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(8)Francis Jammes『Le Roman du Lièvre』

2024年2月2日(金)

弱者により添う素朴な作品たち

今週の書物/
『Le Roman du Lièvre』
Francis Jammes 著、Mercure de France、1922年刊(Wikisource)

https://fr.wikisource.org/wiki/Le_Roman_du_Lièvre
https://fr.wikisource.org/wiki/Contes

1970年3月、雑誌「an-an ELLE JAPON」の創刊号が発売された。表紙はモデルの Marita Gissy、その上に「an・an」「ELLE JAPON」「創刊号」「3 20」といった文字と パンダのロゴが並んでいる。三島由紀夫、澁澤龍彦、片山健、大橋歩といった名前のなかに、アンアン代表の立川ユリの名前がある。ビートルズが起用された広告とか、ELLEの社長のおめでとうメッセージとか、何から何までが衝撃だった。

その年の8月5日号の「an-an No.10」に、フランシス・ジャムの『パイプ』が載った。翻訳は澁澤龍彦、片山健のイラストが添えられている。短い物語のなかに、「若者」が「青年」になり「老人」になって死ぬまでのことが描かれる。「若者」の父母が死ぬ。リンゴのような胸を持つ美しい妻が外見のいい男と寝ているのを見て「青年」は何も言わずに家を出る。大都会で一緒にいた犬が死に「老人」も死ぬ。それだけの話なのだが、なぜか胸に迫った。

9月20日号の「an-an No.13」には、フランシス・ジャムの『神様の慈愛』が載った。翻訳が吉村啓喜、解説が澁澤龍彦、イラストは片山健。一匹の牝猫と暮らしていた平凡な娘が、男に捨てられる。娘は妊娠し、牝猫も身ごもる。ある日、男から手紙と25フランが送られてくる。娘はその金でコンロと炭とマッチを買って自殺する。神さまは、天国に着いた娘と雌猫のために部屋を用意してくれ、娘は女の子を産み、雌猫は4匹の仔猫を産んだ。そういう話が、とても新鮮に感じられた。

「an-an」にはその後も片山健のイラストがついた物語が載った。そして私の頭の中にはフランシス・ジャムの名前が残った。この話をすると、「澁澤龍彦の魔術にかかったのだ」と言われたり、「なんでそんなつまらない話に感激してるんだ」と言われたりした。でも私には、フランシス・ジャムの物語は、つまらない話ではなかった。

その後、フランシス・ジャムの詩に出会うことがあった。フランスの学校に通うようになった娘がフランシス・ジャムの詩を暗唱していたのだ。もう時代遅れになっていたフランシス・ジャムが、学校のなかで生き続けていたのである。

ただ、フランシス・ジャムの詩は、学校で暗唱させるだけあって、どれもつまらない。あの「an-an」に載ったキラキラした物語たちからは程遠い。なぜかなと思って『パイプ』や『神様の慈愛』を探してみると、フランシス・ジャムの『Contes(コント集)』にたどり着いた。

『Contes』のなかには、『La Pipe(パイプ)』も『La Bonté du Bon Dieu(神様の慈愛)』もある。確か「an-an」に載っていた『Le tramway』もある。『Le Paradis』もある。読んでみると、やっぱりいい。「an-an」で読んだのと同じ読後感。同じように優しい気持ちになるではないか。澁澤龍彦や吉村啓喜の魔術ではなく、フランシス・ジャムの魔術だったのだ。

そんなわけで今週は、そのフランシス・ジャムの短編集を改めて読んでみる。『Le Roman du Lièvre』(Francis Jammes著、Mercure de France、1922年刊)だ。著者は1868年生まれ。スペインとの国境に近いフランスのオート=ピレネー県で生まれ、パリから遠く離れた場所でパリの潮流とはまったく関係のない文筆活動を続けた。そんなフランシス・ジャムの「弱い者たちに向けられる目線」が形作る作品世界を味わってみる。

この頃、フランスにはまだ身分制度が残っていた。『Le tramway』というコントに、それがよく描かれている。働き者の夫と、優しい妻と、幼い娘が、乗合馬車に乗ろうとお金を用意して道に立った。ほとんど誰も乗っていない乗合馬車が近づいてきたので、働き者の夫は運転手に止まるよう合図を送った。ところが運転手は、この3人を軽蔑の目で見て、乗合馬車を止めようとはしなかった。乗合馬車に乗ろうというウキウキした3人の気持ちが一瞬にして砕かれる。そんな気持ちの描写はまったくないのだが、口惜しさや悲しみが伝わってくる。

フランシス・ジャムは、今では考えられないくらい信仰心が強く、書かれる神さまは想像の域を超えている。例えば『Le Paradis』のなかに描かれる神さまは「ひとつの袋のなかにひとかけらのパンしか持っていない人たち」や「署名の仕方を知らないがために逮捕され収監されている人たち」のような姿をしている。それでいて「奉仕することとか、与えることとかが、幸せなのだ」と柔らかい声で話し、微笑みを絶やさない。今の世の中でそんな神さまのイメージがどれほど通じるのか。信仰心も、時代とともに変わってゆくのだろうか。

描写は時に異常なほど細かくなる。先ほど触れた『La Bonté du Bon Dieu』の冒頭が、そのいい例だ。

彼女は可愛らしいきゃしゃ華奢な娘だった。彼女はある店で働いていた。彼女は、あえて言うなら、格別に聡明だというわけではなかったが、優しくて黒い目をしていた。その目は少し悲しそうに人に向けられ、その後で伏せられるのだった。彼女は情愛は深いが平凡な娘であると思われていた。そう思われたのは彼女のとても優しい平凡さのせいだった。そしてこの平凡さは真の詩人だけが理解できるもので、そこには人への憎しみは全くみられないのだった。
彼女はその住んでいる部屋と同じように質素な娘であると思われていた。彼女は人にもらった1匹のかわいい牝猫だけがいる簡素な部屋にひとり暮らしをしていたのだ。毎朝、店に出かける前に彼女はお椀の中に少量のミルクを入れておくのだった。

どうだろうか。短い物語をこのように始めるフランシス・ジャムの性格が見えてくるではないか。

『Le Roman du Lièvre』は、人間の狩りから逃れて走るウサギの描写から始まる。人が作った道を横切り、馬や犬や鶉に出会い、山を眺め、川を眺め、走り続ける。疲れ果てたウサギは居眠りをする。しかし夢の中でさえ休むことはできない。ほんのわずかな物音でも、動くもの、落ちるもの、ぶつかるものすべてが危険を知らせる。

私が好きな『Contes』以外にも、読みどころがたくさんある本だ。今回はじめて、そう気づいた。時代遅れのフランシス・ジャムの文章がいいと思えるのは、私が時代遅れになったからではないか。ふと、そう思った。

(7)Alexis de Tocqueville『Democracy In America』

2024年1月26日(金)

トクヴィルが見たアメリカの民主主義

今週の書物/
『Democracy In America (Volume 2)』
Alexis de Tocqueville 著、Project Gutenberg (Free eBooks):

https://www.gutenberg.org/files/815/815-h/815-h.htm (Volume 1, 1997年刊)
https://www.gutenberg.org/files/816/816-h/816-h.htm (Volume 2, 2006年刊)

アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、1805年生まれ。ウィキペディアには「フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった」と書いてある。

1789年から1795年にかけてのフランス革命、1804年から10年ほどのナポレオンの軍事独裁政権、その後 15年余りの王政復古、そして1830年の七月革命、1848年の二月革命。トクヴィルはナポレオンの軍事独裁政権誕生後に生まれ、混乱のなかパリ大学で法学学士号を取り、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生になった。

トクヴィルは 七月革命のあと 1831年から1832年にかけて、ギュスターヴ・ド・ボーモンと共にアメリカを旅行し、1833年にボーモンと共著で『Du système pénitentaire aux États-Unis et de son application en France – On the Penitentiary System in the United States and Its Application to France(合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について)』を出版。そして1835年に『De la démocratie en Amérique – Democracy in America(アメリカのデモクラシー)第一巻』を、1840年に『同 第二巻』を出版した。

