(14)日下渉『反市民の政治学』

2024年3月22日(金)

社会の分断

今週の書物/
『反市民の政治学』
日下渉著、法政大学出版局、2013年刊

いま世界の国々を遠くから眺めてみると、似たような特徴が浮かんでくる。「貧富格差」「教育格差」などの格差の広がりが多くの国々に見られる。右だとか左だとかいったイデオロギーは影をひそめ、国の国との対立よりも、国内の対立が際立っている。

国内の対立では、旧来の地域と地域の対立や、宗教の対立、人種の対立などよりも、「貧」と「富」の対立が目立つ。国が「貧」と「富」の二つに割れたとき、「貧」の代表は必ずしも「貧」でなく、「富」の代表は必ずしも「富」ではない。「貧」の人たちを代表するのが「富」の人だというのは、よくある構図だ。

教育のある「市民」と、教育のない「大衆」という対立構造の国もある。「市民」は「公正な社会」を望んでいて「民主主義」とか「人権」とかが重要だと思っており、「大衆」は「生きていける社会」を望んでいて「安全」とか「平等」とかが重要だと思っていて、お互いを理解することはほぼ不可能だ。

「マスコミ」と「反マスコミ」という構図も見て取れる。「マスコミ」は、「貧」の味方というポーズを取りながら、実は「富」の味方をする。同じように「マスコミ」は、「大衆」の側に立った報道をしているようでいて、「市民」の側に立った報道をする。「軍部」は、ほとんどの場合、「反マスコミ」だ。

国外との関係で、国内に対立が生まれることもある。グローバル化の波に飲み込まれ、以前は中間層と位置づけられていた人たちが、あっという間に世界の底辺に追いやられてしまう。自分たちがなぜそうなったのか。それがわからない人たちの不満の矛先は、あらぬ方向に向かう。

いろいろな要素が絡み合った世界で、今までのマスコミが提示してきた二項対立の図式は、もう成り立たない。そんなことをわからせてくれる特別な存在が、日下渉というフィリピンのことにやけに詳しい学者だ。日下渉は書く。

成功を目指して頑張っているフィリピン人は、グローバルなサービス産業の構造のもとで自由や自律性を失い、強いストレスのもとにさらされている。たとえば、米国の顧客に対応するコールセンターでは、アメリカ時間に合わせた夜勤、分刻みの顧客対応、上司による徹底的な監視、非人間的で機械的な作業の繰り返しなどに耐え続ける必要がある。出稼ぎの船乗りや家政婦もそうだ。そうした人たちからすれば、働かず、他人の金に頼って自由気ままに暮らしている人々が憎くなるのは当然だろう。グローバルなサービス産業の底辺に組み込まれ、フィリピン社会が急速にストレス社会になったことの反映でもある。

こんなことを書けるのは、日下渉がフィリピン社会に溶け込んでいるからだ。フィリピンを愛し、日本にいてもいつもフィリピンに帰ることを望んでいる。フィリピンのスラムに入り込み、スラムで暮らす。毎日のように親戚や隣人の悪口ばかり聞かされるなかで、道徳に反するようなことをしながらも胸を張って生きている人たちに共感してゆく。日下渉は、フィリピン社会を大衆の目から見ることのできる珍しい学者だ。

で今週は、その日下渉が10年以上前に書いた一冊を読む。『反市民の政治学』(日下渉著、法政大学出版局、2013年刊)だ。「フィリピンの民主主義と道徳」という副題がついている。帯には《「正しい」政治は 人々を幸せにするのか》と書いてある。いま読むと、「ああ、たった10年余りで、ずいぶん変わったなあ」と印象を持つが、それでも初めから終わりまで。日下渉らしさが溢れている。

日下渉は「大衆圏について理解を深めデータを得るため」に、ケソン市のペッチャイアンで継続的に住み込み調査を行ってきた。さりげなくそんなことが書かれているが、命の危険すら感じる場所に住むというのはそう簡単ではない。私も何度かマニラ近郊のスラム街に行ってみたが、通り過ぎるのがやっとだった。人が優しいということはわかる。でも、そこに住むというのは、相当の覚悟が要ったはずだ。

市民圏の調査は簡単だ。ゲート付きの分譲地のなかで暮らす市民たちと話をするのは、東京の住宅地で暮らす人たちと話をするのと、何の変わりもない。大衆圏のことは「貧しい人々が視ているというタガログ語のテレビ」の前に座っていてもよくわからないが、市民圏のことは英字紙を読めばほとんどのことが理解ができる。大衆圏について理解を深めるためにスラムに住み込むというのが、じつは合理的な行動だったのだろう。

この本で特に印象に残ったのが、「道徳政治」「道徳主義」「道徳的ナショナリズム」「道徳的分断」「道徳的な善悪の境界線」というように使われる「道徳」という言葉だった。家族の分断、強制立ち退きといったリスクにさらされ、日々の生存を守らなければならない貧困層と、より長期的な利益を追求しようとする中間層とでは、「道徳」の意味は大きく異なる。

貧困層にとって、「不法占拠や街頭販売の禁止を唱え、政治家のサービスを否定し、貧困層が共感するポピュリストを追放する」などというのは、日々の生活と尊厳に対する脅威でしかない。これに対し、中間層にとっては、「貧困を理由に不法な生活基盤を築き、政治家のバラマキを助長し、ポピュリストを当選させる」貧困層は、政治改革への障害でしかない。どこのスラムにも溢れかえっている政治家のポスターを思い出すと、道徳的分断がリアリティーを持って浮かび上がってくる。

不法に水道管や電気線を引き入れる貧困層。それを僅かな賄賂で見逃す小役人たち。その上に君臨するポピュリスト。ポピュリストのリーダーを追放する市民の運動は、大衆の反発を招いて深刻な政治不安を生じさせる。市民がポピュリストを強く非難すればするほど、大衆は尊厳を否定されたポピュリストに親近感と共感を覚える。市民が不法占拠者や露天商に対する攻撃を支持すればするほど、貧困層は金持ちの市民に対する敵意を強めながら、賄賂によって不法な生活基盤を強化していく。このように、排他的市民主義はその目的を達成できないばかりか、大衆圏で強い反発を招き、国民の道徳的分断を先鋭化させてしまう。

日下渉は、大衆の立場から、というよりは反市民の立場から、「正しいだけでは人々は幸せにならない」というメッセージを読者に伝えることに成功している。正しいことを追求する市民にとって、人間の尊厳とは、人権であり、デモクラシーであり、自由であり、平等である。それに対し、正しいかどうかなど意に介さない大衆にとって、人間の尊厳とは、生きること、日々を生きてゆくことだ。

分断はちょっとやそっとでは埋まらないように見える。それでも日下渉は、最後に共同性に言及する。緩やかな共同性を築いて行ければ、分断はなくなってゆくのではないか。そんな処方箋が効果的だと本気で考えているようなのだ。私には、フィリピンの分断は、広がりこそすれ、なくなることなどないように見える。日下渉に見えていて、私に見えていないものは、いったい何なのだろう?

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追記: 日下渉が日本のことを書いた文章を紹介しておく。

今日の日本では、新自由主義のもと、厳しい生存競争を勝ち続けることを要請されている。こうした過酷な競争は、落伍者を生み出さざるを得ない。しかし、互いの生を支え合う社会的紐帯は、すでにズタズタになっており、セーフティネットは脆弱だ。しかも競争のストレスは、異なる世界観をもつ他者を怨嗟する独善的な正義の言説を強めている。こうして社会が断片化すればするほど、社会秩序を人びとの手で自発的に維持するのが難しくなる。それに歩を合わせるかのように、国家も企業も「改革」の名のもとに国民や従業員を統制する制度と道徳の厳格化を進めている。もともと近代日本は、あらゆる公式の制度が精密かつ円滑に機能する社会を作り上げてきたが、それをいっそう厳格化することで、制度の崩壊を防ごうというのであろう。
たしかに、競争と統制の強化は、一時的には競争力の向上や社会秩序の効率性に寄与するかもしれない。だが、それは、人びとのストレスや生き苦しさの増大と、互いの生を支え合う相互依存の破壊という犠牲と引き換えに得られるものであろう。そのため長期的には、社会をいっそう断片化、硬直化させ、人びとが偶発的なリスクを受け止めながらも生き延びることを可能にする社会のしなやかさを蝕んでいるように思う。

日下が、日本の社会からしなやかさが失われてゆくのを、歯がゆい気持ちで見ているのがわかる。フィリピンのスラムから見た日本は、とても窮屈なのだろう。

自由や自律性を失い、強いストレスのにさらされているのは、フィリピン人だけではない。日本人も同じだ。上司による徹底的な監視、非人間的な管理などは、日本の職場にも広がっている。日下渉のフィリピンへの処方箋は、案外日本にも役立つ。。。のかもしれない。

(13)John Hersey『Hiroshima』

2024年3月15日(金)

広島 ー もうひとつの視点

今週の書物/
『Hiroshima』
John Hersey著、New Yorker、1946年刊

今週はまさかの原爆の話だ。いま「まさかの」と書いたのは、原爆のことを書くことはないだろうと思っていたから。原爆のことを書けば、自然とポリティカル・コレクトネスから遠ざかる。だから書かないほうがいい。そう思ってきた。原爆のことを書こうとすれば、アメリカのことを真正面から書かざるをえない。それが怖い。

アメリカは恐ろしい国。そういう思いが抜けない。過去に原爆を投下した国。それも日本に落としたのだから、恐ろしく思うのは仕方がない。将来も原爆を落としそうな国。容赦がないから、いつ落としても不思議はない。北朝鮮がどんなに変わった国でも、原爆を落としたりはしないだろう。イランだってそうだ。ロシアだって投下したりはしないだろう。でもアメリカだけはやりそうだ。やった後で、平気な顔をして人道援助にやって来る。そういうイメージがある。

