2024年1月12日(金)
ホワイトホールへの旅
今週の書物/
『White Holes』
Carlo Rovelli 著、Penguin Books、2023年刊
尾関章さんが「めぐりあう書物たち」で5回も取り上げた物理学者のカルロ・ロヴェッリ。今週は、そのロヴェッリの最新本を読む。『White Holes』(Carlo Rovelli 著、Penguin Books、2023年刊)だ。これを読むのは、好むと好まざるとにかかわらず、金曜日の書評の「本家」である尾関さんへの挑戦になってしまう。
尾関さんは、元科学記者の科学ジャーナリスト。そのプロ中のプロが5回も取り上げたカルロ・ロヴェッリについて書こうというのだから、これはもう、関東サッカーリーグ2部の弱小チームが「横浜F・マリノス」相手に「日産スタジアム」で試合をするようなもので、勝ち目はまったくない。が、それでも、無謀を承知で書く。
とは言っても、私は書評の書き方を知らない。前ぶりも結論もなく、読者の想定もないというような、書評とはいえない書評を書くしかない。そこで、とりあえず、何の関係もない谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の文章から入ってみる。
そう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。
さあ、ウォーミングアップが済んだところで、カルロ・ロヴェッリの『White Holes』に身を委ね、ブラックホールの奥のほうへの意識の旅に出てみよう。バーチャルリアリティーを楽しむ時に装着するヘッドセットのようなものを装着する。意識は遠い宇宙を漂い、ブラックホールに導かれてゆく。
境界を超えて、宇宙の亀裂に転がり落ちる。急降下すると、ジオメトリーが折り畳まれるのがわかる。時間と空間が引っ張られ、伸びてゆく。最深部に着くと、時空が完全に溶け、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中に、ホワイトホールがぽうっと夢のように現れる。
でも、まわりは何も変わらない。境界に近づいたり境界を超えたりしても、遠くから眺めている人の視界から消えて行方不明になったとしても、何も特別なことは起こらない。時計の針が遅れることもなく、何も奇妙なことは起こらない。
時間の流れは相対的なものだから、お互いの時間が変わるということなら、いくらでもある。お互いにどれくらい速く移動するかで時間は変わるし、どのくらいブラックホールのような巨大な天体に近づくかでも時間は変わる。遠くから眺めている人に比べれば、ブラックホールに奥のほうに向かって落ちていく私の時間は、遅くなり続ける。
少し立ち止まって、何が起こったのか考えてみよう。ブラックホールにたどり着くまでに必要にした力、重力を維持するような力、そんな力がすべて無効になるまで、ブラックホールのなかを落下してきた。大きく広かった場所が、いつの間にか小さく狭くなっている。もうこれ以上、先はない。そう思ったとき、突然、ホワイトホールが現れた。
現れたホワイトホールは、物質の構成要素を分離して閉じ込める。すべてが閉じ込められ圧縮されたところには、光さえも入り込むことができない。
振り返って考えてみれば、ブラックホールは球体ではなかった。時間の経過とともにますます長く狭くなっていった。そして、長く狭くなった先の、最も深く最も暗い隠れ家のようなところに、シンギュラリティがあった。
地球上の物質が、許容限度を超えて圧縮されるとリバウンドするように、シンギュラリティを超えてホワイトホールに入ると、突然宇宙の光が降り注ぎ、時空の向こう側に転がり出る。
そもそも、ホワイトホールは、突然現れたわけではない。ブラックホールがホワイトホールになっただけ、時間が逆転しただけなのだ。ブラックホールが量子ゆらぎで突然ホワイトホールになるまで、ブラックホールから逃れることができない。ホワイトホールになると、何も入ることができない。通過しているあいだ何も変わらなくても、遠くから眺めている人とは、ホワイトホールとその先の時間は逆行している。
時間は違うのか、それとも違うように見えるのか。時間の流れは、どのように個人的で、相対的なのか。時間の流れは絶対的なものではなかったのか。時間が逆転した世界には、何があるのか。ブラックホールとホワイトホールは対のものなのか。ブラックホールの手前の宇宙とホワイトホールの先の宇宙とは、対なのか。それは対称なのか、何か関係性があるのだろうか。
何を考えても、答えは浮かばない。自分の知っている世界を離れ、知らない世界に入っていけば、自分の常識も、直感も、知識も、何の役にも立たなくなる。それなのに、常識は最後までまとわりつき、直感は違うと言い続け、知識は最後まで捨てることができず、新しい世界を理解することは不可能に思える。
こうして、意識の旅は終わりを告げる。ゆっくりとヘッドセットを外すと、ぼんやりとしていたアタマが、スッキリしているのに気づく。
とても大きな星が寿命を迎え、エネルギーがすべて使い果たされると、崩壊し、何も逃れることができず、自ら光ることさえできない、奇妙な物体になる、それがブラックホールだ。アインシュタインの一般相対性理論は、空間と時間が終焉を迎えるべき存在であると予測した。
ところが、ブラックホールの存在を予測したのと同じ方程式は、その逆の存在、つまり何も入り込むことができず、光さえも拒絶するようなホワイトホールの存在も予測する。天文学者は、遠くの銀河のなかに、ブラックホールの存在を確認することができる。でも、ホワイトホールはまったく確認できない。これは少し奇妙であり、ホワイトホールが存在しない可能性があると示唆する人もいる。
