人間が取り戻すもの

社会の中で生きていると、人はいつのまにか「何者か」であることを求められる。子どものころには何になりたいのかと聞かれ、大人になると何をしている人なのかと尋ねられる。会社員、医師、教師、作家、主婦、退職者、無職といった言葉によって、人は社会の中に居場所を与えられ、同時に、その言葉にふさわしい振る舞いを期待される。

考えてみれば、これはかなり不思議なことである。一人の人間の内部には、そのときどきでまったく違った感情や欲望があり、昨日考えていたことと今日考えていることが違っていてもおかしくない。それなのに社会は、一人の人間をできるだけ一貫した存在として理解しようとする。あなたは誰なのか、何をしているのか、何ができるのか、何を信じているのか、と問い、その答えを一つの人物像へまとめようとする。

これもまた、人間をTameする方法の一つなのかもしれない。

野生の植物を作物にするとき、人間はその植物が持っていた多くの可能性の中から、自分たちに都合のいい性質を選び出してきた。動物を家畜にするときにも、扱いやすさ、従順さ、繁殖しやすさ、肉や乳や労働力としての有用性を選び取ってきた。そして社会が人間をTameするときにも、それと少し似たことが起こる。人間の内部にある曖昧さや矛盾や気まぐれをできるだけ抑え、その人が何者であり、何ができ、どこに所属し、どのような役割を果たすのかを明確にしていく。一人の人間は、社会にとって理解可能で、予測可能で、したがって利用可能な存在へと変えられていく。

そのことを考えていると、Fernando Pessoa(フェルナンド・ペソア)というポルトガルの詩人が、とても奇妙な存在として浮かび上がってくる。

Fernando Pessoaは、単に複数の筆名を使った作家ではなかった。彼が heteronym と呼んだ異名者たちは、それぞれに独自の経歴や性格、思想、美学、文体を持つ別個の作者として構想されていた。主要な異名者にはAlberto Caeiro、Ricardo Reis、Álvaro de Camposがおり、さらにBernardo Soaresという半異名者がいる。Fernando Pessoa自身も、これらを単なる偽名とは区別していた。

Alberto Caeiroは田園の詩人として、Ricardo Reisは医師として、Álvaro de Camposは海洋技師として人物像を与えられている。しかも違うのは職業だけではなく、ものの考え方や詩の書き方まで異なっていた。 Fernando Pessoaは、一つの身体の中から次々と異なる作者を生み出し、それぞれに違う世界を見せたのである。

これを「多重人格」のような心理学的な話として考える必要はないだろう。むしろ興味深いのは、一人の人間は本当に一人でなければならないのか、という問いである。

私たちは普通、一貫していることを望ましいものだと考える。昨日言ったことと今日言っていることが違えば、「言っていることが変わった」と非難される。ある思想を持つ人なら、それにふさわしい発言を続けることを期待される。会社員には会社員らしさがあり、教師には教師らしさがあり、親には親らしさがある。社会的な役割が明確になるほど、「その人らしさ」まで固定されていく。

社会にとって、それは便利なのだろう。この人はこういう人間だと分かれば、その人が明日どのように振る舞うのかを予測できる。その人に何を任せられるのかも分かる。人格の一貫性は信頼を生み、信頼は組織を可能にし、組織は大勢の人間を協働させる。

つまり、一貫した「私」は社会生活にとって非常に有用なのである。

しかし、それは同時にTamingでもある。

Fernando Pessoaの異名者たちは、この一貫した「私」を奇妙な仕方で壊してしまう。Fernando Pessoaは、一人の自分を作り上げ、それを守り続けるかわりに、自分の内部に複数の書き手を置いた。それぞれが異なる思想を持ち、異なる文体で語り、互いに完全に一致する必要もなかった。彼自身は異名者たちの作品を、一人の作者が名前だけを替えて書いたものではなく、作者自身とは別の人物が書いたものとして説明している。

このあり方をTamingという視点から眺めると、とても面白い。

私たちはこれまで、Tamingとは土地や植物や動物や人間を「役に立つもの」へ変えていくことだと考えてきた。しかし、役に立つためには、それ以前にもう一つ必要なことがある。