大統領として原爆の開発を決断したフランクリン・ルーズベルトは民主党、原爆の使用を強く大統領に進言した国務長官のジェームズ・F・バーンズも民主党、大統領として原爆の投下を決断したハリー・S・トルーマンも民主党。そして、原爆投下に強く反対した(トルーマンのあと大統領になった)ドワイト・アイゼンハワーは共和党。そんなことから、私は共和党よりも民主党のほうに不快感を抱いていて、いつかまた原爆投下を決めるのも民主党の大統領だと(勝手に)思っている。

こういう根拠のない思い込みは間違っている。そんなことはわかっている。それでも私は、フランクリン・ルーズベルトやハリー・S・トルーマンを好きにはなれない。

原爆投下後に、とは言っても終戦後の8月29日に、ICRC(赤十字国際委員会)のフリッツ・ビルフィンガー(F.W. Bilfinger)は、東京のスイス公使館の代表と共に広島に入り、翌日の30日に東京のICRC代表部に電報を送った。

街の80%は壊滅。あらゆる病院は全壊または大損害を被っている。救急病院を二つ視察,状況は筆舌に尽くしがたい。爆弾の影響は不可解なほど深刻。回復してきたように見える患者が突如白血球の変質やその他の内部損傷による致命的な症状の再発に苦しみ,膨大な数の人々が死んでゆく。推定10万人以上の負傷者がいまだ周辺の救急病院におり,包帯や医薬品の深刻な欠乏状態にある。市中心部上空からの即時の救援物質投下を検討するよう粛として連合国最高司令官に要請していただきたい。大量の包帯,手術用パッド,火傷用軟膏,スルファミド,血漿,そして輸血用器具が必要。迅速な行動を要す。医療調査委員会の派遣も必要。

という簡潔な電報だ。それを受けて、9月8日に、ICRCの医師のマルセル・ジュノー医師はアメリカの部隊、日本人医師2名、そして15トンの医療物資とともに広島に行き、救援活動を開始した。ジュノー医師はそこに5日間滞在し、その間に主要な病院をすべて訪問したという。

その後も、ICRCとスイス政府の救難活動は続いていくわけだが、被爆者たちを救おうという態度に貫かれていて、気持ちがいい。

それに対し、アメリカ軍とアメリカ政府のしたことは、とても冷たい。「Atomic Bomb Casualty Commission (ABCC)」を立ち上げ、ABC病院を設置し、原爆の効果を科学的に検証し始めたのだから、ビジネスライクな感じがしてあたりまえだろう。

戦後何年かのあいだ、ICRC と ABCC とは、よく対立したという。私は ICRC を好ましく思い、ABCC に嫌悪感を感じる。それはおかしいと言われても、そう思い感じるのだから仕方ない。

アメリカの政府にも、軍隊にも、そしていろいろな組織にも嫌悪感を感じる。それなのに、アメリカ人一人ひとりに嫌悪感を感じることはない。むしろ好きな人が多い。不思議なことに、いわゆる「いいヤツ」が多いのだ。

で今週は、アメリカ人のジョン・ハーシーが原爆のおそろしさについて書いた文章を読む。『Hiroshima』(John Hersey 著、New Yorker、1946年刊)だ。1946年5月にハーシーは日本に旅行し、3週間かけて調査と生存者への聞き取りを行った。彼は6月下旬にアメリカに戻り、広島で会った6人の生存者の物語を書き始めた。

その結果が「ニューヨーカー」誌の 1946年8月31日号に掲載された 31,000語の記事『ヒロシマ』だ。この記事は雑誌のほぼ全部を占めることになったが、そんなことはそれまで「ニューヨーカー」誌にはなかった。

作者のハーシーは、記事が出る数日前から、密かにノースカロライナ州の田舎町ブローイング・ロックに引きこもった。当時のアメリカで、アメリカ軍のしたことに批判的な文章を書くことが、いかに難しかったかがうかがえる。ハーシーはその後も、亡くなるまで、『ヒロシマ』についてのインタビューを避け続けた。

『ヒロシマ』に登場するのは、ハーシーが「たまたま」出会い、話を聞くことができた6人だが、それはまた、たまたま生き残った6人でもあった。彼らは皆、これほど多くの人が亡くなっているのに、なぜ自分たちは生きていたのかと不思議に思っていた。

実際、一歩を踏み出したこと、屋内に入ったこと、次の路面電車ではなく乗り遅れそうになった路面電車に飛び乗ったことなどの小さな偶然が、生存者たちを救った。そして生存者たちは、原爆投下直後から、多くの死を見ることになった。

原爆投下の瞬間には誰も予想できなかったことが起きたわけだが、なぜ多くの人たちが死に、なぜそこにいた少数の人たちが生き残ったのかは。誰にもわからない。もちろん、本人たちにもわからない。

『ヒロシマ』に出てくる6人も、特別なことをしていたわけではない。ブリキ工場の人事部の事務員だった佐々木トシ子さんは、原爆投下の瞬間、いつもの場所に座り、隣の机の同僚に話しかけようと頭を向けたところだった。医師の藤井正和さんは、自分の医院のベランダで、あぐらをかいて座り『大阪朝日』を読んでいた。仕立屋の未亡人の中村初代さんは、台所の窓際に立って、近所の人たちが自分の家を空襲防御の防火帯の通り道にあたったために取り壊しているのを眺めていた。イエズス会のドイツ人司祭ヴィルヘルム・クラインゾルゲ神父は、教団の3階建て宣教館の最上階にある簡易ベッドに下着姿で横たわり、イエズス会の雑誌『シュティメン・デア・ツァイト』を読んでいた。市内にある大規模で近代的な赤十字病院の外科の若手医師の佐々木耀文さんは、検査用の血液検体を手に病院の廊下を歩いていた。広島メソジスト教会の牧師である谷本清さんは、広島市の西の郊外にある家の玄関で立ち止まり、運んできた荷物を手押し車から降ろそうとしていた。

偶然生き残った6人の話を聞き記事にすることに、どれほどの意味があるというのだろう。爆心地の近くでは、その日のうちに半数以上の人たちが死んだ。死をまぬがれた人たちも時間が経つとともに死に、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末までに14万人もの人が死んだ。その地獄を見ずに10か月後に生存者に会ったからといって、原爆投下の何がわかるというのだろう。

生き残った人が、放射線障害で体調を崩し床に臥せていたり、下肢の複雑骨折のせいで絶え間ない痛みのなかに横たわっていたりするのは、読んでいてつらい。でも、生きている人たちの話なのだ。10万人以上の死んでいった人たちの話ではない。

ICRCのフリッツ・ビルフィンガーが広島に入ったのが8月29日。原爆投下から3週間ちょっと経っている。そのビルフィンガーでさえ、原爆投下直後のことを想像できなかったというから、『ヒロシマ』を書いたハーシーに原爆投下直後の悲惨さがわかるはずはない。

アメリカでは『ヒロシマ』は、学校で副読本として長いあいだ広く読み続けられ、また、20世紀アメリカジャーナリズムのTOP100の第1位に選出されたりもして、大きな評価を得てきたわけだが、そこにリアリティーはない。現場にいればリアリティーのあるものが書けるかというと必ずしもそうではないが、それでも、9か月も経ってからの体験談を聞くだけでリアリティーのあるものが書けるかというと、無理としかいいようがない。

2011年3月11日の巨大地震やそれに伴う大津波のことを、震災から9か月経った2011年12月になって福島県の富岡町に出かけて行って、偶然出会った 6人から話を聞いて本にしても、そうは話題になるまい。何人かの記憶をたどっても、決して真の姿は見えてこない。

私が感じた違和感は、まさにその一点なのだ。9か月たっての6人の記憶、9か月たっての6人の辛さ、それらがいくら語られても、それらの証言は当日の悲惨さではない。奇跡的に生きのびることになった6人の証言は、死んでいった人たちの証言ではないのだ。

ハーシーという人が、良質のジャーナリストであり作家だったことに疑いはない。良質な人間だったことも、行間から読み取れる。しかし、スイス人のビルフィンガーが書いた文章とアメリカ人のハーシーが書いた文章とを比べるとき、決定的な違いに気づく。「悲惨だ」と「悲惨だったろうなあ」の違いだ。

アメリカ人たちが現実の悲惨さを知りたくなかったのだといえばそれまでだが、『ヒロシマ』がなぜあんなにも、もてはやされてきたのかは、読んでみてもわからなかった。当時のアメリカ人が持っていた日本観や日本人観を知らない私には、永遠にわからないことなのかもしれない。

(12)Paul Shapiro『Clean Meat』

2024年3月8日(金)

私たちは培養肉を食べるようになるのだろうか

今週の書物/
『Clean Meat』
Paul Shapiro著、Gallery Books、2018年刊

今週は、まず、代替肉と培養肉の定義から始めたいと思う。

代替肉とは、豆や小麦といった植物性原料から作られた「肉のような食べ物」のこと。精進料理で供される肉のようなものも、代替肉だ。日本の精進料理は仏教の伝来と共に中国から伝わってきたが、中国では仏教の伝来よりはるか前から野菜や雑穀などで肉や魚の味や食感を再現する「もどき料理」が発達していた。そういうこととは別に、最近になって、健康や環境問題の改善を理由に、代替肉を食べる人が増えてきている。私は代替肉を美味しいと思ったことはないが、かといって、いやだと思ったこともない。

一方、培養肉とは、動物の可食部の細胞を組織培養することによって得られる食用の肉のこと。私はなぜか、培養肉という言葉を聞くたびに嫌な気持になった。培養肉をクリーン・ミートと言い換えたところでその気持ちは変わらず、反感だけを抱き続けた。培養肉なんていやだ。食べたくない。本当の肉が食べたい。そう思ってきた。

