人間には、Tamingを成立させやすい心理的な傾向が、長い進化のなかで組み込まれてきたのではないだろうか。そう考えると、人間がなぜこれほど大きな社会をつくることができたのか、そして同時に、なぜこれほど容易に社会のなかへ取り込まれてしまうのかという、一見すると反対方向を向いている二つの現象が、実は同じところから生まれているように見えてくる。
これは、人間が生まれながらにして誰かに支配されたがっているということではないだろう。人間はむしろ、何も予測できない世界のなかで生きることを苦手としているのかもしれない。何をしてよく、何をしてはいけないのか、誰を信頼でき、誰を警戒しなければならないのか、今日交わした約束が明日も守られるのか。そうしたことが何も分からなければ、大勢の人間が一緒に暮らすことは難しい。周囲の人間の表情を読み、集団の規範を理解し、自分の行動をそれに合わせ、相手もまた同じ規則に従うだろうと期待する。人間が長い集団生活のなかで、そうした能力を身につけてきたとしても不思議ではない。
そしてそれは、人間に途方もなく大きな力を与えた。血縁関係のない人間と食物を分け、共同で子どもを守り、仕事を分担し、約束を交わし、知識を伝え、ついには互いに顔を見ることさえない膨大な数の人間が、ひとつの社会をつくれるようになった。しかし、ここには奇妙な反転がある。文明を可能にした能力そのものが、その文明によって人間をTameする能力にもなったことである。
人間は規範を理解できるから法律に従うことができ、他人の評価を想像できるから世間の目を気にする。共同体への帰属を求めるからその価値を自分の価値として受け入れ、物語を共有できるから、宗教や民族や国家のような目には見えないもののためにも行動できる。しかもTamingが進んでいくと、人間は外側から命令されなくても、自分で自分をTameするようになり、やがて他人をTameする側にも回っていく。警察が見ていなくても隣人が隣人を見て、教師がいなくても子ども同士で「普通」を要求し、国家が命令しなくても「まともな人ならこうする」と人々自身が互いの行動を修正する。Tameされた人間自身が、いつの間にかTaming装置の一部になっていく。
けれども、ここでTameされた人間を「おとなしい人間」と考えてしまうと、Tamingという現象の大切な部分を見失う。Tameされることは、おとなしくなることではない。攻撃性と協力性は人間のなかで必ずしも対立しておらず、家族には優しく、隣人には親切で、仲間のためには自分を犠牲にできる人間が、共同体の外に置かれた者に激しい攻撃性を示すことは十分にありうる。むしろ仲間への忠誠心や責任感が強いからこそ、「仲間を守れ」という気持ちと「敵を攻撃せよ」という命令が結びついたとき、その協力性そのものが攻撃する力に変わることさえある。
文明は、人間から攻撃性をなくしたのではないのかもしれない。個人的な復讐を裁判や刑罰へ変え、ばらばらの暴力を軍隊へ変え、いつ噴き出すか分からなかった攻撃性を社会的な規則の内部へ取り込み、必要とされる場所へ向けられるようにした。そう考えれば、人間の恐ろしさは攻撃性を持っていることだけにあるのではない。人間は協力して攻撃することができる。文明は暴力を消し去ったのではなく、暴力さえTameしてきたのである。
こう考えてくると、Tamingという言葉に最初から「支配」や「抑圧」という価値判断を含ませることにも無理があるように思えてくる。人間は火をTameし、植物をTameし、動物をTameし、水をTameし、土地をTameしてきた。しかし火をTameするということは、火から燃える力を奪うことではない。馬をTameすることも、馬から走る力を奪うことではない。その力を残しながら、人間との関係のなかで、それまで予測できなかった振る舞いをある程度予測できるものへ変えていく。その意味でTamingとは、予測不能なものを、その性質を完全には失わせることなく、ある関係のなかで予測可能なものへ変えていく過程と考えるほうがいいのではないだろうか。
そう定義すれば、Tamingそのものには善も悪もない。火を必要なときに燃やし、植物を決まった季節に収穫し、水を必要な場所へ運び、人間が互いの行動をある程度予測しながら暮らせるようにする。その意味では、文明とは世界を一方的に征服してきた歴史というより、世界に満ちていた予測不能性を少しずつTameしてきた歴史だったと見ることができる。
