役に立っているあいだ、その存在は、自分が役に立っていることを説明する必要がない。むしろ、自分の有用性について説明を求められるようになったとき、すでにその存在は社会の中心から少しずつ周縁へ押し出され始めているのではないだろうか。
図書館のことを考えると、そのことがよくわかる。かつて indexing や cataloguing、reference service は、図書館が図書館であるために当然必要な仕事だった。それらがどれほどの利益を生み、投入した費用に見合う価値を生み出しているかを、一つ一つ説明する必要はなかった。ところが検索エンジンやオンライン・データベース、自動化された目録システムが現れると、「どうすればもっといい reference service ができるか」という問いは、いつのまにか「そもそも reference service は必要なのか」という問いへと変わっていった。
存在が当然であるあいだ、存在理由は問われない。ところが代替物が現れると、存在は機能へと読み替えられ、やがてコストとして計算されるようになる。reference librarian も、一人の人間としてではなく「質問に答える機能」として見られるようになり、この質問一件にいくらかかるのか、データベース検索ではいけないのか、利用者自身が検索すればいいのではないか、といった比較が始まる。そうなったとき、人はすでに交換可能な部品に近づいている。
そこには少し残酷な逆説がある。周縁へ追いやられ始めたものほど、自分がどれほど有用であるかを盛んに説明しなければならなくなる。「図書館員にはこんな価値がある」「紙の本にはこんな長所がある」「人間の教師にしかできないことがある」「人間の医師だからできないことのない仕事がある」「人間の翻訳者にしかわからないニュアンスがある」といった主張が現れる。もちろん、それらの主張が間違っているわけではない。しかし本当に興味深いのは、その主張の正しさではなく、なぜ突然そんな説明をしなければならなくなったのかということである。
馬が交通の中心だったころ、馬に自動車にはない価値があると主張する必要はなかった。馬が輸送システムそのものだったからである。その価値をあらためて説明しなければならなくなるのは、馬が交通の中心から外れ始めてからだった。役に立つから使われていたものが、やがて失いたくないから残されるものへと変わり、そのあとになって文化、伝統、人間らしさといった名前を与えられ、保護されるようになる。
駅の切符切りやバスの車掌もそうだった。コンピュータへデータを入力するためのパンチャーやオペレーターもそうだったし、弁護士事務所で判例を探していた人々にも似たことが起きた。そしてこれから、市役所の窓口や医療事務をはじめ、多くの仕事にも同じような変化が起こるかもしれない。
ただし、職業はある日突然消えるわけではない。その前に、職業を構成していた仕事が、一枚ずつ人間から剥がされていく。人間が駅の改札に立っているあいだ、その人の仕事はかなり曖昧で、切符を見て穴を開けるだけでなく、道を聞かれれば答え、異常が起これば判断し、子どもや老人を助け、駅の様子にも目を配っている。ところが合理化が始まると、「この人はいったい何をしているのか」が分析され、その曖昧な仕事が確認、認証、精算、案内、監視、例外処理といった個々の機能へと分解される。そして一度機能として定義されれば、それを人間の身体から切り離し、別のものに担わせることが可能になる。
かつて機械が代行しやすかったのは、繰り返す、計算する、運ぶ、穴を開ける、決められたものを確認するといった仕事だった。ところがコンピュータとAIの登場によって、検索する、分類する、比較する、要約する、翻訳する、文章を書く、質問に答えるといった認知的な仕事まで、人間から切り離すことが可能になりつつある。最初は「この仕事をもっと効率的にしよう」と言われていたものが、やがて「この仕事の一部を自動化できないか」となり、「人間でなければできない部分はどこなのか」と問われ、最後には「そもそも、ここに人間を置いておく必要があるのか」という問いへと変わっていく。