ところが私の周りの人たちは、こぞって培養肉という考えに賛同している。ある人は、世界の深刻な食糧問題を解決するためには培養肉の開発を急ぐしかないと言い、またある人は、地球の環境問題を解決するためにはこれ以上家畜や家禽を増やすべきではないと言う。

なぜそのように思うのかと聞いてみると、それぞれの意見にはもっともなことが多い。考えてみれば、もっともでなければ、これほどまで培養肉への投資が過熱したりしないわけで、培養肉について少し考えてみるほうがいいと思うようになってきた。

培養肉の発想は古くからあるという。マルセラン・ベルテロというフランスの化学者は、1894年に「人類は2000年までに屠殺された動物の肉ではなく研究室で栽培された肉を食べるようになるだろう」と言ったそうだし、ウィンストン・チャーチルは1931年に「胸肉や手羽先を食べるために鶏を丸ごと育てるのは不条理でしかない」と書いている。

家畜や家禽の生産者は、近年、大きなトラブルを抱えるようになってきている。例えば牛については、狂牛病の記憶が強烈だ。西暦2000年前後の10年間で、殺処分された牛は数千万頭に達した。またニワトリや野鳥については、鳥インフルエンザのことがある。2022年だけで1億3100万羽以上の家禽が死んだり、殺処分を余儀なくされたりした。

環境問題の専門家たちからは、家畜や家禽の飼育によって環境負荷が増え続けていると指摘されているし、実際、畜産業界は地球温暖化を問題とする人たちから目の敵にされている。

でも落ち着いて考えてみれば、問題は牛や鶏や豚や羊に限ったわけではない。人間の都合で多くなってしまったのは、犬や猫などのペットも同じだ。もっと拡大して考えてみれば、麦や米が平野を覆いつくしたり、杉や檜が山を覆いつくしたり、桜や梅が観光地を不自然に彩ったりしている状態も、問題といえば問題だ。

人間がいいと思ってしてきたことが、結局は人間の将来を危うくしているのではないか。そう考えると、培養肉の登場も手放しで喜んではいられない。

で今週は、培養肉をポジティブに扱った本を読む。『Clean Meat』(Paul Shapiro著、Gallery Books、2018年刊)だ。「培養肉が開発され実用化されなければ、人類に明るい未来はない」と思わせるほど、培養肉をいいことだとする考え方に貫かれている。

著者はまず食糧問題について書く。その際のキーワードは「サステイナブル(持続可能な)」と「エシカル(倫理にかなった)」だ。現行の畜産では、放牧と飼料作物の栽培のために広大な土地が必要となるため、森林が伐採され破壊される。それに対して培養肉の生産は実験室や工場で行わるため、森林伐採の必要がなくなり、生きものの生息地と生物多様性が保護されるという。また、屠殺のために動物を飼育する必要がなくなるので、動物が監禁され虐待されることもなくなり、動物福祉に対する懸念がなくなる。つまり、倫理的問題がなくなるというのだ。

つぎに焦点は環境問題にあてられている。培養肉に移行することで、温室効果ガスの排出が削減され、資源の無駄づかいが減り、動物の飼育と屠殺が排除される。それが気候変動、食糧安全保障、動物福祉などの問題解決に大きく寄与するというのだ。その根拠となる数字が面白い。今の畜産が温室効果ガスの排出、森林破壊、水質汚染の主な原因であるというにわかには信じがたい「事実」が強調され、牛が少なくなれば、メタンの排出が大幅に減少するという。

最後に、実現可能かどうかについての論考が繰り広げられる。科学者・技術者、投資家・起業家、行政や政策立案に携わる人たち、食肉生産者、それに一般消費者が協力して培養肉の製造技術の開発と導入に取り組んでいけば、培養肉が手頃な価格で入手可能になり、社会に広く受け入れられてゆく。そんな明るい未来が描かれてゆく。

要は、どの部分も同じ。培養肉に移行すれば明るい未来が待っていて、移行しなければ問題はなにも解決されないということが、これでもかこれでもかと書かれる。「現行の畜産は悪」「培養肉は善」という論理の展開は、ヒトラーの「わが闘争(Mein Kampf)」にとてもよく似ている。物事の多面性には一切触れない。イエスかノーか、正しいか正しくないか。そんな単純な図式を提示することで、著者の意見はすべて正当化されてゆく。

培養肉を取り入れていくことを全面的に肯定するのではなく、客観的に、そして批判的に書いてくれれば、もう少し説得力のある本になったろうと思うと、残念な気もする。たとえば、オランダのスマート農業のことや中国のAI導入の事例を取り上げて、現行の農業や牧畜にも食糧問題や環境問題を解決する可能性があることを書くなどすれば、読者にもっと納得のいく説明が届けられたのかもしれない。

この本を読めば、少しは培養肉に対する考えが変わるのではないか。そう思って読んだ本だったが、前にも増して培養肉が嫌いになった。幸いなことに、培養肉がマーケットに並ぶようになるまでにはまだ相当の時間を要するということがわかってきた。つまり私は、培養肉を食さずにすむわけだ。

ところで、培養肉が市場に出てきたあとに、培養肉と本物の肉との関係はどのようなものになるのだろう。ジェネリック医薬品とブランド医薬品との関係と似たものになるのか、それとも、一般人向けの培養肉と富裕層向けの本物の肉というように、よりわかりやすい関係になるのだろうか。まさか、本物の肉が法律で規制され、アンダーグラウンドの商品となって流通するなどということになったりはしないだろうが。いずれにしても、培養肉については、あまりいい未来像は浮かんでこない。

(11)ミヒャエル・エンデ『モモ』

2024年3月1日(金)

時間について

今週の書物/
『モモ』
ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005年刊

(Momo by Michael Ende, published in 1973)

時間のことは、「本家」であるところの尾関章さんの『めぐりあう書物たち』で、何度も取り上げれれてきている。哲学者のジョン・エリス・マクタガートが書いた『時間の非実在性』に対する書評や、物理学者のカルロ・ロヴェッリが書いた『時間は存在しない』に対する書評は、時間そのものに焦点をあてていて、考えさせられることが多い。

ただ、時間について考えるとき、哲学的視点や物理学的視点だけでなく、文学的視点とか倫理的視点、さらにはマネージメントからの視点やスポーツでの視点など、ありとあらゆる視点からの考えが交錯する。そのくらい、時間は私たちのなかに入り込んでいる。

時間は、ある時は私たちに味方し、ある時は敵になる。自分の時間は容易に他人の時間になり、会社や組織の時間になり、国家の時間になる。労働や徴兵で自分の時間をなくした人に、自由はない。

エピクテトスは「誰かに認められたいと思った時には、自分に妥協しているということに気づけ。誰かに見てほしいと思ったら、自分に見てもらえ」と言ったが、誰かに認められたいとか見てほしいという感情が、人から自由を奪い、時間を奪う。

「臆病な卑劣さ」を「謙虚」といい、「仕返ししない無力さ」を「善い」といい、「弱者のことなかれ主義」を「忍耐」といって、弱者であることを美化し、非利己的なほうがいいとするのが奴隷道徳だ。「本来人間は利己的な生き物なのだから、道徳に振り回されて自分を否定する必要はない」と考えることができれば時間は自分のものになるが、そうでなければ人は時間を失ってしまう。

現代社会のなかで奴隷道徳を身につけてしまえば、自分の時間は自分から離れていってしまう。時間管理などといってスケジュール表をいっぱいにすれば、そこにはもう、自分の時間はない。

で今週は、時間を盗まれ、時間を取り返すといったおどぎ話を読む。『モモ』(ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005年刊)だ。時間の概念と、現代社会における人間による時間の使い方が描かれているのだが、その描き方は独特だ。

ノヴァーリスは「詩的なものはすべておとぎ話のようでなければならない」と書いたが、その逆の「おとぎ話はすべて詩的でなければならない」と言えるのかどうか。少なくとも『モモ』は、詩的ではある。そしてたくさんの偶然に彩られている。

話は明るく始まる。円形劇場の廃墟に、謎めいた少女モモが住んでいる。他人の話を聞く能力を持っていて、すぐに問題を解決したり、仲直りさせたり、楽しいゲームを考えたりできる。ところがこの楽しい雰囲気は、灰色の男たちの出現で、だんだんと暗くなり、重苦しくなってゆく。灰色の男たちは時間貯蓄銀行を代表しており、みんなのなかに時間の節約という考えを広めてゆく。灰色の男たちの影響が広がってゆくと、生活は不毛になり、時間の無駄だと考えられるものがすべてなくなってゆく。節約した時間は失われる。灰色の男たちによって、乾燥した花びらから作られた葉巻として消費されるのだ。葉巻がなければ、灰色の男たちは存在できない。ドキドキハラハラのあと、モモはみんなの時間を解放し、話はめでたしめでたしで終わる。

一冊がこれだけの文章にまとめられるほど、筋書きは複雑でない。その代わりと言ってはなんだが、たくさんの説明が詰め込まれている。作者の哲学や美意識も詰め込まれている。

この物語のなかに出てくる灰色の男たちは、いったい何を表しているのだろう。そしてモモは、いったい誰なのだろう。おとぎ話を童話と考えれば、モモは子どもで、灰色の男たちは大人だといえるのかもしれない。モモは若い頃の作者で、灰色の男たちは作者の夢を邪魔する大人たちだという解釈も成り立つだろう。

でも私は、あくまで時間の話として捉えたい。いつの間にか私たちは、この話に出てくる人たちのように時間をなくしてしまった。それが近代社会だと受け入れながら、何も不思議に思わずに、タイムマネジメントだとか何とか言いながら、自分たちの時間を差し出してきた。物語のなかにはモモがいて時間を取り戻してくれたけれど、私たちのまわりにはモモはいない。差し出した時間は戻ってこない。

大人も子どもも読めるからといって、この話をリチャード・バックの『かもめのジョナサン』やサン=テグジュペリの『星の王子さま』のようなものだと思わないほうがいい。読んでいて、ふとそう思った。何かが違うのだ。

