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(46)ヘルタ・ミュラー『澱み』

2024年11月1日(金)

言論の自由なんて じつは どこにもない

今週の書物/
『ヘルタ・ミュラー短編集  澱み
ヘルタ・ミュラー 著、山本浩司 訳
三修社、2010年刊

偶然めぐりあう本というのは、思いのほか多い。今日取り上げる本も、そんな一冊。ある日の夕方、散歩の途中でトイレに行きたくなったときに、目の前にあらわれたのが、市の図書館。用事を済ませ、はじめに目に入ったのが、ヘルタ・ミュラーの『澱み』。表紙には「ヘルタ・ミュラー短編集」と書いてある。

目次を見ると「澱み」が全ページ数の半分ぐらいの 114ページを占めていて、残りの 18の短編は、2ページとか 3 ページとか 長くても 15ページとかと、どれも短い。興味を持って借りて帰り、家に着いてから ヘルタ・ミュラーのことを調べてみた。

ヘルタ・ミュラーは1953年にルーマニア西部のニツキドルフ (Nițchidorf) で生まれた。ニツキドルフからセルビア国境まで車で1時間もかからない。この地方は、第一次世界大戦まではオーストリア帝国領だったのが、ルーマニア・ハンガリー・セルビアの三カ国に分断統治された。

ヘルタ・ミュラーの先祖は18世紀にこの地方にやってきて、第一次世界大戦後もそこに残ったドイツ系ルーマニア人のシュワーベン人だ。シュワーベン人はルーマニアの統治下にあっても、民族的矜持を持ち、純血主義をつらぬき、独自のドイツ方言を母語としていた。

第二次世界大戦でルーマニアがドイツ側につき、シュワーベン人はソ連侵略の先兵にされ、戦争末期には連合国側についたルーマニア政府に見放され、ソ連軍によって多くの若者が強制収容所ラーゲリに連れてゆかれた。ヘルタ・ミュラーの父親はドイツ軍の武装親衛隊に動員され、母親はラーゲリ抑留の経験を持つ。

戦後、シュワーベン人はナチスの影響からドイツ系民族のアイデンティティを主張することが難しくなった。「故郷喪失の風景」とは、独裁によって故郷を追われたことと、故郷に対する矜持を持ち出すことが歴史的事実によって憚られることとを指し示している。

ヘルタ・ミュラーは、ティミショアラ大学でドイツ学とルーマニア文学を学んだのち金属工場で技術翻訳に携わるが、共産体制下の秘密警察・セクリタテアへの協力を拒否したため職を追われた。その後幼稚園の代用教員やドイツ語の私教師をしながら生活し、小説を書いた。

それが1982年に公表された短編集『澱み』だ。『澱み』は当時の多くの書物と同様検閲を受けて、大きく改竄されたものが出版されたが、後にドイツで未検閲のものが発表された。

1984年に体制への批判が危険視されて出版活動を禁じられ、1987年に夫と共にドイツに移住。1989年にルーマニア革命が起きてチャウシェスクが失脚したあともドイツに残り、今でもドイツで暮らしている。

『澱み』のなかで特に興味深いのが、検閲で削られた短編。そのひとつ、『意見(Die Meinung; The opinion)』という短編では、一匹のカエルという主人公(つまり著者)が組織からはじき出される様が描かれる。

自分の意見を持つことは悪いこと。みんなと同じ意見を持つのは(つまり意見を持たないのは)いいこと。みんなの意見は正しい意見。みんなと違う意見は間違った意見。そんななかで、主人公は、自分の意見を持ったために左遷され、消えてゆく。

上司は言う。「他人から受け継いだどんな意見も自分自身の意見なのだ」「自分自身の意見を持つためには、他人の意見を正しく我がものにするということが肝心なんだ」「そもそもどんな自分の意見であっても、自分の心にだけとどめておけば、いくらでも取り替えられるじゃないか」と。

著者がこういう目にあって、違う国に移り住まなければならなかったことを考えれば、この短編は重い。政府の言っていることと違うのは いけない。党の方針に従わないのは いけない。そんなふうにして、国や宗教、それに組織は、個人から自由を奪う。まるで 自由を奪うことが 私たちの本能であるかのように。

「著者」の話や「みんな」の話をしなくてもいい。「自分」について考えても、私たちはひとりひとり何がしかの不自由を感じて生きている。どの国にいても、どの組織に属していても、言いたいことが言えないという不自由を感じている。

だから、ヘルタ・ミュラーの極端なケースの話が、多くの人に読まれる。多くの人が不自由を感じている。

『世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)』 の 第19条 に、「すべて人は、意見及び表現の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」と書いてあっても、そんな権利を持っている人は実際には少ない。

日本の社会のなかで自分の考えを素直に言える人が どれだけいるだろう。韓国の社会では? 台湾では? 違うふうに考えて、東南アジアのどこに 自由にものが言える場所があるだろう? 中近東のどこで? アフリカのどこで? 中国にいて共産党と違うことが言える? ロシアでプーチンに、北朝鮮で金正恩に、逆らえる?

確かにヘルタ・ミュラーのケースは特殊かもしれない。いや、特殊だ。チャウシェスク政権の秘密警察に目を付けられて仕事を奪われ ルーマニアから逃れるなんていうことは、だれもが経験することではない。でも、言えないことの不自由は、世界中の人が感じているのではないか?

話を本に戻そう。表題作の長い短編『澱み』をはじめ、どの短編もつらい。そして悲しい。ヘルタ・ミュラーのまわりの抑圧された人々のことが描かれていると思うと、胸が締め付けられる。ユーモアすら(もしそれがユーモアだとしたらの話だが)つらく悲しい。

ひとつだけ、どうしてもわからない短編がある。『あの五月には(Damals im Mai)』だ。ヘルタ・ミュラーが2009年のノーベル文学賞を受賞したとき、理由として「故郷喪失の風景を濃縮した詩的言語と事実に即した散文で描いた」という説明が書かれていたが、『あの五月には』は「故郷喪失の風景を濃縮した詩的言語と事実に即した散文」なのだろうか?

『あの五月には』は「あの年の五月は何もかもが美しかった」という文章で始まる。そして「まずマス。いや、本物のマスはいなかった。しかし持ち合わせていた本のなかにニジマスが載っていた。姿が見えないマスたちが群れをなして泳ぎ回っていた」と続く。

はじめから最後まで、5ページにわたって、23のどの段落にも「美しい」という単語があらわれる。美しいといっても「貝の美しい白い実は苦痛にのたうちまわり」「酒場にたむろする老いた漁師たちは美しく落ちぶれ」という具合に 決して美しくはない。それでも、たとえ逆説的でも、それが皮肉であっても、「美しい」という単語が出てくるのだ。美しいと書けば書くほど、それは美しくないのだ。

『あの五月には』は、なんだかわからないのだけれど、すばらしい。わからないのに好きな文章なんて、はじめてだ。こんな文章を書くことのできるヘルタ・ミュラーが、絶望の文章を数多く書かなければならなかったのは、やはり悲しい。

**

ここで見方を変えて、この短編集を、そしてヘルタ・ミュラーを見てみよう。

ヘルタ・ミュラーは故郷を美しく書かない。同胞を魅力的に書くこともしない。シュワーベンの人たちは強欲で、時に残忍で、アルコールに依存していたり、嘘をつき続けたりもする。ヘルタ・ミュラーは、子どもだった頃に見たままを書くのだ。

『シュワーベン風呂(Das schwäbische Bad)』がシュワーベンの人たちの目に触れたとき、つまり彼らが初めてヘルタ・ミュラーが書いたものに接したとき、彼らは心の底から怒った。と同時に、自分たちへの裏切りだと感じた。

『シュワーベン風呂』を掲載した新聞社には、編集長宛てに怒りの手紙が殺到した。ヘルタ・ミュラーは、はじめから、地元のみんなの敵だったのだ。

怒りの手紙に対するヘルタ・ミュラーの新聞紙上での返事がすごい。

私が書いたのは、まさにシュワーベンの人たちが感じたように、彼らを中傷する文章です。彼らはテキストの中に自分たちの姿を見たろうし、登場人物に自分の姿を重ね合わせた人も少なくないはずです。だからそんな人たちが侮辱、脅迫、匿名の手紙などといった反応を示すのは、ごく普通のことだと思います。文学が田舎を描けば、オーストリアでも、スイスでも、同じような反応が返ってくるのだと思っています。

火に油を注ぐとはまさにこのことだ。ヘルタ・ミュラーの小説が検閲を受けたり、一部削除されたのは、政治的な理由などではなく、書かれた人たちを守るためだったのではないか。

そう考えるとき、話は逆に見えてくる。『シュワーベン風呂』はとても短い。ページ数にして2ページ。段落も2つだけ。1つの長い段落でシュワーベンの家族がお湯を入れかえることなく代わるがわる風呂に入る。2つ目の(最後の)段落は、

シュワーベン人の家族はお風呂あがりには揃ってテレビの前に陣取ります。シュワーベン人の家族はお風呂あがりの「土曜映画劇場」を楽しみにしているのです。

という短いものだ。

シュワーベンの人たちが「自分たちが馬鹿にされた」と思ったのは、容易に想像できる。私がシュワーベン人だったら、検閲を支持するだろう。そればかりか、ヘルタ・ミュラーの本を全部燃やしてしまうだろう。

