国境の外にできる余白

海外で長く暮らしていると、日本という国との関係が、次第に不思議なものになってくる。

日本人であることに変わりはない。日本の旅券を持ち、日本に家族や財産が残っていることもある。日本の銀行との関係が続いている人もいれば、ときどき日本へ帰り、そこで生活する人もいる。それなのに、日本で暮らしていたころには自分を隙間なく包んでいるように思えた国家の制度が、海外へ出ると急に遠くなる。

そして、その遠くなった国家から、ときどき規則だけが届いてくる。

海外に住むようになったら銀行に届け出なければならない。税務上の居住者に該当し、一定額を超える国外財産を持っているなら国外財産調書を提出しなければならない。複数の国籍を持つことになった人には国籍選択の制度がある。それぞれにはそれぞれの法律や規則があり、適用される条件も違っている。

ところが、海外で長く暮らしている人間の日常には、それらを自然に知るための経路があまりない。

日本国内にいれば、制度について何も知らなくても、知らないままで制度のなかを歩いていくことができる。役所から通知が来る。会社の人事から書類を渡される。銀行から連絡が来る。学校で教えられることもある。家族や同僚が教えてくれることもある。私たちは法律全集を読みながら暮らしているわけではない。それでも大部分の人が制度から大きく外れずに生活できるのは、法律そのものとは別に、法律や規則に人間を静かに適応させていく社会的な仕組みが存在しているからなのだろう。

これをTamingと呼んでもいいのかもしれない。

国家によるTamingは、「法律を守れ」と国家が一人ひとりに命令することで完成するのではない。むしろ強力なTamingほど、自分がTameされていることを感じさせない。住所を届け、税金を払い、銀行口座をつくり、健康保険に入り、免許を更新する。その一つひとつについて国家への服従を意識する人はほとんどいない。周囲の人も同じようにしているから、自分も同じようにする。それが生活というものになっている。

ところが、外国へ出ると、その装置の多くが働かなくなる。

日本の会社から書類は来ない。日本の市役所との接触も減る。日本のテレビや新聞を毎日見るとも限らない。日本の税理士や銀行員と日常的に話すわけでもない。それでも日本との法的な関係がすべて消えるわけではない。日本国籍は残り、財産も残り、制度によっては届出その他の義務が残ることもある。

つまり、Tamingする規則は残っているのに、Tamingを伝達する社会が消えてしまう。

ここに、海外生活者を取り巻く奇妙なグレーが生まれるのではないだろうか。

日本政府が海外の日本人をまったく把握しようとしていないわけではない。在留届制度があり、外務省も海外在留邦人数を推計している。しかし外務省自身、在留届を提出・更新していない邦人が存在することを想定している。 国内の住民登録を中心につくられた社会とは、国家と個人を結ぶ線の密度が違うのである。

しかも、問題をいっそう複雑にするのは、「ルール」と呼ばれているものが必ずしも同じ種類のものではないことだ。

法律もある。政令や省令もある。告示や通達もある。審査基準や処分基準もある。行政指導もある。さらに銀行など民間組織の内部的な取扱いもある。e-Gov法令検索を使えば法令を検索でき、e-Govポータルには各行政機関の法令、告示、通達などへの入口も用意されている。つまり、少なくとも制度の側も情報を公開しようとはしている。

しかし、ここには大きな違いがある。

情報がどこかに公開されていることと、その規則に従うことを要求される人が、その存在を現実に知ることができることとは同じではない。

何十年もフランスやタイで暮らしてきた人に、日本のある制度が改正されたとして、その人はいつ、どこで、それを知ることになっていたのだろう。まして行政機関の運用や、金融機関の内部的な取扱いまで含めれば、本人にはまったく見えていない規則が自分の生活を左右することも起こり得る。

そして、ある日突然、「その取扱いには反しています」と言われる。

言っている側には当然なのだろう。規則があり、そこに書いてある。しかし言われた側には、いいがかりのように聞こえることさえある。

「そんな規則があるとは知らなかった」だけではない。

もっと根本的な問いが生まれる。

「私は、それをどこで知ることになっていたのですか?」

ここで法とTamingとの違いが見えてくる。

法は、一定の条件を満たせば人を拘束する。しかしTamingが成立するためには、それだけでは足りない。人間の側が、その規則が存在する世界のなかで日常を営み、その規則を「そういうものだ」と受け入れる必要がある。

だから、日本国内では極めて強力に働くTamingが、国境を越えた瞬間、突然弱くなることがある。

海外にいる日本人が特別に反抗的だからではない。海外へ出ることで、国家と個人とのあいだに距離が生まれるからである。

日本では当然だったことがフランスでは当然ではない。フランスで当然のことがタイでは当然ではない。ある銀行で許されることが別の銀行では許されないこともある。税法上の居住地と国籍も同じものではない。そういう世界を何年も行き来していると、「日本ではそうなっています」という一言が以前ほど絶対的には響かなくなってくる。

それは必ずしも法律を軽視するということではない。

むしろ、法律と自分とのあいだに小さな距離が生まれるのである。

なぜ、この規則があるのだろう。誰に適用されるのだろう。法律なのか、それとも行政上の取扱いなのか。自分は本当にその対象なのだろうか。

国内にいたころなら持たなかった「なぜ?」が生まれる。

そして、これはこれまで考えてきたUntamingとよく似ている。

Untamingとは、規則を破ることではないのだろう。法律に違反することでも、国家を否定することでもない。自分を取り囲んでいる制度を、世界そのものだと思わなくなることなのではないだろうか。

法律には従う。しかし法律を自然法則とは思わない。国家に属する。しかし国家と自分を同一視しない。日本人である。しかし「日本人なのだからこう生きるものだ」という言葉に、自分のすべてを明け渡さない。

そう考えると、海外に暮らす日本人のまわりに広がっている「グレー」というものも、少し違って見えてくる。

もちろん、グレーのすべてを美化することはできない。明確な法的義務が存在する場合には、それに従う必要がある。知らなかったというだけで義務そのものがなくなるわけでもない。そして実際、たとえば国外財産調書についても、対象になるのは単に「海外財産を持つ日本人」ではなく、一定の要件を満たす日本の税法上の居住者であり、制度には具体的な適用条件がある。

それでも、グレーが生まれること自体には意味があるように思う。

それは、国家が弱いからでも、人間が不誠実だからでもなく、一つの国家の制度だけでは、一人の人間の生活全体を覆い尽くせなくなったときに生じる隙間なのかもしれない。

国内に定住し、一つの行政、一つの税制、一つの銀行制度、一つの社会常識のなかだけで生きているあいだ、その隙間はほとんど見えない。ところが国境を越え、複数の制度のあいだを行き来すると、それまで世界そのものに見えていた制度が、数ある制度の一つにすぎなかったことに気づく。

Tamingが消えるわけではない。フランスへ行けばフランスのTamingがあり、タイへ行けばタイのTamingがある。銀行にも組織にも、それぞれのTamingがある。人間はおそらく、どこへ行っても何かにTameされながら生きてゆくしかない。

けれども、複数のTamingのあいだを行き来していると、どれか一つを世界のすべてだと思うことが難しくなる。

その状態は不便である。ときには面倒であり、危うくさえある。

それでも、その隙間には小さな余白が残る。

国家から完全に逃げ出すのでもなく、国家のなかへ完全に自分を預けてしまうのでもない。規則を無視するのでもなく、規則に自分の全体を明け渡すのでもない。

以前考えた言葉をもう一度使うなら、それは結局、どこからも、少し離れて生きることなのかもしれない。

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