人は、Tameされずに生きることができるのだろうか。おそらく、できないのだと思う。
私たちは生まれたときから、すでに何かによって形づくられている。言葉を覚えれば、その言葉によって世界を分け、考えるようになる。家族から善悪を教わり、学校では時間を守ることや知識の体系を学び、国家から国籍という枠組みを与えられ、社会から働き方や生き方を学んでいく。宗教を信じていなくても、宗教が長い時間をかけて形成してきた倫理や価値観の影響から、完全に自由に生きているとは言いにくい。
科学についても同じだろう。私たちは時計によって時間を知り、数字によって世界を測り、病気になれば医学を頼り、科学的に確かめられたものを信頼して暮らしている。科学そのものが人間を支配しているわけではない。しかし、科学によって世界を見る習慣は、すでに私たちの内側にまで入り込んでいる。
そう考えると、宗教と科学は、人をTameするという点では意外なほど似たところを持っている。もちろん、世界を理解する方法としては大きく異なる。それでも、どちらも人間に世界を見るための一定の枠組みを与え、そのなかで長く暮らしていると、やがて自分が何かの枠組みを通して世界を見ていることさえ意識しなくなる。
Tamingがもっとも深くなるのは、何かを強制されたときではなく、それを当然だと思うようになったときなのかもしれない。
これは国家についても同じだ。「私は日本人だ」と考えることと、「私は日本人でしかあり得ない」と考えることは違う。宗教を信じることと、その宗教の外には意味のある世界が存在しないと思うことも違う。科学を信頼することと、科学によって測定できないものには意味がないと思うことも違う。問題は何かの影響を受けることではなく、その外側にある世界を想像できなくなることなのだろう。
だとすれば、TameされることとTameされないことを単純に二つに分けることにも、あまり意味はない。そもそも完全にUntamedな人間など、おそらく存在しない。社会から逃げたとしても、そこで物事を考えるために使っている言葉は社会から受け取ったものだ。国家を否定していても、国家への反対を中心に世界を考えているなら、依然として国家がその人の思考を規定している。宗教を否定することに人生を費やせば、宗教から完全に自由になったとは言いにくい。科学を無条件に信奉することと、科学を無条件に否定することも、方向は反対であっても、どちらも科学を中心に世界を見ているという意味では似ている。
Tamerに逆らうだけでは、Tamingから逃れることにはならない。
では、自由とは何なのだろう。
自由とは、何にも影響されていない純粋な自分になることではないのかもしれない。そんな自分は、おそらく最初から存在しない。むしろ、自分が何によって形づくられてきたのかを知り、それとの距離を変えることができることではないだろうか。宗教を信じながら、その宗教を疑うことができる。国家に所属しながら、国家を批判することができる。科学を信頼しながら、科学では答えられない問いがあることを認めることができる。会社で働きながら、会社の外にも人生があると思うことができる。日本に暮らしながら、まったく別の社会で暮らしている自分を想像することもできる。
大切なのは、何にも依存しないことではない。依存する相手や、自分と世界との関係を組み替えることのできる余白を失わないことなのだと思う。
そのためには、ときどき自分の枠組みを疑わなければならない。しかし、これも簡単ではない。自分の枠組みを疑っている自分自身も、また別の枠組みのなかから世界を見ているからだ。一つの宗教を捨てて別の思想を絶対視するようになれば、Tamerが交代しただけなのかもしれない。だから必要なのは、唯一の正しい枠組みを探し出すことではなく、枠組みと枠組みのあいだを移動できることなのだろう。
そのためには、自分とは正反対の考えを持つ人を、愚かな人だと決めつけないことも大切になる。自分が無宗教なら、なぜ知的で誠実な人が神を信じるのかを考えてみる。自由を大切にするなら、なぜ人間はときに自由より秩序を求めるのかを考えてみる。そしてTamingという考え方に惹かれているなら、Tamingでは説明できないものを探してみる。
そうすると、Tamingだけでは捉えきれないものが意外にたくさん残ることに気づく。偶然の出会いによって人生が変わることもあれば、何の役にも立たない遊びに夢中になることもある。見知らぬ人を見返りもなく助け、音楽を聴いて説明できない涙を流し、それまで存在しなかったものをつくることもある。長く信じてきたものが、ある日突然信じられなくなることさえある。
もちろん、こうした経験も文化や言葉や社会から完全に自由なわけではない。それでもTamingだけでは説明しきれない何かを残している。Tamingが、数多くの可能性のなかから一部を選び、それを反復し、固定していく運動だとすれば、そこには逆の方向へ向かう働きもあるのではないだろうか。固定されていたものを相対化し、閉じられていた可能性をもう一度開き直す働きである。
