ブロイラーを見ると、ときどき不思議な気持ちになる。もちろん鶏なのだけれど、私たちが昔から知っている鶏とは、どこか違うもののようにも見える。短い期間で大きく成長し、できるだけ少ない飼料をできるだけ多くの肉に変えるよう、人間によって何世代にもわたって選抜され、その身体そのものが人間の生産システムに適するよう変えられてきた。その姿を見ていると、これはまだ動物なのだろうか、それとも生きている工業製品なのだろうか、という奇妙な疑問さえ浮かんでくる。
しかし、おそらく問いは逆なのだ。ブロイラーが動物ではなくなったのではない。工業製品のように作られてしまったにもかかわらず、それでもなお動物なのである。 痛みもあれば不快もあり、休みたいことも、歩きたいことも、周囲を探索したいこともある。だからこそ問題は深刻になる。生命ではないものを効率よく製造することには、少なくとも生命の尊厳という問題は生じない。ところがブロイラーは、徹底的に生産へ適応させられながら、その奥には依然として一羽の動物が残っている。
Tamingという観点から考えるなら、ここには家畜化のかなり遠いところまで進んだ姿がある。Tamingとは、ただ野生のものをおとなしくすることではない。人間の側にある目的へ向かって、生命の行動や身体や生存条件を少しずつ組み替えていくことでもある。野生の鶏を人間のそばで暮らせる鶏へ変えるところから始まり、それがさらに進めば、人間の生産システムに適した鶏が選ばれるようになり、しまいには生産システムのほうが先にあって、そのシステムにもっとも適した生命を作り出すようになる。
ここまで来ると、鎖につなぐことだけがTamingなのではなくなる。むしろTamingのもっとも徹底した姿とは、鎖を必要としない身体を作ることなのかもしれない。 外から自由を奪われているのであれば、そこにはまだ、自由を奪われている存在と、それを縛っているものとの境界がある。しかし生まれる前から身体そのものがシステムに最適化されてしまえば、その境界さえ見えなくなる。Tamingする力は外部にあるのではなく、Tameされた者自身の身体の内部へと入り込んでしまう。
ところが、こうしてブロイラーについて考えていると、どうしても人間のことを考えずにはいられなくなる。近代社会もまた、もっと穏やかで複雑なやり方ではあるが、人間を社会にとって有用な存在にする巨大な仕組みを発達させてきたからである。子どもは学校へ行き、決められた時間に起きて集まり、読み書きを習い、試験を受け、専門的な能力を身につけ、やがて職業に就く。時間を守ること、仕事を途中で投げ出さないこと、自分の役割を果たすこと、何らかの能力によって誰かの役に立つことを学びながら、社会のなかで生きられる人間になっていく。
もちろん、それをすべて悪いTamingと呼ぶ必要はない。読み書きができることも、他人と協力できることも、自分の能力によって誰かを助けられることも、人間の生活を豊かにしてきた。しかし長い時間をかけて、人間の心のかなり奥深いところに、「役に立つこと」と「価値のあること」とを結びつける感覚が入り込んだことも確かだろう。何かを作った一日は充実した一日であり、何もしなかった一日は無駄だったと感じる。仕事を尋ねられれば答えられるが、「何もしないで何をしていますか」と問われると、どこか居心地が悪くなる。
そして、そこへAIが現れた。
AIの衝撃は、仕事を奪うか奪わないかという問題だけではないのだと思う。もっと深いところでは、何世代にもわたって社会が人間に要求してきた「有用になるための努力」の意味そのものを揺さぶっている。文章を書けるようになりなさい、計算できるようになりなさい、外国語を覚えなさい、多くの情報から必要なものを探し出せるようになりなさい、と私たちは教えられてきた。それらの能力を身につければ社会のなかに居場所が得られ、自分の労働を誰かが必要としてくれるという約束が、近代社会には暗黙のうちに存在していた。
ところが、その多くを機械が引き受けるようになれば、奇妙なことが起こる。人間をこれほど長い時間をかけて有用にしてきた社会が、有用にされた人間を以前ほど必要としなくなるのである。
これは単なる失業の問題とは少し違う。職業を失うこと以上に恐ろしいのは、それまで自分の存在を支えてきた価値の尺度を失うことだからである。「これができるから私は必要とされている」と考えて生きてきた人に、ある日「それはもう機械がやってくれます」と告げることは、仕事を一つ取り上げるだけではなく、その人が自分自身を測ってきた物差しまで取り上げることになりかねない。
