2024年3月29日(金)
普通とは何か?
今週の書物/
『つながり過ぎないでいい』
尹雄大著、亜紀書房、2022年刊
マスコミなどが「今はこういう時代だ」と言ったとき、私は少なからず反感を感じる。「現代はVUCAの時代だ」などという文章を目にすると、「今さら、何を言ってるんだ」と思ってしまう。VUCAという言葉は、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)という4つの言葉の頭文字をとった造語で、もともとは冷戦時代のアメリカの軍事用語。それがいつのまにかビジネスでも使われるようになり、コロナ禍以降には日本でも使われるようになった。
「VUCAの時代」と言われても、ゆったりと落ち着いた暮らしをしていれば、なんのことやらわからないだろうし、「変革の時代」と言われても、変革とは関係なく生きていれば、なんの変りもない。「こころの時代」だからといって心が豊かになるわけではないし、「明るい時代」でも失意は襲ってくる。
日本の社会は、不思議なくらい「同化」で成り立っている。みんなが「こう」だったら、私も「こう」でなければならない。みんなが「ああ」だったら、私も「ああ」でなければならない。そんな同調圧力が社会に充満している。
外国から日本に帰って来て一番つらいのは、日本の普通であり、日本の常識だ。同じでなくても、いいではないか。そう思っていても、違う考えを持っていると「けしからん」とか「看過できない」といった言葉を感じる。なんともつらい。
こういう社会を生きづらいと思う人もいる。適応障害を発症する人も少なくはない。それでも多くの日本人たちは、日本の社会を快適と感じているようだ。外からの目で日本人を見ると、子供のころからの教育で同じような考え方をし、同じように生きているように見える。
でも、果たしてそれは現実だろうか。同じことを考えているというのは、本当だろうか。日本の普通や日本の常識なんて、ただの幻想なのではないのか。「けしからん」とか「看過できない」と言われても、私はちっとも気にならない。でも「気にならない私」が、言った人をさらにいらつかせる。そんな時私は、心から「帰ってこなければよかった」と思う。
で今週は、「伝える」ことを突き詰めた著者による一冊を読む。『つながり過ぎないでいい』(尹雄大著、亜紀書房、2022年刊)だ。「人とうまくしゃべれてしまっていることがそもそも奇妙なのではないか」という疑いを持ち、「話せるはずなのに、そうはできていないのはなぜなのか?」と問う尹は、どこまでも自分に正直だ。
「なんとなく話せるようになり、なんとなく相手のことがわかるようになる」のを、尹は「定型発達」と呼ぶ。それに対し、「なんとなく」がわからなく、「この歳になればこれができる」といったマイルストーンを達成できない人を「非定型発達」と呼ぶ(尹は自分のことを「非定型発達者」だと思っている)。
この本のなかには、「定型発達者」の文化のなかで生きなければならない「非定型発達者」の難しさが、列挙されている。尹は言う。
僕たちは絶え間なく「普通」についての教育を受けている。学校やメディアに限らず、普通だと信じてやまない価値に伺いを立て、その通りに行動することによって「普通」は自律的に学習され続けている。世間がまだらに見える視点からすれば。その教育システムは「同化」でしかない。そう直感している。日常の中で、僕がひとつの主体に回収され、統合されるのは堪え難い苦痛であり、何より狂気なくしてありないと思っている。
そういう感性を持って、尹はありとあらゆるものに疑問を感じ続ける。自分の身体はひとつの存在なのか。アイデンティティを信頼していいのか。自分の思う自分が自分なのか。鏡に映った姿は本当に自分なのか。
その上で、尹は多くのことを否定してゆく。「共感し、気持ちに寄り添う」とか「傾聴し、感情と向き合う」といった「時代が要求する感性」や「同世代の価値観」を否定する。他人を拒むことに気まずさを覚えない。ノーということがよくないという先入観を捨てる。
考えながら話せば、滑らかに話すことなどありえない。滑らかに話せるのは、独自の言葉でしゃべらないからだ。そんな考えから、滑らかに話せる人のことを、没個性を恐れないタフさを備えた人という。
言ったことは通じると思うことや、わかってもらえるると思うことを、尹は幻想だという。その幻想を背景にして、共感をやたらと重んじる文化が育成され、みんな同じなのだともたれかかることを良しとする常識が生まれるという。
絶え間なく「普通」についての教育を受け続け、普通だと信じてやまない価値を信じ、その通りに行動することによって「普通」は無自覚に学習され続け、その教育の結果、「同化」がもたらされる。それが尹の観察だ。
では、どうしたらいいのか。尹の考えはこうだ。
教えられた通りの考えを身につけ、それによって善し悪しでジャッジする。それを普通の感性と言うのであれば、いずれは新しい出来事が起きても、従来の考えの内に収めることに満足を覚えるだろう。だが、それとは別の道がある。教えられたことをもとにして独自に学び、自らを育てていく。そこで初めて自立に向けた歩みが始まる。
尹が書いたのは、あくまでも尹自身のことだ。「定型発達者」の文化のなかで「非定型発達者」の尹がどう生きてゆくかという、切実なことが書かれている。でも、この本は、同質のなかであぐらをかいている日本社会への警鐘ではないか。
日本人男性だけで構成された取締役会を不思議と思わない日本の会社。何の法的根拠も持たずに弱い者たちだけを痛めつける日本の行政。そういうものを壊すには、まず日本の普通や日本の常識を見直すことが必要なのではないか。そう思わせる本だった。この本がくれた多くの気づきを、これからの暮らしの中で生かしていこうと思う。
最後に、この本の帯に書かれていた文章を付け加えておく。
自身の生き難さを生きることは
他の人にはできない。
それを生き切ることが、
自分への尊重に
つながるのではないか―――