2024年9月6日(金)
今の社会のモラルは奴隷のモラル
今週の書物/
『Jenseits von Gut und Böse』
Friedrich Nietzsche 著、1886年刊
『Beyond Good and Evil』
Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳
Penguin Classics、2003年刊
戦前は、護国の精神に富んだ忠良なる臣民を育成するのが教育の目的だった。臣民というのは天皇に従属する者のこと。建国の精神、国体の要義を子どもの脳裡に徹底させる必要があるということで、教育勅語の精神に合致する教科書が使われた。また、中学校以上の男子校には現役陸軍将校が配属され、軍事教練が実施された。
そんな歴史のせいで、日本には今でもパブリックという考えがない。「Public Private」は「公私」と訳されはするが、その実態は「官民」であり、「Civil Servant」は公務員と訳されてはいるものの、「Civil Servant」として働く者たちの意識は相変わらず「官吏」であって、「国民に奉仕する」という考えは微塵もない。
国は国民のために存在するというのと、国民は国のために存在するというのとでは、意味合いがまったく違う。日本には今でも「お上」が存在していて、国民は「お上」の言うがまま。国の言うことには黙って従うし、警官や税務署員の理不尽に対しても従順だ。
学校での「いい子」といえば「言うことを聞く子」「言われた通りに行動する子」を指し、大人になって出来上がった「善良な市民」は、いつも正しく 温かい心を持ち、親切で 思いやりがあり、勤勉で どんな辛いことも耐え忍び、謙虚で 他人のために行動する。
日本の学校は奴隷養成所で、日本の社会は奴隷のような人間で溢れている。そんなことを考えているときに出会ったのが ニーチェの「Master–slave morality」と 忌野清志郎の「善良な市民」。「Master–slave morality」は まるで今の日本のことを言っているようだし、「善良な市民」は「小さな家で 疲れ果てて 眠るだけ」「新しいビールを飲んで 競馬で大穴を 狙うだけ」「飯代を 切詰めたりして Jリーグを 観に行くだけ」という具合で なんともせつない。
で、今週は「Master–slave morality」のことを書いた文章を読む。『Beyond Good and Evil』(Friedrich Nietzsche 著、R. J. Hollingdale 訳、Penguin Classics、2003年刊)だ。ニーチェは、1879年に体調を崩して大学を辞めてから、1989年1月に精神病院に入院させられるまでの10年ほどのあいだ、療養のために 夏はスイスのイタリア語圏の村で 冬はイタリアやフランスの海辺の町で過ごしたのだが、この本はそのあいだに書かれた一冊だ。
ニーチェは不思議な存在だ。多くの人が若い頃に出会い、あまり多くを読まずに、それぞれが勝手な解釈をする。「ルサンチマン」だの「ニヒリズム」だのと言って わけのわからないことをこねくり回す人は多い。でも、読まないのは もったいない。ニーチェは いろいろなことを違った視点から捉えるのがとてもうまいから、固定観念から自由になるのの助けになる。
『Beyond Good and Evil』の「Chapter IX What is noble?」には、主人道徳(master morality)と 奴隷道徳(slave morality)という2つの道徳が出てくるのだが、その前提として 一方に高貴な人たち(権力者たち、貴族たち)がいて、もう一方には弱者たち(庶民、抑圧された人たち)がいるという社会がある。
主人道徳は、意志の強い者の道徳とされ、その道徳での「善」は 高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、ささいなものだという。高貴な人たちの道徳とはいえ、動物的・直截的で、かつ積極的・攻撃的だ。心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして価値に対する正確な認識が必要とされるというが、それは仲間内だけのことで、弱い者たちは眼中にない。
これに対し奴隷道徳は、弱い者たちの持つ道徳で、その道徳での「善」は コミュニティ全体にとって役立つもの、「悪」は 権力を握っている者たちのやることなすことだという。謙虚さ、慈悲、憐れみなどの感情は、強い者たちにはわからないと思っている。民主主義・自由・平等などは、奴隷道徳の政治的な表現だという。
とはいっても、書かれたのは日本でいえば明治時代だから、今とは何も比較はできないが、それでもいろいろ考えさせられる。日本とかアメリカとか、21世紀に民主主義・自由・平等などを掲げている国を、ニーチェは、奴隷道徳の国だというのだろうか? エヌビディアのジェンスン・フアンのようなビリオネアが奴隷道徳を身に着けていることを、どう説明するのだろう?
そんな疑問を考えるために、私たちの国である日本について考えてみよう。日本には、世界でもめずらしい『道徳教育』がある。教師は自らの信念を押し付けず、日本に昔からある道徳心に従うよう指導し、親や年長者を敬ったり、動物に優しく接したり、困っている人を助けたりすることの大切さを教えるのだという。
道徳教育の基盤は家庭にあるべきなのに、子どもは夕方から夜にかけてしか家にいないからといって、学校が代わりに道徳教育の役割を引き受ける。学校に行かない日が年間に170日もあるのだし、そもそも学校にいる時間の大部分は道徳以外の強化の授業に費やされるのだから、年に30時間にも満たない『道徳教育』をしたところで、たかが知れているのだが、この類のプロパガンダの子供への影響は思いのほか大きい。
その文部科学省が掲げる道徳教育だが、道徳的な心情、判断力、実践、態度などの道徳性を養うのが目的で、秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における協調性も含まれているという。なんのことはない、ニーチェの言うところの奴隷道徳の教育をしているのだ。
日本教職員組合(日教組)のウェブページに行っても、日本国憲法とか人権教育とかいった進駐軍が日本に押し付けたことが並んでいるだけで、掲げられている道徳がニーチェが書いた奴隷道徳であることは、文部科学省の道徳と何ら変わりがない。
要は、どんな立場にいるにせよ、今の日本人が道徳をイメージする場合には、ニーチェが説明した奴隷道徳しか頭に浮かばないということなのだ。日本には、主人道徳は悪だと考える人しか存在しない。まるで、みんなが(社畜とか皇民とかの)歯車の一部になったかのようだ。
考えてみれば、20世紀という国家の時代には、たとえそれが 軍国主義だろうが 民主主義だろうが 共産主義だろうが、個人の意思は認められない。
ニーチェが多くの文章を並べて言いたかった 主人道徳 における個人の意思を思い出してみよう。個人の意思はノーブルな(精神が高貴な)人間が持つものなのだ。ノーブルな人間は自分を価値を自分で決める。他人に承認を求めたりはしないで、自分で判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害で、悪なのだ。名誉を与えるのは自分だけ。価値の創りだすのも自分だけ。自分の中に認められるものは何でも尊重する。そのような道徳を持つものは今の日本には ひとりもいない。
主人道徳がいいと言っているのではない。主人道徳を持っている人がいないと言っているのだ。言葉を変えれば、ノーブルな人がひとりもいないということになる。そしてみんなが、そのことをいいことだと思っている。
何かに属していたり 金持ちだったりして 自分のことをノーブルだと勘違いしている人はいても、本当の意味で精神的にノーブルな人はいない。今の金持ちたちは、みんな卑しい。
今の状態から抜け出せないか? 奴隷道徳に覆われた社会のなかで 高貴な個人を獲得することはできないのだろうか? 自分の価値は自分で決め 自分のことは自分で判断する。そんな150年前にはあたりまえにいた「精神的に高貴」で「自分に誇りを持っている」人は、もう今の社会には現れないのか?