『第一巻』の出版のときに29歳だったトクヴィルは『第二巻』の出版のときには34歳。そのあいだに、結婚し、レジオンドヌール勲章(la Légion d’honneur)を受け、道徳・政治科学アカデミー(l’Académie des sciences morales et politiques)の会員になり、バローニュ選出の国会議員(le député)になっている。

『第二巻』の出版後には、1841年にアカデミー・フランセーズ会員に選出され、1848年の二月革命の際には革命政府の議員として活躍し、1849年にはオディロン・バロー内閣の外相となった。ところが、1851年に ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。その後『回想録』と『旧体制と大革命』を書き残し、1859年に死亡した。

とても濃い人生である。そして、すべてが特別だ。フランス革命があっても貴族は貴族であり、フランスに移民してきた平民階級のイギリス人の3歳年上の女性メアリー・モトレーとの結婚が家族から反対されたり、著作のなかの「貴族による政治の優位性」を説く部分が批判の対象になったりと、最後まで貴族であることから抜けきれない人生を送った。

で今週は、そんなトクヴィルがデモクラシーのことを書いた一冊を読む。『Democracy In America 第二巻』(Alexis de Tocqueville 著、Project Gutenberg、1840年初版刊、2006年eBook刊)だ。なぜ『第一巻』でなく『第二巻』なのかというと、今の私の興味が「アメリカ」にではなく「デモクラシー」に向いているから、そしてデモクラシーと自由、平等についてのトクヴィルの考察をもう一度読んでみたいと思ったからだ。

中身に入ろう。『第一巻』が「Book 1」から成っていたのと違い、『第二巻』は「Book 2」「Book 3」「Book 4」から成る。このうち「Book 3」の後半から「Book 4」にかけては圧巻だ。アメリカではじめて目にしたデモクラシー、自由、平等という新しい概念について、長い間ずっと考え続けた結果書かれた文章は、180年以上経った今も、読む者の目をくぎ付けにする。書かれたことは現在のフランスにも日本にもあてはまる。それは奇跡ではないか。

貴族がいたそれまでのヨーロッパの社会では、個人の境遇が変わることなど、まずなかった。それが、トクヴィルの見たアメリカでは、デモクラシーのなかで、個人の境遇は常に変化する。これはトクヴィルにとっては大きな驚きだっただろう。そのせいか、デモクラシー、自由、平等についての考察はとても深いものになっている。

トクヴィルが、デモクラシーの特徴として「多数者の専制(tyranny of majority)」を挙げているのはよく知られている。デモクラシーの本質は「多数者がすべてを決めてしまうこと」で、多数者の前には何者も無力であり、少数派の声は黙殺される。そんな状態を、デモクラシーはやすやすと作り上げてしまう。

世論が多数者を作り出し。多数者が立法機関のメンバーを選ぶ。行政のトップも多数者が間接的に任命する。警察や軍隊も多数者の意を汲む武装組織となってゆき、裁判のもろもろのことにも多数者の意見が反映する。そんな状況では、少数派は不条理に対して何もできない。デモクラシーにはそんな危険が伴う。

ところで、すべての人が平等であるというのは、どういう状態を言うのだろう。完全な平等などないにしても、デモクラシーの社会では、一人ひとりが自由になり、その結果、人は平等になってゆく。ところが、平等の度合いが高まると、人は自由でなくなってゆく。

人が平等な社会は、人の境遇を不安定にする。「いいこと」は、得て間もないことばかり。しかも、いつ失ってもおかしくないことばかりだ。明日にはないかもしれないと思えば、今日持っていることを人にわかってほしいと思うのは自然の感情だろう。それを虚栄心と呼ぼうと呼ぶまいと、デモクラシーはそんな感情を呼び起こす。

平等があたりまえになると、人は小さな不平等に敏感になる。特権に向かう憎悪は、特権が小さくなればなるほど増大する。すべてが不平等だった時には、どんなに大きな不平等も目障りではなかったが、平等のなかでは、ほんの小さな違いも目障りだ。平等を望む気持ちは、平等の度合いが増すほど大きくなってゆく。

トクヴィルがアメリカに滞在し考察したアメリカの民主主義は、日本の敗戦によって日本に取り入れられ、トクヴィルが考えた通りの社会が日本に実現した。ここからは「Book 4」に書かれていたことのなかから、戦後の日本のデモクラシーを考えてみることにする。

デモクラシーは、「多数決こそがデモクラシー」だと勘違いした人たちによって悪いかたちで社会に浸透し、先ほど書いた「多数者の専制」があたりまえの危険な社会になってしまった。議論が尽くされることはなく、少数派の声は無視され続けている。

トータリタリアニズムの上に デモクラシーが重なって出来上がった社会は、穏やかだ。人々を苦しめることなく、貶める。自分たちは平等で、自分たちこそが主権者だと思い込んでいる人々は、見えてこない権力者たちがすべての権力を自分たちの手に収め、私的利益に干渉してきていることにさえ気づかない。

人々のささいなことへの情熱、マナーの良さ、温和さ、教育の程度、純粋さ、道徳に裏打ちされた慎ましさ、規則的で勤勉な習慣、自制心などは、すべて美徳とされているが、その美徳が、権力者たちを守護神と錯覚させてしまう。

抑圧の種類は、以前のものとは異なっている。大勢の人々が、みな平等で、同じように自分の人生を貪り、つまらない快楽を得ようと絶え間なく努力している。

人々は孤立して暮らし、自分たち以外にとって見知らぬ存在になる。子供たちと友人たちだけが、人類全体を構成しているのだ。残りの人々が近くにいても、決して見ることはない。知ったり触れることがあったりしても、何も感じない。人々は、自分自身の中にのみ、そして自分自身のためにのみ、存在している。人々は、血族を失い、祖国を失ったのだ。

権力者たちの力は絶対的だが、決して表には出てこない。その権威は親の権威のようなもので、人々を永遠の子供時代に留めおく。喜ぶことしか考えていない人々に喜びを与え、楽しみを促進し、主要な関心事に対処し、安全を確保し、必需品を予測して供給し、産業を指揮し、財産の降下を規制し、相続財産を細分化する。残っている仕事は、生きることの悩みを聞くことくらいしかない。

デモクラシーの社会でこのように人々の管理が続けば、人々の自由や有用性は低下してゆき、自ら考え行動することの頻度は低下する。意志は狭い範囲に限定され、自分自身を利用するすべての手段は徐々に奪われてゆく。平等の原則は、人々に我慢することを覚えさせ、我慢を利益として見なす傾向を持たせる。

人々は会社とか組織とかによって逐次強力に掌握され、形作られる。その後、権力者たちは会社や組織に腕を伸ばし、社会の表面を、細かくて、均一で、小さくて、複雑なルールのネットワークで覆ってしまう。

最も独創的な心や最もエネルギーに満ちた個性がそれを通り抜けて出てくることはできない。それぞれの意志は打ち砕かれるのではなく、和らげられ、曲げられ、導かれる。人々が強制されて行動することはめったにないが、行動は常にを抑制される。力は破壊されるのではなく、存在を妨げられる。

そんな社会を誰も圧政とは呼ばないが、人々を圧迫し、衰弱させ、消滅させ、呆然とさせ、ついにはみんなが臆病で勤勉な動物の群れに等しいものになり、権力者はその羊飼いになっている。

トクヴィルが昔アメリカで見たように、規則正しく、物静かで、穏やかな、奴隷状態にある人々が組み合わされてできたような、そんな社会が、日本に出現したのだ。私が『Democracy In America 第二巻』に見たのは、まぎれもなく今の日本の姿だと、そう思った。

(6)石牟礼道子『椿の海の記』

2024年1月19日(金)

