知られざるもの、知られざること

深い海の底には、まだ人間の知らない生き物がいる。それがどれほどいるのかを正確に知ることはもちろんできない。知らないものの数を数えることには、そもそも矛盾があるからだ。それでも海洋では現在も新しい種の記載が続いており、Ocean Censusの取り組みでは2025年だけでも1,121種が新たに記載されたというのだから、海について人間が知っていることは、私たちが思っている以上に限られているのだろう。

そう考えると、深海の暗闇のなかで、これまで一度も人間に見つけられたことのない小さな生き物が、今この時間にも動いているのではないかという想像が浮かんでくる。その生き物には人間がつけた名前がなく、図鑑にも載っておらず、写真もないのだろうが、もちろんその生き物自身は、自分が人間に知られていないことなど知らない。静かな海底で生まれ、何かを食べ、何かから逃げ、おそらく仲間と出会い、やがて死んでいく。そしてそのように、人間に発見されることもなく生まれて死んでいった生命は、これまで無数にあったはずであり、その一生について私たちは永遠に何も知ることができない。

ここで、その生き物を「無用な生き物」と呼びたくなるけれど、少し考えてみると、それさえ違うように思えてくる。無用というのは人間の言葉であり、何かを「役に立たない」と判断するためには、その前に、それが役に立つかどうかを考えなければならない。ところが、人間に一度も発見されたことのない深海の生き物には、その問いそのものが向けられておらず、食べられるのか、薬になるのか、研究に使えるのか、生態系にどんな価値を持つのかと尋ねる人さえいない。その生き物は有用なのでも無用なのでもなく、人間がつくった「有用」と「無用」という一本の線の上に、まだ置かれていないのである。

このことを考えていると、これまで考えてきたTamingというものが、少し違った姿に見えてくる。人間は世界にあるものを発見すると名前をつけ、分類し、その性質を調べてきた。それは世界を理解するための大切な営みであり、それだけを支配と呼ぶべきではない。しかしその先で私たちは、理解したものを利用する方法もしばしば考えてきた。植物を見つければ食べられるかを試し、薬になるかを調べ、栽培できるものなら栽培する。動物についても、食料にできるか、働かせることができるか、人間の近くで繁殖させることができるかを試してきた。そうして、それまで人間の世界の外側にあったものが、名前を与えられ、分類され、性質を記述され、人間が理解できる世界のなかに場所を与えられ、その一部はさらに資源となり、食料となり、商品となり、労働力となっていった。Tamingを広い意味で捉えるなら、その長い流れのなかには、世界を人間にとって理解可能なものへ変え、やがて利用可能なものへ変えていく運動も含まれているのかもしれない。

しかし深海には、まだその運動が届いていないところがある。そこにいる名もない生き物は、人間から自由になろうとしているわけでも、人間に抵抗しているわけでも、Untamingされようとしているわけでもなく、ただ人間との関係自体がまだ始まっていないのである。その意味では、それはUntamedというより、まだ一度もTamedされたことがなく、しかも自分がそのような状態にあることさえ知らない存在なのだろう。

そんな生き物のことを考えていると、以前想像した「何も書かなかった人」のことを思い出す。その人は詩人でも思想家でもなく、歴史に名前を残すような人でもなかったが、ある日の午後、海辺へ行って三時間ほど海を眺め、風が冷たくなったので家へ帰った。海について詩を書くことも、写真を残すこともなく、その三時間について人生の意味を考えることもなかった。家には愛する人がいて、「どこにいたの」と聞かれれば「海を見ていた」と答え、二人で夕食を食べたかもしれない。その人が何を考えていたのかと聞かれても、「別に何も」と答え、それ以上説明することなく一日が終わったのかもしれない。私たちはその人の名前を知らず、これからも知ることはないけれど、人間の歴史の大部分を生きたのは、おそらくそのような人たちだったのではないだろうか。

私たちが知っているのは、詩を書いた人、国を作った人、戦争をした人、建物を建てた人、発明した人、思想を残した人であり、何かを残したからこそ、その人が存在したことを後世の私たちは知ることができる。そのため歴史を眺めていると、人間は何かを成し遂げるために生きてきたような錯覚が生まれる。しかし実際には、名前も記録も残らなかった膨大な数の人々も、それぞれの一生を生きていた。誰かを好きになったこともあれば、嫌いな人もいただろうし、朝の寒さを感じ、雨の匂いを嗅ぎ、食べ物がおいしいと思い、子どものころの記憶をふと思い出し、誰かとくだらないことで笑い、ときには一人でぼんやり空や海を眺めたこともあっただろう。そして、そのほとんどは何にも記録されず、その人とともに消えていったけれど、記録されなかったからといって、その時間が存在しなかったわけではない。

