狩猟採集民がある日、突然農業を発明したわけではない。むしろ農耕は採集生活の延長から生まれ、何世代、場合によっては何百年という時間をかけて、人間と植物との関係が少しずつ変わっていった結果だと考えると、その始まりの姿がかなり見えやすくなる。実際、農耕への移行には単一の原因があったわけではなく、世界のさまざまな地域で異なる形で進んだ。定住が農耕より先に進んだ地域もあれば、農耕が定住を強めていった地域もあった。
人が農民になる前の集落を想像してみよう。今から一万年以上前、数十人ほどの小さな集団が、川の近くで暮らしている。少し離れたところには森があり、丘には野生の麦のような草が群生している。春には若芽や根を採り、夏になると野生の穀物を集め、秋には木の実を拾う。川では魚を捕り、森や草原では鹿やガゼルなどの獲物を追う。
そんな生活をしていた人々は、植物について驚くほど多くのことを知っていたに違いない。この草はいつ頃実るのか、どの谷へ行けば大きな実が採れるのか、何を乾燥させれば冬まで保存できるのか。そうした知識を長い経験のなかで蓄積していた。
だから、「最初の農民は種をどこから手に入れたのか」と考える必要はあまりない。種はすでに彼らの周囲にあった。というより、種そのものが食べ物だった。野生の穀物を集め、食べ、残ったものを保存する。その保存された穀物は、そのまま翌年に芽を出す可能性を持った種でもあった。
野生穀物の採集から意図的な播種への移行も、私たちが考えるほど明確な境界を持ってはいなかったのだろう。野生の麦が生えている場所へ毎年採集に行き、採りやすいように周囲の草を刈る。邪魔な木を取り除く。実の大きい麦は残す。よく実る一角を荒らさないようにする。それはまだ畑ではない。人間が少しだけ手を入れた野原にすぎない。
しかし、その程度の介入でも、長い時間がたてば人と植物の関係を変えていく。前年に穂がたくさん落ちたところには翌年も麦がよく生える、と誰かが気づく。ならば、集めてきた穀物の一部を住居の近くに撒いてみようとする者が現れても不思議ではない。土に落ちた種から芽が出る。それなら翌年はもう少し多く撒いてみる。大きな実をつける麦は食べやすいから、その実を残して次に撒く。そうした小さな行為を何十年、何百年と繰り返すうちに、採集と栽培の境界は少しずつ曖昧になっていったのだろう。
さらに具体的な風景を想像してみる。誰かが籠いっぱいの野生の麦を集めて帰ってくる。住居の前で穂を叩けば、種が地面にこぼれる。やがて雨が降り、しばらくするとその場所から麦が生えてくる。誰かが「農業を発明しよう」と考えたわけではない。ただ、繰り返される経験のなかで因果関係に気づく。ここに落ちた種から麦が生えたらしい。それならもっと落としてみよう。よく育った麦の種を残せば、次もよく育つかもしれない。そんな小さな発見が積み重なっていく。
そしてここから、少し奇妙なことが起こり始める。
最初は人間が植物を選んでいる。ところが、人間が毎年よく育つもの、実の大きいもの、収穫しやすいものを残していけば、やがて人間に利用されやすい性質を持つ植物が増えていく。人間が植物を変え始めると同時に、植物もまた人間の行動を変え始める。ここに、双方向のTamingが始まる。
もちろん、その形は植物によっても地域によっても違った。世界各地で農耕は異なる植物を対象として成立したのだから、栽培の方法も、定住との関係も一様ではない。それでも、大きな流れには共通するものがあったのではないだろうか。
水があり、魚があり、木の実があり、野生穀物があり、獲物もいる場所なら、毎年遠くへ移動する必要はない。「今年もここにいよう」となる。翌年も「ここでいい」となる。何年もそうして暮らしていれば、やがてそこはほとんど村になる。そして、そこへ栽培が加わると、人間と土地の関係が決定的に変わり始める。
小さな畑を作り、種を撒く。すると、もう放って遠くへ行くことが難しくなる。芽が出たか確かめたい。鳥や動物に食べられないようにしたい。雑草を取り、成熟すれば収穫しなければならない。つまり、人間が植物を管理し始めた瞬間から、植物の事情もまた人間の行動を拘束し始める。
収穫が増えれば、今度は保存が必要になる。大量の穀物を蓄えてしまえば、それを持って移動することは難しい。それなら倉庫のそばに住んだほうがいい。家を丈夫にする。井戸を掘る。炉を作る。石臼を置く。すると家や道具そのものがさらに人間をその場所へと結びつける。こうして、定住が栽培を促し、栽培が貯蔵を増やし、貯蔵がさらに定住を強めるという自己強化の循環が始まる。