みっちんが見た大人の世界

今週の書物/
『椿の海の記』
石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊

1968年に厚生省が水俣病の原因はチッソ水俣工場の廃液に含まれるメチル水銀化合物だと発表した。1969年には石牟礼道子の『苦海浄土』が出版され、水俣病が大きな問題になってゆく。水俣病の患者たちはチッソ水俣支社に行き、会って話し合うことを求めるのだが、支社のお偉いさんたちは「要望は本社に伝える」というばかり。らちがあかないと思った患者たちが上京し、むしろ旗を掲げてチッソ本社前に座り込んだ。

20歳になるかならないかの私は、その光景を何回も目にしている。その一年前に市ヶ谷の自衛隊の前を通りかかり、バルコニーで演説する三島由紀夫を目にしてはいたが、その記憶よりも、水俣病患者の座り込みの記憶のほうが、はるかに鮮明だ。

座り込みをした人たちの多くは患者ではなく、そのほとんどが、水俣からやってきた若くはない支援者たちと、長髪にジーンズ姿の東京の若い支援者たちだった。当時の丸の内を歩くサラリーマンやOLたちの身なりがとてもよかったためか、座り込む人たちの「決してきれいとはいえない身なり」は際立っていた。

水俣からやってきた支援者たちのなかに石牟礼道子もいた。ひとりだけ目立つ女性がいたが、私にはそれが石牟礼道子だという認識はなかった。『朝日ジャーナル』に載っていた写真などで見るかぎり、石牟礼道子の容貌は 特に目を惹くようなものではない。それでも石牟礼道子は、人の目を惹いた。

石牟礼道子は、よく、巫女のような女性だったと言われる。自分の使命を知っているようで、世の中のために力を尽くそうとし、感受性が強く、あらゆるものと無意識に共感してし、直感的に物事をとらえ、まっすぐに行動を起こす。根拠も理由もないのに、何をしたいかだけははっきりしているので、言動には揺るぎがない。そんなことから巫女のようだと言われてきたようだ。

ただ私には、石牟礼道子は、なぜか目が離せない、とても不思議な存在に映る。シャーマンが人を惑わすときのような微笑みを浮かべ、場末の酒場の女が男を見るような目で人を見る。集まった人たちに手料理を振る舞い、会話には積極的に加わらないのに、いつもみんなの中心にいる。そんな人が、目立たないわけがない。

石牟礼道子は、尾関章さんの『めぐりあう書物たち』にも2週続けて取り上げられた。

苦海浄土を先入観なしに読む(2021年10月22日)
https://ozekibook.com/2021/10/22/苦海浄土を先入観なしに読む/

苦海の物語を都市小説として読む(2021年10月29日)
https://ozekibook.com/2021/10/29/苦海の物語を都市小説として読む/

である。2回とも『苦海浄土』についてだ。この2回はとても面白い。石牟礼道子は感性の人で、尾関章さんは論理の人。論理の人が,感性の人が書いた本の書評をしたのだから、面白くないはずがない。

石牟礼道子の「取材」は、面白い。自動車で移動する人たちを自転車で追いかけ、挨拶もせずに現場に上がり込む。メモは取らないし、録音もしない。あとで証拠を見せろとか、根拠はなにかと聞かれても、何も持っていない。頼りは自分が感じだことと、自分が覚えていること。そして大学や図書館に残された資料。それで十分なのだ。

皇后雅子の祖父で当時チッソの社長であった江頭豊が患者のところをまわったときのことを、石牟礼道子は克明に書いているのだが、石牟礼道子にとっては、本当にそのような会話が交わされたのかどうかよりも、その場の空気がどうだったのかとか、江頭豊がどのような人間だったのかということのほうがずっと大事。それが文章になるのだから大変だ。実際、当時のチッソ水俣工場長で後に水俣市長を4期も務めた橋本彦七のことを書いた文章にはたくさんの棘が秘められる。

丸の内に出て来て、聳え立つビルを見て、まるで卒塔婆のようだと書く感性。江頭豊や橋本彦七を醜いと見て取る直感。あの顔、あの表情、あの声、あの仕草。反権力と見えながら、上皇后美智子といとも容易く近づいてしまう。男にとって、これほど手強い女はいないだろう。

で今週は、その石牟礼道子がまだ幼い「みっちん」だった頃のことを書いた一冊を読む。『椿の海の記』(石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊)だ。著者は1927年生まれ。代表作の『苦海浄土』があまりにも有名なためか、他の作品が顧みられることは少ないが、『椿の海の記』『あやとりの記』『葭の渚』といった「みっちん」シリーズ、そして『西南役伝説』のような歴史物、『食べごしらえおままごと』のような料理に関する本、そして詩集から自伝まで、著作の範囲は驚くほど広い。『椿の海の記』は、そのなかでも石牟礼道子らしさが濃くあらわれ物語で、「みっちん」と大人との絡みのなかに描かれる石牟礼道子の自然観・文明観が読みどころだ。

中身に入ろう。

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。
 大崎ケ鼻という岬の磯に向かってわたしは降りていた。やまももの木の根元や高い歯朶の間から、よく肥えたわらびが伸びている。クサギ菜の芽やタラの芽が光っている。ゆけどもゆけどもやわらかい紅色の、萌え出たばかりの樟の林の芳香が、朝のかげろうをつくり出す。

書き出しからこの調子だ。これを4歳の「みっちん」が見て、そして感じたことだと言われても「はい、そうですか」とは、いかない。私には、子どもの頃はもちろん、大人になってもそんな感性は育たなかった。

歩いてゆく途中、

「やまももの木に登るときにゃ、山の神さんに、いただき申すやすちゅうて、ことわって登ろうぞ」

というように、石牟礼道子の父親の声がずうっと耳についてくる。現実というよりも、夢に近い。

言葉には、

だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。

には、

数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。

季節には、

この世の成り立ちを紡いでいるものの気配を、春になるとわたしはいつも感じていた。

宇宙には、

この世とは、まず人の世が成り立つもっと以前から、あったのではないかという感じがあって。。。

というように、感性だけの、しかし的確な文章があてられる。

天草は

天草を水俣の波うちぎわから眺めると、米のない島、水のない島、飢饉のつづく島、仕事のない島、人の売られてゆく島というてきかせられても、貝も居ろうに魚も居ろうに、食べられる草や木の芽のいろいろも生きて居ろうに。なぜ人はそこから流れて来て売り買いされ、いったん売られてしまうともう、淫売! などといやしめられるのか。

と描かれ、死んだ十六女郎には、

「小娘のくせしとってなあ、あんまり客のとり過ぎじゃったろうもん。中学生ば騙かして」
 するとその隣の「こんにゃく屋」の小母さんが
「ぐらしかですばいあんた、そっでも。深かわけのあって売られて来たんじゃろうもね。おっかさーんちな、たったひと声、出したちばい。息の切れる間際にたったひと声、おっかさーんち」
 人びとはおし黙った。
「仏さまじゃがなもう。かあいそうに」
 天草の島から売られて来た十六の小娘の、毎夜毎夜売りひさがれてきた姿を見知っていた栄町通りの人びとは、こんにゃく屋の小母さんの声にたしなめられるようにおし黙った。そして、人びとは、いまわのきわの娘淫売の、おっかさーんというひと声をたしかにその時きいた。

という文章が用意されている。

「みっちん」は、幼くはない。幼い「みっちん」の目を借りて、口を借りて、手を借りて、石牟礼道子が描き出す人間と自然。豊富な海の幸や山の幸をいただくシーンもふんだんに描かれる。

青絵のお椀の蓋をとると、いい匂いが鼻孔のまわりにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている。すると祖父の松太郎が、自分用の小さな素焼の急須からきれいな色に出した八女茶をちょっと注ぎ入れて、薬味皿から青紫蘇を仕上げに散らしてくれるのだった。

