人は、Tameされたいのだろうか。長いあいだTamingについて考えているうちに、この問いが気になるようになった。文明とは、人間が自然をTameしてきた歴史であると同時に、人間自身がTameされてきた歴史でもある。人は植物を栽培し、動物を家畜にし、水を制御し、森を管理し、金属を加工し、やがて自然のありとあらゆるものを人間に都合のいい形へ変えてきた。その一方で、人間自身もまた、家族や共同体や宗教や国家や学校や会社によって、社会の中で生きられるように絶えず形を整えられてきた。そう考えると、人間にはもともとTameされたいという欲望があるようにも思えるのだが、どうもそうではないような気がする。
人が欲しいのはTamingそのものではなく、Tameされることによって手に入るものなのではないだろうか。安全であること、明日の食べ物があること、仲間がいること、誰かに認めてもらえること、家や財産を守ってもらえること、そして明日もだいたい今日と同じような世界が続くだろうと思えること。人は何よりも、安心して生きたい。その安心を求めて共同体に入り、共同体が大きくなると、いつの間にか制度の中で生きるようになる。土地を登録し、税を払い、学校へ行き、試験を受け、資格を取り、会社に入り、法律を守る。最初から服従したかったわけではない。安心して暮らしたかっただけなのに、その安心を手に入れようとして制度の内部へ入り、制度の内部で生き続けるうちに、いつしか制度の作法が自分の作法になり、制度に従っているという感覚さえなくなってゆく。そして最後には、それが「普通」になる。
制度の中で生きていくためには、それなりのものを差し出さなければならない。人は長い年月をかけて勉強し、試験を受け、時間を守り、規則に従い、ときには理不尽なことを我慢し、自分の欲望を抑え、周囲の人々に合わせながら「ちゃんとした人間」になっていく。考えてみれば、それには人生のかなりの部分が使われている。だから、あとからやってきた人が、自分ほど苦労することなく同じ場所へ入ってくるように見えると、穏やかではいられなくなる。「私はこれだけ我慢してここまで来たのだから、あなたも我慢しなければならない」という感情が生まれるのは、単なる意地悪とは少し違う。自分が受けてきたTamingに意味がなかったと認めてしまえば、それまで自分が払ってきた犠牲は何だったのかという問いに直面しなければならないからである。
そう考えると、Tamingを最も熱心に守ろうとするのは、Tameした側とは限らないのかもしれない。むしろ、苦労してTameされ、その内側に自分の人生を築いてしまった人ほど、Tamingを守ろうとすることがある。 自分が身につけてきた規則や社会的な作法は、その人にとって単なる規則ではなく、自分が費やしてきた年月や努力と結びついている。制度を守ることは自分の人生を肯定することにもなり、制度を否定されることは、自分の生き方そのものを否定されることにもなりかねない。だから人は、自分を縛ってきた制度であっても、それを守り、さらに次の世代にも受け渡そうとするのだろう。
ここからTamingは、それまでとは違った強さを持ち始める。最初は権力が人間をTameしていたものが、やがてTameされた人間自身が、次にやってくる人間をTameするようになるからである。親は子どもに「ちゃんとしなさい」と言い、教師は生徒に「みんなと同じようにしなさい」と教え、会社の先輩は若い人に「私たちの若い頃はもっと大変だった」と言う。そこには必ずしも悪意があるわけではない。むしろ、その子や若者が社会の中で苦労しないように、「ちゃんとした人間」にしてあげなければならないという善意さえある。しかしその善意を通じて、社会の規範は次の人間へとコピーされてゆく。こうして、Tameされた人間自身がTaming装置になる。
最初のTamingは分かりやすい。「そうしなければ罰する」という外からの強制である。しかし、それが長く続くと、権力がそこにいなくても人は「そんなことをしてはいけない」と自分自身を監視するようになる。さらに進めば、自分を監視するだけではなく、「そんなことをする人を許してはいけない」と他人まで規律するようになる。そこまで行けば、もう誰かが命令する必要さえない。「なぜ、そうしなければならないのですか」と尋ねても、「誰かに命令されたからではない。普通そうするでしょう」という答えが返ってくる。この「普通でしょう」という言葉ほど、強いTamingはないのかもしれない。王が命令しているなら王に抵抗することができるし、独裁者が命令しているなら独裁者に抵抗することができる。ところが「みんな」が命令しているときには、どこへ向かって抵抗すればいいのかわからない。しかも、その「みんな」の中には、自分自身まで含まれている。