話のあちらこちらに「すべての人には論理的に考える能力がある」と書いたスピノザを感じる。スピノザは私たちが時に感情に負けてしまうことをよく知っていた。彼の最大の恐怖は、人々を操ることができる指導者のせいで、普通の善意あふれる人たちが自由を差し出してしまうのではないかということだった。『モモ』のなかで、灰色の男たちに時間を差し出してしまう人たちは、まさにスピノザが恐れていた状況に浸かってしまったのだ。

話のなかにはまた「道徳の諸価値そのものがまず問われなければならない」というニーチェがいる。善意の人々が持っている奴隷道徳が、灰色の男たちがつけ入ってくるのを容易にする。みんなが時間を失い不自由になってゆくのは、まさにニーチェが考えた通りの展開だ。

モモのように合理的に行動し考えることで得る自由は、間違いなくスピノザの最大の遺産であり、ニーチェが思い描いたことでもある。現実には無理でも、おとぎ話のなかでは、モモの持つ自由が、不条理からの、そして不合理なことからの、解放の手段になる。

人が管理されてしまった状況を変えるのは、実際には容易ではない。でもそれを夢見る自由は誰にでもある。『モモ』が嫌いだという人が少なからずいるなか、それでも世界中で読まれてきたのは、教訓ぽくないから、そして結論らしいことが書かれていないからではないだろうか。どうにでも読むことのできるおとぎ話だからこそ、世界中で読まれてきたのだろう。

自分の時間をどう使うのか。それが私たち一人ひとりに問われている。

(10)河口慧海『チベット旅行記』

2024年2月23日(金)

探検家か? 仏教者か?

今週の書物/
『チベット旅行記』
河口慧海著、講談社学術文庫、1978年刊

青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html

過去に何があったのかを、正確に知っている人はひとりもいない。歴史家たちが言っていることを信じるか信じないかは個々の勝手だが、戦争のこととか国家の存亡のことについては、私たちはみんな似通った認識を持っている。似通った認識を持たされているといったほうがいいのかもしれない。

どんな卑怯な方法を用いたとしても、勝ったほうが善で、負けたほうが悪。どんな手を使ったとしても、滅ぼしたほうが正しくて、滅ぼされたほうが間違っている。それが歴史だと言ってしまえばそれまでだけれど、歴史は理不尽であふれている。

書物にこう書いてあったからとか、言い伝えによればこうだったからとか、教科書に書いてあったからとか、そんなことが通るのであればコトは簡単だが、事実とか真実といったような言葉を使えば使うほど、なにもかもが事実や真実から遠ざかってゆく。

記録も記憶もそうはあてにならないことは、個人の領域においても同じ。日記に書かれたことの多くは主観的で感情的だし、記憶の多くは曖昧で歪んでいる。

人気のある伝説や旅行記には大げさに書かれたものが多く、大地が裂けたり、怪物が現れたりすれば、読むほうの信じる気持ちは失せ、楽しもうという態度に徹することになる。

で今週は、探検物語であり仏教探求の書でもある旅行記を読む。『チベット旅行記』(河口慧海著、講談社学術文庫、1978年刊)だ。長い旅のことを微に入り細に入り書くのだから、物語は自然と長くなる。読んでも読んでも目的地のラサには辿り着かない。それなのに、とにかく面白い。

読み進むうちに気が付くのだが、危機と、都合のいいこととが、かわるがわるやってくる。危機は脱することが不可能にみえるくらい強まり、都合のいいことはありえないほど都合よい。要するに、ハラハラドキドキとホッとするのとが、交互にやってくるのだ。ありとあらゆる苦難に会い、九死に一生を得ても、何もなかったかのように旅は続く。書かれていることすべてを信じるわけにはいかない。

1903年に帰国した慧海は、早速チベットでの体験を、口述筆記で新聞に発表した。翌年には『西蔵旅行記』を刊行し、評判になったという。明治時代のことだから、新聞も本も面白おかしく書かれたに違いなく、体験記とはいいながら、物語に近いものになったのは、仕方なかったのかもしれない。

慧海はどんな人間だったのだろう。鎖国していたチベットに入り込もうというのだから、法に従うタイプの人間ではなかっただろう。冒険家や探検家にありがちな、好奇心にあふれ、新しいことを試すのが大好きな人だったのではないか。多岐にわたる興味を持ち情熱あふれる人。いずれにしても、正しいだけの人間ではなかったはずだ。

それなのに慧海は教科書に載り、「仏典を得るために、危険を冒した人」とか「命を懸けて、目的を完遂した人」といった立派なイメージがついて回ることになる。「生きるためなら、どんな嘘でもつける人」とか「目的のためなら、どんなことでもする人」といったこの旅行記を読んで感じる慧海の持つ側面とは大きく違ってしまったわけだ。

慧海の語学力はすばらしい。コミュニケーション能力が高く、人間力も高い。どこに行っても暮らせるし、人を説得する能力にも長けている。度胸がある。思いやりもある。体力もある。知力もある。状況判断はいいし、自分をコントロールできる。そんな慧海の旅行記が、面白くないわけがない。

最後、日本に帰ろうというときに、「日本の社会の中にはヒマラヤ山中に居る悪神よりも恐ろしい悪魔が居るかも知れない。またその陥穽は雪山の谷間よりも酷いものがあるであろうけれども、そういう修羅の巷へ仏法修行に行くと思えばよいと決心致しました」という文章がある。明治時代の日本の社会も、そう楽なものではなかったのだなあと、改めて感じた。

慧海は探検家かだったのだろうか? それとも仏教者だったのか?『チベット旅行記』を読んですぐ感じたのは、探検家のほうだ。ただ、よくよく考えてみれば、仏教者だったから過酷な旅に耐えることができたのだ。私にはそう思えた。

(9)藤沢周平『日暮れ竹河岸』

2024年2月9日(金)

江戸の風景

今週の書物/
『日暮れ竹河岸』
藤沢周平著、文春文庫、2000年刊

江戸時代とはどんな時代だったのか? 江戸とはどんなところだったのだろう? 誰しもが持つようなそんな疑問に答えてくれるのが、書物であり、絵巻であり、そして江戸末期に撮られた写真である。ただもどかしいことに、どんなに読んだり見たりしてみても、疑問は消えず、むしろ疑問は増え続ける。

どんなところに住んでいたのか? どんなものを食べていたのか? どんなものを着ていたのか? どんな暮らしをしていたのか? どんな楽しみがあったのか? 風呂は? トイレは? 育児は? 教育は? 仕事は? 平和だったのか? 自由だったのか? 愛は? 恋は? セックスは?

2024年の79年前の1945年に第二次世界大戦が終わった。そのまた79年前の1866年は慶応2年、江戸時代が終わろうとしていた。79年を2回戻っただけで、江戸時代。そう考えると、江戸時代は、そんなに前のことではない。それなのに、江戸時代のことは何も知らない。何もわからない。

フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)が幕末の日本で撮った写真を見て、そこに写っている風景や人物に親近感を覚えるかというと、そんなことはまったくない。写っているのは、別世界。見覚えのない景色に見たことのないような顔。それを見て、そんなに前のことではないなんて、絶対に言えない。

別人種のような「日焼けした小さな人間たち」が繰り広げる話を読んでも、そして絵や写真を見ても、何も伝わってはこない。それにしては、本屋には江戸時代のことを書いた本が並び、テレビでは江戸を舞台にしたドラマをやっている。出てくる景色や人は、みんな今のものだ。それなのになぜか、なんの違和感も感じない。

山本周五郎の『赤ひげ』、藤沢周平の『たそがれ清兵衛』、池波正太郎の『雲霧仁左衛門』、髙田郁の『みをつくし料理帖』、野村胡堂の『銭形平次捕物控』、佐伯泰英の『吉原裏同心』などなど、小説・映画・テレビドラマには、現代から見た想像の「江戸」があふれている。そして私たちの多くがその「江戸」を好んでいる。慎ましい生活や多くの理不尽が描かれて、私たちは江戸時代がそんなものだったと思い込む。

江戸時代の現実は、私たちが読んだり見たりするのとは、大きく違っていたのではないか。そういうのは簡単だが、では江戸時代の現実とは何なのかと問われれば、そう簡単に答えることはできない。「江戸もの」を楽しむ時には、韓国ドラマの宮廷歴史劇を見る時のように、歴史を忘れて楽しむのが一番なのかもしれない。

で今週は、藤沢周平の生前最後に刊行された短編集を読む。『日暮れ竹河岸』(藤沢周平著、文春文庫、2000年刊)だ。十二人の女の儚さやしたたかさなどのさまざまな表情を、江戸の十二カ月の情景として十二の短編のなかに描く「江戸おんな絵姿十二景」。そして、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」を背景にしたような江戸情緒たっぷりの七つの短篇「名所江戸七景」。『日暮れ竹河岸』には、合わせて十九の珠玉の名作が詰まっている。

このうち「江戸おんな絵姿十二景」については、藤沢周平がインスピレーションを得たという十二の浮世絵を見ながら読むと楽しい。また、一月は一月の、二月は二月の、それぞれの時節を感じながら読めば、さらに楽しい。喜多川歌麿、鈴木春信、歌川国貞、歌川豊国といった錚々たる作家の浮世絵と、藤沢周平の作品が、ぴったり合っていると感じたり、ちょっと違うんじゃないかと思ったりするのは、贅沢な楽しみ方だ。

藤沢周平自身は、

浮世絵には無限の想像力をかきたてる世界が隠されている。その中から十二枚の場面をえらんで小説をつけてみることにした。といっても、触発されて出てくる想像の世界を掌篇にするだけのことで、中味は必ずしも絵の説明とはならないだろうが、その上で両者がどこかでつながっているあたりを眺めていただければよいのではないかと思う。

