新興宗教に深く入り込んでしまう人について考えていた。どうして人は、そこまで何かを信じることができるのだろう。国家についても似たような疑問がある。国家から多くのものを要求され、ときには自分の時間や財産や人生そのものまで差し出しながら、それでも国家を信じ続ける人がいる。そういう人たちは、もともと信じやすい人なのだろうか。そして信じやすいということは、Tameされやすいということなのだろうか。
けれども、考えているうちに、「信じる人」と「疑う人」という分け方では不十分なのではないかと思うようになった。人間はそもそも何も信じずには生きられない。家族を信じ、友人を信じ、医師を信じ、貨幣を信じ、明日も社会がだいたい今日と同じように動いていることを信じて暮らしている。問題は信じることそのものではない。信じることによって、問いを持つ余地が失われることなのではないか。「私はこの宗教を信じている。しかし、この教祖の言っていることは本当に正しいのだろうか」「私はこの国を愛している。しかし、この国家が要求していることは本当に必要なのだろうか」と考えられるうちは、信じることと自分とのあいだにまだわずかな距離がある。
この距離について考えていると、刑務所が気になってきた。近代の刑務所は犯罪者を隔離し、罰するだけの場所ではなく、少なくとも理念の上では、その人を社会に戻す場所でもある。犯罪をする人間を、社会の規範に従って生活できる人間へ変えていく。それをただ支配と呼んでしまうのは乱暴だろう。犯罪をしないようになり、仕事を持ち、人との関係を築き直すことができるなら、本人にとっても社会にとっても望ましいことは多い。しかし、そこには確かに、人間の行動をある方向へ変えるという発想がある。
ハッカーを考えてみれば、もっとわかりやすい。高度な技術を持つ人間に対して、その能力を捨てさせる必要はない。違法な侵入に使うよりも、セキュリティを守る仕事に使うほうが、収入も得られ、社会から認められ、逮捕される危険もないような環境を作ればよい。本人が比較した末に、「こちらのほうが割に合う」と考えてホワイトハッカーになるなら、誰かがその人を力ずくで服従させたわけではない。本人が選んだのである。それでも、その選択が行われる地形を社会の側が意図的に作っているとすれば、そこには一種のTamingを見ることができる。
ここで、それまで一つの言葉で考えていたTamingを、いくつかに分けてみたくなった。
最初のものをTaming 1.0と呼んでみる。これは、設計者のいないTamingである。人間とオオカミが接近し、長い時間をかけてイヌが生まれた。人間が穀物を選び、栽培しながら、逆に人間自身の暮らしも穀物によって変えられていった。森を人間が変え、人間の生活もまた森によって規定された。誰かが最初から完成図を描いていたわけではない。無数の選択、偶然、環境への適応、相互作用の積み重ねが、振り返ってみればTamingと呼べる変化をもたらした。
ところが人間は、やがて重要なことを知ってしまった。環境を変えれば、人間の行動を変えられるということである。こちらの行動には報酬を与え、あちらの行動には不利益を与える。ある行動を普通のことにし、別の行動を少し恥ずかしいことにする。そうすれば、命令しなくても、多くの人間はこちら側へ歩いてくる。これをTaming 2.0と呼んでみることができる。
公共政策に使われるナッジなどには、その構造がよく現れている。人々から選択肢そのものを奪うのではなく、意思決定の環境を変えることによって、一定の方向へ行動を促す。社会規範についての情報を提示して行動を促す「norm nudging」も研究されている。 そこには当然、自由との緊張がある。選択肢が残されているのだから自由は侵害されていないという見方がある一方で、本人が十分意識しないまま心理的な傾向を利用されるのであれば、それは隠れた操作ではないかという批判もある。
私はここにレッドカードを出す必要まではないと思う。しかし、イエローカードは出しておきたい。とくに公共部門がこうした方法を用いるなら、誰が、何の目的で、どのように人々を誘導しようとしているのかが見えることは大切である。透明性があり、批判することができ、その誘導からこぼれ落ちることさえ許されているなら、Taming 2.0は必ずしも恐ろしいものではない。むしろ刑務所から社会に戻る人を支えたり、危険な能力を有益な方向に生かしたり、人々が自分でも望んでいた行動を取りやすくしたりすることもできる。
恐ろしさが増すのは、その次である。
Taming 2.0によって作られた規範が十分に内面化されると、もう外から誘導する人がいなくてもよくなる。「もっと働きなさい」と言われなくても、自分から働き続ける。「もっと成績を上げなさい」と言われなくても、よい成績を取れない自分を責める。「社会から評価される人間になりなさい」と言われなくても、評価されない人生には価値がないような気がしてくる。ここではTamerが消えている。正確には、Tamerが自分自身の中に移動している。これをTaming 3.0と呼んでみる。