日本には、労働を強制されながら、そのことを自らの意志で働いているのだと考えている人たちが大勢いる。その誰もが、自分のことを奴隷だと思っていない。失業したら生きていけないと、上司の言うことに従い、長時間労働している人たちは、はたから見れば自由ではない。そんな人たちの過労死とか自殺とかが新聞紙上を賑わせるが、それはなぜなのか。その理由が、ニーチェの文章を読んでわかったような気がする。すべて奴隷道徳のせいなのだ。
自分の自由な時間を増やすことに罪悪感を感じ、逃げることをよしとしなければ、それはもう奴隷でしかない。そんなふうな人たちは、みんな、ニーチェの言う 奴隷道徳 の持ち主なのだ。
なにも 主人道徳 を持たなくてもいい。奴隷道徳 から解放されさえすればいいのだ。主人も奴隷も関係なく、国のため・会社のため・上司のためといった他人のためという発想を捨て、自分を否定せず、誇りを持って、自分のために生きる。それだけでいい。勤め人だろうが、自由業であろうが、奴隷道徳に染まらなければいいのだ。多くの人たちがそうすれば、社会はきっと もっと風通しのいいものになる。
ニーチェの著作を読むと、時代が違うせいもあって、そしてニーチェが病気だったせいもあって 反感を感じることが多い。でも考えさせられることが多々あり、個人の そして社会の 指針となることが少なからずある。少しだけでも、たとえ1章・1節だけでも読んでみるといいと、声を大にして言いたい。
Beyond Good and Evil
by Friedrich Nietzsche
translated by R. J. Hollingdale
Penguin Classics
(2003)
Beyond Good and Evil confirmed Nietzsche’s position as the towering European philosopher of his age. The work dramatically rejects traditional Western thought with its notions of truth and God, good and evil. Nietzsche seeks to demonstrate that the Christian world is steeped in a false piety and infected with a ‘slave morality’. With wit and energy, he turns from this critique to a philosophy that celebrates the present and demands that the individual impose their own ‘will to power’ upon the world.
BEYOND GOOD AND EVIL
by Friedrich Nietzsche
translated by Helen Zimmern
https://gutenberg.org/files/4363/4363-h/4363-h.htm
CHAPTER IX WHAT IS NOBLE?
Origin of Aristocracy
257. Every elevation of the type “man,” has hitherto been the work of an aristocratic society and so it will always be—a society believing in a long scale of gradations of rank and differences of worth among human beings, and requiring slavery in some form or other. Without the pathos of distance, such as grows out of the incarnated difference of classes, out of the constant out-looking and down-looking of the ruling caste on subordinates and instruments, and out of their equally constant practice of obeying and commanding, of keeping down and keeping at a distance—that other more mysterious pathos could never have arisen, the longing for an ever new widening of distance within the soul itself, the formation of ever higher, rarer, further, more extended, more comprehensive states, in short, just the elevation of the type “man,” the continued “self-surmounting of man,” to use a moral formula in a supermoral sense.To be sure, one must not resign oneself to any humanitarian illusions about the history of the origin of an aristocratic society (that is to say, of the preliminary condition for the elevation of the type “man”): the truth is hard. Let us acknowledge unprejudicedly how every higher civilization hitherto has originated! Men with a still natural nature, barbarians in every terrible sense of the word, men of prey, still in possession of unbroken strength of will and desire for power, threw themselves upon weaker, more moral, more peaceful races (perhaps trading or cattle-rearing communities), or upon old mellow civilizations in which the final vital force was flickering out in brilliant fireworks of wit and depravity. At the commencement, the noble caste was always the barbarian caste: their superiority did not consist first of all in their physical, but in their psychical power—they were more complete men (which at every point also implies the same as “more complete beasts”).
Higher Class of Being
258. Corruption—as the indication that anarchy threatens to break out among the instincts, and that the foundation of the emotions, called “life,” is convulsed—is something radically different according to the organization in which it manifests itself. When, for instance, an aristocracy like that of France at the beginning of the Revolution, flung away its privileges with sublime disgust and sacrificed itself to an excess of its moral sentiments, it was corruption:—it was really only the closing act of the corruption which had existed for centuries, by virtue of which that aristocracy had abdicated step by step its lordly prerogatives and lowered itself to a function of royalty (in the end even to its decoration and parade-dress). The essential thing, however, in a good and healthy aristocracy is that it should not regard itself as a function either of the kingship or the commonwealth, but as the significance highest justification thereof—that it should therefore accept with a good conscience the sacrifice of a legion of individuals, who, for its sake, must be suppressed and reduced to imperfect men, to slaves and instruments. Its fundamental belief must be precisely that society is not allowed to exist for its own sake, but only as a foundation and scaffolding, by means of which a select class of beings may be able to elevate themselves to their higher duties, and in general to a higher existence: like those sun-seeking climbing plants in Java—they are called Sipo Matador,—which encircle an oak so long and so often with their arms, until at last, high above it, but supported by it, they can unfold their tops in the open light, and exhibit their happiness.
Life Denial
259. To refrain mutually from injury, from violence, from exploitation, and put one’s will on a par with that of others: this may result in a certain rough sense in good conduct among individuals when the necessary conditions are given (namely, the actual similarity of the individuals in amount of force and degree of worth, and their co-relation within one organization). As soon, however, as one wished to take this principle more generally, and if possible even as the fundamental principle of society, it would immediately disclose what it really is—namely, a Will to the denial of life, a principle of dissolution and decay.