考えてみれば、馬にも同じことが起きた。馬という生命そのものが自動車に敗れたのではなく、運ぶ、引く、移動するという機能が馬の身体から切り離されたのである。だから馬そのものは残ったが、馬の仕事は消えた。そして同じようなことが人間に起こるためには、人間そのものが消滅する必要などない。人間から、社会的に必要とされていた機能が一枚ずつ剥がされていけば、それでいのである。
そう考えると、問題はAIが人類を滅ぼすかどうかではなくなる。一人の人間を社会の中心に置いておく理由が、一枚ずつ剥がされていったあと、人間はどこへ行くのか。こちらのほうが、はるかに現実的な問いに思えてくる。
ところが、ここで奇妙な反転が起こる。仕事を失うということは、文明によるTamingから放り出されることかもしれないが、同時にそれは、「役に立たなければ存在してはいけない」という、もっと古くて深いTamingから解放される入口にもなりうるのではないだろうか。
人間は農耕社会以来、働き、生産し、所得を得、その所得によって生きるという長い鎖の中へ少しずつ組み込まれてきた。近代になると職業は所得を得る方法であるだけでなく、人間が社会の中で何者であるかを示すものにもなった。「何をしていますか」と尋ねられれば、私たちはたいてい自分の職業を答える。それほどまでに人間の存在と職業は結びついてしまったため、仕事を失うということは、所得を失うだけではなく、社会のなかで自分が何者であるかを失うことにもなってしまった。
だからAIの時代に本当に必要なのは、人間にしかできない新しい仕事を必死に探し続けることではないのかもしれない。それでは、「人間は役に立つから存在を許される」という古い論理を、新しい仕事によって延命しているだけだからである。むしろ必要なのは、生きることと役に立つことを切り離すことではないだろうか。
AIやロボットによって一人の人間がかつての十人、百人分の仕事をできるようになったとしても、そこから「だから残りの人間は不要だ」という結論が自然に導かれるわけではない。その生産力を誰が所有し、誰に分配し、そこから生まれた余剰を何のために使うのかは、人間が決める社会制度の問題である。
AIには、したがって正反対の二つの未来がある。一つは、AIが働くようになったために人間が不要とされ、仕事と所得を失い、社会の周縁へ追いやられていく未来であり、これは馬がたどった道に近い。もう一つは、AIが働くようになったことによって、人間が生存のために働かなければならない時間そのものが減り、それまで労働に差し出していた時間を自分へ取り戻していく未来である。「人間が役に立たなくなった」と「人間は役に立たなくてもよくなった」は、言葉としてはよく似ているが、そこにはまったく異なる二つの文明がある。前者は人間の周縁化であり、後者は人間のUntamingである。
後者の社会を想像してみるといい。朝起きても会社へ行く必要はないが、それを「失業」と呼ぶ人はいない。社会を維持するために必要な人間労働そのものが少なくなり、職業を持っていないことが特別な状態ではなくなっている。食料、住宅、医療、エネルギーなど、生きるために必要なものへのアクセスも、本人が労働市場でどれほど価値を持っているかということから、ある程度切り離されている。
朝食のあと散歩に出て、本を読みたければ読み、庭に出たければ庭仕事をし、文章を書きたくなれば書く。何もしたくなければ、何もしなくてもいい。午後になって近所の子どもがやって来て歴史について尋ねるので、面白くなって二時間ほど話したとしても、それを「仕事」と呼ぶ必要はない。授業時間を記録する必要もなければ料金を取る必要もなく、ただ話したいから話す。夕方には友人がやって来て、一緒に料理をし、酒を飲みながら取りとめもない話をしているうちに一日が終わる。経済統計から見れば、ほとんど何も生産していない一日かもしれないが、本人にとっては、それでも十分に悪くない一日だったと思える。
