2024年9月27日(金)
自然という不自然
今週の書物/
『The Hidden Life of Trees』
Peter Wohlleben 著、Jane Billinghurst 訳
Greystone Books (2015)
『Das geheime Leben der Bäume』
Peter Wohlleben 著、
Ludwig Buchverlag (2015), Heyne Verlag (2019)
『樹木たちの知られざる生活』
ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川 圭訳
早川書房、2018年刊
Google によると、世界に存在する全ての本の数は1億2986万4880冊だという。Google がどんな計算をしようと、確かなのことがある。本の数はとてつもなく多いということだ。人が一生に読む本の数は、平均2000冊にも満たないという記事を見つけた。どんな読書家も、本のほとんどを読まずに一生を終える。
ほとんどの人に知り合わず、ほとんどの本に出合わない人生のなかで、どんな人と知り合い、どんな本と出会いのかは重要だ。どんなふうな出会いであっても、どんな偶然であっても、必然に思える。本屋で、図書館で、書評で、広告で。人生を変えるような本との出会いがあれば、運がいい。
人生を変えるような本が いい本であれば、もう言うことはない。私にとってのそんな本が、今週取り上げる『The Hidden Life of Trees』(Peter Wohlleben著、Jane Billinghurst訳、Greystone Books (2015))だ。『Das geheime Leben der Bäume』(Peter Wohlleben著、Ludwig Buchverlag (2015), Heyne Verlag (2019))の英訳で、日本語訳『樹木たちの知られざる生活』(ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川 圭訳、早川書房、2018年刊)も出版されている。
Peter Wohlleben は、ドイツの Rottenburg am Neckar にある林業学校を卒業後、Rhineland-Palatinate 州政府の森林保護官として20年以上働いた。森林管理の仕事を始めた頃には「この木はいくらになるだろうか」「この木から どれだけの板がつくれるだろうか」としか考えていなかった著者が、樹木たちのことを深く知り、子どもの頃に感じていた樹木たちへの愛を取り戻してゆく。
森林管理の仕事を通して身につけた著者の考えは、示唆に富んでいる。「私たちの森林は手つかずの自然ではない」「何もしないこと(人が手を加えないこと)こそが自然保護」「森林の生態系を人のために必要以上に利用していいのか?」「木々に不必要な苦しみを与えてもいいのか?」というようなメッセージ性の強い考えが次々に出てくる。
こういう考えは、神道の起源にも通じる。著者の自然の捉え方は、「自然のなかに神を感じる」「自然のなかで命を感じる」「山や岩、木や滝などにも神が宿る」といった自然崇拝と 根は同じ。人は所詮、自然の一部なのだ。
もっと謙虚になって、人だけではなく、動物だけでもなく、あらゆる生き物の尊厳を尊重する。あらゆる生き物の能力、感情、望みなどがよりよくわかるようになれば、人と生き物との付き合い方も変化していくのではないか。著者の文章は説得力がある。
コミュニケーションのことを考えるとき、自分たちのことしか考えていない私たちは、五感のなかの視覚と聴覚を思い浮かべる。口から発せられた声は 耳から脳に伝わり理解される。紙の上に書かれた文字やスクリーン上の文字は 目から脳に伝わり理解される。それがコミュニケーションだと思っている。
蠅の視覚は、人の視覚とは違う。蠅は、人とは違うものを見ている。蠅は 人には見えないものを見ているし、人は 蠅には見えないものを見ている。同じように、犬の聴覚や嗅覚は、人の聴覚や嗅覚とは、大きく違う。
違うからといって、蠅や犬がコミュニケートしていないというわけではない。確かに 蠅も犬も言葉を持っていない。でも 違った感覚を使ってコミュニケートしている。私たちにわからないだけなのだ。
そして木も、他の木とコミュニケートしている。キリンに葉を食べられたアカシアは、キリンの嫌がるエチレンを発散する。エチレンを感じたまわりの木は、いざというときのためにエチレンを準備しはじめる。
他にも さまざまな例がある。ブナもトウヒもナラも、虫に葉をかじられると、かじられたまわりの組織を虫が嫌がるように変化させ、身を守ろうとする。さらに人体と同じように、電気信号を走らせる。ゆっくりとだが、木の他の部分に危険を知らせるのだ。
私たちはわかったような顔をして 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことを五感というが、人のことだけを考えても 他の感覚がたくさん浮かんでくる。痛覚、温度覚、圧覚、位置覚、振動覚、二点識別覚、立体識別覚、内臓感覚、平衡感覚などだ。動物や植物に私たちの知らない感覚があって、それを使ってコミュニケートされていても、何の不思議もない。