といった具合だ。「みっちん」にとっても、「みっちん」の祖母の「おもかさま」にとっても、そして物語に出てくるすべての大人たちにとっても、豊かな自然はとても身近だ。メチル水銀化合物に穢される以前の水俣の、なんと清々しいことか。

「みっちん」が私たちの親の世代だとすれば、「おもかさま」の世代はその二代前。近代というものがまだ入りこんでいない、前近代的な地方色の色濃い世代だ。だから「みっちん」と「おもかさま」の世界には、今の日本からは考えられない前近代的な空気が漂っている。それが「みっちん」シリーズの魅力になっているのだろう。

ここで、ふと、気がついたのだが、どうも私には石牟礼道子の批評ができないようだ。ただただ、文章を切り張りしているだけではないか。

もう、この「書評」は、止めたほうがいいだろう。最後に気に入っている文章を載せて終わりにしよう。

秋の昼下がり頃を、芒の穂波の輝きにひきいられてゆけば、自生した磯茱萸の林があらわれて、ちいさなちいさな朱色真珠の粒のような実が、棘の間にチラチラとみえ隠れに揺れていて、その下陰に金泥色の蘭菊や野菊が昏れ入る間際の空の下に綴れ入り、身じろぐ虹のようにこの土手は、わだつみの彼方に消えていた。するともうわたしは白い狐の仔になっていて、かがみこんでいる茱萸の実の下から両の掌を、胸の前に丸くこごめて「こん」と啼いてみて、道の真ん中に飛んで出る。首をかたむけてじっときけば、さやさやとかすかに芒のうねる音と、その下の石垣の根元に、さざ波の寄せる音がする。こん、こん、こん、とわたしは、足に乱れる野菊の香に誘われてかがみこむ。

私にはこんな文章は書けない。

(5)Carlo Rovelli『White Holes』

2024年1月12日(金)

ホワイトホールへの旅

今週の書物/
『White Holes』
Carlo Rovelli 著、Penguin Books、2023年刊

尾関章さんが「めぐりあう書物たち」で5回も取り上げた物理学者のカルロ・ロヴェッリ。今週は、そのロヴェッリの最新本を読む。『White Holes』(Carlo Rovelli 著、Penguin Books、2023年刊)だ。これを読むのは、好むと好まざるとにかかわらず、金曜日の書評の「本家」である尾関さんへの挑戦になってしまう。

尾関さんは、元科学記者の科学ジャーナリスト。そのプロ中のプロが5回も取り上げたカルロ・ロヴェッリについて書こうというのだから、これはもう、関東サッカーリーグ2部の弱小チームが「横浜F・マリノス」相手に「日産スタジアム」で試合をするようなもので、勝ち目はまったくない。が、それでも、無謀を承知で書く。

とは言っても、私は書評の書き方を知らない。前ぶりも結論もなく、読者の想定もないというような、書評とはいえない書評を書くしかない。そこで、とりあえず、何の関係もない谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の文章から入ってみる。

そう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。

さあ、ウォーミングアップが済んだところで、カルロ・ロヴェッリの『White Holes』に身を委ね、ブラックホールの奥のほうへの意識の旅に出てみよう。バーチャルリアリティーを楽しむ時に装着するヘッドセットのようなものを装着する。意識は遠い宇宙を漂い、ブラックホールに導かれてゆく。

境界を超えて、宇宙の亀裂に転がり落ちる。急降下すると、ジオメトリーが折り畳まれるのがわかる。時間と空間が引っ張られ、伸びてゆく。最深部に着くと、時空が完全に溶け、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中に、ホワイトホールがぽうっと夢のように現れる。

でも、まわりは何も変わらない。境界に近づいたり境界を超えたりしても、遠くから眺めている人の視界から消えて行方不明になったとしても、何も特別なことは起こらない。時計の針が遅れることもなく、何も奇妙なことは起こらない。

時間の流れは相対的なものだから、お互いの時間が変わるということなら、いくらでもある。お互いにどれくらい速く移動するかで時間は変わるし、どのくらいブラックホールのような巨大な天体に近づくかでも時間は変わる。遠くから眺めている人に比べれば、ブラックホールに奥のほうに向かって落ちていく私の時間は、遅くなり続ける。

少し立ち止まって、何が起こったのか考えてみよう。ブラックホールにたどり着くまでに必要にした力、重力を維持するような力、そんな力がすべて無効になるまで、ブラックホールのなかを落下してきた。大きく広かった場所が、いつの間にか小さく狭くなっている。もうこれ以上、先はない。そう思ったとき、突然、ホワイトホールが現れた。

現れたホワイトホールは、物質の構成要素を分離して閉じ込める。すべてが閉じ込められ圧縮されたところには、光さえも入り込むことができない。

振り返って考えてみれば、ブラックホールは球体ではなかった。時間の経過とともにますます長く狭くなっていった。そして、長く狭くなった先の、最も深く最も暗い隠れ家のようなところに、シンギュラリティがあった。

地球上の物質が、許容限度を超えて圧縮されるとリバウンドするように、シンギュラリティを超えてホワイトホールに入ると、突然宇宙の光が降り注ぎ、時空の向こう側に転がり出る。

そもそも、ホワイトホールは、突然現れたわけではない。ブラックホールがホワイトホールになっただけ、時間が逆転しただけなのだ。ブラックホールが量子ゆらぎで突然ホワイトホールになるまで、ブラックホールから逃れることができない。ホワイトホールになると、何も入ることができない。通過しているあいだ何も変わらなくても、遠くから眺めている人とは、ホワイトホールとその先の時間は逆行している。

時間は違うのか、それとも違うように見えるのか。時間の流れは、どのように個人的で、相対的なのか。時間の流れは絶対的なものではなかったのか。時間が逆転した世界には、何があるのか。ブラックホールとホワイトホールは対のものなのか。ブラックホールの手前の宇宙とホワイトホールの先の宇宙とは、対なのか。それは対称なのか、何か関係性があるのだろうか。

何を考えても、答えは浮かばない。自分の知っている世界を離れ、知らない世界に入っていけば、自分の常識も、直感も、知識も、何の役にも立たなくなる。それなのに、常識は最後までまとわりつき、直感は違うと言い続け、知識は最後まで捨てることができず、新しい世界を理解することは不可能に思える。

こうして、意識の旅は終わりを告げる。ゆっくりとヘッドセットを外すと、ぼんやりとしていたアタマが、スッキリしているのに気づく。

とても大きな星が寿命を迎え、エネルギーがすべて使い果たされると、崩壊し、何も逃れることができず、自ら光ることさえできない、奇妙な物体になる、それがブラックホールだ。アインシュタインの一般相対性理論は、空間と時間が終焉を迎えるべき存在であると予測した。

ところが、ブラックホールの存在を予測したのと同じ方程式は、その逆の存在、つまり何も入り込むことができず、光さえも拒絶するようなホワイトホールの存在も予測する。天文学者は、遠くの銀河のなかに、ブラックホールの存在を確認することができる。でも、ホワイトホールはまったく確認できない。これは少し奇妙であり、ホワイトホールが存在しない可能性があると示唆する人もいる。

ロヴェッリの『White Holes』は、そんなホワイトホールのことを、専門家でなくてもわかるように説明してくれる。ブラックホールで終わるはずの空間と時間を、その先まで見せてくれる。

ロヴェッリは、哲学者のように、そして詩人のように、知るとはどういうことなのか、理解するとはどういうことなのかを語る。しかし、理論物理学者の語りは、どこまでも科学的だ。

何かを知るということは、その物・そのプロセスを表現し、単純化し、予測することを可能にする相関関係を結ぶこと。何かを理解するということは、それと同一化することであり、その構造と私たちのシナプス構造との間の類似点を構築していくこと。この辺のことは、英訳の『White Holes』を読んでもわかりにくく、仏訳の『Trous blancs』を読んではじめてストンとくる。ロヴェッリの文章は、もしかしたら、翻訳が難しいのかもしれない。いずれにしても、理論物理学者は、そんなことまで考えているのだ。

