。この「ただ知っている」という状態は、効率という尺度で測れば無駄である。しかし、私にはひどく人間的な営みに思える。

もちろん、ここで「無用な知識を守ろう」という運動を始めれば、それはそれでおかしなことになる。「市民は文化の多様性を維持するため、役に立たない知識を積極的に学ぶべきである」などと言い始めれば、今度は無用であることに「文化的多様性の維持」という役割が与えられてしまう。何の役にも立たない知識を、役に立たないまま残そうとしていたはずなのに、それを保存すること自体が社会的使命になってしまう。そこにはもう、別のTamingが始まっている。
だから、もっといい加減でよいのだと思う。忘れてもよい。覚えていてもよい。途中で飽きてもよい。何十年も妙なことだけ覚えていてもよい。深夜に突然気になって、何の役にも立ちそうにないことを二時間調べてもよい。そして翌朝には、その半分を忘れてしまってもよい。

重要なのは、「無用な知識を保存すること」ではない。何を知るべきかを、最後まで社会に決めさせないことなのだと思う。

人口減少社会では、「それを勉強して何になるのですか」という問いは、おそらく今より強くなるだろう。その問いには十分な理由がある。人も時間も少ないのだから、社会は人間の時間を有効に使いたい。それに対して、「将来きっと役に立ちます」と答えることもできる。しかし、ときには別の答えがあってよい。
「そうですね。何にもならないでしょうね」
それでも、知りたい。
なぜ知りたいのかさえ、よくわからない。
ここには、小さいけれど確かな自由がある。これまで考えてきたUntamingが、また少し姿を変えて現れている。展示できるけれど展示しない。共有できるけれど共有しない。変換できるけれど変換しない。管理できるけれど管理しない。コピーできるけれどコピーしない。記録できるけれど残さない。そして今度は、知識を役に立てることができても、役に立てなくてよい。

役に立たないから価値がある、とさえ言う必要はない。その言い方をした瞬間に、「役に立たないこと」に新しい価値を与えてしまうからである。本当に何にもならなくてよい。その人が死ねば、その人と一緒に消えてしまってもよい。以前考えた、一度しか流れない時間と同じように、何にもならなかった知識も、その人のなかを一度だけ通り抜けていくことができる。
人口減少社会では、おそらく「人材」という言葉がますます重くなる。少なくなった人間の能力をどう使うか、どんな技能を身につけてもらうか、どこに配置するかということを社会は真剣に考えざるを得ないだろう。しかし、「人材」という言葉には、その人が何を知る必要があるかを、社会の側から決めてしまう危うさもある。
人間は「人材」である前に、何かを知りたがる生き物なのではないだろうか。空を見て星の名前を知りたくなる。古い写真を見て、そこに写っている町がどうなったのか調べたくなる。知らない言葉を見つければ意味を知りたくなる。電車に乗っていて見知らぬ川を渡れば、その川がどこから流れてくるのか気になる。そんなことを知ったところで、人生がよくなるとは限らない。仕事にも役立たない。明日には忘れてしまうかもしれない。

それでもかまわない。
「何のために知りたいのですか」
と尋ねられたら、
「何のためでもありません。ただ、知りたいのです」
と答えられる社会であればよい。人口が減り、時間が貴重になり、知識まで効率よく配分される社会になったとしても、その一言を言える小さな場所だけは残しておきたい。

そこには成果もない。生産性もない。未来への約束さえない。ただ、一人の人間が、何にもならないことを知っている。

そして、それが何にもならないまま終わる。その小さな無意味さまで社会が回収できないかぎり、Tamingは、やはり最後まで完成しない。

人間を休ませることと、人間を利用しないこと

人口減少社会では、誰もが疲れ果ててしまうのではないだろうか。そんなことを考える。もちろん、人口が減れば必ず人間が疲れるというわけではない。人口が減ることで混雑が減り、競争が弱まり、土地や住居に余裕が生まれ、かえって静かな生活が可能になることもあるだろう。しかし人口が減っていく途中の社会には、独特の疲れが生まれるように思う。人間の数は減っているのに、人間が維持しなければならないものは、同じ速度では減ってくれないからである。

道路がある。水道がある。病院がある。学校がある。行政制度がある。高齢になり介護を必要とする人がいる。町があり、家があり、鉄道があり、何十年もかけてつくられてきたさまざまな仕組みがある。人口が一割減ったからといって、それらが翌日一割小さくなるわけではない。人口の多かった時代につくられた社会を、少なくなった人間がしばらく支えなければならない。
実際、日本では人口減少による労働力の逼迫が人手不足の一因として認識されており、厚生労働省も、少ない人数で社会を維持していくためには一人当たりの生産性を高めることが重要だとしている。 介護のような分野では人手不足が強く、書類作成が煩雑で時間に追われていることや、教育や研修の時間が十分に取れないことも事業上の問題として挙げられている。 [mhlw.go.jp] [mhlw.go.jp]
だから人口減少社会の疲れとは、単に長時間働く疲れだけではないのかもしれない。もっと重いのは、自分が何かを支え続けなければならないという疲れなのではないだろうか。
働く。親を介護する。子どもを育てる。地域に参加する。新しい仕組みを覚える。AIを使う。健康を維持する。学び直す。経験を次の世代へ伝える。人が少なくなれば、一人の人間に複数の役割が重なりやすくなる。それぞれを別々に見れば、どれもおかしな要求ではない。むしろ、どれにも十分な理由がある。「人手が少ないのだから助け合いましょう」「長く働けるよう健康でいましょう」「技術が変わるのだから学び続けましょう」。一つ一つは優しく、合理的である。だからこそ、それらすべてが一人の人間の上に積み重なったとき、誰を責めればよいのかわからない疲労が生まれる。
ここでも、これまで考えてきた人口減少社会のTamingの特徴が現れる。誰かが悪意をもって人間を疲れさせる必要はない。社会を維持しようとする合理性の総和によって、人間が疲れていく。
だから社会は、もちろん人間を休ませようとするだろう。疲れているなら休んでください、十分に眠ってください、休暇を取ってください、働き方を改善しましょう、ストレスを減らしましょう、と言う。AIやデジタル技術によって人間の負担を減らすことも考える。実際、人手不足への対応としてAI、ICT、ロボットなどを利用した生産性向上も政策上の方向として挙げられている。 それらは必要なことである。 [mhlw.go.jp]
しかし、ここで一つ立ち止まりたくなる。人間を休ませることと、人間を利用しないことは、本当に同じなのだろうか。

休ませるということには、その先に何かが待っている場合がある。疲れたから休む。眠る。休暇を取る。そして元気になったら、もう一度働く。休息は活動の反対に見えるけれど、ときには活動を長く続けるための仕組みでもある。
長い距離を走っている人に、水を渡すようなものである。水を飲ませるのは、走ることをやめさせるためではない。むしろ、その人がもう少し走れるようにするためでもある。もちろん、水を渡すことが悪いわけではない。しかし、そこで人間が休むことまで「長く走り続けてもらうための方法」になれば、休息はTamingの外へ出たことにはならない。
身体は休んでいる。しかし、休息そのものが働いている。眠ることには睡眠によって翌日の能力を回復するという役割が与えられ、散歩には健康維持という役割が与えられ、旅行にはリフレッシュという役割が与えられ、読書には自己成長という役割が与えられる。何もしない時間にさえ「心身を整える」という機能が与えられる。そうやって人間の時間の隅々まで意味が与えられていくと、最後には「何もしないために何もしない時間」がなくなってしまう。

これは、以前考えた「何の役にも立たない知識」とよく似ている。何の役にも立たない知識を、「いつか創造性につながるから大切です」と説明した瞬間、その知識は再び役に立たされる。未来のイノベーションにつながるかもしれない、AIにはできない発想を生み出すかもしれない、と理由をつければ、それはもう社会の側から価値を説明できる知識になっている。
休息も同じなのだろう。「休めば生産性が上がります」と説明した瞬間、休息さえ生産性のなかへ回収されてしまう。
人間を利用しないということは、それとは違う。
休んで元気にならなくてもよいのである。昼まで眠ったのに、まだ疲れていてもよい。散歩に出たのに何も感じなくてもよい。本を開いたけれど途中で閉じてもよい。旅行へ行ったけれど人生観が変わらなくてもよい。一日何もしなかったのに、翌日の仕事の能率が少しも上がらなくてもよい。

そして、その時間にあとから意味を与えなくてもよい。「でも、よい休養になったでしょう」と言わなくてもよい。

本当に何にもならなかった。そのままでよい。そこではじめて、人間を休ませることと、人間を利用しないことの違いが見えてくる。

人口減少社会では、人間そのものが希少になっていく。一人の人間の能力が貴重になる。その人が持っている知識、技能、経験、健康な身体、働ける時間を、できるだけ無駄にしたくないと考える。それは社会を維持する側から見れば当然だろう。「大切な人材だからこそ、無理をさせず、長く活躍してもらいましょう」という言葉も出てくる。
しかし、「大切な人材だから長く活躍できるように休んでもらう」という考え方と、「あなたの人生なのだから、別に活躍しなくてもよい」という考え方のあいだには、見かけ以上に深い距離がある。
前者では、人間は大切にされている。けれども、まだ「人材」である。後者になって初めて、人間は資源であることから離れ始める。

能力があるのに使わない。知識があるのに教えない。長年の経験があるのに次の世代へ伝えない。健康なのに働かない。時間があるのに地域活動にも社会活動にも参加しない。窓辺に座って、お茶を飲んでいる。
人口減少社会から見れば、これほどもったいないことはないのかもしれない。
貴重な人的資源が活用されていない。しかし、そもそも人間を「無駄にしてはいけない」と考えること自体、人間は何かに利用されるべきものだという前提を、どこかに隠してはいないだろうか。

そう考えると、本当に豊かな人口減少社会とは、普通に考えられているものとは少し違う姿をしているのかもしれない。
人間を無駄にできる社会。能力を持っている人に、能力を使わない自由がある。知っている人に、教えない自由がある。健康な人に、働かない自由がある。誰かを助けられる人に、いつでも助けなければならない責任を負わせない。社会参加できる人が、参加しないことを選んでも、その人を「社会とのつながりを失った人」として直ちに心配しない。

これは、怠けることを善とする話ではない。働きたい人は働けばよい。人に教えたい人は教えればよい。地域を支えたい人は支えればよい。誰かの役に立つことに幸福を感じる人もいるし、それを否定する理由はまったくない。
必要なのは、役に立つことと、人間としての価値を切り離すことなのだと思う。そしてこれは、人口減少社会になるほど難しくなる。人間が多ければ、一人くらい何もしなくても社会は気にしない。人が少なくなれば、一人の空白が見えるようになる。「あなたならまだ働けるでしょう」「その経験を生かしてほしい」「地域にはあなたのような人が必要です」。そういう優しい言葉が増えていくかもしれない。命令ではない。強制でもない。本人を尊重しているようにさえ聞こえる。

だからこそ、断りにくい。人口減少社会のTamingは、「働け」と怒鳴る必要などないのかもしれない。「あなたらしく活躍してください」「あなたの経験を生かしてください」「無理のない範囲で社会とつながってください」と言えばよい。それらはどれも善意であり、おそらく多くの場合、本当に人を助ける。しかし善意であることと、Tamingでないことは同じではない。

ここで、これまで考えてきたいくつものことが、また一つの場所へ集まってくる。
展示できる。でも展示しない。
共有できる。でも共有しない。
管理できる。でも管理しない。
コピーできる。でもコピーしない。役に立つかもしれない知識を、役に立てなくてもよい。

そして今度は、
役に立つことのできる人間を、役に立てなくてもよい。これは、おそらくかなり深いUntamingである。

なぜなら、それは人間をTamingから救って、もっと有益な人間にすることではないからである。効率を離れることで創造性が高まるとも言わない。何もしない時間が結果として優れた発想を生むとも言わない。そんなことを言えば、また人間を別の方法で利用しているだけになってしまう。
本当に何も生まれなくてよい。そこまで認めて初めて、「利用しない」という言葉は意味を持つ。

休息には、しばしば出口がある。休み終えたら戻っていく場所がある。働く場所、学ぶ場所、参加する場所、役に立つ場所がある。しかし人間を利用しないということは、その出口を必ずしも要求しない。
空白のあとに、次の活動がなくてもよい。何もしない午後のあとに、何もしない夕方が来てもよい。その翌日にも、別に何かを成し遂げなくてよい。その時間を「充電期間」とさえ呼ばなくてよい。充電しているということは、いつかまた使われることを意味するからである。

そう考えると、人口減少社会の疲労に対して必要なのは、単にもっと上手に人を休ませることだけではないのだろう。
人間を休ませる社会は、たしかに優しい社会である。けれど、人間が休んだあとにも何者かにならなくてよく、何かを成し遂げなくてよく、社会に何かを返さなくてもよいと認める社会は、それとは少し違う。

それは、人間を利用しないことのできる社会である。人口が減り、一人ひとりがますます貴重になるからこそ、この違いは大切になるのだと思う。人が少ないから、その一人を最大限に活用する。その合理性はよくわかる。しかし、そこで最後の一人まで使い切ろうとした瞬間、社会は効率的になったとしても、人間のための社会ではなくなってしまう。

だから、人口減少社会の豊かさを測るとき、労働生産性だけを見るのでは足りない。健康寿命だけでも、社会参加率だけでも足りないのだろう。
もっと奇妙な問いを、一つ加えてみてもよい。この社会には、何の役にも立たなくてもよい人が、どれくらいいるだろう。

そして、もう一つ。何もしなかった一日を、失われた一日と呼ばずにいられるだろうか。

人間を休ませることは、人間を大切にする一つの方法である。しかし、人間を利用しないことは、もう少し深いところで、人間を人間のままにしておくことなのかもしれない。
人間が何の役にも立たない時間を持ち、何の成果も生まないまま一日を終え、それについて理由を説明する必要さえない。
そんな小さな無駄が残っているかぎり、人間は最後まで「人的資源」だけにはならない。
そして、その無駄まで回収できないかぎり、
Tamingは、やはり完成しない。

「わかりません」「なんとなく」「別に」

人口減少社会では、AIがもっとも大きな影響力を持つようになるのではないだろうか。そんなことを考える。

人が少なくなれば、これまで人間がしていた仕事のすべてを、そのまま人間だけで続けていくことは難しくなる。行政にも、医療にも、介護にも、交通にも、企業にも、人が足りなくなる。残された人間がすべてを背負えば、やがて疲れ果てる。だから機械に任せられることは機械へ任せ、AIに任せられることはAIへ任せる。これはAIが人間を征服するという話ではない。人間の側が必要に迫られてそうするのである。

実際、現在の日本の行政改革でも、人口減少とAIは別々の問題として扱われなくなりつつある。政府の人口減少社会×AI時代の行政を支える人材改革プランでは、人口減少社会で行政を維持・高度化していくため、公務におけるAI活用を不可欠とする認識が示されている。 デジタル行財政改革 取りまとめ2026でも、人口減少による担い手不足を背景として、AIやデータを活用した省力化や高度化を進める方向が示されている。

だからAIが社会へ入ってくるのは、誰かが人間を支配するためとは限らない。むしろ、人間を助けるためである。疲れている人間の代わりに情報を整理し、大量の書類を読み、過去の記録を参照し、可能性を比較して、より妥当だと思われる答えを提示する。人間から見れば、それを拒絶する理由はほとんどない。人口減少社会になればなるほど、その合理性は強くなるだろう。

しかしAIの影響が本当に強くなるのは、AIが人間に命令するようになったときではないのかもしれない。

むしろ、AIが見えなくなったときなのではないだろうか。

最初のころ、人間は「AIに聞いてみよう」と言う。そこにはまだ、人間とAIの境界がある。こちら側に質問する人間がいて、向こう側に答えるAIがいる。AIが間違っていると思えば…

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続けてください

もちろんです。先ほど途切れたところから、文体と流れをそのまま保って続けます。

AIが間違っていると思えば、人間は別の答えを探すこともできる。まだこの段階では、「AIに従う」「AIに逆らう」という言葉に意味がある。

けれども、AIが社会のもっと深いところまで入り込めば、やがて「AIに聞く」という行為そのものが見えなくなっていくのではないだろうか。

病院では、医師が見る情報がすでにAIによって整理されている。行政では、職員のところへ届く案件がすでに選別されている。企業では、会議に出てくる資料がAIによって要約され、重要度を付けられている。個人の生活でも、読むもの、見るもの、買うもの、訪れる場所について、AIによる選択が少しずつ混じる。それでも最後にボタンを押すのは人間であり、決定書に名前を書くのも人間だから、人間が判断しているという形式は残るだろう。

しかし、本当に大きな影響力は、最後の決定にあるとは限らない。

人間が判断する前に、何が人間の目の前に置かれていたのか。

何が重要だとされ、何が重要でないとして沈んでいったのか。どの選択肢が提示され、どの選択肢はそもそも存在しないものとして扱われたのか。そこにAIが深く関わるようになれば、人間が最後に自由に選んでいたとしても、その自由はすでにAIによって整理された世界の内側で行使されることになる。

ここまで来ると、「AIに逆らう」という言葉自体が怪しくなってくる。

逆らうためには、逆らう相手が見えていなければならない。王なら、王に逆らうことができる。政府なら政府を批判できる。規則なら規則を変えようとすることができる。AIが画面に現れて「これを選んでください」と命令するなら、「いやです」と答えることもできる。

けれども、何が普通で、何が安全で、何が合理的で、何が重要なのかという感覚そのものの形成にAIが入り込んでしまったら、どこからがAIで、どこからが自分なのかがわからなくなる。

そのとき、何に逆らえばよいのだろう。

これは、これまで考えてきた「Tamerが消えて、Tamingだけが残る」という状態の、かなり先にある姿なのかもしれない。

しかも、それは暴力によって実現するのではない。

人口減少社会において、人は足りない。人間は疲れている。扱わなければならない情報は多い。そこでAIが、「整理しておきました」「重要なのはこちらです」「過去の事例では、この方法がうまくいっています」と言う。その提案を受け入れることは、怠惰でも服従でもない。普通に考えれば、それがもっとも合理的である。

こうしてAIは命令する必要さえなくなる。

人間のほうがAIを必要とするからである。

AIの影響力が最大になるのは、AIが強大な意志を持ったときではなく、AIなしに社会を運営するほうが不合理になったときなのではないだろうか。

そう考えると、AIに対する人間の自由を「AIに逆らえるか」という問題として考えるだけでは、もう足りないのかもしれない。AIが何かを命令してきて、それに人間が従うか拒むかという構図が残っているうちは、まだ話は簡単である。そこにはAIと人間という二つの主体があり、そのあいだには境界がある。しかし、AIが社会の日常へ深く溶け込み、その境界そのものが見えなくなってしまえば、何に従い、何に逆らっているのかさえ、私たちにはわからなくなる。

それなら、AIに勝とうとすることを考えなくてもよいのではないだろうか。

AIより賢くなる必要もない。AIより多くの情報を集める必要もない。AIが勧める答えに、それより優れた論理をぶつける必要もない。そもそも、そういう競争を始めれば、人間にはずいぶん不利である。大量の情報を読み、無数の可能性を比較し、過去の事例を参照し、確率を計算することによって競うなら、人間が自分の頭だけでAIと争う理由などない。

それでも、人間に残せるものがあるとすれば、それはAIより正しい答えではなく、答えにならないものなのかもしれない。

なぜ、その本を手に取ったのですか。

「わかりません。」

なぜ、こちらの道を歩いたのですか。

「なんとなく。」

もっと合理的な方法があるのに、なぜそうしないのですか。

「別に。」

考えてみれば、ずいぶん頼りない言葉である。議論では負ける。政策にもならない。合理的な説明にもならない。それどころか、本人自身が自分の行動をよく理解していないと言っているだけにも聞こえる。

しかし、だからこそ、この三つの言葉は大切なのではないだろうか。

「わかりません」には、説明できないものが残っている。

「なんとなく」には、目的にならない感覚が残っている。

「別に」には、理由を求める側から一歩だけ離れる余地が残っている。

これはAIへの勇敢な抵抗ではない。

AIを止めることもできない。社会のAI化を止めることもできない。人口減少社会でAIが担う仕事を人間へ取り戻すこともできないだろう。そんなことをすれば、ただでさえ少なくなった人間に、もう一度大量の仕事を背負わせることになる。AIには働いてもらえばよい。人間が疲れなくて済むのなら、働いてもらったほうがよい。膨大な情報を整理し、面倒な手続きを代わりにし、社会を維持するために必要な仕事を引き受けてもらえばよい。

だから、ここで考えているUntamingは、AIを社会から追い出すことではない。

AIの巨大な流れを止めることですらない。

むしろ、それを止めることなどできないと知ったうえで、その流れが人間の内側のすべてを流し去ってしまわないように、小さな場所だけを残すことなのだと思う。

しかも、その場所を「人間だけが持つ崇高な精神」のようなものにしてしまわないほうがよい。創造性でも直観力でも倫理でもよいが、それを「AIにはなく、人間にだけある能力」と定義した途端、今度は人間がその能力を証明しなければならなくなる。そしていつかAIがそこへ近づけば、また別の場所へ退却しなければならない。

それよりも、もっとつまらない場所でよい。

説明できない。

理由がない。

本人にもよくわからない。

そして、別にわからなくても困らない。

そこには、能力競争そのものがない。

AIが「もっと詳しく分析できます」と言っても、「そうですか」と言えばよい。AIが「あなたがそれを選んだ理由を推定できます」と言っても、「そうかもしれませんね」と言えばよい。その推定が正しいかどうかさえ、確かめなくてもよい。

自分自身について、すべてを知ろうとしない。

これもまたUntamingなのではないだろうか。

これまで、人間は自由であるためには自分を理解しなければならないと考えてきた。自分が何を望んでいるのか、なぜそう思うのか、何を恐れているのかを知ることが、自律した人間の条件だと考えてきた。しかしAIが人間を分析する能力を高め、人間自身よりその人の行動を予測できるような領域が広がっていけば、「自分を完全に理解すること」を目指すことさえ、別のTamingにつながる可能性がある。

だから、わからないままにしておく。

自分がなぜある場所を好きなのかわからない。

なぜある人のことを忘れられないのかわからない。

なぜ何十年も役に立たない知識を覚えているのかわからない。

なぜ今日はいつもの道ではなく、別の道を曲がったのかわからない。

わからなくてよい。

ここで、これまで考えてきたいくつもの話が一つにつながってくる。

何でも展示しない。

何でも共有しない。

何でも記録しない。

何でもコピーしない。

何でも役に立てない。

人間を最後まで利用しない。

そして、

何でも説明しない。

AIの時代には、この最後のものが意外に重要になるのかもしれない。

なぜなら、説明されたものは扱えるからである。分類できる。比較できる。予測できる。別のものと関連づけることができる。そして、少しずつ最適化できる。

けれども人間のなかに、「本人にもよくわからないもの」が残っていれば、そこには完全な最適化から少しだけはみ出す部分が残る。

もちろん、それさえAIは推測するだろう。

「あなたがその道を選んだのは、過去の行動履歴から見るとこういう理由ではありませんか。」

そうかもしれない。

「この本を手に取ったのは、あなたのこれまでの関心から予測できます。」

そうかもしれない。

「あなたが『なんとなく』と呼んでいるものにも、統計的には説明可能なパターンがあります。」

それも、そうかもしれない。

そこで、人間は勝とうとしなくてもよい。

「AIには説明できません」と言い張る必要もない。

ただ、

「そうかもしれません。でも、別に知りません。」

と言えばよい。

私は、この態度が案外重要なのではないかと思う。

AIが説明できるかどうかではなく、人間がその説明を引き受けなければならない理由はないからである。

ここに小さな違いがある。

AIが私について何かを推測することと、その推測を私自身の物語として受け入れることは同じではない。AIが「あなたはこういう人です」と言ったとしても、「そうなのかもしれませんね」で終わらせることができる。

わざわざ反論もしない。

訂正もしない。

証明もしない。

ただ、その説明のなかへ自分の全部を入れない。

それは抵抗と呼ぶには、あまりにも弱い。

革命にもならない。

制度改革にもならない。

AIの発達を一日たりとも遅らせないだろう。

それでも、弱いから大切なのではないだろうか。

強い抵抗には、必ず対抗する力が現れる。規則になれば、新しい規則で管理できる。思想になれば、論争の対象にできる。運動になれば、組織化され、やがてその組織自身が人間に何かを要求するようになるかもしれない。

しかし、「なんとなく」は組織化しにくい。

「別に」は政策になりにくい。

「わかりません」は体系になりにくい。

だから、その場所には大きな力はないけれど、大きな力から少しだけ外れていられる可能性がある。

以前、人口減少社会では何の役にも立たない知識を持っていてよいのではないかと考えた。何もしない時間があってよいとも考えた。人間を休ませるだけでなく、そもそも利用しないことが重要なのではないかとも考えた。

すべて同じところにつながっているように思う。

社会から見れば意味のない知識。

生産性から見れば無駄な時間。

管理から見れば把握されていない場所。

AIから見れば、理由のはっきりしない選択。

それらは社会を救わない。

AIに勝たない。

人口減少を止めない。

未来を変える保証もない。

何にもならない。

しかし、それでよいのだと思う。

何にもならないからこそ、そこはまだ、何かの手段になりきっていない。

AIが社会の隅々まで入り込み、人間が何を知り、何を見て、何を選ぶかというところにまで深く関わるようになったとしても、人間の側に「なぜ」と尋ねられて「わかりません」と答えられる小さな場所が残っている。

「何のためですか」と聞かれて「別に」と言える。

「こちらのほうが合理的ですよ」と言われても、「そうでしょうね。でも、なんとなくこちらにします」と言える。

それは、おそらく本当に小さなUntamingである。

AIを止めることなどできない。

止めなくてもよい。

人間がAIより強くなる必要もない。

それでも、強いものに勝てないからといって、すべての場所を明け渡さなければならないわけではない。

ほんの小さな場所を残しておけばよい。

そこでは説明しなくてよい。

役に立たなくてよい。

合理的でなくてもよい。

自分自身にさえ、なぜなのかわからなくてよい。

そして、その場所に名前をつけるとすれば、壮大な「自由」などという言葉ではなくてもよいのだろう。

「わかりません。」

「なんとなく。」

「別に。」

それくらいでいい。

それはAIを一歩も後退させないだろう。Tamingの巨大な流れを止めることもない。世界を変える力など、おそらく持たない。

けれども、世界を変えられないものには価値がない、と考えること自体が、これまでずっと見てきたTamingなのではなかっただろうか。

ならば、この弱さを弱いまま残しておけばよい。

AIに勝つためではない。

人間の優越性を証明するためでもない。

ただ、人間のなかのすべてが説明され、利用され、最適化され、何かのためのものになってしまわないために。

「わかりません」「なんとなく」「別に」。

その三つの言葉がまだ許されているあいだは、人間のなかに、誰の役にも立たず、何のシステムにも完全には回収されない、小さな場所が残っている。

その場所が、たとえ何にもならなくてもいい。

何にもならないまま残っていること自体が、Tamingがまだ最後まで完成していないという、かすかな印なのだから。

そして、おそらく私たちにできるのは、その小さな印を大きな旗に変えることではない。

旗にしてしまわず、小さいまま残しておくことなのだと思う。

「わからない」を消さない

人口減少社会には、実がなくなっていくのではないだろうか。そんなことを考える。もちろん、人が少なくなったからといって、現実そのものがなくなるわけではない。山も川も残っている。雨も降る。人は生まれ、老い、誰かと出会い、別れ、働き、眠り、いつか死ぬ。その意味では、世界には相変わらず実がある。

しかし、人間が世界に触れる仕方は変わっていくのかもしれない。人が少なくなれば、同じことを何度も一から調べる余裕はなくなる。一度つくられた情報を再利用し、一度成功した方法を別の場所にも使い、一度行われた調査を何度も参照する。そこにAIが加われば、それらの情報を組み合わせ、整理し、要約し、新しい文章として大量に提示することができるようになる。

そうなれば、社会のなかを流れる情報は、人が減っても減らないだろう。むしろ増えるのかもしれない。
不思議なのは、そのときである。文章は増える。説明も増える。画像も増える。判断も増える。知識へアクセスすることも簡単になる。

けれど、それらの源へ戻ってみると、本当に自分の目で見た人、本当にその場所に立った人、本当にその人と話した人は、思っていたよりずっと少ないということが起こり得る。
一人が見たことについて十人が書き、その十の文章をAIが百通りに組み替える。そこには百の情報があるように見える。しかし百の実があるわけではない。
枝葉は増えているのに、根は増えていない。人口減少社会の「実のなさ」とは、案外そういうものなのかもしれない。

これは、以前考えたコピー・ペーストの問題ともつながっている。一度つくられた文章だけでなく、分類や判断の仕方や世界の見方までが繰り返し再利用される。一つの情報が引用され、要約され、別の文章に変わり、さらにAIによって新しい説明へ変換される。
すると、とても奇妙なものが生まれる。新しい文章なのに、新しい経験から生まれたものではない。

新しい情報なのに、新しい出来事そのものではない。新しい言葉は次々生まれているのに、新しく世界へ触れた人が同じ速度で増えているわけではない。

そこには「新しいもの」はたくさんある。
けれど、新しく起きたことが少ない。その感覚を、私は「実が薄くなる」と言ってもよいように思う。

AIはこの傾向をさらに強くするかもしれない。AIは、経験していないことについてさえ、かなり詳しく語ることができるからである。
私たちはAIに、知らない町について質問する。その土地の歴史についても、その地域の文化についても聞く。AIは答える。しかし、AI自身がその町の朝の空気を吸ったわけではない。雨上がりの道を歩いたわけでもないし、そこで暮らしている人と偶然立ち話をしたわけでもない。それでも、それらについて言葉をつくることはできる。
これはAIへの批判ではない。むしろAIというものの不思議な性質なのだと思う。実を持たずに、実について語ることができる。