集落も、誰かが設計して建設したわけではない。最初は数家族だったのだろう。一軒の家があり、その隣に親族の家が建つ。子どもが成長し、結婚すると、その近くにもう一軒できる。親戚がやってくる。貯蔵場所が増え、作業場ができ、人が頻繁に歩くところには道ができ、外れにはゴミが捨てられるようになる。誰も「ここに村を建設しよう」と決定したわけではないのに、気がつけば村ができている。
こうして考えると、農耕の始まりに「今日から農業を始めます」という瞬間などなかったのだと思えてくる。野生植物を採り、毎年同じ場所へ行き、邪魔な植物を取り除き、好ましい植物を残す。そこに落ちた種から翌年また植物が育ち、やがて人が意図的に種を撒くようになる。それを住居の近くでも育て、収穫物を保存する。保存場所から離れにくくなり、家が丈夫になり、親族の家が増え、畑が広がり、一年の生活が植物の季節に合わせて組織されていく。一つひとつは小さな変化なのに、長い時間の先から振り返れば、そこには農耕社会が成立している。
最初は、人が植物をTameした。
ところが農耕が大きくなるにつれて、植物のほうも人間をTameし始める。野生の麦なら、実ったころにそこへ出かけて採ればよかった。しかし栽培された麦は、種を撒く時期を人間に要求する。草を取る時期があり、収穫する時期があり、脱穀し、乾燥させ、保存する時期がある。植物の生存周期に合わせて、人間の一年が組み替えられていく。
それだけではない。畑を守らなければならない。貯蔵庫を守らなければならない。土地を守らなければならない。土地が重要になれば、どこからどこまでが誰の土地なのかという境界が意味を持つようになり、それを誰に引き継ぐのかという相続も重要になる。貯蔵された富が増えれば、それを誰が管理するのかという問題も生まれる。その先には、村、所有、人口増加、分業、争い、権力という、文明へとつながる巨大な連鎖が見えてくる。
そう考えると、農耕の始まりを「人間が植物をTameした出来事」とだけ理解するのでは、半分しか見たことにならない。むしろ人間が植物を少しずつ人間の側へ引き寄せる一方で、植物も人間を土地と季節の側へ引き寄せていった。農耕とは、そのような相互Tamingの過程だったのではないだろうか。
では、その結果、人は狩猟採集民だったころより自由になったのか、それとも不自由になったのか。
これは簡単には答えられない。ただ、少なくとも農耕によって人の生活が楽になり、自由になったと単純に考えることはできない。農耕への移行に伴って食物の種類が狭まり、多くの労働を土地へ投入する必要が生じ、人口密度が上がることで感染症の危険も増えた地域があったことは、骨や歯などの考古学的研究からも示されている。地域による違いは大きいとはいえ、「狩猟採集民は毎日飢えながら歩き回っていたが、農業を発明したことで食べ物が豊富になり、暮らしが楽になった」という単純な物語は、実態からかなり遠い。
自由という意味でも同じことが言える。狩猟採集民なら、今年この谷に獲物が少なければ別の場所へ移ることができる。しかし農民は、今年この畑の出来が悪いからといって簡単に移動することはできない。そこには家があり、畑があり、種があり、穀物倉があり、場所によっては灌漑施設があり、家畜がいる。人間は財産を持ったことで豊かになると同時に、その財産によって土地へ結びつけられるようになった。
しかし一方で、農民は狩猟採集民とは別の能力を手に入れたとも言える。移動する自由が小さくなる代わりに、一つの場所を長い時間をかけて作り変える力が大きくなった。家を改善し、倉庫を作り、畑を広げ、何年も使える道具を持ち、一か所に大量の物資を蓄積する。つまり農耕とは、単純な自由の喪失ではない。移動する自由を減らすかわりに、蓄積し、環境を改変する能力を大きくした生き方でもあった。
それでも、一つの疑問が残る。それほど大変なら、なぜ人間は農耕をやめなかったのか。
おそらく重要なのは、農耕が「一人の人間を楽に生かす技術」というより、同じ土地により多くの人間を生かす技術だったということだろう。農耕は単位面積あたりの食料、とくにカロリーの生産量を増やすことができる。その代わりに、多くの労働を要求する。個人にとって楽かどうかと、共同体として多くの人間を維持できるかどうかは、まったく別の問題なのだ。
ここに一種の歴史的な罠が生まれる。
