何にもならないものが好きだ

完璧でないものは美しい。完成していないものは美しい。永遠でないものは美しい。Wabi-Sabiについて考えているとき、私たちはふつう、古びた器や、雨風にさらされた木や、苔のついた石や、少し欠けた茶碗のようなものを思い浮かべる。そこでは、傷や歪みや衰えは取り除かれるべき欠陥ではなく、時間のなかに存在するものが避けることのできない姿として受け入れられている。完全であることよりも、完全ではありえないことのほうに美を見いだす。しかしこの感覚は、物についてだけではなく、人間と文明についても語ることができるのではないだろうか。そう考えたとき、私にはWabi-SabiとTamingという、いっけんまったく違う二つの考え方が、思いがけないところでつながっているように思えてくる。

文明とは、ある意味では、世界をTameし続けてきた長い歴史だった。人間は狼をTameし、牛をTameし、麦や稲をTameし、森をTameし、川をTameしてきた。それだけではない。人間は人間自身をもTameしてきた。子供を教育し、法律を作り、道徳を教え、宗教を作り、国家を作り、学校を作り、刑務所を作り、貨幣を作り、時計によって時間を区切った。ここでいうTamingそのものに善悪があるわけではない。それがなければ、人間がこれほど大きな社会を作ることはできなかっただろう。暴力を抑え、見知らぬ人間どうしを協力させ、未来を予測できる程度に世界を安定させることも、広い意味ではTamingの働きだったと言ってよい。

しかしTamingには、いつも完成へ向かおうとする誘惑がある。もっと安全に、もっと効率的に、もっと予測可能に、もっと管理可能にしようとする。制度の穴を塞ぎ、例外を減らし、分類できないものを分類し、測定できないものを測定しようとする。そして現代になってAIが現れると、この古い夢はかつてないほど現実味を帯びてくる。人間が何を読み、何を買い、どこへ行き、何を好み、何を恐れ、次に何をするかまで予測できるようになれば、文明によるTamingはついに完成へ近づくのではないかという想像さえ可能になる。

けれども、もし本当にTamingが完成してしまったら、その世界はどのようなものになるのだろう。すべての人間が理解され、分類され、予測され、誰もそこから外れない世界。それは、おそろしく滑らかな世界だろう。法律にも制度にも教育にも情報にも継ぎ目がなく、人間の欲望さえあらかじめ理解され、問いが生まれるより先に答えが用意されている。そこにはひょっとすると暴力も混乱も少ないかもしれない。それでも私は、その世界を美しいとは思えない。それは新品の工業製品のように完全で、傷がなく、均質で、そして息苦しい。

ところが現実の人間は、どうしてもそこまで滑らかにならない。教育されたのに疑う人がいる。説得されたのに納得しない人がいる。便利なものを与えられたのに使いたくない人がいる。誰もが成功したいと思っている社会で、それほど成功したくない人が現れる。「こちらへ行くのが合理的です」と教えられても、なぜか別の道を歩いてしまう人がいる。そしてときには、自分でもなぜその道を選んだのか説明できない。

以前考えた、海を見ている人のことを思い出す。その人は三時間ほど海を眺めているが、詩を書かない。海について考察もしない。写真を撮ることもなく、SNSにも載せない。海を見ることが心身にどんな効果を及ぼしたかを測定することもしない。ただそこにいて、風が少し冷たくなってきたので家へ帰る。文明の側から眺めると、この人の三時間は奇妙である。そこから情報も作品も利益も成果も生まれないからだ。しかし、その「何にもならなかった三時間」のなかにこそ、Tamingが最後まで行き届かなかった小さな場所が存在するように思える。

もちろん、この人もUntamedな人間ではない。言葉を話し、服を着て、貨幣を使い、誰かを愛し、誰かから愛されている。国家のなかに暮らし、法律に従い、歴史を背負っている。海辺から帰れば、再び文明のなかで生活する。完全にTamingの外側へ出ることなど、おそらく人間にはできない。

だからこそ、重要なのだと思う。

その人はTameされている。しかし、Tameされきってはいない。

この「きっていない」というところに、Wabi-SabiとUntamingとの深い接点がある。

自由というものを、私たちはしばしば完成した状態として考えてしまう。国家から自由であること、宗教から自由であること、世間から自由であること、AIから自由であること。しかし、そんな純粋な自由は存在するのだろうか。たとえ山奥へ逃げても、人は言語を持っていく。記憶を持っていく。教育を持っていく。親から受け取った価値観を持っていく。何より、自分自身を持っていく。Tamingから完全に逃れた人間というものを想像すると、それはとうとう人間そのものではなくなってしまうのかもしれない。

そうであるなら、UntamingとはTamingの反対側に存在する別の世界ではない。Tamingの内部に生じる、小さなほころびなのではないだろうか。

「本当にそうなのだろうか」と思う瞬間。「なぜ?」という問いが生まれる瞬間。自分が欲しいと思っているものについて、「これは本当に私の欲望なのだろうか」と立ち止まる瞬間。それは英雄的な反抗ではない。国家を倒すこともなければ、宗教を消滅させることもなく、AIを停止させることもない。翌日には、その人自身が再び何かに従い、何かを信じ、何かを当然だと思っているかもしれない。