ヘルタ・ミュラーは2009年のノーベル文学賞を受賞したあと、2012年に莫言がノーベル文学賞を受賞したことについて「莫言氏は中国政府による検閲を称賛しており、授与決定は破滅的だ」と批判したという。私がシュワーベン人だったら「ミュラー氏は私たちマイノリティーの権利を蹂躙しており、授与決定は破滅的だ」と抗議しただろう。

ある人が素晴らしいと言ったとき、他の人は壊滅的だと言う。それが現実なのだろう。

(45)ニュートンプレス『人体』

2024年10月25日(金)

人体は ほんとうに よくできている

今週の書物/
『図だけでわかる!  人体
坂井建雄 監修
ニュートンプレス、2024年刊

腎臓の皮質部分には、ネフロン(腎小体とそれに続く細尿管、Nephron)が200万個ほど存在していて、各ネフロンで濾過、再吸収、分泌、濃縮が行われ、原尿が作らるという。その話を聞いたとき、それをイメージできない私がいた。

人の脳には1000億以上の神経細胞があり、ひとつひとつの神経細胞には それぞれに 1万個ほどのシナプスがついている。そして その1000兆個のシナプスが絶え間なく情報伝達をおこなっている。そう聞いた時も、まったくイメージできなかった。

人体のなかには、想像もできないほど小さなファンクショナル・ユニットが、想像もできないほど たくさんあって、絶え間なく働き続けている。その小ささも、その数も、その連続性も、想像をはるかに越えている。

石川啄木は手を見て「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」と詠んだというが、いまぢっと手を見ると、皮膚の下の血管やら骨やら筋肉やらに思いが行く。

人体は不思議だ。生まれてから死ぬまで、絶え間なく動き続ける。そんなことを考えて、今週は、「人体」のことを説明した一冊を読む。『図だけでわかる!  人体』(坂井建雄 監修、ニュートンプレス、2024年刊)だ。先週に続き 科学雑誌の Newton(ニュートン)を出している ニュートンプレス が発行元で、監修者の名前は書いてあっても、著者の名前は書いてない。

タイトルの 図だけでわかる! というところが ミソ だ。イメージできないものを イメージするには 図に限る。しかも 1,320円(税込)と安い。

似たような本に『人体の構造と機能』(エレイン N. マリーブ著、林正健二 他 訳、医学書院、2015年刊、5,720円(税込))、2021年『カラー図解 人体の正常構造と機能』(坂井建雄・河原克雅 編集、日本医事新報社、2021年刊、19,800円(税込))などがあるが、どれも医学書で、病気を念頭に置き、病気を治すことを目的にしている。

ニュートンプレスの『人体』は、病気には触れていない。ニュートンらしく、あくまで科学の観点から本が作られている。ただ、ニュートンプレスは似たような本をたくさん出していて、『人体』は『ニュートン別冊 人体完全ガイド』 の焼き直し(というか、抜粋)と言えなくもない。

そんなことはともかく、本を開く。図が目に飛び込んでくる。図には「Step 1」「Step 2」「Step 3」と短く的確な説明がついている。小さなものも図のなかに描きこまないといけないから、図は正確ではない。文章も、簡潔にするなかで、大事なことが省かれしまっている。

でもこの本には、このような図とこのような文章が似合っている。読み手として医者を想定していないせいか、病気を治すとか、メスで手術をするとか、内視鏡で見るといった発想から完全に自由になっていて、骨とは何か、筋肉とは何か、皮膚とは何か、目とは、耳とは、鼻とは、舌とはということが、素人向けに書かれている。

呼吸や血液循環をになう「肺と心臓」の章では、全身に張りめぐらされた血管のことが細かく解説され、消化と吸収をささえる「胃や腸」の章では、肝臓や腎臓、生殖器のことも解説される。そして最後の 体をコントロールする「脳,神経,ホルモン」の章では、体調や免疫のことにまで話が及ぶ。

知らなかったことも多く、もっと知りたいと思わせる。読書が、ググるきっかけになる。そんな本だ。そういう意味では、きれいな図と簡潔な説明が、とても効果的だ。一冊の本で完結させるのではなく、インターネットへの入口という機能を持つことで、結果的にとても役に立つ本になっている。新しいアプローチの本だ。

地球上の海水に始まり 何十億年も続いた生物進化の果てにできた人体が 複雑なことは知っていたつもりでいたが、この本を読んだだけで、私の認識が間違っていたことに気づいた。

宗教とか思想とか政治とか科学とかが、人体のことをいろいろと説明してきたけれど、神が人間を作りだしたという宗教とか、進化論を盲目的に信じようという科学とか、人体はそんなものには説明できない素晴らしさを持っている。この本は、そう思わせてくれた。

(44)ニュートンプレス『無』

2024年10月18日(金)

数学の「無」、物理学の「無」

今週の書物/
『ニュートン式 超図解 最強に面白い!!
和田純夫 監修
ニュートンプレス、2020年刊

「無」とか「空」とか「ゼロ」とかは、気にしだすと気になってしまう。「無」や「空」や「ゼロ」のことは、考えても仕方のないことで、考えても何の答えも出ない。

「無」と「空」と「ゼロ」は、時には同じ意味を持ち、時にはまったく違う意味を持つ。哲学の問題として考えているうちは楽しいが、仕事のなかに入ってくると その扱いは難しい。

昔、統計の仕事に関わったことがあって、その時の難題のひとつが「無」と「ゼロ」だった。まったく無い「ゼロ」、値が小さすぎて「ゼロとしか表示できない(Not zero, but less than half of the unit)」、マイナスの値が小さすぎて「ゼロとしか表示できない(Not zero, but negative and less than half of the unit)」、その他にも「該当しない(not applicable)」とか「入手不可能(not available)」なんていうのもあって、いろいろ苦労したのをよく覚えている。

数学で「ゼロ(0)」は特別だ。0 は最小の非負整数で、0 の後続の自然数は 1。0 より前に自然数は存在しない。0 が自然数なのかどうかは わからないが、0 は整数で、有理数で、実数で、複素数で、いやそんなことよりも、割れなかったり 特異点だったり、とにかく特別だ。

で今週は、数学や物理学においての「無」について書かれた一冊を読む。『ニュートン式 超図解 最強に面白い!! 』(和田純夫 監修、ニュートンプレス、2020年刊)だ。科学雑誌の Newton(ニュートン)を出している ニュートンプレス が発行元で、監修者の名前は書いてあっても、著者の名前は書いてない。最後のページに見えないような小さな字で「Editotial Management 木村直之」「Editorial Staff 井手 亮」と書いてある。ニュートンプレス の社員が仕事の一環として書いただけで、社員は著者ではないと言いたいのだろうか。

まあそんなことはともかく、表紙に「数字の無ゼロから物理の無まで 無がわかる決定版!!」と書いてある通り、数学や物理の分野にしぼって「無」のことを解説している興味深い本ではある。

説明はやや乱暴だ。原子の動きがほぼとまったときが「絶対 0度」という温度の下限。電気抵抗がゼロ(無)の「超電導」でリニアモーターカーが走る。液体の粘り気がゼロになり 力を加えなくても スルリと通り抜ける「超流動現象」。質量ゼロの「光子」は 重力の影響を受けて 曲がる。大きさゼロに向かって縮んでいる「ブラックホール」は宇宙に 無数 存在していて、その近くでは速度がゼロに見える。そんなことが、自然界にある「無」の例として挙げられる。

また、「無」の空間には 何かが満ちているといって、「真空は 完全な無ではない」「宇宙空間は 私たちに見えない光で 満ちている」「光は 物質ではなく 真空の場をゆらして伝わる」「真空を埋めつくす何かが 素粒子にまとわりつく」「真空では 素粒子が生まれては消える」「陽子のなかは 混み合った真空状態」「陽子のなかは ほとんどからっぽ」「陽子のなかでは たくさんの仮想粒子が生じている」「からっぽの無の空間も 曲がったり 波打ったりする」「重力の正体は 時空のゆがみ」「無の空間でも 実態をもつ」「普通の物質をとりのぞいてもダークマターが残る」「ダークマターは 見ることができない」「真空には 宇宙を膨張させるエネルギーが満ちている」なんていうことを、次から次へと書き連ねる。

どのページを読んでも「そうなのかなあ」「そうとは思えないけど」「でも そうなんだろうなあ」というような よくわからない感想しか 持つことができない。それはまるで「この世は神が作り出した」とか「輪廻転生」といった話を聞いた時の感想だ。数学や物理学においての「無」についての本といいながら、アプローチは宗教そのものではないか。

最後の章の≪時空の「無」が宇宙を生んだ≫になると、宗教っぽさはより激しさを増す。「宇宙は 時間も空間もない 究極の無から生まれた」「時間をさかのぼると 宇宙空間は 特異点という 一つの点になってしまう」「10>-20以下の短い時間では 物質が ある ない という存在自体も定まらなくなる」「宇宙が 10-33cm よりも小さいときには 宇宙の存在自体がゆらいでいて 生成と消滅をくりかえしていた」というような説明は、にわかには受け入れられない。

