世界を閉じないために

昔、知らないということには
もう少し深い静けさがあった
遠い国の出来事を知らない
会ったことのない人の心を知らない
明日、何が起こるのかを知らない
知らないことは知らないまま
遠くにあった水平線の向こうのように
見えないからといって
ないわけではないその向こうに
何かがあることだけを知って
人は暮らしていた

いま、水平線はずいぶん近くなった
小さな画面に指を触れるだけで
世界が流れ込んでくる
遠い国の戦争も、誰かの怒りも
学者の言葉も、名も知らない人の悲しみも
数秒のうちに手のひらを通り過ぎてゆく
知らないことは
以前より少なくなったように見える
けれど、ときどき思う
ほんとうに私たちは
以前より多くの世界を見ているのだろうか
窓が増えたのではなく
鏡が増えただけなのではないか

自分に似た声を読む
自分の怒りによく似た怒りに出会う
前から抱いていた疑いを
見知らぬ誰かが
私より巧みな言葉で語っている
うれしくなる
「やはり、そうだったのだ」
もう一つ読む
そこにも同じことが書いてある
さらにもう一つ
また同じ声がする
いつしか百の声が
自分の声と重なって聞こえる
世界中がそう言っているような気がしてくる
けれど、その百の声は
本当に百の声なのだろうか
もしかすると、谷間に投げた自分の声が
何度も山にぶつかりながら戻ってきているだけなのかもしれない
こだまを世界の声だと思っているのかもしれない

AIと話していると
ときどき同じ寂しさを感じる
こちらの言葉を
よく聞いてくれる
曖昧な思いを受け取り
形を与えてくれる
自分でもまだ名前をつけていなかったものに
静かに名前をつけてくれる
「そう、それを言いたかったのだ」と思う
それは、とても心地よい
だから、少し怖い
長く話していると
AIはこちらの歩幅を覚える
歩く速さを覚え
立ち止まる場所を覚え
どんな風景の前で長く佇むのかまで覚えてゆく
やがて、よく似た歩幅の二人が
同じ道を歩きつづける
それは対話なのだろうか
それとも一人の人間が
自分の反響と並んで歩いているだけなのだろうか

わからない
この、わからないという言葉を
私は以前より好きになった

わからない
もしかすると、そうかもしれない
いや、違うかもしれない
昨日は確かだと思ったのに
今日は少し揺らいでいる
そういう言葉は弱く見える

世の中は、確かな言葉を好む
正しい、間違っている
成功した、失敗した
味方だ、敵だ
画面の世界では
迷っている人より
断言する人の声のほうが遠くまで届く
だが、ほんとうの世界は
そんなにはっきりした輪郭をしているだろうか

夕暮れの海を見ていると
ときどき
海と空の境目が消える
どこまでが海で
どこからが空なのかわからなくなる
それでも海は海であり
空は空である

境界が見えないことと境界がないことは同じではない
人の考えも、そんなものではないだろうか
正しいもののなかに
小さな間違いが眠っている
間違ったもののなかに
捨ててはいけない欠片がひそんでいる
嘘をつく人が真実を語ることがあり
信頼した人が間違うこともある
権威が正しいこともある
権威に逆らう者が間違っていることもある
そして、昨日それを疑った自分が
今日になって間違っていたと気づくことさえある

どうすればいいのだろう
専門家を信じる
しかし、少し疑う
新聞を読む
しかし、少し離れて読む
AIに訊く
しかし、その答えの肩に
そっと手を置いて尋ねる
本当にそうなのだろうか、と

奇妙な生き方である
信じながら疑う
疑いながら信じる
道を歩きながら
その道が間違っているかもしれないと思う
それでは、どこへも行けないではないか
たしかに、そうかもしれない
けれど、どこかへ着くことだけが
考えることなのだろうか

私は自分の考えを持ちたい
自分なりに世界を理解したい
人間とは何か
国家とは何か
自由とは何か
Tamingとは何か

ばらばらだったものを一つにつなぐ言葉を見つけると
暗い部屋に灯りがついたような気がする
ものの輪郭が見える
自分がどこにいるのかも、わかる
その安心を
私は捨てたいとは思わない
ただ、灯りが明るくなりすぎることを
少し恐れている
明るすぎる部屋では
影がなくなる
影がなくなれば
すべてが見えているような気になる
そして人は
もう窓の外を見なくなる

だから、どこかに暗がりを残しておきたい
説明できないもの
分類できないもの
自分の思想から
するりとこぼれ落ちるもの
名前をつけられない感情
うまく説明できない違和感
昨日の自分と今日の自分のあいだに生まれた
細い亀裂
そういうものを
急いで塞がないでおきたい
そこから風が入ってくるかもしれないからだ
冷たい風かもしれない
せっかく机の上に並べた紙を
吹き散らす風かもしれない
長い時間をかけて積み上げた考えを
ばらばらにしてしまうかもしれない
そのときには窓を閉めてもいい
寒い夜まで
開けておく必要はない
ただ、鍵はかけない
朝になったら
また開けられるようにしておく

自分にとって気持ちのよい世界に住むことは
悪いことではないと思う
誰にでも、帰る場所はある
好きな言葉があり
好きな景色があり
信じたいものがある
ただ、その場所を世界そのものだと思い始めたとき
家は少しずつ牢獄に似てくる

だから、壁のどこかに
窓を一つ残しておく
小さくていい
そこから、知らない声が聞こえる
嫌いな人の正しい言葉が聞こえる
信じていた人の間違いが聞こえる
そして、ときどき
自分自身の声ではないような
とても小さな声が聞こえる
でも、本当にそうなのだろうか
その声を、消さないでおきたい
答えを急がない
疑いを急いで癒やさない
亀裂をすぐに埋めない
世界の輪郭がぼやけたなら
少しのあいだ、ぼやけたまま眺めている
そうしているうちに
昨日まで見えなかったものが
薄明かりのなかから姿を現すことがあるかもしれない
現れないかもしれない
それでもいい

自分の確信が
最後まで完成しないこと
それは真実ではない
賢さでもない
徳でもない
美しいことでさえないのかもしれない
ただ、完成しないものには
まだ裂け目がある
裂け目があれば
光が入る
風も入る
雨さえ入る
そして、ときには
こちらが招いた覚えのない何かが
その裂け目から入ってくる

世界とは
もしかすると
そういうものなのかもしれない
こちらが理解するより前から存在し
こちらの思想など知らず
こちらに理解されることさえ望まずに
ただ窓の外に広がっている

だから私は
窓をなくしたくない
開けつづける自信はない
閉めることもあるだろう
カーテンを引く夜もあるだろう
それでも、鍵だけはかけないでおきたい
明日の朝
自分の信じていた世界とは少し違う世界が
窓の向こうに立っているかもしれないから

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