「日本社会のしくみ」は、現代では、大きな閉塞感を生んでいる。女性や外国人に対する閉鎖性、「地方」や非正規雇用との格差などばかりではない。転職のしにくさ、高度人材獲得の困難、長時間労働のわりに生産性が低いこと、ワークライフバランスの悪さなど、多くの問題が指摘されている。
しかし、それに対する改革がなんども叫ばれているのに、なかなか変わっていかない。それはなぜなのか。そもそもこういう「社会のしくみ」は、どんな経緯でできあがってきたのか。この問題を探究することは、日本経済がピークだった時代から約30年が過ぎたいま、あらためて重要なことだろう。
日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学
講談社現代新書 2528) 新書
2019/7/17
by 小熊 英二
日本社会を支配する「暗黙のルール」…日本人が呪縛されている「恐るべき慣習」の正体
小熊 英二(社会学者) の意見
現代ビジネス
なぜ日本は停滞からなかなか抜け出せないのか? その背景には、日本社会を支配する「暗黙のルール」があったーー。
「社会の慣習」とは何か
本書が対象としているのは、日本社会を規定している「慣習の束」である。これを本書では、「しくみ」と呼んでいる。
慣習とは、人間の行動を規定すると同時に、行動によって形成されるものである。たとえていえば、筆跡や歩き方、ペンの持ち方のようなものだ。これらは、生まれた時から遺伝子で決まっているのではなく、日々の行動の蓄積で定着する。だがいったん定着してしまうと、日々の行動を規定するようになり、変えるのはむずかしい。
人間の社会は、その社会の構成員に共有された、慣習の束で規定されている。遺伝子で決まっているわけではなく、古代から存在するものでもないが、人々の日々の行動が蓄積され、暗黙のルールを形成する。それは必ずしも法律などに明文化されていないが、しばしば明文化された規定よりも影響力が大きい。ただしそれは永遠不変ではなく、人々の行動の積み重ねによって変化もする。
こうしたものは、自然科学の対象ではなかった。自然科学は永遠不変の法則を探究する。日々の行動の蓄積によって変化するようなものは、自然科学の対象にならない。
自然科学にあこがれて始まった社会科学も、永遠不変の法則を人間界のなかに探ろうとした。古典経済学は、その1つである。
アダム・スミスは、人間は交換によって利益を追求する永遠不変の天性があるのだ、という公理を設定した。公理は設定するものであって、証明することはできない。アダム・スミスも、この公理を証明しようなどとはしていない。とはいえこうした公理を出発点に据えたことで、経済学は自然科学を模倣した学問になりえた。
社会の「暗黙のルール」を探る
だが社会学という学問は、そうではなかった。ウェーバーやジンメル、デュルケームといった社会学の始祖たちが研究対象にしたのは、1つの社会が共有している暗黙のルールだった。古典経済学では説明できない人間の行動も、こうした暗黙のルールから説明できると彼らは主張したのである。
有名な例は、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。ウェーバーは、当時のドイツの農場労働者が、経済学的には説明できない行動をとっていたことを指摘することから、この本を始めている。賃金を出来高払いにしても、彼らは今日の生活に必要な分を稼いだら、それ以上働こうとはしなかったのだ。
これは不合理な行動にもみえる。とはいえ、明日には死ぬかもしれないなら、今日のうちに明日の分まで働くのは馬鹿げている。明後日にどうなるかわからない社会で、出来高払いで労働効率があがったら、その方がむしろ不合理だ。それが合理的な行動なのは、未来が安定して続くという信念が、共有されている社会においてだけである。
ここからウェーバーは、資本を蓄積しようとする行動は、特定の未来観を暗黙のルールとして共有した社会からしか生まれないと考えた。そこから彼は、キリスト教各宗派の未来観を調べ、プロテスタントの一派を信じる社会から資本主義が発生したと主張した。その研究の方法論としては、宗教テキストを個別的に分析して、その社会の根底的な原理を探る方法がとられた。
なおウェーバーの著作で、日本語で「倫理」と訳されているドイツ語はEthikである。これは「エチケット」の語源としても知られる古代ギリシア語のエートスの派生語で、日々の行動の蓄積で体得された規範を指す。ペンの持ち方やスプーンの使い方といった「エチケット」も、日々の行動の蓄積で体得し、暗黙のルールとなるものだ。
ウェーバーは、こうした集合的な慣習が、ドイツ人が生まれた時から身につけている民族性Volkscharakterであるなどとは考えなかった。だが同時に、これが人々の行動を規定しており、一朝一夕では変えられないとも考えていた。
このような、1つの社会が共有している暗黙のルールを探る研究は、さまざまに行なわれてきた。有名なものを挙げるなら、教育学の領域で知られるピエール・ブルデューの仕事、社会保障の領域で著名なイエスタ・エスピン‐アンデルセンの仕事などがある。
とはいえ、1つの社会を規定している「しくみ」を何と呼ぶかについては、統一的な名称はない。ウェーバーはエートスEthikと呼び、ブルデューはハビトゥスhabitusと呼び、エスピン‐アンデルセンはレジームregimeと呼んだ。だがいずれも、日本語としてなじみのある言葉ではない。
そこで本書では、暫定的にこれを「しくみ」と呼ぶことにした。日本の読者を相手に、ラテン語や英語を使う必要もないだろうと考えたからである。
さらに連載記事<なぜ日本は「停滞」から抜け出せないのか…その「根本的な原因」>では、日本社会を支配する「暗黙のルール」の正体に迫っていきます。ぜひご覧ください。
「どちらの日本になさいますか?」――小熊英二『日本社会のしくみ』レビュー
まなびとき / キャスタリア株式会社
https://note.com/manabitoki/n/nfb5deca5842d
「日本はイノベーションに関わると、できない理由から探します」
「日本はイノベーションに関わると、できない理由から探します。難しさを先に語るのです」と、元アップル日本法人代表の前刀禎明氏は語った(*)。これが、地域向けの駄菓子屋を念頭に置いた言葉でも、地方小学校の運営体制について語ったものでもないことは直感的にわかるし、実際、多くの読者が無意識にそうした文章として読んだはずだ。
しかし、「保育園落ちた日本死ね!!!」とか、「日本の住宅は狭い」とか言うとき、暗に日本全体がそのような状態にあると想定してしまってはいないだろうか。あるいは、自分の身の回りがそうでないという理由で、こうした話を「それは日本の話ではない」と相手をせずに過ごしてはいないだろうか。
「正社員で定年まで」が日本の働き方?