だからAIに勝とうとして、人間にしかできない能力を次々に探し出していくことには、どこか寂しいところがある。創造性なら人間のほうが上だ、共感なら人間にしかできない、判断力なら、芸術なら、愛なら、と領地を一つずつ防衛していく。しかしそれでは、機械との境界線が移動するたびに、人間は自分の価値を別の能力によって証明し直さなければならない。結局、「有用である者には存在する価値がある」という古いTamingの規則から、一歩も外へ出てはいない。
そこで私は、以前考えた、海を見ているだけの人のことを思い出す。
その人は三時間ほど海のそばに座っている。詩を書くわけではなく、海について考察するわけでもなく、写真を撮って誰かに見せるわけでもない。海辺にいることが心身へどのような効果をもたらすかを測定することもなく、そこから何かを学んで帰ろうともしていない。ただ海を眺め、ときどき風を感じ、夕方になって少し寒くなったので家へ帰る。その三時間からは何も生産されず、社会の富も増えず、文化作品も残らず、その人自身さえ何かを達成したとは思っていない。
それでも、その三時間を無駄だったと言わなければならない理由が、本当にあるのだろうか。
ここでブロイラーの問題とAI時代の人間の問題が、思いがけないところで出会う。ブロイラーについて問われているのは、人間に役立つために生まれてきたかのような生命にも、その有用性とは無関係な価値があるのかということであり、AI時代の人間について問われ始めているのは、社会に役立つという仕事を機械へ渡した人間にも、それとは無関係な価値があるのかということである。この二つの問いは反対方向を向いているようでいて、実は同じ場所へ向かっている。
もし私たちが、ブロイラーには肉になることとは別の生命としての価値があると考えるなら、それと同じ原理を人間にも認めなければならないだろう。病気になって働けなくなった人にも、老いて生産することのできなくなった人にも、仕事を失った人にも、何かを作ろうという気持ちを持たずに海を眺めている人にも、その人が生きていることと交換条件にならない何かが残らなければならない。
そう考えると、AIには不思議な可能性がある。それは人間をさらに激しくTameする装置になるかもしれない。AIによって一人一人の仕事が測定され、行動が最適化され、役に立つ人間と役に立たない人間がいっそう精密に選別される社会も想像できる。しかし反対に、これまで人間が背負ってきた膨大な「役に立たなければならない仕事」をAIが引き受けることによって、何千年も続いてきた有用性へのTamingを、少し緩めるものになる可能性もある。
その二つの未来を分けるのは、結局AIそのものではなく、人間について私たちがどのような価値を認めるのかということなのだろう。
文明は長いあいだ、世界に存在するものへ「何のためにあるのか」を問い続けてきた。馬には運搬を、森林には木材を、土地には収穫を、鶏には肉や卵を、そして人間には労働を求めてきた。何の役にも立たないものを、そのままそこに置いておくことを、文明はあまり得意としてこなかった。しかしAIが「役に立つ」という領域へ深く入り込んでくるなら、人間はとうとう、それとは別の価値を考えざるを得なくなる。
そのとき初めて、ブロイラーを見て感じていた違和感の意味も、少し違って見えてくるのかもしれない。あれは単に、かわいそうな鶏を見て感じる悲しみではない。生命を一つの目的によって覆い尽くしてはいけないという、もっと根源的な直感なのではないだろうか。そして、その直感をブロイラーに向けることができるのなら、同じ眼差しをいつか、自分自身にも向けていいはずである。
詩を書かなくてもいい。文化を生み出さなくてもいい。AIより優れたところを探さなくてもいい。人生を何かに変換して残さなくてもいい。愛する人と意味のない話をし、庭の草をぼんやり眺め、気が向けば歩き、海辺に座り、夕方になって風が冷たくなったら家へ帰る。その時間を健康にも教養にも創造にも役立てなくていいのだとすれば、それは文明が人間に与える敗北なのではなく、ひょっとすると文明が長いあいだ私たちに課してきたTamingが、ようやく少しだけ緩む瞬間なのかもしれない。
そして人間がいつか、何かのために存在することから少し自由になれるとすれば、そのとき私たちは、人間以外の生命についても初めて、同じことを考え始めるのではないだろうか。鶏は肉になるために存在するのではなく、人間も働くために存在するのではない。生命は、その外側にある目的によって正当化されて初めて生きることを許されるものではない。そう考えることができたとき、Tamingの反対側にあるのは野生ではなく、「何かのためでなくても、ここにいていい」という静かな許しなのかもしれない。