応えないことの美しさ

1970年代の初め、アメリカのテレビで『Kung Fu』というドラマを見た。中国で育った少林僧クワイ・チャン・ケインが、19世紀のアメリカ西部を一人で歩いてゆく物語だった。カンフーという題名なのだから、当然、戦う話なのだろうと思っていた。ところが、主人公のケインはなかなか戦わない。人に侮辱されても、挑発されても、できることならそこを立ち去ろうとする。彼が求めているのは勝利ではなく、できるだけ争いに巻き込まれずに歩き続けることだった。

当時、東洋人である私は、このようなドラマをアメリカの白人たちが作っていることに驚いた。それ以上に心に残ったのは、物語の途中で何度も挿入される、幼いケインと寺の師たちとの会話だった。現在の世界で何かに直面すると、彼の記憶のなかに遠い寺院が蘇り、師の言葉が聞こえてくる。その言葉は「哲学的」という一語で片づけるには、あまりにも静かで、あまりにも賢いものに思えた。

50年以上が過ぎた。それでもなぜ、あのドラマのことを覚えているのだろう。最近になってTamingということを考え続けているうちに、一つの理由がわかってきたような気がする。私が心を動かされていたのは、ケインが戦わなかったことだけではなかったのではないか。彼には、世界から何かを求められても、すぐにはそれに応えない力があったのである。

人間をTameする方法は、命令することだけではない。「これをしなさい」と言って従わせることだけがTamingなのではない。人を侮辱することもできる。恐怖を与えることもできる。賞賛することもできる。「そんなことをされて黙っているのか」と挑発することもできる。人間の感情にはある程度予測できる反応があるから、それを知っていれば、命令などしなくても相手を動かすことができる。

ここから考えると、反抗することさえ、ときにはTamingのなかにある。

誰かに「お前は臆病者だ」と言われ、臆病者でないことを証明するために戦ったとする。その人は相手の命令には従っていない。しかし行動を決めたのは、本当に自分だったのだろうか。相手がその言葉を発しなければ、その戦いは起こらなかった。「戦え」と命じられて戦うことと、「臆病者」と呼ばれて戦うことには、不思議な共通点がある。どちらの場合も、自分の次の行動を相手に決められている。

そう考えると、従順と反抗は、私たちが思っているほど遠く離れたものではない。命令されたら必ず従う人が自由でないのと同じように、命令されたら必ず逆らう人も、それほど自由ではない。右へ行けと言われれば必ず左へ行く人は、一見反抗的ではあっても、自分が進む方向を決める力を相手に渡している。

ケインの不思議さは、この二つのどちらにも簡単には入らないところにあったのだと思う。

西部劇の世界で男が侮辱されれば、普通なら戦いが始まる。戦わなければ臆病者と思われるかもしれない。しかしケインは、その二択そのものから離れようとする。勝つか負けるかではなく、その勝負に参加しない。それは敗北とは違う。相手が設定した世界のなかで勝利することより、その世界に入らないことを選んでいるのである。挑発に対して答えを返す代わりに、挑発そのものを自分の問題にしないのである。

しかも重要なのは、ケインには戦う力があるということだ。弱いから戦わないのではない。戦えば勝てるかもしれない。それでも戦わないことができる。

ここには、私たちが普段考えている強さとは違う強さがある。力を持つことと、その力を使用することを切り離す能力である。強ければその強さを証明しなければならないというのも、一種のTamingなのかもしれない。知識を持てば語らなければならない。財産を持てば見せなければならない。権力を持てば行使しなければならない。侮辱されれば反撃しなければならない。問われれば答えなければならない。私たちの社会には、このように能力とその使用とを結びつける無数の期待がある。

しかし、本当の自由は、そのあいだに小さな空間をつくることなのかもしれない。できる。しかし、しないこともできる。怒る理由はある。しかし、怒らないこともできる。言い返す言葉は知っている。しかし、黙って歩き去ることもできる。答えを持っている。しかし、答えないこともできる。

そう考えていると、さらに興味深い矛盾に気づく。ケインほど深くTameされた人物もいないのである。彼は幼いころから寺で育てられ、身体を鍛えられ、感情を制御することを学び、師たちの教えを繰り返し聞いてきた。彼の身体にも精神にも、長い教育の痕跡が刻み込まれている。大人になってからも、何かに直面するたびに師との対話が記憶のなかに蘇る。寺は彼のなかから消えていない。むしろ寺は彼の内部に移されている。