これまでの社会では、時間は労働になり、労働は生産になり、生産が所得となって、ようやく生存へとつながっていた。それが反転し、生存がまず保障され、その人の前に時間があり、その時間をどう過ごすかを本人が決められるようになる。実は私たちは、その小さな模型をすでに知っている。十分な年金や資産を持って退職した人である。庭仕事をしてもよく、本を読んでもよく、旅行しても孫と遊んでも昼寝をしてもいい。ただし、いまの社会ではそこに「長いあいだ働いたのだから、これからは好きにしていい」という条件がついている。未来のUntamingがそこからさらに進むとするならば、その自由な時間を、若いころ十分に働いた人への褒美としてではなく、最初から人間自身に属する時間として考えることになるのだろう。
けれども、それだけでは十分ではない。制度が人間を労働から解放したとしても、人間自身が「今日は何もしなかった」「誰からも必要とされなかった」「何も生み出さなかった」ということに耐えられなければ、Tamingは終わらない。外側に主人がいなくなったあとも、自分自身の内側に主人を飼い続けることになるからである。
私たちは幼いころから、何になりたいのか、何が得意なのか、今日は何をしたのか、と繰り返し尋ねられる。学校では成績がつき、仕事では成果を測られ、社会では肩書や所得によって人間を説明することに慣れている。そうして長い時間をかけて、自分は何かをし、その結果を誰かに評価してもらうことで初めて価値を持つ、という回路が心の内側につくられていく。そのため、制度によって「もう働かなくてもいい」と言われたところで、私たちは簡単には自由になれない。
承認欲求そのものをなくす必要はないだろう。他人に認めてもらいたいと思うことは自然なことである。ただ、認められなければ自分には価値がない、とまで考える必要はない。誰にも見せない文章を書き、写真を撮っても投稿せず、本を読んでも何を学んだかを説明せず、散歩をしても歩数を測らず、旅行をしてもその経験を誰かに示す材料にしない。庭に花を植えても誰にも見せず、何も残らなくてもかまわないと思える時間を少しずつ持つことは、内側に住みついた主人から離れていく小さなUntamingなのかもしれない。
しかもUntamingとは、社会から逃げ出すことでもない。社会保障を利用し、道路を使い、病院へ行き、銀行もAIも飛行機も使えばいい。社会という巨大な仕組みに守られ、その恩恵を受けながら、それでも社会が用意した尺度だけで自分自身の価値を測らない。そのくらい柔らかな自由であってもいい。
そこには、かつての「主婦」という存在を思わせるものもある。有給の職業を持っていなくても、社会の中に居場所を持つことのできる人間である。ただし、かつての主婦は決して「無用」だったわけではなく、家事をし、子どもを育て、老人を世話し、夫を支えるという別の有用性を強く求められていた。賃金労働によるTamingから外れていたとしても、家族制度という別のTamingの内側にいたのである。
未来がそこからさらに進むとするならば、家事や育児といった別の有用性さえ、人間が存在するための条件にはならない社会になるだろう。職業を持たないことが欠落ではなくなり、「無職」という言葉そのものが意味を失い、仕事をしている人もいれば、していない人もいて、必要なときだけ仕事をする人もいる。それだけの違いになる。
ここで唐木順三の『無用者の系譜』を思い出す。そこでは、世俗から離れた「無用者」たちが、結果として日本の文学や思想や文化を担った。しかし、「無用者こそ文化を生み出した」と考えた瞬間、実は私たちは無用者をもう一度、有用な存在へと戻してしまう。芭蕉は俳諧を残し、良寛は詩歌や書を残したから、その人生には価値があったのだと考えるなら、結局のところ、人間は何かを残さなければならないというところへ戻ってしまう。
ならば、もう一歩先まで行ってみてもいいのではないだろうか。文化さえ生み出さなくてもいい、と考えてみるのである。俳句を書かなくても、本を書かなくても、思想を残さなくてもいい。地域社会への貢献や若い人への教育、創造的な活動によって自分の存在を正当化する必要もない。朝起きてコーヒーを飲み、庭に鳥が来ればしばらく眺め、昼になったら何か食べ、暑くなったら昼寝をし、夕方になったら海まで歩く。水平線を眺めているうちに日が暮れたので家へ帰り、眠りにつく前に「今日の夕焼けはきれいだったな」と思う。その一日が何も生み出さなかったとしても、本人にとってそれが悪い一日でなかったなら、それでいいのではないだろうか。