しかし、それでよいのではないだろうか。

ここでWabi-Sabiは、自由について奇妙なことを教えてくれる。完璧でなければならないという考えそのものを捨ててみればいいのである。完全なUntamingを求めなくてもいい。永遠に自由でなくてもいい。すべてのTamingを見抜けなくてもいい。今日気づかなかったものに明日気づくことがあり、昨日疑ったものを今日は信じることがあり、そしてまたいつか疑い始めることがある。自由そのものが、欠けたり、曇ったり、古びたり、また現れたりするものだと考えてみればよい。

そうすると、人間の不完全さは、Tamingする側から見れば欠陥であっても、自由の側から見れば希望になる。

忘れること。迷うこと。気が変わること。説明できないこと。役に立たないこと。予測から外れること。「なぜ?」と問いながら答えを見つけられないこと。そのどれもが、完全に合理化された世界から見れば、人間の性能上の弱点に見えるだろう。しかし、Tamingという視点から見るなら、その欠陥こそが人間を最後まで完成品にしないものなのかもしれない。

そして、このことはTamingする側にも当てはまる。国家も永遠ではない。宗教の形も変わる。文明も衰える。常識も古びる。かつて絶対だと思われた価値が、いつのまにか忘れられていく。どれほど巨大なシステムであっても、それ自身が時間の作用から逃れることはできない。Tamingするもの自身もまた、完璧ではなく、完成しておらず、永遠ではないのである。

ここまで来ると、Wabi-Sabiは単なる美学ではなく、Tamingについての一つの思想にさえ見えてくる。

文明は完成したがる。しかし完成しない。人間を完全に理解したがる。しかし理解しきれない。秩序を永遠にしようとする。しかし永遠にはならない。そして人間自身も、完成しない。何かに形づくられながら、その形から少しはみ出す。Tameされながら、また少しUntameされる。その繰り返しのなかで一生を終える。

以前なら私は、自由とは「Tamingに抵抗すること」だと考えたかもしれない。しかし今は、それだけではないように思う。抵抗さえ必要ではない場合がある。海辺で何もしないで三時間を過ごすことも、突然それまで信じていたことを疑うことも、説明のできないものを説明しないまま残しておくことも、ある種のUntamingになりうる。それはTamingを打ち負かすのではない。ただ、Tamingを完成させないのである。

そう考えると、自由についての見方もずいぶん変わってくる。自由とは、巨大な力に勝利することではないのかもしれない。自分の内部に、誰にも侵入できない完全な聖域を築くことでもない。そんな頑丈な自由を人間は持てないのだろう。むしろ自由とは、自分自身を含めて、この世界のどこにもまだ完成していないところが残っているということなのかもしれない。

器の小さな歪みのように。古い木のひびのように。苔の生えた石のように。そこから何かが入り込み、何かが逃げていく。

人間もまた、そういう存在なのだろう。

完全には理解されず、完全には予測されず、完全には役に立たず、完全には従わない。そして最後まで、完成品にならない。

その不完全さを文明は長いあいだ克服しようとしてきた。しかし、もしかすると私たちは、それを克服してはいけないのかもしれない。少なくとも、そのすべてを克服してしまってはいけない。

なぜなら、Tamingが完璧にならないこと、Tamingが完成しないこと、Tamingが永遠でないこと。その不完全さのなかにこそ、Untamingが生き続ける場所があるからだ。

そしてもしWabi-Sabiが、完璧ではなく、完成しておらず、永遠ではないもののなかに美を見いだす感覚なのだとすれば、自由もまた、どこかWabi-Sabiに似ているのかもしれない。

Tameされないことではない。

Tameされながら、Tameされきらないこと。

そこにはたしかに美しさがある。しかし、その美しさが私たちを救うわけではない。その歪みが世界を変えるわけでもない。国家を弱くするわけでも、AIを止めるわけでも、文明の向かう方向を変えるわけでもない。そもそも、その歪みは何かのために存在しているのではない。

歪みは、何にもならない。

海を三時間眺めていた時間が何にもならなかったように、その人のなかに残った歪みも、何にもならない。それを自由と呼べば、もう何かにしてしまうような気さえする。それを抵抗と呼べば、もっと大きな物語のなかに回収してしまうだろう。希望と呼ぶ必要もない。

ただ、Tamingはそこで完了しなかった。

人間のなかに、最後まで何かが余った。その余ったものは何の役にも立たず、何も成し遂げず、その人とともにいつか消えていく。それでも、そこにあるあいだ、それは美しい。

何にもならないから、美しいというのでもない。ただ美しく、そして何にもならない。

もしかするとWabi-SabiとUntamingが出会うのは、そのようなところなのかもしれない。

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