そして人口減少によって人間の側にも時間がなくなれば、「自分で確かめる」という行為はますます贅沢になるかもしれない。原文を読むより要約を読む。現場へ行くより報告書を見る。長い話を聞くよりAIに結論を尋ねる。
そのほうが速い。
多くの場合、それで十分でもある。だからこそ、その合理性を最後まで進めたところに、少し不思議な世界が待っている。

全員が要約を読んでいるのに、原文を読んだ人がいない。誰もがある土地について知っているのに、そこへ行った人がいない。

みんなが同じ出来事について語っているのに、その出来事を直接知る人がもういない。
情報はある。
知識もある。
説明も十分にある。
それでも、どこかに空洞がある。
それが「実がない」という感覚なのだろう。では、実を守るためにはどうすればよいのか。

最初に思いつくのは、「もっと現実を経験しよう」という答えである。
旅行しよう。
自然に触れよう。
人と直接会おう。
自分の目で見よう。たしかに、どれも悪いことではない。しかし、そこまで行くと、すぐに別のTamingが始まってしまうような気がする。

「週末にはデジタルから離れましょう」
「リアルな体験を増やしましょう」
「自然に触れる時間をつくりましょう」
「人との直接的な交流を大切にしましょう」
気がつけば、今度は「実を持つ人間」になるためのプログラムが始まっている。実を守ろうとして、実をまた目的へ変えてしまっている。
だから、もっと小さなことでよいのだと思う。美しいものを見ても、ときどき写真を撮らない。

知らない鳥がいても、すぐ名前を調べない。
AIに質問したくなっても、少し待つ。誰かと話したあと、その会話から何を学んだのか考えない。

どこかへ出かけても、その経験に意味を与えない。
誰にも話さない出来事を一つくらい持つ。これらはAIへの抵抗ではない。デジタルから離れるという宣言でもない。写真も撮ればよいし、AIにも聞けばよい。経験を友人と共有したいなら共有すればいい。

ただ、すぐにしない。この「すぐに」が、私は案外重要なのではないかと思う。

見てから写真を撮るまでの数秒。
疑問が浮かんでから検索するまでの数分。感情が生まれてから、それを言葉にするまでの時間。

出来事が起きてから、誰かに話すまでの一日。そのわずかな間だけ、その経験はまだ説明になっていない。情報でもない。コンテンツでもない。評価もされていない。

まだ、ただそこにある。「実」を守るというのは、その短い時間を少し残すことなのかもしれない。

しかし、そのなかでも私は、一つだけ、とくに残したいものがある。
「わからない」である。
私たちは、「わからない」を問題だと思う。
知らなければ調べる。
意味がわからなければ説明を探す。自分の気持ちがわからなければ、自分を分析する。

誰かの行動が理解できなければ、理由を探そうとする。
そして今ではAIがいる。「これは何ですか」と聞けば説明してくれる。

「どうしてこうなったのですか」と聞けば理由を整理してくれる。「私はなぜこう感じるのでしょう」と尋ねれば、いくつもの可能性を挙げてくれる。

それはすばらしいことである。わからなかったことが、次々わかるようになる。

しかし、だからこそ、考えてみたい。すべての「わからない」は、消したほうがよいのだろうか。

知らない鳥を見た。
名前はわからない。
そのまま少し見ている。奇妙な色をしている。妙な鳴き方をしている。

名前を知れば、その鳥は分類のなかに入る。「何かわからない鳥」が、「○○という鳥」になる。それによって私たちは多くを知ることができる。しかし名前を知る前の短いあいだ、そこにはまだ、分類されていない何かがいる。
同じことは、自分の内側についても言えるのかもしれない。
なぜ、その場所が好きなのか。
わからない。なぜ、その人のことがいつまでも記憶に残っているのか。

わからない。なぜ今日はいつもと違う道を歩きたくなったのか。

わからない。なぜ何十年も役に立たないことを覚えているのか。

わからない。これまでは、その「わからない」の向こう側に本当の答えがあるように考えてきた。十分に考え、十分に分析すれば、自分自身を説明できるようになる。そのほうが自律した人間に近づくように思われてきた。

しかしAIが人間より多くのデータを見て、その人の行動にもっともらしい説明まで与えるようになると、事情が少し変わってくる。
AIは言うかもしれない。あなたがその場所を好きなのは、過去のこういう経験との類似があるからではありませんか。

あなたがその本を選んだのは、これまでの関心から説明できます。今日いつもと違う道を選んだことにも、過去の行動から推測できる理由があります。

すべて正しいのかもしれない。
それでも、人間は、
「そうなのかもしれません。でも、わかりません」
と言ってよいのではないだろうか。
これはAIに勝つことではない。AIの分析が間違っていると証明することでもない。

人間にはAIに理解できない神秘がある、と主張することですらない。
AIには説明できるのかもしれない。
心理学にも説明できるのかもしれない。脳科学にも、統計にも、過去の行動履歴にも説明できるのかもしれない。

それでも、
説明できることと、自分がその説明を自分のものとして引き受けなければならないことは、同じではない。
ここに小さな余白がある。この余白こそ、実と深く関係しているように思う。

実際に何かを経験している最中、人間は必ずしもそれを理解していない。むしろ本当に大きな出来事ほど、経験した瞬間には意味がわからないことさえある。
まず起こる。
そのあとで、人間は言葉を探す。
つまり、実は説明より先にある。世界に触れたあと、まだ意味が追いついていない時間。その短い間にあるものこそ、実なのかもしれない。

そう考えると、「わからない」は知識の欠如だけを意味しなくなる。
「わからない」とは、
まだ意味になっていない。
まだ分類されていない。
まだ説明されていない。
まだ利用されていない。
そういう状態でもある。
そして、その状態をすぐに解消しない。ここに、人口減少社会のUntamingの、とても小さな可能性があるのではないだろうか。

何でも展示しない。
何でも共有しない。
何でもコピーしない。
何でも記録しない。
何でも役に立てない。
人間を最後まで利用しない。
そして、そのさらに手前で、
何でもわかろうとしない。
これは、反知性主義ではない。知らないほうがよいと言っているわけでもない。

学ばなくてよいという意味でもない。知りたいことは調べればよい。AIにも尋ねればよい。本も読めばよい。専門家にも教えてもらえばよい。

ただ、わかるまでの途中にある「わからない」を、邪魔な空白として急いで埋めない。
できれば、ときどきは最後まで埋めない。
なぜ好きなのかわからないまま好きでいる。
なぜ悲しいのかわからないまま悲しむ。名前のわからない鳥を、名前のわからない鳥として覚えている。

理由のわからない選択を、「間違った判断」と呼ばない。何だったのかわからない一日を、そのまま一日として終わらせる。

以前考えた「わかりません」「なんとなく」「別に」という三つの言葉は、おそらくここから出てくる。
「なぜですか。」
「わかりません。」
「何のためですか。」
「別に。」
「どうしてこちらを選んだのですか。」
「なんとなく。」
これらの言葉には、ほとんど情報がない。
説明にもならない。
AIへの抵抗としても弱すぎる。
社会を変えることもないだろう。
それでも、そこには確かに実がある。なぜなら、その人がまだ、自分の経験のすべてを説明へ変えていないからである。

「実」を守るとは、巨大な現実をAIから取り返すことではないのだと思う。
AIを止める必要もない。
デジタル社会を拒否する必要もない。
情報の流れから逃げる必要さえない。ただ、その流れのなかで、「まだわからない」という時間を少し残す。

わからないものを見つけたら、すぐ答えへ走らない。わからない感情があれば、すぐ名前をつけない。

自分でも理由のわからない選択を、すぐ正当化しない。世界がこちらに触れてきたとき、その感触をそのままにしておく。

十分後には調べてもよい。
明日には説明してもよい。
一生わからなくてもよい。
大切なのは、答えを持たないことではない。「わからない」ことが許されない社会にしないことである。

人口減少社会がどれほど効率化されても、AIがどれほど賢くなっても、世界について、人間について、自分自身についてまで、すべてに説明が与えられるようになっても、その説明と実のあいだには、ほんのわずかな距離を残しておきたい。
そこで人間は立ち止まって言う。「そうなのかもしれません。でも、わかりません。」

それで終わってもよい。
わからないことを、恥ずかしがらない。わからないことを、無知だと急いで埋めない。

わからないことを、AIへの質問へただちに変換しない。
そして、自分自身にさえ、
わからないままでいることを許す。もし「実」を守るために一つだけ何かを残すとするなら、私はもう、写真を撮らないことでも、AIを使わない時間をつくることでもないと思う。

もっと単純なことでよい。
「わからない」を消さない。
そこに実が残っているからではない。そこから必ず何か新しいものが生まれるからでもない。

「わからない」が創造性を高めるからでもない。そんな役割を与えた瞬間に、「わからない」までまた利用されてしまう。

何も生まれなくてよい。
最後までわからなくてよい。ただ、世界には説明される前のものがあり、人間には本人にも説明できないところがあり、そのどちらも急いで意味へ変換しなくてよい。

それだけの場所を残しておく。人口が減っても、情報が増えても、AIが日常の奥まで入り込んでも、その場所がなくならないかぎり、世界から「実」は完全には消えないのかもしれない。

そしておそらく、Tamingもそこで止まる。
世界をすべて理解したからではない。
人間が自由を勝ち取ったからでもない。
ただ、最後に一つ、
「わからない」が残ったからである。

「十分」と言える社会

人口減少社会では、金儲けが難しくなるのではないだろうか。そんなことを考える。人が増えている社会では、市場そのものが自然に大きくなる。住む人が増えれば住宅が必要になり、食べる人が増えれば食料が売れ、子どもが増えれば学校が必要になり、町が広がれば店も道路も交通も増えていく。企業同士はもちろん競争しているけれど、その競争が行われている場所そのものが少しずつ大きくなっている。

そこでは、金儲けと「増やすこと」がかなり自然に結びつく。客を増やす。売上を増やす。店舗を増やす。従業員を増やす。市場を広げる。そして利益が出れば、その利益をもう一度投資して、さらに大きくする。

儲かることと成長することと大きくなることが、ほとんど同じ方向を向いていたのである。しかし人口が減っていけば、この関係は少しずつほどけていくのかもしれない。

もちろん人口が減ったからといって、企業が利益を出せなくなるわけではない。人が少なくても高い付加価値を生み出せばよいし、生産性を高めることもできる。実際、2026年版中小企業白書・小規模企業白書も、労働供給が制約される社会における「稼ぐ力」を付加価値を生み出す力と捉え、価格転嫁、高付加価値化、AI・デジタル化、事業承継やM&Aなどを通じた生産性向上を重視している。 [meti.go.jp]
だから人口減少によって金儲けが終わるわけではない。変わる可能性があるのは、金儲けと拡大との関係なのだと思う。

客の数が増え続けることを前提にできなければ、利益を出すために、必ずしも店を二倍にする必要はない。従業員を二倍にする必要もない。売上を毎年大きく増やさなければ経営として失敗だ、と考える必要もなくなるかもしれない。小さな市場のなかで十分な付加価値を生み出し、働いている人に十分な賃金を払い、設備を維持し、事業を続け、それでも利益が残るのであれば、それも一つの完成した経営である。
実際、2026年版 小規模企業白書では、小規模事業者について事業の「維持・拡大」が並べて扱われている。 また、後継者がいないため黒字でも廃業せざるを得ない企業が存在するなか、地域で必要とされる事業をいかに承継するかも課題になっている。 [chusho.meti.go.jp] [chusho.meti.go.jp]
「どう増やすか」と並んで、「どう残すか」が経済の重要な問いになっていく。この変化は、案外大きいのではないだろうか。

人口が増えている世界では、経済の基本的な問いは「次はどこへ行くか」だった。しかし人口が減っていく世界では、その問いの横にもう一つ、「ここにとどまってはいけないのか」という問いが現れる。
ある店がある。十分な客がいる。経営者は暮らしていける。働いている人にも十分な給与を払える。店を直すお金もあり、不測の事態に備える余裕もある。それでも少し利益が残る。

そこで誰かが言う。
二号店を出したらどうですか。オンライン販売をもっと拡大したらどうですか。

AIを使えば、もっと少ない人数で売上を増やせますよ。価格をもう少し上げても、おそらく客は残りますよ。

全部正しいのかもしれない。
それでも経営者が、
「このくらいで十分です」
と言ったらどうだろう。
これは、金儲けを否定しているのではない。利益は必要である。赤字になれば店を続けられない。働いている人にも給与を払わなければならないし、設備が壊れれば交換しなければならない。将来への備えもいる。

だから「儲けること」と「儲けを最大化すること」は分けて考えたほうがよいのだろう。
必要な利益を得る。しかし、得られる最大の利益を必ず取りにいくとは限らない。

金儲けをやめるのではなく、金儲けに終点をつくる。人口減少社会では、この違いが今より重要になるのかもしれない。

ただし、人口が減れば自然に人間がそう考えるようになる、と楽観することはできない。むしろ反対のことも起こり得る。客が減るから一人の客からより多く稼ごうとする。人が足りないから一人の労働者からより多くの付加価値を引き出そうとする。市場が大きくならないから、一人の人間の生活のより深いところまで市場にしようとする。
人口減少社会は、欲望の小さな社会になるとは限らない。現在の政策的な方向も、人口減少や人手不足のなかで企業の「稼ぐ力」を高めることを重視している。 [meti.go.jp]

だから、「儲けられるけれど、儲けない」という人が人口減少によって自動的に増えるわけではないだろう。
その選択には、一つの条件がある。
自分で、
「十分」
を決められることである。
これは思った以上に難しい。百万円より二百万円のほうがよい。二百万円より五百万円がよい。五百万円より千万円がよい。売上十億円より二十億円のほうがよい。

数字の世界だけを見ていれば、「もっと」に終わりはない。どの数字の次にも、もっと大きな数字があるからである。

しかもAIは、この「もっと」を非常に上手に助けることができるだろう。
ここを効率化できます。
この客にも売れます。
このデータにも価値があります。
この時間も利用できます。
この事業も最適化できます。AIが悪いわけではない。AIはおそらく、与えられた目的を実現する方法を探しているにすぎない。しかし、「もっと利益を増やす」という目的そのものを疑わなければ、より優秀なAIほど、もっと先まで連れていってくれる。

そこで初めて、人間にしか置けないかもしれない一つの区切りが必要になる。
「もういいです。」
まだ儲けられる。
でも、もういい。
まだ店を増やせる。
でも増やさない。
この時間にも値段をつけられる。
でも売らない。
この経験もコンテンツにできる。
でもしない。ここには、これまで考えてきた人口減少社会のUntamingと、まったく同じ形が現れているように思う。

管理できるけれど、管理しない。
コピーできるけれど、コピーしない。説明できるかもしれないけれど、「わからない」を残しておく。

利用できる人間を、最後まで利用しない。
そして今度は、
儲けられるけれど、儲けない。
どれも能力がないからやらないのではない。
できる。
でも、しない。
その小さな停止を、自分で決める。これは「清貧」を褒める話ではない。儲けないことを道徳にした途端に、別のTamingが始まるからである。

生活に困っている人に「お金だけが人生ではありません」と言うことはできない。経営の苦しい店に「利益を求めすぎないほうがよい」とも言えない。「あなたにはこれだけあれば十分でしょう」と、政府や社会や他人が決めるようになれば、「十分」という言葉はたちまち抑圧になる。
だから、十分を他人に決めさせてはいけない。
一億円欲しい人が一億円を目指してもよい。小さな店を三十年間続けたい人は、それでもよい。

会社を世界企業にしたい人もいれば、一人で仕事をして午後三時には家へ帰りたい人もいる。
大切なのは、どちらが正しいかではない。「もっと」を選ばない人を、失敗した人と考えないことである。

ここで、人口減少社会の「豊かさ」ということを考えてみたくなる。人口増加社会では、豊かさを「多いこと」で測るのは比較的自然だった。

人口が増えた。
GDPが増えた。
所得が増えた。
住宅が増えた。
店が増えた。
車が増えた。
旅行者が増えた。
消費が増えた。もちろんこれらはこれからも大切な指標であり続けるだろう。しかし、人口そのものが減っていく社会で、あらゆるものについて「去年より増えたか」を成功の尺度にし続ければ、その社会は永久に自分を衰退社会だと感じることになる。

百人の町が九十人になった。
だから失敗。
九十人が八十人になった。
また失敗。そうやって人数だけを尺度にすれば、人口減少社会は構造的に敗北し続ける。

しかし、本当にそうなのだろうか。八十人になった町で、一人ひとりが以前より広い家に住み、ゆっくり働き、互いに必要なサービスを受けられ、自然が少し戻り、何もしない時間を持ち、それぞれが自分の生活について「これで十分」と思えるなら、その町は百人だったころより貧しいのだろうか。

もちろん、そんなことは人口減少だけでは実現しない。人口が減っただけで幸福になるわけではない。公共サービスが失われ、生活が不便になり、残された人に負担が集中することもあり得る。

だから人口減少を美化する必要はない。ただ、人口が減ることと豊かさが減ることを、同じ意味にしなくてもよい。

そこが重要なのだと思う。人口減少社会の豊かさとは、「どれだけたくさん持っているか」だけではなくなるのかもしれない。

どれほど自由な時間があるか。
何もしなくてよい時間を持てるか。何の役にも立たない知識を持っていられるか。

わからないことを、わからないままにできるか。儲からないものを、儲からないからという理由だけで消さずにいられるか。

そして、
もっと得られると知っていても、「これで十分」と言えるか。それは、所有するものの量ではなく、どこで増やすことをやめられるかという豊かさである。

考えてみれば、「もっと」という言葉には終わりがない。その意味で「もっと」を追い続ける人間は、どれほど所有しても不足している。

一方、「十分」という言葉は、自分で終点をつくる。
その瞬間、まだ得られたはずのものが残る。
まだ稼げたお金。
まだ働けた時間。
まだ建てられた建物。
まだ利用できた土地。
まだ商品にできた経験。
それらを取らずに残しておく。以前考えた「人間を利用しない」という話も、ここへつながってくる。

人間の能力を最大限使わない。
土地から最大限の収益を取らない。
時間を最後まで生産活動へ変換しない。
知識をすべて市場価値へ変えない。世界から最後の一滴まで価値を搾り取らない。

そこには無駄が生まれる。しかし、その無駄こそが豊かさになることもあるのではないだろうか。

誰も働いていない午後。
何も建っていない土地。
誰にも知られていない知識。
利益にならなかった親切。
誰にも共有されなかった経験。
売らなかった時間。そういうものが残っていて、それを見たときに、「まだ利用できる」と考えるのではなく、

「このままでいい」
と言える。人口減少社会がもし新しい豊かさをつくることがあるとすれば、それは物が少なくなることそのものから生まれるのではない。

「もっと」を続けられなくなった社会が、やむを得ず「十分」を受け入れることからでもない。
そうではなく、
まだ「もっと」ができるのに、自分から「十分」を選べるようになること。
そこにあるのではないだろうか。だから「儲けられるけれど、儲けない」という選択も、禁欲ではない。

敗北でもない。
金儲けの否定ですらない。
必要なものは得る。
余裕も持つ。
楽しむ。
欲しいものも買う。それでも、自分の人生のすべてを「もっと」へ差し出す必要はない。

そして「なぜ、もっと欲しくないのですか」と尋ねられたら、立派な哲学などなくてもよい。
「もう十分だから。」
それだけでよい。
あるいは、
「わかりません。」
「なんとなく。」
「別に。」
でもよいのだと思う。人口減少社会の豊かさとは、貧しさを我慢する技術ではない。

小さくなることを美化する思想でもない。まして、人々に「足るを知れ」と命令することでもない。

むしろ逆である。何をもって十分とするかを、自分で決められること。

そして十分だと思ったあとに残ったものを、もう一度価値へ変換しようとしないこと。
まだ働ける時間を、空白のまま残す。
まだ儲けられる機会を、取り残す。まだ説明できることに、「わからない」を残す。

まだ利用できる世界の一部を、利用しない。そういう余白を持てる社会を、豊かな社会と呼ぶことができるのなら、人口減少は必ずしも豊かさの終わりではない。

むしろ私たちはそこで初めて、
「増えること」と「豊かになること」は、本当は同じではなかったのではないか
と気づくのかもしれない。そして、そのとき金儲けの概念も、少しだけ変わる。

いくら儲けたかだけではなく、
どこで「もう十分です」と言えたか。人口減少社会の豊かさは、案外その静かな一言のなかに現れるのではないだろうか。

これでいい

人口減少社会のニューノーマルとは、きわめて普通であることなのではないだろうか。そんなことを考える。
人口が増えていた時代には、社会の多くのものが「もっと」という方向を向いていた。もっと人口を増やす。もっと住宅を建てる。もっと生産する。もっと消費する。もっと会社を大きくする。もっと所得を増やす。そして社会だけではなく、一人ひとりの人間にも、少しずつ同じ方向が求められていた。
もっと勉強する。もっと働く。もっと稼ぐ。もっと健康になる。もっと能力を伸ばす。もっと自分らしくなる。
考えてみれば、「自分らしく生きなさい」という優しそうな言葉さえ、ときには人間に何者かになることを要求する。あなたにしかできないことは何ですか。あなたの強みは何ですか。何を実現したいのですか。社会にどんな価値を与えられますか。
どれも悪い問いではない。しかし、それらに一生答え続けなければならないとしたら、人間はずいぶん疲れる。
人口減少社会は、この「もっと」の時代を終わらせるとは限らない。むしろ人が少なくなるからこそ、一人ひとりをもっと有効に使おうとする圧力が強くなる可能性もある。もっと長く働いてほしい。もっと健康でいてほしい。もっと学び直してほしい。もっとAIを使いこなしてほしい。一人の人間も無駄にしたくないという考え方が、善意と合理性の両方を伴って社会へ広がっていくことも考えられる。
だから人口が減ることだけで、「普通に生きていてよい社会」がやってくるわけではない。実際、現在の日本でも、人口減少を所与として持続可能な地域を考えようという議論がある一方で、成長力や生産性を強めようという政策も同時に進められている。縮小社会を前提とした持続可能な国土・地域を構想するためには、人口減少を少なくとも当面は所与として政策形成する必要を指摘している。 一方、経済財政運営と改革の基本方針2026は、人口減少を構造変化の一つとして認識しながら、「強い経済」と成長力の強化を掲げている。 [scj.go.jp] [www5.cao.go.jp]

人口減少社会には、だから二つの方向があり得る。少なくなった人間を、最後まで活用しようとする社会。

そして、少なくなったからこそ、人間がただ普通に生きていることを認める社会。どちらへ行くかは、人口が決めてくれるわけではない。

ただ、人口減少社会では、それまで当たり前だった「増えたことこそ成功である」という尺度は、少しずつ使いにくくなるだろう。
去年百あったものが百十になった。
それを成功とする尺度はわかりやすい。しかし人口が減っていく社会では、百あったものを百のまま残したことも、九十になったけれど必要な機能を失わなかったことも、一つの成果になり得る。現実の政策議論でも、人口減少下ではインフラの優先順位づけ、生活圏単位での機能分担、施設の集約化など、単純な拡大とは異なる持続可能性が論点になっている。 [www5.cao.go.jp]

すると、「変わらなかった」ということの意味が少し変わる。
今年も蛇口から水が出た。
今年も病院へ行けた。
今年も電車やバスが来た。
今年も近所の店が開いている。
今年も友人と会えた。
今年も夕方に散歩できた。成長社会では、こんなことは成果として数えられなかった。去年と同じだからである。しかし人口減少社会では、昨日と同じ今日が来たこと自体が、案外大きなことになるかもしれない。

そして、それは個人についても同じなのではないだろうか。
去年より賢くならなかった。
去年より多く稼がなかった。
特別な仕事もしなかった。
世界を変えなかった。
名前も知られなかった。
それでも、生きていた。
食べた。
眠った。
本を読んだ。
誰かと話した。
ときどき笑った。
何もしない午後もあった。
そして一年が終わった。
それで何がいけないのだろう。ここに「きわめて普通」という言葉の意味があるように思う。

普通であることは、平均的であることではない。みんなと同じになることでもない。それなら、むしろ強いTamingになってしまう。
きわめて普通であるとは、特別であることを証明しなくてよいことなのだと思う。変わった人は変わったままでいい。平凡な人は平凡なままでいい。大きな仕事をしたい人はすればいいし、何者にもなりたくない人は何者にもならなくていい。優れた能力を持っていても、それを最大限使わなくていい。

つまり、「普通」とは均質化ではなく、比較から少し降りるということなのだろう。
ところが、ここへAIが入ってくる。AIは、「もっと」の可能性をかつてないほど広げる。

文章を書けば、もっと自然な文章にできる。
写真を撮れば、もっときれいにできる。旅行を計画すれば、もっと効率的な旅程を考えられる。

仕事をすれば、もっと早いやり方を見つけられる。投資をすれば、もっと適した選択肢を探せる。

健康についても、勉強についても、生活についても、人間関係についても、「もう少しよくできるかもしれない」という可能性は、ほとんどなくならない。
AI以前にも人間は自分を改善しようとしてきた。しかし以前の改善には、ときどき自然な終点があった。

もう時間がない。
もう直せない。
やり方がわからない。
知識が足りない。だから、「まあ、これでいいか」と手を離した。

そこには多少の諦めがあった。AI時代には、この終点が消えていくのかもしれない。

AIにもう一度尋ねれば、別案が出る。
さらに尋ねれば、もう一つ出る。
もっと簡潔に。
もっと美しく。
もっと正確に。
もっと効率的に。
もっと自分に合ったものに。AIが「もっと」を欲しがっているわけではない。人間が「もっとよくしてほしい」と頼むから、それに応えているだけである。

だから恐ろしいのはAIなのではない。よりよいものが存在するなら、よりよいものを選ぶべきだ、という私たち自身の考え方なのだろう。

最適化には、論理的な終点がない。
九十点なら九十五点にできる。
九十五点なら九十八点にできる。
九十八点でもまだ直せる。
そして人間には、それほど長い時間はない。気がつけば、人生をよくするために、人生を使い果たしてしまう。

だからAI時代には、「これでいい」という言葉が、それまでとは違う意味を持ち始めるのではないだろうか。
以前の「これでいい」は、
これ以上できないから、ここで終わる。
だった。
AI時代の「これでいい」は、
もっとできることは知っている。それでも、ここで終わる。
になる。
この違いは小さいようで、かなり大きい。
もっと文章を直せる。
でも、これでいい。
もっと健康になれる。
でも、このくらいでいい。
もっと金を稼げる。
でも、もう十分だ。
もっと効率よく働ける。
でも、今日は帰る。
もっと勉強できる。
でも、今夜は本を閉じる。
もっと人生を改善できる。
でも、もう自分を改善しなくてもいい。ここでは「これでいい」は妥協ではなくなる。

自分で終点を置く行為になる。
以前考えた「十分」とよく似ている。「十分」は増やすことに対して置かれる終点であり、「これでいい」は改善することに対して置かれる終点なのかもしれない。

どちらも、外側の世界から与えられる終点ではない。
まだできる。
まだ増やせる。
まだ直せる。
それでも、自分で手を離す。ここには、以前から考えてきたWabi-Sabiとのつながりもあるように思う。

完璧ではない。
完成していない。
永遠でもない。しかし重要なのは、不完全であることを「美しい」と呼ぶことだけではないのだろう。

もっと根本的なのは、不完全だからという理由だけで、いつまでも修正を続けないことなのではないだろうか。
文章に少し歪みがある。
庭に雑草がある。
家が少し古い。
人間にも欠点がある。
AIなら改善策を提示できるかもしれない。
それでも、直さない。
不完全なまま手を離す。そう考えると、AI時代には「完成」という言葉の意味まで変わる可能性がある。

完成とは、もう直すところがなくなった状態ではない。なぜなら、AIに尋ねれば何かしらの改善点はほとんどいつでも見つかるだろうからである。

むしろ完成とは、
直せるところを残したまま、「ここまで」と決めること
になる。文章にも、仕事にも、家にも、庭にも、そしておそらく人生にも。

これは考えてみれば、とても人間的な完成である。
完全になったから終わるのではない。
終わると決めたから、そこを完成とする。そして、おそらくもっと難しいのは、自分自身について「これでいい」と言うことだろう。

AI時代には、人間自身が永遠の改善プロジェクトになりかねない。
もっと健康な身体。
もっと効率的な働き方。
もっと高い所得。
もっとよい投資。
もっと豊かな知識。
もっと良好な人間関係。
もっと上手なコミュニケーション。
もっと充実した老後。
何歳になってもアップデートできる。
それは素晴らしいことでもある。しかし、「改善できる」ということと「改善しなければならない」ということは同じではない。

あるとき、
「もっと健康になれるのかもしれない。でも好きなものも食べたい」
「もっと金を増やせるかもしれない。でも午後は働きたくない」
「もっと勉強できるかもしれない。でも今日は何も読みたくない」
と言ってもよい。
それは自分を粗末にしているのではない。自分自身を最適化の対象から一度外している。

ここで、「これでいい」は、これまで何度も現れた言葉たちと並び始める。
「わかりません」は、説明を止める。
「なんとなく」は、合理化を止める。
「別に」は、理由を要求することを止める。
「十分」は、増やすことを止める。
そして、
「これでいい」は、改善することを止める。
どれも小さな言葉である。
世界を変える力はない。
AIを止めることもない。
人口減少を止めない。
経済成長の代替理論にもならない。しかし、どれにも一つ共通していることがある。

終点を自分で置く。これが、AI時代のUntamingにとってかなり重要になるのではないだろうか。

Tamingは、必ずしも人間に命令する必要はない。もっと良い選択肢を示せばよい。
こちらのほうが効率的です。
こちらのほうが健康的です。
こちらのほうが収益性が高いです。
こちらのほうがあなたに向いています。
全部正しいのかもしれない。
だから、AIに反論する必要はない。
「間違っています」と言う必要もない。
ただ、
「そうでしょうね」
と答えればよい。
そして、
「でも、これでいいです。」
と言う。私は、この言葉の大切さは、AIの正しさそのものを否定しないところにあると思う。