ロヴェッリの『White Holes』は、そんなホワイトホールのことを、専門家でなくてもわかるように説明してくれる。ブラックホールで終わるはずの空間と時間を、その先まで見せてくれる。
ロヴェッリは、哲学者のように、そして詩人のように、知るとはどういうことなのか、理解するとはどういうことなのかを語る。しかし、理論物理学者の語りは、どこまでも科学的だ。
何かを知るということは、その物・そのプロセスを表現し、単純化し、予測することを可能にする相関関係を結ぶこと。何かを理解するということは、それと同一化することであり、その構造と私たちのシナプス構造との間の類似点を構築していくこと。この辺のことは、英訳の『White Holes』を読んでもわかりにくく、仏訳の『Trous blancs』を読んではじめてストンとくる。ロヴェッリの文章は、もしかしたら、翻訳が難しいのかもしれない。いずれにしても、理論物理学者は、そんなことまで考えているのだ。
ロヴェッリの科学についての考えは厳しい。科学は、過去の知識や直感を盲目的に信頼しないという謙虚な行為から生まれると断言する。みんなの言うことを信じない。人々が蓄積してきた知識を信じない。本質的なことはすでに知っていると思ったり本に書かれていると思ったりするのは、何も学ばないに等しい。自分の信じたことを信じていれば、新しいことは学べない。常に間違っている可能性があることを認識し、新しいトラックが現れたらいつでも方向を変える。でも、私たちが十分に優れていれば、正しく対処し、探しているものを見つけることができる。この本に書かれている科学観は素晴らしい。
この小さな本は簡潔だ。今までのロヴェッリの著作の内容が概要と導入としていくつかの短い章にまとめられ、それを読んだだけでも気分は高揚する。ブラックホールの中心に引きずり込まれ、何らかの方法で反対側から外へ連れ出されると、興奮は「気分の高揚」などでは済まされなくなる。
ブラックホールになった星が崩壊し続けると、最終的には非常にコンパクトで小さくなり、一般相対性理論が量子力学の法則に取って代わられることになる。メッセージはとてもクリアーだ。
量子論は、小さなスケールの不確実性の物理学。それ以上でもそれ以下でもない。量子論の世界では、空間の粒子やパッチが確率の雲となり、これまで不可能だったことが可能になる。ロヴェッリはそういったことのすべてを利用して、「ブラックホールの中心が崩壊して無になろうとするところで、量子的不確実性によって時間の経過がリバウンドし、ホワイトホールになる」という可能性を示している。
数学でしか表現できないこと、数学を使わなければ完全に説明できないことを、こんな小さな本で素人に説明し、全体像を提示する。ロヴェッリがどのようにしてそれに成功したのか。どうやって細かい部分に目をつぶりながら、どうやって数式なしに、このような一連の詩を紡ぎだしたのか。
ブラックホールが説明され、ホワイトホールが提示される。時間はひっくり返され、逆行させられる。ホワイトホールがあるのに、なぜ天文学者たちには見ることができないかということまで、説明してくれる。難しい概念が平易に書かれ、読者の混乱を恐れている形跡もない。
未来のことを思い出せないのは単なる錯覚なのか、それとも根底にある物理学の根本的な結果なのか。ロヴェッリは、私たちが未来ではなく過去を思い出すのは、過去の不均衡のためだと書く。私たちが過去を知るのは、現在にその痕跡があるからだとも書く。私たちが過去と呼ぶものは、ある時点で物事がどのように配置されたかであって、時間の流れではない。本のなかに散りばめられた時間というものの説明は、私のような素人には正直キツい。ロヴェッリは「そんなことは実際には重要でない」と書くが、混乱させられるばかりだ。混乱してもなお、この本は不思議なほど面白くあり続ける。
自分が提案するアイデアの数々に確固たる確信を持っているロヴェッリ。と同時に、それらを疑い、激しく厳しく自分を疑い続けるロヴェッリ。
数式に溺れ数式のなかに生きている理論物理学者が多い日本と違い、ギリシャ哲学やダンテの『神曲』にまで考えが及ぶロヴェッリのような理論物理学者が多いイタリア。精神的な貧しさと、精神的な豊かさとの違いに驚いてしまう。
こんなに読むのが楽しかった本が、他にあっただろうか。少し読んでは考え、また読んで、又考える。時には、この本に書かれていないようなことを考える。2人の人間が違うように、2つの陽子は違うのか。それとも、陽子はみな同じなのか。質量やスピンは同じでも、構造を持っている陽子内の、軌道角運動量を持つクォークやグルーオンのある瞬間の位置や運動量のことを考えれば、同じとはいえないのか。考えはあちらこちらに飛ぶ。
たぶん私は、これから何度もこの本を手に取り、もっとよく理解しようとするだろう。いくら読み返しても理解できないことを知りながら、何度も何度もこの本を手にするに違いない。ロヴェッリの魔法にかかってみて、人は魔法にかかりたいのだということに気づく。言葉の魔法は、脳を活性化し、シナプスの働きを良くする。それはきっと、快感なのだろう。
物理学科に籍を置きながらちゃんと物理を学ぼうとしなかった私がロヴェッリの『White Holes』を読んでいたら、人生は変わったのだろうか。いや、変わっていなかったろう。年老いて読んだからこそ、楽しかったのだ。年を取って生きているのは、なんといいことか。そんなことを考えさせられる一冊であった。