Taming 3.0が怖いのは、命令が厳しいからではない。むしろ命令が必要なくなるからである。「これに従え」と言われれば、「嫌だ」と答えることができる。しかし、「そもそも私はこういう人間なのだ」と思っているものから逃れることは難しい。宗教を疑ったときに、「この教義は間違っているのではないか」と考えるのでなく、「疑う私の信仰が足りないのだ」と考えるようになれば、疑念そのものが自己矯正の材料になってしまう。国家について疑問を持ったときにも、「国家がおかしいのではないか」ではなく、「国家を信じられない自分がおかしいのではないか」と考えるなら、外部からの強制はほとんど必要なくなる。
しかし、それほど深くTameされた人でも、ときどき抜け出すことがある。なぜだろう。
おそらく最初に現れるのは、立派な思想でも正しい理論でもない。「何かがおかしい」という小さな違和感なのだろう。そして、その違和感がすぐに押し潰されないためには、外の世界が必要になる。自分とは違う考えを持つ人が生きていることを知り、自分とは違う人生も存在することを知る。さらに、その世界へ出ても生きていけることが必要になる。宗教を離れても話せる人がいる。会社を辞めても暮らしていける。国家を批判しても市民でいられる。昨日までの自分が間違っていたと認めても、それまでの人生すべてを恥じなくてよい。自由になるためには、「自由になれ」という正論より、こぼれ落ちた人間を受け止めてくれる余白のほうが大切なのかもしれない。
そして、ここまで考えて初めて、「正しい情報」というものについて疑問が生まれる。
私たちは長いあいだ、間違っている人には正しい情報を与えればよいと考えてきた。しかしTaming 3.0まで進んでしまった人にとって、正しい情報は必ずしも救いにはならない。その情報を受け入れることが、自分の信仰だけでなく、家族や友人との関係、これまでの人生、自尊心、さらには「私はこういう人間である」という自己像まで崩してしまうのであれば、人は情報が間違っているから拒絶するのではなく、**正しいからこそ拒絶することさえある。**それを認めた後の自分を想像できないからである。
だから、正しい情報の価値が本当に失われたわけではないのだと思う。正しい情報だけでは足りないことが、見えるようになったのである。
人間が必要としているのは真実だけではない。真実を受け入れたあとにも、生きていける場所である。自分が間違っていたと知ったあとにも話をしてくれる人であり、所属していた世界を失ったあとにも立っていられる足場であり、すぐに別の正解へ駆け込まなくても「まだわからない」と言っていられる時間である。正しい情報が人を自由にするためには、情報の正しさだけでなく、その情報を受け入れることのできる社会の余白が必要なのだ。
こうして考えてみると、Taming 1.0からTaming 3.0への変化とは、単にTamingの技術が巧妙になってきた歴史ではないのかもしれない。Taming 1.0では環境が人間を変え、Taming 2.0では人間が他の人間の環境を設計し、Taming 3.0では、その環境が人間の内部へ入り込み、自分自身の声として語り始める。その最後の段階から人間を連れ戻すものは、さらに強い命令でも、さらに巧妙な説得でもない。
おそらく、「なぜ?」なのである。
ただし、「なぜ?」は正しい情報を与えれば自動的に生まれるものではない。それが育つためには、自分とは違うものが存在できる場所が必要であり、間違えることのできる場所が必要であり、答えを出さないまましばらく立ち止まれる場所が必要である。Taming 3.0がもっとも深く人間を捉えるのは、「なぜ?」を禁止したときではなく、「なぜ?」を思いつくための余白そのものをなくしたときなのだろう。
だから、正しい情報を守るだけでは足りない。それ以上に守らなければならないものがある。
正しい情報を前にしてもなお、「本当にそうだろうか」と問い、間違っていたと知ったときには生き方を変え、それでも自分の人生を失わずにいられる余白である。
Tamingから人間を完全に解放することなど、おそらくできないし、その必要もない。人は他人によって形づくられ、社会によって形づくられ、言葉によって形づくられ、愛した人によってさえ形づくられて生きていく。それでも、そのすべてを自分の運命として受け入れてしまう必要はない。どれほど深くTameされたとしても、ときどき立ち止まり、自分が歩いている道を眺めて、「なぜ私はここを歩いているのだろう」と考えることはできる。
その問いが残っているかぎり、人間は完全にはTameされていない。
そしてもしかすると、正しい情報の本当の価値とは、人間に正解を与えることではなく、その小さな「なぜ?」が生まれるきっかけを、ときどき世界の中に置いておくことなのかもしれない。