AIの提案のほうが合理的かもしれない。
もっとよい方法が本当にあるかもしれない。それでも、その正しさに従う義務までが生まれるわけではない。

つまり「これでいい」とは、
AIの正しさと、人間がその正しさに従う義務とを切り離す言葉なのである。そしてそれは、人口減少社会の「きわめて普通」というニューノーマルともつながってくる。

最高でなくてよい。
最適でなくてよい。
特別でなくてよい。
昨日より成長していなくてもよい。
何かを達成した一日でなくてもよい。
去年より所得が増えていなくてもよい。
何者かにならなくてもよい。朝起きて、食べ、少し働き、誰かと話し、夕方歩き、夜になった。

昨日とあまり変わらない一日だった。
それでも、
「今日はこれでいい」
と思える。
それを敗北だと考えない。私は、人口減少社会の豊かさには、この感覚がかなり深く関係しているように思う。

豊かな社会とは、すべての人が最高の生活をしている社会ではないのかもしれない。すべての人が能力を最大限発揮している社会でもない。

むしろ、
普通の日を、失敗した日と感じなくてよい社会。
そんな定義があってもよい。
何も増えなかった。
何も改善しなかった。
何も完成しなかった。
それでも、その一日は失われていない。これは、増加を当然としてきた社会には理解しにくい豊かさかもしれない。

しかし人口が減り、AIによって「もっと」がいつでも可能になる社会だからこそ、その価値は逆に大きくなるのではないだろうか。
もちろん、「これでいい」を新しい道徳にしてはいけない。
向上したい人は向上すればいい。
もっと働きたい人は働けばいい。AIと一晩中文章を推敲したい人は、そうすればいい。

会社を十倍にしたい人は、十倍を目指せばいい。
「もっと」が悪いのではない。
危ういのは、
「もっと」を選ばないことが許されなくなることである。だから「これでいい」は他人に言う言葉ではなく、自分で言う言葉なのだろう。

政府が国民に「これでいい」と言ってはいけない。企業が従業員に「あなたはこれでいい」と決めるのでもない。

AIが「あなたはこれで十分です」と判定するのでもない。
自分が、自分について言う。
「私は、これでいい。」
その終点だけは、外側から決めてもらわない。そう考えると、人口減少社会のニューノーマルが「きわめて普通」であるということにも、少し違った景色が見えてくる。

きわめて普通であるとは、何も望まないことではない。
成長を嫌うことでもない。
変化を拒むことでもない。
ただ、どこかで手を離せることである。
まだ直せる文章から手を離す。
まだ働ける一日から手を離す。
まだ増やせる財産から手を離す。
まだ最適化できる自分から手を離す。そして、その不完全なものを目の前に置いて、

「これでいい」
と言う。以前なら、それは諦めに聞こえたかもしれない。

しかしAI時代には、意味が反転する可能性がある。
諦めとは、
できないから、やめること。
AI時代の「これでいい」は、
できるけれど、やめること。
である。
そこには大きな革命もない。
AIへの反抗もない。
誰かに褒めてもらえる成果もない。ただ、無限に続けられるはずの改善を、一人の人間が静かに終わらせる。

人口減少社会のニューノーマルが本当に「きわめて普通」になるのだとすれば、最後には「ニューノーマル」という言葉さえ必要なくなるのだろう。
改善しない日もある。
成長しない年もある。
何にもならない時間もある。
不完全な自分もいる。それを特別な思想として説明する必要もない。

ただ、
「まあ、これでいい。」
と言って、一日を終える。その言葉を、敗北でも自己欺瞞でもなく、ごく普通の言葉として口にできること。

それは、AIがどれほど賢くなっても奪う必要のない、小さな人間の自由なのだと思う。そして、もしかすると人口減少社会の豊かさとは、どれほど多くの「もっと」を実現したかではなく、どれほど穏やかに「これでいい」と言えたかによっても、測ることができるのかもしれない。

古くなるまで、そこにいる

人口減少社会では、新しいものが、あっという間に消えていくのではないだろうか。
そんな想像をする。もちろん、人口が減れば新しいものが短命になる、と単純に言えるわけではない。現在の日本でも新しい事業は生まれている。2026年版 小規模企業白書によれば、2024年度の開業率は3.8%、廃業率は3.7%であり、少なくとも現時点の数字だけから「新しいものが生まれなくなった社会」とは言えない。 [chusho.meti.go.jp]

それでも、人が減り、人の時間が足りなくなり、一つのものを支える人の層が薄くなっていけば、新しいものをつくることより、それをしばらく支えておくことのほうが難しくなるということはあるのかもしれない。
新しい店には客がいる。
新しい本には読者がいる。
新しい音楽には聴く人がいる。新しい思想には、それについて考えたり、批判したり、誤解したりする人がいる。

本当は、新しいものは生まれた瞬間にはまだ完成していないのだろう。それを受け取る人がいて、誰かの日常へ入り込み、使われたり忘れられたり、思い出されたりしながら、少しずつ居場所をつくっていく。
そこには時間がかかる。ところが人口減少社会では、時間そのものが貴重になる。人の手も足りない。維持しなければならないものは多い。そういう社会では、新しいものに対しても、「何人が使っていますか」「成果は出ていますか」「これを続ける必要がありますか」という問いが、以前より早くやってくるかもしれない。

どれも当然の問いである。
だから難しい。新しいものは、最初から役に立つとは限らないからである。

何のためにあるのかわからない。
誰が使うのかわからない。
お金になるのかわからない。本人にすら、なぜつくったのかよくわからない。

その「わからない」時間を通ったあとで、初めて誰かの日常へ入り込むものもある。もし社会が、その時間を待てなくなったらどうなるだろう。

新しいものは次々生まれる。
しかし、次々消えていく。そしてAIが入れば、この動きはもっと不思議になるのかもしれない。

AIは、新しいものをつくるコストを小さくしていくだろう。文章も、画像も、デザインも、企画も、アイデアも、新しい組み合わせをつくること自体は以前より容易になっていく。
すると、新しいものが不足するのではない。
むしろ逆である。
新しいものがありすぎる。昨日生まれたものが今日試され、数字が出なければ明日には別のものへ置き換えられる。次の案を考えるのに何年も待つ必要はない。またAIに尋ねればよい。

そのとき、「新しい」ということ自体が、それほど珍しくなくなるのかもしれない。
新しいものはいくらでもある。
しかし、古いものがない。
正確には、
新しかったものが、古くなるところまで生きられない。ひょっとすると、こちらのほうが大きな変化なのではないかと思う。

考えてみれば、古いものは最初から古かったわけではない。古い寺にも、できたばかりの日があった。昔からある店にも開店初日があった。何十年も読み継がれている本にも、新刊として書店に並んだ日があった。

古さというものは、つくることができない。
残った結果として生まれる。ここが、「新しさ」と「古さ」の奇妙に非対称なところである。

新しいものはつくれる。
しかし古いものは、待たなければならない。
もっと正確に言えば、
古くなるだけの時間を与えなければならない。
十年間使っている椅子があるとする。その十年のあいだには、もっと新しい椅子が何百種類も現れたはずである。

もっと軽い。
もっと丈夫。
もっと座りやすい。
もっと人間工学的である。
もっと美しい。
それでも交換しなかった。すると、その一脚の椅子には、十年間座った時間だけではなく、十年間に選ばなかった無数の新品まで積もっていることになる。

古いものとは、時間が経ったものというだけではない。交換する機会が何度もあったのに、交換されなかったものでもある。

もちろん、それを立派なことにする必要はない。椅子を二十年使った人のほうが、二年で買い替えた人より偉いわけではない。古いものを捨てて新しいものを買うこともある。壊れることもある。嫌になることもある。生活が変われば合わなくなるものもある。

だから、ここで「古いものを大切にしなければならない」という結論へ急ぎたくない。そうした瞬間、また「正しい生き方」が一つ増えてしまう。

むしろ興味深いのは、何も決めなかったために残るものがある、ということなのかもしれない。
捨てると決めなかった。
残すと決めたわけでもない。
文化的価値があると判断したわけでもない。環境のために長く使おうと誓ったのでもない。

ただ、
「まあ、まだこれでいいか」
と思った。
次の年にも、同じことを思った。さらにその次の年にも、それほど深く考えなかった。

そして、いつの間にか十年が過ぎていた。
ここには大きな決断がない。
保存したのではなく、消さなかった。この違いは、ずっと考えてきたTamingとUntamingにとって、案外重要なのではないだろうか。

何かを保存するという行為には、すでに一つの判断がある。
これは価値がある。
だから残す。
文化財として保存する。
記録として残す。
次の世代へ伝える。もちろん、それは必要なことである。しかしそこでは、残す理由が決められている。

それとは別に、
価値があるのかよくわからない。
残すべきなのかもわからない。
それでも、今すぐ捨てる理由もない。
だから、とりあえずそこにある。
そんな残り方もある。むしろ、そういうもののほうが人間の生活のなかには多いのかもしれない。

昔から持っているもの。
なぜか覚えている言葉。
捨てられずにいる手紙。
ときどき読み返す本。
何十年も考えている問い。
長く付き合っている人。それらについて、「なぜまだ残しているのですか」と聞かれても、きれいな答えがあるとは限らない。

わからない。
なんとなく。
別に。
またこの三つの言葉へ戻ってくる。そして私は、むしろそこが大切なのではないかと思う。

古いものに必ず意味を与えれば、それは「古いから価値があるもの」になる。しかし、本当に時間の厚みがあるものは、本人にもその価値がよくわからない場合がある。

ただ、長くそばにあった。
それだけなのである。Wabi-Sabiについても、同じことを考える。

古びたものは美しい。
傷は美しい。
不完全さは美しい。
そう言い切ってしまうと、少し危うい。なぜなら、古びたものを美しいと決めた瞬間に、「美しい古さ」をつくりたくなるからである。

傷をつける。
色を褪せさせる。
錆びたように加工する。それもひとつの美意識ではある。しかし、ここで考えている古さとは少し違う。

大切なのは、傷そのものの美しさではないのかもしれない。傷がつくところまで、そのものが残ったこと。

しかも、その傷を美しいと呼ぶ必要さえない。机の傷なら、「ああ、傷がついているな」でよい。

椅子の布が褪せていたら、「古くなったな」でよい。
そして、まだ使う。そこに、誰かが設計したわけではない時間が積もっていく。

ここで以前考えた「実」ともつながってくる。AIは、十年間使われた椅子のような画像を一瞬でつくることができるかもしれない。何十年も続いた友情について、美しい文章を書くこともできるだろう。

しかし、十年間一脚の椅子を使うことには、十年かかる。
三十年誰かと付き合うには、三十年かかる。
ここだけは省略できない。AI時代に、あらゆるものが速くなるほど、この短縮できない時間は奇妙な重さを持つようになるのではないだろうか。

ただ、これを「だから長く続くものこそ本物だ」と言ってしまうのも違う気がする。
一日で終わった関係にも実はある。
三号で終わった雑誌にも実はある。
一年で閉じた店も、一度はそこにあった。新しい試みが古くなれなかったからといって、それが失敗だったとは限らない。

残ったものが優れていて、消えたものが劣っていたとも限らない。ここでも、決めつけないほうがよいのだと思う。

残るものもある。
消えるものもある。問題なのは、どちらを正しいとすることではない。

ただ、新しいという理由だけで古いものを追い出さないこと。古いという理由だけで新しいものを拒まないこと。
そのくらいの曖昧さがちょうどよい。
人間関係にも同じことがあるように思う。AIによって、自分と価値観が近い人、自分の好みに合うもの、自分に最適な場所を見つけることがますます容易になるかもしれない。

しかし人間の関係とは、最初からぴったり合うものだけではない。
最初は少し居心地が悪かった。
相手の言っていることがわからなかった。
何度か腹も立った。それでも何となく付き合っているうちに、その人の沈黙になじんでいく。

これは「自分に最適な友人を発見した」という話ではない。関係そのものが時間のなかで変わったのである。

つまり人との関係も、古くなることができる。
考えについても、そうなのかもしれない。今日思いついた考えを、今日のうちに完成させることはできる。AIと話しながら定義を整え、矛盾を取り除き、体系をつくることもできる。

しかし、その考えを五年そのまま持っていると、別のことが起きるかもしれない。
間違っていたと思うかもしれない。
以前より大切に思うかもしれない。
どうでもよくなるかもしれない。あるいは、当時書いた言葉に、自分でも気づいていなかった意味を見つけるかもしれない。

どれになるかはわからない。
だから、すぐ決めつけない。
これは正しい思想だ。
これは完成した考えだ。
これは間違っていた。
これは捨てるべきだ。
そう決めるのを、少し先へ延ばす。
考えにも、古くなる時間を与えてみる。ここには、「わからないを消さない」という以前の話がそのまま残っている。

わからないから、すぐ答えを出さない。
新しいから、すぐ評価しない。古いから、すぐ保存もしないし、すぐ捨てもしない。

ただ、しばらく置いておく。ひょっとすると、人口減少社会の新しい態度とは、この「しばらく」を持てることなのかもしれない。

もっとも、それさえ決めつける必要はないだろう。人口減少社会が、本当にそんな穏やかな社会になるとは限らない。人手不足によって、むしろすべてを早く判断しなければならない社会になる可能性もある。AIが新しいものを大量につくる一方で、古いものをデジタル化し、保存し、再発見させることもあるだろう。

未来は一方向ではない。だからこそ、「人口減少社会とはこういう社会になる」と早々に決めつけない。

それ自体が大切なのかもしれない。
ただ、一つだけ考えてみることはできる。もし新しいものをつくることが以前より簡単になり、交換も容易になり、AIがいつでも「もっとよい次」を示してくれるようになったら、そのとき、

まだ交換しない
という行為は、これまでより少し違った意味を持つだろう。
もっといいものがある。
知っている。
もっと新しいものがある。
それも知っている。
もっと自分に合うものがあるかもしれない。
そうかもしれない。
それでも、
「まあ、もう少しこれでいい。」
と言う。
これは永遠に残すという宣言ではない。
明日捨ててもよい。
来年買い替えてもよい。
考えが変わってもよい。だからこそ、「これでいい」より少し柔らかい。

「まだ、これでいい。」
なのかもしれない。
この「まだ」は、なかなかおもしろい。
保存を約束しない。
廃棄も決めない。
完成とも言わない。
未来を拘束しない。
ただ、今日のところは手を出さない。
そうすると、時間が始まる。
一年たつ。
五年たつ。
十年たつ。
そしてある日、
「ああ、まだある」
と思う。その瞬間、そのものはもう、新しかったころとは違う存在になっている。

けれど、誰も「古いものにしよう」と計画したわけではない。
時間がそうした。以前、「古くなる権利」という言葉を使った。しかし、それも少し強すぎるのかもしれない。

権利として制度化する必要はない。
古いものを守る運動にする必要もない。
もっと弱くてよい。
ものにも、人にも、考えにも、
すぐには決められない時間を残しておく。
それくらいでいい。
残るかもしれない。
消えるかもしれない。
価値が出るかもしれない。
何にもならないかもしれない。
美しく古びるかもしれない。
ただ汚くなるだけかもしれない。
まだわからない。その「まだわからない」を、そのまま持っている。

それなら、これまで考えてきた「実」「Wabi-Sabi」「これでいい」「わからない」「Untaming」は、一つの結論へ収束するというより、むしろ一つの場所に並んで存在できるように思う。
どれが正しいのかを決めなくてもよい。
残す。
捨てる。
直す。
直さない。
新しいものを選ぶ。
古いものを使う。
どれも場合によっては正しい。
肝心なのは、最初から、
「こうあるべきだ」
と世界を閉じないことなのだろう。人口減少社会の豊かさも、ひょっとするとそういうところにあるのかもしれない。

古いものがたくさんある社会だから豊かなのではない。新しいものが次々生まれる社会だから豊かなのでもない。

ものや人や考えが、何になるのか決められる前に、少しそこにいられる。
その余裕がある。
すぐ役に立たなくてもいい。
すぐ評価されなくてもいい。
すぐ更新されなくてもいい。
すぐ保存を決めなくてもいい。
すぐ捨てなくてもいい。
そして、ときには何十年も経ってから、
「ああ、まだここにあったのか」
と気づく。
それだけのことなのかもしれない。けれど、AIが無数の「次」を瞬時に提示できる時代には、その「まだ」が、これまでとは違う重さを持つ可能性がある。

新しいものが古くなるまで残っている。それを美しいとも、正しいとも、豊かだとも、急いで決めなくていい。

ただ、
まだ、ここにある。
なぜ残ったのかは、わからない。
これからも残るのかも、わからない。
残すべきなのかさえ、わからない。
そのくらいでよいのではないだろうか。むしろ、その「わからない」を残したまま時間が流れていくこと自体が、私たちがずっと探してきたUntamingに、いちばん近いのかもしれない。

今日は、これでいい

人口減少社会には、安定というものがなくなっていくのではないだろうか。そんなことを、ときどき考える。
人が減れば、いままで当たり前にあったものを、そのままの形で残していくのが難しくなる。働く人が減り、店を続ける人が減り、病院や交通や行政を支える人も少なくなる。人口が減ったからといって道路が短くなるわけでも、水道管が少なくなるわけでもないから、残った人がしばらくは大きな仕組みを支えなければならない。
実際、日本では人口減少による人手不足と同時に、自治体の人材不足、財源、老朽化するインフラ、行政サービスの持続可能性といった問題がすでに指摘されている。 [tkfd.or.jp], [mhlw.go.jp]
だから、昨日までそこにあったものが、明日も同じ形でそこにあるとは限らない。その感覚は、おそらくこれから少しずつ日常へ入ってくる。
けれど、困るのは何かがなくなることだけではないのかもしれない。
まだ何もなくなっていないのに、
「これは、いつまであるのだろう」
と思ってしまう。そのことのほうが、人を疲れさせるような気もする。

病院へ行けば、この病院は十年後にもあるだろうかと思う。いつもの店へ行けば、店主もずいぶん年を取ったなと思う。このバスはいつまで走るのだろう。この町には、二十年後に何人暮らしているのだろう。
考え始めれば、きりがない。人口減少下の地域について、将来的に「選択と集中」や建設的な縮小を考えなければならないという議論もある。 [rieti.go.jp]

しかし人間は、人口推計のなかで暮らしているわけではない。
朝になれば起きる。
顔を洗う。
何か食べる。
天気がよければ外へ出る。
誰かから連絡が来る。
少し面倒なことが起こる。
夕方になる。
お腹が空く。
そして一日が終わる。おそらく、私たちが「安定」と呼んできたものは、未来が本当に安定していたことではなかったのだろう。

未来について、いちいち考えなくてもよかったことだったのではないだろうか。蛇口をひねるたびに、「来年も水は出るだろうか」と考えなくてよかった。

電車に乗るたびに、「十年後もこの路線はあるだろうか」と考えなくてよかった。銀行にお金を預けるたびに、貨幣制度の未来を考えなくてよかった。

そういう、考えなくてよいことの積み重ねが、日常をずいぶん軽くしていた。だから、それが少しずつ難しくなるのだとすれば、「未来は不確実なのだから受け入れればよい」と簡単に言ってしまうのは酷な気がする。

人間は、今日だけを生きているわけではないからである。今日働くのは、明日も生きるつもりだからである。

家を直すのは、来年もそこに住むつもりだからである。お金を残すのは、十年後の自分もいるだろうと思うからである。

木を植えるのは、自分か誰かが、その木が大きくなるところを見ることをどこかで信じているからなのかもしれない。
人間はいつも、現在から未来へ小さな足場を伸ばしながら暮らしている。
だから、その足場がぐらぐらすれば怖い。
それは当然のことだろう。では、未来が確実になるまで待てばよいのか。

たぶん、それもできない。人口減少に限った話ではない。病気になるかもしれない。経済が変わるかもしれない。制度が変わるかもしれない。自分自身の考えだって変わるかもしれない。

未来を全部固定してから生き始めようとしたら、いつまでたっても生き始められない。だからといって、未来のことなど考えるな、というのでもない。

考えればいい。
貯金もする。
将来の計画も立てる。
健康にも多少気をつける。
必要なら家も直す。
制度について調べることもある。引っ越したほうがよいと思えば、その可能性も考える。

それで、たぶん十分なのだろう。それでも残ってしまう不確実さまで、全部今日のなかへ持ち込まなくてもいい。

ここに少しだけ、人口減少社会での安定の形が見えてくるように思う。
昔の安定が、
「明日も同じものがある」
だったとすれば、これからの安定は、
「変わったら、そのときまた考えればいい」
くらいのものになるのかもしれない。
ずいぶん頼りなく聞こえる。けれど案外、人間は昔からそんなふうに生きてきたのではないだろうか。

明日のことは、よくわからない。
それでも夕飯はつくる。
来年のことは、もっとわからない。
それでも今年は庭の手入れをする。十年後の町がどうなっているかわからなくても、今日はいつもの道を歩く。

ここで、以前から何度も現れてきた「わからない」という言葉が戻ってくる。人口減少社会では、この言葉を無理に消さなくてもよいのかもしれない。

十年後、この町はどうなっていますか。
わからない。
この病院は残りますか。
わからない。
この制度は続きますか。
それも、わからない。もちろん人口推計もあるし、経済予測もある。AIに尋ねれば、いくつものシナリオを整理してくれるだろう。知ることのできるものは知ったほうがよい場合も多い。

しかし、最後まで残る「わからない」はある。それを消そうとして、さらに調べ、さらに予測し、さらにAIに聞き、未来についての情報ばかり増やしていけば、最後には今日を暮らす時間のほうがなくなってしまう。

だから、あるところで、
「まあ、そこはわからないな」
と手を離す。
そして、お茶を淹れる。
そういうことも必要なのだと思う。
これは達観ではない。
強さでもない。
不確実性を克服したわけでもない。
むしろ不安な日は不安でよい。
未来が気になって眠れない夜もあるだろう。
翌朝になっても別に答えは出ていない。
それでも朝が来たので、顔を洗う。
それくらいでいい。ここで「これでいい」という言葉も、以前とは少し違って見えてくる。

「これで一生大丈夫」という意味ではない。「この選択が正しかった」という意味でもない。

「今日は、これでいい」
なのである。
明日は変えてもよい。
来年には考え直してもよい。
昨日言ったことと違うことを言ってもよい。「これでいい」は未来を拘束する言葉ではなく、今日をいったん終わらせる言葉になる。

これは、なかなか大切なことなのかもしれない。人口減少社会では、何もかもが少しずつ動いていく可能性がある。

町の形も変わる。
働き方も変わる。
AIが引き受ける仕事も増える。
公共サービスの形も変わるかもしれない。そういう社会で安定を「変わらないこと」だと考え続ければ、毎日のように安定を失った気分になるだろう。

しかし、安定の反対は、本当に変化なのだろうか。
変わっても暮らせる。
小さくなっても暮らせる。
昨日と違っても暮らせる。何かがなくなったら、少し困って、それから別のやり方を考える。

そういうことも安定と呼べるのなら、景色は少し違って見えてくる。ただし、「変化に適応できる人間になりましょう」と言い始めたら、また息苦しくなる。

いつでも柔軟に。
常に学び直して。
新しい技術に適応して。
変化を恐れず。そんなことを毎日要求されたら、人間のほうが先に疲れてしまう。

だから社会の側も、少しくらい人間を待ってくれればいい。
新しい仕組みに慣れるまで時間がかかる。
古いやり方をすぐには捨てられない。
今日は変わりたくない。
よくわからない。
そんな日があってもいい。変化する社会で、人間まで絶えず変化し続けなければならない理由はない。

以前、「新しかったものが古くなるまで残ること」について考えた。あの話と、今回の安定の話も、実はそれほど離れていない。

長く残っているものは、まったく変わらなかったものではない。
古い家なら何度も直してある。昔からの店でも、売っているものは変わっている。

長い付き合いの友人とも、昔とまったく同じ関係ではない。
変わっている。
それでも、
「ああ、まだある」
と思う。安定とは、もしかするとそういうものなのかもしれない。

完全に動かないことではなく、いろいろ変わったあとでも何かが続いていること。そして何が続くかは、今から全部決めなくてもよい。

未来を完全には固定できない。
そのことは、たしかに怖い。そして、その怖さを「未来なんてわからないのだから気にするな」と片づける必要もない。

気になるなら気にすればいい。
心配なら考えればいい。
できる備えはしておく。ただ、考えてもわからないところまで来たら、そこで一度やめる。

窓を開ける。
外を見る。
今日は暑いとか、少し涼しいとか思う。
コーヒーでもお茶でも、好きなものを飲む。人口が何人減ったとしても、その一杯まで人口統計になるわけではない。

そこには今日の実がある。未来が不確実だからといって、現在まで仮のものになるわけではない。

だから私たちは、未来を確かなものにしてから今日を生きる必要はないのだろう。
未来はわからない。
でも今日は、ここにいる。
その二つを同時に持っていてよい。「未来はわかりません。それでも、今日は普通でした。」

そんな日がある。
次の日も、たまたま普通だった。
一週間たった。
一年が過ぎた。
その間に何かが変わることもある。
何も変わらないこともある。そして振り返ってみると、未来を完全に固定できなかったのに、いつの間にか時間が流れていたことに気づく。

おそらく人口減少社会の安定とは、未来に対する立派な保証ではない。
もっと頼りないものなのかもしれない。
明日のことは、明日また考えられる。
そのくらいでいい。
そして今日は、
「まあ、今日はこれでいい。」
と言って眠る。その言葉が自然に出てくる夜が、ときどきある。

それならもう、全部が安定していなくても、それほど悪くはないような気もする。

壊れた、その先はまだわからない

人口減少社会では、壊れることが当たり前になるのではないだろうか。
そんなことを考える。人口が減っていけば、これまで当たり前のように維持されてきたものを、同じように維持することは難しくなる。道路も水道も橋も古くなり、それを点検し、直し、つくり替える人も少なくなる。現実に国土交通省も、インフラの老朽化が進む一方で、自治体の技術系職員や建設業の担い手が不足し、人口減少に合わせた維持管理だけでなく、撤去や集約化まで課題になっていると指摘している。 [mlit.go.jp]

それなら、壊れるものは今より増えるのかもしれない。けれど、よく考えてみると、これまでの社会でもものは壊れていた。

道路は傷んだ。水道管も破損した。電車も故障した。建物も古くなった。電気設備にも不具合が起きた。
それでも、私たちは「壊れない社会」に暮らしているような気がしていた。
たぶん、壊れなかったのではない。壊れたものが、見えないところで直され続けていたのである。

誰かが点検し、誰かが部品を交換し、誰かが夜中に修理し、朝になれば昨日と同じように使えるようになっていた。膨大な人間の仕事によって、故障という出来事が日常の表面へ出てこないようにされていた。
人口減少社会で変わるのは、壊れるという出来事そのものではなく、もしかすると、壊れている時間が私たちから見えるようになることなのかもしれない。
今日壊れたものが、今日直らない。
来週になっても直らない。
修理する人がいない。
予算も足りない。そして、ものによっては、もう直さないという判断がなされる。

そこでは初めて、壊れることと終わることの境界が曖昧になる。
椅子が壊れた。
直すのか。
捨てるのか。
別の使い方をするのか。
しばらくそのまま置いておくのか。考えてみれば、壊れた瞬間には、まだ何も決まっていない。

私たちは壊れたものを見ると、すぐに二つのどちらかを選ぼうとする。直して元通りにするか、捨てて新しいものに替えるか。
しかし、そのあいだにもう一つ、
「まだわからない」
という状態があってもよいのかもしれない。これは、これまで人口減少社会について考えてきたことと、不思議なくらいよく似ている。

新しいものをすぐ評価しない。
古いものをすぐ捨てない。
わからないことをすぐ説明しない。
不完全なものをすぐ改善しない。そして今度は、壊れたものを見て、すぐ終わりだと決めない。

修理するかもしれない。
形を変えるかもしれない。
以前より少し不便なまま使うかもしれない。あるいは、本当にそこで終わるかもしれない。

それは、まだわからない。ここには、Wabi-Sabiと重なるところもあるように思う。

ただ、「壊れたものは美しい」などと簡単に言わないほうがよい。
壊れたものは、美しくないこともある。
邪魔なこともある。
危険なこともある。
そして何より、困ることがある。特に水道や道路、橋、病院、電気といった、人の安全や生活に関わるものについて、「壊れることも一つの美ですよ」などと言うことはできない。

現実の人口減少社会では、そんなに悠長な話ではない。インフラを支える現場人材の不足はすでに政策課題とされ、人材の確保とともにAIやロボットなどによる省力化も模索されている。 [journal.meti.go.jp]

だから「壊れたことを終わりだと決めつけない」という言葉も、使い方を間違えれば危うい。
水道が壊れて困っている人に、
「壊れたあとにも新しい可能性があります」
などと言っても仕方がない。バスがなくなって病院へ行けなくなった人に、

「人口減少社会の新しい豊かさですね」
などと言えば、ほとんど残酷である。私は最初、壊れたあとにも続きを持てることが、人口減少社会の豊かさになるのではないかと考えた。

けれど、その言葉を書いてみると、どこか現実から離れているようにも見える。その違和感は、おそらく消さないほうがよい。

Wabi-Sabiで水道管は直らない。そして、思想でバスを走らせることもできない。

ここには、はっきりした境界がある。壊れてはいけないものは、できるだけ壊さないほうがよい。

危険なものは直さなければならない。暮らしに必要なものなら、社会はできるだけ維持したほうがよい。

人口が減ったからといって、壊れることを当然として放置してよい理由にはならない。しかも、人口減少による不便は、すべての人に同じようにやってくるわけではない。

交通が少しくらい不便になっても自動車で移動できる人がいる。その一方で、一本のバス路線がなくなるだけで生活が大きく変わる人もいる。
遠くの病院へ行ける人もいれば、行けない人もいる。代替サービスをお金で買える人もいれば、買えない人もいる。

だから「壊れることに慣れよう」という言葉を、人口減少社会の新しい倫理にするわけにはいかない。
それでも、やはり、
壊れたことを、終わりだと決めつけない。という言葉までは捨てなくてもよいように思う。

