そばにいても恋しい

韓国の詩人류시화(リュ・シファ)の詩集に、『그대가 곁에 있어도 나는 그대가 그립다(君がそばにいても僕は君が恋しい)』という作品がある。蓮류시화の代表作を集めたこの詩集について、韓国の書店は、彼の詩を貫くものを「対象への愛」と「透明な凝視」と表現し、その詩は何かを作り出す「発明」というより、すでにそこにあるものを見出す「発見」に近いと紹介している。

류시화の作品世界には、木や花、鳥、雨、星、旅、傷、愛といったものが繰り返し現れる。別の詩集『외눈박이 물고기의 사랑(片目魚の愛)』にも、蝶、木、花、霧、雲、鳥、星といった身近な存在をめぐる作品が並んでおり、その作品についても、日常の言葉を通して見慣れたものの中にある未知のものを発見するところに特徴があると紹介されている。

この「発明ではなく発見」という言葉が、Tamingについて考えてきた私には妙に気にかかる。

Tamingとは、世界にあるものを人間の側へ引き寄せる運動だったのではないかと思うからである。植物を作物にし、動物を家畜にし、森を資源にし、水を灌漑や発電に利用し、土地に境界を引く。そこでは、まだ人間のものではない何かに働きかけ、それを理解可能で、予測可能で、利用可能なものへと変えていく。

人間同士の関係にも、それと似たところがある。

最初に出会ったとき、相手はほとんど未知の人である。何を考えているのかわからず、何を喜び、何を恐れ、どんな過去を生きてきたのかも知らない。その知らなさが相手への関心を生み、もっと知りたいという気持ちを起こす。しかし親しくなれば、相手について多くのことを知るようになり、いつしか恋人、妻、夫、親、子、友人といった名前が関係に与えられる。そして名前には役割が伴い、「この人はこういう人だ」「この人ならこう考える」「この人ならこんなときこうする」という理解ができあがっていく。

そのこと自体が悪いわけではない。人が一緒に暮らすためには、ある程度まで互いを知り、互いの振る舞いを予測できなければならない。しかし、知ることと、相手を知り尽くしたと思うこととのあいだには、小さいようでいて大きな違いがある。

そこに「君がそばにいても僕は君が恋しい」という言葉を置いてみると、とても不思議な景色が見えてくる。

普通なら、恋しさは距離によって生まれる。遠くにいるから会いたくなり、いないから恋しくなる。しかし、ここでは相手はすでにそばにいる。それなのに恋しい。身体の距離はなくなっているのに、その人と自分との間には、なお埋めることのできない距離が残っているのである。

それを愛の不完全さと考えることもできるだろう。しかしTamingという視点から眺めると、むしろ反対に見えてくる。そばにいるのに恋しいということは、そばにいる相手が、まだ自分のものになりきっていないということなのではないだろうか。

何十年か一緒に暮らしていても、その人のすべてを知っているわけではない。朝、窓辺で外を見ている相手が何を考えているのか、自分にはわからないことがある。昔の誰かを思い出しているのかもしれないし、昨日の出来事を考えているのかもしれないし、本当に何も考えず、ただ鳥を見ているだけなのかもしれない。

「何を考えていたの」と尋ねて、「別に何も」と言われたら、その「別に何も」をそのままにしておくこともできる。

これは思っているより難しい。愛していればいるほど、その人を理解したいと思うからである。悲しんでいれば理由を知りたいし、黙っていれば心の中を知りたい。その人の喜びには自分も加わりたいし、その人が自分とは関係のないところで幸せそうにしていれば、ときには寂しさを感じることさえある。

けれども、愛には「理解する」という方向だけではなく、理解できないものを残しておくという方向もあるのではないだろうか。

以前、「何も書かなかった人」のことを考えた。その人はある午後、一人で海辺へ行き、三時間ほど海を眺め、風が冷たくなったので家へ帰る。家には愛する人がいて、二人で夕食を食べる。「どこに行っていたの」と聞かれ、「海を見ていた」と答える。「何を考えていたの」と尋ねられ、「別に何も」と答える。

そこで、相手がそれ以上聞かない。

その三時間を愛の中へ取り込もうとしないのである。

海を眺めた経験について話してもらう必要もなく、その時間が二人の関係にとってどんな意味を持っていたかを確かめる必要もない。相手には、自分の知らない三時間があり、その三時間については、自分が愛している人にさえ説明する必要がない。二人は一緒に暮らしているけれど、互いの人生のすべてを共有しているわけではない。