たとえば、それまで少数の狩猟採集民しか暮らせなかった土地で、農耕によってはるかに多くの人間が暮らせるようになったとする。人口は何世代かのうちに増えていく。その段階で誰かが「農業は大変だから、父祖のような狩猟採集生活へ戻ろう」と考えても、もう簡単には戻れない。昔は少数の人間だけが利用していた森林や草原に、増えてしまった人口全体を支えるだけの食料はない。農耕によって食料生産が増え、食料生産が人口を増やし、増えた人口がさらに農耕を必要とする。ここでも自己強化の循環が生まれている。
誰も初めから、この循環を選んだわけではなかったのだと思う。「狩猟採集生活を捨てて農民になろう」と決断した人々がいたわけではない。最初は「少し麦を撒いておこう」という程度だったかもしれない。狩猟もする。木の実も拾う。魚も捕る。その傍らに少しだけ麦を育てる。それなら、その世代にとってはきわめて合理的な選択だったはずだ。
しかし、翌世代には畑が少し広がる。その次の世代には穀物倉が大きくなる。人口が増え、家が増え、土地への投資が増える。そして百年、二百年、五百年と時間が過ぎたとき、そこにはもはや畑なしでは存続できない社会が出来上がっている。
誰も「自由を捨てて農耕社会を選択します」と宣言したわけではない。
一世代ごとの小さな合理的選択が積み重なった結果、後の世代には退出することの難しいシステムが出来上がったのである。
最初は人間が麦をTameする。やがて麦が人間をTameする。そして人口がさらに増えると、水の管理、土地の境界、蓄えの管理、紛争の処理などが必要になっていく。いつの間にか植物によるTamingは、土地によるTamingへ、共同体によるTamingへ、そして制度によるTamingへと姿を変えていく。
この話でもっとも興味深いのは、農耕を始めた最初の世代と、その五百年後に生きる世代とでは、同じ農耕社会に暮らしているように見えて、実際には持っている自由がまったく違うということだ。
最初の世代には、「今年は畑を作るのをやめよう」という選択肢がまだかなり残されていたかもしれない。狩猟も採集も知っている。周囲の自然もまだその生活を支えることができる。しかし何世代も経ち、人口が増え、畑、家、貯蔵庫、家畜、道具、土地、そして人間関係そのものに生活を依存するようになった世代には、「狩猟採集に戻ろう」という選択肢はほとんど残されていない。
ここに、Tamingというもののもう一つの姿が見える。
Tamingとは、強い者が弱い者を捕まえ、その自由を奪うことだけではない。もっと不気味なのは、その時代を生きる人々にとっては合理的だった小さな選択が積み重なり、まだ生まれていない次の世代の選択肢を狭めてしまうことである。
今年は少し多く麦を撒こう。
もう一つ倉庫を作ろう。
畑をもう少し広げよう。
その一つひとつに、間違った判断はない。ところが何百年という時間を通して見ると、その小さな合理性の積み重ねが、後の人間には容易に抜け出すことのできない巨大な仕組みに変わっている。
そしておそらく、これは農耕だけの話ではない。
国家も、貨幣も、都市も、会社も、最初から完成した巨大な制度として人間の前に現れたわけではない。その時その時の不便や危険を減らすために、人々が一つずつ合理的な選択を積み重ね、その結果として、後の世代がその外側で生きることの難しい世界が出来上がってきた。
そして今、私たちはAIについても、よく似た入口に立っているのかもしれない。
私たちは便利だからAIを使う。仕事が早くなるから使う。より正確に判断できるから使う。人間がしなくてもいい仕事を任せる。それぞれの判断だけを見れば、どれも合理的である。
農耕を始めた最初の人々が、「少し麦を撒いておこう」と考えたように。
しかし、その選択を何世代も積み重ねた先で、人間がどのような社会に暮らすことになるのか、その社会からどれほど自由に退出できるのかまで、現在の私たちが見通しているとは言い難い。
人間は世界をTameすることによって、自分の生存領域を広げてきた。しかし、何かをTameするたびに、その対象との新しい関係が生まれ、その関係によって今度は人間自身の行動が規定されてきた。
植物をTameした人間は、植物の季節に従うようになった。
土地をTameした人間は、土地から離れにくくなった。
制度を作った人間は、制度の外で生きにくくなった。
そう考えると、Tamingの歴史とは、人間が世界を支配してきた歴史であると同時に、人間が自ら作り出した世界によって、少しずつ自分自身をTameしてきた歴史でもあるのかもしれない。
そして、その意味では、次世代の選択肢を狭めてしまうことは、私たちの文明が抱えている、ひとつの宿命なのかもしれない。