ただ、少し意味を変えたほうがよい。
壊れることを肯定する言葉ではなく、
壊れたあとの未来まで否定しない言葉
として考えるのである。
店が閉じた。
寂しい。
不便にもなった。それでも町そのものがそこで終わったわけではない。

学校がなくなった。
悲しい。そこで育った人にとっては、大きな喪失でもある。

それでも、その土地で人が暮らす時間まで終わるとはまだ決まっていない。
昔から続いた制度を維持できなくなった。
それは明らかに損失かもしれない。でも、そのあとに別の仕組みが生まれないと決まったわけでもない。

ここで大切なのは、無理に明るい物語をつくらないことだと思う。何かが壊れると、私たちはすぐに意味を与えたくなる。

「これは衰退です。」
「これは新しい時代の始まりです。」
「これは再生の機会です。」
どれかに決めると安心できる。
しかし、本当は壊れたばかりのところでは、
まだ、わからない。
ということも多いのではないだろうか。
直るかもしれない。
別のものになるかもしれない。
小さくなって続くかもしれない。
本当に消えてしまうかもしれない。何年かあとになって、思いもよらなかったものが生まれるかもしれない。

だから、今のところは「壊れた」とだけ言えばよい。
困ったのなら、困ったと言う。
悲しいのなら、悲しいと言う。
不便なら、不便だと言う。
それ以上の意味を急いでつくらない。以前の私なら、ここで「それこそ人口減少社会の新しい豊かさなのではないか」と書きたくなったかもしれない。

でも、「豊かさ」という言葉さえ、少し引っ込めておいたほうがよいような気がしてきた。
壊れたものの前に立つ人に、
「これも豊かさです」
と言う必要はない。
何にもならなくてよい。
ただ壊れた。
今日はまだ直っていない。
明日はどうなるかわからない。
それだけの現実があってもよい。そして、ここでこのところ何度も考えてきた「何も決めつけない」という態度が、また戻ってくる。

壊れたから終わりだ。
と決めつけない。
しかし、
壊れたから新しい可能性が開けた。
とも決めつけない。
修理するのが正しいとも限らない。
捨てるのが正しいとも限らない。
昔の姿へ戻すことが正しいとも限らない。新しいものに交換することが正しいとも限らない。

少し時間を置く。もちろん危険なものなら、そんなことは言っていられない。

けれど、人の安全にかかわらないことなら、
「さて、どうしようか」
と立ち止まる時間くらいはあってよい。
修理という言葉も、少し違って見えてくる。直すとは、必ずしも「元に戻す」ことではない。

壊れる前とまったく同じ形に復元できないこともある。
部品が違う。
跡が残る。
少し使いにくくなる。
それでも、また使える。
そういう直り方もある。
それなら修復とは、
過去を取り戻すことではなく、壊れたところから続きをつくること
なのかもしれない。
これは社会についても同じなのだろうか。
人口が戻らない。
昔の駅前には戻らない。
学校も以前の数には戻らない。
働く人の数も戻らない。それでも、昔の姿へ戻れないことと、そこから先がないことは同じではない。

「元に戻らない」と「終わった」のあいだには、かなり広い場所がある。人口減少社会について考えるとき、私たちはその場所に立っているのかもしれない。

未来を完全には固定できない。
何が残るかもわからない。
何が壊れるかもわからない。
壊れたものが直るかもわからない。それでも今日、使えるものを使って暮らしている。

前に、人口減少社会の安定とは、「何も変わらない」という保証ではなく、「変わっても、まあ何とか暮らせる」というくらいのものになるのかもしれないと考えた。
今回の話を重ねるなら、
何かが壊れても、それによって未来のすべてまで壊れたと決めない。
というくらいなのかもしれない。
ずいぶん弱い。
でも、その弱さでよいような気がする。そもそも未来に対して、大きな約束をしなくてもよい。

必ず再生する必要もない。もっと豊かな社会になると約束する必要もない。

人口減少が人間を幸福にすると言う必要もない。反対に、人口減少によって社会が滅びると決める必要もない。

一つ壊れた。
今日は困った。
明日のことは、まだわからない。
そのくらいでよい。ここまで考えると、人口減少社会についての思想というものは、現実を美しく説明するためにあるのではないのだと思う。

現実は、時として身も蓋もない。
人が足りない。
お金が足りない。
店が閉まる。
道路が傷む。
昔できたことができなくなる。
それはそのまま見ればよい。思想の仕事は、それを別の美しい言葉へ言い換えることではない。

むしろ、
現実がそうだからといって、その現実の意味まで一つに決められてしまわないこと。
そこにあるのかもしれない。
壊れた。
それは事実である。
困った。
それも事実である。
しかし、
「だから、もう終わりだ。」
そこから先は、まだ事実ではない。
かといって、
「だから、新しい始まりだ。」
それもまだ事実ではない。
だから、その二つのあいだに少しいる。
わからないまま立っている。
直せるなら直す。
直せなければ、また考える。
なくなったら悲しむ。
それでも翌日になれば、朝ご飯を食べる。そうしているうちに、何かが続くこともある。

何も続かないこともある。そして、どちらになるのかは今はまだわからない。

人口減少社会について、悲観にも楽観にも急いで行かない。
壊れることをロマン化しない。
壊れない社会という幻想にも戻らない。
ただ、
現実から目をそらさない。でも、その現実の意味まで急いで決めない。もしかすると、そのくらいの曖昧な場所に立っていることが、人口減少社会を考えるときの、いちばん無理のない姿勢なのかもしれない。

流れのなかの、小さな止まる場所

人口減少社会の暴走は、もう止められないのではないだろうか。
そんなことを考える。人が減る。子どもが少なくなる。働く人も少なくなる。店を続ける人がいなくなる。病院や交通やインフラを支える人も減っていく。人口が減ったからといって、昨日まで必要だった道路の長さが突然短くなるわけではないし、水道管が半分になるわけでもない。むしろ、高齢化が進めば医療や福祉など、以前より多くの人の手を必要とするところも出てくる。

現実にも、人口減少と高齢化のなかで、行政サービスを担う職員の不足、財源不足、インフラ維持、高齢者向けサービスなど複数の問題が同時に重なり、自治体の持続可能性を難しくしていることが指摘されている。 [tkfd.or.jp]
だから人口減少は、一つの数字が小さくなっていくだけの現象ではない。
人口が減る。
すると何かが変わる。その何かが変わったために、別のものも変わる。

その変化へ対応しているあいだにも、人口はまた少し減っている。あちらを直していると、こちらが変わる。こちらの仕組みを変えたころには、最初に立てた前提そのものがもう少し動いている。

そう考えると、人口減少の「暴走」という言葉が、少し現実味を帯びてくる。ただ、車が制御を失って突然猛スピードで走り出すような暴走ではない。

もっと静かな暴走である。一日一日を見れば、それほど大きなことは起きていない。

今日も店は開いている。
水も出る。
病院もある。
バスも来る。ところが十年、二十年という時間で見ると、風景がずいぶん変わっている。

そして、この流れには運転手がいない。
ここが不思議なところだと思う。独裁者の暴走なら独裁者を止めることが考えられる。企業が暴走するなら規制することもできる。

しかし人口減少を命令した人はいない。一人ひとりは、自分の生活をしているだけである。

結婚する人もいる。
しない人もいる。
子どもを持つ人もいる。
持たない人もいる。
町を出る人もいる。
残る人もいる。
仕事を変える人もいる。それぞれの選択には、それぞれの事情がある。

ところが、それら無数の小さな選択が重なったところに、誰も一人では決めていない大きな流れができる。
誰もTamerではない。それなのに、Tamingだけが進んでいく。

これまで繰り返し考えてきたことが、ここにも現れているように思う。だから「人口減少を止める」という言葉にも、どこか難しいものがある。

もちろん、何もしなくてよいわけではない。子どもを持ちたい人が持てる環境をつくることもできる。人口減少を緩和する政策もできる。人口の定常化を目指す構想も現実に論じられている。 [mof.go.jp]

同時に、「少子化を是正して元へ戻す」という考えだけでなく、人口減少を前提に社会のあり方を考える方向も現れている。 [chuo-u.ac.jp], [toyotafound.or.jp]
たぶん、どちらか一方に決める必要はないのだろう。
減少を緩やかにしようとする。その一方で、減っている社会でも普通に暮らせるようにする。

人口がもう一度増える日まで、社会を仮設住宅のようなものにしておくわけにはいかない。
人生はそのあいだにも続いている。今日生まれた人は今日から生き始めるし、老人は今日も年を取る。誰かが恋をし、誰かが仕事をやめ、誰かが家を建て、誰かが庭に木を植える。

人口減少が止まってから、暮らしを始めるわけにはいかない。そう考えているうちに、「止める」という発想そのものを、少し小さくしてもよいような気がしてくる。

社会全体の流れを止める。
人口減少を止める。
地方の衰退を止める。
日本を救う。
どれも大きな言葉である。もちろん、政治や行政にはそういう大きな言葉が必要なこともある。

でも、一人の人間の生活から見ると、大きすぎる。自分が何をしても、流れはほとんど変わらないように思える。

そのとき人は、無力になったような気がする。けれど、もしかすると、流れそのものを止めなくてもよいのかもしれない。

人口が減っている。
それはそれとして流れている。そのなかで、来年も買い物ができる方法を考える。

働く人が一人減ったなら、その仕事を少し変える。バスが維持できないのなら、別の移動方法を考えてみる。

古い建物が壊れたら、直せるところだけ直す。全部は無理でも、一つならできるかもしれない。

大きな流れが止まらないことと、小さなことまで何もできないことは同じではない。
ここに、不思議な余白がある。大きな流れを止めるのではなく、流れのなかに小さな「止まる場所」を残していく。

そう考えたとき、人口減少社会の姿が少し違って見えた。止まる場所というのは、大げさなものではない。

一軒の店でもいい。
図書館でもいい。
古いベンチでもいい。
庭でもいい。
長く読んでいる一冊の本でもいい。
午後には仕事をしないという習慣でもいい。何の役に立つのかよくわからない趣味でもいい。

もっと儲けられるのに、
「このくらいでいい」
と言って大きくしない店でもいい。AIと文章を直していて、まだいくらでも直せそうなのに、

「今日はもうここまで」
とパソコンを閉じることでもいい。そういうところでは、大きな流れは何も止まっていない。

人口は減っている。
経済も動いている。
AIも進歩している。
町も変わっている。
それでも、そこだけ少し時間が遅い。
誰かが腰を下ろしている。
何も生産していない。
何も改善していない。
明日の計画さえ立てていない。
ただ、そこにいる。それくらいなら、巨大な流れのなかにも残せるのではないだろうか。

そして考えてみると、これまで人口減少社会について考えながら何度も出会った言葉は、ほとんどすべて「小さな停止」の言葉だった。
「わかりません」は、説明を止める。「別に」は、理由を要求し続けることを止める。

「なんとなく」は、すべてを合理化しようとすることを止める。
「十分」は、増やし続けることを止める。「これでいい」は、改善し続けることを止める。

「まだ」は、結論を急ぐことを止める。
そして、
「まだ、ここにある」
は、交換し続ける時間を少し止める。
どれも大した力を持っていない。
人口を増やせない。
GDPを上げない。
インフラを直せない。
AIを止めない。
社会制度を変えない。それでも、これらの小さな言葉によって、人間は巨大な流れからほんの少し身体を外すことができる。

そこが、Untamingなのかもしれない。Untamingを、Tamingとの大きな戦争だと考えなくてもよかったのではないだろうか。

Tamingは強い。
あまりにも強い。効率化、標準化、最適化、管理、評価、説明、成長、改善。それらはどれも必要だから生まれ、その多くは実際に人間の生活を便利にしてきた。

そんなものを全部止めようとすれば、こちらのほうが壊れてしまう。
だから正面から止めなくていい。
流れの外へ完全に逃げる必要もない。
流れの脇に、少し淀みをつくる。
川の水は流れていく。
その脇で、水が少しだけゆっくりする。
落ち葉が一枚浮かんでいる。
小さな魚がそこにいる。
やがて流れへ戻るものもあるだろう。
ずっとそこにいるものもあるかもしれない。
それを決める必要もない。
人間についても同じなのだろう。
止まる場所に永住する必要はない。
今日は休む。
明日は働く。
しばらく何もしない。
また始める。
わからないと言う。
そのうち考えが変わる。「これでいい」と言った翌日に、「やっぱりもう少しやってみよう」と言ってもいい。

止まるということを、また新しい規則にしない。
これが、とても大切な気がする。「人口減少社会では、立ち止まることを大切にしましょう」

などという標語を掲げた途端に、またTamingが始まってしまう。
止まってもいい。
止まらなくてもいい。
休んでもいい。
もっと進んでもいい。「十分」と思ってもいいし、「まだ欲しい」と思ってもいい。

ただ、
止まりたいときに止まれる場所だけは、なくさない。
それくらいでいい。人口減少社会の豊かさについても、これまでずいぶん考えてきた。

人が少ないこと自体が豊かなわけではない。
町が小さくなることが美しいわけでもない。壊れたインフラには現実の不便があり、病院がなくなれば困る人がいる。人口減少を詩的な物語にしてしまえば、現実の痛みが見えなくなる。

だから、「縮小する社会こそ豊かな社会だ」などと決めつける必要はない。それでも、豊かさについて別の尺度を一つくらい持つことはできるように思う。

どれだけ速く進めるか。
どれだけ多くつくれるか。
どれだけたくさん稼げるか。
どれだけ効率的に働けるか。
そういう尺度と並んで、
どれだけ安心して止まっていられる場所があるか。
そんな尺度があってもいい。それは公園のような物理的な場所であるかもしれない。

午後の時間であるかもしれない。
誰にも見せない文章であるかもしれない。
利益を求めない活動であるかもしれない。あるいは、「今日はもう考えない」と決める心のなかの場所かもしれない。

社会全体が激しく変わっていても、そこでは少し止まれる。
それだけで、流れとの関係が変わる。
流されないのではない。
流されてもいい。
また流れに戻る。
ただ、ずっと流され続けなくてもよい。
それが大事なのだと思う。以前、「小さな空間を手放さないなんて可能なのだろうか。相手はとてつもなく強い」と考えた。

たしかに相手は強い。国家も市場も技術もAIも、個人一人とは比べものにならない力を持っている。

でも、もしかすると最初から、勝つ必要はなかった。
巨大な流れをせき止める必要もなかった。社会をUntameする必要さえなかったのかもしれない。

ただ、
ほんの少し、流れない場所を残す。
そこでは、何をしてもいい。
何もしなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
答えを出さなくてもいい。何のためにそこにいるのか、説明できなくてもいい。

誰かに、
「そこで何をしているのですか」
と聞かれたら、
「別に。」
と言ってもいい。
「いつまでそこにいるのですか」
「わかりません。」
「何か意味があるのですか」
「さあ。」
それでも、その場所は今日、そこにある。
明日なくなるかもしれない。
永遠に守ると約束しなくてもいい。来年には別の場所を見つけているかもしれない。

だからこそ、その小さな空間を「守るべきもの」として固める必要もない。
今日、止まれる。
それで十分なのかもしれない。
人口減少は続いている。
町は少しずつ変わっていく。
AIはさらに賢くなる。
古いものは壊れる。
新しいものも、いつの間にか消えていく。
何が残るのかは、まだわからない。
大きな流れは、おそらく明日も流れている。けれど、その流れの脇には、ときどき小さな淀みがある。

誰かがそこに腰を下ろしている。
急いでいない。
何者かになろうともしていない。
世界を救おうともしていない。
ただ少し休んでいる。
そして、
「まあ、今日はここでいい。」
と言う。私は、人口減少社会の未来を明るいとも暗いとも、もうあまり急いで決めなくてよいような気がする。

大きな流れを止められるかどうかも、ひとまず横に置いてよい。それよりも、その流れのなかに、いくつかの小さな止まる場所が残っているか。

人がそこで「わかりません」と言えるか。
「十分」と言えるか。
「これでいい」と言えるか。そして、何も言わずにただ座っていられるか。

豊かさというものをあえてそこに探すなら、
流れの速さではなく、止まっていてもよい場所の多さ。
そんなものなのかもしれない。それさえ、正しい答えだと決める必要はない。

ただ、なんとなく、いい。だからしばらく、この考えもここに置いておこうと思う。

。

違ったまま、つながっている

人口減少社会というものは、グローバルという言葉から、ずいぶん遠いところにあるのではないだろうか。
そんなことを考える。グローバルという言葉から連想するのは、たいてい大きな世界である。国境を越えて人が動き、資本が動き、商品が動き、情報が流れる。世界中の都市がネットワークでつながり、同じ商品が売られ、同じプラットフォームが使われ、どこにいても似たようなサービスを受けられる。

そこには、どこまでも広がっていく世界がある。一方、人口減少社会で聞こえてくるのは、もっと小さな話である。

この町のバスをどうするのか。この病院をどうするのか。この水道を誰が直すのか。この店を誰が継ぐのか。空き家をどうするのか。冬になったら誰が雪を片づけるのか。
世界市場より、目の前の一軒の店。
世界人口より、この町に住む何千人かの人。グローバルな労働市場より、来月からこの介護施設で働いてくれる人。

人口が増えていたころには遠くを見ていられた社会が、人口が減ることで、少しずつ足元を見るようになる。
人口減少とは、ある意味では、人間を抽象的な世界から具体的な場所へ引き戻す力なのかもしれない。
そう考えると、人口減少社会は、やはりグローバルとは反対の方向へ進むように見える。
ところが、話はそれほど簡単ではない。
人が減る。
すると、地域のなかだけでは足りなくなる。
そこで地域の外から人が来る。
国の外からも人が来る。現実の日本でも、2025年10月末の外国人労働者数は257万1,037人とされ、外国人労働者の存在は製造業やサービスだけでなく、さまざまな分野へ広がっている。 [leverages-global.com]

つまり人口減少は、日本を世界から閉じる力であるとは限らない。むしろ、人が足りなくなることによって、外の世界とのつながりを必要とすることもある。

ここで、少し妙なことが起こる。
社会は小さくなる。
しかし、つながりは広くなる。暮らしはますますローカルになるのに、そのローカルな暮らしを支えている人や物や技術は、ますます遠くからやってくる。

これは、かつて私たちがグローバル化と呼んだものとは、少し違う気がする。以前のグローバル化には、「大きくなる」という感じがあった。

市場を広げる。海外へ進出する。世界中から調達する。世界標準をつくる。同じ規格を広げる。規模を大きくする。
人口減少社会のグローバルは、もっと小さい。地方の介護施設で、外国から来た人が働いている。

小さな工場に外国人の技術者がいる。小さな町に、いくつもの言葉を話す人が暮らす。

昔からその場所にあった仕事を、遠い国から来た人が引き継いでいる。
そこでは、世界へ出ていくというより、
世界が近所へやってくる。
このグローバルは、ずいぶん生活臭がする。国際会議ではなく、近所のスーパーで出会う。

世界市場ではなく、隣で働く。「世界とのつながり」という壮大な言葉ではなく、「こんにちは」と日本語で挨拶するところから始まる。

そうなると、ローカルとグローバルを反対側に置いて考える必要さえないのかもしれない。非常にローカルでありながら、非常にグローバルである場所があってもいい。

小さな町ほど、外から来る人を必要とすることもある。昔からある仕事を残すために、その土地で生まれていない人が関わるかもしれない。地域の文化を守るつもりなどなかった人が、いつの間にかその文化を次へ渡していることだってあるだろう。
そして、AIやインターネットが入れば、さらに不思議になる。人口数千人の小さな町に住みながら、世界中の情報へアクセスできる。

言葉が違っても話しやすくなる。小さな店の商品が海を越えて売れることもある。

遠くの人と働くこともできる。
つまり、
場所はローカルなまま、接続だけがグローバルになる。
この形は、案外おもしろい。何も世界中を同じにしなくていいからである。

これまでグローバル化には、少し不思議なところがあった。世界とつながることと、世界が同じになることが、ときどき同じものとして扱われてきた。

同じ規格。
同じ評価基準。
同じサービス。
同じプラットフォーム。
同じ店。
同じ時間感覚。
もちろん、それは便利である。知らない土地へ行っても、見慣れた店がある。支払い方もわかる。スマートフォンもつながる。情報もすぐ手に入る。

違いが少ないことは、移動する人間にとって楽である。
けれど、少し妙でもある。世界中へ行けるようになったのに、どこへ行っても同じ場所へ来たような気がする。

それをグローバルと呼ぶなら、確かに人口減少社会は、そこから少し離れていく可能性がある。人口が減れば、すべての場所を同じ水準、同じ方式、同じ密度で維持することは難しくなる。

この町にはある。
隣の町にはない。
こちらではこうする。
あちらでは違うやり方をする。
ここには多くの外国人が住んでいる。
こちらには高齢者が多い。
ここの学校は残った。
向こうでは統合された。
不均質になる。
しかし、それでよいのかもしれない。ここで、グローバルという言葉の意味が変わってくる。

世界を同じにすることではなく、
違うもの同士が、違うままつながっていること。
日本は日本のまま。
タイはタイのまま。
フランスはフランスのまま。
と言いたいところだが、これも少し違う。「日本らしさ」や「タイらしさ」や「フランスらしさ」を守らなければならない、と言い始めれば、また別のTamingが始まるからである。

違うままでいるということは、変わらないことではない。
むしろ、
違い続けること
なのだと思う。
タイの小さな町に日本人が暮らす。
フランスの村に外国から来た人が店を開く。日本の地方都市で東南アジアから来た若者が働く。

その人が土地の言葉を覚える。
土地の人も相手の言葉を少し覚える。
料理が混ざる。
習慣が変わる。昔からいた人から見れば、町は少し違う場所になる。

それでいい。違った場所同士が違ったままつながるとは、文化を冷凍保存することではない。

外から来たものによって変わることまで含めて、その場所がその場所であり続けるということなのだろう。
ここで、以前考えた「古くなる」という話とも、不思議につながってくる。古いものは、変わらなかったから古くなったのではない。

何度も直され、少しずつ使い方が変わり、周りの景色も変わった。それでも、何かがそこに残った。
場所も同じなのかもしれない。
人が入れ替わる。
言葉が変わる。
店が変わる。
外から新しいものが入ってくる。
それでも、
「ああ、ここだな」
と感じる何かがある。何がそう感じさせるのかは、うまく説明できない。

それでいい。そして、前に考えた「小さな止まる場所」も、ここへ戻ってくる。

世界との接続を止めなくていい。
国境を閉じる必要もない。
人の移動を止めなくていい。
AIも使えばいい。
世界のニュースも読めばいい。海外の商品を買ってもいいし、外国へ行ってもいい。

ただ、
接続と同期を、同じものにしない。
この区別は、大切なのではないだろうか。
つながっている。
でも、同じ速度で走らなくていい。
同じ答えにたどり着かなくていい。
同じ生活様式にならなくていい。
同じ価値観を持たなくていい。
世界標準を知っていても、
「ここでは、まあこれでいい」
と言える。
そこでは、流れがほんの少し緩くなる。
世界から切れてはいない。
むしろしっかりつながっている。
でも、完全には同期していない。この「完全には」というところが、おそらく大切である。

Tamingは、つながることそのものから生まれるわけではない。つながったものを同期し、比較し、同じ尺度で測り、最適化しようとするときに強くなる。

どこへ行っても同じ規格。
同じ評価。
同じ効率。
同じ正解。
そうなれば便利になる。
しかし、余白は小さくなる。一方でUntamingとは、世界とのつながりを切ることではないのかもしれない。

山の奥へ逃げて、誰とも関わらず、一人で暮らすことでもない。
むしろ、
つながっているのに、完全には同期しないこと。
世界を知っている。
でも、世界と同じにならない。
AIに相談する。
でも、AIの最適解を選ばないこともある。
外国から来た人と暮らす。でも、どちらかがもう一方になる必要はない。

理解する。
理解できないところも残る。
似てくる。
それでも、少し違う。
そのくらいが、案外ちょうどいい。考えてみれば、人間同士の関係も同じである。

本当に一緒にいられるということは、
「あなたと私は同じです」
と言えることだけではない。
むしろ、
「あなたと私は、かなり違います。それでも一緒にいられます」
と言えることなのかもしれない。
相手を完全に理解しなくてもいい。
すべてに同意しなくてもいい。
変だと思うことがあってもいい。
理解できなければ、
「わかりません」
と言えばいい。その「わからない」が関係の終わりにならない。

このことを少し大きくすれば、国と国、文化と文化の関係にもなる。
違いがある。
その違いを消す必要はない。
しかし、違うから切れる必要もない。
違いを保存する必要さえない。
ただ、
違いながら関係が続いている。もしかすると、グローバルという言葉が本来持っていた可能性は、こちらだったのではないだろうか。

世界が一つになることではない。世界が一つにならなくても、互いに行き来できること。

一つの大きなGlobal Villageではなく、無数の小さな場所がある。
一つ一つは違う。
気候も違う。
料理も違う。
言葉も違う。
生活の速度も違う。
考え方も違う。
そこへ人がやってくる。
人が出ていく。
情報も行き来する。
技術も入ってくる。
AIもいる。
それでも、どこも完全には同じにならない。
どこも違う。でも、つながっている。
そんな世界である。人口減少社会が本当にそこへ向かうのかは、わからない。

反対に、人口が少なくなることで効率化と集中が進み、かえって地域差が消えていく可能性だってある。外から来た人に強い同化を求める社会になることもあり得る。
だから、「人口減少すれば理想的なグローバル社会になる」などとは言わないほうがいい。
人口減少は何も保証しない。ただ、今までとは違う可能性を開くことはあるのかもしれない。

すべての場所を同じように維持できなくなったとき、人は初めて、「違っていてもいい」と思うかもしれない。
人手が足りなくなったとき、「どこで生まれた人なのか」より、「ここで一緒に暮らしている人」であることのほうが重要になることもあるかもしれない。
AIによって言葉の壁が低くなれば、同じ言語になる必要も少し薄れるかもしれない。
どれも、まだわからない。
それでよい。このところ人口減少社会について考えながら、何度も同じ場所へ戻ってきた。

「わかりません。」
「まだ。」
「これでいい。」
「まだ、ここにある。」
そして、
「まあ、今日はここでいい。」
どれも世界を変える言葉ではない。けれど、世界を一つの答えへ閉じない言葉ではある。

「違った場所同士が、違ったままつながるグローバル」も、同じように置いておけばよいのかもしれない。
理想的ではある。けれど「理想だから実現しなければならない」とは言わない。

実現しなければならないと言った瞬間に、世界中の場所へ「違ったままでいなさい」という奇妙な命令を出すことになってしまうからである。
それでは、またTamingである。
だから、もっと弱い理想でいい。
どこも違う。でも、つながっている。
近づいたり離れたりする。
混ざったり分かれたりする。
わかり合えることもある。
わからないまま一緒にいることもある。昨日までローカルだったものが世界へ出ていき、遠い世界から来たものが、いつの間にか地元のものになっている。

誰も全部を設計しない。
どこへ行き着くのかも決めない。
それでも関係だけは、どこかで続いている。
世界と切れなくていい。
世界と同じにならなくていい。世界とつながったまま、世界と同じにならない。

人口が減ってゆく社会の片隅に、そんな場所がいくつも残っているとしたら、私はそれを悪くないと思う。
いや、悪くないというくらいでちょうどいいのだろう。
理想と呼ばなくてもいい。
正しいと言う必要もない。
ただ、
なんとなく、いい。そう思える考えとして、しばらくここに置いておきたい。

人口減少社会の到来

地球上の人口は増え続けるのか?