ロヴェッリの科学についての考えは厳しい。科学は、過去の知識や直感を盲目的に信頼しないという謙虚な行為から生まれると断言する。みんなの言うことを信じない。人々が蓄積してきた知識を信じない。本質的なことはすでに知っていると思ったり本に書かれていると思ったりするのは、何も学ばないに等しい。自分の信じたことを信じていれば、新しいことは学べない。常に間違っている可能性があることを認識し、新しいトラックが現れたらいつでも方向を変える。でも、私たちが十分に優れていれば、正しく対処し、探しているものを見つけることができる。この本に書かれている科学観は素晴らしい。

この小さな本は簡潔だ。今までのロヴェッリの著作の内容が概要と導入としていくつかの短い章にまとめられ、それを読んだだけでも気分は高揚する。ブラックホールの中心に引きずり込まれ、何らかの方法で反対側から外へ連れ出されると、興奮は「気分の高揚」などでは済まされなくなる。

ブラックホールになった星が崩壊し続けると、最終的には非常にコンパクトで小さくなり、一般相対性理論が量子力学の法則に取って代わられることになる。メッセージはとてもクリアーだ。

量子論は、小さなスケールの不確実性の物理学。それ以上でもそれ以下でもない。量子論の世界では、空間の粒子やパッチが確率の雲となり、これまで不可能だったことが可能になる。ロヴェッリはそういったことのすべてを利用して、「ブラックホールの中心が崩壊して無になろうとするところで、量子的不確実性によって時間の経過がリバウンドし、ホワイトホールになる」という可能性を示している。

数学でしか表現できないこと、数学を使わなければ完全に説明できないことを、こんな小さな本で素人に説明し、全体像を提示する。ロヴェッリがどのようにしてそれに成功したのか。どうやって細かい部分に目をつぶりながら、どうやって数式なしに、このような一連の詩を紡ぎだしたのか。

ブラックホールが説明され、ホワイトホールが提示される。時間はひっくり返され、逆行させられる。ホワイトホールがあるのに、なぜ天文学者たちには見ることができないかということまで、説明してくれる。難しい概念が平易に書かれ、読者の混乱を恐れている形跡もない。

未来のことを思い出せないのは単なる錯覚なのか、それとも根底にある物理学の根本的な結果なのか。ロヴェッリは、私たちが未来ではなく過去を思い出すのは、過去の不均衡のためだと書く。私たちが過去を知るのは、現在にその痕跡があるからだとも書く。私たちが過去と呼ぶものは、ある時点で物事がどのように配置されたかであって、時間の流れではない。本のなかに散りばめられた時間というものの説明は、私のような素人には正直キツい。ロヴェッリは「そんなことは実際には重要でない」と書くが、混乱させられるばかりだ。混乱してもなお、この本は不思議なほど面白くあり続ける。

自分が提案するアイデアの数々に確固たる確信を持っているロヴェッリ。と同時に、それらを疑い、激しく厳しく自分を疑い続けるロヴェッリ。

数式に溺れ数式のなかに生きている理論物理学者が多い日本と違い、ギリシャ哲学やダンテの『神曲』にまで考えが及ぶロヴェッリのような理論物理学者が多いイタリア。精神的な貧しさと、精神的な豊かさとの違いに驚いてしまう。

こんなに読むのが楽しかった本が、他にあっただろうか。少し読んでは考え、また読んで、又考える。時には、この本に書かれていないようなことを考える。2人の人間が違うように、2つの陽子は違うのか。それとも、陽子はみな同じなのか。質量やスピンは同じでも、構造を持っている陽子内の、軌道角運動量を持つクォークやグルーオンのある瞬間の位置や運動量のことを考えれば、同じとはいえないのか。考えはあちらこちらに飛ぶ。

たぶん私は、これから何度もこの本を手に取り、もっとよく理解しようとするだろう。いくら読み返しても理解できないことを知りながら、何度も何度もこの本を手にするに違いない。ロヴェッリの魔法にかかってみて、人は魔法にかかりたいのだということに気づく。言葉の魔法は、脳を活性化し、シナプスの働きを良くする。それはきっと、快感なのだろう。

物理学科に籍を置きながらちゃんと物理を学ぼうとしなかった私がロヴェッリの『White Holes』を読んでいたら、人生は変わったのだろうか。いや、変わっていなかったろう。年老いて読んだからこそ、楽しかったのだ。年を取って生きているのは、なんといいことか。そんなことを考えさせられる一冊であった。

(4)青木玉『小石川の家』

2024年1月5日(金)

祖父、母、娘が暮らす家

今週の書物/
『小石川の家』
青木玉著、講談社文庫、1998年刊

三週間前に取り上げた幸田文は、父親の幸田露伴の晩年の世話をし、一緒にすごすなかで『雑記』を書き、文筆家になっていったが、文の娘の青木玉もまた、祖父の露伴と母の文との三人きりの生活を描いた『小石川の家』で文筆家としてのスタートをきった。

昭和4年生まれの玉の文章は、戦後に書かれた文章ということもあって、とても読みやすい。文は明治37年生まれだが、すべての作品が戦後に出版されたためか、読み難くはない。どちらの文章も、古い漢字と古い仮名遣いで書かれている露伴の文章とは別物だ。

ところが「青空文庫」で露伴の文章を実際に読んでみると、思ったより読み易い。落語家か講談師に頼んで読んでもらうと味が出るような文章で、リズム感があり、読点(、)はあっても句点(。)が極めて少ない。論理的に組み立てられた文章というよりは、読んだときに調子よく読めるかどうかを意識した文章だ。

『五重塔』の『其三十五』の段を例にとってみると、

去る日の暴風雨は我ら生まれてから以来第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし例をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質の老人さえ、真底我折って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで談話の種子にするようの剽軽な若い人は分別もなく、後腹の疾まぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、他の憂い災難をわが茶受けとし、醜態を見よ馬鹿欲から芝居の金主して何某め痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋の潰れ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お神楽だけのことはありしも気味よし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒から多分の寄附金集めながら役僧の私曲、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱も桶でがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔を作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことに鑿啣んで十六間真逆しまに飛ぶところ、欄干をこう踏み、風雨を睨んであれほどの大揉めの中にじっと構えていたというが、その一念でも破壊るまい、風の神も大方血眼で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎このかたの名人じゃ真の棟梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分歪みもせず退りもせぬとはよう造ったことの。

という具合である。新宿の末廣亭か上野の鈴本演芸場にでも迷い込んだような錯覚にとらわれるではないか。言葉を並べるだけで読み手をぐいぐいと引き寄せるテクニックには目を見張るものがある。さすが慶応3年生まれ、というところか。

玉の文章は違う。生活のなかの細々としたことが、淡々と綴られる。「日常が大事」という声が聞こえてくるようだ。とはいっても、

三箇日は、親類、ご近所、例年みえるお客様で朝から晩まで来客に追われる。玄関番、取り次ぎは子供の役目で、玄関、客間、台所、あっちへ行き、こっちへ呼ばれ、立ったり居たりお辞儀ばかり。朝のうちは、玄関だけで立ったまゝお帰りになる方、桜湯と紅白に寿の軽やき、又、お屠蘇と一ㇳ口の肴の型通りお年賀にみえる方、昼頃から夜までは客間いっぱい、先客が帰る玄関で、次のお客様がつかえて入れず外でお待ちになるなどよくあって、いつもみえる馴れた方は、勝手に茶の間で母をつかまえて話し込んだり、隣りの八畳でお酒の酔いをさます方もある。祖父は次々お客様におめでたを述べながらも、相手変れど主変らずで疲れて不機嫌ぎみだ。

