目的を失ったあとでも、木は風に揺れている

森を歩いていると、自然のなかにいるような気持ちになる。頭上には高い木々があり、そのあいだから光が落ち、足元には落葉が積もっている。風が吹けば枝が揺れ、鳥の声がどこからともなく聞こえてくる。街を離れて森へ入るということは、人間が作った世界からしばらく離れ、自然へ戻っていくことのように感じられる。
けれども、その木々を一本ずつ眺めていると、本当にそうなのだろうかと思うことがある。目の前に立っている木は、百年前に誰かが植えたものかもしれない。あるいはその木自体は自然に芽生えたとしても、周囲の木々が伐られ、その木だけが残された結果、そこに立っているのかもしれない。隣の木との間隔も、森を横切る道も、森と畑との境界も、人の手によって決められたものかもしれない。自然の森と人工の森を厳密に同じものと考えることはできないにしても、人が長く暮らしてきた土地の森について、「ここからが自然で、ここからが人間である」と一本の線を引くことは、思っているほど簡単ではない。

とりわけ人工林では、人間の意図はもっとはっきりしている。木はただ植えられるのではない。数ある樹種のなかから、ある木が選ばれて植えられる。そして何が選ばれるかは、その時代の人間が森に何を求めているかによって変わる。

薪や炭が重要だった時代、人間が森に求めていた大切なものの一つはエネルギーだった。広葉樹林は薪炭の供給源として利用され、人が伐り、そのあと再び伸びてくる木をまた利用するという関係が続いていた。ところが生活のエネルギー源が化石燃料へ移っていくと、薪や炭を供給する森の重要性は低下していった。一方、戦後復興と経済成長のなかで建築材などへの需要が高まると、今度はスギやヒノキのような木々が大量に植えられた。森に向けられた人間の問いが、「この木はよく燃えるか」から「この木はいい材木になるか」へ移ったのである。

考えてみれば、不思議なことである。森そのものが「これからは薪を作るのをやめて、建築材を作ろう」と考えたわけではない。人間社会のほうで暮らし方や産業構造が変わり、森とは離れた場所で欲望や必要が変化すると、その変化が何十年か後の山の景色になって現れる。

つまり人間は、森から必要なものを取ってきただけではなかった。これから必要になると思うものに合わせて、未来の森をあらかじめ作ってきたのである。

この意味では、植林はとても長い時間を持ったTamingなのだと思う。動物ならば数年あるいは数世代で現れる変化が、森では数十年、場合によっては百年以上の時間をかけて現れる。木を植える人間と、その木を利用する人間が同じ人である必要さえない。まだ生まれていない人間が将来何を欲しがるかを想像しながら、現在の人間が樹種を決めて植えるのである。

ところが人間の都合は、木ほどゆっくりとは生きてくれない。

昨日まで価値があると思われていたものが、数十年後にはそれほど必要ではなくなる。ある目的のために大量に植えられた木々が十分に成長したころには、経済も生活も変わっていることがある。それどころか、かつて「望ましい木」とされたものが、別の時代には問題として見られることさえある。日本のスギ林はその象徴的な例だろう。木材資源として有用だったスギを大量に植えた社会が、今度は花粉症への対応を考え、花粉の少ない苗木への植え替えや森林構成の転換を進めようとしている。

ここには、Tamingについて考えるうえで興味深い逆説がある。Tamingには完成がないのである。 ある時代の人間が目的に合わせて世界を作り替えることに成功しても、その目的自体がやがて変わる。すると昨日のTamingの成功作が、今日のTamingにとっては扱いに困る存在になる。

森についても同じである。薪炭を供給する森、建築材を供給する森、花粉を少なくした森、生物多様性を守る森、炭素を蓄える森、気候変動に強い森。どれも人間が森に求める姿ではあるけれど、それらがまったく同じ森になるとは限らない。私たちは古い目的のために作られた森を、新しい目的に合わせて再び作り替えようとする。

そう考えると、「自然を取り戻す」という言葉さえ少し奇妙に聞こえてくる。人間が「この森はもっと自然であるべきだ」と考え、特定の樹種を減らし、別の樹種を増やし、生物多様性を高めようとするとき、それは昔の木材生産のためのTamingとは性質が違っていても、やはり人間が望ましい森の姿を描き、それに近づけようとしていることには変わりがない。自然を守るためのTamingという、少し逆説的なものさえ生まれるのである。