Here one must think profoundly to the very basis and resist all sentimental weakness: life itself is essentially appropriation, injury, conquest of the strange and weak, suppression, severity, obtrusion of peculiar forms, incorporation, and at the least, putting it mildest, exploitation;—but why should one for ever use precisely these words on which for ages a disparaging purpose has been stamped?
Even the organization within which, as was previously supposed, the individuals treat each other as equal—it takes place in every healthy aristocracy—must itself, if it be a living and not a dying organization, do all that towards other bodies, which the individuals within it refrain from doing to each other it will have to be the incarnated Will to Power, it will endeavor to grow, to gain ground, attract to itself and acquire ascendancy—not owing to any morality or immorality, but because it lives, and because life is precisely Will to Power. On no point, however, is the ordinary consciousness of Europeans more unwilling to be corrected than on this matter, people now rave everywhere, even under the guise of science, about coming conditions of society in which “the exploiting character” is to be absent—that sounds to my ears as if they promised to invent a mode of life which should refrain from all organic functions.
“Exploitation” does not belong to a depraved, or imperfect and primitive society it belongs to the nature of the living being as a primary organic function, it is a consequence of the intrinsic Will to Power, which is precisely the Will to Life—Granting that as a theory this is a novelty—as a reality it is the fundamental fact of all history let us be so far honest towards ourselves!
Master Morality
260. In a tour through the many finer and coarser moralities which have hitherto prevailed or still prevail on the earth, I found certain traits recurring regularly together, and connected with one another, until finally two primary types revealed themselves to me, and a radical distinction was brought to light.
There is master-morality and slave-morality,—I would at once add, however, that in all higher and mixed civilizations, there are also attempts at the reconciliation of the two moralities, but one finds still oftener the confusion and mutual misunderstanding of them, indeed sometimes their close juxtaposition—even in the same man, within one soul. The distinctions of moral values have either originated in a ruling caste, pleasantly conscious of being different from the ruled—or among the ruled class, the slaves and dependents of all sorts.
In the first case, when it is the rulers who determine the conception “good,” it is the exalted, proud disposition which is regarded as the distinguishing feature, and that which determines the order of rank. The noble type of man separates from himself the beings in whom the opposite of this exalted, proud disposition displays itself he despises them. Let it at once be noted that in this first kind of morality the antithesis “good” and “bad” means practically the same as “noble” and “despicable”,—the antithesis “good” and “evil” is of a different origin. The cowardly, the timid, the insignificant, and those thinking merely of narrow utility are despised; moreover, also, the distrustful, with their constrained glances, the self-abasing, the dog-like kind of men who let themselves be abused, the mendicant flatterers, and above all the liars:—it is a fundamental belief of all aristocrats that the common people are untruthful. “We truthful ones”—the nobility in ancient Greece called themselves.
It is obvious that everywhere the designations of moral value were at first applied to men; and were only derivatively and at a later period applied to actions; it is a gross mistake, therefore, when historians of morals start with questions like, “Why have sympathetic actions been praised?” The noble type of man regards himself as a determiner of values; he does not require to be approved of; he passes the judgment: What is injurious to me is injurious in itself; he knows that it is he himself only who confers honor on things; he is a creator of values. He honors whatever he recognizes in himself: such morality equals self-glorification. In the foreground there is the feeling of plenitude, of power, which seeks to overflow, the happiness of high tension, the consciousness of a wealth which would fain give and bestow:—the noble man also helps the unfortunate, but not—or scarcely—out of pity, but rather from an impulse generated by the superabundance of power. The noble man honors in himself the powerful one, him also who has power over himself, who knows how to speak and how to keep silence, who takes pleasure in subjecting himself to severity and hardness, and has reverence for all that is severe and hard. “Wotan placed a hard heart in my breast,” says an old Scandinavian Saga: it is thus rightly expressed from the soul of a proud Viking. Such a type of man is even proud of not being made for sympathy; the hero of the Saga therefore adds warningly: “He who has not a hard heart when young, will never have one.” The noble and brave who think thus are the furthest removed from the morality which sees precisely in sympathy, or in acting for the good of others, or in dèintèressement, the characteristic of the moral; faith in oneself, pride in oneself, a radical enmity and irony towards “selflessness,” belong as definitely to noble morality, as do a careless scorn and precaution in presence of sympathy and the “warm heart.”
It is the powerful who know how to honour, it is their art, their domain for invention. The profound reverence for age and for tradition—all law rests on this double reverence,— the belief and prejudice in favor of ancestors and unfavorable to newcomers, is typical in the morality of the powerful; and if, reversely, men of “modern ideas” believe almost instinctively in “progress” and the “future,” and are more and more lacking in respect for old age, the ignoble origin of these “ideas” has complacently betrayed itself thereby.
A morality of the ruling class, however, is more especially foreign and irritating to present-day taste in the sternness of its principle that one has duties only to one’s equals; that one may act towards beings of a lower rank, towards all that is foreign, just as seems good to one, or “as the heart desires,” and in any case “beyond good and evil”: it is here that sympathy and similar sentiments can have a place. The ability and obligation to exercise prolonged gratitude and prolonged revenge—both only within the circle of equals,—artfulness in retaliation, refinement of the idea in friendship, a certain necessity to have enemies (as outlets for the emotions of envy, quarrelsomeness, arrogance—in fact, in order to be a good friend): all these are typical characteristics of the noble morality, which, as has been pointed out, is not the morality of “modern ideas,” and is therefore at present difficult to realize, and also to unearth and disclose.
Slave Morality
It is otherwise with the second type of morality, slave-morality. Supposing that the abused, the oppressed, the suffering, the unemancipated, the weary, and those uncertain of themselves should moralize, what will be the common element in their moral estimates? Probably a pessimistic suspicion with regard to the entire situation of man will find expression, perhaps a condemnation of man, together with his situation. The slave has an unfavorable eye for the virtues of the powerful; he has a skepticism and distrust, a refinement of distrust of everything “good” that is there honored—he would fain persuade himself that the very happiness there is not genuine. On the other hand, those qualities which serve to alleviate the existence of sufferers are brought into prominence and flooded with light; it is here that sympathy, the kind, helping hand, the warm heart, patience, diligence, humility, and friendliness attain to honor; for here these are the most useful qualities, and almost the only means of supporting the burden of existence. Slave-morality is essentially the morality of utility.
Here is the seat of the origin of the famous antithesis “good” and “evil”:—power and dangerousness are assumed to reside in the evil, a certain dreadfulness, subtlety, and strength, which do not admit of being despised. According to slave-morality, therefore, the “evil” man arouses fear; according to master-morality, it is precisely the “good” man who arouses fear and seeks to arouse it, while the bad man is regarded as the despicable being.