というような文章を読むと、なぜか露伴を感じてしまう。DNAのなせるわざか、それとも一緒に住んでいたせいなのか、何かが似ているのだ。

で今週は、青木玉の数々の思い出からなる一冊を読む。『小石川の家』(青木玉著、講談社文庫、1998年刊)だ。あとがきに「『露伴先生はやさしいお祖父様でいらっしゃったのでしょうねえ』と聞かれて、ついうっかり私の小さい時に叱られた数々を喋ってしまった」とある。著者の思い出がそのまま本になった、と考えていいだろう。

露伴は難しい老人になっており、何にでも突っかかる。文はそれを承知し切っているから、何か言われそうだなと思うと玉を使う。玉が露伴のところに薬を持って行った時の描写が面白い。

 お盆に乗せた薬の小さいガラスの盃を見て、
「おや、又何か出てきたのか、それは何だね」
「食間のお薬です」
「お隣の先生がよこした薬かい」
「はい」
「何のためのものかおっ母さんは言っていたか」
「いえ、お上げしてくるようにって」
「うむ、それでお前は何も聞かずに持って来たのか」
 はい、と言っても、いいえと言っても返事にはならない。

こういうのを三又というそうだ。はいもダメ、いいえもダメ、聞いてきますもダメ。叱られるほか、道はない。黙って畳のへりでも見ていれば、そこに返事が書いてあるのか、と突っこまれ、口をきかずに腰を浮せれば、返事もしないで座を立つことが出来るのか、ならば立ってみろ、と足払いがかかる。「申し訳ありません」と言えば、「何を申し訳ないと思っているんだ」と言って、長々とした説教が始まる。叱られるというが、度を超えている。

どの思い出のなかにも理不尽な話がでてくる。でも、不思議と嫌な感じはしない。それはたぶん、一緒にすごした人たちだけが持つ情のようなものが背景にあるからだろう。この家のなかにある露伴と文との、露伴と玉との、そして文と玉との関係性は、それぞれに違う。三人の性格も違う。時代背景も違う。何から何まで違うなかで、お互いを理解し合おうとし、助け合おうとして暮らしていたのだから、家の雰囲気が暖かいのも自然だろう。

それにしても、である。明治の男の、なんと厄介なことか。年をとって何事もうまくいかなくなったからといって突っかかり、叱る。しかも偏屈だ。これでは二人目の妻に愛想を尽かされるのも仕方がない。想像するに、この家のなかで、孫の存在は大きかったに違いない。玉は、とても素直だ。しかもカラっとしている。家が明るかったのは、彼女によるところが多かったのではないだろうか。

家の中心であった露伴か死ぬ。玉が結婚し子どもが生まれて出て行く。やがて文も死ぬ。文の葬儀の後、壺を抱えて「小石川の家」に戻った玉の上に、昇って来たばかりの大きな白い月がぽっかりと浮んでいる。

久びさに見る望の月だ。何て穏やかないい暮れ方だろう。思いが和んで立ちつくしていた。

この終わり方は、いい。「小石川の家」は、どんな時も、穏やかで、思いが和む場所だった。その場所の思い出の数々は、どこまでも透き通っている。

坂口弘『歌集 常しへの道』

2023年12月29日

死刑囚が詠んだ歌

今週の書物/
『歌集 常しへの道』
坂口弘 著、角川書店、2007年刊

フランスの家の寝室の本棚には、いろいろなものが並んでいる。Douglas Hofstadter の『Gödel, Escher, Bach』、上村一夫の『同棲時代』、 Erich Fromm の『Escape from Freedom』、
B6判のポケットサイズでザラ紙の1975年頃の『宝島』、『Information Design』、『かもめのジョナサン』などなど。
そのどれもがいつの間にかこの本棚に入り込み、居座り続けている。

そのなかに、坂口弘の歌集と、安井かずみのエッセイ集がある。反社会的(antisocial)な「非合法な行動」で非難された坂口弘の短歌と、社会とは無関係(non-social)な「奔放な行動」で非難された安井かずみのエッセイ。そのどちらも、時代を濃くそして強く反映している。

坂口弘は中学1年で父親を亡くし、木更津高校から東京水産大学に進んだ。大学を退学して大田区の印刷工場で働き始めたのが1967年。1969年に京浜安保共闘に加わり、羽田空港突入闘争、上赤塚交番襲撃事件、真岡銃砲店襲撃事件などの後、1971年8月の印旛沼事件から1972年2月のあさま山荘事件までの凄惨な半年を過ごすことになる。1982年に東京地裁で死刑判決を受け、1993年に死刑が確定した。

安井かずみは東京ガスのエンジニアの父親と着物しか着ない古風な母親のもとフェリスに通い、文化学院を卒業し、作詞家になる。1967年にローマで新田ジョージと結婚。1969年に離婚して、パリで数年暮らし、帰国。その前後に、『空にいちばん近い悲しみ(1970年)』、『空にかいたしあわせ(1971年)』、『私のなかの愛(1972年)』と本棚に並ぶ本を出版。1980年代に発癌し、1994年に55歳で死去。

この二人の人生は、まったく違うのだけれど、というか正反対なのだけれど、妙にシンクロしている。坂口弘の人生が、大学の先輩の川島豪という人に出会って変わっていったように、安井かずみの人生は、「キャンティ」のオーナーの川添梶子という人に出会って変わってゆく。人の人生は、誰かに出会うことで大きく変わってしまう。

幸せなはずの安井かずみは55歳で死に、不幸せなはずの坂口弘は77歳の今も歌を詠んでいる。人の幸せ・不幸せは、他人にはうかがい知れないが、「金色のダンスシューズが散らばって、私は人形のよう」が絶筆だった安井かずみは最後まで幸せに見え、「面会所裏のつつじを抜きしは誰ならむ わりなきを悔やむ西行がごと」の坂口弘はずっと不幸せに見える。

ただ、そもそも「安井かずみのほうが」とか「坂口弘のほうが」などと言うのは適切ではないだろう。同じ時代に生きていても、まったく交差しない人生はたくさんある。社会運動に目覚めた人たちと、「キャンティ」や「川口アパートメント」に集う人たちとでは、会話も成り立たないだろうし、人生も交わりようがない。

で今週は、坂口弘の数々の歌からなる一冊を読む。『歌集 常しへの道』(坂口弘 著、角川書店、2007年刊)だ。

  外廊下を歩みガラス戸の前に来て老けし中年のわれに驚く

  歩きつつ盗み見すれば独房で物書く被告の姿よろしき

  これが最後 これが最後と思ひつつ 面会の母は八十五になる

というような「坂口弘にしか詠めない歌」が 593首 並んでいる。

私がこのなかで特に注目したのが、1993年に死刑が確定したあと、つまり死刑囚となったあとの時期に詠まれた歌の数々だ。間違いなくこれらは、死刑囚になった人にしか詠めない。坂口自身の言葉を借りれば「外界から引き離され、絞死刑の執行を待つだけの身になった」のだ。そして「正真正銘の現実世界でありながら、世間一般の社会とはまったく異なる世界、極めて特異な世界に、足を踏み入れた」のである。

  獄吏らの列のあわひに立たされて今より君は死囚と言はる

  死刑囚の身分告げらるる 大部屋に 線香の匂ひかすかに漂ふ

  死刑囚の処遇となりて 十日経ち 三人の処刑をラジオが告げぬ

  三年と四ヶ月ぶりの 処刑なり われらを意識しての処刑か

死刑囚になっての動揺が伝わってくる。怒りがこみあげたのか、歌も歌でなくなり、表現しようにもしきれない感情が、警察官僚上がりの政治家に向かう。

  あさまの時 警察最高位の後藤田氏が いま法相といふ巡り合せよ

  桜咲けるまさにその日に 執行の再開命ぜし 彼のセンスよ

  前の日に告知することも なさずして いきなり処刑するが正義か

  後藤田氏に大臣が代り 一転して 執行再開の危機高まれり

  法秩序は 執行せずとも保たれしに せずば乱れむなどとのたまへり

  幻覚や妄想の症状重き人を 絞首なししといふ 残虐ならずや

  大臣の椅子を射止めて堪へきれず笑みたる顔に恐怖す吾は

これらはすべて、後藤田正晴という個人に向けられている。「警察最高位の後藤田氏」という言い方に、坂口の怒りが込められている。そして怒りの矛先は、後藤田の「子分」である佐々淳行にも向かう。

