2024年7月12日(金)
快楽礼讃
今週の書物/
『快楽主義の哲学』
澁澤龍彦著、文春文庫、1996年刊
ギリシャの頃から今に至るまで、西洋では「幸せとは何か」がさまざまに論じられてきた。「幸せになることが人生の目的だ」という人もいる。それもこれも、幸せになることが、誰にとっても難しいからではないだろうか。
快楽も同じ。「人間の目的は快楽だ」という人たちがいる。でも「快楽とは何か」ということになると意見はまとまらず、酒池肉林を快楽という人たちと、心に動揺のないのが快楽だという人たちとが、無駄な論争をしてきた。
「幸せになった後、すべての生物は空し」というけれど、幸せになった後、いったいどうしようというのか。言葉をを置き換えて「快楽を得た後、すべての生物は空し」「性交の後、すべての生物は空し」といってみても、事情はあまり変わらない。ハッピーエンドの後、その状態が持続するわけでもあるまい。
幸せになりたい。でも、幸せが何かはわからない。快楽が得たい。でも、快楽が何かはわからない。それはまるで Erich Fromm の『Escape from Freedom』のようだ。自由でいたい。でも自由が何かはわからない。ドイツでは、そんな人たちが幸福を追い求めることだけを考え、社会がとんでもない方向に向かってしまった。そういうふうに、Erich Fromm は書いている。
幸せかどうかということと、満足しているかどうかということも、よく混同して考えられる。「満足した豚より 不満足な人間のほうがいい」とか「満足したバカより 不満足なソクラテスのほうがいい」というように、満足か不満足かを語る言葉は多い。
外界に関心を持ち 仕事に満足することで 幸せを感じる。仕事に幸せを見出す。そんな考えが社会に蔓延するようになると、ただ 幸せを感じるとか ただ 快楽を感じるということに、罪悪感を感じる人が増え、幸せや快楽に対する考えも大きく変わってきた。
「幸せ」をテーマにした本はたくさん書かれ、「不幸せ」に耐える方法もたくさん書かれてきた。「私たちは すでに幸せだ」と書く人もいれば「私たちは 決して幸せにはなれない」と書く人もいて、考えは多岐にわたる。「快楽」となると考えはもっと割れ、「快楽は罪悪だ」と書く人から「快楽は善だ」と書く人まで、さまざまだ。
愛がすべてと思えば 愛に裏切られ、カネがすべてと思えば カネに裏切られる。愛もカネも 信じすぎてはいけない。同じように、幸せを追い求めれば 幸せは遠のき、快楽に身を任せれば 快楽は消える。幸せも快楽も 求めないところにやってくる。
で今週は、澁澤龍彦が「快楽」について書いた一冊を読む。『快楽主義の哲学』(澁澤龍彦著、文春文庫、1996年刊)だ。澁澤龍彦は、私にとっては サブカルチャーとかカウンターカルチャーの大御所的な存在の人で、どこか遠い感じがする。終戦の時に17歳だったという。
若い澁澤にとって、戦争は そして戦後の価値の転換は、決定的で 痴呆的で 尊厳的で バカバカしくて 空虚で 開放的だった という。「倫理はスタイルで、スタイルは快楽で、快楽は倫理だ」という澁澤の感性は、戦後生まれの私たちにはないものだ。
『第一章 幸福より、快楽を』のはじめに澁澤は「人間の生活には目的なんかない。食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけだ」と言う。その上で「幸福は快楽ではない」と言い、「幸福は、この世に存在しない」と言い切る。
澁澤は「痛い目にあうよりは、あわないほうがよい」というような消極的な考え方を「幸福」と呼び、「日本はいやだから、パリへ飛んでいく」というような積極的な考え方を「快楽」と呼ぶ。あるかどうかわからない幸福がやってくるのを待つのではなく、自分で作り出す快楽を実践のうちからつかみ取るほうがずっといいというのだ。
『第二章 快楽を拒む、けちくさい思想』のなかでは、既存の「いい」と思われている考えを、すべて否定する。「博愛主義は、うその思想である」「健全な精神こそ、不健全である」「≪おのれ自身を知れ≫は愚の骨頂」という具合だ。
古くさい形式的な道徳や、お上品ぶった理想論や、ばかばかしい先入観などを、ひとつひとつぶっ壊してゆく。その目的は、人間の本能、人間の欲望に忠実であること。欲望という美しい灯台の光だけをたよりにすればいいという。
『第三章 快楽主義とは、何か』では、「死の恐怖の克服」から始め、一歩一歩、精神的快楽や物質的快楽の頂上までのぼりつめてゆく。死を克服し、退屈を克服し、その先に見えてくるのは何か。
東洋的な快楽主義と西洋的な快楽主義、自然主義的な快楽主義と反自然主義的な快楽主義、文明主義的な快楽主義と反文明主義的な快楽主義、どちらがどうという以前に、さまざまに違った快楽主義が浮かび上がる。
『第四章 性的快楽の研究』は、他の章とは趣を異にする。セックスの快楽だけを独立して取りあげるのは、あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、いちばん強度なものであり、かつ、いちばん根源的だからだという。
「量より質を」「最高のオルガスムを」「情死の美学」「乱交の理想郷」「性感帯の拡大」という各節のタイトルを見るだけで、内容が想像できるだろう。ただ最後の「快楽主義は、ヒューマニズムを否定する」というところだけは説明がいるかもしれないが、長くなるのでここでは割愛する。
『第5章 快楽主義の巨人たち』では、ディオゲネス、李白、アレティノ、カザノヴァ、サド、ゲーテ、サヴァラン、ワイルド、ジャリ、コクトーと、じつにバラエティに富んだ人たちを紹介している。知らないことばかりで、興味は尽きない。
澁澤がセットした基準である「高い知性」と「洗練された美意識」と「きっぱりした決断力」と「エネルギッシュな行動力」を兼ね備えた人たちは、ある意味まぶしい。李白やゲーテを「快楽主義」と結びつけたことがなかったので、第5章は刺激的だった。
最後の『第6章 あなたも、快楽主義者になれる』は、そんなに簡単ではない。特に2024年の日本では、「誘惑を恐れないこと」も「一匹オオカミも辞さぬこと」も「誤解を恐れないこと」も「精神の貴族たること」も「本能のおもむくままに行動すること」も「労働を遊ぶこと」も「レジャーの幻想に目をくらまされないこと」も、どれも簡単ではない。
私はこれまで何度も、幸福を味わえることができ 快楽を得ることのできる場所で暮らすことを夢見てきた。でもこの本を読んで、それが幻想でしかないことに気づく。いま居る場所にいても、朝 雨戸を開けたときに見る景色だけで 幸福は味わえるし、隣にいる人のあたたかさを感じるだけで 心の安らぎという快楽を得ることができる。なにも、北の国の緑の森のなかや 南の国の静かな海岸に行くだけが 幸福や快楽への道ではないことに、今さらながら気づいたのだ。