と書いているが、浮世絵と藤沢周平の文章は間違いなくつながっている。

「江戸おんな絵姿十二景」のひとつめの『夜の雪』の話をすると、鎌倉時代にまで遡らなければならない。鎌倉幕府執権の北条時頼が出家し、旅僧として諸国行脚したときのことが、書物に書かれるなどして伝わり、それが能の演目「鉢木」になったのだ。貧しく住まう武士、佐野源左衛門常世が、大雪の夜に旅僧を泊め、大事にしていた鉢の木を火にくべてもてなす。その僧が時頼で、のちにそれが報いられ、失った領地を回復し、鉢植えの梅、桜、松にゆかりの地名の三つの領地を与えられるという話である。

「鉢木」の話は、江戸時代には人形浄瑠璃や義太夫にも取り入れられ、大正・昭和には道徳の教科書に載るなどして、長いあいだ多くの日本人に好まれてきた。江戸時代には何かを何かになぞらえる「見立て」が流行り、「鉢木」は浮世絵の格好の題材になった。鈴木春信の「見立鉢の木」は、そんな作品なのだが、時頼や常世を連想させる人物は描かれていない。雪が積もっている。鉢の木がある。娘がいる。晴信は何を娘に見立てたのだろう。

そして、春信の「見立鉢の木」を見てインスピレーションを得たのが藤沢周平だ。絵のなかの娘は、『夜の雪』のなかで≪じっと雪を眺めている≫「おしづ」に見立てられる。私が春信の浮世絵を見ても、何かを感じることはない。それなのに、藤沢周平の『夜の雪』を読んでから見ると、浮世絵のなかの娘が「おしづ」に見えてくるから不思議だ。縁談に気が乗らない「おしづ」、物音にはっとする「おしづ」、そんな「おしづ」が絵のなかにいる。

「名所江戸七景」についても、歌川広重の浮世絵を見ながら読むと楽しい。藤沢周平の『日暮れ竹河岸』を読むときには歌川広重の「京橋竹がし」の秋の風景を見ながら、『飛鳥山』を読むときには「飛鳥山北の眺望」の春の風景を見ながら、『雪の比丘尼橋』には「びくにはし雪中(*)」の冬の風景を、『大はし夕だち少女』には「大はしあたけの夕立」の夏の風景を、『猿若町月あかり』には「猿わか町よるの景」の秋の風景を、『桐畑に雨のふる日』には「赤坂桐畑雨中夕けい(*)」の夏の風景を、『品川洲崎の男』には「品川すさき」の秋の風景を、それぞれ合わせるといい。

どの話も、藤沢周平らしい。抑えた文章とか、読後の清々しさとかは、いつものことではあるけれど、江戸の変わりゆく季節を見事に描き分け、年齢の違う女たちが抱えるいろいろなことを書き表す技量には、驚きすら覚える。

それにしても、江戸時代の女たちが抱えるいろいろは今日の女性たちも共通しているなあ。そう思うとき、藤沢周平が描いているのは、現代の女なのだと気づく。江戸時代のことを書いているようでいて、目は確実に現代に向いていた。藤沢周平は、そういう作家だったのではないか。

(*)『名所江戸百景』は、98景が初代広重の作品、残り 2景の「赤坂桐畑雨中夕けい」と「びくにはし雪中」は 二代目広重の作品だ。「赤坂桐畑雨中夕けい」は、初代の「赤坂桐畑」よりも、構図・色彩ともに評価が高い。

(8)Francis Jammes『Le Roman du Lièvre』

2024年2月2日(金)

弱者により添う素朴な作品たち

今週の書物/
『Le Roman du Lièvre』
Francis Jammes 著、Mercure de France、1922年刊(Wikisource)

https://fr.wikisource.org/wiki/Le_Roman_du_Lièvre
https://fr.wikisource.org/wiki/Contes

1970年3月、雑誌「an-an ELLE JAPON」の創刊号が発売された。表紙はモデルの Marita Gissy、その上に「an・an」「ELLE JAPON」「創刊号」「3 20」といった文字と パンダのロゴが並んでいる。三島由紀夫、澁澤龍彦、片山健、大橋歩といった名前のなかに、アンアン代表の立川ユリの名前がある。ビートルズが起用された広告とか、ELLEの社長のおめでとうメッセージとか、何から何までが衝撃だった。

その年の8月5日号の「an-an No.10」に、フランシス・ジャムの『パイプ』が載った。翻訳は澁澤龍彦、片山健のイラストが添えられている。短い物語のなかに、「若者」が「青年」になり「老人」になって死ぬまでのことが描かれる。「若者」の父母が死ぬ。リンゴのような胸を持つ美しい妻が外見のいい男と寝ているのを見て「青年」は何も言わずに家を出る。大都会で一緒にいた犬が死に「老人」も死ぬ。それだけの話なのだが、なぜか胸に迫った。

9月20日号の「an-an No.13」には、フランシス・ジャムの『神様の慈愛』が載った。翻訳が吉村啓喜、解説が澁澤龍彦、イラストは片山健。一匹の牝猫と暮らしていた平凡な娘が、男に捨てられる。娘は妊娠し、牝猫も身ごもる。ある日、男から手紙と25フランが送られてくる。娘はその金でコンロと炭とマッチを買って自殺する。神さまは、天国に着いた娘と雌猫のために部屋を用意してくれ、娘は女の子を産み、雌猫は4匹の仔猫を産んだ。そういう話が、とても新鮮に感じられた。

「an-an」にはその後も片山健のイラストがついた物語が載った。そして私の頭の中にはフランシス・ジャムの名前が残った。この話をすると、「澁澤龍彦の魔術にかかったのだ」と言われたり、「なんでそんなつまらない話に感激してるんだ」と言われたりした。でも私には、フランシス・ジャムの物語は、つまらない話ではなかった。

その後、フランシス・ジャムの詩に出会うことがあった。フランスの学校に通うようになった娘がフランシス・ジャムの詩を暗唱していたのだ。もう時代遅れになっていたフランシス・ジャムが、学校のなかで生き続けていたのである。

ただ、フランシス・ジャムの詩は、学校で暗唱させるだけあって、どれもつまらない。あの「an-an」に載ったキラキラした物語たちからは程遠い。なぜかなと思って『パイプ』や『神様の慈愛』を探してみると、フランシス・ジャムの『Contes(コント集)』にたどり着いた。

『Contes』のなかには、『La Pipe(パイプ)』も『La Bonté du Bon Dieu(神様の慈愛)』もある。確か「an-an」に載っていた『Le tramway』もある。『Le Paradis』もある。読んでみると、やっぱりいい。「an-an」で読んだのと同じ読後感。同じように優しい気持ちになるではないか。澁澤龍彦や吉村啓喜の魔術ではなく、フランシス・ジャムの魔術だったのだ。

そんなわけで今週は、そのフランシス・ジャムの短編集を改めて読んでみる。『Le Roman du Lièvre』(Francis Jammes著、Mercure de France、1922年刊)だ。著者は1868年生まれ。スペインとの国境に近いフランスのオート=ピレネー県で生まれ、パリから遠く離れた場所でパリの潮流とはまったく関係のない文筆活動を続けた。そんなフランシス・ジャムの「弱い者たちに向けられる目線」が形作る作品世界を味わってみる。

この頃、フランスにはまだ身分制度が残っていた。『Le tramway』というコントに、それがよく描かれている。働き者の夫と、優しい妻と、幼い娘が、乗合馬車に乗ろうとお金を用意して道に立った。ほとんど誰も乗っていない乗合馬車が近づいてきたので、働き者の夫は運転手に止まるよう合図を送った。ところが運転手は、この3人を軽蔑の目で見て、乗合馬車を止めようとはしなかった。乗合馬車に乗ろうというウキウキした3人の気持ちが一瞬にして砕かれる。そんな気持ちの描写はまったくないのだが、口惜しさや悲しみが伝わってくる。

フランシス・ジャムは、今では考えられないくらい信仰心が強く、書かれる神さまは想像の域を超えている。例えば『Le Paradis』のなかに描かれる神さまは「ひとつの袋のなかにひとかけらのパンしか持っていない人たち」や「署名の仕方を知らないがために逮捕され収監されている人たち」のような姿をしている。それでいて「奉仕することとか、与えることとかが、幸せなのだ」と柔らかい声で話し、微笑みを絶やさない。今の世の中でそんな神さまのイメージがどれほど通じるのか。信仰心も、時代とともに変わってゆくのだろうか。

描写は時に異常なほど細かくなる。先ほど触れた『La Bonté du Bon Dieu』の冒頭が、そのいい例だ。

彼女は可愛らしいきゃしゃ華奢な娘だった。彼女はある店で働いていた。彼女は、あえて言うなら、格別に聡明だというわけではなかったが、優しくて黒い目をしていた。その目は少し悲しそうに人に向けられ、その後で伏せられるのだった。彼女は情愛は深いが平凡な娘であると思われていた。そう思われたのは彼女のとても優しい平凡さのせいだった。そしてこの平凡さは真の詩人だけが理解できるもので、そこには人への憎しみは全くみられないのだった。
彼女はその住んでいる部屋と同じように質素な娘であると思われていた。彼女は人にもらった1匹のかわいい牝猫だけがいる簡素な部屋にひとり暮らしをしていたのだ。毎朝、店に出かける前に彼女はお椀の中に少量のミルクを入れておくのだった。

どうだろうか。短い物語をこのように始めるフランシス・ジャムの性格が見えてくるではないか。

『Le Roman du Lièvre』は、人間の狩りから逃れて走るウサギの描写から始まる。人が作った道を横切り、馬や犬や鶉に出会い、山を眺め、川を眺め、走り続ける。疲れ果てたウサギは居眠りをする。しかし夢の中でさえ休むことはできない。ほんのわずかな物音でも、動くもの、落ちるもの、ぶつかるものすべてが危険を知らせる。