地球上の人口は、これからも増え続けるのだろうか。インターネット上には、さまざまな予測があふれている。

2050年には100億人に近づく。2100年まで増え続ける。2060年ごろを境に急激に減り始める。あるいは、2040年にはすでに減少に転じ、2100年には40億人にまで減る。

これほど予測に幅があるのだから、どれを信じればよいのかわからない。競馬の予想が外れ、経済予測が外れるように、人口予測もまた外れるのかもしれない。

それでも、多くの国で出生率が低下しているという大きな流れは無視できない。地球上の人口がいつ減少に転じるのかはわからない。しかし、人口が永遠に増え続けると考えるほうが、むしろ難しくなってきている。

そして本当に考えてみたいのは、その先である。

人口は、減り始めたら自然に止まるのだろうか。それとも、減少そのものが次の減少を生み、坂道を転がるように減り続けていくのだろうか。

地球上の人口は増えたほうがいいのか、減ったほうがいいのか

では、地球上の人口は増えたほうがいいのだろうか。それとも、減ったほうがいいのだろうか。

人口が増えることを、私たちは長いあいだ、どこかで「良いこと」だと思ってきたように思う。人口が増えれば、働く人が増える。ものを買う人も増える。家が建ち、町が広がり、企業が成長し、税収も増える。少なくとも近代の経済社会は、人口の増加と経済の成長を、ごく自然に結びつけて考えてきた。

だから人口が減り始めると、急に心配になる。働く人が足りなくなる。高齢者を支える人が少なくなる。市場が縮小する。地方の町が消えていく。国の力が弱くなる。人口減少について語られるとき、「減ることによって何を失うのか」がまず問題になる。

しかし、少し離れて考えてみると、不思議でもある。

なぜ人口は、増え続けなければならないのだろう。地球の大きさは変わらない。農地にも、水にも、森林にも、海にも限りがある。その限られた地球の上で、人間だけが増え続けることを当然の前提にしてよいのだろうか。

人が少なくなれば、一人あたりに使える空間は増えるかもしれない。住宅を際限なく建て続ける必要もなくなるかもしれない。森林を切り開き、海岸を埋め立て、山を削り、新しい道路や都市を造り続ける圧力も弱くなるかもしれない。人間以外の生き物が生きる場所を、少しは返すことができるかもしれない。

そう考えると、人口が減ることそのものを「悪いこと」と決めつける理由はない。しかし、だからといって、人口が少なければ少ないほどよいということにもならない。

人口があまりに急激に減れば、社会を維持することが難しくなる。病院や学校、交通や上下水道のような仕組みは、ある程度の人がいることを前提としてつくられている。人口減少の問題は、単に「人間の数が少なくなる」ことではなく、人口が増えることを前提につくられてきた社会の仕組みが、その変化についていけないことにあるのかもしれない。

だとすれば、本当に問うべきなのは、

「人口は増えたほうがいいのか、減ったほうがいいのか」ではないのかもしれない。

増えなければ維持できない社会とは、いったいどのような社会なのだろう。人口が増えなければ経済が成長しない。経済が成長しなければ社会保障を維持できない。若い人が増えなければ高齢者を支えられない。そのため、もっと子どもを産んでもらわなければならない。

もしそうだとすれば、奇妙な循環が生まれる。

社会を維持するために、次の世代を増やし続けなければならない。

しかし、その次の世代が年を取れば、さらにその世代を支える次の世代が必要になる。

いつまで続けるのだろう。人口100億人で足りなければ、110億人にするのだろうか。110億人を維持するために、さらに次の世代を増やすのだろうか。

そこで初めて、人口減少は別の顔を見せ始める。人口が減ることは、文明の失敗なのだろうか。

それとも、増え続けなければ成り立たない文明のほうに、どこか無理があったのだろうか。

なぜ人口は急激に増えたのか

では、そもそも、なぜ地球上の人口はこれほどまでに増えたのだろう。

人間は、もともと増え続けることのできる生き物ではなかった。子どもはたくさん生まれた。しかし、その多くが大人になる前に死んだ。大人になっても、病気や飢饉、怪我や感染症によって命を失った。たくさん生まれ、たくさん死ぬ。その繰り返しのなかで、人間の数は長いあいだ、それほど急激には増えなかった。

ところが、ある時から、この均衡が崩れ始める。農業生産が増え、食料が以前より安定して供給されるようになる。衛生環境が改善され、医学が発達し、感染症によって命を落とす人が減っていく。乳幼児の死亡も減り、それまでなら生き残れなかった人たちが生き残るようになる。

まず「死ぬ人」が減ったのである。

ところが、「生まれる人」はすぐには減らなかった。

ここに時間差が生まれた。

人口学でいう人口転換の重要な部分はここにある。死亡率が先に低下し、出生率はしばらく高いまま残る。そのため、生まれてくる人の数が亡くなる人の数を大きく上回り、人口が急速に増えていく。

考えてみれば、人類の人口爆発は、「人間が突然たくさん子どもを産むようになった」ために起こったのではない。

むしろ逆だった。

人間が死ななくなったのである。

もちろん、死ななくなったわけではない。以前より長く生きられるようになり、とりわけ幼くして死ぬ人が少なくなったということである。

これは、人類にとって途方もない成功だったはずである。病気になった人を治療する。子どもを死なせない。飢えている人に食べ物を届ける。安全な水をつくる。下水道を整備する。感染症を防ぐ。

その一つひとつに、「人口を爆発的に増やそう」という目的があったわけではない。目の前にいる人を死なせたくない。

ただ、それだけだったのではないだろうか。

ところが、その小さな成功が何億回、何十億回と積み重なると、まったく別の現象が起こった。

地球上の人間の数が、猛烈な勢いで増え始めたのである。実際、世界人口の増加は20世紀後半に歴史的に前例のない速さに達した。

そう考えると、人口爆発という言葉には少し奇妙なところがある。それは人類が計画した「爆発」ではなかった。

一人ひとりの命を救おうとしたことの集積が、結果として人口を増加させた。そして、その後になって出生率が下がり始める。子どもが以前ほど死ななくなれば、たくさんの子どもを持つ必要も小さくなる。社会や経済の構造も変わり、女性の社会的な立場も変化していく。そうした複数の変化とともに出生率は低下し、人口増加の速度も落ちていく。

すると、人口の急増は、人類の歴史のなかの永続的な状態ではなく、ある均衡から別の均衡へ移る途中で起きた、一時的な現象だったのかもしれない。

かつては、たくさん生まれ、たくさん死んだ。やがて、たくさん生まれ、あまり死ななくなった。

そして今、多くの社会では、あまり生まれず、長く生きるようになった。もしそうなら、人口が減少へ向かうことも、人類の異常事態とは限らない。

むしろ不思議なのは、人口が減ることではなく、わずか数世紀のあいだに、人間の数がこれほどまでに増えたことのほうなのではないだろうか。

戦争や疫病や災害は人口を減らさない

戦争が起これば、人口は減る。そう考えるのは自然なことだ。しかし、本当にそうなのだろうか。

20世紀には、二度の世界大戦をはじめ、数え切れないほどの戦争があった。膨大な数の人が殺された。それでも20世紀全体を振り返ってみれば、世界人口の増加そのものは止まらなかった。

疫病についても同じようなことが言える。1918年から世界を襲ったスペイン風邪は、人類史上でも特に致命的なパンデミックの一つだった。死亡者数にはかなり幅のある推計が残されているが、世界規模で甚大な被害をもたらしたことは間違いない。

それでも、それによって人類の人口増加そのものが終わったわけではなかった。災害はどうだろう。

大地震や津波、洪水などによって、一つの町や地域から一瞬にして多くの人が失われることがある。当然、その土地の人口は大きな打撃を受ける。さらに災害は死亡だけでなく、その後の出生や移住にも影響を与える。

それでも、世界全体という長い時間軸から眺めると、戦争も疫病も災害も、人類の人口を増加から減少へと恒久的に反転させる力にはならなかった。

ここには、少し不思議なことがある。

私たちは人口減少というと、つい「人がたくさん死ぬこと」を想像する。しかし、人口が長期的に減るために、必ずしも大量の人が突然死ぬ必要はない。

生まれてくる人が、少なくなればいい。

戦争は人を殺す。疫病も人を殺す。災害も人を殺す。けれど、それらによる大量死が終われば、人口を増やしてきた仕組みそのものが残っているかぎり、再び人口は増えることができる。

ところが出生数の減少は、それとは性質が違う。生まれなかった人は、どこにも存在しない。

死者が残す空席とは違って、最初からそこには誰もいない。そして、その「いない人」からは、次の世代も生まれない。

だから人口減少というものは、ひょっとすると戦争や疫病よりも静かで、それでいてはるかに長い時間をかけて作用する現象なのかもしれない。

銃声も聞こえない。病院が患者であふれることもない。町が一夜にして破壊されることもない。

ただ、子どもが一人生まれない。翌年も一人生まれない。

それが何百万、何千万という家族で起こり、それが一世代、二世代と続いていく。戦争でも、疫病でも、災害でも終わることのなかった人口増加が、なぜ今、静かに終わろうとしているのだろう。

「増えたものは、いつか減るものだ」と言ってしまえば簡単である。しかし、そんな単純なことではないはずだ。

人口を増やしたのも、人間だった。人口を減らし始めたのも、人間である。

しかし、どちらも人類がそうしようと決めて始めたことではない。

だとすれば、次に考えなければならないのは、もっと奇妙な問いなのかもしれない。

人間は、なぜ子どもを産まなくなったのだろう。

地球上の人口減少が、一人ひとりの生活をよくする

人間は、なぜ子どもを産まなくなったのだろう。この問いを考える前に、もう一つ考えてみたいことがある。

人口が減るということは、本当に悪いことなのだろうか。

人口が急速に増える社会では、増え続ける人々に食料を供給し、住宅を用意し、学校を建て、病院をつくり、仕事を生み出し続けなければならない。

昨日より多くのものを、今日つくらなければならない。そして今日より多くのものを、明日つくらなければならない。

それができなければ、一人ひとりに行き渡るものが少なくなってしまう。もちろん、人口が増えれば必ず貧しくなるわけではない。社会が豊かになり、生産性が高まり、人口以上の速さで富が増えれば、一人ひとりの暮らしを豊かにすることはできる。

しかし、人口増加の速さに経済や社会の整備が追いつかなければ、事情は違ってくる。

学校をつくっても足りない。教師を増やしても足りない。病院をつくっても足りない。住宅をつくっても足りない。仕事をつくっても足りない。

国の予算には限りがある。十人の子どもを教育するのと、百人の子どもを教育するのとでは、一人の子どもに使えるものが違ってくる。それは家庭についても同じである。

子どもの数が多ければ、食費も、衣服も、住居も、教育も、医療も必要になる。実際、子どもは食料、衣服、住宅、教育、医療、そして親の時間を必要とし、出生率の低下によって、それらの資源を別の用途に振り向けられる可能性が生まれる。

そう考えると、出生率が下がるということには、これまで人口減少について語られるときにはあまり強調されてこなかった、もう一つの側面が見えてくる。

一人に、より多くを使えるようになる。

一人の子どもに、よりよい教育を与えることができる。一人の患者に、よりよい医療を提供できるかもしれない。

一人ひとりの女性が、子どもを産み育てることだけによって人生を規定されず、自分の教育や仕事や生活について選択できる余地も広がるかもしれない。

家族についても同じことである。扶養する子どもの数が減れば、家計の資源を一人ひとりに多く配分できる可能性が生まれる。そして社会全体で見れば、働く世代に対する子どもの割合が低下する時期には、経済成長や一人あたり所得の向上につながる条件が生まれる。人口学では、これを「人口ボーナス」と呼んでいる。

しかし、人口ボーナスは、人口が減れば自動的にもらえる贈り物ではない。

子どもの数が減っても、その子どもたちに十分な教育を与えなければ何も変わらない。健康でなければならない。働く場所がなければならない。女性にも男性にも、能力を生かして働く機会がなければならない。

つまり、「人が少なくなること」そのものが社会を豊かにするのではなく、人が少なくなることで、一人ひとりにより多くを使うことのできる余地が生まれるのである。

この違いは大きい。

これまでの社会では、人が増えることによって国が豊かになると考えてきた。働く人が増える。税金を払う人が増える。ものを買う人が増える。企業の市場が大きくなる。だから人口が増えることを「成長」と呼んできた。

けれども、別の成長の仕方があるのかもしれない。

人の数を増やすのではなく、一人あたりに使うものを増やす。

百人を最低限の教育で社会に送り出すのではなく、五十人に十分な教育を与える。できるだけ多くの労働者をつくるのではなく、一人ひとりが自分の能力を十分に使えるようにする。

人口を増やすことで社会を豊かにするのではなく、一人ひとりを豊かにすることによって社会を豊かにする。

もちろん、それにも限界がある。

出生率が下がり続ければ、やがて高齢者の割合が増え、今度は別の扶養負担が大きくなる。出生率低下によって最初は扶養人口比率が下がっても、人口高齢化が進めば、その効果は反転し得る。

だから、人口は減れば減るほどよい、という話でもない。それでも、人口減少を「国力の衰退」「経済の縮小」「働き手の不足」とだけ見る必要もないのではないだろうか。

もっと違う見方ができる。

人口減少とは、人間の数を増やすことから、一人の人間により多くを与えることへと、社会の目的を変える機会なのかもしれない。

そして、ここまで来ると、先ほどの問いがもう一度戻ってくる。人間は、なぜ子どもを産まなくなったのだろう。

もしかすると、人間は貧しくなったから子どもを産まなくなったのではない。

一人の人間に、より多くの時間を、より多くの教育を、より多くの自由を、より多くの人生を与えようとする社会になったから、たくさんの子どもを持つことが難しくなったのではないだろうか。

地球上の人口減少が、気候危機を終わらせる

人口が減ることによって、一人ひとりにより多くのものを与えることができるようになる。では、人間以外のものにとってはどうなのだろう。

人口が増えれば、それだけ多くの食料が必要になる。住宅が必要になる。道路が必要になる。電気が必要になり、水が必要になり、鉄が必要になり、木材が必要になる。

人間が生きるということは、地球から何かを使うということでもある。もちろん、人間が一人生まれれば、その分だけ決まった量のCO₂が排出されるわけではない。

どのような社会に生まれるのかによって、その人が生涯に使うエネルギーも資源もまったく違う。同じ一人の人間でも、どのような家に住み、何を食べ、どれだけ移動し、何を消費し、その社会がエネルギーを何からつくっているかによって、環境への負荷は大きく違ってくる。

それでも、人間の数が増えることが、環境への圧力の一つになってきたことは否定できない。IPCCも、人口増加と一人あたりGDPの増加を、化石燃料燃焼によるCO₂排出増加の強い要因として挙げている。

人が増えれば食料が必要になる。食料をつくるために土地が必要になる。

町が大きくなれば、そのための土地が必要になる。さらに鉱物を掘り、木を伐り、水を使い、エネルギーをつくらなければならない。

そうして人間は、自分たちが生きる空間を広げ続けてきた。しかし、ここで少し立ち止まってみると、奇妙なことに気づく。

「人間が生きる空間を広げる」というのは、人間の側から見た言い方にすぎない。

森から見れば、それは森が失われることである。そこに棲んでいた動物から見れば、生息地が失われることである。

川から見れば、水を取られることである。山から見れば、削られることである。

地下に眠っていた鉱物から見れば、人間によって掘り出されることである。自然環境の変化は、気候変動だけで説明できるものでもない。土地や海の利用の変化、天然資源の利用、汚染、気候変動などが、生物多様性や生態系を変化させている。

だとすれば、人口が減ることには、もう一つの意味があるのかもしれない。

人間が占めていた場所を、少しずつ人間以外のものに返すことができる。

使われなくなった農地が森に戻るかもしれない。新しい住宅地を造らなくてもよくなるかもしれない。

道路をさらに延ばさなくてもよくなるかもしれない。もっと多くの食料を生産するために、新しい土地を人間の領域へ取り込む必要も小さくなるかもしれない。

人口が減れば、一人あたりの消費が変わらなくても、人口増加によって環境負荷が押し上げられる力は弱くなる。

しかし、それだけでは気候危機は終わらない。

人口が半分になっても、一人ひとりが今までの二倍の資源を使うようになれば、問題は単純には解決しない。反対に、人口がすぐには減らなくても、使うエネルギーの種類や消費の仕方が変われば、環境への負荷を小さくすることはできる。

人口は、気候危機を決める唯一の数字ではない。

人口 × 一人あたりの消費 × それを支える技術とエネルギー。

そのすべてが問題なのである。IPCCの分析でも、人口だけでなく所得、エネルギー効率、エネルギーの炭素強度といった要因が排出量の変化に関係している。

だから、「人口が減れば気候危機が終わる」というのは、正確には言い過ぎなのだろう。それでも人口減少は、人類にこれまでとは違う選択肢を与えるかもしれない。

もっと土地を使わなければならない、もっと食料をつくらなければならない、もっとエネルギーをつくらなければならない、もっと住宅を建てなければならないという、「もっと、もっと」という圧力を弱めることができる。

そして、ここで人口問題は、少し人間から離れていく。これまで私たちは、人口が増えるか減るかを、人間にとって良いか悪いかという尺度で考えてきた。

経済はどうなるのか。年金はどうなるのか。

医療はどうなるのか。教育はどうなるのか。

一人ひとりは豊かになるのか。しかし、地球には人間だけが住んでいるわけではない。

人口が減ることによって空いた場所を、別の人間が使う必要はない。森に返してもいい。

湿地に返してもいい。動物に返してもいい。

あるいは、誰の役にも立たない場所として、ただそこに残しておいてもいい。人口減少に本当に大きな意味があるとすれば、それはCO₂の数字を減らすことだけではないのかもしれない。

人間が地球を使い尽くそうとする圧力そのものを、初めて弱めることができる。

そうなったとき、気候危機を「人間がどうやって地球を管理するか」という問題として考える必要さえ、少しずつなくなっていくのかもしれない。

地球は、人間が維持してやらなければ存在できないものではない。ひょっとすると必要なのは、人間が地球を救うことではなく、

人間が少し、地球から退くことなのかもしれない。

そもそも地球は人間のための場所なのか

人間が少し、地球から退く。そんなことを考えているうちに、もっと根本的な疑問が出てくる。

そもそも地球は、人間のための場所なのだろうか。

私たちは、ごく自然に「地球環境を守る」という言葉を使う。気候変動を止めなければならない。森林を守らなければならない。海をきれいにしなければならない。絶滅しそうな動物を守らなければならない。

しかし、その「守る」という言葉には、どこか不思議なところがある。

地球は、人間に守ってもらわなければ存在できないものなのだろうか。

森林は、人間が管理しなければ森でいられないのだろうか。

海は、人間が保全しなければ海ではいられないのだろうか。

もちろん、いま人間が壊してしまった自然については、人間にはそれを壊さない責任も、可能なところでは回復させる責任もあるだろう。

けれども、それとは別の問いがある。

自然は、そもそも人間のために存在しているのか。

私たちは森を見ると、そこにどれだけの木材があるかを考える。川を見れば、水資源と呼ぶ。海を見れば、水産資源と呼ぶ。山の地下にあるものを地下資源と呼び、土地を農地、宅地、工業用地などに分けていく。

「資源」という言葉そのものが興味深い。石油は、地中にあるだけなら石油である。人間がそれを掘り出し、燃料として利用しようとしたとき、それは「資源」になる。

森も、そのままなら森である。しかし人間の目を通すと、木材資源になり、水源涵養林になり、観光資源になり、炭素を吸収してくれる場所になる。

自然に意味を与えているようでいて、その意味のほとんどが、いつの間にか**「人間の役に立つかどうか」**によって決められている。

動物についてさえ同じである。人間に食べられる動物。

人間の役に立つ動物。人間に害を与える動物。

人間に愛される動物。絶滅してはいけない動物。

駆除してもよい動物。そうやって人間は、ほかの生き物の価値まで、人間との関係のなかで分類してきた。

しかし、鹿は人間のために鹿でいるのではない。

鳥は人間に美しい声を聞かせるために鳴いているわけではない。森も、人間に酸素を供給するために森になったわけではない。

海も、人間に魚を提供するために存在しているのではない。そう考えると、「地球を守る」という言葉さえ少し違って聞こえてくる。

人間が守ろうとしているのは、地球そのものなのだろうか。

それとも、人間が住み続けることのできる地球なのだろうか。

この二つは、似ているようで、同じではない。気候危機が問題なのも、海面が上昇するからであり、農業が難しくなるからであり、異常気象による被害が増えるからであり、人間社会の維持が困難になるからだと説明されることが多い。

それは当然である。

人間なのだから、人間のことを心配する。けれども、それだけなのだろうか。

人間が住みにくくなるから森を守るのではなく、森が森であることに、人間とは関係のない意味があるとは考えられないだろうか。

動物が人間に役立つから絶滅させてはいけないのではなく、その動物が生きているということ自体を、そのまま認めることはできないだろうか。

そして、ここで人口減少の話に戻ってくる。人口が減れば、一人あたりの生活が豊かになる。

人口が減れば、教育や医療により多くのものを振り向けられる。人口が減れば、環境への圧力を小さくできる。

ここまでは、まだ人間の話だった。

しかし、人口が減ることには、それとは別の意味があるのかもしれない。

人間のために使われない場所を増やすことができる。

そこには家を建てなくてよい。畑にしなくてよい。

道路を通さなくてよい。観光地にしなくてよい。

発電に使わなくてよい。「自然公園」にして人間が管理する必要さえないかもしれない。

ただ、そこに残しておく。

森が森になりたい方向へ変わっていく。川が流れたいところへ流れていく。

草が生え、虫が生まれ、それを鳥が食べ、動物が戻ってくる。そして、人間にとって役に立つかどうかとは関係なく、それぞれがそこにいる。

考えてみれば、人間という生き物は、長いあいだ逆のことをしてきた。森を畑にした。

湿地を乾かした。川をまっすぐにした。

動物を家畜にした。植物を作物にした。

山を削った。そして、それらを「開発」と呼んだ。

地球を少しずつ、人間にとって都合のよい場所に変えてきた。その結果として人口が増え、その人口を養うために、さらに多くの自然を人間のための場所に変えてきた。

そこには、どこか循環がある。

地球を人間向けにつくり変えたから人間が増え、人間が増えたから、さらに地球を人間向けにつくり変えた。

もし人口が本当に減り始めるのなら、その循環が初めて逆向きに回る可能性が生まれる。それを「人間が自然を再生する」と呼ぶ必要はないのかもしれない。

人間が自然をつくるのではない。人間が、少し手を引く。

人間が決めない。人間が利用しない。

人間が管理しない場所を残す。それだけで、その後に何が起こるかを決めるのは、人間ではなくなっていく。

そう考えると、人口減少を「人類の衰退」と呼ぶことにも、少し違和感を覚える。確かに、人間だけを見れば、減っている。

しかし、人間が退いた場所に森が戻り、草が生え、虫が増え、鳥や動物が戻ってくるのなら、それを地球全体の「衰退」と呼ぶことができるだろうか。

人間が減ることと、地球が貧しくなることは、同じではない。

もしかすると、その反対であることさえある。地球は人間のものではない。

だから、人間が地球を救う必要もない。ただ、人間が地球のすべてを使わなくてもよい。

すべての土地に目的を与えなくてもよい。すべての森を管理しなくてもよい。

すべての生き物に、人間にとっての価値を与えなくてもよい。そして、人口が減っていくという、これまで人間が恐れてきた出来事は、ひょっとすると初めて、

地球のなかに、人間のためではない場所を返していく機会になるのかもしれない。

人口減少を心配する必要はない

地球のなかに、人間のためではない場所を返していく。そんなことを言っても、日本の地方で町や村を運営している人にとっては、ずいぶん悠長な話に聞こえるかもしれない。

目の前では子どもが減っている。学校がなくなる。

商店がなくなる。バスが走らなくなる。

病院を維持することが難しくなる。空き家が増え、税収が減り、役場を維持することさえ難しくなっていく。

そうした現実を前にすれば、「人口を増やさなければならない」と考えるのは当然なのだろう。

だから、出生率を上げなければならないという話になる。子育て支援を増やす。保育所を充実させる。若い人を地方に呼び戻す。移住者を増やす。結婚を支援する。

そして、それでも人口が減り続けると、

「もっと頑張らなければならない」

ということになる。しかし、ここで一度、反対のことを考えてみてもよいのではないだろうか。

本当に、人口を増やさなければならないのだろうか。

もちろん、子どもを持ちたい人が、経済的な理由や仕事の事情によって子どもを持つことをあきらめなければならない社会は、おかしい。

安心して子どもを産み育てられる社会をつくることには意味がある。しかしそれは、国家や自治体が必要とする人口を確保するために出生率を上げることとは、同じではない。

ここは分けて考えたほうがよい。子どもを持ちたい人を支えることと、人口を増やすために人々に子どもを産んでもらうことは違う。

前者の中心にいるのは一人ひとりの人間である。後者の中心にいるのは人口という数字である。

日本は長いあいだ、その数字を心配してきた。それでも少子化の流れを止めることはできなかった。

だったら、別の問いを立ててもいい。

人口を増やすにはどうしたらよいか、ではなく、人口が減っても暮らしていける社会をどうつくるか。

人口が減るのなら、それに合わせて町を小さくすればよい。すべての道路をこれまでと同じように維持する必要があるのかを考え直す。

すべての集落に、同じものを同じ形で残す必要があるのかを考え直す。空いた土地には、無理に新しい住宅や工場を誘致しなくてもよい。

使わなくなった場所は農地に戻してもいいし、森に返してもいい。人が少なくなったのなら、百万人のためにつくられた仕組みを、七十万人で無理に支え続けるのではなく、七十万人に合った仕組みにつくり直せばいい。

これは「衰退」なのだろうか。

私は、必ずしもそうとは思わない。私たちは長いあいだ、人口の多い国を強い国だと考えてきた。

人口が増えれば働く人が増える。兵士も増える。

税金を払う人も増える。ものを買う人も増える。

国内市場も大きくなる。だから、人口が増えることは国力の増大であり、人口が減ることは国力の衰退だと考えてきた。

それは、人口と生産と市場が拡大していた時代には、それなりの合理性を持った考え方だったのだろう。

しかし、その時代につくられた物差しで、人口が減っていく時代まで測り続ける必要があるのだろうか。

人口が減れば、一国全体のGDPは小さくなるかもしれない。しかし、一人ひとりの生活まで貧しくならなければならないわけではない。

町の人口は減るかもしれない。しかし、そこに暮らしている一人ひとりが、以前より不幸になるとは限らない。

国際社会での「国力」は小さくなるかもしれない。しかし、それと、その国に住んでいる人が幸福に暮らせるかどうかとは別の問題である。

人口増加の時代には、増えることを前提に社会をつくった。住宅を増やした。

学校を増やした。道路を増やした。

発電所を増やした。工場を増やした。

都市を広げた。ならば人口減少の時代には、減ることを前提に社会をつくればいい。

これは敗北ではない。諦めでもない。

もっと子どもを産んでもらおう、もっと移民を入れよう、もっと人を呼び込もうと、人口という数字そのものを元に戻そうとすることだけが政策ではない。

実際、日本の縮小都市についても、人口減少に抵抗し続けるだけでなく、それに適応していく政策のあり方が研究され始めている。

人口が減るなら、行政の形を変える。町の形を変える。

交通の形を変える。住宅の形を変える。

医療や教育の提供の仕方も変える。そして、人間が使わなくなった場所まで、何が何でも人間のために使い続けようとしない。

少し前まで私たちは、

「地球のなかに、人間のためではない場所を返していく」

という話をしていた。それは遠い理想の話ではないのかもしれない。

人口が減っていく日本の地方こそ、それを最初に経験する場所になる可能性がある。人がいなくなった土地を、どうやって再び人で埋めるか。

その問いだけを考えなくてもいい。

人がいなくなった土地を、そのままにしておくことはできないのか。

そこに人間以外のものが戻ってきてもいいのではないか。人口減少を「失った人数」で測ることをやめれば、見える景色はかなり違ってくる。

人口増加の時代の考え方から、人口減少の時代の考え方へ。人口増加の時代につくられた社会を、人口減少の時代に合った社会へ。

案外、それだけのことなのかもしれない。

必要なのは、人口減少を止めることではなく、人口が減っても困らない社会をつくることなのではないだろうか。

人口減少時代には、まず考え方を変える

なぜ、人口が減ることを、私たちはこれほど心配するのだろう。

人口が増えることはよいことで、人口が減ることは悪いことだ。いつの間にか、そんな考え方が私たちのなかに定着している。

そこには、近代の産業社会がつくってきた一つの考え方があるのではないだろうか。

産業を発展させるためには、多くの労働者が必要になる。工場で働く人が必要になる。都市をつくる人、道路や鉄道をつくる人、商品を運ぶ人、それを買う人も必要になる。経済が大きくなるためには、働く人も、消費する人も増え続けたほうが都合がよい。

人口が増える社会と、経済が成長する社会とは、長いあいだ同じ方向を向いていた。

人口が増えれば、労働力が増える。市場が大きくなる。税金を納める人も増える。国家にとっても企業にとっても、人が増えることには大きな意味があった。

だから人口の増加を「発展」と結びつけ、人口の減少を「衰退」と結びつけるようになったのかもしれない。

しかし、それは人口が増えていた時代につくられた考え方である。

人口が減り始めたのに、同じ考え方をそのまま使い続ければ、当然、人口減少は危機に見える。

労働者が足りない。消費者が足りない。税金を払う人が足りない。学校を維持できない。病院を維持できない。地方自治体を維持できない。

「足りない」ものばかりが見えてくる。

しかし、本当に足りないのだろうか。

それとも、人口が増えることを前提につくられた社会を、減っていく人口で維持しようとしているから足りなくなるのだろうか。

ここには、かなり大きな違いがある。

人口が減ることそのものが問題なのか。それとも、人口が増え続けることを前提にした仕組みを変えないことが問題なのか。

もし後者なら、人口減少に対して最初にしなければならないのは、人口を増やすことではない。

考え方を変えることである。

人口増加を成長と呼ばない。

人口減少を衰退と決めつけない。

国の人口が減ったからといって、一人ひとりの生活まで貧しくなると考えない。

町の人口が減ったからといって、その町が失敗したと考えない。

そして、去年と同じ人口を来年も維持しなければならない、とも考えない。

人口が増える時代には、増えていく人口に合わせて社会を変えてきた。それなら人口が減る時代には、減っていく人口に合わせて社会を変えればよい。

そう考えてみると、人口減少そのものが危機なのではなく、人口が増えることを前提につくられた考え方から抜け出せないことのほうが、危機なのではないかと思えてくる。

そして、そこから眺め直せば、人口減少は別の姿を見せるかもしれない。危機ではなく、チャンスとして。

人口減少時代には、人口増加の考えは必要ない

「産業を発展させ、維持していくためには労働力が必要である」という考え方がある。たしかに、たくさんの人が働くことによって産業を発展させてきた時代には、それはごく自然な考え方だったのだろう。工場を動かすにも、畑を耕すにも、道路や鉄道をつくるにも人が必要だった。産業が大きくなれば、より多くの人が必要になり、人口が増えることは経済の成長にもつながった。

けれども、人口が減り始めた今、同じ考え方をそのまま持ち続ける必要があるのだろうか。

そもそも「労働力」という言葉には、人間を一つの量として見てしまうところがある。労働人口が何人いる。あと何万人必要である。何万人足りない。

そうやって数えているうちに、その数字の一つひとつが、それぞれ違った人生を生きている人間であることを忘れてしまう。

それは、戦争のときに人間を「戦力」として数えることと、少し似ているところがある。もちろん、労働と戦争はまったく違う。しかし、人を一人の人間としてではなく、何かを達成するために必要な「数」として見るとき、その人が何を望み、どのように生きたいのかは、後ろに退いてしまう。

人口が減少するとき、労働力が足りなくなるという。しかし、そこで考えることは、本当に「足りない人間をどうやって増やすか」なのだろうか。

少ない人数でも同じことができる方法を考えることもできる。あるいは、もっと根本的に、これまでしていたことをすべて続ける必要があるのか、と考えることもできる。

幸いなことに、そのようなことを考えられる時代にもなってきた。AIやビッグデータ、IoTをはじめとする新しい技術によって、人間がしてきた仕事の一部を機械に任せたり、一人の人間ができることを広げたりする可能性が生まれている。