では、自分の中にTamingが入り込んでいることに気づいたとして、普通の人間に何ができるのだろう。会社を辞め、国家から離れ、貨幣を使わず、学校で身につけた考え方をすべて捨てて、社会の外で生きることなど現実にはほとんどできない。仮にどこか遠くへ逃げることができたとしても、自分の内側にすでに入り込んでしまったTamingまで、そこへ置いてくることはできないだろう。そう考えると、UntamingをTamingから完全に脱出することだと考えるかぎり、それはほとんど不可能ということになる。
けれども、そこで一つの違いに気づく。従うことと、絶対視することは違う。 税金を払ってもいいし、法律にも従えばいい。パスポートを持ち、銀行口座を使い、必要であれば会社の規則にも従えばいい。しかし、それらを世界の真理だと思う必要はない。これは自然法則なのではなく、この時代の、この場所の、人間たちが作った仕組みにすぎない。必要だから従っているのであって、正しいと思って従っているとは限らない。ここでは周囲に合わせているけれど、自分の内面まで同じにする必要はない。そのように考えるだけで、制度と自分との間には、ほんのわずかではあっても距離が生まれる。
「規則を守る」ことと「規則に支配される」ことは違う。 ある規則は合理的だから従う。別の規則には納得できないけれど、不必要な衝突を避けるために従っておく。また別の規則については、どうしても受け入れられないので距離を置く。そのすべてを白か黒かに分ける必要はなく、人間は本来、それぞれの規則との間に異なる距離を取りながら社会の中で生きている。そう考えると、「考えていることと、やっていることは一致しなければならない」という言行一致の美徳さえ、少し違って見えてくる。
人間は本来、それほど整然とした存在ではない。嫌だけれどやることもあれば、納得していないけれど黙っていることもあり、今日は従っても明日は従わないかもしれない。こちらではこう振る舞い、別の場所では違う自分になることもあるし、昨日まで信じていたことを今日はもう信じていないこともある。それをすべて不誠実とか矛盾とか呼んで排除してしまう必要はないのではないだろうか。むしろ、その曖昧さや矛盾、建前と本音のずれのようなものの中に、制度が人間を完全には占有できない小さな場所が残されているのかもしれない。
完全に透明で、完全に論理的で、考えていることと言っていることと実際にやっていることがいつでも一致していて、どこから見ても矛盾のない人間を想像すると、立派であるよりも、どこか息苦しいように思えてくる。人間には、もう少し曖昧なところがあっていい。人には説明できないものを持っていてもいいし、昨日と今日で違ってもいい。社会に合わせて振る舞いながら、自分の内側では違うことを考えていてもいい。それは必ずしも不誠実なのではなく、社会と自分との間に少しだけ距離を残しておくことなのである。
そして、自分にそうした余白を認めることができれば、他人にも同じ余白を認められるようになるのではないだろうか。自分はこのように生きているけれど、あなたまで同じように生きる必要はない。自分はこの規則に従っているけれど、あなたにもそれを正しいと信じろとは言わない。自分はずいぶん我慢してここまで来たけれど、あなたまで同じ我慢をしなければならないわけではない。そう考えることができたとき、「Tameされた人間が次の人間をTameする」という連鎖が、ほんの少し途切れる。自分自身は完全には自由になれなくても、他人を自分と同じ檻に入れないことならできる。それは普通の人間にできる、ささやかではあるけれど、とても重要なUntamingなのだと思う。
そう考えると、自由な人とは、何ものにもTameされていない人ではないのかもしれない。そんな人は、おそらくどこにもいない。自由な人とはむしろ、自分がどのようにTameされてきたかを知り、それを絶対視せず、さらにそれを他人にそのまま押しつけない人なのではないだろうか。完全な自由を求めて社会から逃げるのではなく、社会の中にいながら、社会が自分のすべてになってしまうことを拒む。その程度の自由であれば、普通に生きている人にもまだ可能なのかもしれない。