私が好きな『Contes』以外にも、読みどころがたくさんある本だ。今回はじめて、そう気づいた。時代遅れのフランシス・ジャムの文章がいいと思えるのは、私が時代遅れになったからではないか。ふと、そう思った。

(7)Alexis de Tocqueville『Democracy In America』

2024年1月26日(金)

トクヴィルが見たアメリカの民主主義

今週の書物/
『Democracy In America (Volume 2)』
Alexis de Tocqueville 著、Project Gutenberg (Free eBooks):

https://www.gutenberg.org/files/815/815-h/815-h.htm (Volume 1, 1997年刊)
https://www.gutenberg.org/files/816/816-h/816-h.htm (Volume 2, 2006年刊)

アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、1805年生まれ。ウィキペディアには「フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった」と書いてある。

1789年から1795年にかけてのフランス革命、1804年から10年ほどのナポレオンの軍事独裁政権、その後 15年余りの王政復古、そして1830年の七月革命、1848年の二月革命。トクヴィルはナポレオンの軍事独裁政権誕生後に生まれ、混乱のなかパリ大学で法学学士号を取り、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生になった。

トクヴィルは 七月革命のあと 1831年から1832年にかけて、ギュスターヴ・ド・ボーモンと共にアメリカを旅行し、1833年にボーモンと共著で『Du système pénitentaire aux États-Unis et de son application en France – On the Penitentiary System in the United States and Its Application to France(合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について)』を出版。そして1835年に『De la démocratie en Amérique – Democracy in America(アメリカのデモクラシー)第一巻』を、1840年に『同 第二巻』を出版した。

『第一巻』の出版のときに29歳だったトクヴィルは『第二巻』の出版のときには34歳。そのあいだに、結婚し、レジオンドヌール勲章(la Légion d’honneur)を受け、道徳・政治科学アカデミー(l’Académie des sciences morales et politiques)の会員になり、バローニュ選出の国会議員(le député)になっている。

『第二巻』の出版後には、1841年にアカデミー・フランセーズ会員に選出され、1848年の二月革命の際には革命政府の議員として活躍し、1849年にはオディロン・バロー内閣の外相となった。ところが、1851年に ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。その後『回想録』と『旧体制と大革命』を書き残し、1859年に死亡した。

とても濃い人生である。そして、すべてが特別だ。フランス革命があっても貴族は貴族であり、フランスに移民してきた平民階級のイギリス人の3歳年上の女性メアリー・モトレーとの結婚が家族から反対されたり、著作のなかの「貴族による政治の優位性」を説く部分が批判の対象になったりと、最後まで貴族であることから抜けきれない人生を送った。

で今週は、そんなトクヴィルがデモクラシーのことを書いた一冊を読む。『Democracy In America 第二巻』(Alexis de Tocqueville 著、Project Gutenberg、1840年初版刊、2006年eBook刊)だ。なぜ『第一巻』でなく『第二巻』なのかというと、今の私の興味が「アメリカ」にではなく「デモクラシー」に向いているから、そしてデモクラシーと自由、平等についてのトクヴィルの考察をもう一度読んでみたいと思ったからだ。

中身に入ろう。『第一巻』が「Book 1」から成っていたのと違い、『第二巻』は「Book 2」「Book 3」「Book 4」から成る。このうち「Book 3」の後半から「Book 4」にかけては圧巻だ。アメリカではじめて目にしたデモクラシー、自由、平等という新しい概念について、長い間ずっと考え続けた結果書かれた文章は、180年以上経った今も、読む者の目をくぎ付けにする。書かれたことは現在のフランスにも日本にもあてはまる。それは奇跡ではないか。

貴族がいたそれまでのヨーロッパの社会では、個人の境遇が変わることなど、まずなかった。それが、トクヴィルの見たアメリカでは、デモクラシーのなかで、個人の境遇は常に変化する。これはトクヴィルにとっては大きな驚きだっただろう。そのせいか、デモクラシー、自由、平等についての考察はとても深いものになっている。

トクヴィルが、デモクラシーの特徴として「多数者の専制(tyranny of majority)」を挙げているのはよく知られている。デモクラシーの本質は「多数者がすべてを決めてしまうこと」で、多数者の前には何者も無力であり、少数派の声は黙殺される。そんな状態を、デモクラシーはやすやすと作り上げてしまう。

世論が多数者を作り出し。多数者が立法機関のメンバーを選ぶ。行政のトップも多数者が間接的に任命する。警察や軍隊も多数者の意を汲む武装組織となってゆき、裁判のもろもろのことにも多数者の意見が反映する。そんな状況では、少数派は不条理に対して何もできない。デモクラシーにはそんな危険が伴う。

ところで、すべての人が平等であるというのは、どういう状態を言うのだろう。完全な平等などないにしても、デモクラシーの社会では、一人ひとりが自由になり、その結果、人は平等になってゆく。ところが、平等の度合いが高まると、人は自由でなくなってゆく。

人が平等な社会は、人の境遇を不安定にする。「いいこと」は、得て間もないことばかり。しかも、いつ失ってもおかしくないことばかりだ。明日にはないかもしれないと思えば、今日持っていることを人にわかってほしいと思うのは自然の感情だろう。それを虚栄心と呼ぼうと呼ぶまいと、デモクラシーはそんな感情を呼び起こす。

平等があたりまえになると、人は小さな不平等に敏感になる。特権に向かう憎悪は、特権が小さくなればなるほど増大する。すべてが不平等だった時には、どんなに大きな不平等も目障りではなかったが、平等のなかでは、ほんの小さな違いも目障りだ。平等を望む気持ちは、平等の度合いが増すほど大きくなってゆく。

トクヴィルがアメリカに滞在し考察したアメリカの民主主義は、日本の敗戦によって日本に取り入れられ、トクヴィルが考えた通りの社会が日本に実現した。ここからは「Book 4」に書かれていたことのなかから、戦後の日本のデモクラシーを考えてみることにする。

デモクラシーは、「多数決こそがデモクラシー」だと勘違いした人たちによって悪いかたちで社会に浸透し、先ほど書いた「多数者の専制」があたりまえの危険な社会になってしまった。議論が尽くされることはなく、少数派の声は無視され続けている。

トータリタリアニズムの上に デモクラシーが重なって出来上がった社会は、穏やかだ。人々を苦しめることなく、貶める。自分たちは平等で、自分たちこそが主権者だと思い込んでいる人々は、見えてこない権力者たちがすべての権力を自分たちの手に収め、私的利益に干渉してきていることにさえ気づかない。

人々のささいなことへの情熱、マナーの良さ、温和さ、教育の程度、純粋さ、道徳に裏打ちされた慎ましさ、規則的で勤勉な習慣、自制心などは、すべて美徳とされているが、その美徳が、権力者たちを守護神と錯覚させてしまう。

抑圧の種類は、以前のものとは異なっている。大勢の人々が、みな平等で、同じように自分の人生を貪り、つまらない快楽を得ようと絶え間なく努力している。

人々は孤立して暮らし、自分たち以外にとって見知らぬ存在になる。子供たちと友人たちだけが、人類全体を構成しているのだ。残りの人々が近くにいても、決して見ることはない。知ったり触れることがあったりしても、何も感じない。人々は、自分自身の中にのみ、そして自分自身のためにのみ、存在している。人々は、血族を失い、祖国を失ったのだ。

権力者たちの力は絶対的だが、決して表には出てこない。その権威は親の権威のようなもので、人々を永遠の子供時代に留めおく。喜ぶことしか考えていない人々に喜びを与え、楽しみを促進し、主要な関心事に対処し、安全を確保し、必需品を予測して供給し、産業を指揮し、財産の降下を規制し、相続財産を細分化する。残っている仕事は、生きることの悩みを聞くことくらいしかない。

デモクラシーの社会でこのように人々の管理が続けば、人々の自由や有用性は低下してゆき、自ら考え行動することの頻度は低下する。意志は狭い範囲に限定され、自分自身を利用するすべての手段は徐々に奪われてゆく。平等の原則は、人々に我慢することを覚えさせ、我慢を利益として見なす傾向を持たせる。

人々は会社とか組織とかによって逐次強力に掌握され、形作られる。その後、権力者たちは会社や組織に腕を伸ばし、社会の表面を、細かくて、均一で、小さくて、複雑なルールのネットワークで覆ってしまう。

最も独創的な心や最もエネルギーに満ちた個性がそれを通り抜けて出てくることはできない。それぞれの意志は打ち砕かれるのではなく、和らげられ、曲げられ、導かれる。人々が強制されて行動することはめったにないが、行動は常にを抑制される。力は破壊されるのではなく、存在を妨げられる。

そんな社会を誰も圧政とは呼ばないが、人々を圧迫し、衰弱させ、消滅させ、呆然とさせ、ついにはみんなが臆病で勤勉な動物の群れに等しいものになり、権力者はその羊飼いになっている。

トクヴィルが昔アメリカで見たように、規則正しく、物静かで、穏やかな、奴隷状態にある人々が組み合わされてできたような、そんな社会が、日本に出現したのだ。私が『Democracy In America 第二巻』に見たのは、まぎれもなく今の日本の姿だと、そう思った。

(6)石牟礼道子『椿の海の記』

2024年1月19日(金)

みっちんが見た大人の世界

今週の書物/
『椿の海の記』
石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊

1968年に厚生省が水俣病の原因はチッソ水俣工場の廃液に含まれるメチル水銀化合物だと発表した。1969年には石牟礼道子の『苦海浄土』が出版され、水俣病が大きな問題になってゆく。水俣病の患者たちはチッソ水俣支社に行き、会って話し合うことを求めるのだが、支社のお偉いさんたちは「要望は本社に伝える」というばかり。らちがあかないと思った患者たちが上京し、むしろ旗を掲げてチッソ本社前に座り込んだ。