しかも、その関係は一方向ではない。人間が麦を変えれば、麦を育てる生活が人間を定住させ、人間の暮らしを変える。人間が馬をTameすれば、馬によって人間の移動距離が延び、戦争や物流や国家の形まで変わっていく。人間がコンピューターをつくれば、人間自身の働き方や考え方がコンピューターに合わせて変わっていく。Tamingとは一方が他方を完全に支配することではなく、互いが互いを変えていく関係であり、その相互作用の力が常に対称とは限らない、と考えたほうが実際の文明に近い。
そうなると、本当に問わなければならないのは、Tamingが善か悪かということではなく、どのようなTamingが望ましく、どこからTamingが危険になるのかということになる。
火をTameしても、火の力そのものを消す必要はない。馬をTameしても、馬の能力を奪ってしまえば意味がない。そして人間についても、おそらく同じことが言える。教育によって言葉や規則を教え、衝動を制御することを覚えたとしても、好奇心や遊びや異議申し立てまで消してしまう必要はない。法律によって暴力を抑え、知らない人間同士でも安心して暮らせる社会をつくったとしても、人間の行動のすべてを法律が決める必要はない。望ましいTamingとは、対象をある程度予測可能にしながら、その対象が自ら変わっていく可能性まで奪わないTamingなのだろう。
だとすれば、危険なのはTamingそのものではなく、Tamingが完全になろうとすることなのかもしれない。
国家が土地を測量して住所をつけ、出生を記録し、人から税を集めるからこそ、郵便や学校や病院や道路や社会保障といった仕組みをつくることができる。しかし、その仕組みが、人がどこへ行き、何を読み、誰と付き合い、何を考えているのかまで完全に知ろうとし、その人の未来の行動さえ決めようとするようになれば、同じTamingでありながら、その性質は変わってくる。危険なのはTamingが強いことそれ自体よりも、そこから別のあり方へ移る可能性が閉じてしまうことなのだと思う。
学校に入っても別の学校へ移ることができる。会社に勤めても辞めることができる。共同体に属してもそこから離れることができる。ある思想を信じても、いつかそれを疑うことができる。そうした可逆性が残っているかぎり、人間はTameされながらも、Tamingとの間にわずかな距離を保つことができる。しかし、入ることはできても出ることができず、従うことはできても疑うことができなくなったとき、Tamingは閉じていく。
だから、社会には「余白」が必要になる。
すべてを規則にしなくてもいい。すべての人間を完全に理解しなくてもいい。人間には、国家にも会社にも学校にも家族にも、そして時には自分自身にも説明できない部分が残っていてい。行政から見れば無駄に見え、企業から見れば分類不能に見え、AIから見れば予測できない行動として現れるかもしれない。しかし、その「分からなさ」を、すべて解消されるべき未熟さとして扱う必要はない。誰にも知られないこと、役に立たないこと、予想とは違う行動をすること、昨日までの自分とは違う人間になることができる余地は、人間の自由を支えている一部分だからである。
その意味では、いいTamingとは予測可能性を高めながら、予測不能性をゼロにしようとはしないTamingなのだと思う。
そしてこれは、自由のためだけに必要なのではない。多様性を残すためにも必要になる。畑にまったく同じ性質の作物だけを植えれば管理は容易になるが、一つの環境変化によって畑全体が影響を受ける可能性も大きくなる。同じように、すべての人が同じ教育を受け、同じ情報に接し、同じ価値を信じ、同じように行動する社会は管理しやすいだろうが、それが強い社会だとは限らない。予想したことのない変化が起きたとき、それまで非合理的だと思われていた知識や、役に立たないと思われていた人間や、周縁に残されていた古い生活の仕方が、新しい環境に適応するための可能性になるかもしれない。完全にTameされた社会は、完成された社会であるどころか、変化する能力を失った脆い社会なのかもしれない。