「トンネル効果」の説明を読み、「小さな宇宙は 非常に高いエネルギーをもっている」「誕生直後の宇宙には 虚数時間が流れていた」「3次元空間の宇宙は 高次元空間に浮かぶ膜」というような 怪しい話 に付き合わされているうちに、我慢の限度を超え、私はこの本に対して敵愾心を抱く。

なんという本を読んでしまったのだろうという後悔と、物理学者の方々への憐憫の情とで、いっぱいになる。こんな荒唐無稽な理論を、ひとつひとつ「それは違う」といって否定していくのは、人生の無駄ではないか。この本を読んで、そんなことを考えた。本のなかの一つ一つの話は面白い。でも、この本を読んでも、無はわからない。少なくとも私には、物理の無はわからない。

優秀な人たちが物理学の分野に集まり、CERN (Conseil européen pour la recherche nucléaire, 欧州原子核研究機構) や ALMA (Atacama Large Millimeter/submillimeter Array, アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計) といった巨大研究施設が作られるようになると、物理学の知識の集積は膨大な量になる。

物理学の領域があまりにも大きく広がり、複雑になりすぎて、もう誰にも全体を把握することができない。理論物理学の考察を行なうために習得しなければならない数学的手法や既存の物理理論も膨大な量になり、メインストリームの理論をすべて理解している人など、ひとりもいない。

メインストリームの理論のなかでも、標準モデル(Standard Model)、量子複雑性理論(Quantum complexity theory)、量子色力学(Quantum chromodynamics)、物理宇宙論(Physical cosmology)、曲がった時空における量子場の理論(Quantum field theory in curved spacetime)といった分野では、日々定説が覆されている。

標準モデルひとつとっても、標準モデルは一般相対性理論と矛盾していて、ある条件下(例えば、ビッグバンのような既知の時空特異点や事象の地平線を越​​えたブラックホールの中心など)では、一方または両方の理論が破綻してしまう。多くの研究者たちがこの問題を解決したと言ってきたが、いまだにコンセンサスは得られていない。

あたりまえのことだが、物理学には 強い CP 問題(strong CP problem)、ニュートリノ質量(neutrino mass)、物質と反物質の非対称性(matter–antimatter asymmetry)、暗黒物質と暗黒エネルギーの性質(nature of dark matter and dark energy)など、わかっていないことが数多くある。

今回 取り上げた本は、数多くの わかっていないことについて、まるで わかったことのように書いている。いくら 門外漢のための本だからといって、というか門外漢のための本だからこそ、わからないことは いまだにわかっていないと 書くべきではないか。

わかっていないことについて考え 探求するのが物理だとするならば、いや 科学だとするならば、この本は科学的ではない。まるで受験参考書のように、答えはこれだよというような本の作りは、教育的ではあっても科学的ではない。もっとも、今の日本人が望んでいるのが この本のようなものだと言われれば、返す言葉はない。

断定的なものの言い方や、短絡的に答えを求めようとする態度が、社会を覆っている。考えることが嫌われる社会に、明日はない。

(43)Daniel Simons, Christopher Chabris『Nobody’s Fool』

2024年10月11日(金)

騙した男が悪いのか

今週の書物/
『Nobody’s Fool: Why We Get Taken In and What We Can Do about It』
Daniel Simons 著、Christopher Chabris 著
Basic Books (2023)
『全員“カモ”―「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』
ダニエル・シモンズ 著、クリストファー・チャブリス 著、児島 修 訳
東洋経済新報社、2024年刊

西田佐知子の『東京ブルース』は「泣いた女がバカなのか 騙した男が悪いのか」で始まる。騙したほうが悪いのか、騙されたほうが悪いのか。「所詮は勘違いと思い込みなのだから、どちらでもいいじゃないか」なんていうことを言う人が少なからずいる。

男女のことならば、それでもいい。でも詐欺や人権侵害なんかだと、そんなことを言ってはいられない。騙された人のことを「騙されやすい」とか「世間知らずだ」とか「無知だ」とか散々に言う人がいるが、なんだかんだ言っても、やっぱり騙したほうが悪い。

他人と関わるとき、私たちには「その人が言っていることは正しい」と思う傾向があり、それを疑うには努力と時間がかかる。だから、誰かが正しいことを言っていると思い、それが正しくない場合、大きな時間的プレッシャーがかかれば、正しくないことを簡単に受け入れてしまう。

広告業界のプロなどは、時間をかけて、私たちの認知習慣や情報に対する好み、私たちが惹かれるもの、日常生活で展開する思考パターンの弱点を悪用する方法を学んできている。地面師でなくても、そういう人たちが本気を出せば、騙すのは簡単だ。

人間はロボットではない。AI でもない。毎回同じ結果を出すわけではないし、いつも完璧に物事をこなすわけでもない。金融市場のような複雑な社会システムを前にすると、人間は理不尽な行動をとる。騙されるのも、理屈に合わない。

人々の記憶には時々矛盾が生じるけれど、必ずしも嘘をついているというわけではない。私たちの行動には、直感的に認識できるよりもはるかに多くのばらつきがある。一貫性があると思ったら大間違いだ。人間は論理的でないし、合理的でもない。

で、今週は、騙されることについて考える本を読む。『Nobody’s Fool: Why We Get Taken In and What We Can Do about It』(Daniel Simons 著、Christopher Chabris 著、Basic Books、2023年刊)だ。日本語訳も『全員“カモ”―「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』(ダニエル・シモンズ 著、クリストファー・チャブリス 著、児島 修 訳、東洋経済新報社、2024年刊)として出版されている。

「PART 1; HABITS」の 4つの章「Focus」「Prediction」「Commitment」「Efficiency」、「PART 2; HOOKS」の 4つの章「Consistency」「Familiarity」「Precision」「Potency」、そして「Conclusion: Somebody’s Fool」に至るまで、この本の言っていることは、すべて正しいように思える。引用は 第一線で活躍している人のものばかりだし、書かれていることにも おおむねうなずける。

それでも、どこか腑に落ちない。私たちは いつも、どんなときも、騙されないように身構えていなければならないのか? 目の前の人にも対しても、インターネットの先にいる人に対しても、相手が何か隠しているではないかと疑い、相手の痛いところを突かなければならないのか? それは、変ではないか?

どんなことも しっかり知り、それが事実かどうか確かめる。そんな大変なことを誰もがしなければならないなんて、現実的ではない。誰もそんな責任を負うことはできない。

Google で検索をしすぎると、あらゆる種類の怪しい情報にたどり着く。情報の真偽を認識するのは自分しかいない。それはわかる。でも、そんなことを いちいちチェックしていたら、一日は情報のチェックだけで過ぎてゆく。そんなのは、現実的ではない。

ワクチンを接種するかどうか、貯めてきたお金を投資にまわすかどうか、オンラインで知り合った人と恋愛関係を始めるかどうか。そういうことに慎重になれというのはわかる。でも、日々のことにひとつひとつについて 懐疑心を持ち続けろというのは、何か違う気がする。というか、残念ではないか。

詐欺に遭わないということが重要だからといって、それが今日の現実だからといって、誰のことも信じないで、何も信じないで、疑ってかかる。そんな考え方は嫌だ。

著者たちは「絶対に騙されるはずがない人たちが騙される」とか「私たち全員が詐欺の標的になりうる」といったことを繰り返し書く。そして、懐疑心を優先させろという。もっとも「そうすると、すべての社会的交流がひどいものになってしまう」と付け加えるのを忘れず、「いつ疑うべきかを知る必要がある」「それが本当に難しい」と続ける。

この本を最初から最後まで「そうだ、そうだ」と思いながら読んで、「うん?」と戸惑う。この本は、私たちが騙されやすい存在だということを、これでもかこれでもかという感じで、いろいろな側面から描き出している。

プロの手口のひとつが、慣れや親しみやすさ。慣れているものや親しみのあるものだと、私たちは警戒を緩める。長い間知っている人を信頼し、過去にうまくいったことと似ていれば うまくいくと思い込む。そう、私たちは騙されやすい。そうできている。

フェイクニュースは、私たちを満足させる。私たちがこうだったらいいなと願っていることや、私たちが起きてほしいと思っていることを、報道してくれる。ニュースがフェイクなのはわかっていて、それでもそれを信じる私たちがいる。

騙されやすいだけではない。騙されたい存在でもある。だから、「天皇陛下万歳」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」は、「民主主義を守る」「おもてなし日本」「個性の確立と尊重」に容易に生まれ変わり、誰も矛盾を感じない。

私たちは 皆 弱い人間だ。しかも 皆 考える時間すら持てないくらい忙しい。この本が描いているように、私たちは影響されやすく、何も知らないのに知っていると思い込んでいる不完全な存在だ。情緒的で、判断を誤る。根拠なく自信に満ちている。

一貫性のない私たちに 一貫性を持てというのは酷だ。私たちの予測は外れ、想定外のことが起き、期待は裏切られる。

まともに見えるこの本も、嘘に満ちている。多くの読者は、ダニエル・シモンズとクリストファー・チャブリスが書いたことに騙され、読んで少しは利口になったと思う。この本を読んだからといって、騙されやすかった人が 騙されなくなるわけではない。

人は いとも簡単に操られる。そのことが書かれていると思えば、悪い本ではない。ただ、今の社会で、どんな人たちが、どんな人たちを、どういう目的で、どうやって騙すのかを書いてくれなければ、フェアではない。そういうことが書かれた嘘のない本を読みたいと心から思う。