20歳になるかならないかの私は、その光景を何回も目にしている。その一年前に市ヶ谷の自衛隊の前を通りかかり、バルコニーで演説する三島由紀夫を目にしてはいたが、その記憶よりも、水俣病患者の座り込みの記憶のほうが、はるかに鮮明だ。

座り込みをした人たちの多くは患者ではなく、そのほとんどが、水俣からやってきた若くはない支援者たちと、長髪にジーンズ姿の東京の若い支援者たちだった。当時の丸の内を歩くサラリーマンやOLたちの身なりがとてもよかったためか、座り込む人たちの「決してきれいとはいえない身なり」は際立っていた。

水俣からやってきた支援者たちのなかに石牟礼道子もいた。ひとりだけ目立つ女性がいたが、私にはそれが石牟礼道子だという認識はなかった。『朝日ジャーナル』に載っていた写真などで見るかぎり、石牟礼道子の容貌は 特に目を惹くようなものではない。それでも石牟礼道子は、人の目を惹いた。

石牟礼道子は、よく、巫女のような女性だったと言われる。自分の使命を知っているようで、世の中のために力を尽くそうとし、感受性が強く、あらゆるものと無意識に共感してし、直感的に物事をとらえ、まっすぐに行動を起こす。根拠も理由もないのに、何をしたいかだけははっきりしているので、言動には揺るぎがない。そんなことから巫女のようだと言われてきたようだ。

ただ私には、石牟礼道子は、なぜか目が離せない、とても不思議な存在に映る。シャーマンが人を惑わすときのような微笑みを浮かべ、場末の酒場の女が男を見るような目で人を見る。集まった人たちに手料理を振る舞い、会話には積極的に加わらないのに、いつもみんなの中心にいる。そんな人が、目立たないわけがない。

石牟礼道子は、尾関章さんの『めぐりあう書物たち』にも2週続けて取り上げられた。

苦海浄土を先入観なしに読む(2021年10月22日)
https://ozekibook.com/2021/10/22/苦海浄土を先入観なしに読む/

苦海の物語を都市小説として読む(2021年10月29日)
https://ozekibook.com/2021/10/29/苦海の物語を都市小説として読む/

である。2回とも『苦海浄土』についてだ。この2回はとても面白い。石牟礼道子は感性の人で、尾関章さんは論理の人。論理の人が,感性の人が書いた本の書評をしたのだから、面白くないはずがない。

石牟礼道子の「取材」は、面白い。自動車で移動する人たちを自転車で追いかけ、挨拶もせずに現場に上がり込む。メモは取らないし、録音もしない。あとで証拠を見せろとか、根拠はなにかと聞かれても、何も持っていない。頼りは自分が感じだことと、自分が覚えていること。そして大学や図書館に残された資料。それで十分なのだ。

皇后雅子の祖父で当時チッソの社長であった江頭豊が患者のところをまわったときのことを、石牟礼道子は克明に書いているのだが、石牟礼道子にとっては、本当にそのような会話が交わされたのかどうかよりも、その場の空気がどうだったのかとか、江頭豊がどのような人間だったのかということのほうがずっと大事。それが文章になるのだから大変だ。実際、当時のチッソ水俣工場長で後に水俣市長を4期も務めた橋本彦七のことを書いた文章にはたくさんの棘が秘められる。

丸の内に出て来て、聳え立つビルを見て、まるで卒塔婆のようだと書く感性。江頭豊や橋本彦七を醜いと見て取る直感。あの顔、あの表情、あの声、あの仕草。反権力と見えながら、上皇后美智子といとも容易く近づいてしまう。男にとって、これほど手強い女はいないだろう。

で今週は、その石牟礼道子がまだ幼い「みっちん」だった頃のことを書いた一冊を読む。『椿の海の記』(石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊)だ。著者は1927年生まれ。代表作の『苦海浄土』があまりにも有名なためか、他の作品が顧みられることは少ないが、『椿の海の記』『あやとりの記』『葭の渚』といった「みっちん」シリーズ、そして『西南役伝説』のような歴史物、『食べごしらえおままごと』のような料理に関する本、そして詩集から自伝まで、著作の範囲は驚くほど広い。『椿の海の記』は、そのなかでも石牟礼道子らしさが濃くあらわれ物語で、「みっちん」と大人との絡みのなかに描かれる石牟礼道子の自然観・文明観が読みどころだ。

中身に入ろう。

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。
 大崎ケ鼻という岬の磯に向かってわたしは降りていた。やまももの木の根元や高い歯朶の間から、よく肥えたわらびが伸びている。クサギ菜の芽やタラの芽が光っている。ゆけどもゆけどもやわらかい紅色の、萌え出たばかりの樟の林の芳香が、朝のかげろうをつくり出す。

書き出しからこの調子だ。これを4歳の「みっちん」が見て、そして感じたことだと言われても「はい、そうですか」とは、いかない。私には、子どもの頃はもちろん、大人になってもそんな感性は育たなかった。

歩いてゆく途中、

「やまももの木に登るときにゃ、山の神さんに、いただき申すやすちゅうて、ことわって登ろうぞ」

というように、石牟礼道子の父親の声がずうっと耳についてくる。現実というよりも、夢に近い。

言葉には、

だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。

には、

数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。

季節には、

この世の成り立ちを紡いでいるものの気配を、春になるとわたしはいつも感じていた。

宇宙には、

この世とは、まず人の世が成り立つもっと以前から、あったのではないかという感じがあって。。。

というように、感性だけの、しかし的確な文章があてられる。

天草は

天草を水俣の波うちぎわから眺めると、米のない島、水のない島、飢饉のつづく島、仕事のない島、人の売られてゆく島というてきかせられても、貝も居ろうに魚も居ろうに、食べられる草や木の芽のいろいろも生きて居ろうに。なぜ人はそこから流れて来て売り買いされ、いったん売られてしまうともう、淫売! などといやしめられるのか。

と描かれ、死んだ十六女郎には、

「小娘のくせしとってなあ、あんまり客のとり過ぎじゃったろうもん。中学生ば騙かして」
 するとその隣の「こんにゃく屋」の小母さんが
「ぐらしかですばいあんた、そっでも。深かわけのあって売られて来たんじゃろうもね。おっかさーんちな、たったひと声、出したちばい。息の切れる間際にたったひと声、おっかさーんち」
 人びとはおし黙った。
「仏さまじゃがなもう。かあいそうに」
 天草の島から売られて来た十六の小娘の、毎夜毎夜売りひさがれてきた姿を見知っていた栄町通りの人びとは、こんにゃく屋の小母さんの声にたしなめられるようにおし黙った。そして、人びとは、いまわのきわの娘淫売の、おっかさーんというひと声をたしかにその時きいた。

という文章が用意されている。

「みっちん」は、幼くはない。幼い「みっちん」の目を借りて、口を借りて、手を借りて、石牟礼道子が描き出す人間と自然。豊富な海の幸や山の幸をいただくシーンもふんだんに描かれる。

青絵のお椀の蓋をとると、いい匂いが鼻孔のまわりにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている。すると祖父の松太郎が、自分用の小さな素焼の急須からきれいな色に出した八女茶をちょっと注ぎ入れて、薬味皿から青紫蘇を仕上げに散らしてくれるのだった。

といった具合だ。「みっちん」にとっても、「みっちん」の祖母の「おもかさま」にとっても、そして物語に出てくるすべての大人たちにとっても、豊かな自然はとても身近だ。メチル水銀化合物に穢される以前の水俣の、なんと清々しいことか。

「みっちん」が私たちの親の世代だとすれば、「おもかさま」の世代はその二代前。近代というものがまだ入りこんでいない、前近代的な地方色の色濃い世代だ。だから「みっちん」と「おもかさま」の世界には、今の日本からは考えられない前近代的な空気が漂っている。それが「みっちん」シリーズの魅力になっているのだろう。

ここで、ふと、気がついたのだが、どうも私には石牟礼道子の批評ができないようだ。ただただ、文章を切り張りしているだけではないか。

もう、この「書評」は、止めたほうがいいだろう。最後に気に入っている文章を載せて終わりにしよう。

秋の昼下がり頃を、芒の穂波の輝きにひきいられてゆけば、自生した磯茱萸の林があらわれて、ちいさなちいさな朱色真珠の粒のような実が、棘の間にチラチラとみえ隠れに揺れていて、その下陰に金泥色の蘭菊や野菊が昏れ入る間際の空の下に綴れ入り、身じろぐ虹のようにこの土手は、わだつみの彼方に消えていた。するともうわたしは白い狐の仔になっていて、かがみこんでいる茱萸の実の下から両の掌を、胸の前に丸くこごめて「こん」と啼いてみて、道の真ん中に飛んで出る。首をかたむけてじっときけば、さやさやとかすかに芒のうねる音と、その下の石垣の根元に、さざ波の寄せる音がする。こん、こん、こん、とわたしは、足に乱れる野菊の香に誘われてかがみこむ。

私にはこんな文章は書けない。

(5)Carlo Rovelli『White Holes』

2024年1月12日(金)

ホワイトホールへの旅

今週の書物/
『White Holes』
Carlo Rovelli 著、Penguin Books、2023年刊

尾関章さんが「めぐりあう書物たち」で5回も取り上げた物理学者のカルロ・ロヴェッリ。今週は、そのロヴェッリの最新本を読む。『White Holes』(Carlo Rovelli 著、Penguin Books、2023年刊)だ。これを読むのは、好むと好まざるとにかかわらず、金曜日の書評の「本家」である尾関さんへの挑戦になってしまう。

尾関さんは、元科学記者の科学ジャーナリスト。そのプロ中のプロが5回も取り上げたカルロ・ロヴェッリについて書こうというのだから、これはもう、関東サッカーリーグ2部の弱小チームが「横浜F・マリノス」相手に「日産スタジアム」で試合をするようなもので、勝ち目はまったくない。が、それでも、無謀を承知で書く。