ここまで来ると、Untamingもまた、単純に「解放」や「自由」と同じものではなくなる。固定され予測可能になった関係から、再び自律性や不確実性や多様性が生まれてくることをUntamingと呼ぶなら、それもまた善とも悪とも決められない。会社を辞めて別の生き方を始めることもUntamingなら、国家が崩壊して秩序が失われることもUntamingになりうる。Tamingは安定や協力を生み、知識や富の蓄積を可能にするが、進みすぎれば固定化と均質化へ向かう。Untamingはそこから自由や多様性や創造性を取り戻す一方、予測不能性や混乱や暴力を呼び戻すこともある。
人間の歴史は、自由からTamingへ、Tamingから不自由へと進む一本道だったわけではないのだろう。人間はTamingによって秩序をつくり、その秩序が硬直するとそこから逃れようとし、そのUntamingが生み出した新しい可能性に、また別の秩序を与えてきた。文明とは、TamingとUntamingのどちらかを最終的に勝たせることではなく、その二つの間を行き来しながら形を変え続ける運動そのものなのかもしれない。
そう考えると、自由な社会というものの姿も少し違って見えてくる。自由社会とは、人間をTameしない社会ではない。むしろ法律、所有権、契約、学校、貨幣、行政、課税といった、きわめて強力なTamingの仕組みを持っている。それでもそこに自由がありうるのは、その仕組みを修正する回路があり、人間がTamingとの間に距離を置くことのできる余地が残されているからだろう。言論の自由、信教の自由、移動の自由、私生活、権力分立、異議申し立て、少数者の権利といったものは、単なる「自由の一覧」ではなく、Tamingが人間の存在全体を覆い尽くすことを防ぐために、文明の内部へ意識的につくられたUntamingの余白と見ることもできる。
ところが文明は、その一方で、長い時間をかけてTamingする能力を高め続けてきた。土地を測り、時間を測り、人間を数え、行動を分類し、制度を合理化し、生産を効率化し、情報を蓄積し、未来を予測しようとしてきた。そしてAIを手にした私たちは、これまでなら知ることのできなかったものを知り、予測できなかったものを予測し、複雑すぎて扱えなかったものまで扱えるようになろうとしている。
それ自体が悪いわけではない。むしろ、それもまた人間が長い時間をかけて続けてきたTamingの延長にある。しかし、Tamingする能力が大きくなればなるほど、「できること」と「するべきこと」を区別する必要も大きくなる。知ることができるからといって、すべてを知らなくてもいい。予測できるからといって、すべてを予測しなくてもいい。管理できるからといって、すべてを管理する必要もない。
文明がこれから学ばなければならないのは、さらに上手にTameする方法だけではなく、Tameできるものを、あえてTameしないという技術なのではないだろうか。
人間が隠し事を持てること。役に立たないことをしていられること。間違えること。規則から少し外れること。皆と違う生き方を選ぶこと。昨日まで信じていたものを疑うこと。そして、どうしても息苦しくなったなら、今いる場所から離れてしまえること。そうした余白を、文明の遅れや制度の欠陥と考えないほうがいい。それは完成できなかった部分なのではなく、完成させないために残しておく部分なのかもしれない。
Tamingは世界に形を与える。しかし、すべての形をあらかじめ決めてしまえば、世界は新しい形になることができない。だからUntamingは、Tamingによってできた形をただ破壊するためにあるのではなく、その形が永久に固定されるのを防ぎ、別のものになりうる可能性を世界のなかに残しておく。文明に必要なのはTamingかUntamingかという二者択一ではなく、秩序をつくりながらも、秩序の外側を消してしまわないことなのだろう。
そうであるなら、文明の成熟とは、世界のすべてをTameできるようになることではない。むしろ、Tameする力を手に入れながら、その力をどこまで使うのかを自ら決め、あえて手をつけないところを残せるようになることなのだと思う。
成熟した文明とは、自分自身のTaming能力がどれほど強くなっても、あえてTameしない場所を残せる文明なのではないだろうか。AIの時代になり、人間が世界をTameする能力がこれまで以上に大きくなるのなら、なおさら、その場所は自然に残るものではなく、人間が意識して残していかなければならない。Tameしない場所を残してゆく。それは、これからの人間に残された大切な仕事の一つなのではないかと思う。