ここまで考えてくると、そもそもの「人はTameされたいのだろうか」という問いにも、少し違った答えが見えてくる。人間の奥深いところにあるのは、Tameされたいという一つの欲望ではなく、おそらく相反する二つの欲求なのだろう。誰かと一緒にいたい。しかし、それでも自分でいたい。 誰かと一緒にいたいから人は社会を作り、仲間から拒絶されたくないから周囲に合わせ、安心したいから規則を受け入れ、明日の世界を予測したいから他人にもある程度同じように振る舞ってもらいたいと思う。その積み重ねの中からTamingが生まれる。
ところが、その同じ人間が、束縛されたくないとも思っている。命令されたくないし、監視されたくもない。自分の人生はできれば自分で決めたいし、いつでもどこかへ行ってしまえる可能性を残しておきたい。誰にも見せず、誰にも説明しなくていい小さな場所を、自分の内側に持っていたい。そこからUntamingが生まれる。だから人は、集団から離れすぎると寂しくなり、集団に近づきすぎると息苦しくなる。少し離れては戻り、戻って安心すると、やがてまた窮屈になって少し離れる。TamingとUntamingとは、どちらか一方を選ぶものではなく、人間の内部に最初からある二つの欲求の間を行き来する運動なのかもしれない。
考えてみれば、それは一人の人間だけではなく、文明そのものにも見られる。人間はTamingによって安定を手に入れるが、その安定が固定化すれば息苦しくなり、そこからUntamingが始まる。自由が広がれば人間の可能性も広がるが、自由があまりに不安定になれば、人は再び安心を求め、新しいTamingへと戻ってゆく。そうであるなら、どちらかを完全になくそうとする必要はないのだろう。完全にUntameされた人間になろうとすれば社会から切り離されてしまうし、完全にTameされれば社会と自分との境界が消えてしまう。私たちにできるのは、その間を行ったり来たりしながら、自分にとって息をしやすい距離を探してゆくことなのだと思う。
だから、少しゆるく生きてもいいのだと思う。規則には従うけれど、規則を神様にはしない。社会には合わせるけれど、社会と自分を同一化しない。役割は果たすけれど、その役割が自分のすべてだとは思わない。昨日そう考えたからといって、明日も同じことを考えなければならないとは思わない。「これは従っておこう」「これは少し距離を置こう」「ここまでは譲ろう」「ここから先は譲らない」と、その都度考え、その都度少しずつ位置を変えていけばいい。ゆるく生きるというのは、無責任に生きることではなく、何もかもを白と黒に分けることをやめ、その間にある無数の灰色の中から、自分が生きられる場所を探し続けることなのだろう。
社会そのものが悪いわけでも、規則そのものが悪いわけでもない。人間が誰かと一緒に生きようとする以上、社会も規則も必要なのだと思う。ただ、それらが人間を隙間なく覆い尽くしてしまわないことが大切なのである。社会と自分との間、自分の役割と自分自身との間、言っていることと考えていることとの間、今日の自分と明日の自分との間に、ほんの少し隙間を残しておく。その隙間では、矛盾していてもいいし、人に説明できなくてもいい。何者でもない時間があってもいい。おそらく、私が長いあいだ探していた「余白」というのは、そういう場所なのだと思う。
自由とは、何にも従わないことではないのかもしれない。自由とはルールがないことではなく、ルールと人間との間に余白が残っていることなのではないだろうか。 そう考えるなら、完全にTameされないで生きる必要もない。Tameされながら、Tameされきらない。従いながら、絶対視しない。誰かと一緒に生きながら、それでもどこかに自分だけの場所を残しておく。その小さな余白さえ失わなければ、社会の内部に生きていても、人は自分自身であり続けることができるのかもしれない。
そして今は、そのくらいの自由でいいのではないかと、私は思っている。
「Tameされながら、Tameされきらない」
「(カッコマン)になりたくて、(カッコマン)になりきれない」みたいかな?
「Tameされきらなければ、Tameされてもいい」のほうが、適当なTitleなのかもしれない。