(42)Sabine Hossenfelder『Lost in Math』

2024年10月4日(金)

ロスト・イン・数学

今週の書物/
『Lost in Math』
Sabine Hossenfelder 著
Basic Books (2018)
『数学に魅せられて、科学を見失う』
ザビーネ・ホッセンフェルダー 著、吉田三知世 訳
みすず書房、2021年刊

物理学はもう何十年ものあいだ、顕微鏡でもとらえられない小さい量子と、望遠鏡でもとらえられない遠くの宇宙とを追いかけてきた。理論物理学者たちは数学を使って自然現象を説明しようとし、実験物理学者が観測によって理論物理学者たちの説明の妥当性を検討する。ほとんどの場合、実験物理学者の検討は、理論物理学者の言うことの否定で終わる。

小さいものの観測は、CERN (Conseil européen pour la recherche nucléaire、欧州原子核研究機構) の LHC (Large Hadron Collider、大型ハドロン衝突型加速器) に代表される さまざまな加速器で行われている。

陽子や中性子といった粒子は、「電子顕微鏡でぎりぎり見ることのできることのできる原子」の 10万分の1 というとてつもなく小さいものなので、直接観察することができない。そこで加速器で粒子と粒子を衝突させ、衝突後の粒子の崩壊の軌跡を観測することで 粒子のことをわかろうとしているわけだ。

量子力学の世界は、superposition(重ね合わせ)や quantum entanglement(量子もつれ)のことを持ち出すまでもなく、私たちのいる力学の世界とは、なにからなにまで違う。力学の世界にいる私たちが、力学の世界の実験装置を使い、量子力学の世界のことをわかろうというのだから、加速器を使っての実験はとても難しいものになる。

遠いものの観測は、ALMA (Atacama Large Millimeter/submillimeter Array、アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(アルマ望遠鏡)) に代表される電波干渉計や、JWST (James Webb Space Telescope、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡) に代表される宇宙望遠鏡で行われている。

ALMA を用いた大規模探査の観測データの中から、131億年前の宇宙で塵に深く埋もれた銀河が発見されたという。131億光年離れた天体が放った電磁波(光や電波)は、131億年の時間をかけて地球に届くので、観測されたものは、その銀河の131億年前の姿だ。

宇宙で遠くを見ることは、昔を見ることと同じ。131億年前のその場所に塵に埋もれた銀河があったからといって、今その場所に同じものがあるわけではない。46億年前に太陽ができ、45億4000万年前に地球ができたということだから、(ビッグバンからたった7億年しか経っていない)131億年前の宇宙がこうでしたといわれても 素直に「はい、そうですか」とは言えない。

小さい量子を追いかけてきた物理学者たちも、遠くの宇宙とを追いかけてきた物理学者たちも、どちらも行き詰った感じに見える。Standard Model (標準モデル) とか Grand Unified Theory (大統一理論) とか、夢のようなことが話されるようになって久しいが、今のところ何のブレークスルーも示されてはいない。

で、今週は、物理学の現在を考える本を読む。『Lost in Math』(Sabine Hossenfelder 著、Basic Books、2018年刊)だ。日本語訳も『数学に魅せられて、科学を見失う』(ザビーネ・ホッセンフェルダー 著、吉田 三知世 訳、みすず書房、2021年刊)として出版されている。

本を開いて はじめに出てくる「Preface」が強烈だ。数十億ドル(数千億円)を使いながら、物理学者たちは もう何十年も「もうすぐ素晴らしい発見がある」と言い続けてきた。加速器を建設し、人工衛星を打ち上げ、地下や山頂に観測機器を据えてきたが、新しい事実が明らかになることはなかったということを、まず書いている。

その上で、物理学者たちを裏切ったのは数学ではなく、数学の選び方だったという。自然はエレガントでシンプルだと信じていた物理学者たちは、結局 エレガントでシンプルな数式にたどり着くことはなかった。どんな法則が宇宙を支配していようが、それは物理学者たちが期待していたものとは違っていた。そういう結論を「Preface」で書いてしまっているのだ。

自然法則は美しいものなのだと信じてしまったホッセンフェルダーが、何かを信じるということは、科学者がやってはならないことではないのかという思いにたどり着く。探求し続けるという科学が、信じるという宗教になってしまってはいけない。そのメッセージは重い。

ホッセンフェルダーは、第1章から第5章まで、もはや物理学が理解できていない自分に気づき(第1章)、カッコいいアイデアが時にはひどく失敗すると知り(第2章)、教育を通して学んだことをまとめ(第3章)、物理学者として生きていくことの難しさに直面し(第4章)、理論物理学者たちの想像力に驚く(第5章)。

第6章から第9章までの「量子力学という魔術のようなもの・理解できないはずのものが、いったいなぜ理解できてしまうのか(第6章)」「もし自然法則が美しくなかったら(第7章)」「ひとりの弦理論研究者を理解しようと試み、ほぼ成功しそうになる(第8章)」「あるとされる さまざまな粒子を誰も見ていないのはなぜか(第9章)」というような話も、それぞれに興味深い。

そしてたどり着いた第10章で、ホッセンフェルダーは第1章から第9章までの説明をする。「私は九つの章を使い、理論物理学者たちは過去の美の理想に固執して袋小路にいるということを証拠を挙げながら主張してきた」というのだ。「えっ」と思って読み返してみると、確かにそうだ。それを読み取れなかった私は、何を読んでいたのだろう。がっかりは大きい。

そんなことはともかく、ホッセンフェルダーは「ヒッグス粒子の質量の問題」「強いCP問題」「宇宙定数が小さいという問題」などが、矛盾ではなく、数の一致に関するもの・美に関する懸念なのだという。

ホッセンフェルダーは思索の後、三つの教訓を得る。「問題を数学で解決したいなら、それが本当に問題であるか確かめる」「仮定を明言する」「観測による導きが必要だ」という教訓は、言い換えれば「物理学は数学ではない」ということになる。「物理学は自然を記述する数式を選択する学問だ」というあたりまえの結論にたどり着く。そんなことが教訓として語られなければならないほどに、今の理論物理はずれたものになっているのだろう。

ホッセンフェルダーは最後に「やるべきことが たくさんある」「物理学の次のブレイクスルーは、今世紀に起こるだろう」と書く。そしてこの本を「それは美しいだろう」という言葉で終える。

どんなに否定的なことを書いても、『Lost in Math』という本を出版しても、ホッセンフェルダーは物理学者であることを諦めてはいない。『Lost in Math』という本は、もしかしたら、とてもポジティブな本なのかもしれない。

個人的には、この本は救いだった。今までの長いあいだのモヤモヤが一気に晴れた。そんな気がした。ホッセンフェルダーがこの本を書いてくれたことに、心から感謝している。。。のだが、細かいことを言えば、突っ込みどころの多い本でもあった。

例えば、先ほども取り上げた「Preface」の「数十億ドル(数千億円)を使いながら、物理学者たちは もう何十年も「もうすぐ素晴らしい発見がある」と言い続けてきた。加速器を建設し、人工衛星を打ち上げ、地下や山頂に観測機器を据えてきたが、新しい事実が明らかになることはなかった」という部分。ALMA の建設費用だけで 14億ドル(2千億円)、CERN の LHR の建設費用にいたっては 90億ドル(1兆2千億円)とも 300億ドル(4兆円)とも言われていることを考えれば、物理学者たちが使ってきたお金は数千億ドル(数十兆円)に及ぶ。桁が二つも違うことに驚く。

ホッセンフェルダーだけでなく、多くの物理学者たちが、自分たちがどれだけのお金を使っているのかということについての意識に乏しい。ほとんどの物理学者たちは、自分たちにあてがわれた予算しか眼中にない。電気技術者の人件費やセキュリティーにいくらかかるかとか、施設の建設にいくらかかったとか、知っている物理学者は少ない。

この本の記述のなかには、物理学者たちの世間知らずのところとか常識のないところが垣間見られる。もっともそれは物理学者たちのいいところでもあるので、あまり突っ込まないでおいたほうがいいのだろう。

たとえ突っ込みどころが多くても、この本がいいことに変わりはない。何度も手に取って開く。そのたびに新しい発見がある。こんな本はめずらしい。

(41)Peter Wohlleben『The Hidden Life of Trees』

2024年9月27日(金)

自然という不自然

今週の書物/
『The Hidden Life of Trees』
Peter Wohlleben 著、Jane Billinghurst 訳
Greystone Books (2015)
『Das geheime Leben der Bäume』
Peter Wohlleben 著、
Ludwig Buchverlag (2015), Heyne Verlag (2019)

『樹木たちの知られざる生活』
ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川 圭訳
早川書房、2018年刊

Google によると、世界に存在する全ての本の数は1億2986万4880冊だという。Google がどんな計算をしようと、確かなのことがある。本の数はとてつもなく多いということだ。人が一生に読む本の数は、平均2000冊にも満たないという記事を見つけた。どんな読書家も、本のほとんどを読まずに一生を終える。

ほとんどの人に知り合わず、ほとんどの本に出合わない人生のなかで、どんな人と知り合い、どんな本と出会いのかは重要だ。どんなふうな出会いであっても、どんな偶然であっても、必然に思える。本屋で、図書館で、書評で、広告で。人生を変えるような本との出会いがあれば、運がいい。