それは愛の不足ではなく、むしろ愛の一つの成熟した形なのかもしれない。

誰かを愛すれば、その人に少しTameされる。待っている人がいれば帰ろうと思い、病気になれば心配し、苦しんでいれば自分の時間を差し出す。だからUntamingを、誰からも自由になることだと考える必要はないだろう。愛する人からも、家族からも、友人からも自由になり、誰にも必要とされず、誰をも必要としない人間になることが、自由の完成とは思えない。

むしろ、誰かと深く結びつきながら、それでも互いのなかに、相手によってTameされない場所を残しておくことができる。その場所では、相手の喜びが必ずしも自分のためにある必要はなく、相手が考えていることをすべて知る必要もなく、その人の時間のすべてを「私たちの時間」に変えなくてもいい。

そこに、愛の中の小さなUntamingがある。

だから류시화の詩について語られる「対象への愛」と「透明な凝視」という言葉が興味深いのである。 見ることは、必ずしも所有することではない。理解することでも、説明することでも、対象にこちら側の意味を与えることでもない。そこにあるものを、そこにあるものとして見ていることもできるのだとしたら、その眼差しは、世界を次々と人間の用途の中へ取り込んできたTamingとは少し違った方向を向いている。

そして、それが木や鳥や花に対して可能ならば、愛する人に対しても可能なのではないだろうか。

相手を「私の妻」「私の夫」「私の恋人」という言葉の中に収めきらない。もちろん妻であり、夫であり、恋人なのだけれど、その関係によってその人の全体を説明しない。その人には自分と出会う前の時間があり、自分の知らない記憶があり、自分の理解とは関係なく続いていく感覚や思考があり、その人自身にも説明できない内面があることを認める。

そうすると、愛することの意味も少し変わってくる。

愛することは、二人のあいだにある距離を完全になくすことではない。近づけば近づくほど相手について多くを知りながら、それでもなお、その人が自分とは別の世界であることを忘れないことである。愛によって二人が一つになるのではなく、二人のまま、できるだけ近くにいる。

そこまで考えると、「君がそばにいても僕は君が恋しい」という言葉は、単なる恋愛の切なさ以上のものに聞こえてくる。

そばにいるから、もう知っている、とは思わない。長く一緒にいるから、もうわかっている、とも思わない。声を知り、癖を知り、過去を知り、同じ家で眠り、人生の長い時間を共有していてもなお、その人の内部には、自分の知らない場所が残っている。そのわずかな遠さを愛の失敗として埋めようとするのではなく、むしろその人が自分とは別の存在であり続けている証として大切にする。

Tamingが、未知なるものを既知のものへ変え、違うものをこちら側へ取り込み、名前をつけ、役割を与え、予測可能なものにしていく運動なのだとしたら、愛の中のUntamingは、その逆を静かに引き受けることなのかもしれない。相手を知らないままでいるのではなく、どれほど知っても知らないところが残ることを受け入れ、どれほど近づいても最後の距離を消そうとせず、愛しているからこそ、その人の内部に自分の入っていかない場所を残しておく。

そこには所有を拒絶するという強い言葉よりも、もっと静かな自由がある。海を眺めて帰ってきた人に、「何を考えていたの」と尋ね、「別に何も」と答えられたとき、その答えを不足だと思わず、その人のなかに残しておく。そして二人で食卓につき、別の話をしながら夜を過ごす。その三時間について知らないままでも、二人は十分に近くにいる。

もしかすると、それが「そばにいても恋しい」ということなのだろう。

愛する人は、そばにいる。それでも、その人のすべてがこちら側へやって来ることはない。相手の内側には、自分の知らない海があり、自分がその海の所有者になる必要もない。その海を埋めず、名前をつけず、ただ近くにいることができるなら、相手をTameしない愛というものも、わずかながら可能なのかもしれない。

そして、いつまでたっても残っているその距離こそが、寂しさではなく恋しさを生むのだとすれば、류시화の『그대가 곁에 있어도 나는 그대가 그립다』という言葉は、不思議なほど深く響いてくる。 そばにいてもなお恋しいということは、愛する人がいまも自分の所有物にも、自分の理解にもなりきらず、一つの未知の世界として生き続けているということなのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です