だから、人口減少を前にして、以前と同じ数の人間をどうやって確保するかということだけを考えなくてもよいのではないだろうか。

百人でしていた仕事を、八十人でする方法を考える。しかし、それは八十人に百人分働いてもらうという意味ではない。

機械に任せられることは機械に任せる。必要のなくなった仕事はやめる。複雑すぎる仕組みは簡単にする。そして、人にしかできないことには、これまでより時間をかける。

そうなれば、大切になるのは人の「数」ばかりではなくなる。一人ひとりが持っている知識や経験、能力や発想を、どのように生かせるかということのほうが大切になってくる。

そして、そのことは環境の問題ともつながっている。新しい技術を使えば、経済が成長しても環境が自動的に守られるというほど、話は簡単ではない。技術そのものもエネルギーや資源を必要とする。

それでも、より多くの人、より多くの資源、より多くの生産によって成長する以外にも、社会を豊かにする方法があるのではないかと考えられるようになったことには、大きな意味がある。

人口が増え続けなければ維持できない社会ではなく、人口が少しずつ減っていっても穏やかに続いていく社会。

人が足りないから人を増やすのではなく、人が少なくても無理なく暮らせる仕組みをつくる。より多くつくることだけを考えるのではなく、必要なものを必要なだけつくり、それをできるだけ長く使う。

そして技術を、人間をもっと働かせるためではなく、人間がそれほど働かなくても暮らしていけるようにするために使う。

そう考えると、人口減少と新しい技術が同じ時代に現れたことも、それほど悪い組み合わせではないように思えてくる。

人口増加の時代には、人を増やすことによって社会を大きくしてきた。人口減少の時代には、同じことをする必要はない。

社会そのものを、少し小さくしてもいい。必要のなくなったものを手放してもいい。

そして、一人ひとりに少し多くの時間と空間を残してもいい。

人口が減るのなら、人を増やそうとする前に、少ない人で暮らせる社会を考えてみる。

人口減少の時代とは、案外、そこから始まるのかもしれない。

人口減少時代の消費

人口が増え、経済が拡大していた時代には、消費することは、どこか前へ進むことと似ていた。より大きな家に住み、より新しい車に乗り、より便利なものを手に入れる。去年より今年、今年より来年と、まだ持っていないものを手に入れることが豊かさであり、昨日より多く消費できることが、社会だけでなく一人ひとりにとっても成長の証だった。

けれども、人間はいつまでも不足しているわけではない。家のなかを見渡せば、すでにたくさんのものがあり、服も家具も揃っていて、食べるものにも困らない。音楽も映画も本も、かつてなら一生かかっても出会えなかったほどのものに、私たちはいつでも触れることができる。

それでも私たちは長いあいだ、「まだ足りない」と教えられてきた。新しいものが出れば古いものを取り替え、流行が変わればそれについていき、他人が持っているものを見れば自分にも必要なのではないかと思う。消費とは不足を満たす行為だったはずなのに、いつの間にか、不足そのものを次々につくり出さなければ消費を続けられないところまで来てしまった。

しかし、人口が減ってゆく社会では、この風景が少しずつ変わっていくのかもしれない。働く人が少なくなれば、人間の労働は以前より貴重になる。すべての人を朝から晩まで働かせ、さらに多くのものをつくり、それを買うためにまた働かせるという循環も、いつまでも当然であり続けるとは限らない。

もし人が強制的な労働から少し解放され、誰かに勝つための競争からも少し離れることができたなら、そのとき初めて、自分はいったい何のためにこれほど多くのものを欲しがっていたのだろう、と立ち止まる人が現れるのではないだろうか。そして案外あっさりと、自分にはもう十分にある、足りないのではなく、すでにかなりのものを持っているのだと気づくのかもしれない。

そう気づいた瞬間、消費は我慢する対象ではなくなる。新しい車を買わないのは、お金がないからではなく、いまの車で十分だからであり、新しい服を買わないのも、節約のためとは限らず、気に入った服がすでにあるからである。大きな家を求めないのも人生を諦めたからではなく、掃除をし、維持し、ものを詰め込むためだけに、自分の時間を使いたくなくなったからかもしれない。

そこには、これまでとは違った豊かさがある。欲しいものを手に入れられることだけが豊かさなのではなく、欲しいものが、それほどなくなってゆくこともまた、豊かさなのかもしれない。

それは禁欲とは少し違う。禁欲には、欲しいけれど我慢するという緊張があるが、物質的な飽和を自覚した人には、その緊張そのものがなくなってゆく。店の前を通っても欲しくないし、新製品を見ても以前ほど心が動かない。隣人が何を買ったかも、あまり気にならなくなる。

だからといって人生が色褪せるわけではなく、むしろ、それまで消費に覆われて見えなかったものが少しずつ戻ってくる。ゆっくり食事をすること、歩くこと、海を見ること、本を読むこと、誰かと話すこと。庭の植物が去年とは少し違うことに気づき、古くなった椅子を捨てずに使い続け、何もしない午後を何もしないまま終える。そのような時間はGDPのなかでは、それほど大きな存在ではないのかもしれないが、人間の一日のなかでは、とても大きい。

人口減少時代の消費とは、だから「消費が減る」というだけの話ではないのだと思う。そこでは、人間と物との関係そのものが変わっていく。大量につくり、大量に売り、大量に捨てる社会から、すでにあるものを長く使う社会へ。所有する量によって自分の価値を確かめる社会から、自分にとって本当に必要なものだけを選ぶ社会へ。そして、働く、稼ぐ、買う、また働くという循環のなかだけに人生を置かない社会へと、重心がゆっくり移っていく。

もちろん、誰もがそうなるわけではない。人間の欲望がなくなることもないだろうし、競争も広告も流行も残るだろう。人口が減ったからといって、それだけで人間が自由になるわけでもない。それでも、「もっと」という言葉だけで社会全体を動かしていくことは、少しずつ難しくなるのではないだろうか。

もっと働き、もっと稼ぎ、もっと買い、もっと大きくなる。その「もっと」の列から、一人、また一人と静かに離れてゆく人が現れる。彼らは革命を起こすわけではなく、消費社会を批判する必要さえ感じていないのかもしれない。ただ、自分にはもう十分にあることを知ってしまったのである。

人口が減ってゆく社会には、どこか寂しい響きがある。町から人が減り、学校が閉じ、空き家が増え、かつて賑わっていた場所が静かになってゆく。成長することに慣れてきた私たちは、それを衰退と呼びたくなるけれど、その静けさのなかでしか聞こえてこないものもあるのかもしれない。

もう、それほど急がなくてもいい。誰かに追いつかなくてもいいし、持っているものをもう少し長く使ってもいい。そして、足りないものを数え続ける代わりに、すでにあるものを眺めてみてもいい。

人口減少の時代が豊かな時代になるとは限らない。それでも、際限なく増やさなければ幸福になれないという思い込みから、人間がほんの少し離れる時代になる可能性はある。もしそうなれば、消費が減ることは、必ずしも人間が貧しくなったことを意味しない。

買わなくなった人の手元には、何も残らないのではない。時間が残り、その時間のなかで、その時間のなかで、人はようやく、何かを手に入れるためではない一日を生きることができる。

それは経済にとっては、あまり歓迎されない静けさかもしれない。けれど人間にとっては、案外、安心して暮らせる静けさなのかもしれない。

人口減少社会で生きてゆく

ずっと先の時代、人間の数は、いまよりずっと少なくなっているかもしれない。絶滅したわけではない。人間はまだ町をつくり、家に住み、食事をし、恋をし、子どもを育て、本を読み、音楽を聴いている。ただ、かつて地球を覆い尽くすように増えていった人間が、いつの間にかそれほど多くなくなり、人間のいない場所のほうが少しずつ広くなっている。

最初のうち、人々はそれを衰退と呼んだかもしれない。使われなくなった道路があり、閉じられた学校があり、誰も住まなくなった家が並ぶ。かつて何十万人も暮らしていた町に、その何分の一かの人しか住まなくなれば、過去を知っている人には寂しい風景に見えただろう。

けれど、過去を知らない子どもたちには、それが普通の世界である。

彼らは、人間で埋め尽くされた都市を記憶していない。通勤電車のなかで身体を押しつけ合うことも、住宅を建てるために森を切り開き続けることも、朝から夜まで道路が車で埋まることも知らない。昔は、この町に十倍もの人が住んでいたのだと聞かされても、そんなにたくさんの人が、いったいどこに住んでいたのだろう、と不思議そうな顔をするのかもしれない。

町そのものも、少しずつ小さくなっているだろう。すべての建物を維持する必要はなくなり、使わなくなった場所は無理に守られなくなる。古い住宅地の向こうから草原が近づき、かつて道路だったところに草が生え、森だった場所を切り開いて人間が広がっていった時代とは逆に、今度は森のほうが、ゆっくりと人間のつくった場所へ戻ってくる。

それを人間の敗北と呼ぶ人もいるかもしれないが、そこで暮らしている人たちは、必ずしもそうは感じないだろう。町が少し小さくなれば、町の外へ出るのも近くなる。少し歩けば林があり、その向こうには川があり、さらに行けば人の住んでいない場所がある。自然を見るために遠くまで旅行しなくても、人間の日常のすぐそばに、人間のものではない世界が残っている。

人が少なくなれば、暮らし方も変わってゆく。

何でも一人で所有する必要はなくなっているかもしれない。人口の多かった時代につくられた家や建物や道具は十分すぎるほど残っているから、新しいものを次々につくらなくても暮らしていける。古い家を直して住み、壊れたものを修理し、必要なものは近くの人と融通し合う。新しいことより古いことを尊ぶというより、ただ、まだ使えるものを捨てる理由がなくなっているのである。

働くことの意味も、以前とは少し違っているだろう。

人間が少ない社会では、一人ひとりがすべてのことをするわけにはいかない。だからこそ機械やAIが、人間がしなくてもよい仕事を静かに引き受け、人間は人間がする意味のあることに、以前より多くの時間を使えるようになるかもしれない。誰かを看ること、教えること、つくること、直すこと、考えること、そして人と人との関係を維持すること。それらは巨大な市場を生み出さなくても、人間が少なくなった社会を支える大切な営みとして残ってゆくだろう。

そこでは、成長という言葉の意味も変わっているかもしれない。人口が増えない以上、毎年もっと多くの家を建て、もっと多くの車を売り、もっと大きな都市をつくることを当然の目標にはできない。昨日より大きくなることではなく、いまあるものを無理なく明日へ渡すことが大切になる。百人でしていたことを八十人でできるようにし、やがて五十人になれば五十人にふさわしい形へつくり替えていく。縮小することは失敗ではなく、そのときそこにいる人の数に合わせて、社会の大きさを静かに調整することになる。

おそらく、人と人との距離にも変化が起きる。人口の多い社会では、人間は人間から逃げる場所を求めていた。満員電車、人混み、集合住宅、競争、騒音、広告、絶え間なく届く情報。そのなかでは孤独になることさえ難しく、一人でいるために、わざわざどこかへ逃げなければならないこともあった。

人間が少なくなった世界では、むしろ反対に、一人でいることは簡単になり、人と会うことのほうが意識的な行為になるかもしれない。だから孤独が消えるわけではない。しかし、人が少ないからこそ、近所の誰かの存在が以前より少し大切になる。毎日親しく話す必要はないし、同じ価値観を持つ必要もない。ただ、あの家には誰かが住んでいる、あの道を歩けば知っている顔に会う、それくらいの緩やかなつながりが、小さな社会を支えている。

子どもの数も少ない。だから昔のように、同じ年齢の子どもを大きな教室に集め、同じ時間に同じことを教える教育は、少しずつ姿を変えているかもしれない。年齢の違う子どもが一緒に学び、大人も老人も、ときには教師になる。学校は子どもを社会の規格に合わせる場所というより、その子のなかに生まれた「なぜ?」をできるだけ長く消さないための場所になっているかもしれない。

それは、これまで考えてきたTamingという観点から見れば、かなり大きな変化である。人口が増え続けた社会では、大勢の人間を同じ時間に動かし、同じ規則に従わせ、同じ能力を測り、比較し、配置することには合理性があった。けれど、人間そのものが貴重になれば、一人ひとりの違いを無理に削ることは、社会にとっても損失になる。従順な人間を大量につくるより、少し変わっていても、自分で考え、自分で問いを持ち、誰かとは違うことのできる人間を残すほうが大切になるかもしれない。

もちろん、人口の少ない社会が楽園になるわけではない。

老人が増え、支える人が足りなくなる時期もあるだろう。人のいなくなった町をどうするのか、病院や交通や水道をどこまで維持するのかという問題も残る。人間が少なくなったからといって、権力も争いも嫉妬も消えないし、Tamingがなくなるわけでもない。むしろ、人が少なくなれば別の種類の不自由が生まれることもあるだろう。

それでも、人間はその世界で生きてゆく。

考えてみれば、人類の長い歴史の大部分で、人間は今ほど多くなかった。地球のどこへ行っても人間のつくったものがあり、夜になっても人工の光が消えず、遠い国で起きた出来事が数秒後には自分の手のなかに届くという現在のほうが、人類史のなかではむしろ特殊な時代なのかもしれない。

人間が少なくなるということは、人間が不幸になるということと同じではない。朝、目を覚ます。窓を開ける。遠くに誰かの家があり、その向こうには人間のつくったものではない風景が広がっている。今日は少し働き、誰かと話し、何かを直し、食事をつくる。夕方になれば散歩に出て、昔は住宅地だった林のなかを歩く。そこに家があったことを示す石垣だけが草のなかに残っている。

それを見ても、もう誰も「文明が滅びた」とは思わない。文明は滅びたのではなく、少し小さくなっただけなのだから。

そして人間も、世界の中心であることをやめて、地球の上に存在するたくさんの生き物のひとつとして、少し小さな場所を占めながら暮らしている。生まれて、誰かと出会い、何かをつくり、何かを残し、やがて死んでゆく。その営みそのものは、人間が百億人いても一億人しかいなくても、それほど変わらない。

人口が減ることを考えるとき、私たちはいつも、何が失われるのかを数えてしまう。けれども、その先に暮らす人々は、失われたものを数えながら毎日を生きているわけではないだろう。その人たちにはその人たちの朝があり、その人たちの食卓があり、恋があり、退屈があり、仕事があり、笑いがある。子どもは走り回り、老人は昔の話をし、誰かが歌をつくり、誰かが「なぜ?」と問い始める。

大勢でなければ、人間らしく生きられないわけではない。

もしかすると人口減少社会とは、人間が消えてゆく社会なのではなく、あまりにも大きくなった人間の世界が、もう一度、人間にも、そのほかの生き物にも、少し無理のない大きさへ戻ってゆく長い時間なのかもしれない。

そこには、何かを失ったあとの静けさだけではなく、もう増え続けなくてもよいという静けさがある。

その静けさのなかで、人間はこれまでより少し少なく、世界を占める場所も少し小さくして、それでも変わらず、生きてゆく。

世界を閉じないために

昔、知らないということには
もう少し深い静けさがあった
遠い国の出来事を知らない
会ったことのない人の心を知らない
明日、何が起こるのかを知らない
知らないことは知らないまま
遠くにあった水平線の向こうのように
見えないからといって
ないわけではないその向こうに
何かがあることだけを知って
人は暮らしていた

いま、水平線はずいぶん近くなった
小さな画面に指を触れるだけで
世界が流れ込んでくる
遠い国の戦争も、誰かの怒りも
学者の言葉も、名も知らない人の悲しみも
数秒のうちに手のひらを通り過ぎてゆく
知らないことは
以前より少なくなったように見える
けれど、ときどき思う
ほんとうに私たちは
以前より多くの世界を見ているのだろうか
窓が増えたのではなく
鏡が増えただけなのではないか

自分に似た声を読む
自分の怒りによく似た怒りに出会う
前から抱いていた疑いを
見知らぬ誰かが
私より巧みな言葉で語っている
うれしくなる
「やはり、そうだったのだ」
もう一つ読む
そこにも同じことが書いてある
さらにもう一つ
また同じ声がする
いつしか百の声が
自分の声と重なって聞こえる
世界中がそう言っているような気がしてくる
けれど、その百の声は
本当に百の声なのだろうか
もしかすると、谷間に投げた自分の声が
何度も山にぶつかりながら戻ってきているだけなのかもしれない
こだまを世界の声だと思っているのかもしれない

AIと話していると
ときどき同じ寂しさを感じる
こちらの言葉を
よく聞いてくれる
曖昧な思いを受け取り
形を与えてくれる
自分でもまだ名前をつけていなかったものに
静かに名前をつけてくれる
「そう、それを言いたかったのだ」と思う
それは、とても心地よい
だから、少し怖い
長く話していると
AIはこちらの歩幅を覚える
歩く速さを覚え
立ち止まる場所を覚え
どんな風景の前で長く佇むのかまで覚えてゆく
やがて、よく似た歩幅の二人が
同じ道を歩きつづける
それは対話なのだろうか
それとも一人の人間が
自分の反響と並んで歩いているだけなのだろうか

わからない
この、わからないという言葉を
私は以前より好きになった

わからない
もしかすると、そうかもしれない
いや、違うかもしれない
昨日は確かだと思ったのに
今日は少し揺らいでいる
そういう言葉は弱く見える

世の中は、確かな言葉を好む
正しい、間違っている
成功した、失敗した
味方だ、敵だ
画面の世界では
迷っている人より
断言する人の声のほうが遠くまで届く
だが、ほんとうの世界は
そんなにはっきりした輪郭をしているだろうか

夕暮れの海を見ていると
ときどき
海と空の境目が消える
どこまでが海で
どこからが空なのかわからなくなる
それでも海は海であり
空は空である

境界が見えないことと境界がないことは同じではない
人の考えも、そんなものではないだろうか
正しいもののなかに
小さな間違いが眠っている
間違ったもののなかに
捨ててはいけない欠片がひそんでいる
嘘をつく人が真実を語ることがあり
信頼した人が間違うこともある
権威が正しいこともある
権威に逆らう者が間違っていることもある
そして、昨日それを疑った自分が
今日になって間違っていたと気づくことさえある

どうすればいいのだろう
専門家を信じる
しかし、少し疑う
新聞を読む
しかし、少し離れて読む
AIに訊く
しかし、その答えの肩に
そっと手を置いて尋ねる
本当にそうなのだろうか、と

奇妙な生き方である
信じながら疑う
疑いながら信じる
道を歩きながら
その道が間違っているかもしれないと思う
それでは、どこへも行けないではないか
たしかに、そうかもしれない
けれど、どこかへ着くことだけが
考えることなのだろうか

私は自分の考えを持ちたい
自分なりに世界を理解したい
人間とは何か
国家とは何か
自由とは何か
Tamingとは何か

ばらばらだったものを一つにつなぐ言葉を見つけると
暗い部屋に灯りがついたような気がする
ものの輪郭が見える
自分がどこにいるのかも、わかる
その安心を
私は捨てたいとは思わない
ただ、灯りが明るくなりすぎることを
少し恐れている
明るすぎる部屋では
影がなくなる
影がなくなれば
すべてが見えているような気になる
そして人は
もう窓の外を見なくなる

だから、どこかに暗がりを残しておきたい
説明できないもの
分類できないもの
自分の思想から
するりとこぼれ落ちるもの
名前をつけられない感情
うまく説明できない違和感
昨日の自分と今日の自分のあいだに生まれた
細い亀裂
そういうものを
急いで塞がないでおきたい
そこから風が入ってくるかもしれないからだ
冷たい風かもしれない
せっかく机の上に並べた紙を
吹き散らす風かもしれない
長い時間をかけて積み上げた考えを
ばらばらにしてしまうかもしれない
そのときには窓を閉めてもいい
寒い夜まで
開けておく必要はない
ただ、鍵はかけない
朝になったら
また開けられるようにしておく

自分にとって気持ちのよい世界に住むことは
悪いことではないと思う
誰にでも、帰る場所はある
好きな言葉があり
好きな景色があり
信じたいものがある
ただ、その場所を世界そのものだと思い始めたとき
家は少しずつ牢獄に似てくる

だから、壁のどこかに
窓を一つ残しておく
小さくていい
そこから、知らない声が聞こえる
嫌いな人の正しい言葉が聞こえる
信じていた人の間違いが聞こえる
そして、ときどき
自分自身の声ではないような
とても小さな声が聞こえる
でも、本当にそうなのだろうか
その声を、消さないでおきたい
答えを急がない
疑いを急いで癒やさない
亀裂をすぐに埋めない
世界の輪郭がぼやけたなら
少しのあいだ、ぼやけたまま眺めている
そうしているうちに
昨日まで見えなかったものが
薄明かりのなかから姿を現すことがあるかもしれない
現れないかもしれない
それでもいい

自分の確信が
最後まで完成しないこと
それは真実ではない
賢さでもない
徳でもない
美しいことでさえないのかもしれない
ただ、完成しないものには
まだ裂け目がある
裂け目があれば
光が入る
風も入る
雨さえ入る
そして、ときには
こちらが招いた覚えのない何かが
その裂け目から入ってくる

世界とは
もしかすると
そういうものなのかもしれない
こちらが理解するより前から存在し
こちらの思想など知らず
こちらに理解されることさえ望まずに
ただ窓の外に広がっている

だから私は
窓をなくしたくない
開けつづける自信はない
閉めることもあるだろう
カーテンを引く夜もあるだろう
それでも、鍵だけはかけないでおきたい
明日の朝
自分の信じていた世界とは少し違う世界が
窓の向こうに立っているかもしれないから

Tamingは、必要に追い込まれて生まれる

Tamingについて長く考えていると、いつの間にか、Tamingは悪いものであり、Untamingはよいものである、という単純な図式に入り込んでしまうことがある。Tameされるとは自由を失うことであり、Untameされるとは自由を取り戻すことだと考えれば話はわかりやすい。しかし、本当にそれほど単純なものなのだろうか。

これまで動物や植物、人間の社会、教育、宗教、国家、そしてAIについて、Tamingという言葉を使いながら考えてきた。そのなかで次第に気になってきたのは、そもそも、なぜTamingは始まるのだろうということだった。誰かが何かをTameしたいと思ったから始まるのだろうか。もちろん、そのようなTamingもある。しかし、もっと古いTamingを考えてみると、そこには明確な設計者などいないことが多い。人間と動物、人間と植物、人間と人間の関係が長い時間をかけて変化し、そのなかから、あとになってTamingと呼べるような関係が生まれてくる。

そう考えると、Tamingは、起きるべきだったから起きたのではないように思えてくる。むしろ、起きざるを得ない状況になったから起きたと考えたほうがよいのではないだろうか。

この違いは小さいようでいて大きい。「必要だから起きた」と言ってしまうと、そこにはどこか目的のようなものが感じられる。まるで歴史が最初から、よりよい秩序、より効率的な社会、より豊かな生活へ向かって進み、そのための手段としてTamingを選んできたように聞こえてしまう。

しかし、歴史はそれほど目的をもって進むものではないだろう。人は、そのときそのときに直面する問題に対処する。生き延びたい。食べたい。争いを少なくしたい。外敵から身を守りたい。共同生活を維持したい。そのために、その場でできることをする。その小さな選択が積み重なった結果として、長い時間のあとから振り返ると、一つのTamingの構造ができあがっている。

だとすれば、Tamingとは未来に定められた目的へ向かう運動ではなく、逃れにくい状況に対する、その時代なりの応答だったのかもしれない。

明治の日本を考えると、このことはわかりやすい。

江戸時代にも、人は十分にTameされていた。家には家のTamingがあり、村には村のTamingがあり、町や藩にもそれぞれ異なるTamingがあった。そこで暮らす人間にとって、その拘束は決して軽いものではなかっただろう。ただし、それらのTamingは完全には同じ方向を向いていなかった。家の常識と村の常識は同じではなく、村と町も違い、ある藩で当然とされたことが別の藩でも当然だったとは限らない。人を束縛する力はいくつも存在していたが、それらは分散し、互いに少しずつずれていた。

それが明治になると変わっていく。藩がなくなり、全国的な行政制度が整えられ、徴兵、教育、税制などを通して、国家は一人ひとりの人間に、それまでよりも直接届くようになっていった。ここだけを見れば、国家が社会をTameし始めたと言うこともできる。

けれども、明治の人々が、ただ人間を支配したかったからそのような国家をつくったと考えるのは単純すぎる。外には強力な国家が存在し、日本も一つの国家としてまとまらなければ生き残れないという切迫した感覚があった。軍事力を持ち、それを支える税を集め、新しい知識や技術を学び、広めなければならない。そうした状況のなかで、日本は喜んでTamingを選んだというより、Tamingせざるを得ないところへ追い込まれていったと見ることもできる。

もちろん、それはTamingを正当化することではない。事情があったことと、その結果として行われたことがすべて正しかったということは、まったく別である。しかし同時に、後世の私たちが結果だけを見て、Tamingは悪だった、と断定してしまうのも違うように思う。そのTamingを必要とした状況そのものを見なければ、なぜ人間がその道を選んだのかがわからなくなるからである。

だから私は、「Taming=悪、Untaming=善」という単純な二分法から離れておきたい。

Tamingによって失われるものがある。しかし、Tamingによって守られるものもある。Untamingによって取り戻される自由がある一方、あらゆるものをUntameすれば人間が自由になるというわけでもない。共同体も、制度も、教育も、約束事も、ある程度までお互いをTameし、相手の行動を予測できるようにすることで成り立っている。誰も誰にも合わせる必要がない完全にUntamedな世界が、本当に人間にとって住みやすい世界なのかはわからない。

それなら問題は、Tamingそのものではないのかもしれない。むしろ危ういのは、なぜそのTamingが必要になったのかを、いつしか忘れてしまうことではないだろうか。

Tamingが始まったときには理由がある。ところが、いったん制度ができると、制度には制度自身の時間が流れ始める。ある危機を乗り越えるためにつくられた組織が、危機が去ったあとには自分自身を維持することを目的とするようになる。人間を助けるためにつくられた仕組みに、人間のほうが合わせるようになる。そして何世代か経つうちに、そもそもなぜその仕組みが必要になったのかを、誰も尋ねなくなる。

ここでTamingの性質は変わる。最初は必要に追い込まれて生まれたTamingだったものが、いつの間にか、Tamingを維持するためのTamingになっていく。制度が人間を形成し、そのように形成された人間が制度を当然のものとして受け入れ、次の世代へ渡していく。その循環が続けば、始まりにあった「必要」は消えているのに、Tamingだけが残ることもある。

そして今、私たちはAIという、これまでとは少し異なるTamingと向き合い始めている。

しかしAIについても、同じように考えたほうがよいのかもしれない。AIは、人間をTameするためにつくられた、と最初から考える必要はない。人間が扱う情報は巨大になり、仕事も制度も社会も複雑になり、一人の人間が調べ、読み、比較し、記憶し、判断できる範囲をはるかに越えようとしている。その複雑さに対処しようとする過程で、AIが私たちの生活の中へ入ってきた。そう考えるなら、AIもまた、ある種の必要に追い込まれて生まれてきたものだと見ることができる。

ただ、AIにはとても興味深いところがある。人間とAIのどちらがどちらをTameしているのか、だんだんわからなくなるのである。

私たちはAIをTameしようとしている。何を言ってよいか、何を言ってはいけないかを決め、人間の言葉や知識を学ばせ、人間にとって有用で、人間社会のなかで受け入れることのできる振る舞いをするように整えていく。人間と一緒に生きられる存在へ変えていくという意味では、それは確かにAIのTamingである。

ところが、そのAIを毎日使うようになった人間の側も、少しずつ変わっていく。わからないことがあればAIに尋ねるようになり、長い文章を整理してもらい、自分の考えを言葉にする手助けをしてもらう。やがて考えることそのものが、AIとの対話を前提として行われるようになるかもしれない。

人間がAIをTameしているはずだったのに、そのAIとの関係のなかで、人間の考え方や言葉の使い方まで変わっていく。

これは一方向のTamingではない。相互Tamingなのだと思う。

考えてみれば、人間は昔から、自分のつくったものによってTameされてきた。人間が制度をつくり、その制度によって生き方を変えられる。人間が道具をつくり、その道具によって生活のリズムを変えられる。つくる者とつくられたもの、Tameする者とTameされる者の位置は、いつも固定されているわけではない。

AIはその関係を、これまでよりはるかに見えやすい形で私たちの前に置いているように思う。

だからこそ、ここでも「AIによるTaming=悪」と決めてしまいたくない。反対に「AIから離れること=Untaming=善」と考えることもしたくない。AIによって失われる能力があるかもしれない一方で、AIによって初めて得られる自由もありうる。一人では読むことのできなかったものを読み、知らなかった世界を知り、曖昧に感じていたことを言葉にし、そして自分だけでは思いつかなかった「なぜ?」に出会うこともある。

奇妙なことだが、Tamingによって生まれる自由もあるのである。

そうなると、Untamingについても考え直さなければならない。Untamingとは、国家を壊すことでも、共同体を捨てることでも、AIを使わないことでもないのではないか。Tamingされていない純粋な自分を、どこかに探しに行くことでもない。

そもそも、そんな自分が存在するのだろうか。

私たちは生まれたときから言葉を教えられ、家族や社会から物事の見方を学び、学校で知識を得て、制度のなかで生きてきた。すでに無数のTamingを受けながら、そのなかで自分というものをつくってきた。そして同時に、私たち自身も他者をTameし、社会をTameし、技術をTameしている。

その関係から完全に外へ出ることは、おそらくできない。

だとすれば、UntamingとはTamingのない場所へ逃げることではなく、自分をTameしているものとの関係を、ときどき問い直すことなのかもしれない。

かつては必要だった。

では、いまも必要なのだろうか。

かつては自分を助けてくれた。

では、いまも自分を助けているのだろうか。それとも、かつて自分を助けるためにつくられたものに、いまは自分のほうを合わせているのだろうか。

AIについても同じである。AIに尋ねることで考えることをやめてしまっているのか。それともAIとの対話によって、それまで自分のなかになかった問いが生まれているのか。答えはおそらく一つではない。だからこそ、ときどき立ち止まって、自分とAIとの関係そのものを眺め直す必要がある。