それを、Untamingと呼んでもいいのかもしれない。
Untamingとは、文明を捨てて野生へ戻ることではない。言葉を忘れ、国家を捨て、科学を拒み、社会の外へ逃げることでもない。Tamingによって一つしかないように見えていた世界に、「ほかにもあり得る」という余白を取り戻すことだ。
そう考えると、自由も少し違って見えてくる。自由とはTameされていない状態ではなく、Tameされた世界のなかにいながら、そこに小さな隙間を見つける能力なのではないだろうか。必要なら場所を変え、考えを変え、所属を変え、信じていたものを疑い、自分が正しいと思っていた場所から少し離れてみる。そして、まだ存在していない別の生き方を想像する。
実際にそこから出ていくかどうかは、それほど重要ではない。「ここから出ることもできる」と思えることのほうが大切なのかもしれない。Tamingの完成とは、人が檻に入れられることではなく、檻の外を想像できなくなることなのだとすれば、Untamingは檻を壊すところから始まるのではなく、まだ檻のなかにいながら、その外側にも世界が続いていることを思い出すところから始まる。
そして、このUntamingは個人の心のなかだけで起きてきたことではない。歴史を振り返ってみれば、人間そのものが、TameとUntameを繰り返しながら文明をつくってきたようにも見える。
人間の歴史は、たしかに長いTamingの歴史だった。人は植物をTameし、動物をTameし、土地をTameし、やがて人間同士をTameし、国家や宗教や法や科学や市場といった巨大な仕組みをつくり上げた。そして、それらの仕組みのなかで生きることのできる人間を教育し、訓練し、分類し、組織してきた。
農耕を始めれば、人は土地を離れにくくなる。国家ができれば国民として登録され、税を払い、法に従うことを求められる。宗教が制度化されれば、何を信じ、どのように生き、何を善悪と考えるかについて一定の枠組みを与えられる。近代になると、学校、会社、市場、資格、行政、医学、科学などが、人間の生活をさらに細かく分類し、標準化していった。
こうしてTamingだけを見ていれば、文明史とは、人間が世界をTameすると同時に、人間自身も次第にTameされ、自由を失っていった歴史のように見えてしまう。
しかし、人間は自らつくり上げた秩序のなかに、完全に収まったことなど一度もなかったのではないだろうか。定住する人々がいれば移動する人々がいて、国家が領域を広げればその境界を越えて生きようとする人々がいた。宗教が教義を定めれば異端者や改革者が現れ、身分が人間の生き方を固定すれば、そこから離れようとする者が現れた。国家が強くなれば自由を求める動きが生まれ、社会が一つの正しい生き方を要求すれば、それとは違う人生を試す者が出てきた。
しかもUntamingは、必ずしも革命や反乱のような大きな出来事として現れるわけではない。住み慣れた村を離れ、親とは違う仕事をし、別の土地で暮らし、異なる宗教を信じ、誰も使わなかった言葉を使い、新しい音楽をつくる。それまで当然と思われていた家族の形や働き方を少し変えてみる。歴史には、そうした名前の残らない小さなUntamingも無数にあったはずだ。
ここでいうUntamingは、文明以前の状態に戻ることではない。農耕を捨てて狩猟採集へ戻ることでも、国家をなくすことでも、科学を否定することでもない。いったん固定された生き方を相対化し、それまで閉じられていた可能性をもう一度開くことを意味する。
この視点から歴史を見ると、宗教改革も革命も、少し違って見えてくる。宗教改革は、既存の宗教的権威によって固定されていた信仰のあり方を揺さぶり、それまで閉じられていた可能性を開いた。しかし、そこから生まれた新しい宗教も、やがて教義を定め、組織をつくり、自らの正統と異端を区別するようになった。革命もまた、身分や特権を壊して人間を古い秩序から解放する一方、成功すれば新しい政府や法律をつくり、税を集め、学校や軍隊を整えなければならない。解放のために生まれた新しい秩序が、やがて再び人間をTameするようになる。
近代社会そのものも同じように見ることができる。近代は、人間を村落共同体や身分、宗教、家族などの強い拘束からかなり解放した。人は生まれ育った場所を離れ、親とは違う職業を選び、異なる信仰を持ち、結婚相手を選び、政治を批判することができるようになった。しかし、その自由な個人を支えるために、学校、会社、市場、貨幣、資格、保険、行政、科学的管理といった新しい仕組みも発達した。人間は古い共同体からUntameされる一方で、近代社会のなかで生きられる個人へと、別の仕方でTameされていった。