何であるかを確定しなければならない。

馬なら馬としての用途があり、土地なら土地の用途があり、会社員なら会社員としての役割がある。分類できなければ、うまく利用できない。名前を与え、境界を作り、性質を定義し、その存在に期待される働きを決めることによって、初めて社会はそれを安定して利用できるようになる。

そう考えると、Tamingとは有用化だけではなく、固定化でもあるのではないだろうか。

そしてFernando Pessoaのおもしろさは、その固定化から逃げ続けたところにあるように見える。

そのことはAlberto Caeiroを考えると、さらに興味深くなる。Alberto Caeiroは学校教育をほとんど受けていない田園の詩人として造形されている。 もちろん、彼を単純に「無用な人間」と呼ぶのは正確ではない。しかし彼の世界は、私たちがここまで考えてきた「有用性から離れた世界」を連想させる。

文明は、目の前にあるものをそのままにしておくことが苦手である。

土地を見れば何を作れるかを考え、森を見ればどれほど木材を得られるかを考え、水を見れば灌漑や発電に利用できないかと考える。そして人間を見れば、この人には何ができるのか、どんな教育を受け、どの仕事に向いているのかを考える。現代になると、その視線は自分自身にも向けられ、私たちは自分の時間、自分の身体、自分の能力、自分の経験まで、できるだけ有効に使おうとするようになった。

何でも何かに変換するのである。

時間を成果へ、知識を資格へ、経験を経歴へ、人間関係を人脈へ、趣味を自己実現へ、散歩を健康へ、読書を教養へ変換していく。何かをただ経験するだけではどこか落ち着かず、その経験が何につながるのかを考えずにはいられない。

しかし、世界にあるものは、本当にそのように別の何かへ変換されなければならないのだろうか。

木は、木のままであってはいけないのだろうか。海は海のままでは足りず、癒やしや観光資源や美的経験に変換されなければならないのだろうか。そして人間も、ただそこにいるだけでは足りず、職業や能力や成果へ変換されなければならないのだろうか。

ここでBernardo Soaresの存在も興味深く見えてくる。Fernando PessoaはBernardo Soaresを自分に近い半異名者として説明し、その散文を「終わりのない夢想」と結びつけている。 この人物を考えていると、外の世界で大きな出来事を起こす人生だけが豊かな人生なのではない、という当たり前のことに気づかされる。外から見れば、ほとんど何も起こっていない時間であっても、人間の内部では記憶や想像や感覚や夢想が絶えず動き続けているからである。

そして、このことは「無用」という問題にもつながってくる。

唐木順三が『無用者の系譜』で見つめたのは、世俗的な有用性から身を外しながら、結果として日本の思想や文学や文化に深いものを残した人々だった。しかし、「無用者こそ偉大な文化を生み出した」と言えば、無用者は再び別の意味で有用な存在になってしまう。世俗には役に立たなかったが、文化には役に立った、ということになるからである。

Fernando Pessoaについても、同じ罠がある。これほど巨大な文学を残した人物を「無用な人」と呼ぶことはできない。しかし重要なのは、Fernando Pessoaが有用だったか無用だったかを判定することではなく、むしろ人間を有用と無用に分ける発想そのものから、少し離れてみることなのではないだろうか。

私たちは「無用であってもいい」と言う。しかし、その言葉にはまだ「本来なら有用であることが望ましい」という影が残っている。「文化を生み出さなくてもいい」と言うときにも、文化を生み出した人を上に置き、何も生み出さなかった人を下に置いたうえで、下にいる人も許そうとしているようなところがある。

そこからもう一歩外へ出ると、有用と無用という区別そのものが必要なくなる。

人間が海を眺めている。その人は詩を書かない。海について考察もしない。写真を撮ることもなく、SNSにも載せない。海を見ることが心身の健康にどのような効果をもたらしたのかも測らない。三時間ほどそこに座り、風が少し冷たくなったので家へ帰る。

その三時間は何だったのか。

何でもない。

そして、何でもないままでいい。

ここで初めて、Tamingとは違う世界がわずかに見えてくる。

Tamingされていないということは、社会から逃亡することではないのだろう。仕事を拒否することでも、国家や経済から完全に独立することでもない。社会保障を利用してもいいし、道路を使っても、病院へ行っても、銀行を利用してもいい。AIを使うことにも何の矛盾もない。Tamingから少し離れるということは、社会との関係を断つことではなく、社会によって自分の全体を説明されない余白を残しておくことなのではないだろうか。