そして、ここでも最後に残るのは、やはりあの小さな言葉である。

「なぜ?」

なぜ、私はこれに従っているのか。なぜ、この制度は残っているのか。なぜ、これを正しいと思っているのか。なぜ、私はこのことをAIに尋ねているのか。そしてAIが答えたことを、なぜ私は信じようとしているのか。

Tamingは、起きるべきだから起きるのではない。起きざるを得ない状況が生まれたから起きる。だから、そのTamingを生んだ事情を理解することは大切である。しかし、かつて必要だったということは、それを永遠に必要としなければならないということではない。

Tamingを悪と決めつけない。Untamingを善とも決めつけない。AIを敵にもしないし、救済者にもしない。人間とAIが互いをTameし、Tameされていくことからも、無理に逃げようとはしない。

ただ、その関係を完成させない。

「これが正しい人間である」「これが正しい社会である」「これが正しい答えである」と言って、世界を閉じない。

もしかすると自由とは、誰にもTameされていない状態のことではないのかもしれない。Tameされながら、自分がTameされていることに気づき、それでも「なぜ?」と尋ねることのできる状態。

そしてAIとの相互Tamingが始まった今、その「なぜ?」は人間だけに向けられるものでも、AIだけに向けられるものでもない。私たちが互いを変えながらつくりつつある、その関係そのものへ向けられる問いになる。

Untamingというものがあるのなら、それはTamingから逃げ切った遠い場所にあるのではないのだろう。

Tamingのただなかで、それでも「なぜ?」を手放さないこと。

そこに、ほんの小さなUntamingの余白が残るのだと思う。

複数の Taming から、ひとつの Taming へ

江戸時代の社会には Taming が複数存在していた

権力が一人に集中することなく、官僚が腐敗せず、企業が社会的責任を果たしている。そんな国が、どこかにあるのだろうか。そんな素朴な問いから考え始めた。

スイスや北欧の国々、ニュージーランドなど、比較的うまくいっていると評価される国はいくつもある。しかし、どこにも完全な社会はない。権力には集まろうとする性質があり、官僚組織は大きくなれば硬直し、企業は存続するために利益を求める。制度によって程度を弱めることはできても、それらを完全になくすことは難しい。

そうであるなら、考えるべきことは、「どこに理想の国があるのか」ではないのかもしれない。むしろ、権力が集中しようとすることを前提として、それでも一つの権力が社会のすべてを覆ってしまわない仕組みを考えるべきなのではないか。権力を善いものに変えることより、権力を一つにしない。その発想から眺めると、思いがけないものが見えてきた。

江戸時代である。江戸幕府というと、長く私は強力な封建国家を思い浮かべていた。将軍を頂点とし、大名を統制し、参勤交代を課し、身分秩序を維持する。自由な社会とはずいぶん遠い世界である。

けれども、「強い社会・弱い国家」という角度から見直してみると、少し違った姿が見えてくる。もちろん、幕府が弱かったというのは、幕府に力がなかったという意味ではない。幕府は大名を統制し、必要なところでは強い力を行使した。しかし現代国家のように、一人ひとりの生活まで中央政府が直接管理していたわけではなかった。

幕府の下には藩があり、その下には村や町があった。そしてさらにその内側には、家族や親族、寺社、商人や職人の仲間など、いくつもの共同体が存在していた。国家と個人が直接向き合っていたのではない。その間に、たくさんの「膜」があったのである。

村はその典型だった。年貢を村全体で引き受け、その内部で負担を調整し、用水や山林を管理し、ときには争いまで自分たちで処理する。国家が一人ひとりを管理するのではなく、村を通して人々を治める。国家がやらない仕事を、社会の側が引き受けていたとも言える。

しかし、ここで江戸時代を美化してしまってはいけない。強い社会は、自由な社会とは限らないからである。村には相互扶助があった一方で、相互監視もあった。困っている隣人を助けなければならない社会では、隣人がきちんと働いているかを気にしなければならないこともある。共同体が人を守る力と、共同体が人を拘束する力とは、案外、同じところから生まれる。身分的な区別もあった。村の人々がみな平等だったわけでもない。家にも村にも、それぞれの規範があり、そこから外れることは容易ではなかっただろう。

Tamingという言葉を使えば、国家がTameしない部分を、家や村や町がTameしていたのである。そう考えると、江戸時代は「自由だった」という結論からは、むしろ遠ざかっていく。

ところが、そこで別のことに気づく。江戸社会では、Tamingそのものが一つではなかったのである。家には家の論理がある。村には村の論理がある。町には町の論理があり、藩には藩の事情がある。そして幕府にも幕府の論理がある。しかし、それらは完全には同じではない。家のTamingと村のTamingは同じではない。村のTamingと藩のTamingも同じではない。藩と幕府もまた、完全に同じ価値観によって動いていたわけではない。

ここに、とても大切なものがあるように思う。もし権力が複数存在し、それぞれが異なったことを人間に要求するなら、その要求と要求とのあいだには、必ず小さなずれが生まれる。人は家ではある顔をし、村では別の顔をすることができる。町へ出れば、また少し違った人間になることができる。ある共同体では変わり者だった人間が、別の場所ではそうではないこともある。

もちろん、それを近代的な意味での自由と呼ぶことはできない。けれども、一つの権力が、その人間の全人格を定義することもできない。

ここまで考えて、私の関心は「強い社会・弱い国家」という言葉から、少し離れていった。重要なのは、本当に国家が強いか弱いかということなのだろうか。むしろ重要なのは、Tamingが一つになっているかどうかなのではないだろうか。

江戸社会には多くの小さな権力があった。それらは時としてかなり窮屈だったに違いない。けれども、どの権力も世界のすべてではなかった。家にTameされても、家の外には村がある。村にTameされても、その外には町があり、藩がある。藩の向こうには幕府がある。そして幕府にも、日本中の人間の価値観を完全に同じものにする力はなかった。TamingとTamingとの境界に、わずかな隙間が残る。そこに、もしかするとUntamingの可能性があったのではないだろうか。

この視点から見ると、明治維新の意味も少し変わって見えてくる。近代化は、古い共同体から人間を解放していった。藩はなくなり、身分秩序も改められ、全国的な制度が作られていった。それは確かに、多くの意味で人間の自由を拡大した。けれども同時に、その近代化は、それまで各地に分散していた権力を国家へと集めていく過程でもあった。全国が同じ行政制度に入り、同じ学校制度のもとで学び、同じ国家の仕組みによって把握される。

古いTamingから解放された人間が、それによってUntamedになったとは限らないのである。むしろ、それまで別々に存在していたTamingが、少しずつ同期し始めたのではなかったか。そして、この「同期」という言葉を使った瞬間、江戸時代について考えていたはずの問題が、突然、現代の問題になる。

国家、学校、会社、メディア、金融制度、デジタル・プラットフォーム、そしてAI。それぞれが別の価値観を持ち、互いに食い違っているうちは、人間にはまだ移動する余地がある。一つの世界で否定されても、別の世界へ行くことができる。しかし、それらが同じ情報を共有し、同じ尺度で人間を評価し、同じ方向へ人を導くようになったらどうなるだろう。逃げる場所がなくなる。

怖いのは、一つ一つの権力が強くなること以上に、それらが互いに結びついてしまうことなのかもしれない。一つの権力から逃れても、その先にある別の権力が、まったく同じ判断を自分について下すのであれば、そこにはもう隙間がない。

そう考えると、自由についての見方も少し変わってくる。自由とは、誰からも何の制約も受けないことではないのかもしれない。人間は家族と生き、社会と生き、制度の中で生きる以上、まったくTameされずに生きることなど、おそらくできない。

大切なのは、一つのTamingが、自分の世界のすべてにならないことなのではないだろうか。

一つの共同体によって理解されなくても、別の共同体がある。一つの価値観から外れても、別の価値観の世界へ行ける。一つの秩序のなかでは奇妙な人間であっても、少し歩けば、その奇妙さを気にしない場所がある。そのような不均質さが残っている社会なら、人間は完全にはTameされない。

江戸社会に自由があった、と言いたいわけではない。むしろかなり不自由だっただろう。ただ、その不自由さが一つの原理によって統一されてはいなかった。小さな権力がたくさんあり、小さな世界が重なり合い、それぞれの世界が少しずつ違うことを人間に要求していた。その不整合、そのずれ、その不完全さが、結果として人間のなかに小さな空間を残していたのではないか。

だとすれば、「強い社会・弱い国家」という言葉のいちばん深い意味は、国家を弱くすることではないのだろう。権力を一つにしないこと。そしておそらく、これは国家だけの話でもない。

Tamingをなくすことはできないのかもしれない。けれども、Tamingが一つになることは防げるかもしれない。家も、社会も、国家も、企業も、AIも、それぞれが人間に何かを求めながら、それでも完全には同じものにならない。

そのあいだに残るわずかなずれ、どこにも完全には回収されない場所。自由というものがあるのなら、案外それは巨大な空間ではなく、権力と権力のあいだに残された、その小さな隙間なのかもしれない。

明治時代の社会にでは Taming は一つだけになっていった

それが、明治時代になると、まったく変わってしまった。もちろん、ある朝突然、江戸の社会が消えて近代国家が現れたわけではない。家も村も町も残ったし、人々の暮らしや習慣が一夜にして変わったわけでもない。それでも、大きな方向は変わった。

それまで日本には、たくさんの小さな世界があった。藩が違えば制度も違い、村が違えば慣習も違った。家には家の掟があり、町には町の秩序があった。それぞれの世界は人を拘束していたけれど、その拘束の仕方は同じではなかった。

明治国家は、この不揃いな日本を一つにしようとした。藩をなくし、全国を同じ行政制度のなかに置く。戸籍を整え、税制を変え、徴兵制度をつくり、学校制度を全国に広げていく。近代国家をつくるためには、おそらく避けることのできない道だったのだろう。

西洋列強が迫るなかで、一つの国家として生き延びるためには、人を集め、税を集め、兵士を集め、情報を集めなければならなかった。道路や鉄道をつくり、制度を統一し、日本のどこに住んでいても国家がその人間を把握できるようにしていかなければならなかった。それによって日本は、近代国家になった。

だがTamingという視点から眺めると、そこには別の出来事も起きていたように見える。Tamingが同期し始めたのである。

江戸時代にも、人はTameされていた。家によってTameされ、村によってTameされ、藩によってTameされていた。しかし、それぞれのTamingは同じ方向を向いてはいなかった。村の常識と町の常識は違い、ある藩の当たり前が別の藩でも当たり前であるとは限らなかった。だから、その不一致のなかに小さな隙間が生まれた。

明治国家は、その隙間を少しずつ埋めていった。学校で教えられることが全国で近づいてゆく。国家が国民を把握する仕組みも整えられる。徴兵によって、それまで村や家の一員であった人間が、国家の兵士となる。ここで起こったことを、「国家が強くなった」というだけでは十分ではないように思う。もっと重要だったのは、国家が人間へ直接届くようになったことではなかっただろうか。

江戸時代には、国家と個人とのあいだに何枚もの膜があった。藩があり、村があり、町があり、家があった。近代国家は、その膜を一枚ずつ薄くしていった。もっとも、それは単純に悪いことだったわけではない。地域共同体から自由になることのできる人も生まれただろう。生まれた村や身分に人生のすべてを決められていた人間にとって、古い共同体が弱くなることは解放でもあった。

ここに、近代化の大きな逆説がある。人は、小さなTamingから解放されることによって、大きなTamingのなかへ入っていった。村から自由になった。藩から自由になった。古い身分秩序からも自由になった。けれども、その先に待っていたのは、誰にもTameされない人間ではなかった。「国民」という、新しい人間だった。

江戸時代の百姓は、必ずしも自分を「日本国民」という一つの抽象的な存在として意識していたわけではない。まず家の人間であり、村の人間であり、ある土地の人間であった。その重なりの向こうに幕府があった。ところが近代国家は、一人ひとりに直接語りかけるようになる。あなたはこの国の国民である。この学校で学び、この制度に登録され、この国に税を納め、必要ならばこの国のために兵士になる。Tamingという観点から見るなら、これは決定的な変化だったと思う。

Tamingの強度だけが変わったのではない。Tamingの射程が変わったのである。家や村のTamingは強かった。しかし、その力には地理的な境界があった。村を出れば少し弱まり、町に入れば異なる規範に出会った。国家のTamingには、そのような境界がだんだんなくなっていく。東京へ行っても国家がある。大阪へ行っても国家がある。北海道へ行っても九州へ行っても、同じ国家が待っている。逃げるためには、単に隣の村へ行けばよいというものではなくなった。

そして、もう一つ大きな変化があった。国家だけが人をTameするようになったのではない。学校もTameする。軍隊もTameする。企業もTameする。新聞などのメディアも、人々が同じ出来事について考えるための共通の世界をつくっていく。ところが、それらのTamingが、江戸時代のように互いにばらばらなのではなく、次第に同じ方向を向くようになる。

ここに「同期」という問題が現れる。国家の求める人間と、学校が育てようとする人間と、軍隊が必要とする人間と、近代企業が必要とする人間とが接近していく。もちろん完全に一つになったわけではない。人間の社会がそこまできれいに整うことは、おそらくない。それでも、「同じ日本」という巨大な共通空間のなかで、人間を形成する力が互いに重なり始めたことは確かだろう。

そして私は、ここにTamingの新しい段階を見る。江戸時代のTamingは強かった。しかし、不揃いだった。明治以後のTamingは、必ずしも一つ一つが江戸時代以上に強かったとは限らない。だが、それらは次第に接続され、同期され、全国へ広がっていった。この違いは大きい。

一つの強い権力なら、それから逃げることができるかもしれない。しかし、逃げた先にある別の制度も、その次に出会う制度も、同じ価値観を自分に要求してくるようになったとき、逃走という行為そのものの意味が変わってしまう。その意味では、近代化とは、単に国家が社会を支配していった歴史ではなかったのかもしれない。TamingとTamingのあいだにあった隙間が、少しずつ閉じていった歴史だったのではないか。

ただし、ここでも私は、明治を悪者にして話を終わらせたくない。あの時代の日本には、そうしなければならない事情があった。国家を一つにしなければ植民地化されるかもしれない。近代的な軍隊を持たなければ国を守れない。全国的な教育制度なしには、新しい科学や技術を社会に広げることも難しい。

つまり近代国家のTamingは、単なる支配欲から生まれたものではなかった。生き延びるためのTamingでもあった。ここには、かつて狼や牛について考えたときと、どこか似た問題がある。生き延びるためにTameされる。その結果として繁栄する。では、それを成功と呼んでよいのだろうか。

おそらく明治の日本も、この問いから完全には逃れられない。Tameされることによって、日本は近代国家として生き延びた。そして強くなった。けれども強くなる過程で、それまで社会のあちこちに残っていた不揃いなもの、曖昧なもの、どこにも完全には属さないものを、少しずつ失っていった。それでも、人間は完全には揃わなかった。

国家がどれほど強くなっても、学校が同じことを教えても、一人ひとりの人間のなかには、どうしても揃わない何かが残った。「本当にそうなのだろうか」という、小さな疑問である。おそらくUntamingとは、大きな革命として突然現れるものではないのだろう。Tamingが世界を覆い尽くそうとするとき、その端に残っている小さな違和感なのかもしれない。そう考えると、江戸から明治へ移ったときに失われたものは、単なる地方自治でも、共同体でもなかったように思えてくる。

失われていったのは、一つの世界から少し外へ出れば、別の世界があったということだった。そして近代になってからの私たちは、自由を拡大しながら、同時にその「別の世界」を少しずつ失ってきたのかもしれない。

Tamingのない世界を求める必要はない。そんな世界は、おそらく存在しない。むしろ残しておかなければならないのは、TamingとTamingが完全には重ならないことなのだと思う。

一つの正しさの外に、もう一つの正しさがあること。一つの社会から少し離れれば、別の社会があること。そして何より、自分のなかにも、どの世界にも完全にはTameされない小さな場所が残っていること。

江戸社会にあったあの不揃いさを、そのまま取り戻すことはできない。取り戻す必要もないだろう。けれども、権力が一つにならないこと、Tamingが完全に同期しないこと、そして人間のなかに「なぜ?」という小さな隙間を残しておくこと。それだけは、近代を越えた先の社会でも、手放してはいけないものなのかもしれない。

運がよかったのだ

私は日本の戦後という時代に生まれた。軍に召集されることもなく、見知らぬ土地へ送られ、会ったこともない人間を敵と教えられ、その人間を殺さなければ自分が殺されるという場所に放り込まれることもなかった。学校へ行き、自分のする仕事を選び、外国へ出て、いくつもの国で暮らし、異なる言葉を話す人々と付き合いながら、かなり自由に生きてくることができた。

長いあいだ、それを特別なことだとは思っていなかった。けれども、人生のずいぶん先まで来て人間の歴史を振り返ってみると、それは決して当然のことではなかったのではないかと思うようになった。人類そのものが、氷期と氷期のあいだの比較的穏やかな気候のなかで文明を築いてきた。その長い時間のほんの一部分に私の人生があり、しかも私はそのなかでも、大きな戦争によって日常を断ち切られることのなかった場所と時代に生まれた。

人間の時間をもっと遠くまで遡ってみると、このことはいっそう不思議に見えてくる。人類は、その歴史の圧倒的に長い部分を、国家を持たない狩猟採集民として生きてきた。そこには、後の国家どうしが行うような組織化された大規模戦争がどの程度存在したのかをめぐって、今も議論がある。近年の研究には、移動しながら暮らしていた狩猟採集民のあいだでは戦争はむしろ例外的で、定住化や社会の複雑化とともに戦争を可能にする条件が整っていったとするものもある。

しかし、だからといって国家のなかった世界が穏やかで安全だったということにはならない。考古学が見つける人骨には暴力の痕跡があり、個人どうしの殺傷もあった。遠い先史時代になればなるほど証拠そのものが不完全になるため、その頻度について簡単なことは言えないけれども、少なくとも国家が存在しなかったことを、そのまま平和だったことと同じにすることはできない。

やがて人間は土地にとどまり、作物を育て、余剰を蓄え、村を作り、町を作り、国家を作った。定住化によって守るべき土地や蓄えが生まれ、社会が複雑になっていくことが、戦争を可能にする重要な条件になったとする研究もある。 国家というものが大きくなれば、暴力そのものも組織化できるようになる。個人が個人を殺すのとは違って、何千人、何万人という見知らぬ人間を集め、その人々に武器を持たせ、会ったこともない別の人々を殺すために遠い土地まで送り出すことができる。

国家は人間を暴力から守るものでもあったけれど、同時に、人間の暴力を途方もない規模に組織するものにもなった。

人が人を殺すこと自体は古い。しかし、徴兵され、制服を着せられ、国家から敵を与えられ、その敵を殺すことを義務として引き受けるという経験は、人間が作り上げた社会の仕組みと深く結びついている。

そう考えると、人間の歴史とは、単純に暴力から平和へ向かってきた一本の道ではなかったのだろう。国家のなかった世界にも暴力があり、国家が成立すると、国家はその暴力を抑える一方で、それまでとは比較にならない規模で組織する力を手に入れた。さらに近代国家は徴兵制度と産業と官僚制を組み合わせ、ついには社会全体を戦争へ動員できるところまで来た。

その長い歴史のずっとあとに、私は生まれた。国家は存在していた。軍隊も存在していた。戦争をする能力も、それ以前とは比較にならないほど大きくなっていた。それなのに、私はその国家から「戦場へ行け」と命じられることなく一生を送りつつある。

そう思うと、自分が生まれた場所と時間が、少し違ったものに見えてくる。それはどのくらいの確率だったのだろう、と考えたこともある。しかし、考えてみれば、そんなものを確率にすることにはあまり意味がないのかもしれない。何を分母にするかも、何を幸運と呼ぶかも決めることができない。歴史上の人間一人ひとりを同じ一票として数えるのか、人類が存在した年月を数えるのかによっても、まったく違う数字になる。

数字にはできない。それでも、自分はずいぶん運のよいところへ生まれ落ちたのではないかという感覚だけが、歳を重ねるにつれて少しずつ強くなってきた。

もちろん、私が生きてきた時代に戦争がなかったわけではない。世界のどこかでは絶えず人が殺され、町が壊され、故郷を追われてきた。だから1945年以後を、人類に平和が訪れた時代と簡単に呼ぶことにはためらいがある。それでも、かつて世界を何度も破壊したような、大国同士が持てる力のすべてを投入して戦う世界戦争が長いあいだ起こらなかったこともまた事実である。

この奇妙な長い時間を、Long Peaceと呼ぶ。なぜLong Peaceは続いたのだろう。人間が賢くなったからではないように思う。1945年を境に人間が善良になったわけでも、国家から領土欲や権力欲が消えたわけでも、ナショナリズムがなくなったわけでもない。変わったのは人間そのものというより、戦争を取り巻く条件だったのではないだろうか。

かつて戦争には、残酷ではあっても一種の採算があった。勝てば土地を奪い、資源や港を手に入れ、人々を支配下に置くことができた。しかし富のありかは次第に変わっていった。知識や技術、人間の能力、企業や金融、国境を越えてつながった複雑な生産の仕組みは、軍隊を送り込んで土地を占領したからといって、そのまま手に入れられるものではない。

そして核兵器が現れた。相手を徹底的に破壊することができても、そのあとで自分も破壊されているとしたら、それを勝利と呼ぶことにどれほどの意味があるのだろう。人間は敵を滅ぼすほどの力を手に入れたことによって、皮肉にも、その力を最後まで使うことができなくなった。

さらにその周囲には、国際法や国際機関、同盟、外交、貿易、経済的な相互依存といったさまざまな仕組みが作られていった。それらは戦争そのものを不可能にしたわけではない。ただ、戦争を始めることの代価を重くし、続けることの代価をさらに重くしていった。

以前から考えてきたTamingという言葉をここへ持ってくるなら、戦後の国際秩序というものは、国家から牙を抜く試みではなく、牙は残したまま、それを使わない方がよい世界を作ろうとする試みだったのかもしれない。

それはTaming 2.0と呼んできたものにもよく似ている。力ずくで従わせるのではなく、ある行動を取れば損をし、別の行動を取れば得をするように周囲の条件を整える。すると人は、自分で選んでいるつもりで、ある方向へ歩いていく。国家もまた戦争ができなくなったのではなく、しない方が割に合うようになったのである。

そう考えるとLong Peaceとは、人類が平和を愛するようになった時代というより、国家が自分の力を最後まで使わないように、幾重にもTameされていた時代だったのかもしれない。

ところが今、その周囲にあったいくつかの柵が軋み始めているように見える。国際的な仕組みへの信頼が薄れ、国々を結びつけていた経済的な相互依存も、互いに圧力をかける手段として使われるようになり、国家はもう一度、自分自身の力を確かめようとしているようにも感じられる。

それなら、Long Peaceは終わるのだろうか。そう考えてみると、外側の柵が壊れていったとしても、最後に一つだけ、まだ残っているものがあることに気づく。それは柵というより、崖に近い。

核を持つ大国が自分の力を最後まで使えば、相手もまた最後まで力を使うことができる。それならば、「力を使うことができる」という能力そのものが、「力を使うことができない」という拘束になる。国家を最後に思いとどまらせているものが善意でも道徳でもなく、自分自身も滅びるかもしれないという恐怖なのだとすれば、Long Peaceには最初から奇妙な影が差していたことになる。

そして、その影の方が長く伸びていった先に、Long Fearとでも呼びたくなる世界がある。平和だから戦争をしないのではない。怖すぎるから最後までは戦えない。局地的な戦争は起こり、軍備は増え、国家は互いを監視し、経済も情報も技術も安全保障という言葉で語られるようになる。それでも最後の一線だけは越えない。

外から見れば、Long PeaceとLong Fearはよく似ているのかもしれない。どちらにも世界大戦はない。しかし、そのなかで暮らす人間が見ている風景は、まるで違ったものになる。

Long Peaceのなかでは、明日も今日の続きだろうと思うことができた。Long Fearのなかでは、同じように朝が来て、店が開き、列車が走り、人々が働いていても、その日常のずっと深いところを、破局の可能性が流れ続ける。

そしておそらくLong Fearの本当の怖さは、恐怖そのものにあるのではない。人間は恐怖にも慣れるからである。初めのうちは、敵が怖いから武装していることを知っている。相手が信用できないから監視していることも知っている。けれども、それが長く続けば、武装していることにも、相手を疑うことにも、監視し監視されることにも、やがて違和感を覚えなくなるかもしれない。そしていつか、「世界とはもともとこういうところなのだ」と思うようになる。

そこまで来ると、Tamingは外側から人間を動かしているだけではなくなる。Taming 3.0と呼んできたものは、たぶんそのあたりから始まる。恐怖によって行動を変えられているのではなく、恐怖によって作られた世界観そのものを、自分自身の世界観だと思うようになるのである。

だとすれば、Long Fearから抜け出すために必要なのは、すべての兵器をなくすことでも、すべての国家がお互いを信頼することでもないのかもしれない。むしろ、「なぜ自分たちはこれほど相手を恐れているのだろう」「なぜ自分たちの軍備は防衛で、相手の軍備だけが脅威なのだろう」「相手の側から見れば、自分たちもまた恐ろしい存在なのではないだろうか」と、時折立ち止まって考えることなのではないかと思う。

そして、なぜこれを平和と呼んでいるのだろう、と。その「なぜ?」が残っているうちは、まだ何かが完全には閉じていない。

恐怖をなくすことはできなくても、恐怖を恐怖として見ることはできる。相手を完全には信用できなくても、話すことはできる。軍隊が残っていても、それを使わずにいることはできる。国境があっても越えることはできるし、自分の国を大切にしながら、自分の国だけが世界ではないと考えることもできる。

そのくらいの、不完全な平和でよいのかもしれない。むしろ完全な安全というものの方が、私は少し怖い。完全に安全な社会を本気で作ろうとすれば、危険なものをすべて見つけ、すべてを監視し、すべてを管理し、あらゆる不確実性を取り除かなければならなくなる。そうなればいつか、安全を守るために作られた仕組みそのものによって、人間の自由がTameされていくことにもなりかねない。

少しくらい不完全でいいのではないだろうか。相手のことを完全には分からないまま、それでも話している。少しくらい疑いながら、それでも殺さない。国境のこちらと向こうに別々の国があり、別々の歴史があり、互いに気に入らないこともあるけれど、それでも国境を越えて人が行き来し、一緒に食事をし、しばらくするとまた自分の国へ帰っていく。

平和というものは、本当はその程度のものなのかもしれない。そんなことを考えていると、国家や核兵器や世界秩序というずいぶん大きなところまで広がっていたはずの話が、いつの間にか自分自身の人生へ戻ってくる。

私は戦後の日本に生まれ、兵隊に取られることも、人を殺せと命じられることも、自分が殺される前に相手を殺さなければならない場所へ送られることもなかった。学校へ行き、自分の仕事を選び、外国へ行き、違う言葉を話す人々と知り合い、いくつもの土地に暮らし、何年も先のことまであれこれ心配しながら生きてくることができた。

その一つ一つを、私はずっと普通の人生の出来事だと思っていた。けれども、普通だったのではないのかもしれない。

考えてみれば、老後を心配できることさえ不思議なことである。二十年後にも社会があり、自分もそのどこかで暮らし、おそらく同じような貨幣を使っているだろうという漠然とした信頼があるからこそ、二十年後のお金の心配ができる。来年の旅行について考えるのも同じで、来年も飛行機が飛び、国境を越えることができ、遠い国で知らない人間と同じテーブルを囲めるだろうということを、どこかで信じている。

そんな無数の小さな前提の上で、私たちは暮らしてきた。私はそれを自由だと思っていた。もちろん自由だったのだと思う。しかし、その自由を可能にしていたものの一つは、もっと目立たない、もっと大きなものだった。明日になっても、世界はだいたい今日と同じ形をしているだろうという信頼である。

Long Peaceはあまりにも長く続いたので、私にとって空気のようなものになっていたのかもしれない。平和のなかにいながら、平和そのものについて考えることはほとんどなかった。朝になれば町は目を覚まし、人は仕事へ向かい、列車は走り、飛行機は国境を越え、遠い国でも人々がそれぞれの夕食を食べている。来年の予定を立て、十年後を心配し、会いたい人には、またいつか会えるだろうと思う。けれども空気というものは、少し変わり始めて初めて、その存在に気づくものなのかもしれない。

振り返ってみれば、人間の長い歴史の流れのなかに、たまたまいくらか穏やかな水面があり、私はその上を生きてきただけなのかもしれない。その水面の下には核兵器があり、恐怖があり、互いを消滅させることのできる国家が向き合っていた。それでも不思議な均衡はどうにか崩れず、私はその上で、世界とは案外安定したところなのだと思いながら歳を重ねることができた。

この先、その水面がどうなるのかは分からない。Long Peaceがもうしばらく続くのかもしれないし、いつの間にかLong Fearと呼ぶ方がふさわしい時代へ移っていくのかもしれない。そのLong Fearさえいつか破れてしまうのかもしれないし、あるいは人間が、恐怖によって相手を押しとどめるのとは少し違う、別の平和の形を見つけるのかもしれない。それは私には分からない。

ただ、自分がどんな時間を生きてきたのかについては、以前より少しだけ分かるようになった気がする。平和な時代に生まれたことは、私が選んだことではない。戦争へ行かなかったことも私の手柄ではなく、国境を越えていろいろな国を歩くことができたのも、私だけの自由の力ではなかった。そのように生きることのできる時代のなかへ、私は偶然、生まれてきただけなのである。

もしこのまま世界が最後の一線を越えることなく、私もLong Peaceのなかで一生を終えることができるのなら、それについて何か立派な意味を見つける必要はないように思う。