人生を変えるような本が いい本であれば、もう言うことはない。私にとってのそんな本が、今週取り上げる『The Hidden Life of Trees』(Peter Wohlleben著、Jane Billinghurst訳、Greystone Books (2015))だ。『Das geheime Leben der Bäume』(Peter Wohlleben著、Ludwig Buchverlag (2015), Heyne Verlag (2019))の英訳で、日本語訳『樹木たちの知られざる生活』(ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川 圭訳、早川書房、2018年刊)も出版されている。

Peter Wohlleben は、ドイツの Rottenburg am Neckar にある林業学校を卒業後、Rhineland-Palatinate 州政府の森林保護官として20年以上働いた。森林管理の仕事を始めた頃には「この木はいくらになるだろうか」「この木から どれだけの板がつくれるだろうか」としか考えていなかった著者が、樹木たちのことを深く知り、子どもの頃に感じていた樹木たちへの愛を取り戻してゆく。

森林管理の仕事を通して身につけた著者の考えは、示唆に富んでいる。「私たちの森林は手つかずの自然ではない」「何もしないこと(人が手を加えないこと)こそが自然保護」「森林の生態系を人のために必要以上に利用していいのか?」「木々に不必要な苦しみを与えてもいいのか?」というようなメッセージ性の強い考えが次々に出てくる。

こういう考えは、神道の起源にも通じる。著者の自然の捉え方は、「自然のなかに神を感じる」「自然のなかで命を感じる」「山や岩、木や滝などにも神が宿る」といった自然崇拝と 根は同じ。人は所詮、自然の一部なのだ。

もっと謙虚になって、人だけではなく、動物だけでもなく、あらゆる生き物の尊厳を尊重する。あらゆる生き物の能力、感情、望みなどがよりよくわかるようになれば、人と生き物との付き合い方も変化していくのではないか。著者の文章は説得力がある。

コミュニケーションのことを考えるとき、自分たちのことしか考えていない私たちは、五感のなかの視覚と聴覚を思い浮かべる。口から発せられた声は 耳から脳に伝わり理解される。紙の上に書かれた文字やスクリーン上の文字は 目から脳に伝わり理解される。それがコミュニケーションだと思っている。

蠅の視覚は、人の視覚とは違う。蠅は、人とは違うものを見ている。蠅は 人には見えないものを見ているし、人は 蠅には見えないものを見ている。同じように、犬の聴覚や嗅覚は、人の聴覚や嗅覚とは、大きく違う。

違うからといって、蠅や犬がコミュニケートしていないというわけではない。確かに 蠅も犬も言葉を持っていない。でも 違った感覚を使ってコミュニケートしている。私たちにわからないだけなのだ。

そして木も、他の木とコミュニケートしている。キリンに葉を食べられたアカシアは、キリンの嫌がるエチレンを発散する。エチレンを感じたまわりの木は、いざというときのためにエチレンを準備しはじめる。

他にも さまざまな例がある。ブナもトウヒもナラも、虫に葉をかじられると、かじられたまわりの組織を虫が嫌がるように変化させ、身を守ろうとする。さらに人体と同じように、電気信号を走らせる。ゆっくりとだが、木の他の部分に危険を知らせるのだ。

私たちはわかったような顔をして 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことを五感というが、人のことだけを考えても 他の感覚がたくさん浮かんでくる。痛覚、温度覚、圧覚、位置覚、振動覚、二点識別覚、立体識別覚、内臓感覚、平衡感覚などだ。動物や植物に私たちの知らない感覚があって、それを使ってコミュニケートされていても、何の不思議もない。

木がコミュニケートしていると知れば、木が生きているという実感がわく。木が生きていると知れば、私たちの木に対する態度も変わるだろう。私たちの木に対する態度が変われば、行動も変わってくるに違いない。

アメリカで デイヴ・マシューズ・バンド(Dave Matthews Band)というバンドが活動していて、社会的な歌を多く演奏するためか アダルトロックなんていうカテゴリーに入れられているのだが、メンバーも曲も いい意味でアメリカっぽい。

そのバンドが「Together We Can Plant Millions of Trees」という運動をしている。一緒に何百万本もの木を植えようというわけだ。デイヴ・マシューズも その仲間たちも、「森に緑を取り戻そう」「失われた森を復活させよう」という善意から運動していて、好感が持てる。

でも、と思う。でも、デイヴ・マシューズが『The Hidden Life of Trees』を読んで Peter Wohlleben に共感するなんていうことがあったら、「木を植える」より「ほったらかしにする」ほうがいいと思うかもしれない、と思う。

デイヴ・マシューズ・バンドだけではない。多くの環境問題に興味を持っている人たちの考え方は、あまりにも人間中心的だ。人間が作ってきた自然でなく、人間が手を入れる前の自然のほうが、はるかに「自然」ではないか。

オーストラリアで、森林火災のすぐ後、鎮火をしたというタイミングで現場周辺を運転したことがある。まる焦げになったユーカリの木々が続く景色は異様だったが、交通標識が溶けてしまうようななかで、真っ黒に焼けているのに 目にも鮮やかな緑の芽を出しているユーカリの生命力には心を打たれた。

ただ、山火事が大きくなった原因がユーカリだと聞いて、「うん?」「えっ?」と心は揺れた。ユーカリの葉はテルペンを放出するのだが、テルペンは引火性なので、何かの原因で発火したら燃え広がって大きな山火事になる。ユーカリの樹皮は燃えやすく、火がつくと幹から剥がれ落ちるのだが、幹の内側は燃えずに守られる。ユーカリの根は栄養をたくわえていて、火事の後も成長し続けることができ、新しい芽を出す。ということのようなのだ。

美しい花をつけ かぐわしい香りを放ち 鳥や動物を惹きつけ続けてきたユーカリが、長年にわたって邪魔に思ってきた下草や低木を焼き尽くし、焼畑農業のように土壌を良くする。ユーカリが、そんなことを何百年何千年何万年も繰り返してきたなかに 人が入って行って家を建て、家が焼かれたと言って大騒ぎする。人にとって山火事は迷惑なことに違いないのだが、ユーカリにとってみれば 消火活動のほうが迷惑なのだろう。

人間のための木という発想を捨て、つまり「人にいい森」「人の経済活動に役立つ森」とか「人が見て美しい森」「観光資源としての森」を追い求めるのをやめて、人間が手を入れない森を少しずつでも取り戻していったほうが いいのではないか。

この本を読むと、本気でそんなことを考えてしまう。反文明というような大げさな考えではない。少しずつ、人が壊してしまったものを 元に戻せはしないかと、そう考えているだけなのだ。

マッシモ・マッフェイ(Massimo Emilio Maffei)によると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類のであっても自分の根とほかの根を、しっかりと区別しているという。少し長くなるが、『The Hidden Life of Trees』から数パラグラフを引用してみよう。

樹木はなぜ、社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。

逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。一本一本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。

森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

私はこういう文章を読んで、植物や動物のほうが 人よりもはるかに人間らしいと感じてしまう。近代化と ともに、多くの人たちが狂い、壊れてしまったのではないか。私には そんなふうに思える。

Peter Wohlleben は「すべての人工林を 原始林に戻そう」などとは言わない。その代わりに「もっと木のことを知ろう」と言う。「木のコミュニケーションを解明しよう」「森に足を踏み入れて想像の翼を羽ばたかせよう」という Peter Wohlleben は、環境会議で出会う環境問題の専門家とはすべてにおいて違う。

Peter Wohlleben は木のことをよく知っている。そして木をとても大事にしている。私はこの人のことが大好きだし、この本が好きだ。本当にいい本に出会った。そう思っている。

(40)なかにし礼『口説く』

2024年9月20日(金)

大人の恋愛

今週の書物/
『口説く』
なかにし礼著
河出文庫、1999年刊

「作詞家と詩人の違いは?」と聞かれて答えることはできるだろうか? 「作詞家は作詞をする人、詩人は詩を書く人」とか「作詞家は作曲家やの歌手のために歌詞を書き、詩人は自分のために詩を書く」と言っても答えにはならない。

作詞家は歌われるために歌詞を書き、詩人は読まれるために詩を書く。どちらも韻を踏んだり、スタンザが使われたり、特定の言語が選ばれたり、象徴性が用いられたりと 共通点は多いが、表現方法はまったく異なる。

作詞家も詩人も、歌手、小説家、翻訳家、脚本家、放送作家などの顔を持つことが多い。谷川俊太郎とか覚和歌子といった人たちのように、作詞家と詩人の両方の顔を持っている人もいる。

作詞家は、音楽ビジネスに組み込まれているために、どうしても多作になる。阿久悠、秋元康、岩谷時子、なかにし礼、安井かずみ、松本隆、石本美由紀、星野哲郎といった日本の作詞家たちも、何千曲もの歌詞を書いた。私には、そんな作詞家たちが、詩人に思える。

井上靖、三木卓、川上未映子、エドガー・アラン・ポー、ミシェル・ウエルベック といった人たちは、小説家であり詩人であった。寺山修司のように、詩人、劇作家、映画監督、小説家など多彩な顔を持つ人もいる。