会社員ではある。しかし会社員だけではない。親ではある。しかし親だけではない。日本人である。しかし日本人であることがその人のすべてではない。作家であっても、一日中作家でいる必要はない。昨日ある思想を信じていても、今日それを疑っていい。そして何者でもない午後があってもいい。

ここまで来ると、Fernando Pessoaの異名者たちは、単なる文学的な技巧とは違って見えてくる。もちろん、heteronymはFernando Pessoa自身が作り上げた文学的構想であって、これをそのまま政治的・社会的なTamingへの抵抗として彼自身が唱えた、と言うことはできない。しかしTamingというこちら側の視点から彼を読めば、一人の人間を一つの「私」に固定しない彼の文学は、人間の中には社会的役割では使い切ることのできない広大な余白があることを思い出させてくれる。

そして、ここでAIの問題が思いがけずつながってくる。

AIが多くの仕事を人間から引き受けるようになれば、私たちはまず、「これから人間にはどんな仕事が残るのか」と考えるだろう。そして、「AIにはできない人間らしい仕事とは何か」を探そうとする。しかし、この問いそのものが、まだTamingの内部にあるのかもしれない。AIに計算や検索や文章作成を任せる代わりに、人間には創造性、共感、芸術、コミュニケーションといった別の機能を割り当てようとしているからである。

つまり、「人間を何に使えるか」という問いをやめていない。

AIが実務を担うなら、人間は文化を担え。AIが合理性を担うなら、人間は感情を担え。AIが生産を担うなら、人間は創造性を担え。そうやって新しい役割を与えれば、人間は再び社会にとって「有用」になる。

しかし、それでは人間はTamingから解放されたことにはならない。厩舎が変わっただけである。

本当のUntamingがあるとすれば、人間に新しい役割を割り当てることではなく、役割を持たない時間があってもいいと考えられることなのではないだろうか。何者かであることをやめるのではない。必要なときには教師になり、親になり、友人になり、働く人にもなる。しかし、それらのどれによっても自分の全体を説明しない。

Fernando Pessoaは、一人の人間のなかに一人だけを置かなかった。

そのことを考えていると、Untamingというものの姿も少し違って見えてくる。それは「本当の自分」を社会のTamingから救い出すことですらないのかもしれない。なぜなら、その発想にはまだ、社会によって歪められる以前の純粋で一貫した「本当の私」がどこかに存在するという前提があるからである。

しかし、もともと一人の人間の内部には、いくつもの自分があっていいのではないだろうか。働いている自分、何かを考えている自分、誰かを愛している自分、昨日とは違うことを考えている自分、海を眺めて何も考えていない自分。それらを一つの思想、一つの職業、一つの人生目的のもとへ無理に統合しなくてもいい。

そう考えると、Tamingの反対側にあるものは、「自由な人間」という完成された人格ですらないのかもしれない。

もっと曖昧で、移ろいやすく、説明しにくい存在である。

今日は文章を書き、明日は何も書かず、昨日は世界について考え、今日は海を眺めている。それを一つの物語へまとめ、「私の人生の目的はこれだった」と説明する必要もない。人生が一貫した作品にならなくても、自分という人間が完成しなくても構わない。

もしかするとFernando Pessoaが私たちに見せてくれる最も面白い風景は、何人もの人格を作り出したという奇抜さそのものではなく、一人の人間は、一人の「役に立つ人間」へ整理されなくてもいいという可能性なのではないだろうか。

Tamingする文明は、「あなたは何者か」と問い、その答えをできるだけ確定しようとする。それに対するUntamingは、必ずしも「私はこういう人間だ」と別の答えを返すことではない。

問いそのものから、少し離れてみることである。

何者なのかと聞かれても、いつも答えを持っている必要はない。何の役に立つのかと聞かれても、自分の人生全体を使って答える必要はない。そして誰にも聞かれない午後には、何者でもないまま海を眺めていてもいい。

その時間には名前がなくてもいいし、役割もなくていい。そこから文化が生まれなくても、思想が生まれなくても、明日の仕事に役立つ何かを得られなくてもいい。

ただその人の内側を、誰にも利用されない時間が流れている。

Tamingから人間が取り戻すものとは、結局、そのような「誰にも使われない自分」なのかもしれない。

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