The contrast attains its maximum when, in accordance with the logical consequences of slave-morality, a shade of depreciation—it may be slight and well-intentioned—at last attaches itself to the “good” man of this morality; because, according to the servile mode of thought, the good man must in any case be the safe man: he is good-natured, easily deceived, perhaps a little stupid, un bonhomme. Everywhere that slave-morality gains the ascendancy, language shows a tendency to approximate the significations of the words “good” and “stupid.”
Creation of Values
A last fundamental difference: the desire for freedom, the instinct for happiness and the refinements of the feeling of liberty belong as necessarily to slave-morals and morality, as artifice and enthusiasm in reverence and devotion are the regular symptoms of an aristocratic mode of thinking and estimating.— Hence we can understand without further detail why love as a passion—it is our European specialty—must absolutely be of noble origin; as is well known, its invention is due to the Provencal poet-cavaliers, those brilliant, ingenious men of the “gai saber,” to whom Europe owes so much, and almost owes itself.
261. Vanity is one of the things which are perhaps most difficult for a noble man to understand: he will be tempted to deny it, where another kind of man thinks he sees it self-evidently. The problem for him is to represent to his mind beings who seek to arouse a good opinion of themselves which they themselves do not possess—and consequently also do not “deserve,”—and who yet believe in this good opinion afterwards. This seems to him on the one hand such bad taste and so self-disrespectful, and on the other hand so grotesquely unreasonable, that he would like to consider vanity an exception, and is doubtful about it in most cases when it is spoken of.
He will say, for instance: “I may be mistaken about my value, and on the other hand may nevertheless demand that my value should be acknowledged by others precisely as I rate it:—that, however, is not vanity (but self-conceit, or, in most cases, that which is called ‘humility,’ and also ‘modesty’).” Or he will even say: “For many reasons I can delight in the good opinion of others, perhaps because I love and honour them, and rejoice in all their joys, perhaps also because their good opinion endorses and strengthens my belief in my own good opinion, perhaps because the good opinion of others, even in cases where I do not share it, is useful to me, or gives promise of usefulness:—all this, however, is not vanity.”
The man of noble character must first bring it home forcibly to his mind, especially with the aid of history, that, from time immemorial, in all social strata in any way dependent, the ordinary man was only that which he passed for:—not being at all accustomed to fix values, he did not assign even to himself any other value than that which his master assigned to him (it is the peculiar right of masters to create values).
It may be looked upon as the result of an extraordinary atavism, that the ordinary man, even at present, is still always waiting for an opinion about himself, and then instinctively submitting himself to it; yet by no means only to a “good” opinion, but also to a bad and unjust one (think, for instance, of the greater part of the self-appreciations and self-depreciations which believing women learn from their confessors, and which in general the believing Christian learns from his Church).
In fact, conformably to the slow rise of the democratic social order (and its cause, the blending of the blood of masters and slaves), the originally noble and rare impulse of the masters to assign a value to themselves and to “think well” of themselves, will now be more and more encouraged and extended; but it has at all times an older, ampler, and more radically ingrained propensity opposed to it—and in the phenomenon of “vanity” this older propensity overmasters the younger. The vain person rejoices over every good opinion which he hears about himself (quite apart from the point of view of its usefulness, and equally regardless of its truth or falsehood), just as he suffers from every bad opinion: for he subjects himself to both, he feels himself subjected to both, by that oldest instinct of subjection which breaks forth in him.