それなのに、彼は不自由には見えない。

ここにTamingについての大切なことが隠れているように思う。Tamingそのものには、善も悪もないのではないか。問題なのは、Tameされた結果、その存在の可能性が狭くなるのか、それとも逆に広がるのかということではないだろうか。

怒ることしかできない人に、怒らずにいることを教える。恐怖から逃げることしかできない人に、そこに留まることもできると教える。逆に、我慢することしかできない人には、立ち去ることも、拒絶することも、ときには戦うこともできると教える。そのような教育もまたTamingだとすれば、それは人間を予測可能にするためのTamingとはずいぶん違う。それは、いつか教えそのものからも離れて、自分で選べる人間になるためのTamingである。

だから、良いTamingとは、いつまでも従順な存在をつくることではなく、最後にはTameする者を必要としなくなる存在を育てることなのかもしれない。師の教えの最終的な目的は、弟子が永遠に「師ならどう考えるだろう」と尋ね続けることではない。いつか師のいない場所で、自分の足で歩けるようになることなのだろう。そして、そのとき師の言葉は命令としてではなく、自分のなかに残された幾つもの声の一つとして聞こえてくる。

ただ、ケインは世界から完全に逃げてしまうわけでもない。そこが私は好きだったのだと思う。争いからは離れようとするのに、困っている人まで見捨てるわけではない。誰とも関わらなければ傷つけられることもTameされることも少なくなるかもしれないが、その自由は孤独とほとんど区別がつかなくなる。他人と関わりながら、相手に自分を明け渡さない。必要のない争いからは離れながら、必要なときには誰かのために立ち止まる。その微妙な場所を歩き続けることのほうが、ただ社会を拒絶するよりはるかに難しい。

おそらくTamingから完全に逃れることなど、人間にはできない。言葉を覚えたときから、家族、学校、社会、国家、宗教、文化、そして私たちが愛する人々までが、自分のなかに入ってくる。私たちは無数の他者の言葉からできている。Untamingとは、それらをすべて捨てて野生へ帰ることではないのだろう。

むしろ大切なのは、それらの声と自分の行動とのあいだに、ほんのわずかな余白を残しておくことなのではないか。侮辱された。そのあとに余白がある。恐怖を感じた。そのあとにも余白がある。命令された。賞賛された。仲間外れにされた。世間から「普通はこうする」と言われた。そのたびに、ごく小さな余白が残っていて、そこで一度立ち止まり、「私は本当にこれに応えなければならないのだろうか」と考える。

考えてみれば、私たちの生きる世界は、絶えず返事を要求してくる。何かを言われれば答え、評価されれば反応し、意見を求められれば立場を明らかにし、敵味方を問われればどちらかを選ぶ。沈黙していれば、何を考えているのかと尋ねられる。何もしなければ、なぜ何もしないのかと説明を求められる。もしかすると現代のTamingの一つは、何を選ばせるか以前に、絶えず何かに応えさせることにあるのかもしれない。

50年以上前のテレビ画面のなかで、ケインはしばしば黙って立っていた。戦えるのに戦わず、勝てるかもしれないのに勝とうとせず、必要がなければその場所から歩き去った。当時の私はそこに東洋的な賢さを感じていたのかもしれない。しかし今になってみると、もう少し違うものが見える。

彼が守っていたのは、平和だけではなかったのだと思う。彼は、自分と世界とのあいだにある小さな余白を守っていたのである。

世界は、怒れ、恐れろ、欲しがれ、証明しろ、勝て、所属しろ、こちら側へ来い、と絶えず呼びかけてくる。しかし、その呼びかけのすべてに応える必要はない。呼びかけられたからといって、そこへ行かなければならないわけでもない。問われたからといって、すべての問いに答えなければならないわけでもない。戦うこともできる。立ち去ることもできる。誰かのために立ち止まることもできる。そして、ときには何もしないことさえできる。

世界から差し出された問いを受け取りながら、それをすぐには自分の問いにしない。答える力を持ちながら、答えない自由を残しておく。そこには反抗の激しさとは違う、もっと静かな自由がある。

それを私は、応えないことの美しさと呼んでみたい。

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