アーティストは みんな 詩人。そうは言えないか? もっと言えば、人は みんな 詩人。そう言ってはいけないか? まあそうは言っても、私は作詞家という詩人が、特別に好きだ。

で今週は、作詞家が書いた一冊を読む。『口説く』(なかにし礼著、河出文庫、1999年刊)だ。なかにし礼がシャンソンの訳詞で身に着けた「フランス的な価値観」で貫かれ、洒脱な本になっている。

なかにし礼の人生は、『兄弟』などの自伝的小説や『わが人生に悔いなし』などの自伝的エッセイにより、そしてマスコミへの露出により、よく知られている。「満洲からの引き揚げ」から「癌の発覚とその克服」まで、情報量は異常に多い。では、どんな人だったとかといえば、情報量が多いせいもあって、その輪郭は、ぼやけてしまう。

シャンソン喫茶でのアルバイトから始まった「仕事」も、シャンソンの訳詞、作詞、作曲、歌、映画出演、コンサートや舞台の演出、ラジオのパーソナリティ、テレビ出演、翻訳、小説、エッセイと広がりを見せ、膨大な量の作品が残っているのだが、どんな人だったのかはわからない。つかみどころがないのだ。

『口説く』は、1996年4月から1997年3月まで「週刊読売」に連載された映画エッセイ。50の映画から50の話が書かれ、まとめられて、1997年7月に『時には映画のように』というタイトルで単行本になり、1999年3月に文庫になった。どの話も、男から見た男と女の話だ。

書かれた内容が、なかにし礼の恋愛観を反映しているかというと、必ずしもそうではないように思える。そこはサービス精神旺盛なプロの作詞家。読者が欲しがっている文章を提供しているように思えてならない。

映画のなかの名セリフが紹介される。それだけでも嬉しいのに、その上になかにし礼の文章がかぶさる。時にはニーチェとかアーウィン・ショウといった、なかにし礼のお気に入りの作家の文章もあらわれる。こんな贅沢はない。

〈男という生き物はどうしてこう女が好きなのだろう〉
〈奇跡の恋のあろうはずはない〉
〈妻であれ愛人であれ恋人であれ、男がその女しか目に入らないというのぼせた状態は残念ながらほんのわずかの間しか続かない〉
〈結婚してから七年間、たった一回の浮気もしていない男がいたとしたら、実になんとも見上げたもんだと思う〉

こういう文章の背景に流れているのは、恋愛についての美学だ。完璧な恋愛への憧れと、完璧でない恋愛へのいつくしみ。恋愛が続いてほしいという願いと、続くわけなどないという諦め。うまくいったと思ったときに実は何もうまくいっていないという寂しさや悲しみ。そんなものは、どこまでも美しい。

シャンソン喫茶「銀巴里」を覆っていたモラルが戦後の文化に及ぼした影響は大きいが、なかにし礼が作詞をした歌のなかにも「銀巴里」が色濃く映り込んでいる。どれもモダンで、演歌からとても遠い。

諦めとか、悲しみとか、寂しさとかに彩られた人間の恋愛は、美しい。それは、『口説く』のなかで取り上げられた映画の美しさに通じる。人間らしいという言葉があるけれど、どこか欠けている恋愛は、どれも人間らしい。

なかにし礼は、恋愛を中心にしてものを考えることで、いつも正しくはいられない人間というものを見事に描いている。どのエッセイも短いが、行間から見えてくるものは多い。

〈要は女に敗北の恥を与えないこと。敗北の恥を勝利の歓喜にかえてやる優しさ。それが大事なのだ〉
〈男と女が、出会って恋をして結ばれて、何かいいことがあるのだろうか。傷つけ合い憎しみ合い、最後は無残に別れる。別れなかったからといって幸福とは限らない〉
〈不倫を英語でアダルタリーという。アダルトといえば大人のことであり、大人であれば不義密通もやむなしといった感じが出ていて、この英語はなかなか含蓄に富んでいる〉
〈あまり思い上がって、女の愛を粗末にしていると、取り返しのつかないことになる〉
〈人生で、自分を心底愛してくれる女に、そうたびたび出逢えるものではない〉

というような文章に、私は深く感じ入った。なかにし礼は、身勝手で自己本位な男のために、50もの珠玉のエッセイを書いてくれたのだ。それに応えるために、私はせっせと映画を見ようと思う。『天井桟敷の人々』のような映画を。たくさん。

(39)Hannah Arendt『The Human Condition』

2024年9月13日(金)

哲学者の視点

今週の書物/
『The Human Condition』
Hannah Arendt 著
University of Chicago Press、1970年刊

先週は「考えさせられる」ということでニーチェを取り上げたが、今週は「もっと考えさせられる」ハンナ・アーレントを取り上げる。アーレントは、ナチズムやスターリニズムといった全体主義を憎み、全体主義のもとでなぜ人間が無辜の民を殺すことができたのかを考え続けた。

20世紀にドイツでのユダヤ人迫害からフランスに逃れ さらにアメリカに逃げざるをえなかったアーレントの生涯は、17世紀にポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきた両親から生まれたスピノザの生涯を思い出させる。

アーレントは『アウグスティヌスの愛の概念(Love and Saint Augustine)』のなかに「地上での人間の性質と 人間が世界に属していることを 克服できるのは 愛だけだ」と書いて「愛をもつこと」で未来に希望を見い出そうとしたが、それは、スピノザが『エチカ(Ethica)』のなかに「人間の感情はすべて 喜び 苦しみ 欲望から派生している」と書いて「喜びをもつこと」で未来に希望を見い出そうとしたというのに、似ている。

人間に対する不信や絶望から生まれてくる希望は、未来が見通せないなかにあっては、特別のひかりを持って輝く。アーレントもスピノザも、人間について「なぜ、そんなことができるのか?」という疑心をいだいていただけに、示された希望には重みがある。

アーレントはナチズムの被害者ではあったが、その批判は、あくまでも外側からの批判だ。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧(Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager)』のような内側からの体験とは違う。でも、だからといって、アーレントの全体主義への批判が霞むわけではない。

「全体主義の理想的な対象は、確信を持ったナチスや確信を持った共産主義者ではなく、事実と虚構の区別や真実と虚偽の区別がつかない人々だ」「絶えず変化し、理解できない世界では、大衆は、すべてを信じ、同時に何も信じない、すべてが可能で、何も真実ではないと考えるところまできている」「全体主義教育の目的は、信念を植え付けることではなく、信念を形成する能力を破壊することだ」「危険な考えなどない。考えること自体が危険なのだ」などなど、どの文章もアーレントらしい。

フランス革命に批判的だっただけでなく、イギリス革命やロシア革命についても批判的で「革命家のヒロイズムは 人間のリアリティに対して無感覚になっただけ」「人々が求めたのは政治以前の暴力だった」「最も急進的な革命家は、革命の翌日には保守派になる」などの文章を残している。

「人権は単なる抽象概念にすぎない」と言い、「現在の厳しさから逃れて、過去への郷愁に浸ったり、より良い未来への期待したりすることには意味がない」と繰り返すアーレントは、近づき難い雰囲気を醸し出す。それなのに、アーレントの文章は読まれ続けている。

で今週は、ハンナ・アーレントの多くの本のなかから一冊を選んで読む。『The Human Condition』(Hannah Arendt 著、University of Chicago Press、1970年刊)だ。

全体主義のことや革命のことを書いたアーレントの文章は、キラキラしていた。どの文章にも共感し、好印象を持った。愛のことを書いた文章は、キリスト教とか神とかいう部分に抵抗を感じたせいか、それほどいいとは思えなかった。そしてこの『The Human Condition』のなかの働くことについての文章は、読んでいて嫌な気分になった。異和感を感じ続けたと言ったほうがいいのかもしれない。

日本国憲法の第27条「すべて国民は、勤労の、権利を有し、義務を負う」の、「勤労の義務を負う」という部分に感じる異和感や、軽犯罪法 1条4号 の浮浪行為(生計の途がないのに、働く能力がありながら就業する意思を有さず、一定の住居をもたずにうろつく行為)によって拘留されるか罰金が科せられるということへの異和感と同じ感じだ。

アーレントはこの本の多くの部分を 3つのタイプの「Human Activities」の説明に費やしている。「Labor」「Work」「Action」の3つだ。日本語では「Activity」と「Action」を「行動」と「活動」、「Labor」と「Work」を「労働」と「仕事」と訳して混同を防いでいるようだが、紛らわしいことこの上ない。

そんなことはともかく、アーレントは「Labor」「Work」「Action」を厳格に区別し、それぞれの意味について深く考察している。あわせて「political concept(政治的概念)」と「social concept(社会的概念)」、「public realm(パブリック領域)」と「private realm(プライベート領域)」といったことについても考察を深める。

くどいくらいのわかりにくい考察の後、アーレントは「vita activa(活動的生活)」と「contemplativa(黙考的生活)」について書く。そのなかには「Knowledge is acquired not simply by thinking, but by making(知識は考えることだけでなく、作ることによって得られる)」という文章がでてくる。

アーレントの「Work」についての、そして「science(科学)」についての偏見ともとれる特殊な考え方から、アーレントならではの結論めいた文章が出てくる。望遠鏡という《「Work」の産物 》がガリレオなどのさまざまな発見につながり、「Work」が「contemplation(黙考)」よりも重要になり、「science」が「philosophy(哲学)」より重要になってしまったというのだ。