  手放しで われの確定をよろこべる 佐々淳行なる男ありしかな

「佐々淳行なる男」という言い方には、悪意しかない。ちなみに坂口は、1996年になって出版された佐々淳行の著作『連合赤軍「あさま山荘」事件』に噛みつき、短歌の無断改変と名誉毀損とで佐々と文藝春秋とを訴え、勝訴している。死刑囚が裁判で警察官僚に勝訴する。そんなことは、そうあることではない。

死刑囚という身分になっての動揺が多少収まると、歌は自然と「死刑制度」へと向かってゆく。

  前の日に知らせることもなさずしていきなり処刑するは正義か

  首に縄をかけらるるその瞬間まで分からぬと思ふ死刑の恐怖

法務大臣の捺印は、殺人と何のかわりもないではないか。そんな坂口の声が聞こえてくる。

法律上または事実上、現在において「死刑のない国」の数は144か国にのぼり、55か国という「死刑のある国」の数をはるかに上回る。北米と欧州で死刑があるのは、米国とベラルーシだけ。21世紀になって日本国という国家が人権を尊重するというのであれば、国家による殺人はすぐに止めるべきなのだ。

死刑という野蛮な制度は、坂口の上に重くのしかかり続ける。

  月曜日に執行指揮書は届くらし月曜日の朝はこころ重たし

  木曜日に髭を剃りつつ執行はもしや明日かといつも思へる

  後ろ手に手錠をされて執行をされる屈辱がたまらなく嫌だ

  叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ

それは、36年間にわたり月に一度、房総半島にある自宅から往復5時間かけて東京拘置所まで息子に会いに行った「坂口の母親」にまでのしかかってゆく。

  これからは老い深まりし母親を我の処刑に怯えさするか

  春に次ぐ秋の処刑に取るものも取敢えず母は面会に来り

このような圧迫と恐怖が続くなかでは、自分がしてしまったことへの反省などできようもない。死刑制度は死刑囚から反省の機会をも奪ってしまうのだ。死刑制度への疑問は、

   挫折せし過激派われが 信ずるに足るものは一つ ヒューマニズムのみ

という歌に凝縮されている。多くの殺人に関わった坂口が、死刑囚という立場になって、信ずるに足るものは ヒューマニズムのみ と詠う。皮肉と言えば皮肉である。

坂口が自分の死刑のことを離れ、再び社会に目を向けるようになると、坂口らしい歌が散見されるようになる。

  従軍慰安婦にあらず従軍慰安婦にされし人たちと書き給え君ら

  気配せる 闇の外の面に目を凝らせば ああ落蝉羽撃きなりき

  高松塚古墳壁画の発見を 聴かされてその日の われ救はれぬ

  隠れ家に星見るアンネを 思い居り 目隠しの間に月見つつ吾は

  聖地死守のセルビア人のメンタリティーを 顧みるなく 空爆をなせり

77歳になった坂口が、2024年になろうとする今、どんなことを歌にするのか、短歌という詩のなかに何を籠めようとするのか、とても興味深い。

Fernando Pessoa 『The Book of Disquiet』

2023年12月22日(金)

フェルナンド・ペソアを知っていますか?

今週の書物/
『The Book of Disquiet: The Complete Edition』
Fernando Pessoa 著、Margaret Jull Costa 訳、Serpent’s Tail、2018年刊

Fernando Pessoa(フェルナンド・ペソア)は、彼の「No intelligent idea can gain general acceptance unless some stupidity is mixed in with it.(いかなる知的なアイデアも そこに何らかの愚かさが混ざっていない限り みんなに受け入れられることはない)」という文章からわかるように、あまり一般受けする文章を書かずに47年の生涯を終えたポルトガルの詩人であり作家だ。

父親の死と母親の再婚のため、5歳から17歳までのあいだ南アフリカですごし、英語の教育を受けたため英語とポルトガル語を話し、フランス語もできたため、アメリカの商社で翻訳とか書類作成とかをこなす駐在員として働き、詩作に励んでいた。詩をイギリスの出版社に売り込んだものの相手にされず、ようやくポルトガルの出版社で出版までこぎつけたものの思ったようにはならず、働いて得た金と祖母の遺産とで出版社を立ち上げて自分の本を数冊出したのだが、ペソアが生きているあいだにペソアの文章が広く読まれることはなかった。

ペソアが死んだあと、本棚の前に置かれた木製のトランクのなかから25,574ページもの著作が見つかり、それを整理した人たちが「これはすごい」と思ったかどうか、その大量の文章が本になって広まり、今ではポルトガルを代表する詩人ということになり、その顔が紙幣に印刷され、リスボンのいたるところに観光資源としてのペソアが現れる。死んでから有名になったということでは画家のゴッホを思い出すが、みんなに受け入れられるはずのないペソアがみんなに受け入れられていたり、売れるはずのないゴッホの絵が高値をつけていたりするのを見ると、複雑な気持ちになる。

ペソアのなかには、駐在員のペソア(Himself)と詩人・作家としてのペソア(Orthonym、Autonym、Heteronym)のほかに、アルバロ・デ・カンポス、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイスといった70以上もの異名を持つ作家・別人(Heteronym、Para-heteronym、Semi-heteronym、Proto-heteronym、Alias、Pseudonym、Character)が存在していて、それぞれの人格が文章を書いていた。異名者が出現することについて多重人格という説明もあるが、「なりすまし」と考えたほうがしっくりとくる。異名者というのは、ペソアが作り出したフィクションなのだ。

例えば、1914年3月8日には、「私は気がつくと背の高いタンスの前に立っていて、紙を手に取り、書き始めた。…その後、私の中に誰かが現れ、私は即座にアルベルト・カエイロという名前を付けた。…三十編の奇妙な詩を書き終えたので、私はすぐに別の紙を取り上げてフェルナンド ペソアによる六編の詩を続けて書いた。…それはフェルナンド ペソア/アルベルト カエイロからフェルナンド ペソアへの復帰だった」と書いている。こんな感じで、ペソアが作り出したフィクションは勝手に動き出す。

で今週は、そのペソアの残した数々の文章からなる一冊を読む。『The Book of Disquiet: The Complete Edition』(Fernando Pessoa 著、Margaret Jull Costa 訳、Serpent’s Tail、2018年刊)だ。1935年に著者が死んだあと残された文章を、まるでジグソーパズルを組み上げるかのようにまとめあげて、2018年になってようやく「完成版」となって出版されたものだ。

と書くとなんだかすごいことのようだが、実際は編集者たちがペソアの死後に残された文章を整理し、私たちの整理の仕方が一番だと自画自賛するなかで、「最新版」だの「完成版」だのと銘打って出版が繰り返され、その度に出版社が儲けてきたという裏事情がある。

第一次世界大戦前夜、1913年にペソアがこの『The Book of Disquiet』を断片的に書き始めたとき、フェルナンド・ペソアは25歳だった。その最後のページは死の直前に、つまり47歳の時(1935年)に書かれたことになるが、実際には彼はこの本を書いてはいない。死後にトランクのなかから出てきた大量の紙をまとめて編集して本になったといういきさつがあるのだ。

最初の出版は1982年、ポルトガル語で『Livro do Desassossego』として出版された。このポルトガル語版と英語の『The Book of Disquiet』の初版は、書かれた順番に編集され、ペソアが行きつ戻りつした過程が感じられるという。それを最初に壊したのが、イタリア語の『Libro dell’inquietudine』で、多数の散在するページを内容ごとにまとめ、繰り返しを制限するために特定のカットを加えたという。フランス語の『Le Livre de l’intranquillité』となると編集はさらに大胆になり、英語の『The Book of Disquiet: The Complete Edition』に至っては時代順という考えは跡形もない。

時代順でないということは、作者の思考過程が見えないかわりに、読みやすいという利点がある。なにしろ、残された断片をつなぎ合わせてできた本なので、まとまったものを流れとして読むよりは、断片を断片として読んだほうがいい。そう思わせるほど、ひとつひとつの文が心に届く。

例をあげてみると、

I’ve always rejected being understood. To be understood is to prostitute oneself. I prefer to be taken seriously for what I’m not, remaining humanly unknown, with naturalness and all due respect.