とは言っても、私は書評の書き方を知らない。前ぶりも結論もなく、読者の想定もないというような、書評とはいえない書評を書くしかない。そこで、とりあえず、何の関係もない谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の文章から入ってみる。

そう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。

さあ、ウォーミングアップが済んだところで、カルロ・ロヴェッリの『White Holes』に身を委ね、ブラックホールの奥のほうへの意識の旅に出てみよう。バーチャルリアリティーを楽しむ時に装着するヘッドセットのようなものを装着する。意識は遠い宇宙を漂い、ブラックホールに導かれてゆく。

境界を超えて、宇宙の亀裂に転がり落ちる。急降下すると、ジオメトリーが折り畳まれるのがわかる。時間と空間が引っ張られ、伸びてゆく。最深部に着くと、時空が完全に溶け、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中に、ホワイトホールがぽうっと夢のように現れる。

でも、まわりは何も変わらない。境界に近づいたり境界を超えたりしても、遠くから眺めている人の視界から消えて行方不明になったとしても、何も特別なことは起こらない。時計の針が遅れることもなく、何も奇妙なことは起こらない。

時間の流れは相対的なものだから、お互いの時間が変わるということなら、いくらでもある。お互いにどれくらい速く移動するかで時間は変わるし、どのくらいブラックホールのような巨大な天体に近づくかでも時間は変わる。遠くから眺めている人に比べれば、ブラックホールに奥のほうに向かって落ちていく私の時間は、遅くなり続ける。

少し立ち止まって、何が起こったのか考えてみよう。ブラックホールにたどり着くまでに必要にした力、重力を維持するような力、そんな力がすべて無効になるまで、ブラックホールのなかを落下してきた。大きく広かった場所が、いつの間にか小さく狭くなっている。もうこれ以上、先はない。そう思ったとき、突然、ホワイトホールが現れた。

現れたホワイトホールは、物質の構成要素を分離して閉じ込める。すべてが閉じ込められ圧縮されたところには、光さえも入り込むことができない。

振り返って考えてみれば、ブラックホールは球体ではなかった。時間の経過とともにますます長く狭くなっていった。そして、長く狭くなった先の、最も深く最も暗い隠れ家のようなところに、シンギュラリティがあった。

地球上の物質が、許容限度を超えて圧縮されるとリバウンドするように、シンギュラリティを超えてホワイトホールに入ると、突然宇宙の光が降り注ぎ、時空の向こう側に転がり出る。

そもそも、ホワイトホールは、突然現れたわけではない。ブラックホールがホワイトホールになっただけ、時間が逆転しただけなのだ。ブラックホールが量子ゆらぎで突然ホワイトホールになるまで、ブラックホールから逃れることができない。ホワイトホールになると、何も入ることができない。通過しているあいだ何も変わらなくても、遠くから眺めている人とは、ホワイトホールとその先の時間は逆行している。

時間は違うのか、それとも違うように見えるのか。時間の流れは、どのように個人的で、相対的なのか。時間の流れは絶対的なものではなかったのか。時間が逆転した世界には、何があるのか。ブラックホールとホワイトホールは対のものなのか。ブラックホールの手前の宇宙とホワイトホールの先の宇宙とは、対なのか。それは対称なのか、何か関係性があるのだろうか。

何を考えても、答えは浮かばない。自分の知っている世界を離れ、知らない世界に入っていけば、自分の常識も、直感も、知識も、何の役にも立たなくなる。それなのに、常識は最後までまとわりつき、直感は違うと言い続け、知識は最後まで捨てることができず、新しい世界を理解することは不可能に思える。

こうして、意識の旅は終わりを告げる。ゆっくりとヘッドセットを外すと、ぼんやりとしていたアタマが、スッキリしているのに気づく。

とても大きな星が寿命を迎え、エネルギーがすべて使い果たされると、崩壊し、何も逃れることができず、自ら光ることさえできない、奇妙な物体になる、それがブラックホールだ。アインシュタインの一般相対性理論は、空間と時間が終焉を迎えるべき存在であると予測した。

ところが、ブラックホールの存在を予測したのと同じ方程式は、その逆の存在、つまり何も入り込むことができず、光さえも拒絶するようなホワイトホールの存在も予測する。天文学者は、遠くの銀河のなかに、ブラックホールの存在を確認することができる。でも、ホワイトホールはまったく確認できない。これは少し奇妙であり、ホワイトホールが存在しない可能性があると示唆する人もいる。

ロヴェッリの『White Holes』は、そんなホワイトホールのことを、専門家でなくてもわかるように説明してくれる。ブラックホールで終わるはずの空間と時間を、その先まで見せてくれる。

ロヴェッリは、哲学者のように、そして詩人のように、知るとはどういうことなのか、理解するとはどういうことなのかを語る。しかし、理論物理学者の語りは、どこまでも科学的だ。

何かを知るということは、その物・そのプロセスを表現し、単純化し、予測することを可能にする相関関係を結ぶこと。何かを理解するということは、それと同一化することであり、その構造と私たちのシナプス構造との間の類似点を構築していくこと。この辺のことは、英訳の『White Holes』を読んでもわかりにくく、仏訳の『Trous blancs』を読んではじめてストンとくる。ロヴェッリの文章は、もしかしたら、翻訳が難しいのかもしれない。いずれにしても、理論物理学者は、そんなことまで考えているのだ。

ロヴェッリの科学についての考えは厳しい。科学は、過去の知識や直感を盲目的に信頼しないという謙虚な行為から生まれると断言する。みんなの言うことを信じない。人々が蓄積してきた知識を信じない。本質的なことはすでに知っていると思ったり本に書かれていると思ったりするのは、何も学ばないに等しい。自分の信じたことを信じていれば、新しいことは学べない。常に間違っている可能性があることを認識し、新しいトラックが現れたらいつでも方向を変える。でも、私たちが十分に優れていれば、正しく対処し、探しているものを見つけることができる。この本に書かれている科学観は素晴らしい。

この小さな本は簡潔だ。今までのロヴェッリの著作の内容が概要と導入としていくつかの短い章にまとめられ、それを読んだだけでも気分は高揚する。ブラックホールの中心に引きずり込まれ、何らかの方法で反対側から外へ連れ出されると、興奮は「気分の高揚」などでは済まされなくなる。

ブラックホールになった星が崩壊し続けると、最終的には非常にコンパクトで小さくなり、一般相対性理論が量子力学の法則に取って代わられることになる。メッセージはとてもクリアーだ。

量子論は、小さなスケールの不確実性の物理学。それ以上でもそれ以下でもない。量子論の世界では、空間の粒子やパッチが確率の雲となり、これまで不可能だったことが可能になる。ロヴェッリはそういったことのすべてを利用して、「ブラックホールの中心が崩壊して無になろうとするところで、量子的不確実性によって時間の経過がリバウンドし、ホワイトホールになる」という可能性を示している。

数学でしか表現できないこと、数学を使わなければ完全に説明できないことを、こんな小さな本で素人に説明し、全体像を提示する。ロヴェッリがどのようにしてそれに成功したのか。どうやって細かい部分に目をつぶりながら、どうやって数式なしに、このような一連の詩を紡ぎだしたのか。

ブラックホールが説明され、ホワイトホールが提示される。時間はひっくり返され、逆行させられる。ホワイトホールがあるのに、なぜ天文学者たちには見ることができないかということまで、説明してくれる。難しい概念が平易に書かれ、読者の混乱を恐れている形跡もない。

未来のことを思い出せないのは単なる錯覚なのか、それとも根底にある物理学の根本的な結果なのか。ロヴェッリは、私たちが未来ではなく過去を思い出すのは、過去の不均衡のためだと書く。私たちが過去を知るのは、現在にその痕跡があるからだとも書く。私たちが過去と呼ぶものは、ある時点で物事がどのように配置されたかであって、時間の流れではない。本のなかに散りばめられた時間というものの説明は、私のような素人には正直キツい。ロヴェッリは「そんなことは実際には重要でない」と書くが、混乱させられるばかりだ。混乱してもなお、この本は不思議なほど面白くあり続ける。

自分が提案するアイデアの数々に確固たる確信を持っているロヴェッリ。と同時に、それらを疑い、激しく厳しく自分を疑い続けるロヴェッリ。

数式に溺れ数式のなかに生きている理論物理学者が多い日本と違い、ギリシャ哲学やダンテの『神曲』にまで考えが及ぶロヴェッリのような理論物理学者が多いイタリア。精神的な貧しさと、精神的な豊かさとの違いに驚いてしまう。

こんなに読むのが楽しかった本が、他にあっただろうか。少し読んでは考え、また読んで、又考える。時には、この本に書かれていないようなことを考える。2人の人間が違うように、2つの陽子は違うのか。それとも、陽子はみな同じなのか。質量やスピンは同じでも、構造を持っている陽子内の、軌道角運動量を持つクォークやグルーオンのある瞬間の位置や運動量のことを考えれば、同じとはいえないのか。考えはあちらこちらに飛ぶ。

たぶん私は、これから何度もこの本を手に取り、もっとよく理解しようとするだろう。いくら読み返しても理解できないことを知りながら、何度も何度もこの本を手にするに違いない。ロヴェッリの魔法にかかってみて、人は魔法にかかりたいのだということに気づく。言葉の魔法は、脳を活性化し、シナプスの働きを良くする。それはきっと、快感なのだろう。

物理学科に籍を置きながらちゃんと物理を学ぼうとしなかった私がロヴェッリの『White Holes』を読んでいたら、人生は変わったのだろうか。いや、変わっていなかったろう。年老いて読んだからこそ、楽しかったのだ。年を取って生きているのは、なんといいことか。そんなことを考えさせられる一冊であった。