読んでいて私は「これだっ!」と思った。感じ続けた異和感は、アーレントの「Work」や「science」に対しての考え方から来ていたのだ。「Labor」や「Work」について膨大な量の文章を書いていながら、労働者にはなったことがない。「science」について書いていても、それは想像でしかない。

アーレントは18歳の時にマールブルク大学で教授のハイデッガーと出会い、哲学に没頭した。ハイデッガーとは後に不倫関係になる。またヨナスとも出会い終生の友になる。その後フライブルク大学ではフッサールのもとで一学期を過ごし、ハイデルベルク大学ではヤスパースの指導を受けた。博士論文の『Der Liebesbegriff bei Augustin(アウグスティヌスの愛の概念)』は今でも多くの人に読まれている。

そんなアーレントに労働者の気持ちがわかるわけはないし、科学の知識を期待するのは無理というものだ。全体主義を批判したり、革命のことやマルクスのことに論評を加えたりすることはできても、社会の普通のことを書くのは無理なのではないか。一流の外科医にファミリードクターが務まらないように、一流の哲学者には専門外のことはわからないのだろう。

今の複雑でグローバルな社会では、2000年以上続いてきた哲学のアプローチや宗教のアプローチはもう通じない。この本を読んで、そんな気がしてきた。

(38)Friedrich Nietzsche『Beyond Good and Evil』

2024年9月6日(金)

今の社会のモラルは奴隷のモラル

今週の書物/
『Jenseits von Gut und Böse』
Friedrich Nietzsche 著、1886年刊

『Beyond Good and Evil』
Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳
Penguin Classics、2003年刊

戦前は、護国の精神に富んだ忠良なる臣民を育成するのが教育の目的だった。臣民というのは天皇に従属する者のこと。建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるということで、教育勅語の精神に合致する教科書が使われた。また、中学校以上の男子校には現役陸軍将校が配属され、軍事教練が実施された。

そんな歴史のせいで、日本には今でもパブリックという考えがない。「Public Private」は「公私」と訳されはするが、その実態は「官民」であり、「Civil Servant」は公務員と訳されてはいるものの、「Civil Servant」として働く者たちの意識は相変わらず「官吏」であって、「国民に奉仕する」という考えは微塵もない。

国は国民のために存在するというのと、国民は国のために存在するというのとでは、意味合いがまったく違う。日本には今でも「お上」が存在していて、国民は「お上」の言うがまま。国の言うことには黙って従うし、警官や税務署員の理不尽に対しても従順だ。

学校での「いい子」といえば「言うことを聞く子」「言われた通りに行動する子」を指し、大人になって出来上がった「善良な市民」は、いつも正しく 温かい心を持ち、親切で 思いやりがあり、勤勉で どんな辛いことも耐え忍び、謙虚で 他人のために行動する。

日本の学校は奴隷養成所で、日本の社会は奴隷のような人間で溢れている。そんなことを考えているときに出会ったのが ニーチェの「Master–slave morality」と 忌野清志郎の「善良な市民」。「Master–slave morality」は まるで今の日本のことを言っているようだし、「善良な市民」は「小さな家で 疲れ果てて 眠るだけ」「新しいビールを飲んで 競馬で大穴を 狙うだけ」「飯代を 切詰めたりして Jリーグを 観に行くだけ」という具合で なんともせつない。

で、今週は「Master–slave morality」のことを書いた文章を読む。『Beyond Good and Evil』(Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳、Penguin Classics、2003年刊)だ。ニーチェは、1879年に体調を崩して大学を辞めてから、1989年1月に精神病院に入院させられるまでの10年ほどのあいだ、療養のために 夏はスイスのイタリア語圏の村で 冬はイタリアやフランスの海辺の町で過ごしたのだが、この本はそのあいだに書かれた一冊だ。

ニーチェは不思議な存在だ。多くの人が若い頃に出会い、あまり多くを読まずに、それぞれが勝手な解釈をする。「ルサンチマン」だの「ニヒリズム」だのと言って わけのわからないことをこねくり回す人は多い。でも、読まないのは もったいない。ニーチェは いろいろなことを違った視点から捉えるのがとてもうまいから、固定観念から自由になるのの助けになる。

『Beyond Good and Evil』の「Chapter IX   What is noble?」には、主人道徳(master morality)と 奴隷道徳(slave morality)という2つの道徳が出てくるのだが、その前提として 一方に高貴な人たち(権力者たち、貴族たち)がいて、もう一方には弱者たち(庶民、抑圧された人たち)がいるという社会がある。

主人道徳は、意志の強い者の道徳とされ、その道徳での「善」は 高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、ささいなものだという。高貴な人たちの道徳とはいえ、動物的・直截的で、かつ積極的・攻撃的だ。心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして価値に対する正確な認識が必要とされるというが、それは仲間内だけのことで、弱い者たちは眼中にない。

これに対し奴隷道徳は、弱い者たちの持つ道徳で、その道徳での「善」は コミュニティ全体にとって役立つもの、「悪」は 権力を握っている者たちのやることなすことだという。謙虚さ、慈悲、憐れみなどの感情は、強い者たちにはわからないと思っている。民主主義・自由・平等などは、奴隷道徳の政治的な表現だという。

とはいっても、書かれたのは日本でいえば明治時代だから、今とは何も比較はできないが、それでもいろいろ考えさせられる。日本とかアメリカとか、21世紀に民主主義・自由・平等などを掲げている国を、ニーチェは、奴隷道徳の国だというのだろうか? エヌビディアのジェンスン・フアンのようなビリオネアが奴隷道徳を身に着けていることを、どう説明するのだろう?

そんな疑問を考えるために、私たちの国である日本について考えてみよう。日本には、世界でもめずらしい『道徳教育』がある。教師は自らの信念を押し付けず、日本に昔からある道徳心に従うよう指導し、親や年長者を敬ったり、動物に優しく接したり、困っている人を助けたりすることの大切さを教えるのだという。

道徳教育の基盤は家庭にあるべきなのに、子どもは夕方から夜にかけてしか家にいないからといって、学校が代わりに道徳教育の役割を引き受ける。学校に行かない日が年間に170日もあるのだし、そもそも学校にいる時間の大部分は道徳以外の強化の授業に費やされるのだから、年に30時間にも満たない『道徳教育』をしたところで、たかが知れているのだが、この類のプロパガンダの子供への影響は思いのほか大きい。

その文部科学省が掲げる道徳教育だが、道徳的な心情、判断力、実践、態度などの道徳性を養うのが目的で、秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における協調性も含まれているという。なんのことはない、ニーチェの言うところの奴隷道徳の教育をしているのだ。

日本教職員組合(日教組)のウェブページに行っても、日本国憲法とか人権教育とかいった進駐軍が日本に押し付けたことが並んでいるだけで、掲げられている道徳がニーチェが書いた奴隷道徳であることは、文部科学省の道徳と何ら変わりがない。

要は、どんな立場にいるにせよ、今の日本人が道徳をイメージする場合には、ニーチェが説明した奴隷道徳しか頭に浮かばないということなのだ。日本には、主人道徳は悪だと考える人しか存在しない。まるで、みんなが(社畜とか皇民とかの)歯車の一部になったかのようだ。

考えてみれば、20世紀という国家の時代には、たとえそれが 軍国主義だろうが 民主主義だろうが 共産主義だろうが、個人の意思は認められない。

ニーチェが多くの文章を並べて言いたかった 主人道徳 における個人の意思を思い出してみよう。個人の意思はノーブルな(精神が高貴な)人間が持つものなのだ。ノーブルな人間は自分を価値を自分で決める。他人に承認を求めたりはしないで、自分で判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害で、悪なのだ。名誉を与えるのは自分だけ。価値の創りだすのも自分だけ。自分の中に認められるものは何でも尊重する。そのような道徳を持つものは今の日本には ひとりもいない。

主人道徳がいいと言っているのではない。主人道徳を持っている人がいないと言っているのだ。言葉を変えれば、ノーブルな人がひとりもいないということになる。そしてみんなが、そのことをいいことだと思っている。

何かに属していたり 金持ちだったりして 自分のことをノーブルだと勘違いしている人はいても、本当の意味で精神的にノーブルな人はいない。今の金持ちたちは、みんな卑しい。

今の状態から抜け出せないか? 奴隷道徳に覆われた社会のなかで 高貴な個人を獲得することはできないのだろうか? 自分の価値は自分で決め 自分のことは自分で判断する。そんな150年前にはあたりまえにいた「精神的に高貴」で「自分に誇りを持っている」人は、もう今の社会には現れないのか?

