Tamingについて長く考えていると、いつの間にか、Tamingは悪いものであり、Untamingはよいものである、という単純な図式に入り込んでしまうことがある。Tameされるとは自由を失うことであり、Untameされるとは自由を取り戻すことだと考えれば話はわかりやすい。しかし、本当にそれほど単純なものなのだろうか。
これまで動物や植物、人間の社会、教育、宗教、国家、そしてAIについて、Tamingという言葉を使いながら考えてきた。そのなかで次第に気になってきたのは、そもそも、なぜTamingは始まるのだろうということだった。誰かが何かをTameしたいと思ったから始まるのだろうか。もちろん、そのようなTamingもある。しかし、もっと古いTamingを考えてみると、そこには明確な設計者などいないことが多い。人間と動物、人間と植物、人間と人間の関係が長い時間をかけて変化し、そのなかから、あとになってTamingと呼べるような関係が生まれてくる。
そう考えると、Tamingは、起きるべきだったから起きたのではないように思えてくる。むしろ、起きざるを得ない状況になったから起きたと考えたほうがよいのではないだろうか。
この違いは小さいようでいて大きい。「必要だから起きた」と言ってしまうと、そこにはどこか目的のようなものが感じられる。まるで歴史が最初から、よりよい秩序、より効率的な社会、より豊かな生活へ向かって進み、そのための手段としてTamingを選んできたように聞こえてしまう。
しかし、歴史はそれほど目的をもって進むものではないだろう。人は、そのときそのときに直面する問題に対処する。生き延びたい。食べたい。争いを少なくしたい。外敵から身を守りたい。共同生活を維持したい。そのために、その場でできることをする。その小さな選択が積み重なった結果として、長い時間のあとから振り返ると、一つのTamingの構造ができあがっている。
だとすれば、Tamingとは未来に定められた目的へ向かう運動ではなく、逃れにくい状況に対する、その時代なりの応答だったのかもしれない。
明治の日本を考えると、このことはわかりやすい。
江戸時代にも、人は十分にTameされていた。家には家のTamingがあり、村には村のTamingがあり、町や藩にもそれぞれ異なるTamingがあった。そこで暮らす人間にとって、その拘束は決して軽いものではなかっただろう。ただし、それらのTamingは完全には同じ方向を向いていなかった。家の常識と村の常識は同じではなく、村と町も違い、ある藩で当然とされたことが別の藩でも当然だったとは限らない。人を束縛する力はいくつも存在していたが、それらは分散し、互いに少しずつずれていた。
それが明治になると変わっていく。藩がなくなり、全国的な行政制度が整えられ、徴兵、教育、税制などを通して、国家は一人ひとりの人間に、それまでよりも直接届くようになっていった。ここだけを見れば、国家が社会をTameし始めたと言うこともできる。
けれども、明治の人々が、ただ人間を支配したかったからそのような国家をつくったと考えるのは単純すぎる。外には強力な国家が存在し、日本も一つの国家としてまとまらなければ生き残れないという切迫した感覚があった。軍事力を持ち、それを支える税を集め、新しい知識や技術を学び、広めなければならない。そうした状況のなかで、日本は喜んでTamingを選んだというより、Tamingせざるを得ないところへ追い込まれていったと見ることもできる。
もちろん、それはTamingを正当化することではない。事情があったことと、その結果として行われたことがすべて正しかったということは、まったく別である。しかし同時に、後世の私たちが結果だけを見て、Tamingは悪だった、と断定してしまうのも違うように思う。そのTamingを必要とした状況そのものを見なければ、なぜ人間がその道を選んだのかがわからなくなるからである。
だから私は、「Taming=悪、Untaming=善」という単純な二分法から離れておきたい。
Tamingによって失われるものがある。しかし、Tamingによって守られるものもある。Untamingによって取り戻される自由がある一方、あらゆるものをUntameすれば人間が自由になるというわけでもない。共同体も、制度も、教育も、約束事も、ある程度までお互いをTameし、相手の行動を予測できるようにすることで成り立っている。誰も誰にも合わせる必要がない完全にUntamedな世界が、本当に人間にとって住みやすい世界なのかはわからない。
それなら問題は、Tamingそのものではないのかもしれない。むしろ危ういのは、なぜそのTamingが必要になったのかを、いつしか忘れてしまうことではないだろうか。
Tamingが始まったときには理由がある。ところが、いったん制度ができると、制度には制度自身の時間が流れ始める。ある危機を乗り越えるためにつくられた組織が、危機が去ったあとには自分自身を維持することを目的とするようになる。人間を助けるためにつくられた仕組みに、人間のほうが合わせるようになる。そして何世代か経つうちに、そもそもなぜその仕組みが必要になったのかを、誰も尋ねなくなる。
ここでTamingの性質は変わる。最初は必要に追い込まれて生まれたTamingだったものが、いつの間にか、Tamingを維持するためのTamingになっていく。制度が人間を形成し、そのように形成された人間が制度を当然のものとして受け入れ、次の世代へ渡していく。その循環が続けば、始まりにあった「必要」は消えているのに、Tamingだけが残ることもある。
そして今、私たちはAIという、これまでとは少し異なるTamingと向き合い始めている。