I suffer from life and from other people. I can’t look at reality face to face. Even the sun discourages and depresses me. Only at night and all alone, withdrawn, forgotten and lost, with no connection to anything real or useful — only then do I find myself and feel comforted.

I’ve never done anything but dream. This, and this alone, has been the meaning of my life. My only real concern has been my inner life.

Everything around me is evaporating. My whole life, my memories, my imagination and its contents, my personality – it’s all evaporating. I continuously feel that I was someone else, that I felt something else, that I thought something else. What I’m attending here is a show with another set. And the show I’m attending is myself.

We never love anyone. What we love is the idea we have of someone. It’s our own concept—our own selves—that we love.

My past is everything I failed to be.

Literature is the most agreeable way of ignoring life.

これを続けてゆくと、結局は一冊全部になってしまう。そんな文の集合体が『The Book of Disquiet』なのだ。ちなみに、各国で付けられた題名の中で、私は『Le Livre de l’intranquillité』がいちばん好きだ。「l’intranquillité」という単語から、「l’imparfait」「l’incomplet」「l’impermanence」といったなんとなく美的な感じがする単語が浮かんでくる。「不穏」では、あまりにも美から遠い。

そんなことはともかく、もしペソアが「本が売れること」を第一に考えていたのなら(ヘミングウェイのように「100ワード、いくら」で考えていたのなら)、決して出てこないだろう言葉の数々。「書いてはいけないこと」などなにもない、規制も忖度もないなかでの著作。それが、結局は、心に届くのだろう。書いてはいけないことを自分たちで決め、それにがんじがらめになっている今の日本の文筆家たちにはわからないことかもしれないが。

それにしても、ペソアのような人にとって、社会と折り合いをつけることのいかに難しいことか。いや、大部分の私たちにとって社会との折り合いはつきにくく、だからこそ、多くの人たちがペソアの文章にのめり込むのではないか。

ペソア自身が自分の仕事と思っていたのは何なのだろう? アメリカの商社で働くこと? 出版すること? いや、どちらでもないだろう。出版をしようとして思うようにいかなかったときに、考えることのほうがはるかに大事だと悟ったのではないか。自分の仕事は考えることだと自覚したのではないか。ペソアが人生の終わりに近づいて、自分がこの世界のなかで消えていくことを理解したとき、自分にとっての仕事である「考えること」をやめてしまうのではないかという恐怖が襲い、それと同時に、驚きとか、懐かしさとかをもやってきたのではないか。ひとりだということが身に染みたのではないか。

ペソアの文章のなかにある不可能なことへの憧れ、ありもしなかったことへの郷愁、あり得たかもしれないことへの渇望、誰か他の人のようではなかったことへの後悔、自分を取り巻いている世界への不満。そんなもののすべてが、折り合いのつかなさと相まって、読者のなかに入ってくる。社会との折り合いがつかない。他人との折り合いがつかない。そんな感じを少しでも持っている人におススメの一冊だ。

本題からはそれるが、最後に、前から気になっていることをひとつだけ。ペソアの外見のことだ。顔、服、帽子。どれも、文章と同じく、ペソアが作り出したもの。そう思って写真をしげしげと眺めていると、私の知らない文章がどこかに埋もれているように思えてくる。「不思議な」という一言で片づけられてしまうことの多い作家だが、自分に正直な人だったに違いなく、その奥の深さを感じるとき、有名になってしまったのも仕方ないのだろうと思う。

幸田文『きもの』

2023年12月15日(金)

男にはうかがい知れない女の会話

今週の書物/
『きもの』
幸田文著、新潮文庫、1996年刊

野坂昭如に言われるまでもなく「男と女のあいだには 深くて暗い河がある」ようで、時折、女たちの会話が理解不能に思える瞬間が訪れる。身近な人のうわさ話、贈答品のことなどなど、しなくていい会話や、意味不明の会話が延々と続くとき、耳がほとんど閉じている自分に気づく。話して何かを得ようとか、何かを解決しようとか、そういうことではない。話すこと自体が目的なのか。世間体を気にする割には、会話は社会的な広がりを持たない。

そんな日本の女たちの会話を理解するとっかかりになるのが、幸田文の『きもの』である。最初のページの胴着の話から、最後のページの寝巻のところまで、とにかく違和感が付きまとう。

幸田文は幸田露伴の娘で、結婚、出産、離婚を経て父のもとに戻り、露伴の死後に文筆家になった。娘の青木玉、孫の青木奈緒も文筆家。四代にわたって文筆家になっている。とはいっても、幸田文自身に自分が文筆家だという自覚があったわけではないようで、幸田文について調べてみると、露伴の死後の2~3年に『雑記』『終焉』『父』『こんなこと』『みそっかす』などを出版すると、昭和25年には断筆宣言をして柳橋の芸者置屋の住み込み女中になったりとか、昭和40年からは焼失した法輪寺三重塔の再建に走り回ったりとか、文筆がプライオリティーでないという生涯が見えてくる。

『きもの』は、法輪寺三重塔の再建に走り回るなかで『闘』と同じ時期に執筆され、三年にわたって「新潮」に発表された。だから、話の中に出てくる人たちは大正の頃の人たちだとしても、幸田文のまわりの人たちは、みんな戦後の復興とか経済成長とかのなかにいたことになる。

大正・昭和の人たちの持っていた不自由さは、違和感というよりは異和感といったほうがいいような、私たちには理解できない不自由さで、世間体にしろ、行儀にしても、誰から押し付けられたものでなく、自分で自分を規制する不自由さなのだ。

主人公のるつ子は、間違いなく幸田文自身なのだが、『きもの』には私小説らしさがない。幸田文自身が欲しかった自由とか自立とかは、青木玉や青木奈緒にとっては当たり前のもので、欲しがるものではなかっただろう。でも、幸田文には切実なもので、だからこそ、これまでかこれまでかというほどに、自分のまわりのことばかりを書き連ねたのではないか。

自由とはいっても、放縦とか放埓とかとは一線を画したい。また、豊かになるとはいっても、優しさや親しみを忘れたくない。そんなことが垣間見られる幸田文の文章からは、幸田文が譲りたくなかった品とか感性とかが見て取れる。

それにしても、狭い社会のなかに登場する人物たちの、なんと俗物的なことか。日本が開発途上国であったからという説明だけでは済まされない、戦後の荒廃の様子が見て取れる。そしてその荒廃は、戦後何十年経っても、延々と続いている。『きもの』は、そんなことを感じさせてくれる一冊だ。

話を「日本の女たちの会話」に戻そう。近頃は、身近な人のうわさ話をする人は少なくなった。その代わり、メディアに登場する人のうわさ話をする人が増えている。根源は同じ。自分の「人に対する評価」が、みんなの「人に対する評価」と一致しているかを確認したいのではないだろうか?

「あそこの家の娘さんは毎晩のように遊び歩いて」というのが「あの政治家が不倫をして」になったとしても、「けしからん」を共有したいという欲望は変わらない。ネット上の女性週刊誌ダネが男にはそれほど面白くないのは、一昔前の井戸端会議に男が興味を示さなかったことと同じに思える。

幸田文の生涯にわたる数々の文章が、身近な人や身近なことで成り立っていたのは、決して偶然ではないし、それは決して悪いことばかりではない。ただ、幸田文が美しいと思ったものの多くが消えつつあるのは残念としか言いようがない。