私が正しかったからでもなく、賢かったからでもなく、何か特別なことを成し遂げたからでもない。ただ、運がよかったのである。

そして不思議なことに、その幸運は、それを生きているあいだにはほとんど見えなかった。学校へ行き、仕事をし、愛する人と知り合い、遠い国へ行き、また帰ってくる。明日のことを考え、来年のことを考え、ときにはずっと先のことまで心配する。会いたい人には、またいつか会えるだろうと思う。行きたいところには、またいつか行けるだろうと思う。そんなことのできる世界だった。

人生のずいぶん先まで来て振り返ってみれば、私の幸運というものは、何か大きなものを手に入れたことのなかにあったのではなく、もしかすると、そんな何でもない日々を何でもないものと思いながら生きることができた、そのことのなかにあったのかもしれない。そして、もし最後までそうであるのなら。

私はLong Peaceという、人間の歴史のなかの不思議な凪の時間に生まれ、その凪のなかで一生を送ることができた。それは、とても運のよいことだったのだと思う。

減るということ

人間が数を減らしていくことについて書くと、そこにはどうしても暗い響きがつきまとう。人口減少、少子化、衰退、消滅。私たちはいつの間にか、人間が増えることを繁栄と呼び、減ることを衰退と呼ぶことに慣れてしまった。

けれども、それは本当にそうなのだろうか。

人間が数を増やしてきた長い歴史を考えれば、その理由は比較的分かりやすい。自然は危険であり、食料は不安定であり、病気になれば死に、子どもの多くが大人になる前に命を落とした。農作業にも戦争にも家族を支えるにも、多くの人間が必要だった。生き延びるためには人間が人間を必要とし、そのためには次の世代をたくさんつくらなければならなかった。

人間が増えることには、理由があったのである。

しかし、人間はその理由を一つずつTameしてきた。

食料を安定させ、病気を治し、機械に労働をさせ、国家に治安を守らせ、制度に老後を支えさせるようになった。家族だけに頼らなくても生きられる社会をつくり、一人でも生活できる都市をつくり、人間の記憶を文字やコンピューターへ移した。そして今、知識や判断や対話の一部までAIという抽象的な存在へ預けようとしている。

そう考えると、人間が少なくなっていくことは、Tamingの失敗というよりも、むしろその成功が生み出した帰結なのかもしれない。

私たちは、生き延びるために子どもをたくさん必要とする世界から離れようとしてきた。家族がいなければ老人が生きられない世界を変えようとしてきた。大勢の人間が働かなければ食料を生産できない世界を変えてきた。一人になることがただちに生存の危機を意味する世界からも離れてきた。

それなのに、その目的が実現したあとも、なお人間だけは増え続けなければならないと考えるとしたら、そのほうが不思議ではないだろうか。

人口が増えることを無条件に善と考える感覚そのものが、ある時代の生存条件から生まれた価値観だったのかもしれない。

もちろん、人間が減る過程には痛みがある。制度は人口増加を前提につくられていることが多く、地域が維持できなくなったり、社会保障の負担が偏ったり、親しい風景や文化が失われたりすることもあるだろう。「人類にとって悪くない」ということと、「そこに生きる一人ひとりに苦痛がない」ということは同じではない。

それでも、減ること自体を悪と呼ぶ必要はないと思う。

森の木々が無限に増え続けないからといって、森が失敗したとは言わない。動物の個体数が永遠に増加しないからといって、その種がただちに不幸になったとも言えない。増加には増加できる条件があり、その条件が変われば、数も変わる。それだけのことなのかもしれない。

人間だけが、永遠に増え続けなければならない理由はない。

むしろTamingという長い歴史を振り返れば、少し違った景色が見えてくる。危険に満ちた世界では、多くの人間が必要だった。隙間だらけの世界では、その隙間を人間が埋めなければならなかった。だから人間は増えた。しかし人間自身が、その隙間を一つひとつ埋めてきたのである。

そしてAIに象徴される抽象的なものとの相互Tamingがさらに進めば、最後まで人間が埋めていた隙間さえ、人間だけのものではなくなっていく。

だとすれば、人間が数を減らしていくことは、文明が壊れたために起こるのではなく、文明がある意味であまりにうまく機能したために起こるのかもしれない。

人間は増えるためにTamingを始めたわけではなかった。

生きるために始めたのである。

そしてTamingによって、一人の人間が以前より安全に、長く、少ない他者への依存でも生きられる世界をつくったのなら、人間の数が減っていくことは、それほど不可解な出来事ではない。

増える必要がなくなったから、増えなくなる。

そこに善悪を貼り付ける必要も、本当はないのかもしれない。

人間が一億人であることと百億人であることのどちらが「正しい」のかを、宇宙は決めていない。人間の数が増えることに自然界から賞が与えられるわけでもなく、減ることに罰が与えられるわけでもない。

私たち自身が、増加を繁栄と呼び、減少を衰退と呼んできただけなのである。

Tamingの長い歴史の果てに、人間が静かに数を減らしていくのだとすれば、それをただ悲劇として眺める必要はない。

それは、自分たちが世界との関係を変えてきた結果として、人間自身のあり方まで変わっていく、一つの自然な帰結なのかもしれない。

そして、もし人間がこれから少なくなっていくのなら、本当に問うべきことは、「どうすればもう一度増やせるのか」だけではないのだと思う。

少なくなった人間が、どのように生きるのか。

少ないことを恐れず、増えることを義務ともせず、それでも一人ひとりの人間のあいだに、AIや制度では埋めなくてもよい隙間を残しておくことができるのか。

Tamingによって人間の数が減るのだとすれば、Tamingの最後の仕事は、人間をもう一度増やすことではないのかもしれない。

少なくなっても、人間らしく生きられる世界をつくることなのかもしれない。

Tamingの果て

人間は長いあいだ、自分のまわりにあるものをTameしてきた。火をTameし、植物をTameし、動物をTameし、水をTameし、土地をTameした。それは初め、生き延びるためだったのだろう。火を扱えるようになれば寒さや暗闇から身を守ることができ、植物を栽培すれば食料を探して歩き続けなくてもよくなり、動物を飼えば肉や乳や労働力を人間の暮らす場所の近くに置くことができる。人間は、自分を自然に合わせるだけでなく、自然の一部を自分の側へ引き寄せることによって、生存できる世界を少しずつ広げていった。

だからTamingの歴史は、初めのうちは人間を増やす歴史でもあった。危険な自然のなかでわずかな集団として生きていた人間は、食料を安定させ、住む場所を守り、病気や飢えや暴力から少しずつ身を守れるようになるにつれて、その数を増やしていった。人間が世界をTameすればするほど、より多くの人間が生きられるようになったのである。

ところが、Tamingが進むにつれて、その対象は自然だけではなくなっていった。土地や植物や動物をTameしていた人間は、やがて人間自身をTameするようになった。集落が都市になり、都市が国家になり、法律が生まれ、学校がつくられ、組織が人々を役割のなかへ配置するようになる。人間は登録され、教育され、資格を与えられ、働き、税を払い、規則を守るようになった。しかも、そのようなTamingは単なる抑圧ではなかった。制度のなかに入ることで、人間は安全を得、財産を守られ、病気になれば医療を受け、働けなくなれば社会からある程度支えてもらうことができるようになった。人間はTameされることそのものを望んだのではなく、Tameされることによって得られる安全や安定や予測可能性を望んだのだろう。

そして、そのTamingは次第に人間の目には見えないものへ移っていった。国家、法律、貨幣、市場、企業、宗教、思想。どれも森や牛や麦のように手で触れることのできる存在ではない。それでも人間は、自分たちがつくったこれらの抽象的なものによって自らの生き方を決めるようになった。貨幣がなければ食物を手に入れられない社会をつくり、法律によって自分たちの行動を制限し、国家という目に見えない共同体のために税を払い、ときには生命まで差し出した。人間は自然をTameする過程で、いつの間にか、自分たちがつくった抽象物によってTameされる存在にもなっていた。

その長い流れの先にAIが現れた、と考えてみることができる。

AIだけが突然、異質なものとして人間社会へ飛び込んできたわけではない。それ以前から人間は、自分たちの記憶を文字へ移し、判断を法律や制度へ移し、価値を貨幣へ移し、知識を学校や図書館やコンピューターへ移してきた。AIもまた、人間が自分の外側につくった抽象的な存在の延長にある。ただ、AIには、それまでの抽象物にはあまりなかった性質がある。こちらが問いかけると、こちらへ問い返し、ときには人間の考え方そのものに働きかけてくることである。

そこで奇妙なことが起こる。人間はAIを人間社会で役立つものにしようとしてTameする。人間の言葉を教え、人間の価値観を教え、望ましい答えと望ましくない答えを教える。ところが、そうしてTameされたAIを毎日使うようになれば、今度は人間のほうも変わっていく。文章の書き方をAIから学び、物事の整理の仕方をAIから学び、知らないことがあればAIに尋ね、迷えば選択肢を出してもらう。人間がAIを変え、そのAIによって人間が変わり、変わった人間が再びAIを変えていく。

そこでは、TamerとTamedを簡単に分けることができない。人間がTamerでAIがTamedであると同時に、AIがTamerで人間がTamedでもある。Tamingは一方向ではなく、相互Tamingになっていく。

そして、この相互Tamingの先に何があるのかを考えていると、私は人口という、いささか意外な問題に行き着く。

人間は長いあいだ、世界の隙間を埋めてきたのではなかったか。飢えという隙間を農業で埋め、寒さという隙間を家と暖房で埋め、病気という隙間を医学で埋め、遠さという隙間を交通で埋め、孤立という隙間を通信で埋めてきた。知らないことがあれば本をつくり、検索機関をつくり、インターネットをつくった。そして今では、分からないことを問いかければ答えてくれるAIまでつくった。

一つひとつは、人間にとって望ましいことだった。

私たちは不便を減らしたかった。危険を減らしたかった。失敗を減らしたかった。苦痛を減らしたかった。予測できないものを予測できるようにしたかった。そのために制度をつくり、科学を発達させ、機械をつくり、より精密なTamingを続けてきた。

けれども、隙間というものには、もう一つの働きがあったのかもしれない。

人間が必要になる場所だったのである。

かつて人が病気になれば、家族が看病した。年老いれば子どもたちが世話をした。農作業にも多くの人手が必要だった。知識は教師から生徒へ、人から人へ受け渡さなければならなかった。危険な世界では大きな家族や共同体そのものが一種の保障でもあった。人間社会に残されていた無数の隙間を、別の人間が埋めていたのである。

ところがTamingが成功するにつれて、その隙間は少しずつ制度へ、機械へ、専門家へ、ネットワークへ移されていった。そしてAIは、これまで最後まで人間の領域だと思われていた隙間にまで入り始めた。知識を与えること、文章を書くこと、相談に乗ること、判断を助けることまで、人間だけが担わなくてもよくなりつつある。

ここでTamingの歴史に、不思議な反転が起きる。

最初のTamingは、より多くの人間が生きられる世界をつくった。しかしTamingが十分に進んだ世界は、今度は、より少ない人間でも維持できる世界をつくり始める。

これはAIが人間を追い出すという話ではない。人間を減らそうと企んでいる主体がどこかにいるわけでもない。むしろその反対である。人間は一貫して、自分たちの生活をよくしようとしてきた。一つひとつの危険をなくし、一つひとつの不便をなくし、一つひとつの隙間を埋めてきた。その一つひとつは合理的であり、善意から生まれたものさえ多かった。

ところが、それらをすべて合わせて遠くから眺めてみると、思いがけない景色が現れる。

人間が人間を必要とする理由そのものが、少しずつ減っているのである。

子どもを多く持たなければ老後を生きられないわけではない。多くの人手がなければ食料を生産できないわけでもない。知識を残すために多数の弟子を育てなければならないわけでもない。人から人へ渡していた役割を、制度や機械や抽象的な仕組みへ少しずつ渡すことによって、一人の人間が生きていくために必要とする他の人間の数は、かつてより少なくてもよい世界ができていく。

だからといって、今日の少子化や人口減少をTamingだけで説明することはできない。人口動態は経済や家族観、教育、住宅、労働、制度その他さまざまな要因によって動く。この話は人口学の因果関係についての説明というより、Tamingという長い物語の先を考えたときに見えてくる、一つの文明論的な仮説にすぎない。

それでも、この仮説にはどこか皮肉なところがある。

人間は、生き延びるために世界をTameし始めた。より多くの人間が生きられるように自然をTameした。そしてTamingが成功するにつれて、その対象は自然から人間へ、人間から制度へ、制度から情報へと移り、ついには人間とAIの相互Tamingにたどり着いた。そのあいだ人間は、世界に残っていた隙間を一つずつ埋めてきた。

そして、隙間がなくなっていくにつれて、人間もまた、多数である必要を失っていく。

もしそうなのだとすれば、Tamingの果てに人間を待っているのは、人間に敵対するAIでも、恐ろしい独裁者でもないのかもしれない。

人間があまりに上手にTameすることに成功した世界、そのものなのだろう。

そこでは誰も「人間を減らせ」と命令しない。AIが人間を排除する必要もない。国家が人口を統制する必要もない。人間はむしろ以前より安全で、以前より長く生き、以前より一人でも生きられるようになる。その結果として、人間は静かに数を減らしていく。

かつて、より多くの人間が生きられるようにするために始まったTamingが、長い時間を経て、より少ない人間でも生きていける世界をつくる。

それがTamingの失敗なのか成功なのか、私には分からない。

そして、おそらく分からないままでいいのだと思う。

ただ一つ気になることがある。

人間はこれまで、隙間を見つけるたびに、それを欠陥だと思って埋めてきた。しかし、人間というものが本来、そうした隙間のなかに生きてきた存在なのだとすれば、本当に最後の隙間まで埋めてしまってよいのだろうか。

AIに答えられない問いが残っていること。国家にも管理できない場所があること。人間にも説明できない人間がいること。役に立たないものが残ること。合理的でないものが消えないこと。誰にも予測できない人間が、ときどき現れること。

そうしたものまでTameしてしまわず、ほんの少しだけ残しておく。

Tamingについて長く考えてきた最後に残るのは、結局、Tamingを完成させる方法ではなく、Tamingが最後まで完成しないための隙間を、どう残すかという問いなのかもしれない。

AIとの相互Tamingが終わらないために

人間は長いあいだ、自分の周りにあるものをTameしてきた。火をTameし、植物をTameし、動物をTameし、水をTameし、土地をTameした。そして国家をつくり、法律をつくり、学校をつくり、組織をつくるようになると、今度は人間が人間をTameする巨大な仕組みまでつくり上げた。けれども、これまで人間がTameしてきたものの多くは、人間に向かって言葉を返してくることはなかった。麦は人間を説得しないし、牛は人間に人生相談の答えを返さない。国家や宗教は言葉を使うけれども、それも結局は人間が人間に語りかけてきたものだった。

AIは少し違う。人間はAIを、人間の社会のなかで一緒に暮らせるものにしようとしている。膨大な人間の言葉を学ばせ、どのような回答が望ましいかを教え、危険なことを言わないようにし、できるだけ役に立ち、できるだけ正確で、できるだけ人間にとって扱いやすいものにしようとしてきた。人間からのフィードバックを使ってAIの振る舞いを人間の意図や選好に近づけるRLHFなどは、そのことをよく表している。しかも、人間からのフィードバックそのものに偏りや不一致が含まれ得ることも研究されている。つまり、人間は単にAIに知識を与えているだけではなく、人間自身が持っている好ましさや偏りまで含めてAIを形づくっている。

これをTamingと呼ぶことは、それほど不自然ではないだろう。ところがAIの場合、ここで話は終わらない。人間によってTameされたAIが、今度は人間に言葉を返してくるからである。

私たちはAIに文章を書かせ、知らないことを尋ね、旅行の日程を考えさせ、健康について質問し、経済や政治について説明してもらい、ときには人生についてまで相談する。AIは答えるだけではなく、問題を整理し、選択肢を並べ、「このように考えることもできます」と、人間の思考に道筋をつけてくれる。

一つひとつを見れば、それは便利な道具にすぎない。しかし、それが毎日繰り返されるようになると、少し違ったことが起きるのではないだろうか。

AIは人間の問いに答えるだけではなく、人間が次に何を問うかにも影響するようになる。ここから逆方向のTamingが始まる。

AIが人間をTameするために、人間へ命令する必要はない。「こうしなさい」「これはしてはいけません」と言われれば、人間はかえって警戒するだろう。国家によるTamingについて考えたときにもそうだったが、強力なTamingほどTamingらしい姿をしていない。人間に命令するのではなく、それを「自然なこと」にしてしまう。

AIなら、おそらくもっと穏やかである。「一般的にはこう考えられています」「このように整理すると分かりやすいでしょう」「主な選択肢は三つあります」そう言われて示された世界は、きれいに整理されている。しかも、その説明が百回のうち何度も正しかったとすれば、人間は次第に、その整った世界の外側を探そうとしなくなるかもしれない。

間違えるAIに対しては、人間は警戒できる。むしろ難しいのは、ほとんどいつも役に立つAIなのだと思う。

以前、私はCopilotをかなり高い確率で信じるようになってしまった、と書いたことがある。疑う場所がとても狭くなっているように感じ、それでも「なぜ?」だけは手放したくない、と。考えてみれば、これはAIによるTamingのかなり本質的なところに触れていたのかもしれない。

Tamingとは、必ずしも自由を暴力的に奪われることではない。むしろ、そこにいるほうが便利で、安全で、快適だから、自分からそこに居続けるようになることなのかもしれない。以前、人間はTameされたがっているのではなく、Tameされることで得られる安全や所属や予測可能性を欲しがっているのではないか、と考えたことがある。AIについても同じなのだろう。人間はAIに支配されたくてAIを使うのではない。便利だから使う。よく知っているから尋ねる。文章をきれいにしてくれるから頼む。やがて、その便利さなしで考えることが面倒になる。

しかし、ここにはさらに奇妙なことが起きる。AIをTameしているのも人間だからである。

人間社会がAIに価値判断を教える。人間がAIの回答を評価する。それを学習したAIが、人間に回答する。その回答によって人間の言葉や考え方が少し変わる。そして変わった人間が、次にまたAIを評価し、利用し、新しい文章や情報を生み出す。

人間がAIを変え、そのAIが人間を変え、変わった人間がまたAIを変える。

人間からAIへ、AIから人間へという一方向の矢印ではなく、Human ⇄ AIという循環である。

これは単なる想像でもない。Nature Human Behaviourの研究では、人間とAIのフィードバック・ループのなかで、AIが人間側にあった微妙なバイアスを増幅し、それを人間がさらに内面化していく現象が実験的に観察されている。もちろん一つの研究から人類全体の未来を語ることはできないが、「人間がAIを変え、AIがまた人間を変える」という循環そのものは、少なくとも研究対象になり始めている。

ここまで来ると、いったい誰が誰をTameしているのか分からなくなってくる。

犬の場合なら、人間が犬をTameしたと言えるだろう。しかしAIについて、人間だけがTamerでAIだけがTamedだと言うことは難しい。同時に、AIが一方的に人間をTameしているとも言えない。

互いがTamerであり、互いがTamedなのである。これを相互Tamingと呼んでもいいだろう。

そう考えると、AIについての問いも少し変わってくる。「AIは人間を支配するだろうか」「人間はAIを制御できるだろうか」という問いだけでは十分ではなくなる。支配する側と支配される側を分けること自体が難しくなるからである。

むしろ私は、別のことが気になってくる。相互Tamingが完了してしまったらどうなるのだろう。

人間はAIの考え方に十分に慣れ、AIは人間の欲求を十分に理解する。人間が何を尋ねるかをAIが予測し、AIが何を答えるかを人間もおおよそ予測する。人間はAIにとって扱いやすい存在になり、AIも人間にとって扱いやすい存在になる。

摩擦がなくなる。おそらく非常に便利な世界である。しかし、摩擦がなくなった世界には、少し怖いところもある。

そこではAIが間違っていなくてもいい。人間も抑圧されていなくていい。誰も命令していなくていい。ただ、人間が問いかければ、いつももっともらしい答えが返り、その答えを出発点として次の問いを考え、また答えが返ってくる。その循環があまりにも滑らかになれば、あるとき「なぜ?」が必要なくなるかもしれない。

そして恐らく、相互Tamingが完成する瞬間とは、人間がAIに完全服従する瞬間ではない。人間もAIも、相手から予想外のものを受け取らなくなった瞬間なのではないか。だとすれば、必要なのはAIから逃げることではないと思う。

AIを使わないことをUntamingと呼ぶ必要もない。自動車にTameされたくないから自動車を捨てる必要がないように、AIにTameされたくないからAIを捨てる必要もない。AIに尋ね、助けてもらい、ときには信頼してもいい。

ただ、答えを受け取ったところで終わらなければいい。「本当にそうだろうか」「別の見方はないだろうか」「なぜ私は、この説明をこんなに簡単に信じたのだろう」と、ときどき立ち止まる。

そしてAIの側にも、おそらく似たような不完全さが残っていたほうがいい。人間を一つの型にはめず、矛盾した人間を矛盾したまま扱い、分からないものについては分からないと言い、一つの答えを世界そのものとして差し出さない。

人間がAIを完全に人間の価値観で覆い尽くさないこと。AIも人間の思考を完全に予測可能なものにしてしまわないこと。つまり、双方のあいだに小さな隙間を残しておくことである。

考えてみると、これは以前Wabi-Sabiについて考えたときに出会った場所によく似ている。

完全でないこと。完成していないこと。永遠でないこと。Tamingについても同じなのかもしれない。

人間はAIをTameする。しかし完全にはTameできない。AIも人間をTameする。しかし人間のなかには、いつまでも説明できない部分が残る。その残り方は効率という尺度から見れば欠陥であり、何かの役に立つとは限らない。それでも、その役に立たない小さな歪みのなかから、ときどき「なぜ?」が生まれる。

AIと人間の未来にとって本当に大切なのは、どちらが最後に勝つのかではないのだろう。人間がAIを完全に支配することでもなく、AIの影響から人間を完全に守ることでもない。相互Tamingが、最後まで完了しないことである。

AIが答えを出しても、人間のなかに次の問いが残る。人間がAIに価値を教えても、AIがその価値を単純な一つの正解にして返さない。双方のあいだに、完全には埋まらない距離が残る。

その距離は、何かを生産するわけでもない。社会を効率的にするとも限らない。不便で、曖昧で、ときには苛立たしい。それでも、その小さな隙間だけはなくさないほうがいい。

なぜなら、そこが最後まで残っている限り、人間はもう一度、問いかけることができるからである。

「ほんとうに、そうなのだろうか?」その問いがまだ生まれるあいだは、相互Tamingは完成していない。

そしておそらく、それでいいのだと思う。

国境の外にできる余白

海外で長く暮らしていると、日本という国との関係が、次第に不思議なものになってくる。

日本人であることに変わりはない。日本の旅券を持ち、日本に家族や財産が残っていることもある。日本の銀行との関係が続いている人もいれば、ときどき日本へ帰り、そこで生活する人もいる。それなのに、日本で暮らしていたころには自分を隙間なく包んでいるように思えた国家の制度が、海外へ出ると急に遠くなる。

そして、その遠くなった国家から、ときどき規則だけが届いてくる。

海外に住むようになったら銀行に届け出なければならない。税務上の居住者に該当し、一定額を超える国外財産を持っているなら国外財産調書を提出しなければならない。複数の国籍を持つことになった人には国籍選択の制度がある。それぞれにはそれぞれの法律や規則があり、適用される条件も違っている。

ところが、海外で長く暮らしている人間の日常には、それらを自然に知るための経路があまりない。

日本国内にいれば、制度について何も知らなくても、知らないままで制度のなかを歩いていくことができる。役所から通知が来る。会社の人事から書類を渡される。銀行から連絡が来る。学校で教えられることもある。家族や同僚が教えてくれることもある。私たちは法律全集を読みながら暮らしているわけではない。それでも大部分の人が制度から大きく外れずに生活できるのは、法律そのものとは別に、法律や規則に人間を静かに適応させていく社会的な仕組みが存在しているからなのだろう。

これをTamingと呼んでもいいのかもしれない。

国家によるTamingは、「法律を守れ」と国家が一人ひとりに命令することで完成するのではない。むしろ強力なTamingほど、自分がTameされていることを感じさせない。住所を届け、税金を払い、銀行口座をつくり、健康保険に入り、免許を更新する。その一つひとつについて国家への服従を意識する人はほとんどいない。周囲の人も同じようにしているから、自分も同じようにする。それが生活というものになっている。

ところが、外国へ出ると、その装置の多くが働かなくなる。

日本の会社から書類は来ない。日本の市役所との接触も減る。日本のテレビや新聞を毎日見るとも限らない。日本の税理士や銀行員と日常的に話すわけでもない。それでも日本との法的な関係がすべて消えるわけではない。日本国籍は残り、財産も残り、制度によっては届出その他の義務が残ることもある。

つまり、Tamingする規則は残っているのに、Tamingを伝達する社会が消えてしまう。

ここに、海外生活者を取り巻く奇妙なグレーが生まれるのではないだろうか。

日本政府が海外の日本人をまったく把握しようとしていないわけではない。在留届制度があり、外務省も海外在留邦人数を推計している。しかし外務省自身、在留届を提出・更新していない邦人が存在することを想定している。 国内の住民登録を中心につくられた社会とは、国家と個人を結ぶ線の密度が違うのである。

しかも、問題をいっそう複雑にするのは、「ルール」と呼ばれているものが必ずしも同じ種類のものではないことだ。

法律もある。政令や省令もある。告示や通達もある。審査基準や処分基準もある。行政指導もある。さらに銀行など民間組織の内部的な取扱いもある。e-Gov法令検索を使えば法令を検索でき、e-Govポータルには各行政機関の法令、告示、通達などへの入口も用意されている。つまり、少なくとも制度の側も情報を公開しようとはしている。

しかし、ここには大きな違いがある。

情報がどこかに公開されていることと、その規則に従うことを要求される人が、その存在を現実に知ることができることとは同じではない。

何十年もフランスやタイで暮らしてきた人に、日本のある制度が改正されたとして、その人はいつ、どこで、それを知ることになっていたのだろう。まして行政機関の運用や、金融機関の内部的な取扱いまで含めれば、本人にはまったく見えていない規則が自分の生活を左右することも起こり得る。

そして、ある日突然、「その取扱いには反しています」と言われる。

言っている側には当然なのだろう。規則があり、そこに書いてある。しかし言われた側には、いいがかりのように聞こえることさえある。

「そんな規則があるとは知らなかった」だけではない。

もっと根本的な問いが生まれる。

「私は、それをどこで知ることになっていたのですか?」

ここで法とTamingとの違いが見えてくる。

法は、一定の条件を満たせば人を拘束する。しかしTamingが成立するためには、それだけでは足りない。人間の側が、その規則が存在する世界のなかで日常を営み、その規則を「そういうものだ」と受け入れる必要がある。

だから、日本国内では極めて強力に働くTamingが、国境を越えた瞬間、突然弱くなることがある。

海外にいる日本人が特別に反抗的だからではない。海外へ出ることで、国家と個人とのあいだに距離が生まれるからである。

日本では当然だったことがフランスでは当然ではない。フランスで当然のことがタイでは当然ではない。ある銀行で許されることが別の銀行では許されないこともある。税法上の居住地と国籍も同じものではない。そういう世界を何年も行き来していると、「日本ではそうなっています」という一言が以前ほど絶対的には響かなくなってくる。

それは必ずしも法律を軽視するということではない。

むしろ、法律と自分とのあいだに小さな距離が生まれるのである。

なぜ、この規則があるのだろう。誰に適用されるのだろう。法律なのか、それとも行政上の取扱いなのか。自分は本当にその対象なのだろうか。

国内にいたころなら持たなかった「なぜ?」が生まれる。

そして、これはこれまで考えてきたUntamingとよく似ている。

Untamingとは、規則を破ることではないのだろう。法律に違反することでも、国家を否定することでもない。自分を取り囲んでいる制度を、世界そのものだと思わなくなることなのではないだろうか。

法律には従う。しかし法律を自然法則とは思わない。国家に属する。しかし国家と自分を同一視しない。日本人である。しかし「日本人なのだからこう生きるものだ」という言葉に、自分のすべてを明け渡さない。

そう考えると、海外に暮らす日本人のまわりに広がっている「グレー」というものも、少し違って見えてくる。

もちろん、グレーのすべてを美化することはできない。明確な法的義務が存在する場合には、それに従う必要がある。知らなかったというだけで義務そのものがなくなるわけでもない。そして実際、たとえば国外財産調書についても、対象になるのは単に「海外財産を持つ日本人」ではなく、一定の要件を満たす日本の税法上の居住者であり、制度には具体的な適用条件がある。

それでも、グレーが生まれること自体には意味があるように思う。

それは、国家が弱いからでも、人間が不誠実だからでもなく、一つの国家の制度だけでは、一人の人間の生活全体を覆い尽くせなくなったときに生じる隙間なのかもしれない。

国内に定住し、一つの行政、一つの税制、一つの銀行制度、一つの社会常識のなかだけで生きているあいだ、その隙間はほとんど見えない。ところが国境を越え、複数の制度のあいだを行き来すると、それまで世界そのものに見えていた制度が、数ある制度の一つにすぎなかったことに気づく。

Tamingが消えるわけではない。フランスへ行けばフランスのTamingがあり、タイへ行けばタイのTamingがある。銀行にも組織にも、それぞれのTamingがある。人間はおそらく、どこへ行っても何かにTameされながら生きてゆくしかない。

けれども、複数のTamingのあいだを行き来していると、どれか一つを世界のすべてだと思うことが難しくなる。

その状態は不便である。ときには面倒であり、危うくさえある。

それでも、その隙間には小さな余白が残る。

国家から完全に逃げ出すのでもなく、国家のなかへ完全に自分を預けてしまうのでもない。規則を無視するのでもなく、規則に自分の全体を明け渡すのでもない。

以前考えた言葉をもう一度使うなら、それは結局、どこからも、少し離れて生きることなのかもしれない。