It is “the slave” in the vain man’s blood, the remains of the slave’s craftiness—and how much of the “slave” is still left in woman, for instance!—which seeks to seduce to good opinions of itself; it is the slave, too, who immediately afterwards falls prostrate himself before these opinions, as though he had not called them forth.—And to repeat it again: vanity is an atavism.
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(Google translate)
善悪を超えて
フリードリヒ・ニーチェ 著
ヘレン・ツィンメルン 訳
https://gutenberg.org/files/4363/4363-h/4363-h.htm
第9章 高貴とは何か?
貴族制の起源
257. 「人間」という種類のあらゆる昇格は、これまで貴族社会の営みであり、これからもそうあり続けるでしょう。貴族社会は、人間の間に階級の段階や価値の差を長期にわたって信じ、何らかの形で奴隷制を必要とします。階級の具現化された差異から生じる距離の悲哀、支配階級が従属者や道具に対して常に外向的または下向的であること、そして従ったり命令したり、抑えつけたり距離を置いたりする、同じように絶え間ない習慣から生じる距離の悲哀がなければ、魂自体の中で常に新たな距離の拡大を切望すること、常により高く、より稀で、より遠く、より広範で、より包括的な状態を形成すること、つまり、超道徳的な意味で道徳的公式を使用するならば、まさに「人間」タイプの向上、継続的な「人間の自己超越」といった、他のより神秘的な悲哀は決して生じなかったであろう。確かに、貴族社会の起源の歴史(つまり、「人間」タイプの向上の前提条件)についての人道的な幻想に身を任せてはならない。真実は厳しい。これまでのすべての高度な文明がどのように発生したかを偏見なく認めよう!まだ自然な性質を持った人間、あらゆる恐ろしい意味での野蛮人、まだ途切れることのない意志の強さと権力欲を持った捕食者たちは、より弱く、より道徳的で、より平和的な民族(おそらくは交易や牧畜を行うコミュニティ)や、最後の生命力が機知と堕落の輝かしい花火となって消えつつある古い穏やかな文明に襲いかかった。最初は、高貴なカーストは常に野蛮なカーストだった。彼らの優位性は、まず第一に肉体的なものではなく、精神的な力にあった。彼らはより完全な人間だった(これはあらゆる点で「より完全な獣」と同じことを意味している)。
より高次の存在
258. 腐敗は、本能の間で無秩序が勃発し、「生命」と呼ばれる感情の基盤が揺さぶられる兆候として、それがどのような形で現れるかによって根本的に異なるものである。たとえば、革命初期のフランスのような貴族が、崇高な嫌悪感とともに特権を放棄し、道徳的感情の過剰に身を捧げたとき、それは腐敗であった。それは実際には、何世紀にもわたって存在してきた腐敗の最終行為にすぎず、その腐敗によって貴族は徐々にその君主的特権を放棄し、王族の役割(最後には装飾品やパレードの衣装にまで)に身を落としたのである。しかし、健全で良い貴族社会にとって重要なことは、自らを王権や国家の機能としてではなく、その意義と最高の正当化としてみなすこと、つまり、貴族社会のために抑圧され、不完全な人間、奴隷や道具に貶められなければならない大勢の人々の犠牲を良心をもって受け入れることである。その根本的信念は、社会はそれ自体のために存在するのではなく、選ばれた階級の人間がより高い義務、そして一般的にはより高い存在へと自らを高めることができる基盤と足場としてのみ存在することを許されているということである。ジャワ島の太陽を求めるつる植物(シポ・マタドールと呼ばれる)のように、腕でオークの木を何度も何度も巻きつけ、ついにはオークの木に支えられながら、オークの木の遥か上まで伸びて、光の中で先端を広げ、幸福を誇示することができる。
生命の否定
259. 互いに危害、暴力、搾取を控え、自分の意志を他人の意志と同等にすること。これは、必要な条件(つまり、個人の力と価値の程度における実際の類似性、および組織内での相互関係)が与えられれば、個人間の善行にある程度の大まかな意味をもたらす可能性があります。しかし、この原則をより一般的に、できれば社会の基本原則として取り上げたいと思った瞬間、それが実際に何であるかがすぐに明らかになります。つまり、生命の否定への意志、解体と衰退の原則です。
ここで、根本まで深く考え、すべての感傷的な弱さに抵抗する必要があります。生命そのものは、本質的には、占有、危害、異質で弱いものの征服、抑圧、厳しさ、特異な形態の押し付け、統合、そして少なくとも、最も控えめに言っても、搾取です。しかし、長年軽蔑的な目的が刻まれてきたこれらの言葉を、なぜ永遠に使用する必要があるのでしょうか。
以前考えられていたように、個人がお互いを平等に扱う組織(健全な貴族社会ではどこでも行われている)でさえ、それが死にゆく組織ではなく生きた組織であるならば、その中の個人がお互いに行わないことを他の組織に対してすべて行わなければならない。それは権力への意志の化身でなければならない。それは成長し、地歩を築き、自らを引き寄せ、優位に立とうとする。道徳や不道徳のためではなく、それが生きているからであり、人生とはまさに権力への意志だからである。しかし、ヨーロッパ人の一般意識が修正されることを最も嫌がるのは、この問題に関してである。人々は今や科学を装ってさえ、あらゆるところで「搾取する性格」が存在しない社会の将来について熱狂している。それはまるで彼らがすべての有機的機能を控えるべき生活様式を発明すると約束しているように私には聞こえる。
「搾取」は堕落した、あるいは不完全で原始的な社会に属するものではなく、生物の本質、すなわち主要な有機的機能に属するものであり、本質的な権力への意志、すなわちまさに生命への意志の結果である。理論としてはこれが目新しいものであるとしても、現実としてはそれは歴史全体の基本的な事実である。ここまでは自分自身に対して正直でいようではないか。
主人の道徳
260. これまで地球上で支配的であった、あるいは現在も支配的である多くのより高尚な道徳やより粗野な道徳を巡ってみて、私はある特徴が定期的に一緒に現れ、互いに結びついていることに気付きました。そしてついに、2 つの主要なタイプが私に明らかになり、根本的な違いが明らかになりました。
主人の道徳と奴隷の道徳があります。しかし、私はすぐに付け加えますが、すべてのより高尚で混合した文明では、2 つの道徳を調和させようとする試みもありますが、それらの混乱や相互誤解、さらには時にはそれらが密接に並置されていることがさらに多く見られます。同じ人、1 つの魂の中でさえもです。道徳的価値観の違いは、支配階級、つまり被支配階級との違いを快く意識している階級、または被支配階級、奴隷、あらゆる種類の従属階級の間で生じています。
最初のケース、つまり「善」という概念を決めるのが支配者である場合には、高慢で傲慢な性質が際立った特徴とみなされ、階級の順序を決める。高貴なタイプの人間は、この高慢で傲慢な性質の反対が現れる存在を自分から切り離し、軽蔑する。この最初の種類の道徳では、「善」と「悪」の対立は「高貴」と「卑劣」と実質的に同じ意味であることにすぐに気づくべきである。つまり、「善」と「悪」の対立は起源が異なる。臆病者、臆病者、取るに足りない者、そして狭い有用性しか考えない者は軽蔑される。さらに、不信心で、視線をひそめ、自分を卑下し、侮辱される犬のような男たち、物乞いのおべっか使い、そして何よりも嘘つき。庶民は不誠実だというのが、すべての貴族の基本的な信念である。古代ギリシャの貴族は「われわれは誠実な者たち」と自らを呼んだ。