木がコミュニケートしていると知れば、木が生きているという実感がわく。木が生きていると知れば、私たちの木に対する態度も変わるだろう。私たちの木に対する態度が変われば、行動も変わってくるに違いない。
アメリカで デイヴ・マシューズ・バンド(Dave Matthews Band)というバンドが活動していて、社会的な歌を多く演奏するためか アダルトロックなんていうカテゴリーに入れられているのだが、メンバーも曲も いい意味でアメリカっぽい。
そのバンドが「Together We Can Plant Millions of Trees」という運動をしている。一緒に何百万本もの木を植えようというわけだ。デイヴ・マシューズも その仲間たちも、「森に緑を取り戻そう」「失われた森を復活させよう」という善意から運動していて、好感が持てる。
でも、と思う。でも、デイヴ・マシューズが『The Hidden Life of Trees』を読んで Peter Wohlleben に共感するなんていうことがあったら、「木を植える」より「ほったらかしにする」ほうがいいと思うかもしれない、と思う。
デイヴ・マシューズ・バンドだけではない。多くの環境問題に興味を持っている人たちの考え方は、あまりにも人間中心的だ。人間が作ってきた自然でなく、人間が手を入れる前の自然のほうが、はるかに「自然」ではないか。
オーストラリアで、森林火災のすぐ後、鎮火をしたというタイミングで現場周辺を運転したことがある。まる焦げになったユーカリの木々が続く景色は異様だったが、交通標識が溶けてしまうようななかで、真っ黒に焼けているのに 目にも鮮やかな緑の芽を出しているユーカリの生命力には心を打たれた。
ただ、山火事が大きくなった原因がユーカリだと聞いて、「うん?」「えっ?」と心は揺れた。ユーカリの葉はテルペンを放出するのだが、テルペンは引火性なので、何かの原因で発火したら燃え広がって大きな山火事になる。ユーカリの樹皮は燃えやすく、火がつくと幹から剥がれ落ちるのだが、幹の内側は燃えずに守られる。ユーカリの根は栄養をたくわえていて、火事の後も成長し続けることができ、新しい芽を出す。ということのようなのだ。
美しい花をつけ かぐわしい香りを放ち 鳥や動物を惹きつけ続けてきたユーカリが、長年にわたって邪魔に思ってきた下草や低木を焼き尽くし、焼畑農業のように土壌を良くする。ユーカリが、そんなことを何百年何千年何万年も繰り返してきたなかに 人が入って行って家を建て、家が焼かれたと言って大騒ぎする。人にとって山火事は迷惑なことに違いないのだが、ユーカリにとってみれば 消火活動のほうが迷惑なのだろう。
人間のための木という発想を捨て、つまり「人にいい森」「人の経済活動に役立つ森」とか「人が見て美しい森」「観光資源としての森」を追い求めるのをやめて、人間が手を入れない森を少しずつでも取り戻していったほうが いいのではないか。
この本を読むと、本気でそんなことを考えてしまう。反文明というような大げさな考えではない。少しずつ、人が壊してしまったものを 元に戻せはしないかと、そう考えているだけなのだ。
マッシモ・マッフェイ(Massimo Emilio Maffei)によると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類のであっても自分の根とほかの根を、しっかりと区別しているという。少し長くなるが、『The Hidden Life of Trees』から数パラグラフを引用してみよう。
樹木はなぜ、社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。
逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。一本一本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。
森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。
私はこういう文章を読んで、植物や動物のほうが 人よりもはるかに人間らしいと感じてしまう。近代化と ともに、多くの人たちが狂い、壊れてしまったのではないか。私には そんなふうに思える。
Peter Wohlleben は「すべての人工林を 原始林に戻そう」などとは言わない。その代わりに「もっと木のことを知ろう」と言う。「木のコミュニケーションを解明しよう」「森に足を踏み入れて想像の翼を羽ばたかせよう」という Peter Wohlleben は、環境会議で出会う環境問題の専門家とはすべてにおいて違う。
Peter Wohlleben は木のことをよく知っている。そして木をとても大事にしている。私はこの人のことが大好きだし、この本が好きだ。本当にいい本に出会った。そう思っている。