しかも、それを「そうすれば幸福になれる」という言葉によって正当化する必要さえない。幸福度を高めるためでも、健康寿命を延ばすためでも、認知症を予防するためでもなく、創造性を高めるためでもない。海を眺めていた三時間がストレス軽減に役立ったと説明した瞬間、その三時間はまた別の目的のために動員され、有用性の世界へ連れ戻されてしまう。だから海を見ていた時間には、何の効果もなくてもいい。
市場から見れば何も起こっておらず、国家から見ても何も起こっておらず、SNSにも何一つ記録されていない。それでも本人の内側では、風が気持ちいい、雲の形がおもしろい、あの鳥は何という鳥なのだろう、そういえば昔もこんな海を見たことがあった、という小さな出来事が静かに起きている。そしてその出来事は、作品にも情報にも経験談にも変換されず、外部へ出力されないまま、その人の内側だけで生まれて消えていっていい。
考えてみれば、文明は長いあいだ、世界に存在するものを次々と役立てる方向へ進んできた。土地を耕し、植物を作物にし、動物を労働力や食料に変え、水を管理し、森を資源として利用し、時間を労働時間にし、人間の能力を職業へ組み込み、さらには知識や情報まで利用可能な資源へと変えてきた。Tamingとは、世界に向かって絶えず「お前を何に使えるか」と問い続ける文明の運動だった、と見ることもできる。そしてその問いが最後には人間自身に向かい、何ができるのか、社会にどんな価値を提供できるのか、何を生み出したのか、何を残したのか、どれほど成長したのかと問い続けるようになり、ついには幸福であることまで人生の成果の一つとして測定されるようになった。
けれども、そうした問いを一つずつ手放していくと、その先に残るものは驚くほど単純なのかもしれない。人間は生きており、それだけである。それは何もしないことを理想にするという意味ではない。本を読みたければ読めばよく、文章を書きたければ書けばよく、木を植えたければ植え、人を助けたければ助け、働きたければ働けばいい。その結果として作品が生まれ、誰かの役に立ち、文化と呼ばれるものまで生まれるかもしれないが、それはあくまで結果であって、自分が存在する資格を証明するための条件ではない。「私は文章を書いている。だから私には価値がある」のではなく、「私は文章を書いている。書きたいから」と言って、そこで終わることができる。
こう考えると、Untamingとは壮大な解放運動でも、文明から逃げ出すことでもないのだろう。「これは何の役に立つのか」という問いを、世界のすべてに向けて発し続けなくてもよくなり、最後には自分自身についても、自分を余すところなく利用し、能力も時間も人生も使い切らなければならないとは考えなくなる。自分を使い切らなくてもいいという感覚を持つことこそ、Tamingから少し離れることなのかもしれない。
そう考えるところまで来ると、AIによって人間の仕事がなくなっていく未来も、これまでとは少し違った姿に見えてくる。私たちはAIが人間から仕事を奪い、機械に仕事を奪われた馬と同じように人間も文明の周縁へ追いやられるのではないかと恐れてきた。その危険は確かにある。しかし同じ技術が、正反対の可能性を開くこともありうる。AIが人間から奪うものは仕事だけではなく、「生きるためには何かの役に立たなければならない」という条件そのものかもしれないからである。
もしそうなれば、AIによって仕事を失った人々が、新たに「人間にしかできない仕事」を探して再び有用性を証明し合うのではなく、そもそも職業を持っていることが成人の標準ではない社会へ移っていくことも考えられる。もちろんそのためには、AIや自動化が生み出した富が少数の所有者に集中し、仕事を失った人間が所得まで失う社会にしてはならない。「仕事をしなくてもいい」と「仕事をさせてもらえず、生きる手段も与えられない」とでは、外から見れば似ていても、その意味はまったく反対である。前者はUntamingになりうるが、後者はただの排除でしかない。