道徳的価値の指定が最初は人間に適用され、派生的に、後になってから行動に適用されたのは明らかである。したがって、道徳史家が「なぜ共感的な行動が称賛されてきたのか」といった疑問から始めるのは大きな間違いである。高貴なタイプの人間は、自分を価値の決定者とみなす。承認を求めず、判断を下す。自分にとって有害なものはそれ自体が有害である。物事に名誉を与えるのは自分だけであることを知っている。自分は価値の創造者である。彼は自分自身の中に認めるものは何でも尊重する。そのような道徳は自己賛美に等しい。前面には、あふれ出そうとする満ち足りた気持ち、高ぶった幸福、与えて授けたいと願う富の意識がある。高貴な人は不幸な人を助けることもあるが、それは同情からではなく、ほとんど同情からではなく、むしろ力の過剰によって生み出された衝動からである。高貴な人は自分自身の中にいる力のある者、つまり自分自身を支配する力を持ち、話すことと沈黙することを知っている者、厳しさと厳しさに身を委ねることに喜びを感じ、厳しさと厳しさすべてに敬意を払う者を尊重する。「ヴォータンは私の胸に厳しい心を置いた」と古いスカンジナビアのサガは言う。これは誇り高きバイキングの魂から正しく表現されている。そのようなタイプの人は、同情されるように作られていないことさえ誇りに思う。したがって、サガの主人公は警告的にこう付け加えている。「若いときに頑固な心を持たなければ、決して頑固な心を持つことはないだろう。」このように考える高貴で勇敢な人々は、まさに同情、または他人のために行動すること、または無私の行為に道徳の特徴を見出す道徳から最も遠い。自分への信頼、自分への誇り、「無私」に対する徹底的な敵意と皮肉は、同情や「温かい心」の前での不注意な軽蔑と用心と同様に、間違いなく高貴な道徳に属する。
尊敬する方法を知っているのは権力者であり、それは彼らの芸術であり、彼らの発明の領域である。年と伝統に対する深い尊敬(すべての法律はこの二重の尊敬に基づいている)、先祖を支持し新参者に不利な信念と偏見は、権力者の道徳に典型的である。そして逆に、「近代的思想」の人々が「進歩」と「未来」をほとんど本能的に信じ、老年に対する敬意をますます失うならば、これらの「思想」の卑しい起源は、それによって自己満足的に自らを裏切っている。
しかしながら、支配階級の道徳は、自分と同等の者に対してのみ義務を負うという原則の厳格さ、つまり、自分より低い階級の者や、自分と異なるすべてのものに対して、自分が良いと思うように、あるいは「心が望むように」、そしていずれにせよ「善悪を超えて」行動してもよいという原則の厳格さにおいて、現代の趣味にとって特に異質で苛立たしいものである。ここでこそ、同情や同様の感情が入り込む余地がある。長期にわたる感謝と長期にわたる復讐を実行する能力と義務(どちらも同等の者の間でのみ)、報復の巧妙さ、友情における考えの洗練、敵を持つことの一定の必要性(嫉妬、喧嘩好き、傲慢さの感情のはけ口として、実際、良い友人になるために)、これらはすべて高貴な道徳の典型的な特徴であるが、すでに指摘したように、それは「近代的な考え」の道徳ではなく、したがって現在では実現するのが難しく、また発掘して明らかにするのも難しい。
奴隷道徳
2 番目のタイプの道徳、奴隷道徳は異なります。虐待された人、抑圧された人、苦しんでいる人、解放されていない人、疲れた人、自信のない人が道徳を身につけると仮定すると、彼らの道徳的評価に共通する要素は何でしょうか。おそらく、人間の状況全体に関する悲観的な疑念が表明され、おそらくは人間とその状況に対する非難が表明されるでしょう。奴隷は権力者の美徳に好意的な目を向けません。奴隷は、そこで尊重されるすべての「善」に対して懐疑的で不信感を抱いており、その不信感の洗練は、そこでの幸福そのものが本物ではないと自分自身を納得させたいのです。一方、苦しんでいる人々の存在を緩和するのに役立つ資質が際立ち、光で満たされます。同情、親切、助け合い、温かい心、忍耐、勤勉、謙虚さ、友情がここで尊重されます。なぜなら、ここではこれらは最も有用な性質であり、存在の重荷を支えるほとんど唯一の手段だからである。奴隷道徳は本質的に実用性の道徳である。
ここには「善」と「悪」という有名な対立の起源がある。悪には力と危険さ、ある種の恐ろしさ、巧妙さ、強さが宿ると想定されており、これらは軽蔑されるべきものではない。したがって、奴隷道徳によれば、「悪」な人間は恐怖をかき立てる。主人道徳によれば、恐怖をかき立て、それをかき立てようとするのはまさしく「善」な人間であり、悪人は卑劣な存在とみなされる。
奴隷道徳の論理的帰結に従って、この道徳の「善」な人間に、わずかな軽蔑(それはわずかで善意によるものかもしれない)がついに加わったときに、その対比は最大になる。なぜなら、奴隷的な思考様式によれば、善良な人間はいずれにせよ安全な人間でなければならないからだ。善良な人間は気立てがよく、騙されやすく、おそらく少し愚かで、愛想が悪い。奴隷道徳が優勢になるところはどこでも、言語は「善良」や「愚か」という言葉の意味に近づく傾向がある。
価値の創造
最後の根本的な違いは、自由への欲求、幸福への本能、自由の感覚の洗練は、奴隷道徳と道徳に必然的に属するということである。それは、敬意と献身における策略と熱狂が貴族的な思考と評価の通常の兆候であるのと同じである。— したがって、情熱としての愛(これはヨーロッパの特色である)が絶対に高貴な起源に違いない理由を、これ以上詳しく説明しなくても理解できる。よく知られているように、愛の発明はプロヴァンスの詩人兼騎士、つまり「gai saber」の聡明で独創的な人々によるものであり、ヨーロッパは彼らに多大な恩恵を受け、ヨーロッパ自体もほとんど彼らに負っている。
261. 虚栄心は、おそらく高貴な人にとって最も理解しにくいものの 1 つである。高貴な人は虚栄心を否定したくなるが、別の種類の人は虚栄心を自明に理解していると考える。彼にとっての問題は、自分自身が持っていない、したがって「値しない」、自分自身について良い評価を喚起しようとし、その後もその良い評価を信じている存在を心に思い描くことです。これは一方では悪趣味で自尊心を軽視し、他方ではひどく不合理に思えるため、彼は虚栄心を例外と見なし、虚栄心が話題に上った場合、ほとんどの場合それを疑っています。
彼は、たとえば次のように言うでしょう。「私は自分の価値について間違っているかもしれませんが、他方では、それでもなお、自分の価値が自分の評価どおりに他人に認められることを要求するかもしれません。しかし、それは虚栄心ではありません(自惚れ、またはほとんどの場合、「謙虚さ」や「慎み深さ」と呼ばれるものです)。」あるいは、彼はこう言うだろう。「私は他人のよい評価を喜ぶことができる理由はたくさんある。おそらく私は彼らを愛し、尊敬し、彼らの喜びを喜ぶからだろう。また、彼らのよい評価が私自身のよい評価に対する信念を裏付け、強めてくれるからだろう。あるいは、たとえ私がそれに賛同しない場合でも、他人のよい評価は私にとって有益であるか、有益であると期待されるからだろう。しかし、これらすべては虚栄ではない。」
高潔な性格の人は、まず、特に歴史の助けを借りて、太古の昔から、何らかの形で依存しているあらゆる社会階層において、普通の人は自分が通用するだけのものに過ぎなかったことを心に強く思い起こさなければならない。価値を固定することに慣れておらず、主人が自分に割り当てた価値以外の価値を自分自身にさえ割り当てなかった(価値を創造するのは主人の特別な権利である)。
普通の人間が、現在でも、自分についての意見を常に待ち、本能的にそれに従うのは、並外れた先祖返りの結果であると考えられる。しかし、それは決して「良い」意見だけではなく、悪い、不当な意見にも従う(例えば、信仰深い女性が告解師から学び、一般的に信仰深いキリスト教徒が教会から学ぶ自己評価と自己卑下の大部分を考えてみよう)。
実際、民主的な社会秩序(およびその原因である主人と奴隷の血の混合)のゆっくりとした発展に合わせて、主人が自分自身に価値を置き、自分自身を「よく考える」という、もともと高貴で稀な衝動は、今やますます奨励され、拡大されるだろう。しかし、それには常に、それに対抗する、より古く、より大きく、より根本的に根付いた性向があり、そして「虚栄心」という現象において、この古い性向が若い者を圧倒する。虚栄心の強い人は、自分について聞いた良い意見すべてに(それが役に立つかどうかという観点とはまったく関係なく、またそれが真実か虚偽かという観点にも関わらず)大喜びするが、悪い意見すべてに苦しむ。なぜなら、彼はその両方に服従し、服従していると感じるからだ。それは、彼の中に湧き出る服従という最も古い本能によるものだ。
虚栄心の強い人の血の中にある「奴隷」、奴隷の狡猾さの名残であり、たとえば女性にはまだどれだけの「奴隷」が残っているか! 自分自身について良い意見を抱かせようと誘惑しようとする。そして、その直後に、まるで自分がその意見を呼び起こさなかったかのように、その意見の前にひれ伏すのも奴隷である。もう一度繰り返すが、虚栄心は先祖返りである。
Master–slave morality
Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Master–slave_morality
Master–slave morality (German: Herren- und Sklavenmoral) is a central theme of Friedrich Nietzsche’s works, particularly in the first essay of his book On the Genealogy of Morality.