しかし森は、工場のようには人間の命令に従わない。スギを植えても、その下には別の植物が生える。どこからか鳥がやってきて、人間が運んだのではない種を落とす。菌類が広がり、昆虫が入り、台風が枝を折り、一本の木が倒れる。その倒れた木を片づけなければ、そこには人間が計画しなかった小さな生態系が始まる。人間は森の大きな輪郭を変えることはできても、そこで起きている無数の出来事を完全に計画することはできない。

だから森を、TamedかUntamedかのどちらかに分ける必要はないのだと思う。むしろ森は、人間によるTamingと、それを絶えずはみ出そうとする生命とが、長い時間をかけて絡み合っている場所なのではないだろうか。

そして、そのような目で森を眺めると、一本の木も少し違って見えてくる。

何十年も前、誰かがその場所に小さな苗木を植えた。おそらくその人には目的があった。この木が大きくなったら材木にしよう、家を建てよう、売って収入にしよう。それから何十年かが過ぎた。木は大きくなった。しかし人間社会のほうが変わってしまった。その木を必要としていた産業が衰えたり、安い輸入材が使われるようになったり、森林に求められるものが木材生産から環境保全へ移ったりする。

それでも木は立っている。

ここに、森の時間と人間の時間との奇妙なずれがある。人間の目的は消えてしまったのに、その目的によって生まれた生命だけが残っているのである。

森はだから、単なる自然でもなければ、単なる人工物でもない。過去の人間の欲望が、生きたものとして現在まで残っている場所でもあるのだろう。ある場所には燃料を欲しがった時代が残り、別の場所には建築材を欲しがった時代が残り、その隣では生物多様性や気候変動への耐性を重んじる現在の人間が、新しい森を作り始めている。地層のように、異なる時代の目的が重なっている。

そうなると、森を歩きながら「これは何という木だろう」と尋ねるだけでなく、「なぜ、この木がここにいるのだろう」と考えてみたくなる。その問いの答えは植物図鑑には載っていないかもしれない。木の種類を決めたのは生態条件だけではなく、百年前の燃料事情や、五十年前の住宅需要や、国の林業政策や、その土地に暮らした誰かの判断だったかもしれないからである。

そしてもう一つ、不思議な問いも生まれる。

その木を植えた人間の目的がすでに消えてしまったのなら、その木はいま、何のために生きているのだろう。

おそらく答えは、「何のためでもない」でいいのだと思う。

材木になるはずだった木が材木にならず、そのまま老いていくことがあってもいい。人間が期待していた役割を失ったあと、鳥がその枝にとまり、菌が根のまわりに広がり、夏にはその下に影を作り、最後には倒れて土へ戻っていく。そのどれも、最初に苗木を植えた人間の計画には入っていなかったかもしれない。

そう考えると、目的を失った木は、Tamingに失敗した木とは限らない。むしろ、人間によって与えられた目的をいつの間にか追い越し、ただ一本の木として生き始めた木なのかもしれない。

森を歩くとき、私たちは自然のなかへ入っているだけではない。過去の人間たちが未来に向けて投げかけた無数の目的のなかを歩き、その目的が消えたあとにも生き続けているもののあいだを歩いている。そして注意深く見れば、そのいたるところで、人間の計画通りに育ったものに混じって、人間の目的をすでに忘れてしまったような生命がひっそりと生きている。

もしかすると森に残っている本当のUntamingとは、手つかずの自然を探し出すことではなく、人間によって目的を与えられたものが、その目的より長く生きてしまうことなのかもしれない。

そして、この森の風景がどこか人間自身の姿にも似て見えるのは、偶然ではないような気がする。私たちもまた、ある時代の家族や学校や社会によって、こういう人間になりなさい、こういう能力を身につけなさい、こういう仕事をしなさいと、いわば植えられて育ってきた。それなのに、木が成長するあいだに森の目的が変わるように、人間が人生を生きているあいだにも社会の目的は変わってしまう。

そんなとき、古い目的に合わせて育ってしまった自分を、役に立たなくなった木のように考える必要はないのだろう。

植えられた理由と、生き続ける理由とは、同じでなくてもいい。

森の木々が教えてくれるのは、案外そんなことなのかもしれない。人間の目的によって始まった生命であっても、その目的が終わったところで生命まで終わる必要はない。目的を失ったあとでも、木は風に揺れ、鳥を休ませ、あるいは何の役にも立たないままそこに立っている。そうしていつしか、「何のために植えられた木なのか」という人間の問いそのものが意味を失い、その木はただ、森のなかの一本の木になっていくのだ。

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