考えてみれば、これは不思議なことではない。Untamingによって閉じられていた可能性が開かれても、そのなかから新しい生き方が選ばれ、多くの人がそれを受け入れ、反復し、次の世代へ伝えるようになれば、そこには新しい秩序が生まれる。そして秩序が長く続けば、それは次第に人間にとっての「普通」になり、再び人をTameし始める。かつて異端だったものが正統になり、昨日の反抗が今日の常識になり、自由を求めて生まれた生き方が、いつの間にか「こう生きるべきだ」という新しい規範に変わることさえある。
そして、その新しい規範が硬くなりすぎれば、どこかで再びUntamingが始まる。
文明史をそうした動きとして見るなら、それは同じ場所を行ったり来たりする振り子ではない。一度農耕を知った人間が、農耕を知らなかった人間に戻ることはできない。文字を知った社会が文字以前へ戻ることも、科学を知った社会が科学以前へ戻ることも難しい。インターネットを経験した社会も、それ以前とまったく同じ社会には戻れないだろう。
だからTamingとUntamingの動きは、円というより螺旋に近いのかもしれない。
人間は秩序をつくり、その秩序によってTameされる。やがてそこに息苦しさや矛盾が生まれ、誰かが別の可能性を試し始める。そのUntamingが新しい生き方を生み、それが広がれば新しい秩序になり、その秩序がまた次の世代をTameする。この繰り返しのなかで、社会は同じ場所へ戻るのではなく、過去につくられた制度や知識や技術を抱えながら、少しずつ別の場所へ移っていく。
この螺旋を考えると、自由を文明以前に存在した原初的な状態として考える必要もなくなってくる。狩猟採集民だけが本当に自由で、その後の人間は文明が進むほど不自由になっていった、という単純な話ではない。農耕によって失われた自由もあれば、農耕によって初めて可能になった生活もある。国家によって奪われた自由がある一方で、国家がつくった法や秩序がなければ守れなかった自由もある。科学も人間の世界観を一定の方向へTameしたかもしれないが、それ以前の権威や迷信、あるいは自然に対する無力さから人間を解放した側面もある。
つまり、一つのTamingが、別のTamingから人間をUntameすることさえある。
そうなると、Tamingを悪、Untamingを善と考えることもできない。Tamingがなければ、秩序を維持し、言葉や知識や技術を世代から世代へ伝えていくことが難しくなる。一方、Untamingがなければ、いったん成立した秩序が唯一可能な世界となり、人間はその外側を想像できなくなってしまう。
文明には、おそらく両方が必要なのだろう。Tamingは世界に形を与え、その形を持続させる。Untamingは、その形が唯一の可能性ではないことを思い出させ、世界が硬直しすぎるのを防ぐ。人間は、この二つの働きのあいだを行き来しながら文明をつくってきたのかもしれない。
そう考えると、個人について考えてきたことが、そのまま社会にも当てはまる。
自由な個人とは、何にもTameされていない人ではなかった。自分が何によって形づくられているかを知り、その枠組みとの距離を変え、必要なら別の枠組みへ移ることのできる人だった。同じように、自由な社会とは、何の規則も制度も持たない社会ではないのだろう。自らの規則を疑うことができ、異質なものを完全には排除せず、一つの生き方をすべての人に要求しない社会。そして、そこにいる人が必要なら別の場所へ移り、異議を唱え、これまでとは違う生き方を試す余地を残している社会である。
言い換えれば、自由な社会とは、自らをTameしながら、同時に自らをUntameする余地も残している社会なのかもしれない。
こうして見ると、文明は人類が世界を次々に支配し、最後には自らも完全にTameしてしまうまでの一直線の歴史ではなくなる。人間は世界をTameすることで文明をつくったが、自らがつくった秩序に完全に収まることもなかった。秩序が人間を固定するたびに、その隙間から別の可能性を試す者が現れ、そのUntamingから生まれた可能性も、広がり制度になれば、再び人間をTameした。そうして人間は、秩序をつくってはそこから余白を取り戻し、その余白からまた新しい秩序をつくりながら、何度も世界をつくり直してきた。
だとすれば文明の歴史とは、Tamingが一方向に進んできた歴史というより、TamingとUntamingが互いを生み出しながら続いてきた、終わりのない螺旋だったのかもしれない。
そして自由も、その螺旋の外側にあるのではない。
自由とは、おそらく螺旋を止めない力なのだ。一つの秩序を永遠のものと思わず、いまの世界だけが可能な世界だと思わず、完成したように見える世界のどこかに、もう一度小さな隙間を見つける。個人についてそうだったように、文明にとってのUntamingも、すべてを壊すところから始まるわけではない。
「この世界は、これ以外でもあり得る」と、誰かが想像してみる。
その小さな想像から、次の螺旋が始まるのかもしれない。