Nietzsche argues that there are two fundamental types of morality: “master morality” and “slave morality”, which correspond, respectively, to the dichotomies of “good/bad” and “good/evil”. In master morality, “good” is a self-designation of the aristocratic classes; it is synonymous with nobility and everything powerful and life-affirming. “Bad” has no condemnatory implication, merely referring to the “common” or the “low” and the qualities and values associated with them, in contradistinction to the warrior ethos of the ruling nobility. In slave morality, the meaning of “good” is made the antithesis of the original aristocratic “good”, which itself is relabeled “evil”. This inversion of values develops out of the ressentiment the weak feel toward the powerful.
For Nietzsche, a morality is inseparable from the culture that values it, meaning that each culture’s language, codes, practices, narratives, and institutions are informed by the struggle between these two moral structures.
Master morality
Nietzsche defined master morality as the morality of the strong-willed. He criticizes the view (which he identifies with contemporary British ideology) that good is everything that is helpful, and bad is everything that is harmful. He argues proponents of this view have forgotten its origins and that it is based merely on habit: what is useful has always been defined as good, therefore usefulness is goodness as a value. He writes that in the prehistoric state “the value or non-value of an action was derived from its consequences” but that ultimately “[t]here are no moral phenomena at all, only moral interpretations of phenomena.” For strong-willed men, the “good” is the noble, strong, and powerful, while the “bad” is the weak, cowardly, timid, and petty.
The essence of master morality is nobility. Other qualities that are often valued in master morality are open-mindedness, courage, truthfulness, trustworthiness, and an accurate sense of one’s self-worth. Master morality begins in the “noble man”, with a spontaneous idea of the good; then the idea of bad develops as what is not good. “The noble type of man experiences itself as determining values; it does not need approval; it judges, ‘what is harmful to me is harmful in itself’; it knows itself to be that which first accords honour to things; it is value-creating.” In master morality, people define the good based on whether it benefits them and their pursuit of self-defined personal excellence.: loc 1134, loc 1545 Insofar as something is helpful to the strong-willed man, it is like what he values in himself; therefore, the strong-willed man values such things as good because they aid him in a life-long process of self-actualization through the will to power.
Slave morality
According to Nietzsche, masters create morality; slaves respond to master morality with their slave morality. Unlike master morality, which is sentiment, slave morality is based on ressentiment—devaluing what the master values and what the slave does not have. As master morality originates in the strong, slave morality originates in the weak. Because slave morality is a reaction to oppression, it vilifies its oppressors. Slave morality is the inverse of master morality. As such, it is characterized by pessimism and cynicism. Slave morality is created in opposition to what master morality values as good.
Slave morality does not aim at exerting one’s will by strength, but by careful subversion. It does not seek to transcend the masters, but to make them slaves as well. The essence of slave morality is utility: The good is what is most useful for the whole community, not just the strong. Nietzsche sees this as a contradiction. Since the powerful are few compared to the masses of the weak, the weak gain power by corrupting the strong into believing that the causes of slavery (viz., the will to power) are evil, as are the qualities the weak originally could not choose because of their weakness. By saying humility is voluntary, slave morality avoids admitting that their humility was in the beginning forced upon them by a master. Biblical principles of humility, charity, and pity are the result of universalizing the plight of the slave onto all humankind, and thus enslaving the masters as well. “The democratic movement is the heir to Christianity”—the political manifestation of slave morality because of its obsession with freedom and equality.
Society
According to Nietzsche, the struggle between master and slave moralities recurs historically. He noted that ancient Greek and Roman societies were grounded in master morality. The Homeric hero is the strong-willed man, and the classical roots of the Iliad and Odyssey exemplified Nietzsche’s master morality. He calls the heroes “men of a noble culture”, giving a substantive example of master morality. Historically, master morality was defeated, as Christianity’s slave morality spread throughout the Roman Empire.
After the destruction of the Second Temple in Jerusalem in 70 AD, Judea completely lost its independence to Rome, and after the defeat of the Bar-Kokhba revolt in 136 AD it ceased to exist as a national state of Jewish people. The struggle between the polytheistic culture of Rome (master, strong) and newly developed Christian monotheism in former Judea and surrounding territories in the Middle East (slave, weak) lasted continuously until 323, when Christianity became the Roman Empire’s official religion. Nietzsche condemns the triumph of slave morality in the West, saying that the democratic movement is the “collective degeneration of man”. He claims that the nascent democratic movement of his time was essentially slavish and weak. Weakness conquered strength, slave conquered master, re-sentiment conquered sentiment. This ressentiment Nietzsche calls “priestly vindictiveness”, based on the jealous weak seeking to enslave the strong and thus erode the basis for power by pulling the powerful down. Such movements were, according to Nietzsche, inspired by “the most intelligent revenge” of the weak.