けれども、生存が労働からある程度切り離されたうえで、さらに人間の内側からも「役に立たなければならない」という強迫が少しずつ薄れていくなら、私たちは人類史でもかなり珍しい社会を見ることになるかもしれない。そこでは本を読むことを教養のためと説明せず、身体を動かすことを健康のためと説明せず、人に会うことを人脈のためと説明せず、旅を経験の獲得と考えず、何もしない時間についてさえ何か別の価値へ変換する必要がなくなる。暇になれば自己啓発をし、散歩をすれば歩数を測り、本を読めば何を学んだかを考え、旅をすれば写真を残し、眠れば睡眠の質まで測るという、何でも何かの「ため」にしてしまう習慣から、人間が少しずつ離れていくのである。
その意味では、AIによる本当のUntamingとは、労働時間がゼロになることではなく、人生を覆っていた「ため」が少しずつなくなっていくことなのかもしれない。AIが実用的な仕事を引き受けるようになったからといって、その代わりに人間は芸術を作らねばならない、創造的でなければならない、人間らしい感性を示さなければならないと考えたなら、それも「経済を生産せよ」という命令を「文化を生産せよ」という命令に置き換えただけで、Tamingの構造そのものは変わらない。何かを創造することも、誰かの役に立つことも、それをしたい人がすればいいのであって、誰もが芭蕉や良寛にならなければならないわけではなく、何者にもならず、何も残さず、昨日とほとんど同じ一日を過ごしたとしても、それによって人生そのものの価値が減るわけではない。
そうなったとき、「人間が役に立たなくなった」という出来事は、「人間は役に立たなくてもよくなった」というまったく別の意味へと読み替えられるだろう。前者が人間を文明の中心から周縁へ追いやる言葉だとすれば、後者は人間を「有用でなければ存在してはいけない」という長いTamingから解いていく言葉である。その違いを決めるのはAIそのものではなく、AIが生み出す富をどのように分けるかという社会制度であり、他人を何によって評価するかという文化であり、そして最後には、自分自身を何によって認めるのかという一人一人の内面なのだろう。
だから未来のUntamingを象徴する風景を描くとすれば、巨大なAIの施設や無人の工場よりも、もっと静かな情景のほうがふさわしいように思う。平日の午後、海辺のベンチに一人の人が座り、仕事をしているわけでも、勉強をしているわけでも、自己投資をしているわけでもなく、写真を撮って誰かに見せようともせず、健康や創造性のためという理由すら持たずに、ただ海を眺めている。その人は社会を捨ててそこへ来たのではなく、その社会がつくった道路を使い、病院や銀行を利用し、AIの恩恵を受け、多くの人と同じように社会の仕組みに守られながら暮らしている。それでも社会に対して、自分がなぜ生きていていいのかを有用性によって説明する必要がなく、さらに自分自身に対しても、海を眺めていた三時間を正当化するための理由を探す必要がない。
その三時間からは作品も生まれず、文化も生まれず、誰かの役に立つ知識も残らないかもしれない。それでも夕方になり、海の向こうに沈んでいく光を眺めながら、今日は悪くなかったと思って家へ帰ることができるなら、その時間はそれだけで十分なのではないだろうか。何かのためではない時間を、自分の時間として生きることができるということ、それこそが、AIによって人間に返される可能性のある、これまで私たちが豊かさと呼んできたものとは少し違う、静かで深い贅沢なのかもしれない。
そしてそこまで行けば、もはや「無用者」という言葉さえ必要なくなる。有用であるか無用であるかという区別そのものが意味を失い、人間は何かを生産するためでも、文化を残すためでも、社会に貢献するためでもなく、ただ生きていることができる。Tamingの長い歴史の果てにあるUntamingとは、社会の外へ脱出することではなく、社会に守られながらも、自分の人生を何かの「ため」に差し出さなくてもよくなることなのだろう。そして、もし人間がいつかそんなところまでたどり着くことができるなら、それは文明が人間を必要としなくなった瞬間ではなく、人間がようやく、自分自身を「役に立つもの」として扱わなくてもよくなった瞬間なのかもしれない。