ここで、深海の名もない生き物と、何も書かなかった人が、不思議に重なって見えてくる。深海の生き物には人間がつけた名前がなく、その人にも歴史に残る名前はなく、深海の生き物が人間の役に立ったかどうかを誰も知らないように、その人が文明にどれほど貢献したかも後世の誰にもわからない。しかし、未知の生き物が人間に発見されなかったからといって生きていなかったわけではないのと同じように、人間もまた、何も残さなかったからといって何も生きなかったわけではなく、この二つの違いは、私にはとても大切なものに思える。

文明は、残ったものによって過去を記憶する。作品が残り、建築が残り、記録が残り、名前が残るため、「残す」ということと「生きる」ということが、いつのまにか同じ方向に並べられてしまう。何かを成し遂げた人生は豊かで、何も残さなかった人生は空白だったように感じられるけれど、生きるということは本来、記録されることとは関係がないはずである。深海の生き物が誰にも観察されなくても一生を生きるように、人間の内側で起こった無数の出来事も、誰にも知られず、何にも変換されず、その人自身とともに消えていっていいのであり、それを惜しいと思うこと自体、残すことに慣れすぎた私たちの側の感覚なのかもしれない。

現代では、以前にも増して多くのものを残すようになった。旅行へ行けば写真を撮り、食事をすれば記録し、考えたことを書き、歩いた距離を測り、眠った時間まで保存する。もちろん人生の一部を記録することは楽しいし、後から振り返ることにも意味があるけれど、あらゆる時間を記録へ変えてしまえば、いつのまにか私たちは、生きたことと残したことを区別できなくなるかもしれない。しかし記録しなかった時間も生きた時間であり、誰にも話さなかった喜びも確かに喜びであったはずで、名前のつかなかった感情もそこにあり、自分自身でさえ忘れてしまった午後も、そのときには疑いなく自分の人生の一部だった。

Tamingとは、世界にあるものを人間の世界へ引き寄せ、名前を与え、意味を与え、ときには用途を与えていく営みだったと考えることができる。しかし世界のすべてがそこへ入らなければならないわけではなく、それは人間の一生についても同じなのだろう。自分の経験のすべてに名前をつけ、すべてを意味へ変え、すべてを記憶や作品や成長へ変換する必要はなく、人間の内側にも、まだ誰にも発見されていない深海のような場所が少しくらい残されていていい。

しかも、その場所は他人に対して隠されているだけではなく、自分自身にさえ利用されていなくていいのだと思う。自分を知るための時間でもなければ、心を癒やすための時間でも、人生を豊かにするための時間でもなく、ただ生きているうちに静かに過ぎていく時間であっていい。海を眺めていた三時間について、後になって「あの時間のおかげで自分は変わった」と語る必要もなく、愛する人にその意味を説明する必要もない。その時間は何かに変わることなく、そのまま本人の内側を流れて消えていっていいのだ。

だから、深海の暗闇のどこかで、人間に一度も発見されることなく一生を終える小さな生き物を想像すると、私は少し安らかな気持ちになる。その生き物は人間にとって役に立つ存在でも、役に立たない存在でもなく、そのような評価そのものと無関係なところで生きている。その生き物が人間のことを知らないように、人間もその生き物のことを知らないまま、二つの世界は交わることなく、それぞれに存在している。

そして人間にも、そのような部分が少しくらい残っていていいのではないだろうか。社会に知られている自分があり、愛する人に知られている自分があり、自分自身がよく知っている自分もあるけれど、それらだけで人間のすべてを埋め尽くす必要はない。そのどこにも属さず、自分でさえ意味を見つけようとしない時間が、人生の奥のほうに小さな深海のように残されていてよく、そこには有用か無用かという問いも、自分を成長させたかどうかという問いも届かないまま、その人だけの時間が静かに流れていていい。

もしUntamingというものがあるとすれば、それはTamingされた世界から完全に逃げ出すことではなく、自分の人生のすべてを発見し尽くし、意味づけ尽くし、利用し尽くそうとしないことなのかもしれない。誰にも知られなかった深海の生き物が、それでも一つの生を生きたように、人間にも、誰にも知られず、何にも変換されず、何も残さないまま消えていく時間があっていいのであり、何も残さなかったことと何も生きなかったこととは、本来まったく違うことなのだろう。

人間の知らない生命が今もどこかの深い海の底で静かに生き、人間から名前を与えられることも、役に立つかどうかを問われることもないまま、その生を生きているかもしれないという想像は、だから私にはどこか救いのように感じられる。人間もまた、自分という存在の隅々まで社会や他人や自分自身の眼差しにさらし、その一瞬一瞬を意味や成果へと変えていく必要はなく、人生のどこかには、誰にも発見されず、何のためにも使われず、何にもならないまま静かに過ぎていく時間を残しておいていい。その時間もまた、ほかのどの時間にも劣らず、その人が確かに生きていた時間なのだ。

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