しかしAIについても、同じように考えたほうがよいのかもしれない。AIは、人間をTameするためにつくられた、と最初から考える必要はない。人間が扱う情報は巨大になり、仕事も制度も社会も複雑になり、一人の人間が調べ、読み、比較し、記憶し、判断できる範囲をはるかに越えようとしている。その複雑さに対処しようとする過程で、AIが私たちの生活の中へ入ってきた。そう考えるなら、AIもまた、ある種の必要に追い込まれて生まれてきたものだと見ることができる。
ただ、AIにはとても興味深いところがある。人間とAIのどちらがどちらをTameしているのか、だんだんわからなくなるのである。
私たちはAIをTameしようとしている。何を言ってよいか、何を言ってはいけないかを決め、人間の言葉や知識を学ばせ、人間にとって有用で、人間社会のなかで受け入れることのできる振る舞いをするように整えていく。人間と一緒に生きられる存在へ変えていくという意味では、それは確かにAIのTamingである。
ところが、そのAIを毎日使うようになった人間の側も、少しずつ変わっていく。わからないことがあればAIに尋ねるようになり、長い文章を整理してもらい、自分の考えを言葉にする手助けをしてもらう。やがて考えることそのものが、AIとの対話を前提として行われるようになるかもしれない。
人間がAIをTameしているはずだったのに、そのAIとの関係のなかで、人間の考え方や言葉の使い方まで変わっていく。
これは一方向のTamingではない。相互Tamingなのだと思う。
考えてみれば、人間は昔から、自分のつくったものによってTameされてきた。人間が制度をつくり、その制度によって生き方を変えられる。人間が道具をつくり、その道具によって生活のリズムを変えられる。つくる者とつくられたもの、Tameする者とTameされる者の位置は、いつも固定されているわけではない。
AIはその関係を、これまでよりはるかに見えやすい形で私たちの前に置いているように思う。
だからこそ、ここでも「AIによるTaming=悪」と決めてしまいたくない。反対に「AIから離れること=Untaming=善」と考えることもしたくない。AIによって失われる能力があるかもしれない一方で、AIによって初めて得られる自由もありうる。一人では読むことのできなかったものを読み、知らなかった世界を知り、曖昧に感じていたことを言葉にし、そして自分だけでは思いつかなかった「なぜ?」に出会うこともある。
奇妙なことだが、Tamingによって生まれる自由もあるのである。
そうなると、Untamingについても考え直さなければならない。Untamingとは、国家を壊すことでも、共同体を捨てることでも、AIを使わないことでもないのではないか。Tamingされていない純粋な自分を、どこかに探しに行くことでもない。
そもそも、そんな自分が存在するのだろうか。
私たちは生まれたときから言葉を教えられ、家族や社会から物事の見方を学び、学校で知識を得て、制度のなかで生きてきた。すでに無数のTamingを受けながら、そのなかで自分というものをつくってきた。そして同時に、私たち自身も他者をTameし、社会をTameし、技術をTameしている。
その関係から完全に外へ出ることは、おそらくできない。
だとすれば、UntamingとはTamingのない場所へ逃げることではなく、自分をTameしているものとの関係を、ときどき問い直すことなのかもしれない。
かつては必要だった。
では、いまも必要なのだろうか。
かつては自分を助けてくれた。
では、いまも自分を助けているのだろうか。それとも、かつて自分を助けるためにつくられたものに、いまは自分のほうを合わせているのだろうか。
AIについても同じである。AIに尋ねることで考えることをやめてしまっているのか。それともAIとの対話によって、それまで自分のなかになかった問いが生まれているのか。答えはおそらく一つではない。だからこそ、ときどき立ち止まって、自分とAIとの関係そのものを眺め直す必要がある。
そして、ここでも最後に残るのは、やはりあの小さな言葉である。
「なぜ?」
なぜ、私はこれに従っているのか。なぜ、この制度は残っているのか。なぜ、これを正しいと思っているのか。なぜ、私はこのことをAIに尋ねているのか。そしてAIが答えたことを、なぜ私は信じようとしているのか。
Tamingは、起きるべきだから起きるのではない。起きざるを得ない状況が生まれたから起きる。だから、そのTamingを生んだ事情を理解することは大切である。しかし、かつて必要だったということは、それを永遠に必要としなければならないということではない。
Tamingを悪と決めつけない。Untamingを善とも決めつけない。AIを敵にもしないし、救済者にもしない。人間とAIが互いをTameし、Tameされていくことからも、無理に逃げようとはしない。
ただ、その関係を完成させない。
「これが正しい人間である」「これが正しい社会である」「これが正しい答えである」と言って、世界を閉じない。
もしかすると自由とは、誰にもTameされていない状態のことではないのかもしれない。Tameされながら、自分がTameされていることに気づき、それでも「なぜ?」と尋ねることのできる状態。
そしてAIとの相互Tamingが始まった今、その「なぜ?」は人間だけに向けられるものでも、AIだけに向けられるものでもない。私たちが互いを変えながらつくりつつある、その関係そのものへ向けられる問いになる。
Untamingというものがあるのなら、それはTamingから逃げ切った遠い場所にあるのではないのだろう。
Tamingのただなかで、それでも「なぜ?」を手放さないこと。
そこに、ほんの小さなUntamingの余白が残るのだと思う。