「正社員になり定年まで勤めることが、かつては日本人の典型的な生き方だった」と聞いて、多くはそうだと信じているだろう。しかし、その生き方をした1950年代生まれの男性は34%であり、1980年代だと27%だと推定されている。「昭和」ですら、たかだか34%にしかならない。(19-20頁)
だとすると、日本の働き方について話しながら、一体「どの日本」について話していたというのか。そこでの会話には、過剰な一般化や、不幸なすれ違いがあったに違いない。
社会学者・小熊英二の新著、『日本社会のしくみ:雇用・教育・福祉の歴史社会学』は、「日本ってさ」と語りたくなったり、「日本人ってのは」という言葉を目にしたりしたとき、「どの日本の話か」を推定するための足場を提示してくれている。
様々な日本?――大企業型、地元型、残余型
「日本の生き方の類型」を、大企業型、地元型、残余型に小熊は分類する。本書は、これらの類型を用いて、その相互関係や増減を明らかにしつつ、総体としての日本のあり方を描こうとするものだ。
「大企業型」は、大卒で官庁や大企業に雇われて正社員・終身雇用の人生を過ごす人とその家族であり、「地元型」は地元の中高を卒業したあと、地方産業や地方公務員などを職業として就職する生き方を指す。(21頁)
「地元型」は、「大企業型」よりも収入が少ない傾向にあるが、農林業や自営業なら定年と関係なく働く人が多い。また、行政的にも地域住民として念頭に置かれやすく、商店街や自治会、農業団体などを通じて、政治的な要求を届けやすい。政治家もこうした人との関係を築くことが重要であり、実際、同じ地域に長く住む人ほど日本では投票率が高いことで知られる。(22頁)
他方で、「大企業型」は、比較的所得は多いものの、定年後の生き方が不確定である。高校や大学への進学で地縁を失いがちで、就職後も一つの地域に長く居らず、遠距離通勤で地域に寝に帰るだけという人も多く、地域に頼れる関係性がない。(24頁)
「残余型」は、会社と地域のどちらにも頼ることがない(できない)生き方のことであり、非正規雇用者を中心に顕著な増加が認められる類型でもある。(これらが具体的にどう使われるのかは、本書および各章の扉にある要約をご覧いただきたい。)
どちらの日本になさいますか?
「日本型雇用は…」「働き方改革が…」と語るときは、大抵「大企業型」の話がなされているはずで、実際、報道番組などでも大都市のビル群を背景に流しながら、そうしたニュースを紹介しているだろう。 政治評論家のウォルター・リップマンは、『幻の公衆』という本で、単数形で表される唯一の社会などはなく、社会は複数形である(societies)と語った。にもかかわらず、同じ社会に生きていると幻想を抱くことが、私たちに様々なすれ違いを引き起こしている、と。
『日本社会のしくみ』から学ぶことのできることの一つは、三つの類型のどれに該当するのかと問う習慣を身につけ、「どの日本に基づいて話すのか」をはっきりさせることで、すれ違いを減らすことだ。
成功事例に飛びつくな
一点、蛇足しておこう。「大企業型」からの脱却を図ろうと唱える人は多い。新卒一括採用や年功序列、「社内でのがんばり」を評価するあり方への批判をよく耳にするだろう。しかし、それらの大半は、流行に乗っただけの無思慮な発言にすぎない。
小熊は、アメリカの経済学者の言葉を引いて、こう語る。
日本の経営者は、アメリカでは簡単に解雇できることをうらやましいと思う。アメリカの経営者は、日本では簡単に人事異動できることをうらやましいと思う。しかし彼らは、相手のうらやむべき点を「可能にさせている交換条件にはとんと無理解」だという。(148-9頁)
それぞれの社会は全体として機能する「しくみ」を持っているので、個別の要素を抜き出して、それ単体で、憧れたり批判したりしてみても、何の意味もないのだ。
あるルールやプロジェクトがうまくいったのは、それを支える有形無形の文化に支えられていたからだ、ということは往々にしてある。例えば、社員教育がうまくいっている企業には、社員教育に関わる諸々の制度があるだけでなく、「社員教育は大事だ」という心の習慣が社員の間で実質化しているから社員教育がうまくいく、という事例のように。
上意下達で何かが行われるとき、私たちは根本的な事情を考慮し損なうことが多い。先進事例や海外動向の上澄みを、あるいは、お上の指針を、素朴に「指令」として読み替えて実施し、自社の習慣を考慮し損なったとき、既に道を踏み外しかけているのだろう。要するに、国内外の目立った成功例に飛びつきたくなったとき、それがうまく機能するために寄与していた無数の習慣の存在に思いを馳せる必要があるのだ。
『日本社会のしくみ』は、日本の来し方について見通しの良い整理を与えてくれるだけでなく、このように、物事を考えるときの手がかりを読み取ることもできる好著である。