日本には、労働を強制されながら、そのことを自らの意志で働いているのだと考えている人たちが大勢いる。その誰もが、自分のことを奴隷だと思っていない。失業したら生きていけないと、上司の言うことに従い、長時間労働している人たちは、はたから見れば自由ではない。そんな人たちの過労死とか自殺とかが新聞紙上を賑わせるが、それはなぜなのか。その理由が、ニーチェの文章を読んでわかったような気がする。すべて奴隷道徳のせいなのだ。

自分の自由な時間を増やすことに罪悪感を感じ、逃げることをよしとしなければ、それはもう奴隷でしかない。そんなふうな人たちは、みんな、ニーチェの言う 奴隷道徳 の持ち主なのだ。

なにも 主人道徳 を持たなくてもいい。奴隷道徳 から解放されさえすればいいのだ。主人も奴隷も関係なく、国のため・会社のため・上司のためといった他人のためという発想を捨て、自分を否定せず、誇りを持って、自分のために生きる。それだけでいい。勤め人だろうが、自由業であろうが、奴隷道徳に染まらなければいいのだ。多くの人たちがそうすれば、社会はきっと もっと風通しのいいものになる。

ニーチェの著作を読むと、時代が違うせいもあって、そしてニーチェが病気だったせいもあって 反感を感じることが多い。でも考えさせられることが多々あり、個人の そして社会の 指針となることが少なからずある。少しだけでも、たとえ1章・1節だけでも読んでみるといいと、声を大にして言いたい。

(37)Patrick Süskind『Perfume』

2024年8月30日(金)

次は何が起きるんだろうと思わせる文章

今週の書物/
『Perfume』
Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳
Penguin Books、1986年刊

オフィスで電子機器に囲まれて多くの時間をすごしていれば、五感を意識することはあまりない。ところがスクリーン上の情報や書類、ミーティングなどから解放され、自然を意識して暮らしてみると、やたらと五感を感じる。

朝起きて雨戸を開け、朝の空気を感じる。朝のひかり、小鳥のさえずり、葉についた水滴、花の香り。そうしたものに囲まれて一日を始めれば、その日は間違いなく良いものになる。暑さ寒さを感じ、汗をかいたり凍えたりすることの、どれだけ気持ちいいことか、

そんな五感だが、目が見えなくなったり、耳が聞こえくなったりすれば、暮らしがむずかしくなる。痛みを感じなくなったり暑さ寒さを感じなくなれば危険だし、新型コロナに感染して味覚を失えば食べることや飲むことに支障がでる。逆に、見え過ぎたり、聞こえ過ぎたり、感じ過ぎたり、味覚が良過ぎたりするとどうなるか。

もうずいぶん前になるが、自らを「nez(ネ)」と紹介するフランス人の家を訪れたことがある。よくよく聞いてみると、香水の会社に勤める調香師で、匂いの専門家。パリとかニューヨークといった大都市は嫌な臭いでいっぱいで住むことができず、山に囲まれた田舎に住んでいるという。鼻がいいというのは、いいことばかりではないのだと、その時はじめて知った。

見えすぎも聞こえすぎも、人によっては困ることがあるのかもしれない。見えなくてもいいものが見えてしまったり、聞こえなくてもいい雑音が聞こえ続けるのはつらいだろう。舌が肥えて普通の食べ物がおいしく感じられないのはいやだろうし、高いワインしかおいしく感じられないなんて不幸でしかない。

五感の個人差は大きい。よく、人と動物とでは見ているものが違うという。人は目の前のものを色と形で見ているが、犬は通ることのできる道や座ることのできる場所を、蠅は照明と食器や食べ物を見ている。自分にとって重要なものしか見ていないのだ。

人も、自分が見たいものばかり見て、聞きたいものばかり聞いているのではないか。嗅ぎたい匂いばかりを嗅ぎ、好きな味の食べ物や飲み物ばかり選び取っているのではないか。自分の五感は、隣の人の五感と違う。そう考えると、五感というものがやけに魅力的に感じられる。

五感についての文章は多い。視覚に訴える文章が写真や映像を超えるのは難しいし、聴覚に訴える文章が実際の音や録音の再生を超えるのも難しい。触覚を表現する文章にはあまりお目にかからないし、味覚を表現する文章には陳腐なものが多い。

嗅覚に関する文章は昔からあり、源氏物語の匂宮の「また人に 馴れける袖の 移り香を わが身にしめて 恨みつるかな」なんていう歌を持ってくるまでもなく、平安時代の歌の世界は人の香りや花の香りであふれている。

で今週は、匂いに特化した小説を読む。『Perfume』(Patrick Süskind 著、John E. Woods 訳、Penguin Books、1986年刊)だ。とても特異な作品だ。

この小説は、最近の商業的な小説に見られるような勢いよく一気に書かれたものとはまったくといっていいほど違う。18世紀のフランスのこと、そして匂いのことなどが、じつに見事に描かれている。作者はミュンヘンとエクス・アン・プロヴァンスで中世史と近代史を学び、パリとミュンヘンで ラジオの脚本や小説を書いていた。その経験がこの一冊に凝縮している。

まず驚くのが、18世紀のフランスの汚なさだ。人々は不潔で、街は悪臭を放っている。登場人物の匂いは、臭いと書いたほうがいいものが多く、体の匂い、汗の匂い、仕事に関連した匂い、住環境に関係する匂い、そして新鮮な花の香りやアロマの香りなどが詳細に描かれ、どのページからも匂いが漂ってくる。

パリの中心部の露店市場で魚を売っていた主人公の母親は、赤ん坊を産み落とすと、すぐに赤ん坊を魚の頭や尻尾と共にゴミのなかに捨てた。ゴミの中から見つけられた主人公からは匂いがしなかった。そんなふうに始まる小説からは、本当に匂いがしてくる。

また、母親が生まれたばかりのグルヌイユを殺そうとする最初から、グルヌイユが死ぬ最後まで、死が身近なものとして描かれていることにも驚く。18世紀のフランスの社会は、現代から見ればはるかに暴力的で、貧しい。それなのに、誰もがそんな社会をあたりまえのこととして受け入れてくる。

さすがラジオの脚本を書いた人だと感じるのが、「次は何が起きるんだろう」と思わせるところだ。たとえば、主人公のグルヌイのがある日、通りで、これまで嗅いだことのない香りを感じ取る場面。まだ嗅いだことのない極上の匂いに気付き、その匂いを追ってゆくところは、圧倒的だ。

さまざまな匂いが混じりあったパリの通りを、いい匂いがしてくるほうに向かってゆく。街の臭いに圧倒され、時にいい匂いの方向を失いながら進む。読みながらグルヌイユを応援している自分に気付く。やがてグルヌイユは、そのいい匂いのもとにたどり着く。その匂いが、赤毛の少女が発する香りだったということがわかる。そして、グルヌイユは、匂いを得るために少女を殺す。この殺人は唐突だ。

そこからのグルヌイユの人生は、苛酷だ。至高の匂いを手に入れようとする人生。香水屋に雇われて香水の調合を覚え、どんな香りでも作り出すことができるようになったグルヌイユは、パリを出て南に向かう。人に嫌悪感を感じたグルヌイユは、文明を避け洞窟で暮らす。野生の植物と動物とで生き延び、7年後に洞窟を出る。モンペリエでは、まわりにある手に入るものから自分の匂いを作り出し、その匂いを纏うことで他人から受け入れられる。

匂いのしない他人に嫌われる人間から、いい匂いのする他人に好かれる人間に変わることに成功したグルヌイユは、匂いを味方につけることで、侯爵の庇護を得るなどするが、人がいかに簡単に騙されるかを見て、人に対する憎悪感は軽蔑に変わる。そのあたりの感情は、作者自身の感情が書かれているのではないかと思うほど、見事に書かれている。

その後グルヌイユは、どうしたら自分が作り出した香りを閉じ込めて保存することができるかを知るために、グラースに向かう。グラースでは、24人の若い女性を殺し、人の香りを保存する方法を身に着け、最後にパリで殺した少女と同じ匂いを持つ少女を殺してその香りを閉じ込めることに成功する。

殺害容疑で警察に逮捕されたグルヌイユは死刑を宣告されるが、町の広場で処刑される直前に、少女の匂いから作った新しい香水を撒く。その香りはすぐに群衆を畏敬と崇拝の念で魅了し、有罪の証拠はそろっているのに、人々はグルヌイユの無実を確信し、判事は死刑判決を覆し、釈放を決める。このあたりの書き方は、秀逸だ。

人々は匂いによって狂い、欲望に包まれ、全員が集団乱交に参加するが、その後誰もそのことを口にせず、覚えている者はほとんどいない。捜査が再開され、グルヌイユの雇い主が犯人ということで絞首刑に処せられ、街は平穏を取り戻す。

グラースでの経験は、グルヌイユに人に対する憎悪感と軽蔑とを再認識させ、パリに戻って死のうという気持ちをもたらす。生まれた場所にたどり着くと、極上の香水を自分ふりかける。まわりにいた人々は香りに惹かれ、グルヌイユに集まってきて、バラバラにして食べてしまう。

パリの墓地の隣の魚市場で生まれ、オーベルニュでの洞窟生活を経て、グラースでの少女連続殺人と広場での奇跡、そしてパリに舞い戻ってのグルヌイユの昇天まで、まるでイエス・キリストの生涯をなぞったかのような物語なのだが、感情の欠如と倒錯ととらえられかねない行動とがイエス・キリストとの比較を拒む。でも、人々の心を満たす絶対的なものをつくりだした点は同じだし、愛のない孤独に耐えていた点もそっくりだ。

目的を達成しても空虚で、幸せは見つからず、死へ向かう。人から匂いを奪うために必要なテクニックをマスターし、人の匂いをまわりのものから作り出すこともできるようになったグルヌイユにとって、少女の匂いを手に入れたいという欲望が、殺人になってしまった。欲望はいつもおそろしい。