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(Google translate)
主人と奴隷の道徳
Wikipedia
貴族
主人と奴隷の道徳(ドイツ語:Herren- und Sklavenmoral)は、フリードリヒ・ニーチェの著作、特に著書『道徳の系譜』の最初のエッセイの中心テーマです。
ニーチェは、道徳には「主人の道徳」と「奴隷の道徳」の 2 つの基本的な種類があり、それぞれ「善/悪」と「善/悪」の二分法に対応すると主張しています。主人の道徳では、「善」は貴族階級の自己呼称であり、貴族や力強く生命を肯定するものすべてと同義です。「悪」には非難の意味合いはなく、支配貴族の戦士精神とは対照的に、「平凡」または「低俗」とそれらに関連する性質や価値を指すだけです。奴隷道徳では、「善」の意味は、元々の貴族の「善」とは正反対のものとされ、それ自体が「悪」と再分類される。この価値観の逆転は、弱者が権力者に対して感じる恨みから生まれる。
ニーチェにとって、道徳はそれを重視する文化と切り離せないものであり、つまり、各文化の言語、規範、慣習、物語、制度は、これら 2 つの道徳構造間の闘争によって形作られる。
主人道徳
ニーチェは主人道徳を、意志の強い者の道徳と定義した。彼は、善とは役に立つものすべてであり、悪とは有害なものすべてであるという見解 (彼はこれを現代の英国のイデオロギーと同一視している) を批判している。彼は、この見解の支持者はその起源を忘れており、それは単に習慣に基づいているだけだと主張している。役に立つものは常に善と定義されてきたため、役に立つことは価値としての善である。彼は、先史時代の状態では「行為の価値または無価値は、その結果から導き出された」が、究極的には「道徳的現象はまったく存在せず、現象の道徳的解釈のみが存在する」と書いている。意志の強い人間にとって、「善」とは高貴で、強く、力強いものであり、「悪」とは弱く、臆病で、臆病で、ささいなものである。
道徳の達人の本質は高貴さである。道徳の達人においてしばしば評価される他の資質は、心の広さ、勇気、誠実さ、信頼性、そして自分の価値に対する正確な認識である。道徳の達人は「高貴な人」から始まり、善についての自発的な考えを持つ。そして、悪についての考えは、善ではないものとして発展する。「高貴なタイプの人は、自分自身が価値を決定するものであると経験する。承認を必要としない。「自分にとって有害なものは、それ自体が有害である」と判断する。自分自身が、最初に物事に名誉を与えるものであると認識する。それは価値を創造する。」主人道徳では、人々はそれが自分にとって有益かどうか、そして自らが定義する個人的な卓越性の追求に基づいて善を定義します。: loc 1134, loc 1545 意志の強い人にとって何かが役立つ限り、それは彼が自分自身の中で価値を置いているものに似ています。したがって、意志の強い人はそのようなものを善として評価します。なぜなら、それらは権力への意志を通じて生涯にわたる自己実現のプロセスで彼を助けるからです。
奴隷道徳
ニーチェによると、主人は道徳を創造し、奴隷は奴隷道徳で主人道徳に応答します。感情である主人道徳とは異なり、奴隷道徳はルサンチマンに基づいています。つまり、主人が価値を置いているものや奴隷が持っていないものを軽視するのです。主人道徳が強者から生まれるのと同じように、奴隷道徳は弱者から生まれます。奴隷道徳は抑圧に対する反応であるため、抑圧者を中傷します。奴隷道徳は主人道徳の逆です。そのため、奴隷道徳は悲観主義とシニシズムを特徴としています。奴隷道徳は、主人道徳が善とみなすものとは反対に作られています。
奴隷道徳は、力で意志を発揮することではなく、慎重な転覆によって意志を発揮することを目指しています。奴隷道徳は主人を超越することではなく、主人を奴隷にすることを目指しています。奴隷道徳の本質は有用性です。善とは、強い者だけでなく、コミュニティ全体にとって最も役立つものです。ニーチェはこれを矛盾と見なしています。強い者は弱い者の大衆に比べて少数であるため、弱い者は強い者を堕落させて、奴隷制の原因(つまり、権力への意志)は悪であり、弱い者がもともと弱さのために選択できなかった性質も悪であると信じ込ませることで、権力を獲得します。謙虚さは自発的であるとすることで、奴隷道徳は、謙虚さが最初に主人によって強制されたことを認めることを避けています。聖書の謙虚さ、慈悲、憐れみの原則は、奴隷の窮状を全人類に普遍化し、その結果、主人をも奴隷にした結果である。「民主主義運動はキリスト教の継承者である」—自由と平等への執着による奴隷道徳の政治的な表現。
社会
ニーチェによると、主人と奴隷の道徳の闘争は歴史的に繰り返されます。彼は、古代ギリシャとローマの社会は主人の道徳に基づいていたと指摘しました。ホメロスの英雄は意志の強い男であり、イリアスとオデュッセイアの古典的なルーツはニーチェの主人道徳を例示しています。彼は英雄を「高貴な文化の男たち」と呼び、主人道徳の実質的な例を示しています。歴史的に、キリスト教の奴隷道徳がローマ帝国全体に広まったため、主人道徳は敗北しました。
西暦70年にエルサレムの第二神殿が破壊された後、ユダヤはローマに対する独立を完全に失い、西暦136年のバル・コクバの反乱の敗北後、ユダヤの国民国家としての存在はなくなりました。ローマの多神教文化(主人、強い)と、旧ユダヤと中東の周辺地域で新たに発展したキリスト教の一神教(奴隷、弱い)との間の闘争は、キリスト教がローマ帝国の公式宗教となった323年まで継続しました。ニーチェは西洋における奴隷道徳の勝利を非難し、民主主義運動は「人類の集団的退化」であると述べた。彼は、当時の初期の民主主義運動は本質的に奴隷的で弱々しいものだったと主張した。弱さが強さを征服し、奴隷が主人を征服し、恨みが感情を征服した。ニーチェはこの恨みを「聖職者の復讐心」と呼び、嫉妬深い弱者が強者を奴隷にし、強者を引きずり下ろすことで権力の基盤を蝕もうとする考えに基づいている。ニーチェによれば、このような運動は弱者の「最も知的な復讐心」に触発されたものである。
ご存知ですか?「奴隷道徳」:「ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた」
隙間時間で読書生活
https://www.mafublog.com/2021/05/06/nietzsche/
「臆病な卑劣さ → 謙虚」
「仕返ししない無力さ → 善い」
「弱者のことなかれ主義 → 忍耐」
弱者であることを美化した表現が用いられ、非利己的が良いとされている風潮が奴隷道徳。
本来人間は利己的な生き物で、道徳に振り回されて自分を否定する必要はない(ニーチェ)。
In every real man a child is hidden that wants to play.
— Friedrich Nietzsche “Also sprach Zarathustra”
真の男のなかにはひとりの子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』